その夜彼はかなり酔っていた。佐渡という友人が個展を開いたその初日で、お祝いのウィスキーの瓶が何本も出た。酩めい酊ていして新宿駅に着いたのは、もう十時を過ぎていた。 つかまえたのは、専門の構内タクシーである。駅を出て客が指定したところで降ろし、またまっしぐらに駅に戻って来る式のもので、それが一番安全そうに見えたからだ。酔うと彼は必要以上に用心深くなる癖がある。戦後しばらくして、その時彼はまだ若かったが、酔ってプラットホームから落ちて怪我して以来、その癖がついた。年とともにその癖は、ますます頑固になって行く傾向がある。 ﹁この人はね、酔って来ると、すぐに判るよ﹂ その夜も佐渡が笑いながら皆に説明した。 ﹁道でも廊下でも、曲り角に来ると、壁にへばりつくようにして、直角に曲るんだよ。さっきから見ていると、もう直角になって来たようじゃないか。そろそろ帰ったらどうだい?﹂ ﹁へばりつくなんて、ヤモリじゃあるまいし﹂ 彼は答えた。いくらか舌たるくなっているのが、自分でも判った。そしてふらふらと立ち上った。 ﹁でも、そう言うんなら、先に帰らせてもらうよ。さよなら﹂ ﹁矢木君。君、送って行け﹂ 佐渡が追い打ちをかけるように言った。 ﹁見ているとあぶなっかしくて仕様がない。同じ方向なんだろ﹂ ﹁そうですか。送ります﹂ 矢木は答えた。矢木は彼や佐渡よりは、ずっと若い。絵描きの卵だ。飲めないたちで、酔っていなかったようだ。顔色が蒼あお白じろい。 外に出ると、夜風が顔につめたかった。矢木が手を貸そうとするのを断って、自分で歩いた。直角になんて歩いてたまるかという気持があって、ずんずん歩いたつもりだが、やはり時々足がもつれた。矢木は服の襟を立て、二三歩あとからついて来た。 新宿駅まで十分ぐらいかかり、表口で調子よくタクシーが彼の前にとまった。車の形を見て、彼は安心して、自分の体を荷物のようにどさりと座席に放り込んだ。矢木が続いて乗り込んだ。自動扉がすっと動き、がちゃりとしまった。彼は言った。 ﹁N方面にやって呉れ﹂ かんたんに道順を説明したが、運転手は返事をしなかった。車は動き出した。かすかな不快が彼の中で揺れ動いている。近頃の運転手は、行先を告げても、ろくに返事をしない。でも、人間はなまじ口をきき合うから、話がもつれたりするので、判っていさえすれば返事はない方がいい。経験でそう彼は思っている。その点一番いいのは、靴磨きだ。戦後の一時期、彼は食うに困って、靴磨きをやったことがある。占領兵相手の売り屋をやったが、これは言葉のやりとりがうまく行かなくて、失敗した。靴磨きはよかった。場所を確保するのに一苦労はしたが、定着してしまえば、あとは簡単だ。客が来て、靴台に足を乗せる。それを磨く。磨き終ったしるしに、厚布でチョンチョンと靴先の色をととのえる。客も承知して、靴を引っ込め、金を渡す。受取ってゼニ箱に投入する。ただそれだけだ。客も黙っているし、こちらも口をきかない。主客とも口をきかないで成立する商売は、おそらく靴磨きだけじゃあるまいか。――彼が面白くない気分になっていたのは、だからそのせいではなかった。 ﹁この自動扉なんだな﹂ 窓外に動く街筋を眺めながら、彼はぼんやりと矢木に話しかけた。 ﹁おれはどうもこの自動扉というやつが、好きでないんだ﹂ ﹁何故です?﹂ ﹁自分が乗ったんだろ。だから自分の手でしめるのがあたりまえじゃないか。他の力でしめられると、何だか変だ。うっとうしくて、かなわない﹂ ﹁そうですかね。僕は便利だと思うけれども――﹂ ﹁便利? そりゃ便利だよ﹂ 彼は忙しく頭を働かせ、別の例を捜した。 ﹁しかし、たとえば、留置場か、棺桶の蓋ふたのような気がする。いや、待てよ。留置場や棺桶は、自分で這は入いるものではないが﹂ ﹁そうですよ。あれは這入るものじゃなく、他人から入れられるもんです﹂ 矢木は落着いた声で言った。 ﹁あなたはデパートのエレベーターに乗っても、うっとうしいですか?﹂ エレベーターと自動車とでは違う。その理由を見つけようとして考えかけたが、途中で面倒くさくてやめた。調子を合わせろとは言わないが、そっけなく落着いているのが気に食わない。話をするのが億おっ劫くうになったので、彼は座席に深く背をもたせ、窓の外ばかりを見ていた。街並が急に明るくなって、八百屋だの薬屋だのが群れている一いっ郭かくに出た。矢木が言った。 ﹁とめて下さい。僕はここで降ります﹂ 車がとまり、間髪を入れず自動扉がギイと開いた。矢木がここらに住んでいることは、いつか同車したことがあって、彼も知っている。別に意外ではなかった。 ﹁降りるのかね﹂ ﹁ええ。では﹂ また車が動き出した時、彼は頭を後方の窓ガラスにねじ向けた。矢木はこちらを見ずに、歩道を横切り、明るい果物屋の中に入って行く。…… こういう言い争いを、いつか確かにしたことがある。何年前のことか、場所はどこだったか、思い出せない。思い出せないけれども、同じ条件で、同じ調子で、同じような人物を相手に、言い争った。気分もその時と同一だった。その意識が彼の語調を弱くさせていた。彼は言った。 ﹁どうしても這入れないと言うんだね﹂ ﹁うん。這入れないね﹂ 運転手は前を見み据すえたまま言った。料金表示器は三百円をさしていた。 ﹁こんな狭い道はムリですよ﹂ ﹁しかしだね、ちょっと狭そうに見えるけれど、昼間にはトラック、大型は入りにくいが、とにかくトラックや乗用車が、すいすいと入ったり出たりしてるんだぜ﹂ 矢木を降してから十五分ほど走り、車は彼の家の近くまで来た。道路に囲まれた三角地帯がある。どんな具合に区切っているのか知らないが、四軒の家がそこに建っている。車が停ったのは、その一軒の前で、彼の家はそれから反対側に折れたところにあるのだ。この一軒はまだ起きていて、窓から燈が漏れている。鉄線で編んだ塀には、バラがからんでいて、白や赤の花をいくつもつけているのが見える。この家は以前は歯科医が住んでいたが、はやらなかったらしく一年くらいで引越し、今はアメリカ人が住んでいる。民間のバイヤーらしい。昼間には日本人のメイドが派手な下着を乾していたりする。 ﹁そりゃ昼間は這入れるでしょう。でも、こう暗くちゃね﹂ なるほどその道は暗い。ずらずらと生いけ籬がきのたぐいが続いていて、光はどこにも見えない。そう狭い道ではないが、近くに請負師の家があって、道の入口に古材がたくさん積み重ねてある。反対側の垣から大きな柿の木が、道におおいかぶさるように枝を伸ばしている。昼間なら見通しがきくが、夜だと実際よりもずっと狭く感じられるのだ。それに悪いことには、道の入口に細い下水路があり、コンクリートの四角な渡し板が六枚かかっている。道いっぱいの幅にかければいいのに、両端の方は省略して、中央の部分、つまり道幅の半分しかかかっていないのである。 ﹁暗いとか明るいとかは、問題じゃないだろう﹂ 彼は気持を押えながら言った。 ﹁今まで乗ったタクシーは、皆這入ったよ﹂ ﹁他のタクシーのことは知らないが、おれはイヤだね﹂ 前を向いたまま、運転手の言葉は少しぞんざいになった。彼はまだこの運転手の顔を見ていない。乗り込む時、見そびれた。