魔法博士
このふしぎなお話は、まず小学校六年生の天あま野のゆ勇うい一ち君という少年の、まわりにおこった出来事からはじまります。 その出来事というのは、一つはたいへんゆかいな、おもしろくてたまらないようなこと、もう一つは、なんだかゾーッとするような、えたいのしれないおそろしいことでした。 ある春の日曜日、天野勇一君は、おうちのそばの広っぱで、野球をして遊んでいました。場所は東京の世せた田が谷や区の、ある屋敷町です。広いおうちのならんだ、屋敷町に、むかしながらに森のある八はち幡まんさまのお社やしろがのこっていて、その前に野球のできるような広っぱがあるのです。 天野君のキリン・チームは、十八対十五で敵のカンガルー・チームを破り、一戦をおわったので、みんながひとかたまりになって、ガヤガヤとおしゃべりをしているときでした。 ふと気がつくと、ひとりのふしぎな紳士が、勇一君のうしろに立ってニコニコ笑っていました。歳は五十ぐらいでしょうか。黒い洋服を着て、その上に、うすいラシャでできた、そでのヒラヒラする外がいとうをはおっています。オーバーではなくて、おとなの人が和服の上に着る外とうの、すそのほうを短くしたような形で、なんだか、大きなコウモリが、羽をヒラヒラさせているように見えるのです。 帽子をかぶっていないので、フサフサした頭の毛がよく見えますが、それがまた、ひどくかわっていました。この紳士のかみの毛は、もえるような黄色なのです。日本人にも赤毛の人はときどきありますが、こんな黄色いのは見たこともありません。しかも、ただ黄色いのではなくて、その中に、縞しまのように黒い毛がまじっています。黄色と黒のだんだらぞめ。言ってみれば、虎ネコの毛なみを思いださせるようなかみの毛、それを長くのばしてうしろへなでつけてあるのですが、油をつけてないので、フワフワして、風がふくたびに、こまかくゆれ動き、陽の光をうけて、まるで黄こが金ねのようにかがやくのです。 ふといべっこうぶちのメガネをかけ、その中に糸のようにほそい目が笑っています。ワシのように高くてだんだんになった鼻、その下に針のようにこわい口ひげが、ピンと両方にはねています。そのひげが、やっぱり黄色と黒のまだらなのです。口は大きくて、唇くちびるは紅べにでもぬったようにまっかです。 みんなが、このふしぎな紳士を、ビックリして見つめていますと、紳士はポケットに入れていた右手を出して、空中に輪をかくように、大きく動かしたと思うと、いままで何もなかった、その手の中に、一ひとたばのトランプの札ふだがあらわれました。 紳士はその十数枚のカードを、一枚一枚、ヒラヒラと地面におとし、すっかりおとしてしまって、手の中がからっぽになると、ニヤニヤ笑って、その手で、空中に大きな輪をえがきましたが、すると、ふしぎ、ふしぎ、またしても、一たばのカードが、手の中にあらわれたのです。紳士はそれを、まえとおなじように、ヒラヒラと地面におとしました。 紳士はニヤニヤ笑いながら、このふしぎなしぐさを、なん度となくくりかえしました。地面には、美しく色どられたトランプの札が、まるで秋の落ち葉のように、いちめんにちらばっているのです。 ﹁アハハハハハハハ、どうだね、キリン・チームとカンガルー・チームの少年諸君。カードはまだいくらでもわきだしてくるんだよ。だが、カードだけでは、つまらないかね。きみたちは、もっとほかのものを出してほしいのかね。﹂ 紳士は、そこではじめて、まっかな唇をひらき、大きな声で、こんなことを言いました。 ﹁ふしぎだなあ、それ、手品でしょう。﹂ ひとりの少年が、紳士を見あげて、言いますと、紳士はべつにおかしくもないのに、ワハハハハハハハと笑って、 ﹁まあ手品のようなものだ。しかし、世界中に、わしのような魔法使いは、ほかにいないのだよ。わしは手品師ではない。魔法博士だ。一つ諸君のほしそうなものを、空気の中から取りだしてみせるかな。ほら、いいかね、よく見ていたまえ。﹂ 紳士はそう言って、クルッと、一まわりしたかと思うと、その手には一本の新しいバットがにぎられていました。 ﹁さあ、これが優勝したキリン・チームの賞品だ。受けとってくれたまえ。﹂ 天野勇一君のとなりにいた少年がそれを受けとりますと、紳士はまたもや、つま先でクルッと、一まわり、マントのそでがヒラヒラとしたかと思うと、こんどは両手に、新しいミットが一つずつ、わきだしていました。 ﹁さあ、これは両チームに、なかよく一つずつだ。キリン・チームの主将、それからカンガルー・チームの主将、さあ取りに来たまえ。﹂ 少年たちは見知らぬ人から、こんなにいろいろなものをもらって、いいのかしらと、顔見合わせて、ためらっていましたが、紳士のすすめかたがうまいので、両チームとも、このりっぱなミットを受けとってしまいました。 ﹁おじさん、魔法博士ってほんとうかい。おじさんのうちはどこなの?﹂ 天野勇一君がたずねますと、紳士は黒いマントのそでをはばたくように、ヒラヒラさせ、ほそい目をいっそうほそくして、またカラカラと笑いました。 ﹁すぐそばだよ。ほら、ここからも見える、あの八幡さまの森の向こうに、煙突がヌッと出ている洋館さ。わしは一ひと月ほどまえに、あすこへひっこして来たんだよ。﹂ その洋館なら、少年たちはよく知っていました。赤レンガの古い建物で、スレートぶきの急な屋根から、やはりレンガでできた四角な暖炉の煙突がそびえている。いまどき、どこにも見られないような、うすきみの悪い、へんなうちなのです。 ﹁ヘエー、あの化けもの屋敷かい?﹂ だれかがとんきょうな声をたてました。 ﹁ワハハハハハハハ、あのうちは、近所で化けもの屋敷という、うわさがたっていたそうだね。だが、化けものなんかより、魔法博士のほうがうわてだからね。化けものは逃げだしてしまったよ。へんなうわさがたってだれも借り手がないと聞いたので、わしが借りて、すっかり手をいれて、りっぱなうちにしてしまった。そのうち、きみたちを招待するからね、見にくるといい。﹂ ﹁魔法の力で、空気の中から、いろいろなものを取りだして、かざりつけをしたのかい?﹂ だれかがそう言うと、少年たちのあいだに、ワッと笑い声がおこりました。紳士はマントのそでを、ヒラリとはばたかせて、手でそれを制しながら、 ﹁イヤ、笑うことはない。きみはうまいことを言った。そのとおりだよ。魔法の力で、かざりつけをしたのさ。だから、わしはあのうちをふしぎの国と名づけた。きみたちは、﹃ふしぎの国のアリス﹄という西洋の童話を知っているだろう。つまり、あれとおなじふしぎの国が、あの洋館の中にあるのだよ。﹂ 紳士はそう言って、またカラカラと笑いましたが、天野君は﹃ふしぎの国のアリス﹄を読んだことがあるので、いっそう、この魔法博士のうちが、見たくてたまらなくなりました。 黄金のように光るかみの毛、みょうな口ひげ、コウモリのような黒マント、そして、空気の中から、バットやミットを取りだして見せた、このふしぎな紳士、八幡さまの森の向こうに見えている、コケのはえた赤レンガの煙突、それだけでも、ここはふつうの世界ではなくて、いつのまにか、童話の国にかわっているのではないかと思われ、なんだか夢を見ているような気持ちになるのでした。 ﹁ぼく、おじさんのうち見たいなあ。いつ見せてくれる?﹂ 天野君は、思いきって、そうたずねてみました。すると、少年たちのあいだから、 ﹁ぼくも。﹂ ﹁ぼくも。﹂ ﹁ぼくも。﹂と、ふしぎの国見学の希望者が、たくさんあらわれ、みんなで、紳士のまわりをとりまいてしまいました。 ﹁よし、よし、諸君がそんなにわしの話を歓迎してくれたのは、光栄のいたりだな。だが、いまというわけにはいかない。きょうはまだ諸君とはじめてあったばかりだからね。もうすこし、おたがいに知りあってからにしよう。だいいち、諸君をだまってわしのうちにつれこんだりしては、きみたちのおとうさんやおかあさんに、しかられるからね。﹂ 紳士はそう言いながら、右手で空中に大きく輪をえがいたかと思うと、いつのまにか、指のあいだに、スポンジ・ボールが一つ、わきだしていました。 それを少年たちのほうへ、ヒョイと投げておいて、また輪をえがく、またスポンジ・ボールが一つ、それをなん度もくりかえして、紳士はとうとう六つのボールを空中から取りだしました。 ﹁さあ、なかよく、両チームで三つずつわけるんだよ。じゃあ、さようなら。また、あおうね。﹂ 言いすてて、魔法博士の大コウモリのような姿はひじょうな早さで、スーッと遠ざかっていき、見るまに、八幡さまの森の中に消えてしまいました。 これが、ゆかいなほうの出来事でした。つぎには、きみの悪い、おそろしいほうの出来事をしるします。透明妖怪
