ある秋の夜。むし暑く、寝苦しいまま、彼はアパートの手すりにもたれて、目の下にひろがる都会の夜を、ぼんやりと眺めていた。彼の部屋は、都心に近い高層アパートの、それも最上階にあった。 月の美しい夜ふけで、空は月のまわりだけ穴をあけたように明るく澄み、淡い煙に似た薄い雲が、ときどきそのまんまるな月の前を流れていた。しばらく風に吹かれてから、彼が部屋に戻ろうとしたとき、ふと、背後にごく小さな――まったく、ごく微かすかな、しかし明瞭な女の忍び笑いが聞こえた。びっくりして彼は振りかえった。背後には、高い夜空に突き出したアパートの手すりと月光のほか、なにひとつあるわけがなかったのだ。 しばらくのあいだ、彼は口をポカンとあけ、自分が精神錯乱におちいったのだ、とくりかえし思いつづけた。月光に青白く光る手すりの金棒に腰をかけて、豆つぶほどの一人の女が、脚を組み、手を唇にあてて笑っている。小さな、しかしあきらかに若い女性だけのもつ愛らしい澄んだ忍び笑いが、そこから、彼の耳にとどいてくる。 蟋こお蟀ろぎや、鈴虫やの見まちがいではなかった。彼は自分の耳を疑い、目を疑い、顔を近づけてしげしげとその若い女性のミニアチュアのような生物を観察した。それは、大きささえ無視して考えれば、まったく人間の若い女性、それもかくべつ美しく魅力的な女性と、かわるところがなかった。 漆黒のやわらかな髪が肩まで垂れ、まるで月の光を凝固したような色のスーツは、胸のこんもりした双つの丘のしたで花籠のように緊しまって、腰から腿にかけてのカーヴをひときわ魅惑的にしている。真白な肌。小さな紅い唇。形よくのびた脚のさきには、服とおなじ銀色の小さなハイヒールが、キラキラと光を弾いている。……しかし、その身長は、わずか5センチにみたない。 睫まつ毛げの深いせいか、その目は大きく見え、そして女は――どうみても完全な女性だった――笑っていた。愛らしく。無邪気に。彼の心に沁みるように。 思わず、彼は手をさしのばした。開いた彼の掌は汗ばみ、彼女にとっては、それはレスリングの選手の汗にぬれたマットみたいなものだっただろう。が、躊ちゅ躇うちょなく彼女はひらりとその巨大な掌のくぼみに降り、︵マッチ棒二、三本ほどの重さだった︶彼を見上げながらニッコリと笑いかけた。 ﹁……私を好き?﹂ 話しかけているのは、声ではなかった。それは彼女の目なのだった。 ﹁いい? あなたも目で話すの。お祈りと同じだわ。声なんか出しちゃ駄目よ。だって、私、吹き飛ばされちゃうかもしれないもの﹂ ﹁……わかった。目で話そう﹂ それが、彼が彼女に逢い、目で言葉をかわしはじめた最初だった。……いつのまにか、彼はたとえそれが夢であり、自分の狂気がつくりあげた幻影であるとしても、彼女といるその時間を失うのが惜しくなりはじめた。彼女が、どこからどうやってこの高層アパートの最上階に来たのか、彼女の正体はなにか、そんなことはどうでもいいと思った。問題は、いまげんに彼女がぼくの目に見えているという事実だ。せっかくやってきたこの可愛らしい、貴重な、すばらしいお客を失いたくない。ただそれだけで彼は夢中だった。 ﹁……ねむいわ。どこか眠るところない?﹂ やがて、彼女はいった。彼は、そっと両手でかこうようにして彼女を自分の机の上に運び、その抽ひき斗だしの一つに、柔らかな絹ハンカチと綿とで彼女のベッドをつくった。 ﹁おやすみ﹂ 未練な自分の気持ちをそこにしまいこむみたいに、彼はそっと抽斗しを押してやった。彼女はベッドの上で大きな欠あく伸びをしながら、机の中にかくれた。 彼は、自分がふたたび彼女を見ることができるとは、つまり明日もこの錯乱がつづいていることは、信じられなかった。だが、彼はその抽斗しを閉めるとき、通風のごく細い隙間をのこすのを忘れなかった。 眠りこけている妻のとなりのベッドに横になると、彼は、しばらくは煙たば草こをふかしつづけた。