父親
三十五歳のとき、長女が生れた。昭和八年である。私にとっては、まったく思いがけない出来事だった。そのとき、ある婦人雑誌から、はじめて父親になった感かん想そうを求められ、父親たるべき腹の出来ていないことを答えたことを覚おぼえている。当時の日記をひろげてみると、つぎのような感かん想そうが書きなぐってあった。 ﹁わが子一枝︵カズエ︶、一日ごとに変化の兆ちょう、歴れき然ぜんたるものあり。成長に向う変化である。その変化を前にしていると、父親というかんじが、どこからともなく湧わきあがって、われながら思いがけない荘そう厳ごんな霊気にふれ、ひやりとすることがある。しかし、子供の変化を知ちか覚くするごとに、父親であるという意いし識きがひとりでに伸びあがってくるから不思議である。犠ぎせ牲い、献身の尊とさが子供への愛情の中から湧きあがってくるのも、今は唯、不思議だと思うだけである。それにつけても、わが子への愛情が日に夜に高まるにもかかわらず、厭えん世せい虚きょ無むの思いがどっしりと心の底に根をおろしてくるのはどうしたわけであろうか。夜ふけて、わが子の行末を思う佗わびしさがこの世への厭えん離りの念を唆そそるわけでもあるまい。わが子への愛情が、ひとすじに澄すみとおってくればくるほど、子供を失ったあとの悲しさや、子供とわかれてゆく心の慌あわただしさが、まぼろしのごとくにわれを追いかけてくるが故でもあろうか。生活の惨さん苦くに沈む世の親たちが愛いとし子ごを殺す心の切なさが今こそ、しみじみとわが心に迫る。私の幸福は、わが子への愛情の中に穢けがれの意識をまじえないことにある。妻は私にとっては神様だ。ときどき手を合せて拝みたい気もちのするのも、悪あしき情慾の奴どれ隷いとなって、のたうち廻った思い出のなせる仕しわ業ざとのみはいえまい。何に対しても無鉄砲で、放ほう胆たんで、自分勝手だった私は、いつのまにか臆おく病びょうになり、小胆になり、生きることのおそろしさに身の毛がよだつようである。一枝は、﹁オッパイ﹂という言葉をやっとおぼえた。この愛すべき唇くちびるが恋愛の嘆きのために濡ぬれるころまで私は生きているであろうか。過去の悪あく業ごうへの罪の意識は夢にまでも私に襲おそいかかる。わが子よ。お前を産うんだ、おろかなる父が、お前への愛情故に、かくのごとく悩なやみ苦しんだということを忘れてはなるまい。云々﹂ 私の親馬鹿は、このへんから端たんを発しているらしい。その後、数年経たって私は長女が小学校へ入学したとき、﹃親馬鹿の記﹄という随ずい筆ひつを書いた。 これは親ごころの阿あ呆ほらしさに解説を加えたものであるが、まだ三十をすぎて間のない私は、身体も健けん康こうだったし、前途は洋よう々ようたる希望と野心にふくれあがっていた。昭和十二、三年頃だから中日事変が勃ぼっ起きしたばかりの頃である。 私は生活の虚きょ無むか感んに陶とう酔すいしながら、連日酒を呷あおり、流連荒こう亡ぼうの夢を追って時の過ぎるのを忘れるような暮し方をしていた。 そのとき、私が自みずから進んで、﹃親馬鹿の記﹄を書くような気持になったのは、子供がようやく物ごころづき、長じて小学校に入学するに及んで、これは冗じょ談うだんではないぞ、という気持に唆けしかけられたことが動どう機きを成している。その頃私の近所に、私よりもひと廻り下の文学青年で、若いくせに早くから二人も子供を産うんだ男がいて、よく街の銭せん湯とうで会うと、やっと二つか三つになった赤ん坊を流し場にならべ、楽しそうに鼻はな唄うたをうたいながら、格のついた親おや爺じらしい落ちつきを示して、赤ん坊の身体に石鹸をつけ、タオルで、ごしごしこすっている。 これは恐るべき度どき胸ょうだと、感嘆したことを今でもおぼえているが、二十年を経へた今となると私自身が、まったく、それと同じ境きょ地うちに落ちつこうとしているのだ。まったく十余年の歳さい月げつは、うかうかと夢のごとくに過ぎていった。