見えるのは帽子と首筋と肩だけである。帽子はあみだ冠りにしている。首筋は赤黒く、粒々が出ている。齢の頃はよく判らない。 ﹁這入れって、一体どのくらい這入るんだね﹂ ﹁直ぐだよ、おれの家は。三十メートルほど入って、左側の家だ﹂ ﹁三十メートルなら、歩いたらどうですか。何時までもごたくを並べてないで﹂ ﹁歩け? 君はおれに、歩けと命令するのか?﹂ ﹁命令はしてない。勧めているだけです﹂ ﹁しかし、それは――﹂ そこまで言いかけた時、自動扉がひとりでにギイとあいた。それはまるで催促するような音であった。音は決定的に彼の耳に響いた。 ﹃落着け。落着くんだ﹄ 彼はそう念じながら、ポケットから銭入れを取り出した。ふるえる指で百円玉を三つつまみ出して、肩越しに手渡した。 ﹁ついでに聞くがね、この車の番号は何番だい?﹂ ﹁車のうしろについてるよ。それを見りゃいいだろ﹂ 運転手は金を収めながら、つっけんどんに答えた。 ﹁そうか﹂ 彼は体をずらして車から降り、背後に廻って番号札を見た。自動扉がしまった。Q二〇三九。それを二三度口の中で言ってみて、片側道を自分の家の方向に歩き出した。三十メートルを歩いている間、つまずかないように用心しながら、彼はその番号のことばかり考えていた。つまずいたり、他のことを考えたりすると、番号を忘れてしまうおそれがあったからだ。Q二〇三九……Q二〇三九…… 家に入り、鍵をかけ、画室に入る。画用紙にその番号を書きつける。やっと安心して、椅子に浅く腰をかける。肱ひじを膝の上に立て、頬杖をつく。五分間、その姿勢のまま、じっと動かなかった。やがて顔を頬杖から外し、手を伸ばして電話帳を取った。膝の上でぺらぺらめくって、自動車会社の番号を捜した。やがて捜し当てた。彼は呟つぶやいた。 ﹁せですむことを!﹂ 彼は立ち上り、部屋の隅の電話のダイヤルを廻した。廻す途中で少しためらったが、押し切るようにして最後まで廻した。相手が出て来た。 ﹁もしもし。お宅にQ二〇三九という車がありますね﹂ ﹁はあ。ちょっと待って下さい﹂ 受話器を置く音がした。彼は体を凝らして立っていた。子供の頃、彼の家には烈しい気性の祖母がいた。何か悪いこと、余計なこと、いたずらに類することをすると、たいへんな勢いで怒り、火箸や長煙きせ管るで彼を打ちょ擲うちゃくし、折せっ檻かんした。 ﹁せですむことを!﹂ ﹁せですむことをして﹂ しないですむことをする、という意味である。その言葉は彼の体に深くしみ入って、時々舌にのぼって来る。たかが曲れとか曲らないということではないか。歩かされたとしても、三十メートルに過ぎないじゃないか。それをこんなに電話して文句を言えば、当の運転手も成績が下るだろうし、こちらも巻き込まれることで面倒がかかるかも知れぬ。誰も得をしない。つまりこんなのが、せですむことじゃないだろうか。そう考えたとたん、電話の向うに相手が出て来た。 ﹁はい。確かにそれは、うちの車です﹂ ﹁そうですか。その車が二十分ぐらい前、こんなことをした﹂ 彼はさっきの事件を順序立てて、順序立てたつもりで説明した。向うは事務的な声で、 ﹁はい﹂ ﹁はい﹂ と返事をした。くわしく話す予定であったが、説明は一分足らずで済んだ。詳述しようにも、それほどの材料がない。最後に言った。 ﹁途中で降ろすなんて、乗車拒否より悪質だと僕は思うんですがね﹂ ﹁判りました。当人は明朝十一時に戻って来る筈ですから、事情をよく聞きまして――﹂ 彼は電話を切った。折角の酔いがうまく発散せず、深く澱よどんでいるのが判る。