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﹁追いかけてみようじゃないですか。まだそう遠くへは行くまいと思うが――﹂ 探偵小説家の長谷川は壁の貼はり紙がみから目を離すと、いきなりそう言ってドアのほうへ踏み出した。が、冬木刑事は何かほかのことでも考えていたらしく、 ﹁跡を追いかけるですって﹂ と気乗りのしない返事をしながら、 ﹁とてもだめでしょう。どっちへ行ったか、もう分かるもんですか。それに――ぼくは――﹂ と、やはり何か考え込んでいるらしい口くち吻ぶりである。 ﹁何か怪おかしいことでもあるんですか?﹂ 勢い込んだ腰を折られた長谷川が、踵きびすを返しながら訊きいた。 ﹁ええ、いまふと考えたんだが、あの男を犯人と睨にらむのはちと見当が違うと思うんです﹂ ﹁どうしてです! 凶器まで持ってったじゃないですか?﹂ ﹁凶器? さあ、それも疑問だが、とにかく犯人にしては少々悪いた戯ずらが過ぎてるとぼくは思うんだ。いくらなんでも、自分が人殺しをしておいて、翌日、様子を見に来るだけならまだしも、こんな貼紙までしていくなんて、ちと念が入り過ぎていますよ﹂ ﹁しかし、横着なやつだと、これくらいの悪戯はやりかねないと思いますがね。それに、昨日も四階からエレベーターに乗ったというし、ぼくはどうもこの部屋で凶行を演じたんじゃないかと思うんですが――﹂ ﹁この部屋で?﹂ 意外な言葉に、冬木刑事は目を見開きながら、探偵小説家の顔を見た。 ﹁どうも、そんな気がしてならないんですがね――﹂ ﹁では、ここへ誘おびき出だして殺したとでも言うのですか?﹂ ﹁まあ、そうなんです﹂ ﹁だって、この部屋にはだいいち窓がありませんよ﹂ ﹁そりゃ、なにもここから投げ出さなくともいいのです。四時半といえば、みんなが帰ったあとですから担いでいってもいいし、それに隣の部屋はちょうどあの部屋の真下ですもの。もしそこにだれもいなかったとすれば合あい鍵かぎを使って、四階の窓から投げ落とせないこともないのです﹂ ﹁しかし、それなら何か凶行の痕こん跡せきが残っていそうなものなのに、足跡はあるがほかになんにもないじゃないですか?﹂ 冬木刑事はがらんどうの部屋の周りや床の上を見回しながら、相手の言葉を否定するように言った。 ﹁痕跡がないといって、殴り方によっては血の一滴も出さないでまいってしまうこともあるでしょう。それから、これは医者に訊いてみなくては分からんことですが、あるいは麻酔剤を使ったかもしれんと思うのです。いずれにしても、被害者がなんら抵抗する余地もないような方法を用いたことは確実だと思いますね。でなきゃ、だれかが気がつくはずですもの﹂ ﹁そりゃそうでしょう。しかし、殺してからが問題ですね﹂ ﹁そこですよ。あなたがたの意見では、凶行はぼくたちが死体を発見した五分前ぐらいだという推定でしょう。すると、四時二十分ごろのことです。ビルディングの通勤者は大半退出したあとなのだから、昏こん倒とうした者を運んでいくくらいのことはなんでもないと思いますね。それに、あのタイピストが社長室を出たのは三時半で、北川が社長室へ入っていって社長がいないのを知ったのが四時十五分です。だから、その時からとしても二十分近い時間を、被害者はどこにいたのでしょう。そこが大いに疑問のあるところだとぼくは思いますね。しかも、瀬川が社長室を出るとき、ドアをノックした者があったので、それをさいわい出てきたというじゃありませんか。すると、おそらく被害者はその時だれかと会ったか、それとも一緒に部屋を出たかしたに相違ありません。もしその時、一緒に出ていったとすれば、三時半から四時半までどこにいたかということです。だれも、それを見た者がないというのは怪しいじゃありませんか﹂ ﹁…………﹂ 冬木刑事は返事の代わりに、いかにもといったふうに一つ大きくうなずいた。その様子は、自分は沈黙を守って、相手の意見を聞いてやろうといったふうである。長谷川は調子に乗って言葉を続ける。 ﹁何か、そこに説明がつきますかしら。どうも、ぼくはそこが問題だと思うんです。で、単なる想像かもしれんが、ぼくは共犯者があって二人がかりで巧うまくやった仕事で、とにかくここで一度息の根を止めておいて、あとで窓から落ちたように見せかけたものだろうと思いますね﹂ ﹁なるほど。それで、この貼紙についてはどういう意見です?﹂ ﹁そうですね。悪戯は悪戯でしょうが、それにしても全然関係のない者の悪戯とは考えられません。なぜといって、まるきり事件に関係のない者が、危険を冒してまでこんな悪戯をするわけがないんですもの。もし、見つかればただで済むことじゃありませんからね。それに、ぼくなんかがこんなことを言っちゃなんですが、犯罪者の中にはこうしたことをしてみたがるやつがいやしませんか。犯行のあとであなたがたをからかってみたりすることを、一種の誇りのように考えているやつです。とにかく、ぼくは事件の関係者――犯人か共犯者の仕業だと思うんです。もっと詳しく言えば、話が前に戻って、凶行に使ったか、それとも使うつもりで持ってきた凶器がその必要がなくて、この部屋へ置いたまま死体の始末をしていて慌てて逃げ出したため、それを取り返しに来たついでに、こんな悪戯をしていったんだろうと思いますね。さっきの男は確かに、外がい套とうの下に棍こん棒ぼうのようなものを匿かくしていたんですもの﹂ ﹁ご職業がら、なかなか面白い推定です。が――﹂ 冬木刑事はたいして感心もしないらしい口吻で、 ﹁しかし、ここで殺したとしても、死体をどうしてあそこまで運んだかそれが分かりませんね。なんにしても、あの傷は窓から落ちてできた傷じゃないんですから﹂ ﹁いや。ぼくもいままではそう考えていたんですが、よく考えてみると、なにもあの傷に不思議はないと思いますよ﹂ ﹁どうしてです?﹂ ﹁どうしてって、どこから落としたにしても、一階と二階の出っ張りへ一度触ったに違いないんだから、地上へ落ちたときにたいした傷のつくはずがないんです。あなたは後頭部の傷と肩の傷とは方向が違うと言われましたが、後頭部のほうを致命傷、肩のほうを出っ張りへぶち当てた傷だと考えてみたらどうです﹂ ﹁ふむ――﹂ 冬木刑事が眉まゆ根ねに皺しわをぐっと寄せた。 ﹁それならあの出っ張りに何か跡がありそうなものだと言われるかもしれませんが、肩とすれば服を通してだから血痕のつく道理はないでしょう。それに、よしついたとしても用意周到な犯人なら、それくらいのことは消していくだろうじゃありませんか﹂ ﹁しかし、それにしては死体の位置が変だったと思うが――﹂ ﹁いや、死体の位置は五階の窓から見えたんですから、あえて不思議はないわけです﹂ ﹁ええっ? 見えたんですって?﹂ ﹁見えましたとも。エレベーターのボーイや事務所の連中がみな窓口から見ていましたよ﹂ ﹁う――。そうなると、ぼくの考えは根底から覆されることになる……﹂ 冬木刑事がぐっと頭を傾けながら、顔を顰しかめて呻うめくように言った。12
冬木刑事と探偵小説家の長谷川がSビルディングの一室で話しているとき、冬木刑事の同僚で先輩である沖おき田た刑事はまるで元気のない歩あし調どりで、半はん蔵ぞう門もんから三みや宅けざ坂かのほうへ向いて寒い風に吹かれながら濠ほり端ばたをとぼとぼと歩いていた。 彼は最近、自分の仕事に対してなんの興味も感じないのみか、ときどきは職業変えをしたいとさえ思うこともあった。ことに今日という今日は、つくづく刑事という仕事が嫌になっていた。まだ年と齢しを取ったなどとは自分では思っていないが、それでも冬木刑事よりは七つ八つ上で、そろそろ五十に手が届こうとしているのだから、若い者が幅を利かす刑事社会では、もう老朽といわれても仕方のない年配である。 長男は中学を卒おえて、高等学校の試験を受けようとしている。この四月には末の子も小学校を卒業するのだ。自分では元気なつもりでも、身の周りを振り返ってみるとやっぱり年齢は取ったのだ。