1
月のかげが低い屋根に落ちている。場所は博多、中洲の水茶屋、常盤館の裏門の前で俥のとまる音がした。――入ってきたのは洗いざらしの白い薩摩絣を着ながしにした長身肥大の杉山茂丸である。杉山は、右が納屋、左が薪の束の堆高く積んである狭い通路を大股に歩いて植込のふかい中庭の前へ出た。 壊れかかった柴折戸をあけると、池の水蓮に灯かげがぼうと映っている。杉山は竹垣にそって庭石づたいに池をひと廻りして大きい石灯籠のかげになっている茶室の横へ出た。片手で松の幹を抱え、身体を斜めにして池の正面にある広間を透かすように眺めると通常﹁豪傑部屋﹂と呼ばれている宴会専用のほそ長い部屋は、襖も障子もあけ放しにされて、そこから真正面に見える欄間の上には、何時も見馴れている山陽外史の、﹁雲耶山耶呉耶越﹂――と達筆にまかせて伸び放題に書きなぐった天草夜泊の詩がうすい翳を刻んでいる。新任の福岡県令安場保和をかこむ実業家たちの小宴であった。安場は玄洋社とも多少のつながりがある。元を洗えば、その頃元老院議官であった安場を説いて、福岡県知事たらしめようとしたのも、杉山であるし、﹁明治の聖代に筑前の梁山泊なぞに誘拐されてたまるものか﹂――と一蹴する安場を追窮して、﹁いや、明治の聖代に藩閥高給のお鬚の塵を払うのと青年子弟の高邁な気風の中で日を過すのとどっちがいい﹂と、大言壮語して磊落豪宕をもって聞えた安場にひと泡吹かせたのも白はく面めん空くう手しゅの一書生である杉山であった。彼は安場を説得したばかりではない。親分である山田顕義に一身の運命を托しているから相談の上で返事しようと、最後の逃口上を打った安場の言葉をしっかりとおさえてすぐひらき直った。﹁――よろしい、然らば山田閣下のことはわが輩がひきうけました。山田閣下に一身を托されるのは少々心ぼそいが、人物払底の今日であってみれば九州統一を図るにはどうしても先生をさらってゆくよりほかに道はない、こうなればわが輩も命がけです、やるところまではやりますぞ﹂。 杉山はその足ですぐ後藤象次郎を訪ね、無理矢理に紹介状をもらって山田顕義を自邸に訪れすぐ膝詰談判をはじめたのである。剛愎な山田が杉山の法螺に吹きまくられたと解釈するのは必ずしも穏当でないかも知れぬが、しかしその安場が福岡県令となって赴任してきたのはそれから一ト月経つか経たぬうちであった。してみると杉山が投じた一石が多少の効果を奏したことを否定するわけにはゆくまい。 宴席には人の姿が入りみだれ、びっこをひいた安場の顔は何処にあるのかわからなかったが、しいんと大気をひきしめるようにひびいてくる博多節の音じめさえ、さすがに浪人や書生たちの酒宴の席に聴くボロ三味線とはちがっておのずから一つの格を示している。やっているな、――と思うと、杉山の顔にはかくしきれぬ微笑がうかんできた。兎とにも角かくにも安場を此処まで引きずりだしてきた力が自分の胸三寸にあったと思うと、誰に対してともなく、ざまァみやがれ、という気持がどっとこみあげてきたのである。 そのまま杉山は茶室の濡れ縁の方へ廻った。――その夜、同志の来島と星成とそこで会食する手筈になっているのだ。時間には少しおくれたが、杉山は無造作な声で、 ﹁よう﹂。 と呼びかけながら入っていった。若い妓をよんで、よろしく接待させるようにと女中に頼んでおいたのだが、部屋の中には小卓を挟んで、双肌脱ぎになった星成喬太郎と、垢じみた棒縞の手織木綿の単衣に茶っぽい小倉袴をつけた来島が不興そうな顔をして向いあっている。 ﹁何や﹂。 片手で団扇をつかいながら星成がとげとげしい声でいった。﹁二時間も客を待たしといて、あんた何処をうろついて御座った?﹂。 ﹁御免、御免、――用があって八幡へ行ったけん遅うなった、駅から俥で駈けつけたところじゃよ、汗びっしょりじゃ﹂。 沈鬱そうな来島の眼にふれると杉山はそっと視線を外らしながら、 ﹁それに、ちゃんと女中に言いつけといたんじゃが、妓たちはどうしおったんじゃ、気の利かんやつ等じゃのう、――県令の宴会で逆の上ぼせあがっているわけでもなかじゃろに、どっちにしてもおくれたのはおれが悪か、機嫌を直して飲め!﹂。 杉山は星成のコップに酒をなみなみと注ぎ入れた。それから、大きく手を鳴らそうとするのを、 ﹁来てくれたらもう文句は言わん、あんたのことじゃけん、何処かで大法螺でも吹いているうちにおれたちのことはケロリと忘れたのかと思うとった﹂。 ﹁バカをいうな、――それよりも妓を聘よぼう﹂。 ﹁いや、――﹂ と、黙っていた来島が窪んだ眼をパチパチと動かした。 ﹁妓はいらん、――さっきも二、三人来おったがかえしたばかりじゃ﹂。 ﹁かえした?﹂。 ﹁――妓がいると気が散っていかん。今夜は宴会じゃないからのう﹂。 ﹁どうも貴様には歯が立たん、――何か急いでいることでもあっとや?﹂。 ﹁今夜、――吉見屋でみんなが待っとるけんのう﹂。 ﹁下名島町か、そんなものはほっとけ、それよりも貴様と膝を交えて話したいことがある﹂。 ﹁そうもゆかん、送別会じゃでのう﹂。 ﹁送別会というのは貴公のか?﹂。 ﹁そうじゃよ、――あんたもいっしょに行かんか﹂。 ﹁そんなら﹂。 杉山の眉が不意に曇った。﹁いよいよ出発と決めたのか、――﹂。 ﹁うん、何よりも実行じゃ﹂。 来島はむっつりとして口を噤んだ。杉山はそっとあたりへ気を配るようにうしろを振りかえった。縁先までのびた八ツ手の葉が灯かげの中にキラキラと光っている。 ﹁それで、――﹂。 杉山は来島の眼から来る殺気をひやりと胸の底にかんじた。﹁何時立つんじゃ?﹂。 ﹁今夜おそく船に乗る、――予定は一ト月もあればよか、東京の形勢次第では二、三日でかえるかも知れん、送別会というと大袈裟ばってん、事の次第によっちゃ同志の結束は固めておかんきゃならんからのう﹂。 ﹁うん﹂。 杉山は大きくうなずきながら手酌でついだ盃の酒をひと息に吸いこんでから、 ﹁――何しろ容易ならん時勢じゃ、何れはおれたちも命を捨てる覚悟はせにゃなるまいが、どうも貴公は血気に逸りすぎる。短気のために大策を誤っちゃいかんぞ、むろん大隈の条約改正問題は天下の大事にちがいない、――しかしだ、憤りを発すべき問題はこれだけじゃない、志あるものは誰も彼も憤慨悲憤を胸におさめている﹂。 ﹁そこたい﹂。 星成が皮肉そうに唇を歪めた。﹁胸におさめたところでどうもならんじゃないかな、事態は一刻の猶予も許さぬところにある﹂。 ﹁まァ、待ちゃい﹂。 と、杉山は片手で軽くおさえながらむっつりと圧しだまっている来島の顔を覗きこんだ。 ﹁おれはそのことで貴公等二人に会いたかったのじゃ、――事態が切迫しているだけに一歩誤ったらとり返しのつかないことになる。去年の鹿鳴館騒ぎをどう思う。廟堂の諸公は腸まで腐っている。その中でも大隈はまだましなくらいのものじゃ、伊藤や井上は骨がらみにひとしい、そこでおれはこう考える、条約改正を中止させることも肝要じゃが、それよりもこれを機会に天下の正論を激化させることの方がはるかに重大だぞ、大隈事件にぶつかることによっておれたちは天下の積弊を掃蕩する機会をつかまえんと出来ん、昔、沛公が志を得たのは秦の無道をおさえて一世の正論を激化させたからじゃ、こいつを踏みちがえると大へんなことになる、――何といっても今日の時勢に備えるのは言論のほかにはなか、去年貴公が松島屋で井上︵馨︶を刺していたら、あの老奸の息の根を止めることが出来ていたかも知れんが、それがために今日のように正論を激化させる機会は失ってしまったかも知れぬ、おれの恐るるところはそこじゃ、博浪沙の一撃は効を奏しても玄洋社は根こそぎにぶっ倒れていたかも知れん﹂。 ﹁待ちゃい﹂。 来島の眼が不意にするどく輝きだしたのである。﹁そりゃあ、――あんたのいうとおりかも知れんが、しかし言論は言論じゃ、国論をいかに激化させたところで、もし条約改正が実行されてしまったら、日本中の老若男女がことごとく志士仁人に変ったとしても、もうあとの祭じゃ、あんたはおれが井上をやっつけなかったことを正論のために祝福すべきことのように言うばってん、果してどげんなったか、そんなことはやってみなくっちゃわかるまいが﹂。 ﹁いや、わかる、――大西郷があれだけの衆望を担いながら、武力をもってしてはどうにも出来なかったじゃなかや、君側の奸を掃蕩しようと思うなら、言論のほかにはなか、もし西郷が言論をもって九州を風靡して立ったらおそらく天下は意の儘ままになっていたろう、貴公そう思わんか﹂。 膝に置いた杉山の手首がわなわなと顫えている。――来島はこみあげてくる感情をおさえるようにじっと唇を噛みしめた。