紅こう唇しんいずれの日にか恋愛のために濡ぬるるべき、――と冗談口をたたいた娘は早くも二十一歳になっていた。私は、そのときまで娘の成せい長ちょうを、ほとんど意識の上においていなかった。その成長過かて程いについても、いちいち考えてやることのできないような気きぜ忙わしい生活である。時代も環かん境きょうも、また戦争一本によってうごいていたときだったので、風に吹きまくられるような慌あわただしい気持で、大陸へ従軍したり、徴ちょ用うようをうけてフィリッピンへ行ったりしているうちに小こき刻ざみな時間が流れるように過ぎてしまった。そこへ、だしぬけに十六年ぶりで長男が生れたのである。夫婦の情じょう
私にとっては、まったく一つの奇きせ蹟きであった。長男が生れたのは、終戦後、追放をうけて、だしぬけに空虚閑かん散さんな境遇に落ちつき、残る人生について、本気で考えねばならぬような状じょ態うたいに立ちいたったときである。十余年前、﹃親馬鹿の記﹄を書いたときの私には、まだ心のゆとりがあり、自じち嘲ょう的てきな言葉にも、人生を諷ふう刺しするだけの稚ち気きがあった。 しかし、今となると、そうではない。自分が追放中に生れたということにも多少の感かん慨がいはあったにもせよ、むしろこの世に生をうけた小さな生命に対する愛あい情じょうの切せつなさだけが止みがたきものに変っているのである。 それは病びょ躯うくを支ささえて、ともかくも此処まで生きのびてきた自分が、もはや青春の仮かせ説つの外に遠くはみだしていることを意味する。前述の﹃親馬鹿の記﹄の中で、私は次のごとき感慨をもらした。 ﹁前には子供が四つか五つの頃まで、どうにも父親としての決心がつきかねて困こまっていたが、今となると押しも押されもしない父親である。この分でゆけば子故の闇やみに迷うという芸げい当とうだって、それほど至難ではなさそうである﹂ このような太たい平へい楽らくを、何の屈くっ託たくもなしに平然と口にすることのできた自分の浅墓さに私は憤いきどおりをかんじないではいられぬ。 この気持を明かにするためには、十六年振りで長男の俵ひょ士うじが生れたときの私の環かん境きょうがどんなものであったかということを先ず説明しなければならぬ。私は当時︵昭和二十三年︶伊東に疎そか開いしたまま、すでに六七年ちかい年月を過していた。私の胃いか潰いよ瘍うは極度に悪化し、日夜、死の危険におびやかされているとき、だしぬけに時の内閣官房長官西尾末広名めい儀ぎによる追放令書が通達された。 私は、そのことを格別気にしてはいなかった。むしろ、これで、やっとしめくくりがついたという気持が、今まで心の一隅ぐうにうごめいていた処しょ理りのつかぬ感情を根こそぎに払はらいのけて、自分でも不思議なほど、どっしりとした落ちつきが、一日ごとに私の生活の上にあらわれていた。 三月下旬だったか、ある日の夕方、私は、私の疎開地である伊東の漁りょ師うし街まちに住む鈴木福男という青年の来らい訪ほうをうけた。雨の日だったことをハッキリおぼえている。彼は私の出てくるニュース映画を街の映画館で見たことを報ほう告こくに来たのである。 当時の私は、慢まん性せい胃潰瘍のために、見るかげもなく痩やせおとろえてしまっているし、それがために一日の大半は胃の幽門部に鈍どん痛つうをおぼえ、それが、しばらくつづいたと思うと、こんどは濡れ手拭をしぼりあげるような急きゅ激うげきな痛みに変ってくる。頬ほおはこけ、眼の下にふかいたるみが出来た上に、皮膚の色はどす黒く濁にごっていた。鏡を見るごとに味あじ気きなさが身に沁しみるようである。十六貫あった体重が、やっと十貫そこそこになり、少し風のつよい日に川ぞいの道を歩いていると、うしろから吹きつける風に煽あおられて身体ぐるみ宙ちゅうに浮いたまま、二三歩前へよろけてから、やっと踏ふみとどまる癖くせがついてしまった。 私は、鈴木君からニュース映画のはなしをきいて、おそらく自分の顔かおが写真にうつるのもこれが最さい後ごであろうと思った。