それに仕事が仕事だけに、どうしても若い者には敵かなわないと自分でもつくづくと考えだした。二、三年前までは、どんな事件にぶつかっても、なに糞くそという競争心があって力ちか瘤らこぶが入ったし、自分から難しい仕事に当たってみたいという気もあったが、この節ではそんな元気も起こらない。自分でそう思うくらいだから、周囲の者が自分を相手にしないのも無理はない。―― 今度の事件でも、署長や主任が冬木刑事に自由活動を許しているのに、自分にはまるで経験の浅い若い者を扱うように、いちいち命令を与えて追い使おうとしている。彼がそれに不満を感じたのはもちろんであるが、さればといって自分のほうからそれに対して抗議を持ち込むだけの勇気もなかったのだ。 昨ゆう夜べ、司法主任や冬木刑事と現場へ行った彼は、すぐそこから若い刑事と二人で工場のほうへやられ、職長の桝本順じゅ吉んきちに会って解雇工員中の不良分子のリストを手に入れると、それらの工員を調べるために番地の分かりにくい郊外の町を一時過ぎまでも歩きまわって、署に電話をかけておいて家うちへ帰ったのはもう二時に近かった。 前夜が遅かったからといってゆっくり寝てもいられず、眠い目をこすっていつもよりも早く署へ行くと、署長と司法主任はろくろく自分の報告など聞こうとはせず、冬木刑事の昨夜の活動から捜査方針を長々と話し聞かせて、これからすぐ被害者の遺族を訪問して、何か材料を掴つかんでくるようにと命ぜられた。 できることなら、彼は前夜の捜査の続きをやらせてもらいたかった。骨は折れても、何か手がかりが掴めそうな気もしたし、また長い自分の経験から不良工員のほうに目をつけるのが採るべき道であるようにも思われたのである。それを捜査方針が変わったとはいえ尻しり切きれとんぼにしておいて、遺族のほうの調査に回されたということは彼にとっては決していい気持ちはしなかった。でも、命令とあればぜひもない。彼は言われたとおりに、元もと園ぞの町ちょうの西村の家を訪ねたのである。すると、妻君は気が顛てん倒とうして昨夜から床に就いたきりで面会はできないというし、孝たか子こという娘に会ったが何も事情は分からず、詰めかけていた親しん戚せきのだれかれに訊いても、格別手がかりになるような話も出ず、結局知り得たものは昨夜、現場で技師長や社員から聞いたことと大同小異であった。 ﹁これでは手がかりどころか、報告にもなりはしない。――署長や主任にいやな顔をされるばかりだ﹂ 空っ風と一緒に吹き上げてくる砂さじ塵んに顔をそむけそむけしながら、彼はさっきからいくたびそう心の裡うちで呟つぶやいたことであろう。署を出てから、もう二時間余りにもなる。その間に、どんな新事実が発見され、それによって捜査方針がどう変更されたかも分からない。もし、犯人の目星でもついたなら、一人でも人手が欲しいところだろう。しかし、彼は署へ電話をかけてみる気にも、このまま電車へ飛び乗って引き揚げていく気にもなれなかった。 三宅坂を下りて、参謀本部︵旧陸軍の中央統帥機関︶の下まで来たとき、彼はふと警視庁にいる小こに西し警部のことを思い出した。警察界にほとんど同時に職を奉じた同なか僚まであるが、掏す摸りや賭とば博くのほうに明るくて、彼が十余年来、警察署を回らされているのに、ずっと警視庁を動かず、一おと昨と年しかに考査試験に通っていまでは強力犯係の警部として敏腕を謳うたわれている男である。その小西にしばらく会わないのと、署へ帰りたくない心とが手伝って、彼は警視庁へ油を売りに寄ってみようと思いついたのである。 もう電車へ乗るほどのことはなかった。桜さく田らだ門もんをくぐって、宮城前の広場を彼は前よりはいくらか歩調を早めて、馬ばば場さき先も門んの仮庁舎まで歩いていった。そして、長い廊下を強力犯係の部屋の前まで行って、ドアに手をかけようとすると、 ﹁沖田くんじゃないか!﹂ と、後ろから呼びかける声がした。振り向くと、隣の係長室から出てきたのであろう、制服姿の小西が酒太りのした赤い顔をタオルで拭ふきながら、ばかに元気な様子で近づいてきた。 ﹁相変わらず忙せわしそうだね﹂ ﹁うん、忙しい忙しい。どうもやりきれんよ。朝っぱらからの大活動で、いま贓ブ品ツを持ってきたところだ。まあ入りたまえ。ちょうどいい、これから一服やろうというところなんだ﹂ ﹁掏摸かい?﹂ ﹁うん、磯いそ貝がい金きんの乾こぶ児んだ。この前、挙げたときはまだ年齢が足らんで放してやったんだが、それがいつの間にか一人前になってね――ほら、このとおりだ﹂ 小西警部はドアを開けると、入口の右側のデスクの上に、いっぱい積んだ贓ぞう品ひんの山を指した。 時計がある。折皮の鞄かばんがある。女持ちの装身具や手提げがある。それがみな、相当に金かね目めのものばかりだ。 ﹁箱師かい、往来かい?﹂ ﹁どっちもやるが、まあ、駅のほうだね。近ごろは、そこらのビルディングもだいぶ荒らしてたようだよ﹂ ﹁うむ﹂ 沖田刑事はビルディングと聞いて、ふと心のどこかを刺されたような気がした。と同時に、なにげなくデスクの上の黒い折皮の鞄を手もとに引き寄せながら、金具の右側に消えかかった二つのイニシァル︵頭文字︶にじっと目をやったと思うと、思わず、 ﹁おや!﹂ と叫んだ。13
﹁こりゃ、えらいものを見つけたぞ!﹂ 沖田刑事は鞄のかぶせ蓋ぶたに打ち込まれた頭文字に吸いつくように見入っている。 ﹁なんだね。えらいものって?﹂ 頓とん狂きょうな声に驚いた小西警部が、覗のぞき込こむようにして訊くと、 ﹁これだよ、この鞄に違いないんだ。ぼくのほうの事件さ。それ、Sビルディングの﹂ ﹁うむ。聞いた聞いた。あれとその鞄とは何か関係があるのかい?﹂ ﹁大ありだ。これがあの被害者の鞄なんだ。被害者の部屋から見えなくなったので、捜していたんだ。あすこの社員の話では、この中に二千円の現金が入っていたというんだ﹂ ﹁ほう、そいつはことだ。しかし、この鞄に違いないかい?﹂ ﹁間違いないよ。ここに打ち込んであるY・Nというのが西村陽吉のイニシァルなんだ。実はぼく、たったいま遺族を訪問して調べてきたんだが、目印はこれだと言ってたから間違いないんだ。待ってくれたまえ。念のために調べてみよう﹂ 沖田刑事はいい加減手ずれのしたボックスの黒皮の鞄を手に取って、かぶせ蓋を開きながら中を覗いていたが、一つの封筒を取り出すと、 ﹁間違いない。被害者宛あての手紙が入っている。きみ、なんというんだい? その掏摸は?﹂ ﹁留とめ公こうというんだがね?﹂ ﹁挙げてあるね?﹂ ﹁うん、留置場へ入れてあるんだ。ひと休みして、それから調べようというところなんだ﹂ ﹁そいつはありがたい。ぜひ、ぼくを立ち会わして、この鞄のことを訊かしてくれないか?﹂ ﹁お安いご用だ。殺人事件と関係があっちゃ、ぐずぐずしてはいられまい。では、さっそく調べ上げることとしよう。でも、待ちたまえ、一服やらなくては――﹂ 小西警部は自分の席へ戻りながら、入口に近い机に腰をかけている若い刑事のほうを向いて、 ﹁田たや山まくん、留公を引っ張り出してくれたまえ。四号室が空いてるはずだ﹂ それから煙きせ管ると煙たば草こ入いれを抽ひき斗だしから取り出すと、二、三服大急ぎで吸いつけながら、問題の鞄を取り上げた。 二人が調室へ入っていくと、間もなく田山刑事が二十三、四と思われる色の白い青年を連れて入ってきた。 ﹁留公﹂ 小西警部はまるで、友人にでも話しかけるような口調で訊じん問もんをはじめた。 ﹁今度はどうせ二、三年食らい込むんだからな、手数をかけんで、何もかも奇麗にしていくんだぞ。どうだ、いちばん新しいところはどこだい?﹂ ﹁どこって旦だん那な、捕まったところがいちばん新しいじゃありませんか﹂ 訊かれるほうでもしゃあしゃあとしたものである。 ﹁そうか。そいつは一本まいったね。それは別としてだ。昨日どこかで稼いだろう?﹂ 掏摸の留公はもじもじしながらしばらく小西警部の顔を見ていたが、第二の追及に会うともう観念したのか、 ﹁旦那も人が悪いね。そんなものを目の前へ置いといて訊くんだから――仕方がない、言っちまいましょう。