ばかげた幻覚だと思った。が、奇妙に幸福な気分ものこっていた。……ふと、妻の寝息がうるさく耳についた。休息中の巨大な機関車のような眠っている妻をながめ、そのときはじめて彼は、結婚してまる三年、妻への自分の愛が、いまでは一つの義務に似た負担になっていることをはっきりと感じとった。 翌日の出勤まえ、念のため昨夜の抽斗しをひらいて、彼はあやうく声をあげるところだった。小さな彼女は、ちゃんとそこにいたのだ。 ﹁もうお出かけ?﹂ 眩まぶしげに目をひらくと、いたずらっぽく彼女は笑いかけた。﹁安心してらっしゃい。私、あなたに無断で消えちゃったりはしないわ。ほんとよ、当分ここにいるわ﹂ そのときとなりの部屋から妻がいった。 ﹁早くしないと遅れるわよ。大丈夫なの?﹂ まるで雷鳴のように、無数のバケツを土間にほうり出したみたいに、その声は彼の全身にひびいた。……ふつうの声音だったのだが。 それから、彼と身長5センチの彼女との交際がはじまった。彼は毎日いそいで会社から帰ると、抽斗しの鍵をあける。︵ただの夢ではなかったとわかったとき、彼は彼女の部屋を鍵のかかる抽斗しへと移した。鍵穴は通風孔によかった。︶そして、いつもなにから伝えようかと惑いながら、彼女との﹁目で﹂のお話をはじめる。 どうやら、彼は気が狂ったのではなかった。小さな彼女は幸運の女神なのか、会社での勤務も評判がよく、彼の位置も課長補佐にあがった。ただ、彼はだれにも――もちろん、妻にさえも――この小さな彼女のことはいわなかった。彼女は、彼の、彼だけの大切な秘密だった。 彼女との話はたのしかった。おそらく、彼女はちがう星の生物に違いなかった。彼は、彼女から、月が四つある星の話や、それらの星たちの上での奇妙な習慣、彼女の星では実現されているタイム・マシン、宇宙旅行用のロケットの話など、彼には想像もつかない別世界の話を聞くのだった。その中にはロボットの話もあったし、意のままのものを出現させたり、時間、空間を無視して、自分を好きなところに、好きな形で存在させうる星の生物たちの話も、自分たちの手で作りあげたエネルギーで全滅した星、宇宙間の戦いの話もあった。また、いまごろ旧式の空飛ぶ円盤におどろいている星や、その存在を信じないという、彼女にいわせれば﹁知能の遅れた生物﹂の支配する星での出来ごとなどもあった。 彼女の衣裳は、そのときの光によって変化するのだった。月夜には月光の色に、太陽の照る昼は、きらめく黄金色に、朝は昧まい爽そうのバラ色に、夕暮はあたたかい茜あかね色に、そして雨の夜は、正確にその濡れた闇の色に。彼女は、まるで空気だけで充分だというみたいに、なにも食べなかった。いつもニコニコと蠱こわ惑く的にやさしかった。彼が目ざめたときに目ざめ、彼が眠るときに眠り、彼が見ていないときは、まるでどこにも存在しないもののように、彼女も彼を見ない。…… 彼の生活は、この5センチたらずの彼女をめぐってまわった。毎日、彼は飽きもせず彼女の話を聞き、彼女に見惚れつづけた。彼女はしだいに彼には欠くべからざるもの――恋人に近いものになっていった。彼は彼女を愛し、彼女といっしょに話しあっているときが、彼にとっての最高の幸福な時間だった。彼は、ほとんど妻をかまいつけないようになった。 小さな彼女、無言で話す彼女に親しみを深めて行く彼にとって、妻は、なんとしても大きすぎ、その声はそうぞうしすぎた。いつのまにか彼は、身長5センチの彼女の仲間入りをし、その目で妻を見、その耳で妻の声を聞くようになっていたのかもしれない。かつて愛した妻の肌は、いまは毛穴ばかりが目立つグロテスクな象の皮膚でしかなかった。湯上りのときなど惚れぼれしたその淡紅色に染そまった白い肌も、いま見ると皺しわだらけの、やたらと赤い斑点を散らしただんだらの臭くて粗悪なゴムの延板にすぎない。しかも皺にはかならず脂と汗がひかり、毛穴からは剣のようなおそるべき剛毛が突き出ている。 