それに、明日になったら妊娠中の女房を入院させようと思って準じゅ備んびしていた矢先だったので、私は女房をつれて自分の出てくるニュース映画を見ようという気持になった。いよいよ自分の文学的生しょ涯うがいも、これで幕をとじたというかんじなのである。当時の私には、そういう誇こち張ょうした感情にも、ぬきさしならぬものがあった。 私は、東京にいる頃からそうだったが、まだ女房と二人で映画を見たということは一ぺんもない。 それが追放令をうけとった直ちょ後くご、自分の出てくるニュース映画を見ようというのであるから感かん激げきは一層ふかい。鈴木君が帰ると私たちは傘かさをさして、ゆっくりゆっくり川ぞいの道を歩きながら街へ出た。女房の腹は、もうあと一週間で出産というところまで来ている。街の産さん婆ばたちは、みんな生れるのは女の子にちがいないといっていた。 川ぞいの道を街へはいるまで、私たちは一つの傘の中にはいり、私はうしろから彼女の肩を抱かかえるようにして歩いた。何となく、うらぶれた思いでもあるが、夫婦の情じょ愛うあいというものをこれほどしみじみとかんじたことはない。 映画館に入ると、私たちはいちばん隅すみの空席に腰をおろした。戦争前につくられた志賀直なお哉や原作の﹃赤あか西にし蠣かき太た﹄という時代物が終ったところである。使い古してすりきれたフィルムの動きまでが、うらぶれた自分の姿すがたにふさわしい。 それから、すぐニュース映画がはじまった。最初は宮城前の広場を進駐軍の兵隊が駈かけ足あしをしている写真が映り、それが海岸の風景に変ったとき、私が煙草を喫すうために下を向いて、マッチに火をつけようとすると、横にいた女房が、 ﹁あっ、丹に羽わさん﹂ と早口にいった。慌あわてて顔をあげた私の眼に、大きな建築の入口の階かい段だんらしいところを急ぎ足におりてゆく着物を着た男のうしろ姿が映った。動きが早すぎるので、それが丹羽文雄君だというかんじはしなかったが、画がめ面んが変ると、こんどは広い屋やし敷きの庭先きがうつり、スプリングコートを着て帽子をかぶった男の姿が、私の視し野やをかすめたと見るまに、こんどは広い縁えん側がわを前にして机の前に坐すわっている別の男の姿がうかびあがった。 その男が顔をあげると火野葦あし平へい君である。そこへ庭先きから入ってきた男が、縁側に腰をおろし、急いで帽子をとった。それが、自分であると気がついたのはスクリーンの人物の幻げん像ぞうが消え去ってからである。とたんに、トーキーの声こえが追いかけるようにひびいてきた。﹁かつて、はなやかなりし彼等も今や追われる身の上となったのであります﹂ 私は暗い観かん覧らん席せきで苦笑いをうかべた。その晩から女房の容よう態だいが変ってきた。赤ん坊がうまれることは、もはや絶対の運命である。もし、順じゅ調んちょうに胎たい児じがうまれたとすれば、男か女かよくわからないにしても、子供が十歳になるときに私は早くも六十である。あと十年、この身体が保たもてるかどうか。おそらく私は生きてはいまい。私は、ときどき灰色の雲の低く垂たれ下った川岸に、ちゃんちゃんこを風に吹かせながら、うしろ向きに立っている子供の姿を幻げん覚かくの中にハッキリ見るようになっていた。生命の河である。運命の限げん界かいがそこにあり、そのひとすじの河によって遮さえぎられた人生の行手には唯、際さい涯がいもなくひろがる無があるだけである。奇きせ蹟き
