円光

或は“An Essay on Love and Art.”

佐藤春夫




 
 No, not happiness; certainly not happiness! Pleasure. One must always set one's heart upon the most tragic.
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 便退
 
 
……予は貴下の揮毫を切望するものに有之候、それは貴下の夫人の肖像をに御座候、然も極めて厳密に写実的に……
 何だ前の文句と一字も違はないと読み手は思ふ、書いた方で前の文句を忘れて居ないと同様に読む方でも前の文句を一句残らず暗誦して居たのだから直ぐ解つた。
……恐らく貴下が新しき家庭は、
おや、これは初めての文句だぞ、
――恐らく貴下が新しき家庭は、光りと香りとの充ち漂ふ幸福の王城に相違なからんと信じ申し候、またそは甚だ希はしきことに有之候。
 当然さ、それが何んだ。彼は憤しげに心臓のなかで呟いて後を急いだ。
――然れども、
今度は心臓が頭の頂上で皷動する、
――然れども、茲に貴下の注意を喚起いたしたき儀の有之候。
ぐつと唾のかたまりを嚥み下したが、そのお影であとを寧ろ沈着に一息に読みつゞけた。
――然れども茲に貴下の注意を喚起いたしたき儀の有之候。即ち貴下が幸福の王城の礎には一個残忍なる人柱の呻きつゝ立られたるを指すなり。蓋し、その呻きは呻く者自らを外にしては恐く既に業に何人よりも聞き忘れられ候ことならんと心得居り候。如斯予の支払ひたる犠牲に対する報ひとして、一枚の画像は敢て貴下にとりて高価に非ざるを予は疑はず。尚、余儀なく賤劣なる一句をも加へんか若し貴下にして快しとさへせらるゝならば予は予の貧しき財嚢をも傾けて流俗の謝意をも表すべく候。擱筆に臨みて申上げたきは、前後両回に及ぶ予の手紙は極めて礼を失したるものなりしは明かなるも、之が為め決して決して貴下が心の平和の乱れ給はざりしを予は信ぜんとする者に御座候、いかにと申すに曾て二十数度予が見ることを得たる幸福なる機会の鮮かなる記憶に従へば彼の女――令夫人の高潔なる風貌は、かゝる場合貴下が予に対して抱かるべき厭はしき必然的の疑ひを沈黙のうちにさへ釈然たらしむるの権威あるものなるを予は心私に思ひ候へばなり。早々不宣。
 鹿

 
 

 
 
 
 

 
  Pax 姿
 
 鴿

 
 
 
 退
 


 
 
――貴下が稀有なる御好意に対しては、予涙を以て之を感謝し宝玉よりも深く心に保存いたすべく候。乍併、貴下の作品は悲しくも、不幸にも、予は之を保存いたし難く候。忌憚なく申上ぐれば、貴下の作品は最初予をして憤らしめ、次に疑はしめ、最後に恐怖せしめ申候。予は最初これを瞥見するや、貴下が恵まるゝに令夫人に非ざる別人の画像を以てして、予を欺弄せられんとする所為ならんとのみ思ひ候ひぬ。然も貴作に就て考察すること二日、凝視すること十数時の後、初めてその然らざるを知り申し候。そは専ら貴作が構図の輪廓に憑る。若し貴作より唯一つボツチチヱリが Magnificat のマドンナと略相似たる姿勢を発見せざりせば、恐らく予がこの二日間の苦心は徒爾なりしなるべし。吁、誰か醜悪如斯画面を見て、彼の女が肖像なりと信ずべき者の候べき。殊にその唇の野卑は何ぞや。乍併、予の疑念は単にかゝる一細部に留まらず候。敢て問ふ貴下は可なり忠実なる写実なりと申し乍ら、終に彼の女が頭を囲繞する円光に就て描き給ふところなきは何ぞ。暫く予をして追懐せしめ給へ予の彼の女が頭の上一尺を距てゝ径一尺四寸ほどの円光を戴けるをかすかに発見したるは、予が彼の女を見ることを得たる第一の――これらの事件に於ける最も幸福にして、一面最も不幸なる最初の機会に於ける最初の瞬間にて候ひき。後見ること度を重ねて、然も見失ふことなきのみならず、円光は益々鮮やかに虹よりも更に美しく目に映りて、然も虹のごとく消ゆるものには非ざりき。予はすべて伝説を信ずるものに有之候が一伝説に従へば、マグダラの婦人マリアは、土の下に腐り果てつゝあるべき一個の尸をさへ、光を放つて昇天する像に見たりと申され居り候。況んや、予が彼の頭上に円光を見たる事実を、貴下は勿論非議せらるまじく候。然るに吁貴下の描かるゝ彼の女にはこの円光なりと思惟せらる可きものゝ跡さへなく、但、大いなる丸髷の怪しく美しきある而已、貴下果して円光を見ざるか。然らば、貴下は彼の女を所有する値無之候。愛の値は無限なり。能く最も無限なる値を払ふ者のみ愛の王たる可く候。附言す愛にありては王はまた奴僕を兼ぬ。却説或はまた貴下が所有するに及びて彼の女の頭辺より円光は忽然失はれて、予が目を以てするも之を見るべからざるに至れるか。これを事実とすれば、貴下の罪は更に更に怖るべきものに有之候。されど予は見えざる円光及び失はれたる円光を思はざらんと努むべく候。貴下の円光を描かれざりしは見えざるには非ず、失はれたるには非ずして、貴下の芸術上の謬見に起因せしものなりとのみ予は信ずべく候。斯く独断し置くに非ざれば予は苦しく怖ろしきに不堪候へばなり。兎にも角にも貴作は予の書斎に掲ぐるには適せず、予は貴下の御好意を深謝致しながら、事実に於て貴下の御好意を亨け得ざるの苦境に置かれ申し候。実に幾度か思ひ返して貴作を手許に留め置かんと苦慮致し候ひけん。されども何分年久しき間には貴下の芸術が予の現実を圧倒して、終には予が記憶にかくまで鮮に残る円光燦然たる彼の女をすら、卑俗化し了るやも知れぬことの此上なく恐ろしくて、さては余儀なく無礼を忍んで貴作を御返却いたす儀に御座候。この不合理の一大塊なる現世にては、善きものは常に美しくして脆く、得て悪しく感化され勝ちに御座候。抑もまた男女の……
 
  











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An Essay on Love and Art.


2023320

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