いちど接吻をしようとして、彼は吐気と恐怖とをかんじて身をそらせた。鯨が口をあけたような、赤い洞窟を思わせる巨大な暗がりのなかに、核分裂によって膨脹した奇怪なアミーバみたいな舌がひそみ、それが無数のいぼを密集させて動くのがなんとも醜怪でたまらず、おまけに自分がそのぬるぬるの赤い洞窟の中に吸いこまれ、嚥のみこまれてしまうような気がしたのだ。 ﹁……どうしたの? どうかしたの?﹂ うすく目をひらいて、妻が訊いた。彼は、思わず耳をおさえ、顔をしかめて叫んだ。 ﹁うるさい! だまってしゃべれないのか?﹂ 妻は黙り、目をうるませて横を向いた。怒った表情だった。その夜、彼は二人のベッドを部屋の中のできるだけ遠い場所へと離した。 ﹁……ねえ、なにが気に入らないの? いってよ。……ねえ、なにかいったらどう?﹂ ベッドに坐ったまま妻はいった。彼はいいかえした。 ﹁いったい君は、どうしてそんなに言葉をほしがるんだ? 人間は、みんな言葉にならないもので生きてる。言葉にはならないところに本当のぼくたちはいるんだ。言葉なんか不要で、それで心が通じあわなくって、それでどうして夫婦なんていえるんだい? もう、いいから黙っててくれ﹂ ﹁だって、私……﹂ ﹁たのむ、黙っててくれ!﹂ 妻はぷいと立ち上ると、ベッドを下りて三面鏡に向かった。彼は蒲ふと団んをひっかぶった。 彼と妻とのあいだは、だんだん疎遠になり、反比例して彼の小さな彼女への思いはつのった。妻とのしらけた時間のあと、だから彼はかならず抽斗しの鍵をあけて、5センチの彼女と﹁目で﹂話すのに熱中した。 ああ、自分も5センチの小人になり、同類となって同じ机の抽斗しの中の、マッチ箱ほどのベッドに横になって彼女を抱くことができたら、彼女と結婚することができたら、どんなにすばらしいだろう! あまりにも小さな彼女をみつめながら、彼は、ときどきどうにもならぬ欲望のとりこになり、狂ったようにシャワーを浴びたり、ベッドを撲なぐりつけたりした。5センチの彼女はあいかわらず魅惑的で、やさしかった。もしサイズさえあったら、きっと妻になってくれるだろう。なんとかして自分を小人に、または彼女を自分と同じ大きさの人間に、つまり二人の体格が合うようにできるものだったら、彼はきっとなんでも捨てただろう。…… 欲望に燃えたつからだに、刃物のように鋭い風がかえってひどく快かった。季節はすでに冬に入り、いつのまにか、十二月の終りちかくになってしまっていた。 彼はまたアパートの手すりにもたれていた。木枯しが夕暮れの街をはしり、胡麻粒のように見える人も、みんな外がい套とうの襟えりを立てて、うつむきがちな速足で歩いていた。彼はぼんやりとそれを見下ろし、その日の朝刊の見出しをけんめいに思い出そうとしていた。沸たぎるような欲望を抑えつけるときの、それは彼のいつものお咒まじないだった。 ﹁……月が出たわね﹂ 気がつくと、煤けたような夕暮の色のスーツを着た彼女が、手すりの金棒に腰を下ろしていた。 ﹁オレンジ色なのね。今夜の月﹂ 彼女の目が語るとおり、東の空に蜜柑色の巨大な月が顔を出して、それがいま、ちょうど影絵になったビルの頂上をはなれようとしていた。 ﹁ながいあいだお世話になったわ。でも、今夜ここを立ちます﹂ ﹁え? 今夜?﹂ ﹁ええ﹂ 彼の目は無言だった。しばらくは、彼女の目もなにもいわなかった。 ﹁私の休暇は、今日でおしまいになったの。それで、べつの星に、そこの生物に生まれかわりに行かなくちゃならないのよ﹂ ﹁生まれかわる?﹂ ﹁ええ。まだまだ知能の遅れた星がいっぱいあるのよ。そこの星の生物の心の指導者になりに行くの。その星で、しばらくその星の生物になってから死んでみせるの。つまり生き方のモデルね。……そこの星では、私のことを神さまなんて呼ぶのよ﹂ ﹁神さま?﹂ ﹁ええ。あなたの星の生物たちのあいだには、神さまはない?﹂ ﹁あったよ。