﹁まるでちがう、――なるほど当節は武力の時代じゃなか、そうかといって言論の時代でもなか、あんたは土佐の言論風にあてられすぎているぞ﹂。 ﹁それなら何の時代だ?﹂。 ﹁――一騎打ちじゃ﹂。 来島は懐ろに入れた左手でぐっと臍下丹田をおさえた。﹁単刀直入事を決する時代じゃよ、今日の急務は天下の輿論を捲き起すことじゃなくて、条約改正を是が非でも中止させるということにある、――言論の起るのはそれから先きの話じゃ、大西郷が兵を挙げて失敗したことはたしかに貴公のいうとおりだが、おれはあれだけの人傑が揃っていて何故一騎打ちの勝負をしなかったか、それだけを今でも残念に思うとる、死を決した人間が百人あったら大戦争を起して途方もない犠牲を払わなくとも立派に目的を貫徹することが出来たろう﹂。 ぼそぼそと語る来島の声には次第に底力が加わってきた。杉山は動かすことのできない来島の決意をハッキリ見究めたような気もちになった。急に冷めたい水が脊筋に伝わるような不安に襲われたのである。去年、井上を刺そうとして行方を晦ました彼を社中の同人が総がかりで探しだし、やっと頭山満の説得によって事無きを得たときのことがふと杉山の頭にうかんできた。今夜の会見も、所詮はそのときと同じ不安の実体を突きとめようとする魂胆の故に外ならぬのだ。――それが、今、彼の眼の前にいる来島は去年の来島ともちがっている。去年の来島は感情の動きに唆しかけられながら井上に対する私憤を脱しきれないでいるところがあった。しかし、今夜の来島の顔にはかすかな感情の曇りもない。何時もならば、言葉が乱れ、論理もしどろもどろになる彼が熱するにつれてますます冷静になってくるのも不思議であるが、しかし、それよりも一層不思議なことは、大抵の場合自分の方が圧倒的にぐいぐい対手をおさえつける習慣を持っている杉山が、ともすれば逆にねじ伏せられそうになるもどかしさをどうすることもできないことであった。 ﹁じゃが﹂。 と、杉山はそわそわした調子で言葉を濁した。﹁大隈と井上とは違うぞ﹂。 ﹁何が違う――?﹂。 ﹁大隈は井上ほど老獪じゃなかぞ﹂。 ﹁そのことか、――そりゃちがうじゃろう、大隈が井上よりも良心があるということならそれもわかる、しかし、そんなことはどっちでもいいことじゃ、大隈と井上の人物の優劣論をやるときじゃなか、あんた、少しどげんかしとるぞ、わしは大隈を憎んじゃおらん、条約改正を中止させる、そのほかに余計なことを考える必要が何処にある﹂。 庭石を踏む下駄の音が聞え、若い女中が銚子を持って近づいてきたが、杉山を見ると、すぐ、 ﹁だん︵旦那︶さん﹂。 と呼びかけた。安場県令がちょっとでもいいから杉山に顔をだしてくれというのである。 ﹁おれが此処にいるのがどうしてわかった?﹂。 ﹁そりゃ、だんさん、――さっき御りょん︵女将︶さんが﹂。 杉山は忌まいましそうに顔をしかめた。すると、すかさず来島が、 ﹁おれたちもそろそろ引きあげるか、――杉山、あんたは用がすんだら吉見屋へ来るといいが﹂。 ﹁まア、待っとれ、おれはちょっと顔を出してすぐかえってくるけん、――今夜はいよいよ貴公たちと別れともない晩になってきたぞ﹂。 二人が東上するということは数日前から知友のあいだに伝わっていた。事態の急を告げていることを知らぬ杉山ではない。――知らぬどころか彼はあらゆることを知りつくしているのだ。しかし輿論の大勢が圧倒的に改正案反対に傾いているときに果して大隈が民論を押しきって実行するかどうかこいつは疑わしい。反対論は在野の政客だけではなく廟堂の意見さえ決定しようとしている。井上︵馨︶よりも大隈よりも最初の張本人である伊藤︵博文︶の腰がぐらつきだしている今日、伊藤の傀儡︵杉山はそう解釈していた︶であるにすぎぬ大隈が、彼の政治的生命を犠牲にしてまで実行に着手するかどうか、――杉山は民論の急先鋒であることを自任しながらも腹の底では高を括っていたのである。それよりも、彼はこの機運をつかんで藩閥政治を倒すことの方がはるかに重要だと考えていた。それに、玄洋社からは頭山と美和︵作次郎︶が同志をつれて中央に乗りだしていっている。彼は一ト月前に後藤︵象二郎︶の胸の底を打診してかえったばかりだ。谷たに干たて城き、三浦梧楼、鳥尾小こ弥や太た等を中心とする反対論の火の手は日に日に高まっているし、大隈の支配下にある外務省の中でさえ若い外交官の小村寿太郎なぞは反対論を唱えているではないか。九州でも、長いあいだ犬猿の感情を持ちあつかいかねていた玄洋社と熊本国権党が、どっちから先に寄り進んだというわけでもなしに近づいて、条約改正中止を断行する意気込をもって筑前協会を組織し、大隈が唯一の恃たのみとする九州改進党に対抗しようとしているのだ。井上の保安条令以来狂い立った民論はもう防ぎようのないところまで来ている。そのように沸騰する民論の動きの見えぬ大隈ではない。彼は唯乗りかかった船の始末に迷っているのだ。――頑張りきれるところまでがんばって、民論の潮流が自分に有利な方向へ展開して来そうなところでひと芝居打とうとする大隈の腹を、杉山は彼一流の人間認識によって簡単に読みとろうとしていたのである。そこへ来島がとびだしていって途方もないことをやりだしたら、大隈の決意を逆な方向へ導く結果になるかも知れぬ。来島が何のために上京するかということが朧気ながら見当のついている彼にとっては、厭が応でも防ぎとめなければならないのだ。民論の動きを誤ることを恐れるだけではない。玄洋社の将来にとっても、――否々もう一歩踏込んで言えば、ようやく動きだす方向に動いてきた天下の大勢を自分の筋書どおりに導いてゆくためにも。 策士をもって自任する杉山は来島を説得するくらいのことは朝飯前だと高を括っていたのである。ところが、今夜の来島は並大抵の覚悟ではないものを持っているらしい。言ってみれば、推せども敲けども動かぬ巌乗な岩のような冷たさが彼の心に犇々とくる。そこへ、ほかの女中がやってきた。――安場がどうしても顔を出してくれという。じゃあ、すぐ行くからといって女中を返すと、杉山は急に深刻な表情をして言った。 ﹁――これからはいよいよおれたちが命がけで君国に奉公しなけりゃならんときがくる、上京するのもいいが命だけは大切にしろよ、貴公は命を粗末にしすぎる、これだけはくれぐれも頼むぞ、のう、恒喜﹂。 杉山の眼には涙がにじんでいる。﹁約束してくれよ、決して軽はずみなことをしないということを﹂。 ﹁おれは何も考えてはおらん﹂。 と恒喜が渋りがちな声で言った。﹁用がすんだら吉見屋へ来るといいのう、――みんなも久しぶりで杉山の長広舌を聴きたがっとるよ﹂。 ﹁よし、きっとゆく﹂。 ﹁待っとる、――時間はたっぷりあるから急がんでもいい﹂。2
杉山が出てゆくと、星成はすぐ浴衣をひっかけ、部屋の隅に皺くちゃにしたまま投げすててあった袴を穿いた。 ﹁おい行こう﹂。 促すようにいうのを、来島は正坐したままで、 ﹁待て、――﹂。 と低い声で呼びかけた。 ﹁何な?﹂。 ﹁話がある、――坐れよ﹂。 ﹁今のことか?﹂。 星成は庭の方へちらっと視線を利かせてから低い食卓の上へ両肘を突いた。﹁茂丸どん、うすうす感づいたようじゃな?﹂。 ﹁どうだか、――ああいってみたいのが癖じゃ、社中第一の英雄も野心に曇っている眼にはおれたちの決心は映るまい、それよりも、おれはたった今、杉山の言葉でハッキリかんじたことがある﹂。 ﹁何じゃ、それは?﹂。 ﹁星成、――怒るなよ﹂。 言いかけて、しばらく口を噤んでから、 ﹁貴様、――思いとまれ﹂。 ﹁何を、――?﹂。 ﹁東京行じゃよ﹂。 ﹁何をいう、今になって﹂。 ﹁――やっぱり、そうすべきだ、おれ一人だけで行かしてくれ﹂。 ﹁だしぬけに、何じゃ、――おれが恃むに足りぬのか?﹂。 気色ばんだ星成の顔を見ると恒喜はぐっと膝を前に押し進めた。﹁おれはやる、必ずやる﹂。 ﹁わかっとるじゃないか、――貴様もやればおれもやるぞ﹂。 ﹁いや、貴様はいかん﹂。 ﹁何故いかん?﹂。 ﹁二人でやったら禍が玄洋社にかかる、じゃからこんどのことはおれに任しておけ、――おれは今日かぎり玄洋社を脱退する、そして、おれ一人になろう、星成、信じてくれ、このおれを――貴様には女房もあれば子供もある、おれは犠牲者を出したり他人に迷惑をかけたくない、そのためにおれはこっそり養家先の的野から離籍して旧姓の来島にかえる手続をしておいたよ、しかし、貴様とおれとは事情がちがう。頼む、成功しても失敗してもおれだけの責任にしてくれ﹂。 だしぬけの言葉にはちがいないが、来島の顔には必死の色がうかんでいる。事を決行することを約したのは星成と星成の弟の明あきらの三人であったが、明だけはひと足先に東京へ行っていた︵それに、明の方は最初から蔭の協力者となるべき立場に置かれていたのだ︶。 ﹁妻子が何じゃ、今更﹂。 ﹁――わかってくれよ、おれの気もちを、おれは最後までおれ一人の責任にしたいだけじゃ、貴様にはまた﹇#﹁また﹂は底本では﹁まだ﹂﹈別に命を捨てるに適当な時期がある、何も貴様だけに手を引けというのじゃなく、おれたちは自分の分担をきめて一つの仕事を完成しようといっておるだけだ、それが、今はどう考えても貴様のとびだす幕じゃないということがだんだんわかってきて、二人が動きだしたらそれだけ警戒も厳重になるし、むろん改進党の走狗も黙っちゃいまい﹂。 ﹁すると、おれに福岡へ残れというのか?﹂。 ﹁だから、貴様には女房も子供もある、おれたちが事を決行すれば、どうせ誰かが悲運に泣くようになるのは覚悟の前だが、好んで人を犠牲にするには及ばぬ、どうせ一つしかない命じゃないか、星成、大切にしよう、おれたちの心事は杉山にだってわかっとるよ、あいつが生命を大切にせよという気もちと、おれが貴様に一歩退けという気もちは、ちょっとちがうが、しかし、杉山も言論が最後の武器だとは考えちゃいまい﹂。 ﹁そんなら﹂。 と星成が眼をしばたたいた。﹁おれが勝手に行動するんならよかろう﹂。 ﹁勝手というのは?﹂。 ﹁おれにはおれの考えがある﹂。 ﹁バカなことをいうな、――目的は一つしかないじゃないか、おれが貴様に望むことは死ぬ用意をして待っていてくれということだ、東京の形勢はまだどう動くかわからないし、ことによったら頭山さんたちの運動が効を奏するかも知れん、何よりも肝腎なことは機会を逸しちゃならんということだ。何も大隈をやっつけることだけが目的じゃなかけんのう、早すぎてもいかんし、そうかといって遅すぎたら、――﹂。 ﹁うん、それもわかる﹂。 感情が激してきたのであろう、星成は痙攣的に頬を顫わせた。﹁おれは止めよう、きっと約束する、――しかし、やめた上でおれがどんな行動をとっても貴様は文句をいうまい?﹂。 ﹁文句は言わぬ、――﹂。 来島は飲みさしの酒を盃洗の中へあけてから、星成の前へ差しつけた。 ﹁やるところまでやろう、おれが失しく策じったら貴様がやるんだ、何も理窟はない﹂。 星成のさした酒を半分残して、彼がひと息にどっと呷った。﹁人間にはそれぞれの持ち前がある、頭山さんはぼうっとして天下を睨みつけるために生れてきたんだ、杉山は策をもって立てばいい、頭山が腹なら杉山は眼じゃ﹂。 ﹁いや、眼じゃなくて耳じゃよ﹂。 ﹁どっちでもいいが、おれたちは壮士だ、唯ただやる、――実行のほかに能力はない、それにつけても惜しいと思うのは島田一郎、長連豪の徒輩だ。島田ほどの豪傑が何故一人で大久保を斬れなかったのか、人間は何時でも一人と一人の勝負だ、六人で大久保を襲ったのはいいが、あの連累者をぞろぞろ出したぶざまはどうだ、不用意も甚しいじゃないか、もしおれが大隈をやっつけるときがあったとしても、連累者だけは犬の子一ぴきたりとも出さんぞ﹂。 しいんとなると広間の騒ぎが壁にしみるように聞えてくる。そろそろ出かけよう、といって来島が立ちあがった。庭石づたいに裏木戸の方へ廻ると遠くに波の音が聞える。月のあかるさの中に二人の顔がうかびあがった。 ﹁そうだとすると﹂。 星成が木戸をしめながら振りかえった。﹁おれは今夜、吉見屋へゆくのは見合せる、恒喜、貴公がよろしくいうてくれ﹂。 ﹁何処へゆくんじゃ﹂。 ﹁何処かへゆく、――しかし、さっきのことはしっかり約束したから心配するな﹂。 いい月じゃのう、と、とぼけた声で彼は空を見あげたのである。来島は門の柱にさわってみた。雨風にさらされた木理のあらい手ざわりが彼の心に別離の感傷をよび起したのである。維新の頃にこの家を宿房として潜んでいた高杉晋作が、捕吏にかこまれて逃げるに道もなく、頬かむりをしてそのとき宴に侍った雛妓のなにがしという少女を肩車にのせながら悠々たる嫖客の気構えで落ちていったのもこの門である。 忍ぶこの身の手拭とりて月に着せたや頬かむり、 という晋作のつくった都々逸もおそらく当時の心境を托したものであろう。――来島は酔えば必ず唄う習慣のついた都々逸の文句をどよめきかえす別離の感情の中に思いうかべたのである。3
安場の宴席をいいかげんに切上げて、杉山が下名島町の吉見屋へ俥を走らせたときにはもう十一時を過ぎていた。彼はいくら飲んでも酔いきれない気もちを持てあましながら来島のことを考え続けていたのである。おさえることのできないもの、防ぐことのできないものが杉山の心の中でだんだんかたちを整えてくる。――十余年前、頭山のいる芝口の宿屋で会ったのが最初であった。無口な恒喜はその頃からむっつりとして時を過す日が多く、火鉢をかこむ同志を前にして杉山があふれるような快弁を弄しているときでも来島だけはひとりはなれて縁側にながながと寝そべっていた。顔を見合せても言葉を交すという機会は尠く、――必ずしも気質が触れにくいというわけでもないのに、人のあつまりの中にいればすぐにも自分に適合した雰囲気をつくりださずにはいられぬ杉山の濶達な表情と、ひとり孤独を楽しむという来島の沈鬱な表情とは同じ軒の下にあって知らず知らずのうちに対蹠的な関係をつくりあげていた。それが、ある日、ほかの同志は外出して二人だけが居残ったとき、部屋の片隅にある机によりかかって書見をしていた杉山に来島の方から話しかけたのである。上野の桜がようやく綻びかけたという季節で、――午後であったが花曇りの空はうす濁っていた。杉山はそのときのことを俥にゆられながらおもいだしたのである。 ﹁杉山!﹂。 来島は部屋の方に脊を向けて、縁側に寝そべったままの姿勢で話しかけた。﹁人間は何のために生きとるのかのう?﹂。 杉山の方がドギマギしながら、しかし、どんなときにもあらわれるつむじ曲りの気象がそのときもむくむくと頭をもたげてきた。﹁生きることだけを考えるからそんな疑問が起るんじゃよ、――おれは死ぬことだけを考えとるからそんなことはどうでもいい﹂。 ﹁死ぬことか﹂。 と、来島が言った。﹁しかし、生きることがわからなくちゃ死ぬことはわかるまいが﹂。 ﹁貴様は病弱だからそんな気が起るんじゃろう、――生きるのがいやなら死んだ方がいい﹂。 ﹁それもそうじゃな、――死ぬときは咽喉笛を刎ね切れば死ねるかのう?﹂。 ﹁貴様あ、死ぬ気か?﹂。 ﹁そうも言えぬが、死ぬこつがわかっと生きるこつにも方針が立つ、何時でも死ねる用意がないと生きとられん﹂。 ﹁ほう﹂。 と、杉山は、何を生意気な、というかんじでニタリと笑った。﹁咽喉笛などを刎ねるのは素人じゃよ﹂。 ﹁そんなら、どげんしたらよかや?﹂ 杉山の方を振向こうともしないで来島は寝転んだまま訊きかえした。それを杉山が、武士の自殺するときは頸動脈が耳よりうしろにあるから耳尻にふかく短刀を突込んで斜めに気管にかけて刎ねきり、短刀を握ったまま両手を膝につき、少し辛抱していると脳の血液がすぐ下ってくるから見苦しく居ずまいをくずさずに死ねるものじゃ、――というと、寝ていた来島が急に起きなおった。 ﹁なるほど、あんたは玄人じゃのう、何べんもやったこつがあるとか?﹂。 これには杉山もまいったらしい。﹁何べんもやってたまるか、――おれは昔武芸の先生から聞いたこつがあるだけたい﹂。 ﹁そん先生は死んでみたこつがあるのかのう?﹂。 ﹁そげんこつぁ知らん﹂。 といったら、対手が真剣なだけに杉山は言葉の空虚を見透かされたようなひけ目をかんじてきた。そのときの、――じっと何ものかを見据えている来島の眼がきれぎれに頭をかすめる回想の中から輝きだしたのである。俥が吉見屋へ着いて、おりようとしたとき、 ﹁杉山さん﹂。 と、うしろから呼びかける声が聞えた。黒い塀の前に泥溝のような川があり、人の影が小さい橋の袂からちかづいてきた。麦藁帽を片手でおさえながら、 ﹁恒喜さんがこの手紙ば先生に渡してくれちうておいてゆきなさったです﹂。 せかせかとした調子で言ったのは、本屋をしている同志の森斧吉である。﹁来られたらすぐ渡してくれというとりました﹂。 ﹁そんなら、――行ったのか、来島は?﹂。 杉山は妙に落ちつきのない気もちになってきた。軒灯のあかりで手紙を読んでみると、大兄の心づかいは身に沁み申し候、誓って軽挙妄動いたさぬよう心がくべく候えば御安心下されたく、ついては申しおくれ候えども出京に際して森君より金十八円拝借いたし候えば御都合よろしきときお返却下され度願上候、在京中万一のこと有之節は万事可然お取計らい願い申候、不一、――と癖のある文字で書いてあった。 ﹁来島はもう船に乗ったかい?﹂。 ﹁――はア、月がよかけん船の上で一杯飲むというとりました﹂。 その声をうしろに聞き流して、杉山はもう船場の方角へ走りだしていた。船場を駈けぬけるとすぐ前が浜である。 白い砂をざくざくと踏んで傾斜面を水際の方へおりてゆくと、四、五町はなれた海の上に小さい灯かげが一つ揺れうごく光を波に落している。波止場にはもう人の影は見えなかった。風のつよい夜で、月のあかるい空の下に、港にならぶ船のかたちがうす墨で描きだしたようにうかんでいる。 杉山は尻ばしょりをしたまま砂丘の上に立って、 ﹁おうい﹂。 と叫んだ。﹁来島ア、――恒喜いるかア!﹂。 太い声は地ひびきを立てて寄せかえしてくる波の音に吸いこまれたが、杉山の声はだんだん高くなり、やがて全身からしぼりだすような甲高い声になった。 ﹁来島ア、――﹂。 波がしらの列をすべってやっとその声が小刻みにうごいている艀はしけに届いたらしい。カンテラの光のような灯かげがしきりに合図をしている。 ﹁誰かア、――?﹂。 と呼びかえしている声の、かすかなひびきだけが杉山の耳に残った。そう言えば重なりあった黒い人影がちらちらと動いている。何か口々に叫んでいるらしいが、何をいっているのかわからなかった。 ﹁おれだア、――杉山だア﹂。 ﹁よう、杉山ア、――行ってくるぞ﹂。 ﹁ええか、――しっかりやれえ、あとはおれがひき受けたぞ﹂。 提灯が一つ艀の上に動きだした。慌てて灯を点けたものらしい。提灯には﹁ハ﹂の字のしるしがついている。 ﹁来島ア、――身体を大事にせろよ﹂。 距離がずっと遠ざかって、艀はしけが急に方向を変えたらしい。高く振っていた提灯の光が不意に見えなくなった。ぎいっこん、ぎいっこん、――と、波に逆らいながら漕いでゆく櫓の音だけがかすかに聞えてきた。4
沖へ出るにつれて波が高くなってきた。浜の砂丘に立って叫んでいる男が杉山であることがわかると、みんな口々に騒ぎだした。艀に乗っているのは的野半助、藤島一造、久田全、玉井驕一郎、疋田麓、吉浦英之助、等々である。 ﹁おい、――﹂。 と疋田が顔じゅう波しぶきを浴びながら叫んだ。﹁杉山、――貴様の代りに送ってやるぞ﹂。 そんな声の届く筈はなかったが、しかし、白い着物を尻の上までたくしあげて、両手を高くひろげたまま全身で泳ぐような恰好をして叫んでいる杉山の姿は、博多の街の灯を背景としているだけに、去る者と送る者とのかんじをまざまざとうつしだしたように思われる。 星成が今夜になって出京を思いとまったということも何かしら解き切れないような底深いものをかんじさせたのであろう。――みんな、口に出して言いたい言葉を胸の奥へねじもどしたり、咽喉元でおさえつけたりしながら、心にもない冗談を言ったり無駄口を敲いたりしていた。 ﹁妙なもんじゃのう、――此処から見ると、柳町の灯はやっぱりなまめかしか﹂。 ﹁やめとけ、恒喜さんが里ごころを起すが﹂。 ﹁こいつ、しっかりせんといかんぞ、――柳町の灯よりも、あれ見い、よか月じゃ﹂。 ﹁ほんによか月じゃのう﹂。 ﹁ああ月あり水ありか﹂。 ﹁それみろ、やっぱ、――残るもんは柳町じゃろが﹂。 明日早暁、博多湾を解かい纜らんするという﹁順天丸﹂に艀が着くと、連中は来島を先頭にして一人一人、斜にかけられた梯はし子ごをのぼっていった。 甲板の上で月を眺めながら別れの盃をとりかわし、待たせてある艀でかえろうというのである。 甲板の上には左の頬に大きな火傷のある船長が出て来て一行を迎えてくれた。船は八百噸トンの貨物船であるが、十人くらいの旅客を収容するだけの余裕があった。船室というほどではなくとも、第一運賃が安いし、海に馴れた旅客にはかえってこの方がいいのである。船長の好意で甲板の片隅に花茣ご蓙ざが敷かれた。 みんな車座になると疋田麓が大事そうに持ってきた一升徳利を膝の上で撫で廻した。そのとき月はちょうど船の真上にあった。――光の反射をうけた雲が月とすれすれに流れてゆく。 来島が片手をマストにかけ、蹌そう踉ろうとして立ちあがった。 ﹁よう来島調!﹂。 と、玉井がどろんとうるんだ瞳をあげて叫んだ。恒喜は右手で袴の結び目をおさえ、左手を脇腹にかけながらぐっとうしろへ反りかえった。しばらく眼を瞑とじ心をしずめるもののように唇をしっかりと結んでいたが、やがて、かすかに眼をひらいたと思うと、 ﹁風蕭しょ々うしょうとして易えき水すい寒し、――﹂。 低い声でうたいだした。同志のあいだの通り言葉になっている﹁来島調﹂は最初の一句の終るところから急に高まって、第二句の﹁壮士﹂――で、ひと息入れるのが自然に一つの型をつくっていたが、来島は一句の切れるところで言葉を途切らしたと思うと、そのまま苦しそうに唇を噛んだ。胸がこみあげてきたのである。 博多の灯はまだほのぼのと空に漂っている。――生きてふたたび見ようとする故郷ではない。来島はうしろのマストへ左肩をそびやかしながら凭れかかった。 ﹁風蕭々として易水寒し﹂。 深い余韻が波の中に消えてゆく。咽喉がひきつったようになってどうしてもあとの﹁壮士﹂――が出て来ないのだ。声がとぎれると、夜風のうすら寒さが急に身に沁みるようである。恒喜の眼には涙があふれてきた。痩せた頬を伝って滴る涙が月光の中にキラキラと光った。 ﹁どうもいかん﹂。 恒喜は微笑にまぎらしながら茣蓙の上へ腰をおろした。 ﹁咽喉がかさかさに乾あがってうまく唄えん﹂。 ﹁よか、よか﹂。 と疋田が言った。﹁それよりも一杯やろうたい、――あまり愚図愚図もしとれんでな﹂。 来たときとくらべると波の高まってきたのがハッキリ眼に見えるようである。艀の船頭は舟を持ちあつかいかねて、さっきからしきりに甲板の人影に向って何か叫んでいるのだ。疋田は船員から借りたコップを来島の手にわたし、徳利の口をあげた。来島がひと息に飲みほして藤島にわたすと、藤島はちびりと舐めてから、不審そうに眉をひそめた。 ﹁何や、――こいつはいやに水っぽかぞ﹂。 ﹁水じゃから水っぽかたい、いらんこと言わんで早う廻せ﹂。 疋田が横目でジロリと睨み据えた。一座がたちまちしいんとなった。――誰にだって意味は通じているのだ。それを口に出して言い得ない気もちが、別離の思いをひとしお深くするのであろう、黙々として顔を見合せたまま誰ひとり立とうとするものもなかった。 舷側にあたる波の音がだんだん烈しくなってきた。さア、といって疋田が先ず腰をあげた。 ﹁そろそろ帰らんといかんぞ、おれだけ船に残って送ってゆくけん、みんなひと先ずかえっとれ﹂。 ﹁送るとや?﹂。 久田が咳こんだ声で言った。﹁送るちうて、貴様どけぇ行くか?﹂。 ﹁下関に用事があるからな、――明日朝すぐかえる﹂。 ﹁何の用事か?﹂。 ﹁よか女子が待っとるたい﹂。 そんな言葉を真にうける男は一人もいなかったが、みんなへらず口を敲たたきながら波の上にゆれている艀に乗り移った。もう十二時を過ぎたであろう、――遠い海潮の唸りの中に秋は早くも忍びよっているのである。5
次の日の朝、下関で疋田と別れた来島が、寝巻のままの姿で上甲板を歩いていると、数人の船客がどやどやと船橋をのぼってきた。何気なしに欄干によりかかって下を見おろしている彼の眼に、そのとき古い社中同人である岩木熊五郎と木村利雄の顔が映った。 来島は機先を制するつもりで、機関室のかげからタラップをのぼってくる二人の眼の前へぬっと顔をつきだした。 ﹁どけぇゆきんしゃる?﹂。 先きに立った岩木がびくっと肩をうしろへ引いた。 ﹁何じゃい、――的野︵来島の旧姓︶じゃなかか、そげんとこで何しよっとか?﹂。 岩木にも木村にも来島はもう半歳ちかく会っていなかった︵同志といってもずっと先輩格で、彼等はそれぞれ家もあれば女房もある独立した生活者なのである︶。 ﹁東京へゆくとこです、――養家先ば離縁になってなあ、着のみ着のままじゃが﹂。 恒喜は眩しそうに視線を門司の港の方へ向けながら虚ろな声で笑いだした。 ﹁冗談じゃろが?﹂。 鼻の下にうす髭を生やした岩木は白い詰襟の夏服のボタンをはずしたまま、腰にぶら下っている煙草入の中から銀の煙管をぬきだした。 ﹁うんにゃ、――ほんなことい、東京へ行て、また八百屋でもやろう思うてな﹂。 ﹁おい、人を嘲弄すんな、ほんなことを言え、貴様が生活なぞを気にする男か﹂。 木村が眼鏡越しに眼をチカチカと輝やかすと、来島はふふん、――と嘯くように口を尖らしたが、すぐ相好を崩して笑いだした。﹁無茶を言いなさんな、わしだって飯を食わにゃ生きとられん﹂。 ﹁頭山んとこへゆくとじゃろう?﹂。 と岩木が言った。 ﹁うんにゃ、ゆきなっせん、――わしはもう玄洋社も脱退しましたよ﹂。 ﹁本気や?﹂。 岩木は煙草をひと口喫ってから急に真剣な表情になった。 ﹁本気ですとも、――もう玄洋社とは何の関係もなかです、東京へ行たら平岡︵浩太郎︶をたずねて金の算段をして貰おうと思うとります﹂。 ﹁解せんことをいうのう、――去年は福岡で井上を追っかけ廻しとった貴様が、どうしてそげん変ったんじゃろ?﹂。 ﹁それとこれとは別ですたい﹂。 恒喜はだんだん沈鬱になってくる気もちをつくり笑いでゴマ化していた。進んで決意をうちあける必要はないにしても、自分の言葉を真にうけている対手の眼にふれると妙にちぐはぐな気もちになってきたからである。 出帆までにはまだ一時間ほどあった。岩木は無造作に積みかさねてある太いロープの上に腰をおろし、手に持った風呂敷包を解いて、新聞にくるんだ折詰のすしをとりだした。 ﹁どうだ、やらんか?﹂。 といって膝の横へ置いてから、 ﹁――どうも東京の形勢も容易ならんぞ﹂。 ﹁まさか、大隈が此こ処こまで腹を決めようとは思わなかった、二、三日経つと箕浦︵勝人︶が馬関へくるそうじゃ﹂。 ﹁あいつも改進党の走狗になったか﹂。 岩木は革の煙草入からきざみを煙管につめこんで口にくわえながら言った。 来島は、何気なしに岩木が足元になげすてた新聞を拾いあげたのである。皺を伸ばしてひろげてみると、七月十九日の﹁郵便報知﹂であった。彼の目はすぐ、矢野竜渓と署名した巻頭の社説にひきつけられた。﹁条約改正問答﹂という題で、その日が第四回目になっている。 ――条約改正に反対する者は文明の意義を解せざるものなり。第一の非難は曰く、数名の西人、法官を雇入るるは一国の体面を損じ且つ之がため他国の干渉を蒙るの恐ありと。然れども改正案の定むるところのものは埃エジ及プトのごとき立合裁判とは全くの別物にして任免懲戒の権まったくわが手にあれば格別我国の体面を損ずることなくしてまた干渉を蒙るの恐あることなし。況いわんや帰化の外人を用うるを得べきに於てをや。又また況んや十二年後は之を廃止するの権無論わが手中にあるをや。第二の非難は曰く、内地を解放するは危険なり、之を杜塞し置くに如かずと。然れども列国の交際は彼我均等ならざるべからず。欧洲諸国が已にわが国人に許すに内地解放を以てする以上はわれ独り之を杜塞するがごとき不均同の事を為すべからず。第三の非難は曰く、外人に土地を買占めらるるの恐あるが故に土地所有権を禁止すべしと。然れども外人のために鉄道、公債、郵船その他の株式を買占められ、工商業世界を占領せらるるに至らばたとい土地のみを所有すともその甲斐ある可からず。故に外人の占領を恐るるならば諸事業一切之を禁制せざるべからず。爾しかなさんと欲すれば初めより条約改正を見合すのほかなし。況いわんや我国の土地は他の事業に比して利益のもっとも少なきものなるをや。世界中にて日本の土地よりも利益多き地面は日本に幾百倍するの広き面積あり。決して外人が日本の土地のみ買占めんと群がり来るべき恐なきなり。―― 彼は新聞をくしゃくしゃに丸めて海の中へ抛りこんだ。改進党の機関紙である﹁郵便報知﹂が、大隈の条約改正案に賛成するのは当然であるが、こういう積極的な主張が堂々と行われているのを見ると、彼はもうじりじりと湧きかえってくる感情を、おさえることができなかった。 木村は手を伸ばして、折詰の中の海苔巻をつまみあげた。﹁――改進党もなかなか侮りがたいぞ、今のところ言論では筑前協会の方が押され気味だ、こっちも少し火の手を挙げんことには、だんだん切崩されるかも知れぬ﹂。 ﹁九州でも相愛社の一角はもう改進党と結びついたというではないか、今んとこ鹿児島だけが鳴りをしずめておるが、それも黒田︵清隆︶が乗りだしてくればどう動くか大方見当がつく﹂。 ﹁頭山さんは東京で何をして御座るのか、九州の言論地を払って空しじゃ、――恒喜さん﹂。 木村は来島の方へ嶮しい視線を向けた。 ﹁しっかりせんとわやぞ﹂。 木村はひと口しゃべっては折詰のすしを頬ばった。 来島は名も知らぬ海鳥が白い浪がしらの列から次の列へすれすれにとびうつって次第次第に沖へ出てゆくのを、沈痛な表情をして眺めていたが、岩木のすすめる折詰のすしには眼も呉れないでそっと腰をあげた。 ﹁昨夜から飲み過ぎてのう、――少し疲れとりますけん、わたしはこれで失礼します﹂。 新秋の海の色が彼の眼にとげとげしく沁み入るようであった。何か心に屈託のある来島の挙動が岩木の眼にもすぐ映ったらしい。 ﹁恒喜さん﹂。 岩木の声の調子ががらりと変った。﹁あんた、ほんとに玄洋社を脱退したのか?﹂。 ﹁はア﹂。 ﹁そいで、ほんとに何をやるつもりか、東京へ行って?﹂。 ﹁――そこんとこはまだ考えとりません﹂。 ﹁おかしいことをいう、わしは真剣に訊いとるばい?﹂。 ﹁わたしも真剣に答えとります﹂。 ﹁恒喜さん!﹂。 ﹁何でござすか?﹂。 ﹁あんた、ちがうじゃろう?﹂。 ﹁何がです?﹂。 ﹁何がちうて、――あんたはもう条約中止運動はやらんとかい?﹂。 ﹁そんなことは言いませんたい、――わたしにはわたしの考えがありますけん、言論の争いはもうこれでよかと思うとりますが﹂。 岩木は考え込むように腕を組んだが、すぐひとりで会得したようにうなずいた。﹁東京にはあんた、泊るところがあるとな?﹂。 ﹁あるにはありますばってん、何処へも行きとう御座っせん﹂。 ﹁そんなら、わしんとこの宿へ来ないや、あんたの生活ぐらいどんな風にでもなるたい﹂。 ひたひたと迫ってくる岩木の眼は恒喜の表情の中から何事かを探り出そうとしているように見える。言葉に窮したというかんじを対手に通ずるために恒喜は大声で笑いだした。﹁東京へ行ったら、よか女子の世話でもしてもらいますかな﹂。 恒喜は心のはずみをつけるように肩をゆすぶって笑いながら、下の船室へ通ずる穴のような階段をおりていった。 船が出帆すると空模様が変って内海は何時の間にかかすかな雨になった。6
石炭商をしている木村と大阪でわかれ、岩木といっしょに横浜に着いた来島は、無理にもという岩木の好意を断りかねて、同じ汽車で新橋へ着くとすぐに俥をつらねて岩木の常宿である鍛冶橋外、明あけ保ぼ野の旅館︵今の中央旅館︶の門を入った。――八月二十二日の夕方である。銀座通は瓦斯灯に火が点いたばかりで、灯かげの中にぼうとうかびあがった女の顔がいきいきと輝いて見える。初秋のうすら冷たさは早くも柳の葉ずれから忍びよってくるのであった。 二階の部屋は濠を前にして、ゆるやかなうねりを見せて続いている三菱ヶ原には白い薄の穂が夕闇の中にうかび、ところどころに煉瓦づくりの外国商館の屋根が見えた。遠い灯が曇った空に映っている。 数年前のおもいでが恒喜の頭に滲むようにひろがってきた。去年からしきりに手紙を往復している勝海舟にも会いたかったし、下谷の墓地の裏で長いあいだ起居を共にした山岡鉄舟にも会いたかった。中江兆民は今でもあのじめじめした日当りのわるい露地のおくで鉈なた豆まめ煙管を横ぐわえにしながら天下を罵倒しているのであろうか。――愛宕下の長屋から同志の牧岡吉清といっしょに野菜をつんだ荷車を曳いて芝口まで売りにきた頃の、なつかしい一日一日が閃ひらめくように彼の脳底をかすめる。 しかし、今のおれは過去の生活からも人間関係からも離脱した立場に立って行動しなければならぬ。――彼は胸の奥ふかくかくした左文字の短刀に指の先でさわっていた。その夜夕飯がすむと、岩木が、どうじゃ、吉原へ行ってみんか、――と誘いかけたが、恒喜は、 ﹁どうも﹂といって頭をかいた。﹁胃がわるくて元気がないからやめときましょう﹂。 恒喜は壁に脊を凭せかけ、膝を両手で抱えたまま眼を瞑じていた。 吉原に馴染の女があるらしく、岩木は、そんならゆっくり寝るがいい、おれはぶらりと歩いてくる、とあっさりうけながし、手鞄の中から持薬の﹁毒消丸﹂をとりだして来島にわたした。来島は岩木が浴衣の上からうすい羽織をひっかけ、玄関に出てゆくうしろ姿を見送ってから、女中の敷いてくれた蒲団の中へごろりと横になったが、妙にそわそわして寝つかれず、一日一刻がじっとしていられないような焦躁にせき立てられてきたのである。 一人になって考えてみるとやっぱり頭にうかんでくるのは博多でわかれた星成の顔だ。――こうしてはいられぬと思うと、彼はすぐはね起きて着物に着替え、今から芝にいる友人を訪ねるから岩木がかえってきても心配しないように言ってくれと女中に伝言をたのんで、小さい風呂敷を持ったまま外へ出た。岩木には済まぬと思ったが足跡を晦ますためにはこういう機会をつかむよりほかに仕方がなかった。まだ時間は早いし、その足ですぐ昔馴染である愛宕下の植木屋を訪ね、そこの二階を当分の根城にして形勢を観望することにしたのである。 