批判という言葉に拘泥すると、早稲田大学という特定な学校形式はまったく存在のないものになってしまう。特に学生のもつ生活内容が、内側から生ずる思想や情熱の環境によって基礎づけられることが稀薄となり、常に外側から来る政治力と結びつくことによって決定されるような傾向を示している時代には、特に学校の性格だけをとりあげて云々するということそれ自体が既に一種の時代錯誤でもあろう。 しかし、それにもかかわらず、不思議に一つの伝統的雰囲気というべきものは、むしろ学校のワクをはなれて一般民衆の生活感情の上に濃厚に反映している。 必ずしも官学と私学という対立的な認識の上に立たなくとも、東大、早稲田、慶応、明治、法政、といったような学校形式の上にあらわれた気質的相違はおそらく牢として抜くべからざる絶対的な感情を示しているのだ。ところで、今日︵五月二十七日︶の﹁読売新聞﹂で、最近の大学を目標とする、教育と政治との限界について開かれた座談会記事を読んだが、その最後に長谷川如是閑が、結論的な意味で、おもしろい意見を述べている。 昔のはなしだが中央大学で予科を廃止した、それが事前に学生にわかって学生はストライキを起した、テーブルを片っぱしから倒し、先生がくると拍手をして追い返した、そのとき若槻礼次郎先生は、その倒れている机を乗り越えて、自分の受持ちの教室の演壇に立って、だれもいない教室でリーダーをひろげて講義をはじめた、廊下にはストライキを起した学生が教室の中をのぞいていたんだが、そのうちに一人入り二人入り、倒れている机を起して、いつのまにかみんな学生が入ってきて若槻先生の講義を聴きだした、つまり、ストライキでさわいだ学生が若槻先生の気魄に呑まれてしまったわけで、いまの大学教授には、そういう度胸のあるひとはいない。 何も気魄や度胸だけに拘泥するわけではないが、私は、これを読みながら二十余年前に見た一つの情景を思いうかべた。人間の﹁イキ﹂とか﹁ハリ﹂とかいうものは一種本能的なもので、人間性というものを追及してゆくと、どこからかこいつが顔をつきだすような仕組になっているらしい。もっと、わかりやすくいうと、早稲田気質とか三田気質とかいう砕けた言葉によって表現された、特殊な雰囲気と色彩なのである。そういう考え方においては福沢諭吉によって創始された慶応義塾という名称にはぬきさしのならぬ伝統がこびりついているし、早稲田は早稲田で、大隈重信によって創立された﹁政治専門学校﹂の歴史にさかのぼることなしには、雰囲気の由来するところを究めるわけにはゆくまい。 今の、長谷川如是閑の言葉から、私は図らずも一つの情景を思いうかべたといったが、そういう意味の人間的体臭において、早稲田はもっとも臭気ふんぷんたるものを残していた。大正六年、たしか八月の終りか九月のはじめであったと思う。銅像問題という名前で伝わっている有史以来の学校騒動で、騒動の主体である﹁革新派﹂と称する学生の一隊が正門をとりかこみ、雨の降った日であったが、温厚篤実な伊藤重次郎教授が、登校するために正門の前にあつまった学生のむれに向って、さかんに右手を振りあげながら、演説をやっていた。昔の葬式ではお経をよんでいる坊主のうしろから大きな傘をさしかけている男がいたが、伊藤教授のうしろに立っている学生の恰好がそれに似ていた。伊藤教授の言葉は声が低いのでよく聴きとれなかった。一種の名調子で﹁諸君よ、諸君は同志社の末路を知るか、新島先生去ってより﹂というような言葉が幾度びとなく繰りかえされたのを憶えている。 学生たちの大部分、つまり聴衆の過半数は同志社という学校についてもあまりふかい認識をもっていなかったし、まして新島襄というような名前を、知っているものはほとんどいなかったので、みんなぽかんとして、唯、芝居気たっぷりな伊藤教授の情熱的なポーズに見とれているというだけのかんじだったが、そこへ一台の俥︵人力車︶が乗りつけてきた。幌の中から姿をあらわしたのは紋附袴の、浮田和民博士で、博士は鞄を抱えたまま、伊藤教授の方は見向きもしないで前屈みになってよちよちと校門を入ろうとしたとき、前に立ちふさがった革新団の学生に防ぎとめられた。 ﹁誰か?﹂。 