勇一君は、その日の晩ごはんの時に、魔法博士のことを、おとうさんに話しましたが、おとうさんは、 ﹁フーン、そんなへんな人が、あのうちへこして来たのかねえ。むろん奇術師だよ。バットやミットなんかは、そのダブダブのマントの中にかくしていたのさ。それが奇術の力で空中から取りだすように、見えたんだよ。おとうさんも、いつかその人と近づきになりたいもんだね。ひょっとしたら、有名な奇術師かもしれない。﹂ と興味ありげにおっしゃるのでした。 ﹁ぼく、そのふしぎの国っていうのが、見たくてしょうがないのですよ。﹂ ﹁ウン、おとうさんも見たいね。奇術師のことだから、どうせ、うちの中に、いろんなしかけがしてあって、まるで童話の国へでも行ったような気がするにちがいない。﹂ おとうさんも同意してくださったので、勇一君はいっそううれしくなり、それからというものは魔法博士のことばかり考えていましたが、どうしたわけか、その後、博士はいっこうに姿をあらわしません。待ちどおしくなって、あの古いレンガづくりの洋館の前へ、なんども行ってみましたが、いつも門の鉄の戸がピッタリしまっていて、まるで空家のように、シーンとしているのでした。 そして、三日ほどたった、ある夕方のことです。裏庭のほうからおかあさんのあわただしい声が聞こえて来ました。 ﹁勇ちゃん、勇ちゃん、ちょっと来てごらん。たいへんですよ。ウサギが二ひきとも、ぬすまれてしまった。﹂ 勇一君は裏の納な屋やの横に、鉄の網をはって、二ひきのウサギをかっていたのです。それがぬすまれたというのですから、びっくりして、そこへかけつけましたが、見ると、鉄の網は引きさかれ、柱はへしおれて、さんたんたるありさまです。だいじにしていた二ひきの白ウサギは、影も形もありません。そのうえ、かわいそうなことには、しきわらの上に、ポトポトと血のしたたったあとが残っているのです。 ﹁さっきなんだかおそろしい音がしたので、もしやと思って見に来たのよ。そうしたらこんな……。﹂ ﹁人間のしわざじゃありませんね。﹂ 勇一君は首をかしげながら、ひとりごとのように言いました。 ﹁そうよ。人間なら、こんなむちゃくちゃなこわしかたはしないわね。ちゃんとひらき戸がついているんですもの。どこかの、のらイヌがはいってきたのかもしれない。﹂ ﹁でも、おかあさん、どんな大きなイヌだって、このふとい柱をおったり、鉄の網をこんなにらんぼうに引きさいたりする力はありませんよ。﹂ ﹁じゃあ、人間でもイヌでもないとすると、いったい、なんだろうね。﹂ ふたりは、おびえたように、目を見あわせて、しばらく、だまっていました。 ﹁ねえ、おかあさん、これは、きちがいが、塀をのりこえて、はいって来たのかもしれませんよ。きちがいは、ばか力がありますからね。﹂ ﹁まあ、きみのわるい。でも、そんなきちがいが、このへんにいるという、うわさも聞かないけれど……。﹂ ふたりはなんだかこわくなって、そのまま、大いそぎで、うちの中へはいりました。そして、おとうさんが、会社からお帰りになるのを待って、このことをお話ししますと、おとうさんはお笑いになって、 ﹁きちがいだなんて、そりゃ勇一の考えすぎだよ。やっぱりのらイヌだろう。イヌだって、腹がへると、死にものぐるいの力を出すからね。﹂と、おっしゃって、この事件はそのままになってしまいました。 ところが、その晩です。じつになんとも説明のできない、きみの悪いことがおこったのは……。 その晩は、いやにむしあつかったので、勇一君は勉強部屋の窓をひらいたまま、テーブルに向かって本を読んでいたのですが、本の活字を追っている目のすみに、なんだか白いものが、チラッとうつりました。 オヤッと思って、窓の外を見ますと、まっくらな庭に、白いものが動いています。やみの中に、そのものの影がクッキリと白く浮きだしているので、すぐにウサギだということがわかりました。昼間ぬすまれたウサギの一ぴきにちがいありません。 それにしても、すばしっこいウサギが、どうしてあんなにノロノロ歩いているのでしょう。ああ、わかった。あと足がきかなくなっているのです。大けがをして、かんじんのあと足がだめになったので、みじかい前足だけで、からだをひきずるようにして、歩いているのです。 ﹁かわいそうに、早く助けてやらなくちゃあ。﹂ 勇一君は大いそぎで、座敷のほうのえんがわから、庭へおりて行きました。 星のないまっ暗な夜です。光といっては、勇一君の勉強部屋の窓から、電気スタンドのうすい光線がもれているばかりで、庭は手さぐりをしなければ、歩けないほどです。ただウサギの白いからだだけが、ハッキリ見えています。 勇一君のおうちの庭は、なかなか広くて大きな木が林のようにしげっていました。白ウサギはビッコをひきながら、その林の暗やみのほうへすすんで行くのです。 ﹁オイ、ルビーちゃん、そのほうへ行っちゃだめじゃないか。こっちへおいで、こっちへおいで。﹂ まっかな目が、ことに美しいので、ルビーちゃんという名がついていました。からだのかっこうが、どうもそのルビーちゃんのほうらしいので、勇一君はそう呼びながら、白いもののあとを追いました。 ウサギは、もう、木のしげみの中へ、はいりかけていましたが、ノロノロ歩いているので、追いつくのはわけはありません。勇一君はすぐにウサギのそばに近づき、両手を出して地面から、だきあげようとしました。 ところが、その時です。勇一君の手が、まだウサギにさわらないのに、ウサギはなにかほかのものに持ちあげられでもしたように、いきなりスーッと空中に浮きあがったではありませんか。 勇一君はあまりのふしぎさに声も出ません。まだこわいという気もおこりません。ただアッケにとられて、宙ちゅうにただよう白いものを、見つめているばかりでした。 ウサギは勇一君の胸のへんの高さまで浮きあがって、しばらく、前足をモガモガやっていましたが、やがて、じつにおそろしいことがおこりました。 とつぜん、ウサギの頭が見えなくなってしまったのです。からだだけが宙にのこって、首から上が、長い耳といっしょにもぎとられたように、なくなってしまったのです。 勇一君は、かなしばりにあったように身うごきができなくなって、宙に浮く、首のないウサギを見つめていました。 すると、つぎには、ウサギの前足と胸のへんが、何かにのみこまれたように消えうせ、しばらくすると、あと足のほうまで、すっかりなくなってしまいました。 そして、一ぴきの白ウサギが、勇一君の目の前で、完全に消えてしまったのです。 じつに、とほうもない想像ですが、庭のやみの中に、人間の目には見えない、透明な妖怪というようなものがいて、ウサギをつかみとって、頭からたべてしまったのではないでしょうか。 勇一君は、ふとそんなことを考えると、ゾーッと気が遠くなるほどの、こわさにおそわれました。どうしてうちの中へかけこんだのか、もう、むがむちゅうでした。 勇一君の知らせでおとうさんは、大きな懐中電灯を持って、庭へ飛びだしてゆかれました。そして、木のしげみの中を、くまなくさがしましたが、ウサギは影も形もありません。そればかりか、おそろしいことには、ちょうどウサギが消えたあたりの地面に血が流れ、草の葉をまっかにそめていました。 ﹁おや、これはなんだろう。﹂ おとうさんはビックリして、そこを電灯でてらしてごらんになりました。 血の流れているすぐそばに、一本の大きなマツの木があります。そのマツの幹の、地面から一メートルばかりのところに、ひどい傷がついているのです。十五センチ四方ほど木の皮がめくれ、白い木はだがあらわれて、それがおそろしいササクレになっています。 オノやなんかで、つけた傷ではありません。何か大きな歯車のようなもので、ムチャクチャに引っかいたというような、見るもむざんな傷あとです。 読者諸君、このマツの木の傷あとには、身の毛もよだつ秘密がかくされていたのです。それが、どんなおそろしい秘密であったかは、しばらくだれにもわかりません。勇一君のおとうさんも、まさかそこまでは考えおよびませんでした。小林少年
このぶきみな出来事と、勇一君の近くに魔法博士がひっこしてきたことと、なにか関係があるのでしょうか。あるのかもしれません。ないのかもしれません。それは、もっとあとにならなければ、わからないのです。 さて、魔法博士にはじめてあった、あの日曜日から六日のちの土曜日のことでした。勇一君は、学校の帰りに、ただひとり、わざわざまわり道をして、魔法博士の洋館の前を通りかかりました。 勇一君は、あれいらい、毎日のように、そうして洋館の前を通ってみるのですが、いつも、鉄の門がしめきってあって、赤レンガの建物の中にも、人がいるのか、いないのかわからないほど、しずかなので、ものたりなく思いながら、通りすぎてしまいました。 ところが、きょうは、その鉄の門がすっかりひらいていて、勇一君が通りかかると、中からだれか出て来たではありませんか。ハッと思って、よく見ると、わすれもしない、あのコウモリの、羽のような外とうを着た、魔法博士でした。歩くたびに、黄色と黒のダンダラになった長いかみの毛が、フワフワゆれて、大きなべっこうぶちのメガネがキラキラ光っています。 ﹁おじさん!﹂ 勇一君は、おもいきって、声をかけてみました。すると、魔法博士はこちらを向いて、ニコニコ笑いながら、 ﹁おお、キリン・チームの天野勇一君だね。ハハハハハハ、よく知っているだろう。きみの名まえは、あのとき、きみのお友だちから、ちゃんと聞いておいたんだよ。きみのうちも知っているよ。ほんとうのことを言うとね、わしは、これからきみのうちへ行って、おとうさんにお目にかかろうと思っているのさ。﹂ ﹁えッ、ぼくのおとうさんに? おじさんは、おとうさんに、何かご用があるんですか。﹂ ﹁いや、べつだん用というほどでもないがね、ほら、このあいだ、きみたちと約束しただろう。わしのうちの中にできている、ふしぎの国を見せてあげると言ったね。