じっと濃厚に澱んで動かない。もう一杯飲めば、そいつを引っぱり出せるかも知れないのだが、見渡しても酒は一滴もここにはない。―― 翌日正午頃、彼は眼が覚めた。口の中が粘り、酔いがまだ残っていた。その癖よく眠れなかった。ことに窓が明るくなってからは、物音がたくさん入って来て、起きているのか眠っているのか分明しない状態で、うつらうつらと横になっていた。眼をあけるのに抵抗があったし、あけてもしばらく物が二重に歪んでいる。 水を飲むために体を起すと、番号を記した画用紙が、まず眼に入った。分厚い番号簿も、昨夜頁を開いたままで机上に乗っている。彼はむずと受話器をつかんだ。今の不快な状態の責任が、皆この番号簿のせいだという気がしたのだ。昨日と違った声が出て来た。 ﹁話は当直から聞きました。なにぶん当人は今朝七時に帰社して、もう家に戻ってしまいましたので――﹂ ﹁七時? 昨夜の電話じゃ、十一時頃という話だったのに﹂ 声はくどくどと弁解を重ねた。自分はこの社の常務として、こんなことのないように、事ある毎に従業員に注意している。それなのにどうしてそんな不親切なことをしたのか、まことに申し訳わけがない。しかるべき処置を取るとおっしゃるが、それだけは勘弁して呉れ。明日当人が出て来れば、よく申し聞かせて置くから。云々。 ﹁申し聞かせるのは、お宅の勝手ですがね﹂ 彼は言った。 ﹁僕んとこの道は狭くない。大型車だって、ゆっくり這入れる。そのことを徹底させといて下さい。それだけです﹂ 彼は急いで電話を切った。おれはおれの面メン子ツを立てるためでなく、道をけなされたことを怒っているみたいだ。しかし電話をかけたことで、彼はやや気分が晴れた。彼は井戸端に出て、大コップで水をがぶがぶ飲み、庭の隅の塵芥穴で全部吐いた。咽の喉どを突き上げて出て来るのは、水ばかりであった。飲む時と同じ冷たさで、それはほとばしり出る。二三度繰り返して、胃を空にして、彼は自分の部屋に戻った。そしてまた夕方まで寝た。 常務と運転手が彼の家を訪ねて来たのは、その翌日の午後である。見知らぬ男が二人、玄関に立っている。いぶかしげに彼が眺めると、年かさの方が名刺を出した。××タクシー常務の肩書きで、それと知れた。わざわざやって来たのに、玄関で応対するのも変なので、画室に案内した。玄関には新しい靴とつぶれたような靴が、二足残された。 ﹁電話をかけただけなのに、どうしておれの家が判ったんだろう?﹂ 茶をいれながら、彼はふと思った。次の瞬間、それが愚かな疑いであることに、直ぐ思い当った。二人とも茶には手をつけなかった。常務が口を切った。 ﹁この度うちのがたいへん失礼な態度を取りましたそうで――﹂ 彼は話を聞きながら、運転手の顔をちらりちらりと見ていた。一昨夜はもっと若い、横柄な感じだったのに、今そこに腰をかけているのは、ジャンパー姿の三十前後の実直そうな、むしろ愚鈍な印象の男である。細い眼がねむそうにたるんでいる。焦点距離がないみたいで、どこを見ているのか判らない。 ﹃換え玉を連れて来たんじゃないか。こんな男じゃなかった﹄ と彼は考えた。 ﹃本人を連れて来たら、またいざこざが起きるもんだから――﹄ ﹁そういうわけでございますから、何とぞお許しのほどを﹂ 肥った常務はごそごそと箱を取り出した。包装紙の具合から見ると、菓子折か何からしい。 ﹁いや。それは――﹂ 彼は大声を出した。 ﹁そんなものが欲しくて、電話をかけたんじゃないんだ。あんたたちは何か誤解をしている。僕はただうちの道が――﹂ ﹁判っております。