筋骨の逞しい男がぐっと片袖をたくしあげた。 ﹁早稲田大学教授、浮田和民である﹂。 すると、うしろにいた別の学生が叫んだ。 ﹁学校は今日から新装された、そんな教授はあたらしい早稲田大学にはおらんぞ、帰れ!﹂。 浮田老博士は、そのとき二言、三言何かいったようであったが、悲しげに蒼白な頬をかすかに顫わせただけで、ふたたび、よちよちと歩いて、待っていた俥に乗り、俥は幌をおろして走りだした。 やがて三十二、三年前になるであろうが、私は今でもハッキリおぼえているのだ。私は革新団に所属する学生の一人であったが、群衆のうしろに立っていたので博士に近づくことはできなかった。もし近づくことができたとしても学生たちの暴慢な振舞いに抗議をするだけの勇気も気魄も持ち合せてはいなかったであろう。おそらく、そこにいた学生の大部分が私と同意見であったにちがいない。長谷川如是閑のいう若槻教授の気魄はもちろん尋常ならざるものであったにちがいないが、しかし、これは予科を廃止するとかしないとかいう学校内部の動きだけに限局された問題であるから、学生もまた若槻先生の機智と気魄をうけいれるだけの余裕とユーモアがあった。つまり、学生独自の感情の動き方だけでどうにでもなる問題なのである。浮田博士の場合はちがう。彼等にとっては、そうなるべきことが予定の行動であり、彼等の中の個人がたとえばどのように浮田博士を尊敬し、例えば単身敵地に乗込むような、壮烈な博士の気魄に圧倒されたとしても、学生らしい純情と師弟の関係だけをもって博士の行為をうけ入れることはできなかったであろう。大正六年の早稲田騒動は、最初銅像問題という単純素朴、というよりもむしろ児戯に類するがごとき動機に端を発していながら、日が経つにつれ、再転して学長問題と結びつき、更に三転して学制改革の目標が表面へうかびあがり、それが外部の政治的勢力によって支えられるようになって、もはや、学生だけの問題でもなければ、教授の問題でもなく、学校内部の問題でもなくなってしまった。大隈重信によって築かれた民政党の早稲田ブロックに対する政友会の挑戦に変ってきたのである。そのとき、学校はすでに革新派の校友、教授、学生たちによって占領されていたし、反対派の立場を表示する浮田博士はノートを入れた鞄こそ抱えていたであろうが、彼は長谷川如是閑の語る若槻教授のごとく、学生のいない教室で政治哲学を講ずるためにやってきたのではない。博士のもつ政治的立場は教室の外にはみだした雰囲気につながっている。博士と師弟関係をもつ革新派の学生たちもまた、純粋な早稲田の伝統につながる感情によって博士と対立したのではない。私が有史以来の学校騒動というのはその複雑さについていうのである。 この学校騒動は、所いわ謂ゆる、早稲田大学を構成する精神的要素というべきものが、歴史的環境の中で一つの完成に到達しようとするときに起った。綜合大学としての早稲田が、その運営の主体を大隈重信を中心とする早稲田独自の能力︵必ずしも早稲田の出身者という意味ではなく︶によって形成されようとして生じた雰囲気をいう。﹁進取の精神、学の独立﹂と、校歌の中に語られた理想が、﹁学の独立﹂において実質的内容を築きあげようとしていたときなのである。 前に説いたごとく、政治専門学校を母胎とする早稲田大学があらゆる観点において政治科中心であったことはもちろんであるが、この頃から政治科の存在は有名無実であり、学問というよりむしろ政治の実践、――その一角は政治の院外的勢力に従属する方向を示していた。大学の実質を形成するものは、新設された理工科であり、坪内逍遥によって基礎をかためられた文科であり、塩沢昌貞、服部文四郎、伊藤重次郎等々の学校をはなれてなお実社会に存在を失うことのない有能な教授をもつ商科であった。しかし、それにもかかわらず、政治科は学校の表看板であり、田中穂積を科長として、浮田和民、永井柳太郎等の人気は外部的にもひろがって、抜くべからざる勢力であった。浮田はその頃の、もっとも伝統と歴史をほこる綜合雑誌﹁太陽﹂の主筆として、長篇論文を毎月発表していたし、永井は大隈重信を主宰とする﹁新日本﹂の編集長であった。