じつは、あすの日曜日に、このごろ知りあいになった少年諸君を、十二、三人、わしのうちへご招待しようというわけなのさ。それで、おとうさんや、おかあさんがたにも、いっしょにおいでくださるように、これから、みんなのうちへ、ごあいさつに行くところなんだよ。﹂ ﹁わあ、すてき。ぼく、おじさんのうちの中が見たくてしようがなかったんですよ。だから、毎日学校の帰りに、この前を通るんだけれど、いつも門がピッタリしまっていて……。﹂ ﹁ワハハハハハハハ、そりゃ、きのどくをしたね。あすは、じゅうぶんに見てもらうよ。魔法博士のふしぎの国は、じつにすばらしいからね。びっくりして、目をまわさないようにするんだね。﹂ ﹁ヘエー、そんなに、おどろくようなものがあるの?﹂ ﹁あるのないのって。ワハハハハハハ、いや、これは秘密、秘密。万事あすのおたのしみだよ。﹂ ふたりは、いつか洋館の前をはなれて、勇一君のおうちのほうへ、歩いていました。背が高くて、肩はばが広くて、ガッシリした魔法博士、猛獣のたてがみのようにフサフサした黄と黒のかみの毛、ヒラヒラするコウモリの羽のマント。それにならんで、博士の胸のへんまでしかない、小さな勇一君が、チョコチョコ走るようにして、ついて行きます。 ﹁おじさん、ぼく、お友だちをつれていっても、いいでしょうか。﹂ ﹁えッ、お友だちって? 学校の友だちかね。﹂ ﹁いいえ、ぼくのしんせきの人です。﹂ ﹁ふーん、やっぱり、きみのような子どもなんだろうね。﹂ ﹁ええ、子どもだけれど、ぼくより三つ大きいのです。小林芳よし雄おっていうんです。﹂ ﹁えッ、小林芳雄? はてな、聞いたような名だぞ。もしや、その人は、明あけ智ち探偵の助手の小林少年じゃあないのかね。﹂ ﹁ええ、そうです。おじさん、よく知ってるんですねえ。明智探偵にあったことがあるんですか?﹂ ﹁いや、あったことはないがね。新聞や本でよく知っているのさ。あの小林少年なら、わしのほうでもぜひ来てもらいたいね。小林少年のしんせきだとすれば、きみは明智探偵も知っているんだろう。なんだったら、明智さんもおまねきしたいものだが。﹂ ﹁明智先生は、いま病気で寝ているんです。﹂ ﹁どこが悪いんだね。﹂ ﹁ぼくもよく知らないけれど、もう二週間も寝ているんですって。そして、まだ熱がとれないんですって。﹂ ﹁ふうん、それはいけないね。だが、小林少年が来てくれるとはゆかいだ。きみは、このごろあったのかね。﹂ ﹁ええ、二、三日まえに。そして、おじさんのふしぎの国の話をしたらばね、小林さんは、ぜひ見たいって言うんです。もし、きみがさそわれたら、ぼくも呼んでくれって言っていました。ぼく、きっとそうするって、約束しちゃったんです。﹂ ﹁そりゃあ、よかった。じゃあ、きみのおとうさんにも、そのことを話しておこうね。﹂ やがて、ふたりは勇一君のおうちにつきましたが、つごうよく、おとうさんも会社からお帰りになっていたので、魔法博士は応接間に通されて、そこで、しばらくおとうさんと話をして帰りました。 勇一君のおとうさんは、あすの日曜日は、ほかに約束があって、ふしぎの国を、見に行けないけれども、小林少年が勇一君といっしょに行くのなら、すこしも心配することはないと考えられ、小林君とも電話でうちあわせをしたうえ、魔法博士に、子どもふたりだけでおじゃまさせるからと、お答えになったのでした。ふしぎな国
その日曜日の午後一時、小林少年は、電話で約束したとおり、勇一君のおうちへやって来ました。こんの洋服を着て、リンゴのようにつやつやした頬ほお、いつも元気な小林君でした。 二少年はすぐに、つれだって、魔法博士の洋館にいそぎました。鉄の門はひらかれていますが、まだ時間が早いせいか、ほかの少年たちの姿は見えません。 ふたりは門をはいって、玄関の石段をあがり、柱についているベルのボタンを押しました。すると、中から﹁どうぞおはいり。﹂という声がしたので、ドアをひらいて、はいりましたが、だれもいません。正面にもう一つドアがあります。しかし、だまってあけていいかどうかわからないので、モジモジしていますと、また中から声がひびいてきました。 ﹁そこのげた箱へクツを入れて、正面のドアから、はいってください。﹂ ふたりは言われるままに、クツをぬぎ、げた箱に入れて正面のドアをひらきました。そこはホールというのでしょう。広い板の間です。 そのホールへはいったかと思うと、ふたりは、いきなり頭をガンとやられでもしたように、アッと言ったまま、立ちすくんでしまいました。正面のかべいっぱいに、とほうもないお化けが笑っていたからです。 それは何千倍に大きくした魔法博士の顔でした。さしわたし一メートルもあるようなデッカイメガネの玉が二つ、その中に光っている、ほそいけれども、メガネの玉よりも長い目、小こや山まのような鼻、くさむらのような眉まゆ、例の黄と黒のダンダラのかみの毛は、部屋の天井にただよう、あやしい雲のようです。 正面のゆかから天井までが、一つの顔なのです。よくもこんなに、にせたものだと思うほど、魔法博士とソックリの顔なのです。それが、ほそいつり竿ざおを何十本もそろえたような口ひげを、左右にピンとのばして、ほら穴のような大きな口をあいて、笑っているのです。 ふたりの少年は、なんだかおそろしい夢でも見ているような気がして、しばらくはものも言えませんでしたが、よく見ているうちに、その顔はハリコのつくりもので、べつにおそろしいものではないことがわかってきました。 ﹁ワハハハハハハハ。﹂ どこからかギョッとするほど、大きな笑い声が、聞こえました。 ﹁きみたち、ビックリしているね。ワハハハハハハ、だが、こんなものにびっくりしちゃだめだよ。ここはまだ入り口なんだ。中にはもっと、ふしぎなものが待っている。﹂ たしかに魔法博士の声です。まさか、あのつくりものの大きな顔が、ものを言っているのではないでしょう。しかし、博士の姿はどこにも見えません。 ﹁どっかにラウド・スピーカーがあるんだよ。そして、ぼくたちに見えないような場所に、のぞき穴があって、博士はそこからのぞきながら、マイクロフォンに向かってしゃべっているんだよ。だから、あんな大きな声がするんだ。﹂ 小林君が、ソッと、勇一少年にささやきました。 ﹁きみたち、なにをグズグズしているんだね。早くはいって来たまえ。ウフフフフフフフ、入り口がわからないって言うのか。ほかに入り口なんかありゃしないよ。わしの口の中へはいるのだ。わしの口が、ふしぎの国の入り口だよ。﹂ わしの口というのは、つまり、つくりものの博士の顔の、ほら穴のような口のことです。その口が大きくひらいているので、しゃがんで、通れば、通れないこともありません。 口の中はまっ暗です。そこへはいって行くのは、なんだか怪物にのまれるようで、いやな気持ちでしたが、ほかに入り口がないとすれば、しかたがありません。ふたりは、ふとんのようなまっかな唇と、のこぎりの岩のような歯をまたいで、オズオズと巨人の口の中へはいって行きました。口の中は、せまい廊下のようなところです。ふたりは手を引きあって、かべにさわりながら、歩いて行きますと、まもなく、行きどまりになってしまいました。正面にも板かべがあって、すすむことができないのです。しかたがないので、入り口のほうへひきかえそうとしていますと、また、ラウド・スピーカーの声が、ひびいてきました。 ﹁その正面のかべをさぐってごらん。ドアのとってがある。それをひらいて、中へはいるんだよ。そして、中へはいったら、ドアは、かならず、もとのとおり、しめなくてはいけないよ。﹂ ふたりは、まるで催さい眠みん術じゅつでもかけられたように、夢ごこちで、言われるままに、ドアをひらいて、中にはいり、もとのようにそれをしめました。 すると、そこには、気でもちがったのではないかと思うような、ふしぎなことが、おこっていたのです。 おそろしい明かるさに、まず目がくらみました。目が光になれると、こんどは、ふたりのまわりに、何百人ともしれぬ少年の大群衆がひしめいているのに、きもをつぶしました。少年たちは、それぞれ、セーターやジャンパーを着ています。それが、学校の式場にでもあつまったように、四方八方、すきまもなく、ならんでいるのです。 読者諸君は、そんなバカなことがあるものかと思うでしょう。そのとおりです。魔法博士の洋館が、いくら広いといっても、何百人という少年がはいれる部屋なんか、あるはずがありません。では、戸をひらいて出たのは、建物の外だったのでしょうか。これは洋館の外の広っぱなのでしょうか。 広っぱならば、空が見えるはずです。小林少年と勇一君とは、そう思って頭の上を見ました。すると、あまりのふしぎさに、ふたりは目がクラクラッとして、たおれそうになりました。そこには青空がなかったばかりか、やっぱり何百人という少年が、さかさまになって、あるいは横だおしになって、天からふって来るように見えたのです。 いや、それだけではありません。ビックリして、見あげていた顔をふせて、足もとを見ますと、ハッとしたことには、足の下のゆか板がなくなっていました。そして、下のほうにも、何百人という少年がウジャウジャしているのです。ああ、いったい、これはどうしたというのでしょう。何百何千という少年のむれにかこまれて、宙にただよっているとしか考えられないのです。 