だけど男だった﹂ ﹁女の神さまの星もあるのよ。そこでは指導者らしく、いちばんその星の生物のイメージの中での、崇高で美しいすがたになることになっているの﹂ ﹁じゃ君は、神さま?﹂ ﹁ちがうわ。向うでそう呼ぶっていってるだけ。それに私、この星には、ただ休暇をつぶしにやってきただけですもの﹂ 彼はさらに聞こうとした。いったい、彼女はどこの、なんという生物なのか。だが、すると彼女は笑いだした。はじめて秋の夜に聞いたのとおなじ、愛らしく、無邪気な、心に沁みるような澄んだ笑い声で。 ﹁……あなたがたは、あなたがたのわかっていることしかわからないのよ。だから、いくら私のことわかろうったって無理だわ﹂ 月はだいぶ上り、彼女のスーツもしだいにオレンジ色になりはじめた。 ﹁……あ、来たわ。お友だちが﹂ 彼女は金棒の上に立って、その横に、やはり同じ色の背広を着た5センチほどの青年が一人、にこやかに彼に笑っていた。 ﹁この人ね、これから太陽系の中のある星に生まれに行くの。その星の汚ない馬小舎の中で生まれてね、うんとゲンシュクな顔になってお説教をしてね、そこで裏切られて、ハリツケにされて殺されちゃうのが役目なのよ﹂ ﹁たのしい休暇でした﹂と、青年も目で話した。﹁私たちは、しばらく骨休みにこの星にあそびに来ていたんです。ずいぶん昔、私たちの仲間の一人が神さまになったはずのこの星の生物たちが、その後どんな心の動き方をするようになったか、それを参考にしがてら﹂ ﹁新あたらしい神さまが必要なようね。どうやら﹂と、彼女は青年の言葉にうなずきながらいった。﹁ここの星の人は、みんないつも不安なのね。きっと愛することを忘れちゃっているのね﹂ ﹁まったく、みんなわがまま放題でね﹂ と、青年も和した。 ふいに片手をあげ、色白で長身の美青年は、いささか茶目っけのあるしぐさで、彼の背後を指さした。 彼は振りかえった。妻がそこにいた。妻は、じっと青年の目をみつめていた。 ﹁もしぼくがお相手になっていてあげなかったら、奥さんだって、あなたがかまいつけないのを、そうそう黙ってほってはおかなかったでしょう……ね、奥さん?﹂ 青年は笑った。 ﹁じゃ、さよなら。これであなたがたの星とも、あなたがたともお別れです。ご幸福に﹂ ﹁さよなら。お元気でね﹂と、小さな彼女もいった。 5センチの美しい男女は、彼ら夫婦がさよならも目でいえないうちに消えた。あとには冬の月光を浴びた手すりだけが光っていた。 ﹁……あの小さな男、あいつはいつごろからあらわれたの?﹂ と、彼は妻に訊いた。妻は、月のほうに目を向けたまま答えた。 ﹁今年の、秋の夜よ。たしかお月さまがとってもきれいだった晩だわ﹂ ﹁そうか﹂ と、彼はいった。 ﹁あなたは、あの小さな女のひと、どこにかくしてたの?﹂ ﹁机の、抽斗しの中さ﹂ ﹁そう。……私は、三面鏡の抽斗し﹂ 妻のその声音が、ふと彼にひどくなつかしい、確実な手ごたえのある甘くあたたかなものに聞こえた。彼は、妻の肩を抱いた。……とにかく、ぼくたちは同じサイズなんだ。と彼は思った。他の星の生物たち、わけのわからない神さまたちなんてものは、たとえ存在するとしたって、ぼくらには幻影とおなじなんだ。どんなに頑張っても、やはり等身大の大きさの同類しか、ぼくたちは、本当には愛することができない。…… 妻の肩はやわらかく、その下で生きて動いている鼓動が、彼のそれと一つになり、しだいに高く、速くなった。二人は寒さを忘れていた。 目の下にひろがる夜の都会は賑やかで、鋪道には車と人間があふれていた。今夜は、ひときわネオンも美しく夜空に映えているように思える。たのしげな音楽も流れてくる。 ふいに妻がいった。 ﹁……そうだわ。今夜は、クリスマス・イヴなんだわ﹂ 二人は目を見あった。そのとき二人には言葉は要らなかった。二人は、おたがいの中に、それぞれ今夜生まれたあたらしい生命の貴重さを眺めていた。