その鞄がいっとう新しいんですよ﹂ ﹁そうだろう。どこでかっぱらった?﹂ ﹁昨日の夕方、Sビルディングでちょっと失敬したんです﹂ 沖田刑事が固かた唾ずを呑のんだ。彼は自分から進んで訊問してみたいとさえ思った。 ﹁Sビルディングの五階の西村という電機商会の社長室だろう?﹂ ﹁よくご存じですね。旦那﹂ ﹁知ってるとも。それからこの中に二千円の現金が入ってたろう?﹂ ﹁へえ﹂ 留公が頬ほっぺたでも殴られたように唖あぜ然んとした顔をした。 ﹁しらばっくれるな。二千円の札束が入ってたろうというんだ﹂ ﹁じょ、冗談じゃない。札束なんか入ってるもんですか。鐚びた一いち文もんも入っちゃいませんでしたよ﹂ ﹁あとで泥を吐いたら承知せんぞ﹂ 警部の声が大きくなった。 ﹁だれが嘘うそなんか吐つくもんですか。旦那、これでもあっしは江戸ッ子ですぜ﹂ ﹁ふん、立派な江戸ッ子だ。それでと、金のことはまあ後回しとして、てめえはどうしてあの社長室へ入ったんだ。だれもいなかったのか?﹂ ﹁そうですね。まあ、いなかったというんでしょうね。ありゃ、四時ちょっと前でしたよ。何か拾いものはないかと思って、Sビルディングへやって来たんです。エレベーターを三階で降りてうろうろしてたんですが、何もないので四階から五階へと階段を上がっていくと、ちょうどエレベーターを降りた一人の男が、筋向こうのドアの前に立って、こつこつとやっているんです。あっしはその前を通り過ぎて、廊下を左へ曲がろうとしてなにげなく振り向くと、ドアを叩たたいていた男といま一人の男が、廊下を反対に階段のほうへ行くんです。だもんで、すぐ引っ返して鍵穴から覗くと、中にはだれもいないで、テーブルの上にそいつが載っているんです。おまけに、ドアを押すとわけなく開いたんで、こいつはうまいと思って、さっさと持ってきたんです。ところが、なにしろ時刻が時刻なもので、途中で開けるわけにもいかず、家まで来て開けてみると驚きましたね、読めもしない書類ばかりで、金目のものはなに一つ入っちゃいないんです。あんな当ての違ったばかばかしいことったら近ごろありゃしません。総体、昨日はしけでしてね。てんで――﹂ ﹁よくしゃべるやつだな。余計なことまで言わんでいい。それよりも、いま一度念を押して訊くがね、金は途中で抜き出して銀行へでも持っていったんじゃないのかい﹂ ﹁旦那、冗談にもほどがありますよ。二千円なんて現ナ金マが入ってたら、だれが今朝あたり稼ぎになんぞ出るものですか。そんなに根性の卑しいやつは、あっしらの仲間にゃいやしませんよ﹂ ﹁そうかねえ。掏摸ってものはそんなに肚はらのいいものかねえ﹂ 小西警部は笑いながら言ったが、それは反語でも嘲ちょ笑うしょうでもなかった。そうした犯人を長年取り扱った経験から、相手の言葉に偽りのないことは充分に認めてはいるものの、ただ盗んだ品が品であり場所が場所だけに、かなりしつこく訊いているのだということは、傍らの沖田刑事にもよく分かっていた。 事実、二千円もの現金を手にしたら、すぐその翌日稼ぎに出るようなこともあるまいし、また証拠品になる鞄をそのままにしておきもしまい。それにだいいち、ぺらぺらしゃべり立てる留公の態度から推して、口から出任せのでたらめを並べているとは思えない。まして、彼が鞄を盗とるために被害者を窓から突き落としたものとは想像もされないことである。すると、その陳述はそのまま事実と認めてもいい。ほかに訊きたいことがある。――被害者を外に連れ出した男、それが何者であるかを知りたい。自分に訊問させてくれればいいのに――そう思って、沖田刑事がじりじりしながら立っていると、それと察してかどうか、ふたたび口を開いた小西警部が、偶然にもその問題に触れてきた。 ﹁よし。じゃ、まずそれはそれとして、おまえが五階へ上ったとき、エレベーターを降りて、ドアをノックしてた男というのはどんなふうの男だった?﹂ 沖田刑事は、よく言う言葉だがまったく緊張そのもののような顔をして、留公の口もとを睨みつけた。