一
﹁うんいいね、静かな趣きだ﹂ 石川孝之介はそう云って、脇にいる角屋金右衛門に頷うなずいた。 ――なにを云やあがる。 栄三郎は心の中でせせら笑った。 孝之介は、藩の家老石川舎とね人りの長男だという。年は栄三郎より五つ六つ若いだろう、二十六七歳と思えるが、家老職の子らしいおちつきと、すでに一種の威厳のようなものが備わってみえる。躯からだも顔もやや肥えてまるく、色が白く、だがその大きな︵またたきをしない︶眼には、意地の悪そうなするどい光りがあった。 ﹁お上はたいそう冬の武むさ蔵し野のをお好みあそばしますので﹂と角屋金右衛門が云った、﹁およそこういうものをと、私から古渓先生にお願い申したのでございます﹂ ﹁閑寂な気分がよく出ている、悪くない﹂孝之介が云った、﹁この枯れた栗林がことにいい、いかにも武蔵野というふぜいだ、私も出府したとき江戸の近郊をだいぶ歩きまわったものだが、これは関口の大滝の上あたりを写したものではないか﹂ 金右衛門が栄三郎を見た。 ﹁失礼ですが、それは栗林ではなく、くぬぎ林です﹂と栄三郎が答えた、﹁それにこれは、写生ではなくて絵ですから、どこそこの景色だなどということはありません﹂ 孝之介はこちらへ振返った、栄三郎は黙ってそれを見返した。 彼は石川孝之介が気にいらなかった。べつにはっきりした理由はない、自分が直参の侍の出だから、家老の子などというと反撥を感じるのかもしれないし、また、絵がまだ纒まとまっていないからと断わったのに、どうしても見ると云い張った権けん柄ぺいずくに肚はらが立ったのかもしれない。いずれにしても、初めて顔を見たとたんに、こいついやなやつだと思った。 孝之介の唇が、ごくかすかに歪ゆがんだ。 ﹁自信をもつというのはいいことだ﹂彼はこう云って、下絵のほうへ手を伸ばした、﹁しかし、これがもしこのまま襖ふす絵まえになるのだとすると、肝心な、なにかが足りないように思うな﹂ ﹁この絵にですか﹂ ﹁そう、この下絵にね﹂ 孝之介は下絵の一部へ手を向け、伸ばして揃そろえた指を反らせて、その一部へなにかを塗るようなしぐさをした。 ﹁ここだよ、この小こみ径ちが林から出て、――くぬぎ林だそうだね、――この林から出て川の土橋へかかるこの部分に、さあ、なんといったらいいか、その、……﹂彼はわざとらしく口ごもり、首を捻ひねった、﹁つまりもっとも肝心なもの、竜の眼、要するに点ずべき睛ひとみといったふうなものが、この辺になくてはならないと思う﹂ 栄三郎は微笑した。それは心の動揺を隠すためのようで、そのあとからたちまち顔が赤くなった。孝之介は振返ってそれを見た。大きな、またたきをしないその眼は、こちらの心のなかまで見透すようであった。栄三郎はなにか云い返そうとしたが、角屋の迷惑になると思って、じっと怒りを抑えていた。 ﹁描きあがる頃にまた拝見しよう﹂孝之介はそう云って立った、﹁いやそのまま、送らなくともいい﹂ 刀を右手に持って、孝之介はゆっくりと出ていった。 栄三郎は坐ったまま、ぎらぎらするような眼で下絵をにらんだ。それは襖絵の下図であった。縦三尺に横十二尺の大きさで、枯れたくぬぎ林と野川の景色が水墨で描いてある。くぬぎ林の中には枯れた薄すすきにまじって若い杉の木が五本あり、土橋を架けた野川の畔ほとりには、実をつけた茨いばらの茂みがあって、その枝から一羽の鶫つぐみが飛び立とうとしている。そうして、林をぬけ土橋を渡り、枯野のかなたへと延びている一と筋の小径が、︵その風景ぜんたいに︶森閑とした冬の侘わびしさと静けさの効果を与えているようであった。 ﹁肝心なものが、ねえって﹂と栄三郎は呟つぶやいた、﹁――竜の眼、点ずべき睛がねえって﹂ 彼は軽侮するように肩をすくめたが、眼はやはりぎらぎらしていた。 廻り縁からおけいが顔を覗のぞかせた。角屋金右衛門の娘で、年は十八になる。愛あい嬌きょうのあるまる顔で、おちょぼ口やよく動くいたずらっぽい眼もとに、まだ子供らしい感じが残っているが、五尺三寸ばかりある躯は、かたちよくのびのびと成熟して、なにげない動作にもしぜんと女らしい媚こびがあらわれた。 ﹁あの人なにか云いまして、三宅先生﹂おけいは座敷へ入って来ながら云った、﹁なにか失礼なことを云いましたでしょ、あの人﹂ 栄三郎は黙って振向いた。おけいは坐って、両の袂たもとを膝ひざの上で重ね、心配そうな口ぶりとは反対に、陽気な眼つきで栄三郎を見た。 ﹁もしそうだとしたら、ちっとも気になさることはございませんわ、あの人の頭の中には二つの事しきゃなくって、あとはただそのときばったりのでたらめを云うばかりなんですから、ほんと、あたしよく知っていますわ﹂ ﹁それがそうでもないんだ﹂栄三郎はにがにがしげに云った、﹁そうでないどころか、私が不満に思っていたところをぴたりと云い当てたよ﹂ ﹁あの人の頭の中にはね﹂とおけいが云った、﹁自分が御家老の息子だということと、女のことしか入っていませんの、そのほかの事はなんにも、それこそすっからかんのからっぽですわ﹂ 栄三郎はおけいを見た。 ﹁ほんと﹂とおけいは云った、﹁あの人は女さえ見れば自分のものにしたがるんです、三年まえに奥さんをもらってからでも、ちょっときれいな女の人を見ると、すぐに手を出したがるんですから、いつかなんてあたしにまでへんなことをしようとしたくらいですわ﹂ 栄三郎は下絵のほうへ眼をやりながら、興もないというふうに呟いた。 ﹁しかし、あの男の云ったことは本当だよ﹂ おけいは肩をすぼめた。 ﹁私の迷っているところをずばりと云い当てた﹂と彼は続けた、﹁そこが定きまれば描きだせるんだが、どうもっていったらいいか見当がつかない、――ここからこの辺なんだ、ここからこの辺になにか足りないものがある、あの男は点ずべき睛がないと云やあがった﹂ ﹁あたし失礼しますわ﹂おけいはそわそわと立った、﹁踊りのお稽古にゆくところでしたの、ほんと、おちゃぼが待っていますのよ、お邪魔を致しました﹂ 栄三郎は、じっと下絵をにらんでいた。二
