私は、子供の頃から薩さつ摩ま琵び琶わが好きだったので、大きくなってから自分で弾奏をやりながら歌ったこともある。もちろん、音おん痴ちの私が、うたうことのうまい道理はないが、三十をすぎてから、偶然の動機で、正派薩摩琵琶の師匠と知り合い、正派の豪壮な階調が、ことごとく文章、特に語呂の呼吸と物語の筋の一致しているところにあると思った。 薩摩正派の基点となるべきものは、宿命の悲哀を直接に、肉体にぶっつけてゆく一種の迫力であるが、歌詞の大部分が、﹃平家物語﹄に取材していることに私は最初、奇異の感じを懐いた。 しかし、後になって、私の想像は、むしろ逆であって、﹃平家物語﹄の骨子となるべきものが、琵琶によって語りつたえられていったと解釈する方が正しいように思われる。﹃平家物語﹄が、日本の国民的叙事詩として、中世期文化の伝統をつらぬく大作品であることはいうまでもないが、一体このような計画と構成を、誰がやったかということになると誰れひとり明確な判断を下し得るものはあるまい。 一般的には、この作者は、信しな濃のの前ぜん司じゆ行きな長がとされているが、感情の累積による物語の構成は、それが、ただ、雄大だとか複雑だとかいうだけではなく、流動形式の自在奔ほん放ぽうなことは、到底一人や二人の人間の協力によってやり果せることのできるような仕事ではないことを思わせる。 おそらく、最初の立案者と執筆者は行長であっても、その後、作品の中の、特に感動的であって、律動的な文格を保つ部分が、琵琶法師によってうたわれてゆくうちに、これを聞いた平家の残党や、その当時の実情を知る人たちが、ひとりでにあつまってきて、やれ、此処はまちがっている、あそこはああすべきだといって、徐々に修正補足されていったものではあるまいか。私の琵琶の師匠は、﹁千手の前﹂と﹁大原御幸﹂を、もっとも得意としていたようであり、私もまた特に﹁千手の前﹂に、魅力をかんじていた。 私は、日本の物語の中で、これほど、庶民の心をゆすぶり動かすような悲しい物語はあるまいと思っている。特に、平家の公達が、大部分生け捕りとなって、半歳前まで、そこに栄耀のかぎりをつくして数々の思い出を残している京都の街を、さらし者にされながら、引き廻される姿ほど世に哀れなものがあろうか。 もちろん、﹃平家物語﹄は、完璧といっていいほど首尾一貫した形式を備えた叙事詩であるが、その物語的内容の深さにおいては古今無類であるといってもいい。もし、これを適当に翻訳することが出来るとしたら、ただ、日本の古典文学としてだけではなく、東洋文学の代表作として世界的な地位を占めるのではあるまいか。その表現の簡潔さと、律動的な文脈の高さにおいて、﹃平家物語﹄は今日においてさえ新鮮さを保っている。この作品は冒頭の序詞において暗示されているがごとく、人間の宿命を宗教と一致させてゆくところに独自の方向と認識を持っているもののように思われるが、しかし、物語の中にあらわれた人間関係、特に権力と寺院、戦争と天変地異に応対する庶民感情の動きに重点のおかれていることはいうまでもあるまい。それが、中世期日本の精神的要素を明らかにした意味において、雄大な風俗史であることの重要さを示すことはもちろんである。 私は、﹃平家物語﹄の完全な口語訳を形成することよりも、むしろ、主観的な立場において、平家琵琶の歌詞につながる俗説に基いて、誰にもわかるような物語を組み立ててゆくことにおいて意図を果そうと試みたのである。あらゆる部分にわたって不満は非常に多いが、しかし、これが機縁となって、﹃平家物語﹄の原本を読もうとする人が出てくれば私の希望は半ば達せられたといってもいい。
昭和三十五年新春
尾崎士郎