そこへ、大山郁夫が出現して、﹁中央公論﹂﹁改造﹂に、当時の評論壇に君臨していた吉野作造と拮抗し、その人気と声望は隆々として圧倒的になろうとしていたときだったので、風を望んで政治科を志願する入学者は相当に多かった。 もし、早稲田スピリットとか早稲田気質とかいうものに愛着と郷愁をかんずる人たちがいるとしたら︵私もまちがいなくその一人であるが︶、早稲田大学は大正六年の学校騒動を限界として滅びたという意見に共感の意を表してくれるであろう。その早稲田スピリットとか早稲田気質とかいうものは何であるかといえば、これは、体臭のしみついた一つの空気というべきもので、学校のワクをはなれた俗語をもって分析すれば、一種の泥臭さであり、生活につながる意慾であり、野性であり、反思想的な人間味であり、振幅性の強い親和力であるということにもなろう。学校騒動の第一期は極めて無邪気な銅像問題から起った。これは拙作﹃人生劇場﹄青春篇に描写したごとくである。時代は大隈内閣が総辞職したばかりのときで、天野︵為之︶学長の任期が満了し、大隈内閣に文部大臣として入閣していた高田早苗博士が、内閣の総辞職とともにふたたび学長に再任されようとして行動を起したときと偶然にも時間的に結びついた。この頃、学校内部に恩賜館組と称する少壮教授の一団があって、そのメンバーは、何しろ三十年前の出来事だから記憶が甚はなはだ朦朧としているが、大山郁夫、北吉、武田豊四郎、原口竹次郎というような人たちがいたように思う。彼等は学校の運営に対しても批判的であったが、将来の学校を支える重要な力となるべきことが約束されていたので、学制改革についても当局に対して一意見を提示していた。 総長大隈重信はすでに八十歳をすぎた高齢であり、これに代るべきものが高田早苗であろうということは学生のあいだでも噂されており、高田は坪内逍遥の﹁当世書生気質﹂の主人公であると伝えられていたほどであるから、政治の高田、文学の坪内との結びつきは学生にとっても一つの魅力であった。学長は天野為之であったが、運営の機能はことごとく高田の一統によって占められ、市島謙吉︵春城︶、田中唯一郎等の直接経営者のほかにも教授間における高田ブロックは、早稲田が﹁学の独立﹂を示すに足るだけの勢力を築きあげていた。学長の任期は三年であったか四年であったか忘れたが、そのとき任期いまだ満たざるに高田学長に代ることを非難する空気が校友のあいだから起り、これが次第に政治力を加えて維持員会の一部を動かし、一方、銅像問題で校庭の一隅に建ちかけた大隈夫人の銅像をぶっ倒せなぞといって連日騒いでいる学生の大半をうやむやのうちに学長問題に拾収することに成功したのである。私はその銅像問題だけにおける主謀者の一人であった。そのとき、ちょうど夏休みで、東京に残っている学生の尠かったことが事件を決定的ならしめたもっとも大きい理由である。 もし、天野学長に野心と人間的魅力があったなら、この事件が第三段階に移って、背後的勢力が政党によってかためられようとしたとき、対社会的な波紋は一層大きくひろがったであろう。天野学長は政治性を伴わぬ純粋無垢な学究の徒で、私心というべきものがなく、その上、名利に恬淡なために、おそらく唯、自然の成行に従って動いていただけだと思う。政治関係をはなれて天野学長を擁護していたのは、かつて彼の創立した﹁東洋経済新報﹂に立てこもる三浦鉄太郎、石橋湛山の一派だけで、石橋氏は純理論的立場において天野派の采配も振っていた。ついでだから断っておくが、私は当時、家兄の自殺とともに郷里の家が没落し、石橋氏の世話で一種のアルバイト学生となって﹁東洋経済新報﹂に月給二十八円の社員として勤務していた。しかし、私たちの指導力の実体は、東洋経済でもなければ、政友会でもなく、その頃、京橋南鍋町に売文社を経営しながら、辛うじて命脈を保っていた堺利彦︵枯川︶であった。堺利彦の意見によると銅像問題や学長問題なぞはどうでもよく、唯騒擾の動きの中に、革命の縮図を示すというところに重要性があった。しかし、欧洲大戦が終ったばかりのときで社会主義的な認識が学生的雰囲気の中へ受け入れられる筈もなかったし、私たちの仕事は早稲田を学生の早稲田たらしめよというところに限定されていたようである。