六月はじめの午後、――よく晴れて暑い日だった。 座敷いっぱいにひろげた下絵を前に、栄三郎は気のぬけたような眼つきで坐っていた。石川孝之介が来た日から七日のあいだ、殆んど一日じゅうそんな恰好で坐りとおした。彼はその絵になにが足りないかを考え続けているのだが、頭の中ではいろいろな思いが絡みあって、彼の気持をぐらつかせたり、また絶望的にさせたりした。 ――きさまは絵師ではない、けちな旗本の道楽息子じゃないか。そんな嘲ちょ笑うしょうの声が絶えず耳のそばに聞えた。まさに彼はけちな旗本の三男である。父は数右衛門といい、五百石ばかりの小普請組で、頑固と謹直だけがとりえの、気むずかしい人柄であった。長兄の伊織も父の性分をそのまま写したような人間だったし、次兄の数馬も︵これは早く他家へ養子にいったが︶癇かん癪しゃくもちではあるがくそまじめな性質であった。栄三郎だけは誰にも似ず、形式だけは学問も武芸もやったが、少年じぶんから絵を描くのが好きで、学問所へゆくとみせては、横井宗渓という絵師のもとへ通った。宗渓は狩かの野う派はから出て、大和絵ふうを加えた独特の一派をひらいたが、あまり世間に迎えられず、どちらかというと不遇の人であった。栄三郎は十六の年から八年ばかり教えを受けた。絵の稽古は初めの三年くらいで、そのあとは飲むことと遊ゆう蕩とうのほうが主のようになった。栄三郎の顔さえみれば、宗渓はすぐに﹁おい、でかけよう﹂と立ちあがる。いつも貧乏だから、飲むのは居酒屋であり、遊ぶといってもよくって新吉原の小格子、たいていは岡場所と定きまっていた。そんなふうだからしぜんと借金が溜たまる、見てもいられないので、栄三郎も家の物を持出すようになり、それが父親にみつかって、勘当された。――そのとき、角屋金右衛門が彼をひきとって、面倒をみてくれることになった。金右衛門は志摩のくに鳥と羽ば港で、回船と海産物の問屋を営んでいる。また藩家稲垣氏の御用商であって、江戸日本橋に支店があり、年に一度ずつ出府して来た。古くから金右衛門は宗渓の絵をひいきにしていたが、少しまえから、宗渓よりもむしろ栄三郎の絵を欲しがるようになった。単に宗渓より好ましいというだけでなく、絵師としての将来を高く評価したらしい。彼が勘当になったと聞くと、日本橋槇町の︵自分の店の︶裏に、小さいながら一軒の家を買い、生活費から小遣まで、ゆき届いて面倒をみた。これは栄三郎の二十五歳の年のことであるが、それからまる七年、金右衛門の彼に対する信頼と好意は少しも変っていない。 こんど鳥羽の城中で御殿を修築するに当って、栄三郎に襖絵を描かせることになったのも、︵角屋が費用を負担する条件もあるが︶金右衛門の熱心な推薦によるものであった。――栄三郎が鳥羽へ来たのは、その年の二月であった。角屋の店は港の近くにあるが、城下町の西南、日和山という丘の中腹に控え家があり、そちらに金右衛門の妻や娘が住んでいるので、栄三郎はそこの離れ座敷を与えられ、以来ずっとそこで仕事をして来たのであった。 襖絵の主題は金右衛門の注文で、﹁武蔵野の冬﹂ということになり、栄三郎にも気にいった図柄だったので、五月の中旬には下絵が出来あがった。けれども、そこで、四五日まをおいて見ると、なにかしら足りないものがある、――人影のない枯れ野、というのが彼の覘ねらいで、動くものは野茨の枝の鶫一羽だけであった。一と棟の家も入れてはならないし、まして人物などは絶対に入れてはならないのであった。 ――ではなにが足りないのか、なにをそこへ描き加えたらいいのか。 約半月あまり呻しん吟ぎんしたあげく、石川孝之介にその点を指摘された。しかも、いまなお打開することができないのであった。 ﹁なっちゃねえ、このくそ頭﹂ 栄三郎は筆を投げて、舌打ちをした。筆は絵具皿に当って乾いた音をたて、毛もう氈せんの上へころころと転ころげた。 ﹁てんで動きゃしねえ﹂そして右手の指で額を小突いた、﹁まるで砂袋のようだ、まるでぎっしり砂が詰ってるようなものだ﹂ 栄三郎はごろっと仰あお反のけに寝ころんだ。すると、すぐそこに、おけいのいるのをみつけた。いつのまに来たものか、うしろへ来て立っていたのが、仰反けに寝たので初めて見えたのであった。 ﹁――なんだ、吃びっ驚くりさせるじゃないか﹂ ﹁ごめんなさい﹂おけいは恥ずかしそうに眼を伏せ、すぐにその眼で栄三郎を見た、﹁あんまり閉じこもってばかりいらっしゃるので心配になったんですの、そんなに根を詰めていらしってもしようがありませんもの、たまには気を変えにいらっしゃるほうがいいと思って﹂ ﹁ほう、気を変えにね﹂ ﹁それは此こ処こは田舎ですから、お江戸のようにはまいりませんわ﹂とおけいは云った、﹁でも田舎には田舎の面白さもございますでしょ、賑にぎやかに遊んでいらっしゃれば、少しは御気分も変るかと思うんですけれど﹂ ﹁これは、これは﹂ ﹁ほんと、いってらっしゃいましよ﹂おけいはまじめな顔で云った、﹁加茂川のこちらの町まち尻じりに、新水というお茶屋がありますわ、そこは父がひいきにしている家ですから、そこへいらしって、そうね、おつるという芸妓をお呼びになるとよろしいわ﹂ 栄三郎はつい笑いだした。三
﹁あら、――﹂とおけいは睨にらんだ、﹁あたし心配だから申上げているのに、なにが可お笑かしいんですか﹂ ﹁おけいさんは知らないんだ﹂ 栄三郎は寝ころんだまま云った。 ﹁私は貴あな女たのお父さんに固く茶屋酒を禁じられているんだよ、ひどい道楽者だったんでね、それをやめるなら面倒をみてやろうって、断わられているんだ﹂ ﹁あたし知ってますわ﹂おけいはやさしい眼つきになって云った、﹁でもそれは三宅先生が好きで道楽をなすったんじゃないんでしょ、先生の先生が先生を誘惑して﹂ ﹁もういいよ﹂栄三郎はにが笑いをしながら手を振った、﹁私の先生のことだけは云わないでおくれ、私にはそれがなにより辛いんだ﹂ おけいは、はっとして眼を伏せた。その事情も聞いていたのだろう、いかにも済まなそうに、小さい声で﹁ごめんなさい﹂と云い、すぐにまた陽気な顔つきになった。 ﹁でもね、気を変えにいらしったらというのは、本当は父さんが云いだしたことなんですのよ。こちらへ来てからどこへもおでかけにならない、自分との約束を守っているならもうその必要はないし、根を詰めてばかりいらしってもお躯に悪いだろうからって﹂ ﹁わかった、――﹂と栄三郎は微笑した、﹁お許しが出たのならそうしよう、そんなに心配をかけては申し訳がないからな﹂ おけいは不満そうな表情をした。栄三郎の口ぶりがうわのそらだったからである、――だが、彼女が去ってから暫くすると、栄三郎はふいと起きあがった。 ﹁そうだ﹂と彼は呟いた、﹁ひとつ頭をこわしてみよう、このくそ頭を、――﹂ そして彼は立って着替えを始めた。 母屋へいってそう断わると、おけいが心得顔に﹁自分がそこまで案内しよう﹂と云い、主婦のおみねはすばやく紙入を出して渡した。