大隈改正案に対する反対の気勢はその頃から徐々に上下の輿論に反映してきた。各派の演説会は毎夜のように開かれるし、新聞の論調も次第に熱を帯び、反対の急先鋒である﹁東雲新聞﹂が幾度となく発売禁止の厄に遭って市中から影を没したと思うと、今まで鳴りをしずめていた﹁日本新聞﹂が急に正面から大隈外交の攻撃をはじめた。都下の論陣はようやく二つにわかれ、﹁報知﹂﹁朝野﹂﹁毎日﹂﹁読売﹂――等の政府擁護派に対抗する﹁東雲﹂﹁絵入自由﹂﹁朝日﹂﹁東京﹂﹁あづま﹂の論調は次第次第に激化してきたのである。 植木屋は老夫婦の二人ぐらしで、身を潜める場所にはもっともよかったが、大阪に茶屋奉公していた娘がかえってから近所の人たちの往来が頻繁になり、何処へ勤めているというわけでもないのに朝早く出ては夜おそくかえってくる来島の姿がだんだん人の噂にのぼるようになってきたので、彼は九月に入ると、神田美土代町にいる知人塚本忠七の二階に移ったが、ある晩、新富座で開かれた演説会のかえりみちで、刑事に尾行されてから急に身辺に不安をかんじて、次の日の朝、もう一度愛宕下の植木屋へもどり、そこからあまり遠くない書生下宿の信楽館へ弁護士試験に上京してきたという名目で寝泊りすることになった。彼の借りたのは北向きの四畳半で、壁には雨漏りのあとがしみついているし、煤すすけた障子をあけるとすぐ前が肥料を積んだ倉庫で、道路は深い泥溝に挟まれていた。もちろん朝から晩まで陽は当らなかったが、しかし、大抵のことに辛抱の出来る来島も、腹へ沁みとおるような泥溝の臭気だけには我慢ができなかった。胃弱の彼はどろんと濁った泥溝の臭いを嗅ぐと、むかむかと嘔気を催してくるのである。その部屋のすぐ真下が下宿の玄関にあたっているらしい。床の間の板敷が朽ちて大きな穴があいているので、顔をつきだすと出入りする人の姿が見えた。――九月も中旬を過ぎると雨の日が多くなり、食慾を減退させる泥溝の臭気は閉めきってある戸のすき間から沁みひろがってくるのである。 朝から頭痛を覚えたので、来島はうすい煎餅蒲団を頭からすっぽりとかぶったままで眠ってしまった。眼がさめてみるともう夕方で、屋根のトタン庇をはじくように雨の音が聞えた。暗い部屋の中には、床の間の板の壊れた穴の部分だけがぼうっとあかるくなっている。何気なしに上から覗いてみると、短いトンビを着た男がうしろ向きになってすぼめた番傘の雫を片手で払い落している。 肩のゆれ動く恰好が星成に似ているので、ハッと胸をおどらせたが、まさか、――と思いながら、おずおずと首をひっこめると、建付のわるい障子を無遠慮にがたがたとあけるものがあった。ランプを持った女中が入ってきたのである。 ﹁来島さん、――お客様ですよ﹂。 総身水を浴びたように、ギクリと身体を顫わせながら、来島はかさかさに乾いた唇を噛みしめた。女中が出てゆくと、階段に重く間延びした足音が聞え、 ﹁何じゃ、――寝とったのか?﹂。 半月ほど会わないうちに鼻の下にうすいちょび髭を生やした星成が立っている。7
﹁どうしてわかった?﹂。 来島は蒲団を端の方からくるくると丸め、星成の坐る場所をつくってから、眉間にふかい皺を寄せた。﹁――魂消げたやつじゃなア、貴様は﹂。 ﹁そりゃあ探したぞ、平岡さんとこかと思ったが、行ってみると知らんというし、まさかと思ったが中江兆民のとこへも行ってみた、――やっと植木屋を思いだしてな、聴いてみたらすぐわかった﹂。 何処かで少しひっかけてきたらしい。ランプの光の中に星成の顔はつやつやしく輝いていた。 ﹁まア、ええ、――貴様ひだるうはないか?﹂。 ﹁食うてきたばかりじゃ、それよりもどうした、すっかり痩せてしもうて――まるで監獄から出てきたばかりのような顔をしとるぞ﹂。 ﹁それで、――﹂。 長い髪の毛をかきあげながら、来島が苦笑をうかべた。﹁貴様、一体何時出てきた?﹂。 ﹁やがて十日になる、貴様が行ってしもうたら、もうじっとしておられん、――今まで頭山さんのとこにおった、貴様が何故来んかというて御座ったぞ﹂。 ﹁そうか、――おれは誰にも会うまいと思うとった﹂。 ﹁それもわかるが﹂。 と、急に星成が声をひそめた。﹁来島、時がいよいよ来たぞ、――一日も早い方がええ、一日も﹂。 ﹁それも考えとるが、やるにしても時機がある﹂。 ﹁時機は今だ、反対の気運は上下に横溢しているじゃなかや、――形勢はいよいよ急じゃ、貴様が愚図愚図しとるならおれがやる﹂。 ﹁途方もないことをいうな。――おれはまだ早いと思うとる、今はゆっくりと言論の成行を観とるところじゃ﹂。 ﹁言論、――?﹂。 星成はいきり立ったように片腕をたくしあげた。﹁貴様の口からそんな言葉を聴こうとは思わんじゃった、――伊藤が枢密院議長を辞めたのは貴様はどげん思うとるか?﹂。 ﹁どげんも思うとらん、とても自分の力で拾収がつかんと思うたからじゃろう、こうなることは始めからわかっとった、――何も今更おどろくにもあたらんじゃろが﹂。 ﹁それじゃけんたい、大隈がこの窮境をどうして切りぬけるか、――そいつは誰にもわからんじゃろ、今日、日本新聞社で陸羯南に会うて、昨日の内閣総会議の模様を聴いたが、黒田︵清隆︶と後藤︵象二郎︶とが正面衝突をやったそうじゃ﹂。 ﹁どげん風じゃった?﹂。 ﹁黒田はあくまで断行するというたそうじゃよ﹂。 ﹁そうじゃろ、――黒田なら意地でも押しとおすじゃろ、そうなれば大隈の腰はだんだんつようなる、杉山が民論を激化させる必要があると言いおったが、激化させる必要のあるのは民論だけじゃなか、大隈も、やがて民論の人気なぞ気にしちゃいられなくなるじゃろ﹂。 ﹁それを待っとっていてどげんなる﹂。 星成は片膝を立て、しきりに貧乏ゆすりをはじめた。﹁おれは黒田なら内閣の瓦解を覚悟の上でやると思う﹂。 ﹁やる、きっとやる﹂。 ﹁やったらおしまいでなかや﹂。 ﹁いや、――やるのは命がけだ、星成、貴様は少し根本の考え方が足らんぞ、おれたちは大隈を殺して能事終れりとするものじゃなか、条約改正案の中止がいかに重要であるかということを全国民に知らせる必要がある、廟堂に立つ連中に、国家が将来どうなるのか見当がつかんでいるやつが多いのじゃけん、国民にこの気もちが徹底せんのは無理もなか、何せ挙世滔々たる欧化主義じゃ、矢野竜渓なぞは、世界中には日本よりも広い利益の多い土地がいくらでもある、外人に土地の所有権をあたえたところで日本の土地が買い占められる恐れはないなぞとぬかしよるが、買い占める自由をあたえておいて買い占められる恐れがないという法があるか、――矢野は外国人さえ見れば神様のように思うとる、こんな腑抜けがのさばりかえっとるから言論を誤るんじゃ、中江︵兆民︶は外国人は人間じゃなくて動物だと言いおったぞ、もし土地を残らず買い占められたら国民はどげんなる、日本は滅びたも同然じゃなか、ところが、矢野あたりの言論に惑わされとる国民は手前のケツ︵尻︶に火が点いとるのを知らんで、今度の反対運動も政権争奪のお祭り騒ぎのように思うとる。そこんとこが肝腎じゃなか、――今に見ろ、反対論はますます上下を圧倒してくる、伊藤が枢密院をやめたのは、そげんときの来るのを見越したからじゃ﹂。 ﹁そうたい、――あそこには勝安房守ががんばっとるからのう﹂。 ﹁勝先生はむろんやる、谷︵干城︶はもううじうじしとるじゃろう、谷と三浦︵梧楼︶と頭山と三人が血盟を結んだら大隈ものっけらかんとしちゃいられまい、まア待て、――黒田がどこまで意地を張りとおすか、そいつをしっかり見究めてからのこっじゃ﹂。 ﹁貴様、その自信があるとか?﹂。 ﹁ある、ある、――見とれ、ドカン! とやってやるから﹂。 ﹁ドカン! と?﹂。 ﹁たった一つしきゃない命だからのう﹂。 来島は意味ありげな笑いをうかべて星成の顔を見た。 ﹁――おれはもう親父のこともおふくろのことも考えん。大君の国の御み稜い威つをおとさじと家をも身をも捨てにしものを﹂。 聞えるか聞えないほどの声でひと息に微吟してから、﹁勝先生の歌じゃよ﹂と低い声で言った。8
