私は汗を拭いた。いくら拭いても汗がながれてくる。部屋はひどくむし暑かった。 電灯がぼんやりと意識の隅で光っていた。 私は放心にちかい状態にいたのだったかもしれない。脚だけが小止みなく動いていた。目は絨じゅ毯うたんだけをみつめ、だが、私はそこに何の考えも眺めていたのではなかった。……私は、せまい部屋の中を、さっきから歩きつづけていたのだ。 せまいとはいっても、ここは私の城だ。ポケットの上から部屋の鍵をたたいて、なんとなく私は心が落着くような気がした。 扉と窓さえちゃんと閉めておけば、厚い壁にさえぎられて、このアパートは隣りの物音ひとつ、声ひとつとどいてはこない。 だから、私はこの部屋はとても気に入っているのだ。うるさいところでは、仕事なんかできない。仕事をするのに、そうぞうしさは禁物だ。そいつだけは、どうしたっておれは許すことができない…… 急に、私は自分がひどく疲れているのに気づいた。喉がかわいていた。 妻はベッドにいた。私は台所に行き、水を飲んだ。それから、机の抽ひき出だしをあけ、チョコレートを出してかじった。ベッドに腰をかけた。 ――そうだ、君だけがおれの友だちだ。銀紙のめくれたチョコレートの板をみつめて、私はいった。ふと、自分のその声が、私を現実につれもどした。 ――いけねえ! 私は舌を出した。忘れていた。どうしてそいつを忘れていたんだろう。いや、忘れることができていたんだろう。 手帖をみるまでもなかった。O氏がこのアパートにやってくるのは、明日の午前十時だった。O氏の、眼鏡の下でよく光る意地のわるそうな目がうかんでくる。私は、どうしても、それまでにそいつを片づけてしまわねばならないのだ。……ああ。 時間は今夜だけしかない。でも焦ってはならないのだ。よし、まず考えよう。 習慣どおり、私はベッドに仰向けに横になった。サイドテーブルに四枚のチョコレートと灰皿とを置く。アイデアはいつもこうして思いつくので、近ごろでは、こういう姿勢にならないと考えがまとめられない。 妻のからだが邪魔になった。が、私は我慢して天井を穴のあくほどみつめた。チョコレートと煙たば草こを、交互に口にはこぶ。 要するに、問題は屍体の処理方法だ、と私は思った。もう、殺すところまでは行ってしまっている。屍体には、あきらかに他殺のやりかたで、紐が首に巻きつけてあるのだ。こいつは、ここまでは何のトリックもない、いわゆる、﹁発作的兇行﹂というやつ。 そう、つまり﹁発作的兇行﹂のあと、いかにして屍体を湮いん滅めつしてしまうか――それにこの場合は焦点がしぼられているのだ。屍体を湮滅するすばらしいアイデア、それさえ考えればO・Kなんじゃないか。 そういえば、いつかのデモ事件の犠牲者は、あきらかに他殺だったな、と私は考えた、扼やく殺さつとも圧死ともとれる屍体。 でもあんな群衆のどまんなかで、だれ一人、殺したやつには気がつかなかったというのだ。そんなら、ひとつあの屍体を、デモの中にほうりこんできたらどうだろうか? ――畜生、いまはデモは休みだ。 私は舌打ちした。年がら年じゅう流血デモがありゃいいのに。チェッ。 二、三時間がたち、次第に私は熱中してきていた。まちがえていっしょに口に入れた銀紙をほじり出して、私はポーの故智に倣い、どこかの大学の屍体置場にほうりこむか、災害地に捨ててくるのも一案だ、と思った。でもこいつはそれまでが大変だ。ちょっとでも怪しまれたらアウトだ。 マンホールに落しこむのは? カービン銃事件の犯人は、この手であやうく完全犯罪を成功させるところだった。しかし、この手も屍体を運搬しなければならない。 では、屍体を煮ちゃうのはどうだろうか。 私は、だんだんと、チョコレートと煙草の効目が出てきたのを感じとった。煮るか茹でるというのはいい。なまのままのバラバラより、もっと気がきいてる。いつか、まちがえてお風呂で煮られちゃった杉並の旦那さんは、表面に厚い脂の層をつくり、ちょっとつつくと肉ははなれて溶けちゃいそうだったという。 そうだ、そうして溶けた部分を風呂場からながし、骨は根気よく叩いて粉にしちゃう。……うん、こいつはいい、だいいち新しい。これなら一人の人間の喪失、つまり﹁失踪﹂は完全だ。たとえ壁だの土だのを掘りかえされても、身許不明の屍体がみつかっても、ひやひやしないですむ。ふらりと家を出たという想定で、ついでにそんな着衣と持物を始末しとけばいい。よし、こいつはいい。これで行こう! むっくりと、ベッドの上に起き上って、私は有頂天で妻の肩をたたいた。 ――おい、できたぜ! 声ははずんでいた。これもアイデアを獲得したときの私のいつもの癖の一つだ。 が、壁の方を向いたまま、妻は答えない。何の反応も示さないのだ。 ……突然、私は思い出した。おしゃべりな彼女の唇は、もう、二度とひらかないのだ。 数時間まえ、私がありったけの力をこめて締めた彼女の首を巻いた紐が、死んだ蛇のように、そのままの形でベッドの上にうねっていた。 なんとなく、私は最後のチョコレートを口にほうりこんだ。 部屋のむし暑さがかえってきた。