栄三郎は拒もうとした、小遣ぐらいは持っていたからであるが、しかし思い直してすなおに受取った。おけいは表門からでなく、庭の横にある木戸から彼を伴つれ出した。そこは粘土質の急坂で、︵土止のように︶丸太で踏段が作ってあり、左右の崖がけから木が蔽おおいかかって、昼でもうす暗く、空気は湿っていてひんやりと涼しかった。坂をおりて、ごみごみした狭い横丁をぬけて出ると、その角に駕か籠ご屋やがあり、おけいは駕籠屋に栄三郎を紹介すると、独りでそこから戻っていった。 ﹁町尻の新水でございますね﹂ 駕籠が二、三丁いってから、駕籠舁かきがそう訊きいた。 ﹁いや、――﹂と栄三郎はちょっと迷って云った、﹁此処には廓くるわがあるんだろう﹂ ﹁へえ、廓というほど、ごたいそうなもんじゃあございませんが﹂ ﹁その近くでおろしてくれ﹂ 帯のように長く延びた、狭い町の一角で駕籠をおりると、黄たそ昏がれがかる街上に強く潮の匂いがした。船の出入りや、諸商人の集まることでは、浪なに華わに次ぐといわれるそうで、狭いながら街は繁昌しているし、船夫や旅人などの往来でいかにも活気だってみえた。――栄三郎は教えられた遊女町へは入らず、昏くれかかる街をあてどもなく歩いたうえ、かなり大きな構えの料理茶屋の前で立停った。古い造りの総二階で、軒行燈に﹁桑名屋﹂とあり、二階で三味線や太鼓の音がしていた。 栄三郎が立停ったとき、その店の中から若い女中が出て来て、軒行燈に火を入れた。二十ばかりの、背丈の小さな、はしっこそうな女で、立っている栄三郎にちょっと目礼し、馴れた手つきで軒行燈に火を入れたあと、また栄三郎のほうへあいそ笑いをみせた。その笑顔に誘われるように、栄三郎はついその店へ入っていった。 よく拭きこんだ飴あめ色いろの、広い階段を登り、広い廊下を二た曲りして、その端の八帖の座敷へとおされた。案内をしたのは四十二三になる痩やせて骨ばった躯つきの、おまさという女中で、色が黒く、顔も骨ばっていて背丈が五尺四寸くらいあった。ぜんたいがごつごつしているためだろう、あとでわかったのだが、若い女中たちは彼女のことを、蔭で﹁栄さざ螺えさん﹂と呼んでいた。栄螺さんはあいそがよく、窓や障子をあけ放しながら、港の向うに見える島々の名や、黒ぐろと樹の茂った丘が御城であることなどを教えてくれた。 ﹁誰かお馴染さんを呼びましょうか﹂ 注文を聞いてから栄螺さんが云った。栄三郎は馴染はないが二三人呼んでくれと答え、すすめられるままに風呂へはいった。 夕ゆう凪なぎというのだろう、風が死んだようにおちて、風呂できれいにながした汗が、座敷へ戻るとすぐにまた滲にじみ出てきた。酒しゅ肴こうを運んで来たのは、軒行燈に火を入れていた若い女中であった。眼にちょっと険はあるけれども、利巧ですばしっこそうな、愛嬌のある顔だちで、名を訊くと、喉のどで︵うがいでもするように︶えへえへと笑ってから、芝居の壺つぼ坂さか霊れい験げん記きに出てくるのと同じ名前だと答えた。つまりおさとというのであった。 盃さかずきで三つばかり飲んだとき、年増の芸妓が二人来た。ようやく日が昏れて、座敷にも明るく燭しょ台くだいが並び、芸妓の一人が三味線を持つと、一人が鄙ひなびた音頭などをうたいだした。栄三郎はすっかり気が沈んでしまった、妓の唄はもの悲しく、その文句は︵港町らしく︶流別を嘆いたものが多かった。彼は師の横井宗渓をおもいだし、伴れられて飲んだ居酒屋の暗い土間や、岡場所のうす汚ないあばずれた女たちのことをおもいだした。 ――いまどうしているだろう。 栄三郎が角屋の世話になるようになってから、宗渓は彼と師弟の縁を切った。理由はなにも云わなかったが、栄三郎の絵が自分のものより高く評価されたことに、がまんがならなかったようである。そんなめめしい人なら、と栄三郎もさっぱり出入りをやめた。その頃は若いさかりで、自分の絵のこと以外には関心がなかった。宗渓がどんな気持でいるかなどということは考えてもみなかったが、三十歳の声を聞いてから、ふと胸に疑いが起こり、にわかに師に逢いたくなりだした。 ――師弟の縁を切ったのは、じつは自分の将来のためを思ったからではないだろうか。 仕事のうえの嫉しっ妬とではなく、それまでのじだらくな遊ゆう蕩とうや、酒さけ浸びたりの習慣から縁を切って、すべてを絵にうちこませるために、わざとそんなふうに邪険なことをしたのではないか。栄三郎はそう思いはじめ、すぐに師のゆくえを捜したが、宗渓は元の住居をひき払ったままで、どうしても所在がわからずじまいであった。 ――どこでどんなふうに暮しているか。 生きているなら会いたい。そうして、縁を切った本当の理由がどうであろうと、自分は弟子としてできるだけ師の面倒をみてゆきたい。そんなおもいが、うら悲しい旅の唄を聞きながら、新しく彼の胸を緊めつけるのであった。 ﹁お盃があいておりますけれど﹂と彼のすぐ脇で声がした、﹁お一ついかがですか﹂ 栄三郎はそっちへ振向いた。いま来たばかりらしい、二十四五になる芸妓が、燗かん徳どく利りを持ってにっと頬笑みかけていた。上背のあるすらっとした躯つきで、色が白く、透きとおるように薄い肌をしていた。顔はやや角ばったおもながで、表情の多い小さな眼と、少ししゃがれた︵切り口上の︶言葉つきに特徴があった。 ﹁よう――﹂と彼は盃を持った、﹁暑いところを御苦労さまだな﹂四
ふしぎな感動である。その芸妓の顔を見、その小さな︵口よりもよくものを云う︶表情の多い眼を見たとたん、栄三郎はぐんと心をひきよせられた。彼女の顔だちは、これまでに知っているどの女とも似かよってはいない、動作も口ぶりも同様であるのに、いきなり心と心がぴったりとより合うように感じられた。 ﹁一つ受けてもらおう﹂栄三郎は盃をさしながら云った、﹁もし飲めるのならね﹂ ﹁頂きます、大好きなんです﹂ ﹁そいつはしめた、――ついでに名前も聞かせてもらおうか﹂ ﹁名無しの権兵衛と申します﹂妓は盃をぐっとあけて云った、﹁字あざ名なをおつる、どうぞよろしく﹂ ﹁おつる、すると、――﹂ 栄三郎はどぎまぎした。角屋の娘が呼べといったのはその名である、慥たしかに、おつるという妓を呼べと云った筈であった。 ﹁すると、――なんですか﹂ ﹁いやなんでもない、もう一つ重ねないか﹂ 彼はおつるの眼をみつめながら酌をした。 まだ頭をこわしに来たという意識があったので、宗渓と遊んだ頃のように、彼には似合わない軽口をとばしたり、三味線に乗らない声で端はう唄たなどをうたったり、まるでやけくそな陽気さで騒ぎ始めた。