判っております﹂ 常務は立ち上って、運転手を小突いた。 ﹁おい。君もあやまれ。早く﹂ 運転手がじっとしているものだから、常務は運転手の後頭部に手を当て、ぐっと前に押した。それで運転手は頭を下げた格かっ好こうになった。 ﹁さあ。帰ろう﹂ 頭から手を離し、常務は言った。運転手は頭を元に戻して、無表情に立ち上った。 ﹁いや。平に、御見送りのほどは、平に﹂ 尻ごみをするように、常務は後しざりして、部屋を出た。運転手もそれに続いた。彼は二人を追って、玄関まで出た。二人は身を屈かがめて靴を穿いている。背後から見る運転手のその首筋は浅黒く、見たことがあるような、またないような形であった。彼はしばらく確める眼付きでそれを見おろしていた。 ﹁やはりあの時の運転手かな。皮膚に毛穴のようなものが、たくさんある﹂ 画室に戻って来て、彼は考えた。常務はいろいろしゃべったが、運転手は口ひとつきかなかったことに、彼は今気付いていた。声さえ聞けば、その抑揚や調子などで、当人か換え玉か判る筈であった。でも、換え玉であったとしても、それが何だろう。当人を連れて来て釈明せよと、こちらは請求した覚えは絶対にない。向うが勝手にやって来ただけの話である。常務もこれがその当人であるとは、明言しなかった。すべてがあいまいなまま収まっている。菓子折ひとつだけが歴然とした形で残っている。彼は口に出して言った。 ﹁こんなもの、誰が食ってやるものか﹂ 新聞紙を四五枚ぐしゃぐしゃに丸め、菓子折を持って庭に出た。塵芥場に投げこんで、火をつけた。新聞紙は白い焔を立てて、ぼうぼうと燃え始めた。 ﹁運転手の顔ねえ。どの運転手の顔だったかしら﹂ ﹁そら。佐渡君の会でさ、いっしょにタクシーを拾っただろう﹂ 一ヵ月ほど経って、上野の喫茶店で、彼は偶然に矢木に出会った。紅茶を飲みながら、その話を持ち出した。矢木は視線を宙に浮かせて、しばらく考えていた。 ﹁ああ。あの時のね。あなたが白髪のことで、佐渡さんにからんだ夜の――﹂ ﹁白髪?﹂ ﹁ええ。佐渡さんに白髪が近頃ふえたのは、老い込んだ証拠だって、ずいぶんからんだじゃないですか。だから作品もダメになったって﹂ 彼は首をかしげた。佐渡は彼と同年で、近頃妙に白髪がふえたのも事実である。しかしそれについて佐渡にからむなんて、彼には記憶もないし、想像もつかなかった。 ﹁そんなことを、僕がやる筈がないよ。白髪と作品と関係づけるなんて、そんな理不尽な﹂ 彼は記憶をさぐりさぐり言った。 ﹁あいつが僕の酔い方を批評したんで、面白くなくなって、会場を出たんだ。君もいっしょだったね﹂ ﹁ええ。外には小雨が降っていた﹂ ﹁雨が?﹂ ﹁ええ。寒かったんで、僕は服の襟を立てて歩きましたよ。それでもずいぶん濡れた﹂ ﹁おれは全然濡れなかったよ。おかしな話があるもんだなあ﹂ 彼は冷えかけた紅茶をすすった。 ﹁何かこんぐらかってるな。駅で構内タクシーをつかまえた。番号はQ二〇三九だ﹂ ﹁よく番号まで覚えていますねえ﹂ ﹁うん。これにはわけがあるんだ。君は途中で降りた。そして角の果物屋に入って行った﹂ ﹁果物屋?﹂ ﹁そうだよ。不二果物店と看板が出ていた。君はまっすぐそこに這入って行った。僕は自動車の後窓からそれを見ていたんだ﹂ 今度は矢木が気味悪そうに、そっとカップを卓に置いた。 ﹁ほんとですか。しかし、そんな筈はない﹂ ﹁なぜ?﹂ ﹁なぜって僕はあの果物屋と、半年前ぐらいだったかな、バナナのことで喧嘩をしたんですよ。大きい房の代金を払ったのに、うちであけて見たら小さい房が入っていた。