十月に入ると急に形勢が変ってきた。来島の最初の計画では、外務省の門の前にかくれていて、大隈の退出してくる突嗟の機会をねらってピストルをぶっぱなすのだ。もし外れたら一気に短刀を握ってとびだすつもりでいた︵そのピストルは金玉均の朝鮮事件以来肌身離さず持っていたのである︶。 そのために彼は毎日のようにこっそり霞ヶ関の附近をうろつき、もっとも都合のいい足場や距離を丹念に研究していたのであるが、外務省の警戒がだんだん厳重になってくるにつれて、いっそのこと早稲田の自邸から出てくる大隈を覘ねらおうという気にもなったが、しかし、人通りのうすい場所で、そのあたりには身をひそめるところのないことがわかると、やっぱり霞ヶ関以外に好適の場所はなかった。自分の行動に曇りと疑惑を残さぬ意味においても、外務大臣としての大隈をやっつける場所は霞ヶ関のほかにはないことが、彼の心の中でいよいよ確定的になってきたのである。 しかし、十月が半ばを過ぎると、もう普通の身みな装りでそのあたりへ出入することが困難なほど警戒は一層厳重になってきた。星成とは絶えず連絡をとって機会を覘うための打合せをしていたが、ある夜、星成の下宿している神田錦町河岸の馬力屋の二階へ訪ねてゆくと、 ﹁今、貴様を訪ねようと思うとったところじゃ﹂。 と、星成はとびつくようにして彼の肩をおさえた。 ﹁よか話がある﹂。 ﹁何じゃい?﹂。 ﹁こっちへ来い﹂。 といって、彼は机の前へながながと寝そべった。﹁いつかの晩、貴様がドカン! とやるというたのが頭について仕方がなかったが、そのドカンが手に入りそうになってきたぞ﹂。 ﹁そいつは耳よりじゃ、――何処にある?﹂。 ﹁同じドカン! でもふとかぞ、近頃ではもう大隈の身辺に近づくことも容易ならんような状態じゃ、――ピストルは打ちそこねたらそれきりだし、短刀はこの様子じゃどうも覚束ない、やっぱりドカン! じゃよ﹂。 星成はそっと起きあがってわざと街に向いた窓の障子をあけ放し、貴様の下宿の泥溝の臭いとくらべるとおれの家の馬の糞の臭いはまだましじゃぞ、――と途方もない冗談を言いながら窓框に腰をおろした。それから、ハ、ハ、ハ、ハ、と腰をゆすぶって笑いだしたが、すぐ前かがみになって声をひそめた。﹁昨日、大井憲太郎さんに会うたんじゃ、ほかに人がいて雑談をしとるうちに、大井さんが妙なことを言いだしなさった、――話はその上にドカン! じゃが、それが横浜の外人墓地の裏に埋めてあるそうじゃ﹂。 ﹁どげんして?﹂。 ﹁詳しいことは知らん、――加かば波さ山ん事件のときの遺物だそうじゃ、大井さんもそれ以上の話はせんかったが、こいつはうまいと思ったからおれはすぐ素知らぬ顔をしてかえってきた、――貴様、今夜にでも頭山さんとこへ行て、大井に紹介状を書いてもらえ、大井なら決心をうちあけてもよかろ、早うせんと出来んぞ﹂。 ﹁そいつはええ﹂。 来島の顔がみるみるうちにひきしまってきたのである。その晩、彼は無けなしの財布をはたいて辻俥を赤坂にいる頭山の宿屋へ走らせた。頭山は大井に会いたいという来島の言葉の底から何事かをかんじとったらしい。事はせかんでもええ、大井ならおれが明日の朝自分で出かけて貴様の思いどおりにしてやる、おれも今から飯を食うところじゃ、――いっしょに牛肉でもつついてゆかんか、といって手を鳴らし、女中に牛鍋の用意をさせてから、二、三日前に谷干城の屋敷で開かれた密議の模様を、しずかなとぎれがちな言葉で話しだした。その晩あつまったのは条約改正反対運動に狂奔している政界論壇の長老たちで、浅野長勲︵侯︶、三浦観樹、杉浦重剛、高橋健三、三宅雄二郎︵雪嶺︶、千頭清臣、福富孝季、頭山満、古荘嘉門、佐々友房、広瀬千麿の顔触が揃うと、最後の手段についての相談が開かれた。とるだけの方法はもうとりつくしているのだ、いよいよ上奏のほかはあるまい、と谷が切りだすと、一座がしいんとなった。上座にいた浅野侯爵がすぐ、 ﹁では﹂。 と言いながら一座を見わたしたのである。 ﹁自分が上奏して御中止をお願いすることに致そう﹂。 言葉がとぎれるとみんな同じように顔を見合せた。たった一つ残された頼みの綱がそのほかにないことはわかっているが、しかし、それだけに浅野侯爵を代表者として選ぶことにはかすかな不安があった。役に不足だというわけではないが、侯爵では、――という気もちは誰の心の底にもあったのであろう。だが、そうかといって浅野の面前でそれを言いきることのできないもどかしさが、何時の間にか沈鬱な空気を醸しだしたのである、すると谷が恭うや々うやしく礼をするような身構えをして浅野の顔を見あげた。﹁御好意はまことに結構には存じますが、――わざわざ侯爵を煩わすまでもなく﹂。 言葉が消えるようにとぎれると、 ﹁私が参内いたしましょう﹂。 決然とした面もちを見せて言った。それでみんなはほっとした思いになったが、浅野が言いだしたときに黙っていて、谷が口を切ってから急に賛成するというわけにもゆかなかった。それがために座が一時白けたようになったが、谷と向い合って坐っていた三浦がそのとき慌てて坐りなおした。 ﹁それよりも、おれが行こう、――おれに参内させてくれ﹂。 谷の表情がとげとげしくひきしまった。﹁だしぬけに君は何をいうか、――おれでは役に立たんというのか?﹂。 ﹁そうじゃないよ、誤解しちゃいかん﹂。 ﹁いや、誤解はせんが可笑しいじゃないか、身分から言えば君も子爵だし、おれも子爵だ、君が中将ならおれも中将だ、それをおれが行こうというのに、横合いから何だ﹂。 三浦はにやにやと笑いながら頭をかいた。 ﹁そいつは君、ちょっとちがう、――此際君が行ったんじゃあ、宮内省で警戒して拝謁の手続をしないよ、殊に条約改正反対案につきという願書を出したんじゃ、到底受付けそうにもないぞ﹂。 ﹁じゃあ、君ならいいのか?﹂。 ﹁おれだって同じ願書を出したんじゃ同じことだろう、ところがおれには別の方法がある﹂。 ﹁何じゃ、それは?﹂。 ﹁そこだよ、――おれは君を出し抜こうなぞと思っとるんじゃない、資格は君とおれと変るところはないが、おれが行けば拝謁を許されるわけがある﹂。 ﹁それは何じゃ?﹂。 ﹁――おれは学習院長だ、忝かたじけなくも皇太子の御教育を仰せつかっているぞ﹂。 三浦の声はかすかに顫えている。谷も、気を呑まれたようにきょとんと眼を瞠っていたが、急に、 ﹁そいつは﹂。 と言いながら不安そうな声で言った。﹁三浦、たしかに君の考えどおりだが、しかし、――もう一度考え直した方がいい﹂。 俯向いていた三浦が顔をあげた。 ﹁考え直す余地はない、黒田と大隈が内閣にがんばっているかぎり、やるところまでやることは眼に見えている。大隈の息の根を止めない以上は御前会議を開いてもあいつはきっとがんばりとおすだろう、そうだとしたら、どんな非難を受けても上奏するよりほかに道はない﹂。 ﹁うん﹂といったまま谷は黙ってしまった。三浦は咽喉にかすれるような低い声で、 ﹁だから、――﹂。 ぐっと息を呑んだのである。﹁おれはもう覚悟をしている、――三浦にとってもこれが最後の御奉公になるじゃろう﹂。 一座が粛然としずまりかえった。ぽつりぽつりと話す頭山の言葉にじっと耳を澄ましながら、来島は空腹に沁みわたるような牛鍋の焦げつくにおいをじっと噛みころしていた。9
三浦の参内は上層部の意見を強化させる結果に導いた。宮中からかえってきた彼が自室に引きこもり、御沙汰の如何によってはいさぎよく切腹しようと白無垢の下着を着たまま端坐していると、夜が更けてから門の前に馬車の軋きしる音が聞えたので、自分で手燭をとり、門をあけてみると、外に立っているのは枢密顧問官の元田永孚であった。元田は三浦を見ると、 ﹁おお﹂。 とかすれるような声で叫び、彼の肩を抱くようにして寄りすがった。﹁よくやってくれました、これで天下の大事は決定しましたよ﹂。 元田は多くを語らず茶室で火鉢をはさんで、温厚な人柄にも似合わず条約改正案について激語をもらしてかえっていったが、しかし、三浦の参内がわかると御料局長である品川弥二郎の態度にも反政府的な立場が明かになってきた。彼は外遊を終えて帰国の途上にある山県有朋に手紙を送って、船中で帰国後の処置を誤たぬように警告を発した。――来島は頭山と別れて下宿へかえると、あくる日の夕方、大井憲太郎を表神保町の事務所に訪れた。大井は来島と向い合うとすぐに親しそうな調子で話しだした。﹁頭山君から今朝詳しい話を聴きました、――社中もっとも嘱望するに足る男だといっていましたよ﹂。 来島がすぐ話を切りだすと、大井は﹁うん﹂﹁うん﹂と大きくうなずき、 ﹁話は森久保︵作蔵︶のところへゆけばわかるが、そこへゆくまでに手間がかかる、――わしが紹介状を書くから先ず順序として﹁あづま新聞﹂の高野麟三に会ってくれたまえ﹂。 と言った。彼はすぐ巻紙をとってすらすらと書きだしたのである。――前略折入ってお願い申上候、この状持参の人物は玄洋社員、来島恒喜君に有之、大隈案の条約改正には熱心なる反対意見を抱き非常の覚悟をもって上京されたる次第なるも、ある一点について準備上の不便を感じ居られ候まことに御迷惑には候えども若し貴兄に於て御引見の上信ずるに足るものを感得致され候節は応分の便宜お取計らい下され度候。 これでよかろう、といって大井の渡す紹介状にちらっと眼を落してから、 ﹁結構です﹂。 