おつるは情のこもった眼でにこにこ頬笑みながら、多くは黙ったまま彼を眺めていた。栄三郎は自分でもいや気のさすような騒ぎかたをした。二人の年増芸妓や女中たちは、しきりに彼のしなさだめをし、江戸の客には違いないが職業はなんだろう、などと云いあい、小花という妓が﹁なにか芸事のお師し匠ょさんよ﹂と云ったのがみんなの同意を得て、ついに長唄浄じょ瑠うる璃りの師匠ということにきまると、すぐさま長唄の一と節をうたいだすようなこともした。 一いっ刻ときばかりも経った頃、女中のおさとが栄三郎のそばへ来て、おつるにあとの座敷が掛って来たと告げた。 ﹁断われないお客ですから﹂とおさとは囁ささやいた、﹁済みませんがお願い致します﹂ ﹁ああ、いいとも﹂ 栄三郎は頷いておつるを見た。 ﹁私も帰ろうと思っていたところだ、いや本当なんだ﹂ほかの女たちがやかましく騒ぎだすのを制して、彼はおさとに云った、﹁もう帰らないと門を閉められる、また明日来るからね﹂ ﹁どちらへお帰りですか﹂ おつるが訊いた。 ﹁あっちのほう﹂と栄三郎は手をあげた、﹁あっちの町外れの高い処ところだ﹂ ﹁ではわたしもそっちですから、そこまでお送りしますわ﹂ ﹁おつる姐ねえさん﹂とおさとが眼まぜした、﹁そんなことをして、もしかみつかりでもしたら……﹂ ﹁いいのよ、大丈夫よ﹂ おつるは立って栄三郎を見た。 ﹁あたし支度を直します、すぐにまいりますから﹂ 栄三郎は眼をそらしながら頷いた。大丈夫よ、と云って頬笑んだ顔に、自信のなさそうな、不安そうなかげがさしたからである。なにかわけがあるのだろうと思ったが、勘定を済ませて出ると、おつるも裏口から出て来たところで、ついそのままいっしょに歩きだした。 ﹁暗うございますけれど、こちらからまいりましょう﹂おつるはこう云って横丁へ曲った、﹁狭い土地ですから、いろいろとうるさいんです﹂ ﹁座敷におくれると悪いんだろう﹂ ﹁いいえ、――﹂とおつるは明るく笑った、﹁怒ったお客をまるめるぐらい、しょうばいですから手にいったものです﹂ 栄三郎は眉をしかめた。﹁しょうばい﹂という言葉が、ふしぎにするどく胸を刺したのである。おつるもそれに気がついたとみえ、彼の眼にみいりながら︵いそいで︶云った。 ﹁ごめんなさい、もう云いません﹂ 栄三郎は吃驚して見返した。そんなに彼女が敏感だとは思わなかったのである、――彼はおつるの眼に頷きながら唇で笑った。それから二人は黙って歩き続け、四つ辻つじを表通りへ出たところで別れた。 ﹁また来てくれるね﹂ 別れるとき栄三郎が訊いた。おつるはあの眼で見ながら頬笑んだ。 ﹁お待ちしています﹂ 彼はおつるが駕籠に乗って去るのを見送った。それは彼の乗ったのと同じ駕籠屋で、駕籠舁きも同じ男たちのようであった。 ――町尻の新水だな。 駕籠の提ちょ灯うちんの明りが、暗い街を南へ遠ざかるのを見送りながら、栄三郎はそう思い、やや暫くそこに立ったままでいた。 明くる日、――日が昏れるのを待兼ねたように、栄三郎は独りでぬけだして、桑名屋へいった。小花ともう一人、べつの婆さん芸妓は来たが、おつるは座敷だそうで、なかなかあらわれず、ようやく九時ごろに来たが、ひどく酔っていた。おつるの来るまえに、小花たちがおつるのことを話していた。三味線が上手で、踊りもこの土地では指折りだということ、また、たいそうな売れっ妓こで、﹁新水﹂というのがいちばん大きい料亭であるが、殆んどその家の専属のようになっている。ゆうべ桑名屋へ来たのは珍しいことだ、などというのであった。おつるは廊下を大おお股またに︵男の子のように︶手を振ってあらわれ、今晩は、――としゃがれた大きな声で云いながら、座敷へ入って来た。 その夜どんなふうに騒いだか、栄三郎にははっきりした記憶がない。おつるが来るまえに相当飲んで酔っていたし、おつるが来てからもぐいぐい飲み、いつか酔いつぶれて、眼をさましたのはもう夜半すぎであった。芸妓たちはもちろんみな帰り、おさとがいて隣りの部屋へ夜具をのべたり、彼に着替えをさせたりした。 ﹁おつる姐さんがお泊り下さいって云ってました﹂とおさとが云った、﹁明日の朝は早くうかがいますからって、どうしてもお帰ししてはいけないって云ってましたから﹂ 泊るのは角屋にぐあいが悪かった。しかしそんな時刻に帰ってもいばれるわけではないし、朝早く来るという、おつるの言葉にもみれんがあって、栄三郎はぐずぐずと泊ることになった。 ﹁これは危ないな﹂おさとが水を取りにいったあと、彼はそっと自分にそう云った、﹁こんなことは初めてだ、うっかりするとひどいことになるぞ﹂ そして立ちあがったとき、なにか眼を惹ひきつける物があるので足を停めた。 畳の上に扇子が落ちていた。 女持ちの小さな扇子で、半ばひらいてあり、金地に赤いなにかの花が描いてあるらしい。きれいに片づいた青畳の上に、半ばひらかれた女持ちの扇子が、その主を思わせるかのように、ひっそりと落ちているのである。――栄三郎の眼が細くなり、にわかにするどく光るようであった。彼は唇をひき緊め、二歩ばかりさがってその扇子を見なおした。 ﹁お冷ひやを持ってまいりました﹂とおさとが戻って来た、﹁どうぞおやすみ下さいまし﹂ 栄三郎は扇子を指さした。 ﹁あれは誰のだ﹂ ﹁ええあれは、つうちゃん﹂と云いかけて、おさとは例の喉声でえへえへと笑った、﹁おつる姐さんが忘れていったんですの、今夜はずいぶん酔ってらっしゃったし、酔うと忘れ物をするのがお得意ですから﹂ ﹁つうちゃんていうのか﹂ 栄三郎はなお扇子をみつめながら、低い声で独り言を云った。 ﹁危ないどころじゃあない、危ないどころか、これは大した拾い物になるかもしれないぞ﹂五