帝政ロシヤがほろびてケレンスキー内閣が、だしぬけにあらわれたときである。 暑中休暇が終ると全国に散布していた学生たちは続々と上京してきたが、彼等にとって学長問題、これに伴う学制改革の問題はまったく寝耳に水であった。そのとき、学校は革新派に占領されて講堂が本部になり、革新派の主動者たちによって、教授の任免、学生の表彰なぞが勝手に行われていた。その頃から革新派の学生のあいだに二つの潮流が対立し、これを現象的に区別すると武断派と文治派ということになるのであろう。そのことも﹃人生劇場﹄に描きだしたごとくである。 九月に入って政府の処理と干渉によってこの問題は急速に解決し、事件に関与した教授はことごとく罷免され、学生は放校処分をうけた。当時としては当然の帰結であるが、今日においてもこの事件の内容を知っている人は尠いように思う。 学校騒動を境にして、早稲田大学の性格は一変したといっていい。大隈重信が死んだのもたしかその翌年であったろう。天野派の教授はもちろん学校外に放逐されたが、そうかといって高田派をもってこれに代えるというわけにもゆかなかったらしい。天野色もなければ高田色もない一種の中間的存在だけが表面へうかびあがってきた。文部省がこの問題の解決に対してどの程度に関与したかということは一学生である私の知るよしもないことであるが、私は当時の予科長︵後の高等学院︶であった安部磯雄と、文科の科長であった金子馬治︵筑水︶によばれ、速かにこの運動から手をひくべきことを勧告された。対談中、金子先生はハンカチで顔をかくして泣き、私もまた涙をおさえることができなかった。私は特に安部教授の好意と信頼をうけていたからである。しかし、新しく形を整えた早稲田大学には、もはや私たちの魅力の対象となるべきものはなかった。学長の選任についても、高田色もなければ天野色もない、つまり、早稲田の歴史的伝統とつながりのうすい人の中から選ばなければならぬことが条件とされたらしく、もっとも無難な人物として、講師であった平沼淑郎︵騏一郎氏の実兄︶が推挙された。 以上が、この事件の、私の眼に映った全貌であるが、早稲田大学が学校らしい形式を備えてきたのもそれから以後であろう。それ以前の早稲田大学は、教授の個人的魅力によって、それぞれの雰囲気がつくりあげられていた。例えば坪内逍遥のシェークスピヤの講義がはじまると教室の中はたちまち立錐の余地もないほど一ぱいになってしまう。中には窓にぶら下って外から聴いているものもあった。文科の学生だけではなく、政治科からも商科からもあつまってきた。これと同じ意味で大山郁夫の時間には文科の学生が政治科の教室を埋めてしまう。個人的色彩によって一つの空気が生れていた。 私たちの時代には文科はもっとも寂寥を極め、数年間、作家的情熱というべきものは文科の教室から影を失っていた。政治科における私の同期生は横光利一であるが、文科には僅かに井伏鱒二、一人︵これもあとになってわかった︶を数え得る程度であろう。総括的にいうと、早稲田と慶応は、文学的な色彩においてもロシヤ文学とフランス文学による対立的傾向を示していた。その頃、もちろん早稲田にロシヤ文科なぞは確立していなかったが、私たちよりひと時代先きの、作家的雰囲気には、たしかに一つの濃厚な色彩があった。相馬泰三、広津和郎、宇野浩二、谷崎精二の名前は、同時代ともいうべき東大系の後藤末雄を先駆とする、菊池、久米、芥川等のはなやかな存在と対立して、早稲田的雰囲気をつくりあげていた︵葛西善蔵は学校とは没交渉であるが、交友関係と﹇#﹁交友関係と﹂は底本では﹁校友関係と﹂﹈気質的には早稲田的雰囲気を代表する作家の一人であろう︶。 片上伸によって創設されたロシヤ文科が形を整えたのは学校騒動の終った翌くる年であるが、ロシヤ文学の影響は、すでに広津、宇野の時代において彼等の文学の骨格をつくりあげている。あるいは、ロシヤ的という意味においては遠く正宗白鳥にまでさかのぼることが正しいかも知れぬ。これ等をひっくるめて、島村抱月をめぐる雰囲気の上にロシヤ文学は伝統的な一つの線を引いているのである。泥臭さと野性の母胎が此処にあるとも言えよう。