出産期が近づくにつれて私は次第に緊きん張ちょうしてきた。 五月八日の夜である。窓をあけると黒く淀よどんだ月が空にうかんで、青葉の色がうすい靄もやの中にぼうっとひろがっている。それで、ああ今夜は金きん環かん蝕しょくだったということに気がついた。そこへ、隣となりの井田邸から若い女中さんがやってきた。いま病院から電話があって今夜あたりらしいから来てくれという知らせがあったというのである。私は寝ている娘を起して留るす守ば番んをさせ、すぐ外がい套とうをひっかけて出ていった。F病院の表戸はもうしまっていたので私は裏うら口ぐちへまわり、足音を忍しのばせるようにして二階の病室へあがった。 産婦は仰向きに寝たまま、爽さわやかな顔をして眼を大きくひらいている。さっきまで立てつづけに陣じん痛つうが起って、F博士もやってきてくれたが、たぶん明日あたりだろうというので帰っていったばかりだというのである。 ﹁だけどね、私、妙みょうな夢を見ちゃったの﹂ と女房がいった。 ﹁夢なんか気にしない方がいいよ﹂ ﹁いや、それがね、おかしいじゃないの、うちのルビ︵猫の名︶がわたしの蒲ふと団んの上に乗っかっているの、しかし、よく見ると、やっぱりルビじゃないのよ、その猫が、みるみるうちに金色に光りだしてきたの、へんだなと思っているうちにその猫が、そのまま私の身体の中へはいってしまったのよ﹂ ﹁そうかい、おもしろい夢だな﹂ ﹁ところが、まだ、そのつづきがあるの、ハッと思って眼がさめると家政婦さんが枕まく元らもとに坐っていて、おくさん、あなたの頭が半分になりましたというんじゃないの、私、どきっとして慌てて頭へ手をあててみると頭はちゃんとあるのよ、ああよかったと思ったとたんに、こんどはほんとうに眼がさめたの﹂ その話を私は上うわの空そらで聴きながらも、しかし、妻の顔に、いささかの曇くもりもなく、眼の底に何か明るい影のゆらぐのを見た。明るいといえば部屋全体が何となくあかるい。しかし、彼女の様子を見ると、まだ一日二日後だろうという気がしたので家政婦に一切を頼んで、そのまま家へ帰った。帰るとすぐに冷酒を呷あおって眠ってしまった。その晩、一時を過ぎる頃である。私は玄関の格こう子し戸どのそとから呼びかける井田邸の女中さんの声に呼び起された。 ﹁あのね、唯今、病院からお電話がありまして﹂ 京都から来ている小娘のまさ子︵女中の名前︶さんの声は、かすかにふるえている。私はびくっとして跳はね起きた。 ﹁たったいま、お産れになったそうです、坊ぼっちゃんだそうで﹂ 私はすぐ寝ねま巻きの上から外套をひっかけて、すぐ外へとびだした。夢の中をうろついているような気持である。数時間前、妻から聞いた金きんの猫の話が、私の頭の中に甦よみがえってきた。さっき、病院に出かけるときには、ふかい闇につつまれていた堤てい防ぼうの上に、小さいランタンが幾つとなくゆれている。それが子供の出生に何かふかい関かん係けいがあるように思われてきた。 これは五月九日から鮎あゆ漁りょうが解禁になったので、遠くからやってきて釣場所の優ゆう先せん権けんを占めようとする人たちが夜中から待たい機きしているのである。狭い堤防は人の影でうずまっていた。仄ほのあかるい空の下に、若葉の色がキラキラと光って見える。うす靄に掩おおわれた青田のみずみずしさが眼に沁しみるようであった。歩きながら、私は何ものかに感謝しないではいられないような気持になってきた。天地万ばん象しょうが明るく、ゆたかなものにつつまれている。赤ん坊が生れるということさえ不思議であるのに、女の子だときめつけられていた胎たい児じが男であったということは、ますます意外であった。天が私の追放を憐あわれんで、赤ん坊の生れ出る寸前に男と女とをすり変えてしまったのではなかろうか。そんな気持がどこからともなくこみあげてきたほどである。 F病院の二階にも電でん燈とうがあかあかと輝いている。私は手術着のF博士に会った。 ﹁坊っちゃんで結けっ構こうでした、非常な安産でしたから御安心下さい﹂ 看護婦の顔も家政婦の顔も、あかるく輝いていた。妻は心持ち首を左に傾かたむけたまま、かすかな寝息を立てて眠っていたが、その横に、産れ出る女の赤ん坊のために用意してつくった友ゆう禅ぜん模様の小さい蒲ふと団んが敷いてあって、その中には、生れたばかりの男の赤ん坊が、これも真っ赤な着物を着て、しきりに口をもぐつかせながらジタバタやっている。その頭の上でゆれている絹きぬのようなうす毛を、じっと見つめているうちに私は涙がこみあげてきた。人間の判はん断だんでは及びもつかないような意い志しが、この奇蹟をつくりあげたのである。私はそう信じないではいられなかった。今や私の恐れることは、この奇蹟的な運命の中から忽こつ然ぜんとしてあらわれた赤ん坊が、そのまま忽然として消え去ってしまうということだけである。私にとっていちばん自信のないことは、この赤ん坊が自分の生命と、もっともふかい関係を保たもっていなければならない筈であるのに、それをしっかりと把はあ握くすることのできないことだけである。﹁瓢﹂と﹁俵﹂