彼はよく眠ったとみえて、呼び起こされるまでおつるの来たのも知らなかった。 ﹁お寝坊ね﹂とおつるは恥ずかしそうに頬笑みかけた、﹁もう四半刻ときもまえからこうしているのよ﹂ うちとけた、少しも隔てのない口ぶりであった。まるでながいあいだいっしょに暮して来たもののような、温かく情のこもった調子であった。 ﹁ちっとも知らなかった﹂と栄三郎は手を伸ばした、﹁よく来てくれたね﹂ おつるはその手を取って、自分の膝の上へ置き、握り緊めたりいとしげに撫なでたりした。おつるの皮膚の薄い手指は柔らかく、しっとりと汗ばんで、冷たかった。 ﹁今日は頼みたいことがあるんだ﹂栄三郎は起き直って云った、﹁どこか人のあまり来ない、草原のような処があったら、いっしょに伴れていってもらいたいんだがね﹂ ﹁草原のような処、――山でもいいんですか﹂ ﹁野原のような感じのする処なら山でもいい、そして静かならね﹂ ﹁樋の山のうしろならいいかもしれないわね﹂おつるはちょっと考えてから云った、﹁いついらっしゃるの、すぐにですか﹂ ﹁いや、夕方のほうがいいんだ、――しかし、座敷があるか﹂ ﹁いいえ、今日は休みましたからいいんです﹂ ﹁――まさか、むりをしたんじゃないだろうな﹂そう云いかけたが、すぐ笑って立ちあがった、﹁有難い、それじゃあ今日はゆっくり飲めるな﹂ ﹁顔を洗いにゆきましょう、おさとちゃんが掃除をするんで待ってますから﹂ こちらへいらっしゃいと云って、おつるは栄三郎を階下へ案内した。顔を洗っているとき、おつるが﹁お宿へ知らせなくてもいいのか﹂と訊いた。彼も知らせておくほうがいいと思ったので、帳場を借りて手紙を書いた。――絵のことで帰りがおくれているが心配しないでもらいたい。そういう意味を簡単に書き、主婦のおみねに宛てて使いに託した。おつるはそばにいたが、手紙の内容を知りたがりもせず、宛て先を訊こうともしない、彼が使いの者に命じているときは、さりげなくそばから離れていた。 二階の掃除が済み、酒の支度ができた。二た座敷あけ放し、廊下の障子もすべてあけひろげたので、風はよくとおるが、あまりに明るかったし、暑さもかなりひどかった。 ﹁こんなこと初めてよ﹂おつるは坐るとすぐに云った、﹁まだ二度しかお逢いしていないのに、自分のほうから押しかけて来るなんて、あんまりあつかましいんで、ここの家の人たちに恥ずかしかったわ﹂ ﹁済まなかった﹂ ﹁あらそうじゃないわ、あたしから頼んだことなんですもの﹂おつるは燗かん徳どく利りを持った、﹁ずいぶんいいお燗だこと、あなた熱いのお嫌いじゃなくって﹂ ﹁なんでも結構だよ﹂彼はおつるを見た、﹁――おつるさんがいてくれさえすればね﹂ おつるは神経質に眉をしかめた、﹁あたしそんな云いかた嫌いよ﹂ ﹁本当なんだ﹂栄三郎は低い声で云った、﹁本当にそうなんだよ、初めて顔を見たときに、ずっとずっとむかし別れたままの人にめぐりあったような気持がしたんだ﹂ ﹁ああもう﹂とおつるは叫ぶように云って首を振った、﹁お願いですからそんなこと云わないで、お願いよ、それよりその吸物を召上れ、なにかおなかに入れなければ毒だわ﹂ 栄三郎はおつるから眼をそらし、云われるままに吸物の椀を取った。ああもう、と叫ぶように云った声には彼の胸にしみとおるような響きがあった。その声だけで、おつるの気持がすっかりわかるようであった。 ﹁驚いたね、餅が入ってるじゃないか﹂ ﹁おなかに溜たまる物をあがらなければいけないと思って、お祝いの貰いもので失礼だけれど持って来たのよ﹂ ﹁六月の雑煮とは、生れて初めてだよ﹂ ﹁あらそうかしら、こっちでは祝い事があればいつでもしますよ、――おいしいでしょ﹂ ﹁うまいね﹂ 酒で荒れている舌に、柔らかいきめのこまかな餅はうまかった。まだ午ひるまえであったが、海が近いからだろう、鯛たいのあらいに、冷やしたちり鍋なべという肴さかなで飲みだした。おつるは栄三郎の飲んだり喰べたりするようすを、さも楽しそうに眺めていたが、やがて恥ずかしそうに笑いながら、膳の上の盃を取った。 ﹁だめだ﹂と男のように云った、﹁あたしも頂きます、とても衒てれくさくって素しら面ふではいられないわ﹂ ﹁明るすぎるからだ﹂栄三郎も酌をしてやりながらにが笑いをした、﹁こう明るくってはまがもたない、眼のやり場がないよ﹂ ﹁でも楽しいわ、初めてだわ﹂ 独り言のように云って、盃を口へもってゆきながら、﹁ねえ﹂というふうに、情をこめた眼で彼を見た。栄三郎はその眼に頷いたが、まるで苦痛を感じたかのように眉をしかめた。 それから午後三時ころまで、二人はすっかり時間をもてあました。お互いに云いたいことを胸いっぱいにもっていながら、あまりに気持が通じあっているため、却かえってそれを口に出すことができない。座敷が明るすぎると、飲む酒もやがて飽きてきた。 ﹁もうだめ、辛抱ができないわ﹂おつるがついに悲鳴をあげた、﹁駕籠でいけばいいからでかけましょう、ね、いいでしょ﹂ ﹁そのほうがよさそうだね﹂ ﹁あたしそう云って来ます﹂ おつるはほっとしたように立っていった。 垂れをおろした二挺ちょうの駕籠で、二人はまもなく桑名屋を出た。午後三時ころだったろう、栄三郎にはどっちへ向っているのかわからなかったが、駕籠は町をぬけて坂を登り、半刻ちかくいって停った。そこは左右に低い山と丘が迫っていて、日蔭もなく風もとおさず、乾いた道の照り返しと草いきれとで、蒸されるように暑かった。 ﹁この山へ登ってみましょう﹂ 駕籠を返してから、おつるはそう云って左側の山を見あげ、片方の裾をしぼって帯に挾はさんだ。 ﹁済まないな、つまらないことを頼んで﹂ ﹁いやだわ、済まないなんて﹂おつるはもう達者な足どりで歩きだした、﹁――それよりお気にいるかどうか心配よ、もしか見当ちがいだったらごめんなさいね﹂ 道はすぐ登りになった。六
おつるの案内した処はその山の尾根であった。松と雑木の林をぬけたところが、かなり広い草原になっていて、平ではなく、ゆるい傾斜をなしているが、疎まばらに灌かん木ぼくや芒すすきの茂っている間を、細い山道がうねりながら向うへ延びている。左側に松林と海さえ見えなければ、広い野道の一部という感じが充分にあった。 ――悪くはない。 栄三郎はそう思って、汗を拭きながら眺めまわした。 ﹁此処ですけれど、いかがですか﹂ ﹁結構だ、よさそうだよ﹂ 彼はそう云って、袂たもとから女持ちの扇子を取出して、おつるに渡した。 ﹁あらいやだ、これあたしのよ﹂とおつるは驚いたように云った、﹁どうしてこれ持っていらしったの﹂ ﹁忘れていったんだろう、ゆうべ座敷に落ちていたんだ﹂ ﹁これをどうするんですか﹂ ﹁向うへ歩きながらね﹂と彼が云った、﹁それをちょっとひらいて、向うへ歩きながら、草の上へ落してもらいたいんだ﹂ ﹁草の上へ落すんですって﹂ ﹁そう、ただぼんやりとね、どこでもいい、しぜんに落すような気持で、なんにも考えずに落してみてくれ﹂ おつるは恥ずかしそうに頬笑み、﹁できるかしら﹂と呟いて歩きだした。なんのためにそんなことをするのか、ここでもやはり理由は訊かなかったし、わるびれたようすもなかった。ただ、栄三郎のために役立つのだ、ということをすなおに信じ、そうすることがいかにも嬉しいというふうであった。 