が、留公のほうでは意外なことを訊かれるものだといったふうで、目をぱちくりさせながら警部の顔を見返した。 ﹁覚えてないのか? どんな風かお貌かたちの男か? どんな服な装りをしていたか?﹂ ﹁そうですね。職人みたいな男でしたっけ。詰襟に鳥打を冠かぶって、厚い外套を着てましたよ﹂ ﹁顔は?﹂ ﹁さあ、後ろからだったので、横顔をちらと見ただけなんですが、ちょっと旦那のような顔をしていましたよ﹂ ﹁こらこら、おれに似てるなんていい加減なことを言っちゃ困るぜ。もっと詳しく言うんだ。だいいち、丸顔かい?﹂ ﹁ええ、丸い赭あか顔らがおのようでした。年ごろもやっぱり旦那くらいのものでしょう﹂ その時、突然、沖田刑事が横合いから口を出した。 ﹁髯ひげがなかったかね、濃い髯が?﹂ ﹁髯ですか?﹂ あまり出し抜けだったのと、言葉の調子が急だったので、留公は面食らったふうで、しばらく首をかしげていたが、 ﹁そうそう、確かに髯がありましたよ﹂ ﹁きっとだね。思い違いではあるまいな?﹂ ﹁大丈夫です。ちょっと見ても怖いような顔だったので、よく覚えています﹂ * * * ﹁どうだ。見当がついたかい?﹂ 調室を出ると、小西警部がさっそくそう言って訊いた。 ﹁うん。お陰で、おおよそ見当がついたようだ﹂ ﹁何者だい。いったい?﹂ ﹁被害者が経営してる工場の職長だ。昨ゆう夜べ、ぼくは会ったんだがね。しらばくれて、そんなことはひと言も言わなかったんだ。さっそく、引っ張ってきて調べてみなくちゃならん。いずれお礼には来るが、今日はこれで失敬しよう。いや、どうもありがとう﹂14
警視庁へ入っていったときの沖田刑事と出てきたときの沖田刑事とは、まるで別人のような観があった。目の色が光っていた。顔全体が輝いていた。むろん、足の歩きっぷりまで違っていた。
詰襟の服、丸い赭顔、濃い髯。それは昨夜、西村電機工場で会った桝本職長の顔ではないか。一見して怖いという感じを与えるといった留公の言葉も当たっている。なんとなくひと癖ありそうな面構えだ。
その桝本が、昨夜会ったときに、社長の死を知りながら一時間前に自分がその人を訪ねたことをひと言も口にしなかったのは不思議である。それに、留公の言ったことが嘘でないとすれば、社長を訪ねてその部屋へ入らずに外へ連れ出したというのもただごとではない。
犯人か? それとも共犯か?――いずれにしても嫌疑をかけてしかるべき男だ。まかり間違っても何かの手がかりは掴めるに決まっている。
彼はさっき西村の遺族を訪ねたとき、紋付羽織の桝本の姿をちらと見たことを思い出して、自分の幸運を喜んだ。彼は面を冠ってお悔やみかたがた手伝いにでも来ているに違いない。これからすぐ元園町へ引っ返して引っ張ってくるとしよう。そして、自分を老おい耄ぼれのように思っている署長や司法主任の鼻を明かしてやろう。
彼はもう犯人を捕らえたような気持ちで足も宙に日ひ比び谷やの交差点まで来ると、おりから通りかかったタクシーを呼び止めて、元園町へと急がせた。
桝本は沖田刑事の顔を見ても格別驚いたふうもなかった。同行を求められても嫌な顔も見せず、一度家の中へ入って帽子を手にして出てくると、紋付袴はかまの服いで装たちでそのまま自動車に乗り込んだ。
事件が事件であり、相手が相手だけに、沖田刑事は署に着くまではなるたけ口を噤つぐんで問題に触れないようにした。桝本のほうでも平気な顔はしながら、心中では何か考え込んでいるらしくほとんど口を開かなかった。
自動車が××署の前に止まると、沖田刑事は蟇がま口ぐちの底をはたいて車賃を払いながら、二階の一室へ桝本を連れ込んでおいて、とりあえず署長室へ報告に行った。
むろん、署長は非常な満悦であった。というよりも、沖田刑事が司法主任や敏腕な冬木刑事を出し抜いて、もっとも有力な容疑者を引っ張ってきたことを奇跡ででもあるかのように驚いているのであった。