こんなふうに書くと長いようですが、小林君と勇一少年が、このふしぎな群衆を見て、おどろいていたのは、ほんの二十秒ぐらいのあいだです。二十秒もたつと、すっかりなぞがとけてしまいました。そこは広っぱどころか、わずか一坪ほどの小さな部屋にすぎなかったのです。 読者諸君、おわかりですか。わずか一坪の部屋に、どうして、そんなにたくさんの少年がいたのでしょう。 二十秒ほどたったとき、まず、ふたりが気づいたのは、上下、左右、前後をヒシヒシとかこんでいる、何百人の顔が、みんな同じだということでした。いや、正しく言えば、ふたいろの顔でした。つまり、小林少年の顔と、勇一君の顔と、そのたったふたいろの顔が、数かぎりなく、ならんでいたのです。 自分とまったく同じ少年が、何百人もいて、それがウジャウジャと、まわりをとりかこんでいたのです。もうわかったでしょう……。それは八角形につくられた鏡の部屋だったのです。 八角形になったかべが、ぜんぶ鏡ではりつめられ、天井も鏡の板、ゆかもあついガラスの鏡、その小部屋は、どこにも鏡でないところはないのです。そして、天井とかべと床のすみずみに、小さいくぼみがあって、その中に一つずつ電灯がついていました。つまり十六個の電球が、四方八方からてらしているわけです。 なぞはとけましたが、でも何百人という自分の姿に、かこまれているのは、あまりいい気持ちではありません。手を動かすと、何百人が、いっぺんに手を動かします。ものを言うと、何百人の口が、いっぺんに動くのです。こんなきみの悪いことはありません。 ふたりは、早く鏡の部屋を出たいと思いました。しかし、どこが出口だかわかりません。はいって来たドアも、うちがわは、やはり鏡のかべになっているので、どれがドアだか、けんとうがつきません。どうしたらいいだろうと、マゴマゴしていますと、ちょうどそのとき、八角のかべの一つが、スーッと外へひらいて、そこに、魔法博士の顔がニコニコ笑っていました。あの千倍のお化けの顔ではありません。ほんものの魔法博士の顔です。黒こく魔術
﹁ワハハハハハハハ、おどろいたかい。ふしぎの国というのは、ざっとこんなものさ。まだおもしろいしかけはいろいろあるけれども、きょうはこのくらいにして、あとは、いよいよ本舞台の大魔術を、お目にかけよう。さあ、こちらへ出て来たまえ。﹂ ふたりは鏡の部屋を出て、魔法博士の前に立ちました。博士はきょうは、まっ白な服を着ています。エンビ服のように、しっぽのついた、白じゅすの上着、同じズボン、それから、肩にはおった、例のコウモリの羽のようなマントも、やはり、まっ白なラシャです。 小林少年が、おじぎをしますと、博士もかるく頭をさげて、 ﹁ああ、きみが有名な小林君ですね。きみの名探偵ぶりは、本で読んで、よく知っています。少年名探偵のご光こう来らいをかたじけなくしてわしも光栄ですよ。ワハハハハハハハハ。﹂ 博士は黄と黒のしまになったかみの毛をふりみだし、まっかな唇を思うさまひらいて、さもゆかいらしく笑いました。入り口の千倍の化けものの笑い顔と、ソックリです。 ﹁さて、これから、わしの大奇術をお目にかける。奇術といっても、手品師がやるような、ありふれたものではない。わしは魔法博士だからね。ナポレオンと同じように、わしの字じび引きには、不可能という文字はない。どんな大魔術をやるか、しばらく、その見物席に腰かけて待っていてくれたまえ。お客さんが、まだそろわないからね。わしは楽屋にはいって、準備をしなければならん。﹂ 博士はそう言って、舞台のうしろへ、姿を消しました。あとにのこったふたりは、見物席のイスに腰をおろし、大魔術の舞台というのをながめるのでした。 そこは十メートル四方ほどの大広間で、見物席には三十あまりもイスがならび、一方には一段高い舞台がしつらえてあります。しかし、ふつうの劇場などとちがって、ここの舞台はなんのかざりもない黒ずくめです。幕はありません。はじめから、舞台はまるだしになっています。背景には一面に黒布がはられ、舞台のゆかも、すっかり、おなじ黒布ではりつめてあります。つまり、全体が黒ひと色なのです。 見物席の窓はみなしまっていて、ちょうど映画館のように、黒いカーテンでおおわれています。ですから、太陽の光はすこしもささず、広間の中は夜のような感じです。見物席には電灯はありませんが、舞台の前の天井と、一段高くなった台の前とに、ズーッと電球がならんでいて、それが見物席のほうをてらしているので、なんだかキラキラして、まばゆいようです。 見物席には、勇一君たちよりもさきに、五、六人のおとなや子どもが来ていました。やがて、例の鏡の部屋から、つぎつぎとお客さんの姿があらわれました。博士の助手が出て来て、鏡の部屋のドアをひらいてやり、見物席に案内しています。お客の少年たちは、ひとりでくるのは、めずらしく、たいていは、おとうさんらしい人、にいさんらしい人とふたりづれでした。中にはおかあさんらしい女の人と、いっしょに来た少年もあります。 鏡の部屋を出てくる少年たちは、みなビックリしたような顔をしていました。よほどこわかったのか、まっさおになっているのもいます。また、やせがまんで、さも平気らしくゲラゲラ笑いながら、出て来るのもいます。 ﹁さあ、これで、きょうのお客さまは、すっかりそろいました。では、これから大魔術をはじめることにいたします。﹂ 助手がそう言って、舞台の奥に、姿を消したときには、かぞえてみると、お客の数は、おとうさんやおかあさんなどもあわせて、二十五人でした。 しばらくすると、舞台の上に、まっ白な服を着た魔法博士が立ちあらわれました。そして、見物席に向かって、うやうやしく一礼すると、エヘンとせきばらいをして、もったいぶった口調で、何かしゃべりはじめました。 ﹁みなさん、きょうは、ようこそおいでくださいました。鏡の部屋には、ちょっとビックリしたでしょう。しかし、あれは、ふしぎの国では、幼稚園ぐらいのところですよ。ほんとうにビックリするのは、これからです。わたしは、この舞台で、大魔術をお目にかける。手品や奇術ではありません。魔術ですよ。魔術には何百という種類がありますが、これからやるのは、そのうちのブラック・マジック、すなわち黒魔術というやつです。そこで、まずこてしらべとして、このなんにもない舞台に、諸君のビックリするようなものを、あらわしてお目にかける。では、はじめますよ。﹂ 博士はそう言っておいて、二、三歩あとにさがると、両手をグッと前に出して、舞台の空間を、二、三度、スーッとなでまわすような、しぐさをしました。 すると、どうでしょう。いままで何もなかった舞台の中央に、雨戸ほどの大きさの、一枚のトランプの札が、パッとあらわれたではありませんか。それは、ハートの女王で、もようも、ほんとうのトランプとすこしもちがいません。ただ、それが千倍に大きくなっているだけです。 博士は、空中に立っている大カードに近づくと、両手でそれを持ち、グルッと裏がえしにして見せました。裏もほんとうのトランプと同じもようです。そうして、しかけのないことを、あらためたうえ、またもとのように正面を向け、ヒョイと一歩あとにさがって、一つ手をたたきました。すると、どうでしょう。ハートの札のほうの女王さまが、いきなりニコニコ笑いだしたではありませんか。 ﹁オヤッ。﹂と思って、見つめていますと、女王さまは、トランプからぬけだすように、スーッと上半身を前にのりだし、両手を、ひろげて、見物席に向かって、にこやかにあいさつしました。 ああ、なんというあざやかな奇術でしょう。しかし、これだけならば、ふつうの奇術師にも、できないことではありません。読者諸君も、よくお考えになれば、そのやり方がわかるはずです。 ところが、博士はこれを、こてしらべだと言っています。ほんとうの大魔術はこれからなのです。いったい、どんな魔法を使おうというのでしょう。 何かおそろしいことが、おこるのではないでしょうか。魔法博士は、なんの目的で、こんな魔術の会をひらいたのか。ただ子どもたちをよろこばせるため? いや、いや、どうもそうではなさそうです。小林少年が、ちょうどこの会に来あわせたというのも、もしかしたら、博士がわざと、そうさせたのかもしれません……。では、なんのために?空中浮遊術