数日間が夢のように過ぎてしまった。私は先ずこの赤ん坊に名前をつけねばならぬ。困ったことには、もう二三ヵ月前から女の子の名前だけは幾つも用意して、字じか劃くをしらべたり、姓名判断をしたりしていたが、男の赤ん坊の名前だけは何の持ち合せもなかった。 いろいろ考えぬいた揚句、私は﹁瓢ひょ士うじ﹂という文字を思いついた。 瓢は﹃人生劇場﹄の主人公である青あお成なり瓢ひょ吉うきちの﹁瓢﹂である。それに私の名前の﹁士﹂を加えて、﹁ひょうじ﹂と読ませるのだ。 しかし、いよいよ、そうひとりぎめをして役場にある当用漢字表を調べてみると、瓢の字は漢字制限で削さく除じょされていた。これが用いられないとなると、せめて読み方だけでも残しておこうという気になり、﹁ひょう﹂という言葉をたどって一つ一つ思いだしてゆくうちに、ふと﹁俵﹂という字がうかんできた。 俵︵タワラ︶ならば、おそらく何でもかんでも詰つめ込むために存在するものだから、先ず文字づらだけからいえば、成長しても私のような出でた鱈ら目めな生活をするような男にはなるまい。私は﹁俵士﹂と命名することに心できめた。 これで赤ん坊と私とのあいだに現げん実じつ生活のつながりが一つ生じたわけである。そうきめてから改めて漢和大辞典を引くと、﹁俵﹂の項目には、﹁ワカチアタエル﹂という解かい釈しゃくがついている。意味はただそれだけで、詰め込むという語ご義ぎはどこにもなかった。 しかし、そうだとすると、いよいよ俵という字には複ふく雑ざつな感情が、からみついてくる。﹁ワカチアタエル﹂のだから、こいつは愛あい嬌きょうをふりまくことにもなるし、能力や人情をわかちあたえることにもなるであろう。どっちにしても威いせ勢いのいい文字であることだけは確かである。私はそう自問自答すると、急に赤ん坊に対する肉体的な親しん近きん感かんをおぼえ、父親らしい厳げん粛しゅくな態度で話しかけたい気持になってきた。 子供の出生を祝いわう手紙は友達から幾つとなく届いていたが、その一通である吉川英治氏の手紙によって、私は金環蝕の意味をはじめて知った。 ﹁︵前略︶金環蝕は陰の極也。秒後は陽の一也。これは麒麟児かも知れないよ。折しも父君は追放とあり、何か瑞兆をかんじます。その吉報を逸早く小家に報ずるものもあり。はじめはまちがいだろうといってみたが本当とわかり大祝いしています。何としても一盞献じたい。ぜひお待ちする。御一泊はもちろん用意。大兄に月並なお世辞は云わない。当分赤ん坊をおぶっておれとの天意なるべしなどおもい、G発表︵追放令︶のせつは御無音に過ぎたれど、こんどはぜひ加※﹇#﹁餮﹂の﹁珍のつくり﹂に代えて﹁又﹂、U+4B38、138-13﹈なかるべからずです。本来お祝いに拝趨すべきところ小生一週一度ずつ阿佐ヶ谷の病院まで通いおり、その日にぶつかると半日虚しゅうする故、木刀先生にでもあらかじめ御連絡、あるいは御一電前日におたのみします。病院は延ばすから御任意の日に。﹂︵原文のまま︶ 金環蝕が五月八日であるから、九日の午前一時に生れた俵士は陰いんが終って陽ように移ろうとするとき、人生の第一歩を踏ふみだしたわけである。 その日から、私は俵士に対して私の感かん懐かいを書き残しておくことにした。私はこれに自ら﹃俵的日記﹄と名づけた。以下は第一日の記録である。 ﹁俵士よ。 