そこであのおやじと大喧嘩をして、それ以来あそこでは買い物をしないことにしているんです﹂ ﹁でも、僕は見たんだよ。この眼で﹂ 二人はしばらく黙り込んでいた。やがて矢木が頭を上げた。 ﹁あなたがその眼で見たとして、それからあなたはどうなったんです﹂ ﹁うちの近くまで来て、運転手が僕に降りろと言うんだ。そこで僕は降りた。しかし雨は降っていなかったぜ﹂ その経いき緯さつを彼はぽつりぽつり、確めるように説明した。矢木は適当に相あい槌づちを打ちながら聞いていた。話し終ると矢木は質問した。 ﹁で、結局その菓子折に、何が入ってたんですか?﹂ ﹁判らない。新聞紙や外箱だけが燃え尽きて、あとどろどろなのが残った。へんに甘ったるい匂いがしてね、嘔きたくなるような気持がしたし、ウジが湧きそうだったから、スコップで穴を掘って埋めてしまった。しかしそんなものを持って来るぐらいなら、どうしてあの時道に這入って呉れなかったんだろう?﹂ ﹁自動車強盗と間違えたんじゃないですか﹂ ﹁強盗? このおれが? まさか﹂ ﹁しかし、運転手には、気をつけた方がいいですよ。ノイローゼだのテンカンなどが、自覚しないまま営業してるという話ですからねえ﹂ 矢木は真顔になって話の方向を変えた。 ﹁もっとも乗る方だって、気が確かかどうか、誰にも判っていない﹂ ﹁そうだよ﹂ 少し経って彼はうなずいた。 ﹁おれたちだって、少しずつこんぐらかってるよ。君が覚えていることと、おれが覚えていることは、どこか食い違っている。それでよく安心して生きて行けるもんだな﹂ ﹁僕がですか?﹂ ﹁いや。君だけじゃなく、誰もがだ﹂ 彼はごまかした。 ﹁もっとも疑い始めると、これは切りがないもんでねえ。忘れたり、記憶からしめ出されたり、思い違えたまま安心したり、その方がずっと生きいいんだろう。古井戸をのぞいたって、仕様がないやね。やくたいもない苔こけが生えているだけで――﹂ ﹁それ、皮肉ですか?﹂ 矢木は眼をきらきらさせて、反問した。 夏のある暑い日の午後、彼はその運転手に再会した。もちろん彼はそれと知らなかったし、向うもこちらに気付いていなかった。彼は目白付近でタクシーを呼びとめて乗り込んだ。自宅の方に行く道順を説明しながら、ハンカチで額や腕の汗を拭いた。車は動き出した。動き出してすぐ、運転手が言った。 ﹁旦那。あっしを覚えてるかね?﹂ ﹁え?﹂ 汗を拭きやめて、彼は運転手の後頭部を見た。首筋にも汗はふつふつとあふれていた。 ﹁覚えているだろうね。今の道順で、あっしは思い出したんだ。あれは五月の初め頃だったかな﹂ ﹁ああ、あの時の――﹂ 後頭部からバックミラーに視線を転じた時、彼は卒然として思い起した。 ﹁僕を途中で降ろした運転手さんだね﹂ ﹁降ろしただけじゃないよ﹂ 運転手の口調は険を帯びた。 ﹁おれはあやまりに行かされたんだぜ。一日の稼ぎを棒に振ってさ﹂ ﹁そうだったね。常務とかいう肥ったおっさんと﹂ じとじととした背中を座席から引き離しながら、彼は答えた。 ﹁しかし、僕はあやまりに来いとは言わなかった筈だよ。そちらが勝手に来ただけだ﹂ ﹁あんな電話をかけて来りゃ、常務だって放っては置けないさ﹂ ﹁常務は、元気かね?﹂ ﹁あれ、死んだよ﹂ ﹁交通事故か?﹂ ﹁いや。病気でだ﹂ ちょっとの間、会話が跡絶えた。交差点の赤信号で車は停った。タオルで首をごしごし拭いながら、運転手が言った。 ﹁あの手土産も、あっしが自腹を切ったんだよ。うまかっただろう﹂ ﹁そうかね﹂ 彼は別のことを考えていた。 ﹁あの晩、僕たちを新宿で乗せた晩さ、あの時、雨が降ってたかね?