そのとき、魔法博士は、白いマントをコウモリの羽のようにヒラヒラさせながら、両手で空中をなでるしぐさをしますと、みるみる、その雨戸ほどもあるカードが、笑っている女王さまもろとも、空気の中へとけこむように、スーッと消えていってしまいました。 魔法博士の白い姿が、舞台のまん中に立ってうやうやしく一礼しました。 ﹁みなさん、おどろいていますね。ふしぎですか。ハハハ……。しかし、これぐらいのことでおどろいてはだめですよ。これはほんのこてしらべでふつうの手品師にだってできる奇術ですよ。あとで、種たね明あかしをして見せましょうね。﹂ 博士はそこで、ちょっとことばをきって、例の白いマントをヒラヒラさせ、ニコニコ笑いながら、つづけました。 ﹁さて、つぎの魔術ですが、これはわたしひとりではできません。みなさんのうちのだれかが、この舞台にのぼってくださらなければ、できないのです。エーと、天野勇一君、きみ、ちょっとここへあがってください。きみはこの中で、いちばんかわいい顔をしているし、なかなかかしこいし、それに、背の高さがちょうどいいですよ、さあ、ここへいらっしゃい。﹂ 見物席の前列にいた勇一君は、博士にまねかれても、すぐに立ちあがる気にはなれませんでした。なんだかきみが悪いのです。 ﹁ハハハ……、はずかしがっていますね。なあに、きみにへんなことをやらせるわけではありませんよ。いま助手がここへ一つの寝台を持ってきますからね。きみはその上に寝ていればいいのです。さあ、勇気を出して、ここへあがっていらっしゃい。﹂ 勇一君は、臆おく病びょ者うものと言われるのは、いやですから、思いきって、舞台にあがってみようと考えました。となりに腰かけている小林君に、目で相談しますと、小林君も、うなずいてくれましたので、いきおいよく、席を立って、舞台へあがって行きました。 すると、舞台の奥から、食堂のボーイのような、白いつめえり服を着たふたりの助手があらわれ、長イスのような、きれいな小がたの寝台を、つりだして、舞台のまん中におきました。その舞台は赤や青の美しいもようのある白いきれでおおわれ、それに銀色のふさがついて、寝台の足の上部をグルッととりまいています。ふさの下から見えている木の足も白くぬってあります。つまり、まっくろな背景の前に、その白い美しい寝台が夢のように、クッキリと浮きだして見えるのです。 ﹁勇一君、これを着てください。魔術というものは美しくなくては、いけないのでね。﹂ 魔法博士は、助手が持ってきた白絹の道化服のようなものを、勇一君の洋服の上から着せてしまいました。 ﹁ほう、よくにあう。かわいいぼっちゃんになったね。さあ、その美しい寝台の上に、横になってください。いま、わたしが魔法を使うと、きみは、おとぎ話のように、ふわりふわりと空中旅行ができるのですよ。﹂ 勇一君が、言われるままに、寝台の上に横になりますと、魔法博士は、その上におっかぶさるようにして、耳のそばに口をよせ、ボソボソと、なにごとかささやきました。勇一君は、ニッコリしながら、しきりにうなずいています。博士は、これからやる奇術の種を、そっと教えたのかもしれません。 見物席の少年たちは、いったいどんなことがはじまるのかと、目を皿のようにして、舞台を見つめています。 魔法博士は寝台の横に立って、正面を向くと、見物席に向かって、また、うやうやしく一礼しました。 ﹁さて、いよいよこれから、空中浮遊術という大魔術をお目にかける。ここに寝ている天野勇一少年のからだが、わたしの魔法によって、空気よりもかるくなる。そして、ふわふわと宙に浮きあがるのです。たのしい空中旅行をやるのです。だが、それだけではない。もっとおもしろいことがおこる。みなさんが、アッと言ったまま、口がふさがらないような、とほうもないことがおこるのです。では、これからはじめますよ。﹂ 口こう上じょうをおわると、魔法博士は寝台から二メートルほどはなれたところに立って、寝ている勇一君の顔を、ジーッと見つめました。まるで催眠術でもかけるように、いつまでもにらみつけているのです。 見物席の前列にいた小林少年は、博士の目が、まんまるになったのを見て、ギョッとしました。博士はいつも糸のようにほそい目をしていたからです、生まれつき、ほそい目だと思いこんでいたからです。それが、いまはカッと見ひらかれて、まんまるに見えるではありませんか。べっこうぶちの大きなメガネの玉の中が、目でいっぱいになっているのです。 催眠術をかけるときには、人間の目は、あんなおそろしい形になるのでしょうか。世間には、目の大きい人がたくさんあります。しかし、いまの博士の目は、ただ大きいだけではありません。なんだか人間の目とは思われないような、ふしぎな光をはなっているのです。 猛獣の目です。猛獣が、いまにもえものに飛びかかろうとするときの、あの身の毛もよだつ目のいろです。 小林君は、思わずイスから立ちあがろうとしました。そして、いきなり、舞台にかけあがって、﹁この奇術はよしてください!﹂とさけびたいほどに思いました。 ところが、小林君がそう思ったときには、博士の目は、いつのまにか、もとのようにほそくなっていました。猛獣の目はどこかへ消えてしまって、いつものやさしいほそい目にかわっていました。 ﹁それじゃあ、いまのは気のせいだったのかしら。メガネの玉が光って、あんなふうに見えたのかしら。﹂ 小林君は、立ちかけた腰をおろして、首をかしげました。しかし、なんだか胸がドキドキしてしかたがありません。ああ、いまにも、ゾッとするような、おそろしいことがおこるのではないでしょうか。宙に浮く首
寝台の上の勇一少年は、魔法博士の催眠術にかかったのか、目をとじて、ねむったように身うごきもしません。 博士は、寝台から二メートルほどはなれたところに立って、やはり勇一少年を見つめたまま、白コウモリのようなマントを、パッとひるがえして、両手をながくのばし、ヘビのように波うたせながら、空中を、上へ上へと、なであげるようなしぐさをつづけました。 すると、ああ、ごらんなさい。寝台の上の勇一君のからだが、寝たままの姿で、ジリリジリリと、宙に浮きあがってきたではありませんか。 勇一君のからだと寝台とのあいだが、もう二センチほどもひらきました。そして、そのひらきが、みるみる大きくなっていくのです。五センチ、十センチ、二十センチ、動くか動かないかわからぬほどの早さで、しかしすこしもやすまず、上へ上へとのぼって行きます。 まっ黒な背景の前に、勇一君の白い道化服の姿が、クッキリと浮きだして、なに一つ、ささえるものがない空中に、横に寝たままのかたちで、しずかに浮いています。なんという、ふしぎな光景でしょう。まるで夢でも見ているようです。 ところが、勇一君のからだが、寝台から一メートルもはなれたとき、とつぜん、おそろしいことがおこりました。勇一君の顔が、なくなってしまったのです。つまり、首から上が消えうせてしまったのです。白い服を着たからだばかりが、こわれた人形のように、宙に浮いているのです。 ハッとして見つめていますと、こんどは胸が消え、腹が消え、じゅんじゅんに消えていって、しまいにはひざから下だけになり、足くびだけになり、白いクツしたをはいた足くびが、しばらく、チョコンと空中にのこっていたかと思うと、やがて、それも消えて、なんにもなくなってしまいました。勇一君は、かんぜんに消えうせてしまったのです。 黒ひといろの舞台に、目に見えない、とほうもなく大きな怪物がいて、勇一君を頭から、グッグッとのみこんでしまった感じでした。 魔法博士は、さもおどろいた顔つきで、これをながめていましたが、勇一君が、まったく消えてしまうと、うろたえた身ぶりで、見物によびかけました。 ﹁さあ、たいへん。魔法がききすぎたのです。天野勇一君は、どこかべつの世界へ、飛びさってしまいました。もうこの世界には、いないのです。このままほうっておいては、勇一君のおとうさんやおかあさんに、もうしわけがない。よろしい。わたしがそのべつの世界へ、のりこんで行って、勇一君をつれもどすことにしましょう。では、みなさん、わたしも、しばらく、この世界から姿を消しますよ。﹂ そう言ったかと思うと、博士は、まずコウモリの羽のように白いマントのひもをといて、それをパッとなげすてました。それから、白いズボンも、クツしたもろとも、クルクルとぬいでしまいました。 すると、これはどうしたというのでしょう。ズホンの中は、なにもないからっぽではありませんか。足がないのです。ただ腹から上の胴体だけが、フワッと宙に浮いているのです。 博士はつぎに、白い上着とシャツをぬぎすてました。すると、こんどは胴体まで消えてしまったではありませんか。シャツの中も、からっぽだったのです。むろん手もありません。ただ首だけが宙に浮いて、ニヤニヤ笑っているのです。 ほんとうに﹃宙に浮く首﹄です。その首がスーッと、一メートルばかり、空中を横に動いたかと思うと、まるで火でも消えるように、見えなくなってしまいました。つまり、魔法博士はこの世から、まったく姿を消してしまったのです。 まっくらな舞台には、美しいかざりのある寝台が、ただ一つのこっているばかり、そのほかに目にはいるものは、なにもなくなってしまいました。 あまりのふしぎさに、見物席はシーンとしずまりかえって、せきをするものもありません。 いまに、べつの世界から帰って来たのだと言って、博士と勇一少年の姿が、どこからか、あらわれるにちがいない。 見物たちは、そう思って、じっと待っていました。 墓場の中のようなしずけさの中に、一分、二分、三分と、時間がたっていきました。しかし、舞台には、なにもあらわれません。ただ、まっ暗な空間が、やみ夜のように広がっているばかりです。 とつぜん、どこからともなく﹁ウォー、ウオオオ、ウオオオ。﹂と、見物たちを飛びあがらせるような、おそろしい音が聞こえて来ました。人間の声ではありません。動物の声です。猛獣のほえた声としか思われません。 見物たちはゾーッとして、たがいに顔を見あわせました。みな、まっさおになっています。背中に氷をあてられたような、なんとも言えぬぶきみさに、もう、からだがすくんでしまったのです。かべをはうもの