さっそく取り調べることになって、二人は二階へ上がっていった。小さいテーブルを中に署長が桝本と相対し、署長の右に沖田刑事が腰をかけた。人並外れて身から体だの大きい署長と、でっぷり太ったあまり人相のよくない職長と、痩やせ形がたの沖田刑事との鼎てい坐ざは、もし傍はたから見ている者があったなら、すこぶる珍な対照だったに違いない。
﹁きみは西村電機工場の職長をしているそうだね?﹂
署長は癖のある嗄しわがれ声ごえで桝本を見下ろすようにして、真っ向から訊きだした。
﹁はい、職長を務めております﹂
桝本はおとなしく答えた。
﹁きみは昨日、午後四時前後に、Sビルディングに西村社長を訪ねただろう?﹂
つい、この夏の更迭まで警視庁の刑事課にいて、容疑者調べのこつを心得過ぎるほど呑み込んでいる署長は、ひと癖ありげな桝本を見て単刀直入、まず敵の度胆を抜く戦法に出た。が、相手はいっこう動じるふうもなかった。
﹁ええ。たぶん、そのことでお訊たずねだろうと、わたしも思っておりましたが﹂
桝本は訊かれるのを待ってでもいたというふうで、沖田刑事のほうを見ながら、
﹁昨夜、この方がお見えになったとき、よほどお話ししようかと思いましたが、まあ余計なことは申し上げないほうがよいと思って黙っていたんです。お訊ねになるまでもありません。電話では話しにくい急用ができたもので、午後四時ちょっと前でした、事務所へ社長を訪ねました﹂
﹁電話で話しにくい用事というのはどんなことか?﹂
﹁工員の問題でして、ちょっと不穏な形勢がありましたので、相談に行ったのでした﹂
﹁事務所へ行ってから、社長に会ったのか?﹂
署長はちょっと鎌かまをかけた。
﹁はい、会いました﹂
﹁社長室で会ったのか?﹂
﹁いいえ、社長室では都合が悪かったので外へ呼び出して、四階の空いた部屋で用談を済ませました﹂
答弁はすらすらとしてなんの淀よどみもない。署長も沖田刑事もいささか案外な気持ちになってきた。
﹁どういう用談で会ったか。どんな都合があって社長を連れ出したか、その辺のことを詳しく話してみたまえ。そこがはっきりしないと、きみの立場が非常に不利になるんだ﹂
﹁それはわたしにもよく分かっております。で、昨夜もよほどこの方に申し上げようかと思いながら、事情が少々込み入っていますので、控えておりましたが、お訊ねとあれば仕方がありません。すっかり申し上げましょう――﹂
桝本職長はそう言ってひと息つきながら、相変わらず泰然自若たる態度で話しだした。
﹁こと細かに申し上げても仕方のないことですが、この不景気と事業不振で先月の末に二十人ぐらいの工員の馘くびを切ったのです。ところが、お聞き及びでもありましょうが、その連中が慰労金一万円の要求を持ち出して、もし容いれられなければ残った連中を抱き込んでストライキをやろうという運動を始めたのです。なに、そんな運動や脅迫に驚くような西村さんではないんですが、ただ一つ困ったことには残った工員の中になんとも始末に負えないのが一人おりまして、それが近ごろ流はや行りの主義者かぶれ︵社会主義思想の信奉者︶で、いやに解雇工員の肩を持つんです。で、わたしは再三、そいつの馘を切るように西村さんにお話ししたんですが、そこがまた妙な関係で西村さんとしては思い切ったことができない事わ情けがあって、そいつはいよいよ図に乗るという始末になってきたのです。もっとも西村さんはあんな剛腹の人で、それに工員との交渉はすっかりわたし任せにして一度も直接ぶつからなかったので、たいして気にもかけなかったようでしたが、朝夕、工員と顔を合わすわたしとしてはどうも形勢が不穏で、この二、三日、夜もおちおち寝られなかったくらいでした。ところが、昨日の正ひ午る過ぎになっていよいよ雲行きが怪しく、工員は仕事も手につかぬようで、そこここに集まってぶつぶつやっているので困ったものだと思っていると、案の定、二時過ぎに解雇工員の代表者が一人と、残った工員の代表者が二人――その一人はいまお話しした西村さんと妙な関係のあるやつですが、わたしの部屋へやって来て、復職か、一万円かという強こわ談だん判ぱんを持ち出したのです。わたしはむろん、きっぱりと撥はねつけました。