と来島が言った。﹁唯、玄洋社員という言葉だけを除いていただけませんか、私は玄洋社を代表して上京したのではないですから﹂。 ﹁なるほど、――じゃあ、こうすりゃよかろう﹂。 大井は筆をとって玄洋社の上に﹁旧﹂という字をつけ加えた。その足で、﹁あづま新聞社﹂に千葉県の自由党員である主筆高野を訪ねると、癇癖らしい高野は大井の紹介状と照し合すようにして来島の顔を穴のあくほど見てから、 ﹁よくわかりました、――じゃあ、この手紙を持って明日早朝、この人を訪ねて下さい﹂。 といって葛生玄に宛てた簡単な紹介状を書いてわたした。次の日の朝、約束どおり葛生を日本橋呉服町の桜田旅館に訪ねると、前の晩高野から話があったらしく、葛生は酒の用意をして来島を迎え、自分は、藩閥の根柢に大斧鉞を加える決心をして、すぐに中江︵兆民︶を首謀者とする血盟団を組織する準備中である、といって胸中の鬱懐を洩らした。話が進むにつれて、来島は、濶達で曇りのない葛生の人間にひきつけられた。とにかく、――ドカン! の方は私が必ずひきうけた、遠からずあなたの手に渡すようにしましょう、とあっさり請合ってから、二人で一升あまりの酒を飲みほし、今夜は痛飲しよう、と葛生がいうのを、ああよか晩じゃ、――踏破千山万岳煙、と来島が幾月ぶりかで得意の来島調を朗々と吟じだしたところへ、葛生があらかじめ来訪を予約しておいた淵岡駒吉が懐ろ手をしてぶらりと入ってきた。 来島は重荷をおろしたような気もちで、初対面の淵岡とも屈託のない調子で話しているうちに、うち溶けた感情はたちまち崩れるべき方向に向って崩れていった。いいかげん酔ったところで、洲崎へ行こう、と言いだしたのは淵岡であったが、謹厳端正な葛生がすぐ賛成し、時間はもう十二時に近かったが、寝しずまった街の、きれぎれにつづく灯かげの中を三台の俥にゆられながら洲崎遊廓へ乗込んだのである。 あくる朝、三人は大門の間ぢかにある海の見える旗亭の二階で朝酒を飲んで別れた。葛生は、別れ際に今から淵岡といっしょに神田美土代町にいる森久保作蔵を訪ね、万事の手筈が整い次第すぐ君の下宿へゆくから、夜まで外出しないで待っていてくれ、とささやいた︵森久保はその数日前、上野公園に開かれた条約改正反対の全国青年大会に臨席するために上京し、ひと先ず帰郷していたが、中江を首領とする計画について謀議をかためるために、その日、神田の宿屋で葛生と会う約束をしていたのである︶。 来島が信楽館の二階へかえってくると間もなく、星成が血相を変えてとびこんできた。彼は到頭、御前会議の開かれる段取りになったという話をしてから、 ﹁おい﹂。 と詰めよるように眼をするどく輝やかした。﹁――愚図愚図してはおられんことになったぞ、政府は近々のうちに言論機関に大弾圧を加えるそうだ、特に御前会議のあとで国民の激昂をおさえるために、市中を徘徊する怪しいやつは一人残らず検挙するというとる﹂。 ﹁是が非でも断行してみせるという腹だな?﹂。 ﹁そのとおりじゃが﹂。 声をひそめようとしてもすぐ大きくなるのを、星成はもどかしそうに、 ﹁――どうじゃ、明日、おれは朝早く外務省に小村︵寿太郎︶を訪ねるけん、貴様はおれといっしょに門の中へ入れ、おれを待っとるような恰好をして石垣のかげに立っとればよか、馬車が来たと思ったらすぐやれ﹂。 ﹁まア、落ちつけ、おれにはまた別の考えがあるけん、――今夜一ぱい待て﹂。 ﹁待つのはええが、政府は何時第二の保安条令を出すかも知れん、――やるならこの一日二日のうちだ﹂。 ﹁急ぐな、まだ時機はある、今夜おれを訪ねてくる人があるから、貴様少し座を外して待っていろ、――福岡で約束したことを忘れたか、先ずおれがやる、貴様は第二陣じゃ﹂。 ﹁一陣も二陣もあるか、おれは貴様のやるところをしまいまで見届けてやる﹂。 ﹁心配せんでもよか、――おれたちの運命も今夜のうちに決まる、最後はこれじゃ﹂。 彼は着物の上から左文字の短刀を軽くおさえてみせた。来島の落ちつき払っているのが何か腑に落ちない気もちもしたが、しかし、そう言われてみるとやっぱり自説を押しきるわけにもゆかず、星成は不承無精に立ちあがった。 ﹁貴様がそういうなら、そう考え直そう、――待っとれ、夜遅うなってからやってくる﹂。 障子に片手をかけてから不意に気がついたように、今日、平岡︵浩太郎︶のところへ寄ったら、米国から古い同志の竹下篤次郎が明日横浜へ着くという入電があったので、迎えにゆくといっていたという話をすると、 ﹁そいつはいかん﹂。 と言いながら、来島は片手で星成をおさえる恰好をした。 ﹁貴様、面倒じゃろうが、平岡のところへ行って、モーニングと山高シャッポをば貸してくれるように話しといてくれんか、それだけあれば鬼に金棒じゃ﹂。 ﹁何じゃい、急に﹂。 ﹁――今夜の話し合いで、二、三日うちに八百屋の店開きをせにゃならんかもわからんからのう、礼装でお得意廻りをするんじゃよ﹂。 言ってから、来島はわざと隣室に聞えるような声で笑い出した。10
十月十八日の夕方――外務省の石垣︵その大半は今壊れてしまっているが︶にそった椎の並木の下を、星成は散歩するような足どりで往ったり来たりしていた。彼はときどき懐中時計を、帯と袴のあいだからとりだしては考えこんでいたが、四時になって分秒が、かすかに動いたとき、そこからすぐ真下に見える濠に沿った道を、下げ髪に結った女学生らしい少女が、白い支那鞄のような箱を足のあいだにはさんで、俥にゆられながら半蔵門の方から近づいてきた。陽はまだ落ちてはいなかったが、石垣のかげに早くも黄昏の色がちらついている。秋の日暮れがたは街の濁音が空に吸いとられたようにひっそりとしずまりかえって、風の音が心にしみるようである。そのしずけさをやぶって馬車のきしる音がだんだん大きく聞えてきたのである。彼は石垣の上に片足をかけ、右手で手頃な椎の木の幹を抱えた。彼は息を呑み、胸の鼓動をおさえるために唇を噛みしめた。そのとき、――モーニングに山高シャッポをかぶり、蝙蝠傘を左脇にした背の高い紳士が外務省の正門に向って歩いてくる姿が見えた。来たな、と思ったとき、左から来た馬車が流れるように彼の前を横切ろうとしたのである。彼の眼に深く垂れた幌だけが見えた。あっ、と思ったとたん、――たちまち大地が崩れるような音がした。片手でおさえた石垣がぐらぐらっと動いたような気がして、無意識のうちに慌てて椎の幹に両手でよりすがったときには、あたりは砲煙のような白い煙にとざされて眼をひらくこともできなかった。馬車に乗っていたのは大隈重信で、彼は数分前、閣議を終えて内閣を退出し、一気に馬車を走らせて桜田門をぬけ、近衛旧教導団の前を通り、霞ヶ関の官邸に帰ろうとして馬首を外務省正門に向けようとしたとき、モーニングに山高帽の男が前屈みになり、お辞儀をするような身体つきをして石垣のかげからのっそり出てきたのである。間一髪であった。馭者は夢中になって鞭をくれたので、音響におどろいた馬はとび跳ねるようにして門内ふかく駈け入った。来島はたしかに効を奏したと思ったらしい。右のポケットにおさめた左文字の短刀を抜こうとしたとき、門の中から五、六人の警吏がとびだしてきた。いずれも慌てふためいているらしく、落ちつき払って立っている来島を見ると、
﹁犯人は?﹂と、気を失った顫え声で問いかけた。﹁犯人はどっちへ逃げたか?﹂。
﹁ああ、犯人は﹂。
と来島がボキボキした調子で答えた。﹁虎の門の方へ逃げよりました、閣下は御無事ですたい﹂。
突嗟の心理作用で、警吏の一団が濠に沿った道の方へ走りだしたあとで、来島は工事用の煉瓦の積みかさねてある前に腰をおろし、抜き放った短刀を、ぐさっと耳尻にふかく突き刺したのである。彼は杉山に教わったとおりに斜めに気管に掛けて刎ね切ろうとしたが、手がすべってそのままのめるように前に倒れ伏した。その姿がうすれてゆく煙をとおして星成の眼に夢のように映ったのである。彼はこみあげてくる涙をおさえ、そのまま石垣づたいに外務省の裏門の横をぬけて日比谷の方角へ大股に歩いていった。隊伍を組んだ警官の一隊が駈け足で霞ヶ関の方角へ駈けてゆくあとから、群衆が騒ぎたてながらあとからついてゆくのが涙に曇る彼の視野をチラチラとかすめる。――日比谷の交叉点の前までくると、感動と不安とがからみあって何も彼も終ってしまったような、空虚な味気なさで胸が一ぱいになった。彼は四つ角にある居酒屋へ入ると、ひとりでぐいぐいと酒を呷った。涙はあとからあとからあふれてくる。ようやく灯がついたばかりの銀座通りには町の辻々にいかめしく武装した巡査が立ち、通行人を誰彼の区別なく調べているのが見えた。