それから、また数分間たっても、舞台には、なにごともおこりません。見物たちは、もうがまんができなくなりました。 まっさきに立ちあがったのは、小林少年です。小林君は、つかつかと舞台のきわまで、近づいていきました。そして、いきなり、﹁勇一くーん、勇ちゃーん。﹂と大きな声で、呼びかけてみました。 なんの答えもありません。 また、くりかえして呼びました。それにつれて、見物たちは、みな席をはなれて、舞台のそばへあつまってきました。そして、てんでに、なにか言いだしたものですから、にわかに、ガヤガヤとさわがしくなってきました。 小林君は、たまりかねて、舞台にかけあがり、奥のほうに向かって、﹁だれかいませんか。﹂と、どなりました。 すると、黒い幕のうしろから、白いつめえり服の助手がふたり、飛びだしてきました。 ﹁先生がいなくなってしまったんです。ぼくたちは、いままで、いっしょうけんめいに、さがしてみたのですが。﹂ 助手のひとりが、息をはずませて、言うのです。先生とは魔法博士のことにちがいありません。 ﹁先生がいないんですって? じゃあ、勇一君もですか。﹂ ﹁ええ、ふたりとも見えないのです。﹂ では、博士も勇一少年も、ほんとうにべつの世界へ飛びさってしまったのでしょうか。 ﹁いまのはブラック・マジックでしょう。きみたちはまっくろな服を着て、舞台で、はたらいていたのでしょう。﹂ 小林君は、ブラック・マジックという奇術の種を知っていたので、こう言って、なじるように助手たちにたずねたのです。 ﹁そうです、ぼくたちは、この白服の上から黒ビロウドの服を着て、黒ずきんをかぶり、黒い手ぶくろをはめて、助手をつとめていたのです。そうすれば、電気の光線のぐあいで、見物席からは、何も見えないのです。ぼくたちが、いくら舞台を歩きまわっても、すこしも見えないのです。﹂ ﹁それでいて、博士がいなくなるのを、知らなかったのですか。﹂ ﹁ぼくたちは、しょっちゅう舞台にいたわけではありません。ちょっと、楽屋へはいったあいだに、先生も、子どもさんも、見えなくなってしまったんです。じつにふしぎです。﹂ こんな問もん答どうを聞いていても、ブラック・マジックというものを知らない見物たちには、なんのことだかわかりません。みんなが、けげんらしい顔をしているので、小林君はかんたんに、ブラック・マジックの種明かしをしました。 ﹁みなさん、いまのは魔法でもなんでもない、ふつうの手品で、ブラック・マジックって言うんです。電灯をぜんぶ見物席のほうに向けて、舞台には、じかに光がささないようにしてあるので、こうして、しゃべっているぼくの姿でも、手や顔のほかは、ハッキリ見えないでしょう。ですから、博士はあんなまっ白な服を着ていたのです。また勇一君にも白い服を着せたのです。 ぼくの服でさえ、ハッキリ見えないくらいですから、まっ黒なビロウドの服を着て、頭や、手先も黒ビロウドでつつんでしまったら、見物席からは、すこしも見えません。このふたりの助手君は、そういうまっ黒な姿になって、舞台で、はたらいていたのです。これが手品なのですよ。 さっきの大トランプの奇術も、はじめから黒ビロウドをかぶせて、舞台においてあったのを、助手君が、その黒いきれを、だんだん、はがしていったのですよ。すると、さも空中から大トランプが、あらわれるように見えたのです。ハートの女王さまが動きだしたのも、助手君のひとりが、おけしょうをして、絵の女王さまとおなじ服を着、かんむりをかぶって、カードを切りぬいたところから、上半身を出して見せたのです。カードの裏がわを見せるには、すばやく、切りぬいた絵を、もとのとおりにはめこみ、自分は頭から黒ビロウドをかぶって、姿を消してしまうのです。 勇一君が宙に浮きあがったのは、黒ビロウドを着た助手君が、勇一君のダブダブした白い道化服のあいだに両手をかくして、そのからだを持ちあげていたのです。すると、いまひとりの助手君が、黒ビロウドのふくろのようなものを、勇一君の頭のほうからかぶせていって、だんだん足の先まで、かくしてしまったのです。そうすると、見物席からは、勇一君が消えてしまったように見えるのですよ。 魔法博士のからだが、服をぬぐにつれて、消えていったのは、あの白い服の下に黒ビロウドのシャツとズボンをはいていたのです。手にも黒い手ぶくろをはめ、その上からもう一つ、白い手ぶくろをはめていたのです。さいごに、顔まで見えなくなったのは、頭からスッポリと黒ビロウドのきれをかぶったのですよ。﹂ 小林君は、さすがに名探偵の片腕と言われるほどあって、手品の種には、くわしいものです。話しおわって、ふたりの助手のほうをふりむいて、そのとおりでしょうとたしかめますと、助手たちは、びっくりした顔をして、そうだと、うなずいて見せました。 ﹁勇一君を黒ビロウドでかくしてしまってから、どうしたのですか。舞台のゆかへおろしたのでしょうね。﹂ ﹁そうです。この黒布をはったゆかへおきました。このへんですよ。﹂ ひとりの助手は、勇一君をおろした場所へ歩いていって、指で、さししめしました。むろん、そこには、何もありません。舞台にあがってしまえば、まぶしい電灯のうしろがわになるので、黒いものでも、よく見えます。広い舞台には、ふたりの助手のほかに、まったく人影がありません。 奇術の種がわかりますと、博士と、勇一少年がいなくなったのは、奇術ではなくて、ほかにわけがあることが、ハッキリしましたので、いよいよ、さわぎが大きくなりました。 見物のうちの、おとうさんやにいさんたちが、まず舞台へあがって来ました。そして、舞台の前の、電球をとりつけてあった板をはずし、それを反対のほうに向けて、舞台を明かるくしておいて、背景のうしろ、幕のかげ、舞台のゆか下と、ありとあらゆる、すみずみを、さがしまわりましたが、どこにも人影はありません。 舞台のうしろのドアをあけると、楽屋につかっていた、せまい部屋があり、そこも、くまなくさがしたうえ、つぎのドアをひらくと、パッと目をいる明かるさ。もう夕方でしたが、いままで暗いところにいたので、にぶい光でも、まぶしいほどです。 そこは廊下になっていて、一方は行きどまりのかべ。一方はべつの部屋につうじています。庭に面したガラス窓をしらべてみると、うちがわから、しまりができていて、そこから人の出たようすはありません。 小林君は、せんとうに立って、廊下の先のべつの部屋へ、はいって行きました。円形のせまい部屋で、小さな窓が一つしかなく、その窓もしめきったままで、別状はありません。まるい部屋のまん中に、ラセン階段があります。そこは、この洋館についている、夢のお城のような、円形の塔の一階だったのです。 もし、魔法博士が、勇一君をつれて逃げたとすれば、見物席のほうへは出られませんから、この塔にのぼるほかに、道はないのです。ほんとうに魔法の力で消えてしまうなんて、考えられないことですから、博士と勇一君は、この塔の上に、かくれているにちがいありません。なぜ、かくれたのか、すこしもわけがわからないけれども、そんなことを考えているひまはないのです。小林君は、グルグルうずまきになっているラセン階段を飛ぶように、かけあがっていきました。 二階の窓にも別状ありません。そのつぎの三階が頂上でした。だれもいません。しかし、そこの窓が、ひらいたままになっています。かけよって、しらべてみると、窓わくにつもったホコリが、ひどくみだれています。何者かが、その窓から外に出たらしいのです。 まさか三階の窓から、飛びおりることはできません。地上七メートルもあるのです。では、綱をつたっておりたのでしょうか。しかし、どこにも綱のはじは見えません。 小林君は窓から首をだして、のぞいて見ました。思ったとおり、足がかりなんかすこしもない、なめらかなレンガのかべです。ヘビかトカゲでなくては、このかべを、はいおりることはできないでしょう。 そう思って、見おろしたとき、小林君の目に、ギョッとするようなものが、うつりました。その直立したなめらかなかべの上を、一ぴきのまっ黒な怪物が、とほうもなく大きな、トカゲのようなやつが、ノロノロとはいおりていたのです。ちょうど二階の窓のへんを、頭を下にして、さかさまにはいおりていたのです。 それは、写真でも絵でも、一度も見たことがないような、まっ黒な動物でした。大きさは、ちょうど人間ほど、足は四本、ひふは、まるで黒ビロウドのようです。 オヤ、おかしいぞ。手が二本、足が二本、黒ビロウドのシャツとズボン、クツした、手ぶくろ。小林君は思わず、アッと声をたてました。 すると、怪物のほうでも、その声におどろいて、ピッタリはうのをやめ、グーッとかまくびをもたげるようにして、小林君のほうを見あげました。 それは、魔法博士の顔でした。ニヤリと笑った、あのぶきみな魔法博士の顔でした。石の獅し子し