われわれの時代が文学的環境において空白であったのは、むしろ実践的方向へそれていった結果であって、それがもっとも顕著な形を示したものが大正六年の学校騒動なのである。 今日、文壇に早稲田派と称する党派的空気の濃厚なことを口にするものがあるが、もしそうだとすれば、長い歴史を背景とする泥臭さと野性と親和力が、庶民的な感情の中に溶けあっているだけのことで、これが政治性をもつ団結を築きあげるべき性質のものではないであろう。これは政治科の面においてもそうであり、官学派としての東大が、無言のうちに鞏固な団結力をもち、今日においてさえ、官僚的系図のつながるところには人間関係が厳として形を整えているのとくらべて対蹠的な現象を示している。 それほど早稲田は陽気であり、野放図な楽しい学校であった。それが外見的には第二義的な印象をあたえるのは、政治においても文学においても体系を持っていないからである。早稲田的性格は額ぶちのない絵のようなもので、どこかに形のゆがんだ、間のぬけたところがあり、ロシヤ文学の影響にしても、十九世紀の文学史を骨骼とする時代的認識の上に立つものではなくて、時代と時間から遊離したゴーゴリであり、ドストイエフスキーであり、アルチバアセフであり、トルストイであり、チェホフであり、否、そのゴーゴリやドストイエフスキーにしてさえも、作家全体の骨組ではなく、作品の系列からきりはなされた﹁死せる魂﹂であり、﹁鼻﹂であり、﹁悪霊﹂であり、﹁桜の園﹂であり、それ等の感情の流れが、何の淀みもなく生活の中に混入してゆくところに、早稲田的性格がかたちづくられていったと解釈することもできるであろう。文学的な伝統から言えば、私たちの時代を置きざりにして、高等学院から出発した尾崎一雄、丹羽文雄、石川達三、井上友一郎、田村泰次郎、寺崎浩というような才華絢爛たる一聯の空気によって次の時代が築きあげられ、それから今日の戦後的傾向に推移してゆくもののようであるが、学校からはなれて一般民衆の生活感情の上に反映する早稲田的性質は、むしろ一種の傍系ともいうべき高田保なぞの方に、気質的な伝統を残している。あの明るさと叛骨、額ぶちのない自由さは早稲田以外の学校では決して生育せざるところのものである。別の意味で、青野季吉もそうであろう。もう、こういう性格が再び新しい学校形式から生れることはあるまい。青野にも高田にも、文学とか政治とかいうワクにおさまることのできない悲劇的要素がある。これは彼等が時代から迎えられるかどうかという問題とはちがう。彼等の才能はそれぞれの方向において独自の世界を築きあげてゆくであろうが、しかし、生活の実践と結びつくことなしには彼等の文学も人生も存在しないのである。 私は十余年前、久しぶりで早稲田の講堂で一席の講演を行い、そのとき席を同じゅうした中山義秀と会って、彼もまた早稲田出身であることをはじめて知った。義秀も古き早稲田の生き残りである。学校騒動以来、私が鶴巻町を歩いたのはそのときが最初であるが、私たちの時代に、街の辻々から聞えてきた﹁都の西北、早稲田の森に﹂という相そう馬まぎ御ょふ風うによってつくられ、東とう儀ぎて鉄って笛きによって作曲された校歌のゆるやかな合唱は、もはやどこからも聞えて来なかった。昔は四、五人の学生があつまると、歌うことが歩くことであり、歩くことが歌うことであり、合唱が歩調にぴったりと合して、そこに時代的空気がひとりでにうきあがってくるように思われた。それにしても長谷川如是閑のいう気魄や度胸は到底今日の日本に介在をゆるさるべき性質のものではない。しかし、学生のもつ若さと情熱だけは同じ形で同じ方向にうごいてゆくように思われる。先日何かの新聞に、講演者の発声を阻むために講壇にあがって拡声器を片手でおさえている学生の写真が出ていて、その横顔が大写しになっていたが、あの顔には余裕があり、明るさがあり、思想的な真剣さよりも、むしろいたずら小僧のような印象がつよかった。ああいう実行力というものは案外、出たら目な感情の動きから生れてくるものであり、この出たら目さなしには学校生活というものは成立つものではない。否、学校生活だけではなく、青春そのものが乾からびてしまうのである。