この日記のような、手紙のような、考えようによっては小説でもあれば記きろ録くでもあるような文章は、お前が成長して一人前の男になり、もし、そのとき彼女︵妻と娘︶たちが生きていたとしたら、お前と母と姉を、お前が少しでも憐あわれんでやったり、感謝したりすることのできる年ねん齢れいに達したときに読ませようと思って書き綴っておくものである。お前が生れたのは昭和二十三年︵一九四八︶五月九日であった。父も母もお前の生れることを予よ期きしていなかった。それは十六年間、二人のあいだには子供の生れるような何の兆きざしもなく過してきたからである。母の腹が少しずつ大きくなってきたのは今年の春二月か三月頃だったが、私たちの家族は大たい抵てい三人で、まい晩、井田邸の風呂に入れてもらうことになっていたので、お前のお母さんのお腹が少しずつふくれてくるのが父である私にはよくわかった。私たちは、その腹の中に赤ん坊が入っていることを予よ期きすることができないほど小さかった。それが私たちを不安にさせ、口に出してこそいわなかったが、私たちは見えざる運うん命めいに対して、どんなに神経質になっていたか知れないくらいである。お前がうまれるときの一種の奇蹟的ともいうべき雰ふん囲い気きと状態については、このおぼえ書きのどこかの頁に、もっとくわしく書くときがあろうと思うが、お前こそは、天下から授かった子供であった。五月八日は金きん環かん蝕しょくで、お前の生れたのは九日の午前一時である。その前の晩、お前のお母さんが、金色の猫が胎たい中ちゅうに入るという夢を見た。このお伽とぎばなしのような出来事も、お前が立派に成長したときには、たのしい伝説の一つになるであろう。お前はそのはなしをお前の母と姉からもっと、こまごまときくがいい。金環蝕は陰の極で、秒びょ後うごは陽のはじめというのだから、お前は陰が極まって、陽にうつろうとするときに、呱こ々この声をあげたのだ。お父さんは、そのとき敗戦の余波をうけて追放され、文筆業者として自由に活動する機きか会いを封じられていた。自然の運うん行こうも陰の極であったが、お父さんの生活もまた陰の極であった。正しい意味において、お父さんの三十年にわたる文学的生しょ涯うがいは、此処に幕をとじたということにもなろう。お父さんの業ぎょ績うせきはすべて文学史の外へ置き忘れられねばならぬような結果になってしまったのだ。そういう環かん境きょうがいかにもどかしく、悲しく、憤いきどおろしいものであるかということを、お前は充分理りか解いするであろう。お父さんの存在はジャーナリズムによって、ことごとく遮しゃ断だんされた。唯、生きていることだけが辛かろうじてゆるされたことの全部であるといってもいい。考えようによっては男子の本ほん懐かいでもあるが、お父さんは、この難なん境きょうに突き落されることによって発はっ奮ぷんした。これからの生活は唯、愛するもののために生きのびるというだけのことである。そこへ、お前がひょっこり生れ出たことによって、運命的な感情に支しは配いされていたお父さんの生活は急に生いき甲が斐いのあるものに変ってきた。お父さんがお前のために生きるのではない。お父さんはお前によって生きる道をひらいたのだ。五月九日の朝、この街まち中なかにある藤井病院の産室で、死んだようにぐったりと眠っているお母さんの横に小さい蒲ふと団んが敷いてあって、そこに天てん使しのような小さな赤ん坊が、まったく両肩には羽がついているように見えた。その赤ん坊が、すやすやと眠っている。荘そう厳ごんで、しずかで、その赤ん坊のうつくしさは、底にふかい輝きを忍ばせて澄すみきっていた。まもなく私はお前が眼をあけるのを見た。眼は大きく、人間の感覚では及びもつかぬような遠くをじっと見つめているような落ちつきと安らかさをもっていた。お父さんの生活は生せい彩さいと喜びにみちみちている。どのような邪じゃ悪あくと難苦にも抵てい抗こうして、堂々と歩いてゆける自信がお父さんの心の底から湧わきあがってきた。お母さんが夢に見たという金の猫の童どう話わは、それから数日間、つぎつぎと起る出来事によって補ほせ正いされ、次第に一つのかたちを整えてきた﹂親馬鹿入堂