小林君は、あまりのことに、声をたてることも、身うごきすることもできません。魔法の力ですいつけられたように、ジッと黒い怪物を見ていました。 すると、黒いヒョウのような動物は、まもなく、レンガのかべを下までおりて、そのままよつんばいになって、そこの木のしげみの中へ、かけこんでしまいました。その向こうは、やぶれたレンガ塀をへだてて、すぐ八幡神社の森につづいています。黒い人間獣は、夕やみのジャングルの中へ、姿をかくしてしまったのです。 小林君は、おそろしい夢でも見たのではないかと、自分の目をうたがうほどでしたが、しかし、けっして夢ではありません。あの黒い怪物は、たしかに魔法博士の顔を持っていたのです。 小林君が見たのは、黒い怪物だけです。では、勇一少年はどうしたのでしょう。勇一君まで、魔法の力で四つ足の動物になって、博士よりもさきに、森の中へかくれてしまったとでもいうのでしょうか。 なんにしても、早くこのことを、みんなに知らせなければなりません。 小林少年は、塔の階段を飛ぶようにかけおりて、下に待っていた見物の人たちに、ことのしだいをつげました。 知らせを聞いた人々は、あまりのふしぎさに、ボンヤリしてしまって、しばらくは、おたがいに顔を見合わせるばかりでしたが、やがて、正気にかえると、にわかに大さわぎをはじめました。 とにかくさがさなければならない。勇一少年と魔法博士の行くえをつきとめなければならない。二十何人の子どもとおとなが手わけをして、洋館の中と八幡神社の森の中を、オズオズさがしはじめました。 一方、小林少年は、勇一君のおうちにかけつけ、青くなったおとうさんといっしょに現場に帰り、捜索隊にくわわりました。また、ひとりの少年のおとうさんは、近くの交番に、このことを知らせましたので、まもなく本署から数名の警官がかけつけます。それらの人たちがいっしょになって、洋館のうち外を、のこるところなくさがしたのですが、勇一少年と魔法博士の姿は、どこにも発見することができませんでした。 八幡神社のうすぐらい森の中、立ちならぶ木の枝の上、くさむらの中など、くまなくしらべましたが、黒い怪物の影もなく、また神社をかこむ町の人たちに聞きまわっても、あやしいものを見た人は、ひとりもいないのです。 そのうちに、ますます、あたりが暗くなってきましたので、ひとまず、捜索をうちきることにし、警官たちも、ふたりの見はりばんをのこして、本署に帰りましたが、ただちにこの事件は、警視庁に報告せられ、東京中の警察署が、魔法博士と勇一少年をさがすことになったのは、言うまでもありません。 そうしてみんながひきあげてしまっても、小林少年だけは、ただひとり、八幡神社の森の中にのこって、大きな木の幹にもたれ、ボンヤリと考えごとをしていました。 ﹁ふしぎだなあ。あんな黒いヒョウみたいな姿で、森の外へ逃げだしたら、町には、だれか人が通っているんだから、たちまち見つかって、大さわぎになるはずだ。うまく逃げだせるはずがない。もしかしたら、あいつは、例の魔法を使って、だれにもわからないように、この森の中に、かくれているんじゃないかしら。﹂ そう考えると、なんだかゾーッと背中が寒くなってきました。森の中はもうまっ暗です。向こうの社しゃ殿でんがボンヤリと見わけられるばかりで、そのほかは、一面に黒いまくを、ひきまわしたようです。 ところが、ふと気がつくと、そのやみの中で、なにかモヤモヤと動いたものがあります。ギョッとして、小林君は、木の幹に、からだをかくし、動いたもののほうを見つめました。 ﹁なあんだ、気のせいだったのか。﹂ それは社殿の前の左右にすえてある大きな石のコマイヌでした。その右のほうのコマイヌが小林君の五メートルほど向こうに立っていて、それが身うごきをしたように感じたのです。 三だんに組んだ石の台の上に、ちょうど人間がうずくまったほどの、大きな石のコマイヌがいるのです。コマイヌといっても、イヌの形ではなくて、むかしの絵にある獅子のような姿をしています。たてがみが、クルクルうずをまき、大きな顔、ふとい足、ふさふさした尾、どこの動物園にもいないような、ふしぎな怪獣です。 しかし、それは石をほってこしらえたものですから、動くはずはありません。さっきから、みんながその前を行ったり来たりしていたのですが、だれも石のコマイヌなんかに注意するものはなかったのです。 小林君は、へんな気持ちで、やみの中にぼんやりと浮きだしている、そのコマイヌをながめていました。﹁あの石のイヌが動きだしたらどうだろう。いまにきっと動くぞ。﹂昼間から、ふしぎなことばかり見せられたので、ついそんなことを考えるようになっていたのです。 すると、小林君の考えが、石のイヌにつたわりでもしたように、そのコマイヌが、モゾモゾと動きはじめたではありませんか。 小林君は、からだがツーンとしびれたようになって、もう身うごきもできません。これはおそろしい夢でしょうか。いや、夢ではない。昼間のことから考えると、夢がこんなに順序よくつづくものではありません。 コマイヌ、というよりも石の獅子です。その石の獅子は、いまではもう生きた怪物になって、そろそろと石の台をおりています。みょうなかっこうで、台をおりてしまうと、やみの中を、社殿のほうへ、よつんばいになって歩きはじめました。 小林君は、もしかしたら、こちらへ、飛びかかってくるのではないかと、ドキドキしていましたが、石の獅子は、木のかげに小林君がいることは知らないらしく、ふりむきもせず、社殿に近づき、階段をはいのぼり、正面のとびらをひらいて、社殿の中へ、姿を消してしまいました。そして、とびらが、何かに引かれるように、スーッとしまったかと思うと、﹁ウォーッ。﹂と一声、おさえつけたような、うなり声が、聞こえてきました。 ああ、あの声です。昼間、魔法博士が舞台から消えたとき、見物たちの耳をうった、あのぶきみな猛獣のうなり声とそっくりです。 小林君は、もうむがむちゅうで、かけだしました。あとからあの怪物が追っかけてでもくるように、死にものぐるいで逃げました。そして、洋館の入り口に見はりをしている警官のそばにたどりつくと、やっと元気をとりもどして、ことのしだいをつげるのでした。 警官は、おどろいて近くの交番から、このことを本署に電話で知らせました。そして、しばらくすると、本署からピストルを持った数名の警官が、かけつけて来ました。 もうすっかり夜になっていましたから、警官たちは、手に手に懐中電灯をふりかざし、八幡神社の社務所の人を呼びだして、それを案内役にして、一かたまりになって、社殿に近づきました。 警官たちは、みなピストルをサックから出して、手に持ち、いざといえば、うてるように、かまえながら、サッと社殿のとびらをひらきました。とびらの中に集中する懐中電灯の光。 ﹁オッ、そこにいるゾ。﹂かさなりあうまるい光の中に、大きな石の獅子が、チョコンとすわっています。警官たちを見ても、逃げるでもなく、飛びかかってくるでもなく、まるで石のように身うごきもしないのです。しばらく、異様なにらみあいが、つづきました。 ﹁おい、へんだぜ。こいつは、ほんとうの石のコマイヌじゃないか。﹂ ひとりの警官が、およびごしになって、グッと手をのばして、ピストルの先で、怪物の肩のへんを、つっつきました。すると、コツコツと石をたたくような音がしたではありませんか。たしかに石でできているのです。 それにいきおいをえて、みんながコマイヌのそばに近より、懐中電灯でてらしつけながら、その全身にさわってみました。ひとりの警官が、コマイヌの頭に手をあてて、グッとおすと、からだぜんたいがかたむき、手をはなすと、ゴトンと音をたてて、もとの位置にもどりました。 ﹁ハハハ……、なあんだ、やっぱり石のコマイヌじゃないか。おい、きみ、きみは、こいつが動いたと言うのかい。﹂ 小林少年は、夢に夢みるここちでした。 ﹁さっきは、たしかに生きていたのです。あすこの石の台の上からおりて、ここまで、はって来たのです。﹂ ﹁フーン、この石がねえ。﹂ 警官はピストルでコマイヌの頭をコツコツやりながら、また笑いだすのでした。 ﹁しかし、昼間は、こいつ、たしかにあの台座の上にいた。それは大ぜいが見て、知っている。ところが、見たまえ、あの石の台座の上はからっぽだ。﹂ べつの警官が、台座のほうを懐中電灯でてらしながら、ふしぎそうに言いました。 ﹁まさか、きみが、コマイヌをここへ持って来たわけじゃなかろうね。﹂ ﹁ぼくには、こんな重いもの、とても持てませんよ。﹂ ﹁そうだろうね。すると、いったい、これはどういうことになるんだ。﹂ 警官たちが、首をかしげているあいだに、小林少年は、ふと、社殿の一方の柱に、異様な傷があることに、気づきました。ひとりの警官の懐中電灯が、ちょうどそこを、てらしていたからです。 ﹁あれは、なんでしょう?﹂ 小林君の声に、みながそのほうを見ました。おそろしい傷あとです。十五センチ四方ほど、柱の皮がめくれ、白い木はだがあらわれて、それがひどいササクレになっています。 ﹁へんな傷だね。大きな動物が、牙きばでかみついたというような傷だね。それに、傷のまっ白なところを見ると、ごく新しい傷だ。﹂ 警官たちも小林少年も知らなかったけれども、読者はごぞんじでしょう。勇一君のおうちの庭で、白ウサギが消えたとき、マツの木の幹にのこっていた、あのおそろしい傷あと、あれとそっくり、そのままなのです。 それは知らなくても、一方には、いつのまにか社殿にしのびこんだ石の獅子、一方には、見るもおそろしい柱の傷あと、この二つの怪かい異いのくみあわせの、ぶきみさに、人々はゾーッとおびえた目を見かわして、ただ立ちすくむばかりでした。虎の影