すると、﹃きさまじゃ分からん、直接西村に談判するんだ。それで承知しなきゃ殴り殺してやる﹄と怒鳴り散らして出ていったのです。まさかとは思ったものの、大きな棍棒も持っているし、それに電車通りのほうへ急いで行く様子なので、もしもと思ってわたしも跡を追って飛び出したのです。その時、とりあえず電話でとは思いましたが、そこらに工員がうろうろしているので電話をかけるのも気まずく、それにどうせ会って話さなければと思って、そのまま飛び出したわけなんです。大急ぎで電車通りへ出ましたが、三人の姿は見えません。きっと電車に乗ったんだろうと思ったので、わたしはおりからやって来た乗合自動車︵バス︶に飛び乗って――そうです、Sビルディングへ着いたのが四時ちょっと前だったでしょう。慌ててエレベーターへ飛び込みましたが、いまにも彼らがやって来るような気がしてならないのです。それで、ドアを叩いて西村さんが顔を出すと、ともかく部屋の外へ連れ出して四階へ下りていったのです。つまり、会談中に彼らがやって来てはという懸念からです。すると、西村さんが廊下での立ち話も変だと言って、空いた部屋があるのをさいわい、ドアを押すとわけなく開きましたので、そこへ入って五分間――あるいはもっとだったかもしれませんが、話をして別れたのです﹂
﹁西村さんは、それからまた五階へ上がっていったのか?﹂
﹁それは知りません。一緒に出るものと思って、わたしはひと足先に出ましたものですから﹂
﹁それで、きみはその三人に会わなかったのか?﹂
﹁会っては具合が悪いので、階段を通って裏口のほうへ出ましたので、だれとも会いませんでした﹂
﹁で、その主義にかぶれているというのは、なんという男だ?﹂
﹁舟ふな木きし新んじ次ろ郎うという男です﹂
﹁舟木新次郎?﹂
署長はちょっと小首をかしげながら、
﹁年と齢しは?﹂
﹁二十八、九だと思います﹂
﹁棍棒を持っていたというのもその男かね?﹂
﹁そうです。三尺ぐらいの樫かしの棒だったと思います﹂
﹁ふむ――。ところで、その舟木と西村さんとの関係というのはなんだ?﹂
﹁それが、ちょっと申し上げにくいんですが――﹂
桝本が初めて答えを渋った。
﹁言いにくいといって、大切な場合じゃないか。ありのままに言いたまえ!﹂
署長がそろそろ持ち前の声を出しかけた。
﹁仕方ありません。実は当人とわたし以外にはだれも知らないことなんですが、――舟木は西村さんの愛人の弟なんです﹂
﹁ふむ。愛人の弟か――それで?﹂
﹁それも、西村さんは最初、舟木のことなど知らずにそのお蝶ちょうさんというのを落ひ籍かしたんです。ところが、あとから舟木が出てきて厄介を持ち込むので、西村さんは持て余してわたしのほうへ回してきたわけです。が、なにしろ、いまもお話ししたようなわけで、主義者かぶれで始末に負えない上に、内心、西村さんを快く思ってないもので、なにかにつけて工場の空気を紊みだして仕方がなかったのです。それゆえ先月、二十人ぐらい解雇したときに少し手当を余計出して一緒に始末しようと西村さんに言ったんですが、西村さんとしてはあとがまた厄介なもので、うんと言わず、そのままになっていたのです﹂
﹁なるほど。――ところで、舟木が西村さんを快く思ってないのは、何か特別の事情でもあったのか?﹂
﹁特別の事情といって――いつでしたか、わたしと一緒に酒を飲んだときのことです。盛んにメートルを上げて悪口を言っていましたが、やはりその、主義者かぶれだけに自分の姉が西村さんの愛人になっているのが面白くないらしいんです。姉を解放するために、機お会りがあったら西村をやっつけてやるんだなんて言いますから、あとで懇々と説いて聞かしたことでしたが、どうも年齢が若くてひねくれた者は手がつけられませんので――﹂
﹁ふむ――。で、その舟木は今日、工場へ出ているのか?﹂
﹁家がすぐ近くなので、今朝、ちょっと工場へ出てみましたが来ていたようでした﹂
﹁いま一人の男は?﹂
﹁それも来ていたと思います﹂
﹁ふむ――﹂
署長はそう言ったままじっと考え込んだ。