このような境きょ遇うぐうと環境の中にあって私の親馬鹿が徐じょ々じょに、そして確実な経験と径路を辿たどって完成されていったことは、もはや説明の必要もあるまい。
俵士はいつのまにか二つになり、三つになり、四つになった。四つになる頃には、やっと父親の存在を意いし識きしてきたらしく、ある晩、東京から久しぶりで訪たずねてきた友人と街で飲みあかし、あくる朝、帰ってくると、すぐ胃が痛みだし、嘔はき気けを催したので、女房に古新聞と洗面器を持って来させ、畳の上に腹はら這ばいになったまま、苦しまぎれに、げいげいやっていると、肩のあたりに、やわらかい感かん触しょくをおぼえ、ふわりとした弾力体がぐっとのしかかってきた。
﹁お父ちゃん﹂
と、耳元でささやく舌足らずの声が、かぼそく私の脳のう天てんに沁しみとおってきたのである。
﹁俵ひょ的うてきですよ、俵的が来ましたよ﹂
いつもは、俵的と呼ばれることをいやがる上に、母親以外の誰れの手にも抱かれようとしなかったやつが、ひと晩、うちをあけたので、すっかり不ふき機げ嫌んになっている母親の代りに父親の肩によりすがろうとする大人びた仕しぐ草さが、よしんばそのときかぎりの偶然の思いつきであったとしても、私の心には犇ひし々ひしと迫るものがあった。もちろん生せい態たいの変化には何の脈みゃ絡くらくもなく、どこか間がぬけたところがあるかと思うと、まるで子供とは思われぬような、だしぬけに一変する微びみ妙ょうな神経の動きにドギマギすることがあった。
その俵的が、自じか家ちゅ中うど毒くで入院したのは四つの年︵昭和二十六年︶の十月の末だった。東京から疎そか開いしてきたまま伊東に居ついているI小児科の院長は急いで注射したあとで、﹁六十パーセントまでは大丈夫ですが﹂といった。一度呼吸がとまったのを、やっと連れん続ぞく的てきな注射で息を吹きかえしたのである。夜中の入院のために家じゅう大さわぎだった。その晩ばん、俵的と女房だけを病院に残し、私は家へ帰ると台所から冷酒の入った一升しょう罎びんを持ってきて机の上におき、コップで、ぐいぐいと呷あおった。おそらく俵的の生命が持ちこたえられるかどうかということは、こん夜ひと晩を境さかいにしてきまるであろう。私は四年間、あの小さい生命だけをたよりに生きてきた。俵的のいない人生なぞは考えてみたこともない。私の部屋にはN氏が俵士の出生祝いに持ってきてくれた中なか江えち兆ょう民みんの書がかかっている。
﹁文章経国大業 不朽盛事﹂
という文字がその晩にかぎって何となく空々しく、遠いところへ外それてゆくように思われる。便所へゆくために暗い廊ろう下かを歩いてゆくと正面の帽子かけに、コール天の小さい俵的の帽子のかかっているのが眼についた。それが白い壁かべを背景にして、ふわりと宙にういているのが哀れで痛ましく、急いで便所の電燈のスイッチをひねり、扉ドアをあけると、そこに、いつも見馴れた俵的の小さい、碁ごば盤んじ縞まをうかべたスリッパのおいてあるのが眼についた。私は胸を衝つかれる思いで書しょ斎さいへひっかえしてきたが、今夜ひと晩というかんじに駆かりたてられると、もう、じっとしてはいられなくなってきた。そのまま、音のしないように表の戸をあけて外へ出た。もう時間は一時を過ぎていたが、川ぞいの道にさしかかると土手の片側をうずめている萩はぎの花が闇の中でふるえるようにゆれている。それが、ぼうっと私の瞳ひとみに映うつった。四五日前、俵的と二人で川岸の通りを歩いて、こわれかけた石いし垣がきの上へ二人がならんで腰をおろしたときのことが、しきりに思いだされてくる。