それから数日は、何事もなくすぎさりました。あの夜は、いくらさがしても、石のコマイヌのほかには、あやしいものも見あたらず、警官たちは、なんのえものもなく、ひきあげたのです。その後、東京中の警察が、魔法博士と勇一少年をさがしているのに、ふたりの姿はどこにも、あらわれず、むなしく日がたっていくばかりでした。 そして、あのおそろしい日から、ちょうど六日目の午後、四人づれの少年が、勇一君のおうちをたずねました。 小林少年と、読者にはまだおなじみのない三人の中学生です。そのうち、一ばん背の高いのは花はな田だ君といって、中学の二年生、あとのふたりはおなじ中学の一年生で、石いし川かわ君と田たむ村ら君です。 この花田、石川、田村の三少年は、小学生のころから、少年探偵団にはいって、いまでは小林団長の参さん謀ぼうというような、重い役目をつとめています。三人の中学校は、明智探偵事務所とおなじ千代田区にありました。 魔法博士の事件が大きく新聞にのり、小林団長のしんせきの勇一少年が、行くえ不明になったと知ると、三少年は、さそいあって、小林君をたずね、勇一少年捜索のために、少年探偵団も、できるだけのことをしたいと、申しでたのです。 そこで、きょうは、四人づれで、勇一君のおうちへ、その後のようすをたずねるために、わざわざ出かけてきたのでした。 さいわい、勇一君のおとうさんは、うちにおられ、よろこんで、四人の少年を、座敷にお通しになりました。 あいさつと、ひきあわせがすみますと、小林君は、さっそく事件のことを、話しはじめました。 ﹁おじさん、その後、何かかわったことはありませんか。﹂ すると、勇一君のおとうさんは、待ちかねていたように、おっしゃるのでした。 ﹁イヤ、みょうな手紙が来たんだよ。どうも勇一は無事でいるらしい。﹂ ﹁ヘエ、みょうな手紙ですって。だれから来たんです。﹂ ﹁勇一からだよ。ここにあるから、きみたちも見てください。﹂ おとうさんは、そう言って、ふところから、四角な封筒をとり出して、小林君におわたしになりました。 いそいで、封筒の中をしらべますと、白いびんせんにペンで書いた手紙と、一枚の写真が出てきました。台紙のないキャビネの写真です。 ﹁おや、これ勇一君の写真ですね。みょうな服を着て、すましているじゃありませんか。﹂ ﹁そうだよ。いま、どこかで、そんなふうをして、くらしているらしい。手紙のほうを読んでごらん。﹂ そこで、手紙をひらいて、読んでみますと、そこには、つぎのような、ふしぎなことが書いてありました。
おとうさん、おかあさん、ぼくは無事でいますから、ご安心ください。でも、しばらく、おうちへ帰ることはできません。また、いまいる場所は書くこともできないのです。
ぼくの写真を入れておきます。これは、きのうとったものです。ぼくはいま、こんなりっぱな服を着て、美しい部屋にいます。そして、毎日、びっくりするような、おいしいごちそうを、たべています。
いつおうちへ帰れるか、わからないのが、ざんねんですが、そのほかのことでは、ぼくはたいへんしあわせです。どうかご安心ください。
勇一より。
﹁たしかに勇一君の字ですね。へんだなあ、いったい、どこにいるんでしょうね。﹂
﹁封筒の消し印は新しん橋ばしになっているが、そんなものはあてにならない。つまり、どっかへ、とじこめられているんだね。まあ、おいしいごちそうをたべているというから、心配はしないが、それにしても、だれが、なんのために、勇一をとじこめているのか、すこしもわけがわからない。﹂
﹁魔法博士のしわざでしょうね。﹂
﹁わたしも、そう思う。しかし、魔法博士がいったい、なんのために勇一をとじこめるのかね。わたしがお金持ちなら、身のしろ金をゆするためとも考えられるが、わたしは、ごらんのとおりの貧乏人だからね。ゆすられるようなものは、何も持っていない。そこが、じつにふしぎなんだよ。﹂
﹁警察へとどけないんですか。﹂
﹁ウン、これからこの手紙を見せに行こうと思っていたところだ。しかし、警察でも、これだけでは、何もわからないだろうね。﹂
﹁明智先生がご病気でなければ、きっとうまい知恵があるんだがなあ。先生は熱が高くて、勇一君の事件も、まだお話しすることができないでいるんですよ。しかしねえ、おじさん、ぼくたちの少年探偵団は、何かをさがすことが、なかなかうまいんですよ。まえにも、いくどもてがらをたてたことがあるんです。ぼくたち、やってみますよ。ねえ、花田君。﹂
﹁ええ、ぼくたちも、小林団長を助けて、はたらきますよ。石川君だって、田村君だって、からだは小さいけれど、みんなすばしっこいんだからなあ。﹂
花田少年も、いきごんで言うのでした。
それから、お菓子とコーヒーをごちそうになって、四人の少年は、いとまをつげましたが、表のこうし戸をあけて、外に出ると、すぐ目の前を、ひとりのきたない服を着た男が、まるで逃げるように、スタスタと向こうへ歩いて行くのに、気づきました。
﹁あいつ、こうし戸のところで、うちのようすを、うかがっていたんだよ。きっと、そうだよ。あやしいやつだなあ。﹂
花田君が、声をひくくして言いました。
﹁つけてみようか。﹂
田村君が目を光らせて言います。
﹁うん、きみと石川君とで、尾びこ行うしてごらん。ぼくたちも、あとからついて行くから。﹂
小林団長の命令です。
田村、石川の二少年は、道の両がわにわかれて、家ののきづたいに、まるでリスのように、チョコチョコと走りながら、男のあとを、尾行しました。
男はいそぎ足で、右におれ、左にまがり、だんだん、にぎやかな町のほうへとすすんで行きます。
そうして十五分もたったころ、あとから歩いていた小林君と、花田君の前に、石川、田村の二少年が、スゴスゴとひきかえして来ました。
﹁だめ、だめ、うまくまかれてしまった。あいつ、気がついたんだよ。ヒョイとうしろを向いて、ぼくたちを見ると、いきなり走りだして、人ごみの中へかくれてしまった。いくらさがしても、見つからないんだよ。﹂
尾行は失敗におわりました。しかし、逃げるところをみると、その男はあやしいやつにきまっています。勇一君の事件と関係のあるやつかもしれません。
﹁顔を見おぼえたかい。﹂
小林君がたずねますと、ふたりはこまったような顔をして、
﹁それが、だめなんだよ。やぶれソフトの前を目の下までさげて、服のえりを立てて、まるで顔をかくしているんだ。服装をかえたら、とても、わかりっこないよ。﹂
﹁よし、それじゃあ、きょうは、みんなうちへ帰ろう。そして、こん晩は、勇一君をさがしだす方法を考えるんだ。そして、なにかいい知恵を出して、あす学校がひけたら、ぼくのところへ、来てくれたまえ。そのとき、よくそうだんしよう。﹂
小林団長はそう言って、先に立って、国鉄の駅のほうへ歩きだすのでした。
さて、その晩のことです。花田少年のおうちに、大ちんじがおこりました。まったく、えたいのしれない、ふるえあがるような出来事でした。
花田君のおうちは港区の焼けのこった屋敷町の中にありました。いけがきにかこまれた、広い庭のあるおうちです。
花田君は、晩ごはんのあとで、学校の勉強をすませると、勇一君の事件を、いろいろ考えこみましたが、これという知恵も浮かばぬうちに、夜がふけて、十時になってしまいました。花田君は、いつものとおり、自分の勉強部屋に、ふとんをしいて、とこにはいり、それから三十分ほどは、やはり考えごとをつづけていましたが、いつか、昼間のつかれが出て、グッスリねむってしまいました。
その真夜中です。花田君は、みょうな物音に、ふと目をさましました。窓です。窓のガラス戸を、何者かが、外からコツコツたたいているのです。
花田君の勉強部屋は四畳半で、一方は廊下、一方は裏庭に向かった窓になっていて、二枚の障しょ子うじがはまり、障子の外にガラス戸がしまっています。そのガラス戸を、だれかが、しきりにたたいているらしいので、
﹁だれ? そこにいるのは、だれ?﹂と呼んでみましたが、答えはなくて、やっぱり、コツコツ、コツコツとたたいています。なんだか、きみが悪くなってきましたが、花田君は、勇気のある少年でしたから、ふとんを出て、窓のそばにより、もう一度、﹁だれ?﹂と、声をかけ、それでも返事がないので、いきなり、障子をサッとひらきました。そして、ひらいたかと思うと、﹁アッ。﹂と、声をのんだまま、身うごきもできなくなってしまいました。ガラス戸の外に、化けものがいたからです。
ガラス戸の三十センチばかり向こうに、大きな顔がありました。背の高さは人間ほどですが、その顔は人間の三倍もあり、ランランとかがやく目、さか立つ黄色い毛、耳までさけた口、まっかな舌、するどい二本の牙。
おりから、満月に近い月が、中天にかかり、庭一面が銀色に光っていましたが、その月の光が、化けものの半面をてらしているので、こまかいところまで、まざまざと見えるのです。
はじめのうちは、何がなんだか、見わけられませんでしたが、心がおちつくにつれて、それが一ぴきの巨大な虎であることが、わかってきました。
その大おお虎とらはあと足で立ち、前足をガラス戸のさんにかけて、いまにもガラスをぶちやぶろうとするけはいを見せています。
牙のあいだから、まっかな舌を出して、ハッハッと息をする音が聞こえ、そのたびに、首から肩にかけて、黄と黒との毛なみが、波のように脈うつのです。
花田君は、からだがしびれてしまって、身うごきはおろか、声をたてることもできません。ただ、ランランと光る虎の目を、まるで釘づけになったように、ジーッと見つめているばかりです。