﹂ ﹁雨? 何を言ってんですかい﹂ 運転手はせせら笑った。 ﹁雨のことなんか話してないよ。菓子折のことだ。ウルサ型らしいから、一番上等のを買えって、常務が言うもんで――﹂ ﹁へえ。そんな上等の菓子だったのか。中身は何だっけ﹂ ﹁カステラだよ。食べたくせに、もう忘れたのかい?﹂ ﹁食べなかったよ﹂ 彼は正直に言った。ウソをつくと、また混乱するおそれがあった。 ﹁食べなかった? 人にやったんですか?﹂ ﹁いや。燃してしまった﹂ 白い焔と甘たるい匂いが、彼にまざまざとよみがえって来た。 ﹁なるほどね。カステラを燃すと、あんな匂いがするのか﹂ 運転手は返事をしなかった。背中がすこしふくれ上ったように見えた。 窓から見る街には、風がなかった。街路樹も電線も、どんよりと動かなかった。早く家に戻って水を浴びたい。彼はへばりつく下着を皮膚から剥がしていた。押えつけるような声で、運転手が言った。 ﹁旦那。まだ賭けごとはやってるのかね?﹂ ﹁賭けごとって、何だい?﹂ ﹁そら。車の中で、連れの若い男としきりに話し合ってたじゃないか。競馬や花札のことをさ﹂ 信号が青に変って、車は動き出した。 ﹁連れの男って、途中で降りた奴か?﹂ ﹁そうだよ﹂ またしてもこんぐらかって来たな、と彼は考えながら、窓側に体をうつした。風が彼の顔を荒々しくこすった。 ﹁僕は賭けごとの話をしないよ。する筈がない﹂ ﹁いや。していたよ﹂ ﹁でも、僕は競馬も花札もやったことはないんだぜ。やったことがないのに、話は出来ない﹂ ではあの晩、矢木と何の話をしたのか、もう彼には思い出せなかった。話したという記憶はあるが、その内容は消え失せている。 ﹁すると勝負ごとは、何もやらないと言うんだね﹂ ﹁そうは言わない。将棋なら少し指す﹂ また交差点で停った。運転手はタオルを出して、掌だのハンドルなどをごしごしと拭いた。タオルは汚れて、くろずんでいた。 ﹁暑いね。旦那﹂ いらいらした声で、運転手が言った。 ﹁いっしょに氷水を飲まないか。行きつけの店が、この先にあるんだ﹂ ﹁そうだな﹂ いらいらした運転手に気をつけろと、誰からか言われたのを、彼は思い出した。早く家に帰りたいけれど、ここは我慢してつき合った方が安全かも知れない。彼は気弱く妥協した。 ﹁では、そうするか﹂ 車はそれから五百メートルほど走り、歩道にタイヤをすり寄せて停った。彼は車を出た。氷水屋の赤い旗はだらりと垂れ、のれんを分けてくぐる時、粒々のガラス玉が腕の毛をチクチク引き抜いて痛かった。氷をあつかう店のくせに、店内は街よりも暑かった。 ﹁氷イチゴ二つ﹂ そして運転手は店の隅に行き、古ぼけた将棋盤を持って来て、彼に向い合った。細いねむそうな眼が、彼の真正面にあった。 ﹁旦那。一丁指そうじゃないか﹂ ﹁なに。将棋を、ここでか?﹂ ﹁そうですよ。あんたは指すと言ったじゃないか﹂ ﹁指すとは言ったよ。しかし君とは――﹂ 言いかけて、彼は口をつぐんだ。のっぴきならないものが、背中に迫っているような感じがした。 ﹁何か賭けるのか?﹂ ﹁うん﹂ 細い眼がすこし大きくなった。眼球に赤い血管がチクチクと走っているのが見える。 ﹁負けた方が、相手に最敬礼をする。それでどうだね。旦那﹂ ﹁よし。指そう﹂ 常務の白いぶよぶよした掌が、運転手の後頭部をぐっと押す。頭は圧力にあらがいながら、結局のめってしまう。ふん。あれか。そう思ったとたん彼は全身の弛しか緩んの底から、妙な闘志が湧き上って来るのを感じて、運転手よりも先に、駒をぱちぱちと並べ始めていた。