何気ない、平へい凡ぼんな、ひとときではあったけれども、しかし私は、あのような愛情のほのぼのとくすぶるような哀あい感かんにおそわれたことがなかった。あのとき、底の浅い流れの上に紺こん碧ぺきの空にうかぶ白い雲のかげが映っていた。楽しかった四年間の生活が、あの閑のどかな、ひそやかな風景の中にたたみこまれているのだと思うと、今は運命に対する憤いきどおりもなければ、居ても立ってもいられぬような焦しょ躁うそ感うかんもなく、唯、愛情を傾けつくした四年間の、愛情に悔くいのない楽しい生活の記憶だけが、むしろ会う人ごとに感かん謝しゃしたい思いで、一つ一つ、くっきりとうかびあがってくる。
道の行きどまりに小さな祠ほこらがあった。いつもは、その前を何べん通りすぎても、特に気をとめて見たこともない。しかし、私はその前にひざまずいて伏ふし拝おがんだ。本体が何だかわからぬ神様であるが、そんなことはどうでもよかった。私は心をこめて祈った。もし自分の生命を振りかえることができるならばいつなんどき召しあげられたところでいささかも悔くやむところはない。私は必死である。
あとで聞くと、その神社は、近頃出来たばかりで、まだ本体は入っていないということがわかったが、私にとっては、そんなことはどうでもよかった。家へ帰ると、やっと落ちついた気持で、ぐっすり眠ってしまった。夜あけがた、病院から妻の電話で、私はやっと俵的が二回の輸ゆけ血つによって体力を持ちなおしたことを知った。
一月ちかく入院していた俵的はやっと退院したが、翌あくる年の秋になると、また同じ兆ちょ候うこうがあらわれて入院した。それが次第に健康を恢かい復ふくしてきたのは六つになってからである。俵的は、名前にふさわしい、どこか、とぼけたところのある、ひょうきんな子供になった。ある日、茶の間で、若い友人たちがあつまって話をしているとき、うしろの断だん崕がいの上に二本ならんでいる大きな木のことが問題になり、一本は欅けやきであるが、もう一本は何だろう。榎えのきのようでもあるし、楠くすの木のようでもあるが、といって話しあっていると、畳の上に寝そべって、紙の上に絵をかいていた俵的が、むくむくと起きあがったと思うと、
﹁あれはオザ木︵尾崎︶だよ﹂
といったので、みんな笑いだしてしまった。そのあとで、四国の県けんのことが話わだ題いにのぼり、徳島県に高知県、香川県、――それから何だったっけな、と、愛えひ媛め県を忘れた男が、ええ、といって考え込むような恰かっ好こうをしていると、俵的が真しん剣けんな顔をして、
﹁それは小川ケン︵軒︶だよ﹂
と自じし信んにみちた声で答えた。小川軒は新橋駅前にある私の古い馴なじ染みのレストランの名前である。同じ日に、手てそ相うの話が出て、手相があるくらいだから足にだって相のないことはあるまいと誰かがいうと、ほかの一人がすぐ足た袋びをぬいで自分の足の裏を眺めながら、この太い線は何かな、手相なら運うん命めい線せんというところだがと、ひとりごとのように呟つぶやくのをきいた俵的が、
﹁伊東線だよ﹂
といったので、みんな返す言葉もなく、どっと笑いだしてしまった。俵的は落らく語ごというものを実際には一ぺんもきいたことがないにもかかわらず、ラジオの落語をきいてから落語がすっかり好きになって、いつのまにか言葉つきの真ま似ねをするようになっている。今年は小学校へ入学する筈はずであるが、数字はやっと十一までしか数えられず、ひら仮か名なで、自分の名前を書くことがやっとこさである。その成長ぶりを、にやにやしながら眺ながめている私の親馬鹿は今やまったく堂に入ったというべきであるかも知れぬ。私は真の愛情こそ、絶ぜっ対たいの批判の上に成立つものだと思っている。この愛情の鞭むちが、大きく唸うなりを生じて俵的の頭の上に鳴りひびくのも遠いことではあるまい。私は親馬鹿の境地に安あん住じゅうし、親馬鹿であることに多少の誇ほこりさえもかんじている。親馬鹿の記録は日を逐おうてつづいてゆくであろう。私は自分の感情の枠わくにはめて子供を育てようなぞとは思ってはいない。唯、金環蝕が終って陽ようのはじまるときに生をうけた子供が、五月の微びふ風うにそよぐ若葉の色しき彩さいの中に、すくすくと伸びてゆくことを祈いのるのみである。