踊りが達者だと聞いたが、おつるの歩きぶりはかたちがよく、すっきりと涼やかにみえた。腰も細いし脚が長いので、ぜんたいの線がいっそうひき立つようである。――栄三郎はじっとその姿を見まもった。美しいなと思いながら、その姿から眼を放すことができなかった。おつるはゆっくりと歩いてゆき、向うの雑木林のところで立停った。そこまでいっても、まだ扇子を持っていた。栄三郎の注文したような気持になれなかったのだろう、そのまま暫くぼんやりと立っていたが、やがてまたゆっくりと、こちらへ向って歩きだした。――彼女のうしろから、やや傾いた日が明るくさしつけていた。その逆光の中で、放心したような表情の︵色の際立って白い︶顔が、殆んど幻想の人のような印象を与えた。栄三郎はわれを忘れて、すぐ近くへ来るまで茫然と見まもるばかりだった。 ﹁――落して来ました﹂ おつるはそばまで来てそう云い、額の汗を拭きながら頬笑んだ。 ﹁うまくやれたかしら﹂ ﹁ああ、――﹂栄三郎はわれに返ったような眼つきをした、﹁有難う、気がつかなかったよ、ちょっと待っていてくれ﹂ ﹁どうなさるの﹂ 彼は返辞をせずに歩きだした。 二十間ばかりいった夏草の上に、半ばひらいたその扇子が落ちていた。薄と薄の間の、短い萱草の上に、――金地に赤く花を描いた華やかな色が、まわりの夏草の緑から浮きあがってみえた。 ﹁これだ、これだ、――﹂栄三郎は昂こう奮ふんして呟いた、﹁これを枯野に置くんだ、道みち傍ばたの枯草の上に、……これでできた﹂ そのとき高い人声が聞えた。 喚くような声だったので、振返ってみると、二人の侍がおつるになにかどなっていた。いま登って来たのだろう、二人とも酔っているとみえてひょろひょろしているし、一人は手に大きな瓢ひさごを持っていた。 ――こいつはいかん。 栄三郎は走りだした。途中で三尺ばかりの枯枝を拾い、走りながら見ると、侍の一人がおつるの手を掴つかんだ。 ﹁あたしは芸妓です﹂とおつるの云うのが聞えた、﹁だからお客さまがお望みになれば、山へだってお供をしますよ﹂ ﹁なにを云うか、この不義者﹂ おつるの手を掴んだ男がそう喚いた。 ――不義者。 栄三郎はその言葉を、はっきり耳にとめながら、そこへ駆けつけるなり、その男を力いっぱい突きとばした。相手は横ざまにはねとばされ、足を取られて転倒した。 ﹁いけません栄さま、待って下さい﹂ おつるがそう叫んで止めようとした。しかしそれより早く、もう一人の侍が、持っていた瓢を抛ほうりだして、刀を抜いた。 ﹁危ないから向うへいってくれ﹂と栄三郎はおつるに叫んだ、﹁早く、――私は大丈夫だ﹂ そして枯枝を持ち直した。七
おつると樋の山へいった日から五日めに、石川孝之介が栄三郎を訪ねて来た。 五日という時間は偶然ではなかった。孝之介はそのあいだに知るべき事を知り、なすべき計画の手順をつけたのであった。栄三郎は本式の下絵を描こうとしていた。十帖と八帖の座敷いっぱいに、御殿の襖とほぼ同じ寸法の紙を延べ、初めの下絵をもとにしてあら描きにかかったところであった。この離れ座敷には、あと長四帖がひと間あるが、そこは敷きっ放しの夜具と蚊か帳やでいっぱいになっている。食事は握り飯と梅干と茶だけで、それはおけいが運んで来るのだが、長四帖まで来て声をかけると、そこで持って来たのを置き、空いている分を持って彼女はそこから母屋へ戻ってゆくのである。その下絵が仕上るまでは、仕事場へは誰も入らないことになっていた。庭には高こう野やま槇きの生垣で仕切がしてあり、その木戸にも掛金が掛けたままになっているが、石川孝之介はその掛金を外して、勝手に入って来たのであった。 庭は芝生であるし、孝之介は草履をはいているので、彼が広縁の近くへ来るまで、栄三郎はまったく気がつかなかった。孝之介は広縁のそばへ来て、そこに立って暫く眺めていた。その︵まばたきをしない︶大きな眼で、栄三郎の手もとをじっと眺めていて、やがて軽く咳せきをした。栄三郎はとびあがりそうになった。そこへ誰か来ようなどとは考えもしなかったし、熱中し緊張しすぎていたので、それが石川孝之介であり、無断で入って来たのだと知ると、怒りのために躯がふるえるようであった。 二人はお互いの眼を見合った。 ﹁驚かしたようだな﹂ やがて孝之介が云った。 ﹁驚かすつもりはなかったんだ、しかし本当に驚かされたのは私のほうなんだがね﹂ ﹁失礼ですが困りますね﹂ ﹁わかっている、話が済めばすぐに帰るよ﹂と孝之介は云った、﹁二人だけで話したいことがあるんだ、ごく簡単なことなんだが、角屋には聞かせたくないんでね﹂ 栄三郎は筆を下に置き、手の甲で額の汗を拭いた。孝之介は扇子で胸もとを煽あおぎながら、皮肉なうす笑いをうかべて栄三郎を見た。 ﹁このあいだは樋の山で派手な一と幕があったそうだな﹂ ﹁それが要談ですか﹂ ﹁それだけが要談ではないが、関係がなくもないんだ﹂孝之介はゆっくりと云った、﹁あの女はこの土地いちばんの売れっ妓だが、それを二度か三度逢っただけで、さっそく人眼のない山の上へ伴れ出すというのは、いい腕だ、おまけに侍二人が抜刀してかかるのを、きれいに叩き伏せるに到ってはね﹂ ﹁あの二人は泥酔していましたよ﹂ ﹁しかし侍には相違ないんだ﹂ ﹁前後もわからないほど泥酔していました﹂と栄三郎は云った、﹁また、あの人たちのためにも断わっておきますが、私はなにもしたわけではない、あの二人は自分で転んだのです、酔いすぎていて満足に刀を振上げることもできなかった、一人が自分の力に負けて転ぶと、他の一人がそれに蹴けつまずいて転んだ、それだけのことだったんです﹂ ﹁そう云えば、かれらの弁護になるとでも思うのかね﹂ 孝之介は面白そうに喉で笑った。まっ白で丈夫そうな歯をみせ、いかにも興ありげな笑いかたで笑った。栄三郎は口をつぐんだ。 ﹁どっちでもいいが、あの二人とは会わないようにするんだな、あまり出歩かないほうがいい、ここは土地が狭いし、それに、――﹂と孝之介は一種の表情で栄三郎を見た、﹁襖絵のほうも競争者が出ることになったからね﹂ 栄三郎は相手を見あげた。 ﹁そうなんだ﹂と孝之介は頷いた、﹁これは角屋にはないしょだがね、私の父が家老職という責任上、一人の絵師にだけ任せておくわけにはいかないというんだ、それでもう一人、土佐派の絵師で、――名は云えないけれども、父が古くから知っている者があるので、それにも頼むことになったのだ﹂ ﹁そういうことなら﹂と栄三郎は云った、﹁私は辞退することにします﹂ ﹁自信がないというわけか﹂ ﹁不愉快だからです﹂ ﹁そうはいかないんだ﹂と孝之介は首を振った、﹁もう一人の絵師に頼んだのは念のためで、正式の揮きご毫うし者ゃはやはり其そこ許もとだからね、このことを角屋に話さないのは、角屋が其許に遠慮して、なにか奔走しはしないかと思われるからだ、其許の絵をまもるためにね﹂ ﹁たとえば、どういうふうにです﹂ ﹁どういうふうにでもさ、――角屋は富豪だし、金のちからは大きいからね﹂ 栄三郎はこれは罠わなだなと思った。孝之介は栄三郎がそう思ったことを見てとった、彼は相手がそう受取るように、話をもっていったようであった。 ﹁要談はそれだけだが﹂と孝之介は音をさせて扇子を閉じた、﹁其許のほうになにか云うことがあるかね﹂ 栄三郎は黙って相手を見ていた。孝之介はおうように目礼をし、また扇子を半ばひらいて、それで陽をよけながら去っていった。すると、おそらく渡り廊下のあたりで、それを見ていたのだろう、すぐにおけいが広縁を廻ってあらわれた。 ﹁ごめんなさい先生﹂とおけいは済まなそうに云った、﹁あの人止めてもきかなかったんです、困るからって、母さんがずいぶん云ったのに、勝手にずんずん入って来てしまったんです﹂ ﹁いいよいいよ、大したことじゃない﹂ ﹁どんな用があって来たんですの﹂ ﹁話すほどのことじゃないよ﹂栄三郎はおけいのほうは見ずに筆を取った、﹁心配しなくてもいいってお母さんにそう云っておくれ﹂ おけいはなお、なにか云いたそうであったが、栄三郎が紙に向ったので、そのまま、気遣わしげに母屋のほうへ去った。おけいが去るとまもなく、栄三郎は紙をにらんだまま溜ため息いきをつき、筆を投げて立ちあがった。 ﹁だめだ﹂と彼は吐きだすように呟き、広縁へ出て庭のかなたを見た、﹁なにかわけがある、競作をさせようというのはあいつの親ではなく、あいつ自身の企んだことだ、なにかわけがあって、あいつが自分で、――﹂栄三郎は、ふと口をつぐんだ。 ――おつるのことか。 樋の山の出来事も無関係ではない、と孝之介は云った。そのことがいまはっきりと栄三郎の頭にうかんできた。するとにわかに、彼はおつるに逢いたいという衝動に駆られ、まるでうしろからせきたてられでもするように、そわそわと着替えにかかった。八
おつるはもう他の座敷へ出ていた。桑名屋にも昼から客があり、栄三郎は階下の暗い六帖へとおされた。同じような小座敷の並んでいるいちばん奥で、縁側から三尺ほど隔てて檜ひ葉ばの高い生垣があり、その向うは路次に沿って小さなしもたやになっているらしく、子供の駆けまわる声などがま近に聞えた。――おさとは南側の窓をあけたり、縁側へ簾すだれを垂らしたりしながら、此こ処こは暗くて狭いけれども、二階のように屋根の照返しがないし、冷たい風が入るから案外涼しいのだ、などといった。 ﹁ほんのひと足ちがいでした﹂とおさとは気の毒そうに云った、﹁今日はいらっしゃるに違いないって、お午ひるごろに来たまんまお帳場で遊んでいらしったんですよ﹂ ﹁当分来ない約束だったんだ﹂ ﹁あんなこと仰おっしゃって﹂おさとは、なにもかも知っているというふうに笑った、﹁――昨日もおとついも来て、いらっしゃらないかしらってずっと待ってらっしゃいましたわ、今日も帰るときに、もしいらしったらすぐ知らせてくれ、できたらぬけてでも来るからって、諄くどいほど念を押していましたわ﹂ ﹁もういいよ、酒を持って来てくれ﹂ 栄三郎は団うち扇わを取って窓のほうへ寄った。 樋の山へいった日のことであるが、桑名屋へ戻って飲みながら、おつるのほうから卒然と﹁暫く逢うのはよそう﹂と云いだした。栄三郎も頷うなずいた。相手はにんきしょうばいであるし、二人で山歩きなどしているところをみつかったのだから、暫くほとぼりを冷さますほうがいい。そう思って、当分は来ないからと約束をしたのである。幸い本下絵にかかったので、どうやら気は紛れていたようなものの、逢いにゆきたいという気持を抑えることは、相当な努力であった。 ﹁――自分で云いだしたのに﹂ そう呟つぶやきながら、栄三郎は窓に倚よったまま、ふとべそをかくような顔つきをした。その南側の窓の外もすぐ板いた塀べいで、板塀の向うは隣りの家の裏とくっついており、厨くりやで炊事でもしているのか、板塀に沿ってしきりに煙がながれていた。 ﹁お待ちどおさま﹂おさとが膳を運んで来て云った、﹁おつる姐ねえさんの云いつけで、ほかの芸妓衆はどなたも呼んではいけないっていうことですけれど、ようございましょうか﹂ 栄三郎は﹁いいとも﹂と答えた。 問屋筋と船の客が五つ組あるそうで、おさともおちついて坐ってはいられず、栄さざ螺えさんのほかには小女が二人いるだけだったから、栄三郎は殆んど独りで飲んでいた。――日が昏くれてまもなく、二階の座敷があいたと知らせて来たが、もう酔って面倒なので、おさとが移ろうとすすめるのを、そのまま飲み続けていると、やがて八時ちかい頃になっておつるがあらわれた。また例の︵男の子が歩くような︶足つきで手を振りながら縁側へあらわれると、ちょうど酒を替えに来ていたおさとに向って、片方の手をひらひらさせ、 ﹁いいわおさとちゃん、あっちへいって﹂ と命令するように云った。 栄三郎はおつるの顔を見ていた。縁側へあらわれたときから、ずっと黙って見まもっていたが、おつるは彼のほうは見ようともせず、おさとが、なにかふざけたようなことを云いながら去ってゆくと、初めてこちらへ眼を向け、そうしていきなり彼にとびついた。栄三郎は支えようとしたが、全身でとびつかれて支えきれずおつるを抱きとめたままうしろへ倒れた。 ﹁どうするんだ、柔やわ術らの稽古かね﹂ 彼はそう云って起きようとしたが、おつるは上から重なってしがみついたまま、躯からだをふるわせて泣きはじめた。しっかりと押付けた彼女の頬から、なま温かく涙が自分の首筋を濡らすのを栄三郎は感じた。おつるは固くしがみついた手で彼の躯を揺すり、ううっとしゃがれた泣き声を喉のどでころしながら、さも苦しげに身もだえをした。 ﹁なにかあったのか﹂栄三郎が訊きいた、﹁なにを泣くんだ、どうしたんだ﹂ おつるは答えなかった。暫くして泣き声が鎮まり、大きく二度、溜ため息いきをついて、栄三郎に背を向けて起きあがり、まだしゃくりあげながら涙を拭いた。なにかいやなことでもあったのか、栄三郎も起きて坐り直しながら訊くと、黙って頭を振り、彼のほうへ振向いて恥ずかしそうに笑った。 ﹁おどろいたね﹂と栄三郎が云った、﹁酔ってるんだな﹂ ﹁ずいぶんながかったわ﹂ おつるは膳のほうへ寄りながら云った。もともとしゃがれ声のうえに泣いたあとなので、その言葉はひどくかすれ、殆んど聞きとれないくらいだった。 ﹁もういらっしゃらないのかと思ったわ﹂ ﹁わかってるじゃないか﹂栄三郎は盃さかずきを取った、﹁あんな約束をしたばかりだし仕事があったから、がまんしていたんだ﹂ ﹁毎日、待っていたのよ﹂おつるは彼に酌をし、手早く自分の盃にも注いだ、﹁――逢いたかったわ﹂ 栄三郎はぎゅっと眼をつむった。短いそのひと言が、まるで鋭利な刃物かなにかのように、彼の心のまん中に刺し込まれたという感じである。彼は盃を口へもってゆきながら頷き、それから低い声で云った。 ﹁頼むよ、どうかそれを云わないでくれ﹂ ﹁あなたが悪いのよ﹂とおつるが云った、﹁あなたが初めにいらしったのが悪かったのよ﹂ ﹁それだけじゃない、たとえ私が来たにしろ、おまえが私の座敷へあらわれなければよかったんだ﹂ ﹁ふしぎね、この家へはあんまり来ないのに﹂とおつるは云った、﹁久しぶりにお座敷があって、お客さまが帰ったからお帳場で遊んでいたの、ここのおかみさんとは古いお友達で、来ると自分の家みたいにしているし、おかみさんのほうでも遠慮がないから、ちょっともう一つお座敷を手伝ってちょうだいって云われたのよ﹂ ﹁それなら悪いのはおかみさんじゃないか﹂ ﹁あたし三度もお礼を云って笑われちまったわ、ね、――﹂とおつるは膝ひざで栄三郎のそばへ寄った、﹁生れてっから初めてよ、こんな気持、本当に初めて、嬉しいわ﹂ そして強く栄三郎の手を握った。 四半刻ときばかりそんなふうにしているうち、おつるは急に立ちあがって﹁海を見にゆこう﹂と云いだした。栄三郎もすぐに立ち、そこの縁側から庭下駄をはいて、三尺ばかりの狭い庭を生垣に沿ってゆき、裏木戸をあけて外へ出た。 ﹁断わらなくってもいいのか﹂ ﹁あとであやまるからいいの﹂ おつるは﹁こっちです﹂と云って、暗い路次を足早にぬけていった。 夕ゆう凪なぎの時刻が過ぎて風が出ていた。どこをどうゆくのか栄三郎にはわからない、少し広い横丁には燈火が明るく、軒先に縁台などを出して、涼んでいる人たちの姿が見え、二人の歩いてゆく暗い裏道でも、浴衣がけで団扇を持った男女とすれちがったりした。――栄三郎にはおつるに訊きたいことがあった。彼は師の宗渓と遊んだ経験で、こういう世界の女は誰かの世話にならなくてはやってゆけない、ということを知っていた。売れっ妓こは売れっ妓なりに、ただ座敷を稼かせぐだけではやってゆけないような、巧みな仕組ができている。土地は変ってもそういう点には変りはない筈で、おつるにも世話をされる人がいるであろう。それは初めから予想していたが、今日の石川孝之介の態度で、それが孝之介自身ではないかという疑念をもったのである。 ﹁ねえ、――﹂と栄三郎は囁ささやくような声で云った、﹁おつるにはもう、誰かいるんだね﹂ おつるは立停った。そこは竹たけ藪やぶと松林に挾はさまれた、まっ暗な道の上でちょうど海のほうへと曲る坂のおり口のところであった。九
おつるは暗がりの中で彼をみつめ、﹁ええ﹂と低くあいまいに頷いたが、すぐ思い返したようにさばさばと云った。 ﹁旦那でしょ、そりゃあいますとも、子供もいますわ﹂ ﹁子供もいるって﹂栄三郎はちょっと信じかねた、﹁しかし、それならなぜ、――どうしてまた座敷へ出たりなんぞするんだ﹂ ﹁だって好きなんですもの、あたし芸妓が好きなんです、家に引込んで糠ぬか味み噌そ臭くなるなんて性に合わないんです﹂おつるはこう云うと喉のどの奥で笑った、﹁さあいきましょ、この坂をおりると海よ﹂ そしてぱっと裾を蹴けりながら、いっさんに坂を駆けおりていった。坂は長くはないが、かなり勾こう配ばいが急で、おまけに岩がごろごろしている、栄三郎がその岩を一つ一つ踏むようにおりてゆき、下の砂浜へ出たと思うと、おつるが汀なぎさのところで叫びたてた。 ﹁来てごらんなさい、夜光虫よ﹂ 浜は狭く、砂地よりも岩のほうが多かった。鳥羽湾を抱いた対岸がすぐ向うに黒く横たわり、人家の灯がちらちらとまたたいていた。南の軟風のために海は少し波立ち、ときたま汀へも寄せて来て小さく砕けた。その波の動きにつれて、波の形に青白く水が光るのである。月のない夜だったから、暗い海の上に明滅するその光りは、この世のものとは思えないほど妖あやしく美しく見えた。 ﹁きれいだな﹂栄三郎は眼をみはった、﹁これが夜光虫というのか、初めてだよ﹂ おつるはとつぜん振返って彼にとびついた。両手を彼の頸くびに絡み、力いっぱい緊めつけ、伸びあがって、彼が除よける暇もなく彼の唇を吸い、それから︵頸に両手を掛けたまま︶彼をぐいぐいと汀のほうへ引寄せた。 ﹁おどかすね﹂栄三郎は危なく踏止まった、﹁心中でもしようというのか﹂ おつるは全身で凭もたれかかり、荒い息をしながら彼の胸へ顔を押しつけた。 ﹁これっきり逢うのはよしましょう﹂とおつるは云った、﹁いい思い出になるわ、ね、――これでお別れすれば、一生の思い出よ、一生にたった一度、ねえ、もういらっしゃらないで﹂ ﹁それは﹂と栄三郎が云った、﹁おつるが世話になっている人のためにか﹂ ﹁なぜそんなこと仰しゃるの﹂ ﹁石川孝之介のためじゃないかというんだ﹂ ﹁嫌いよあんな人﹂とおつるは首を振った、﹁あんな人の世話になんか誰がなるもんですか、そうじゃないの、本当にいまのうちに別れたほうがいいと思うのよ﹂ ﹁別れるなんておかしいじゃないか、何年も逢い続けて、深い仲にでもなっているのならべつだが、私とおつるはまだ﹂ ﹁いいえ、あたしたち逢い続けたのよ、何年も何十年も﹂おつるは彼の胸に顔を押しつけたまま云った、﹁ずっとずっと昔から逢い続けていたのよ、そうでなくって、初めからこんな気持になる筈がないわ﹂ ああ、と栄三郎は心の中で呟いた。おつるもやっぱりそうだったのか、――彼はおつるの肩を抱き緊め、頷いて﹁そうだ﹂と囁いた。 ﹁そうだ、おつるの云うとおりだ、これっきり逢うのはよそう﹂ ﹁その代りこれからお宿まで送らせて、ね﹂とおつるは顔をあげた、﹁上へあがらずに帰るから、いいでしょ﹂ ﹁それはだめだ、山の上だし、ひどい坂を登るんだ﹂ ﹁いやいや、あたしいきます、いけないって仰しゃったってついてゆくからいい﹂ そしてすぐに身をひるがえして歩きだした。 我わが儘ままな性分なのか、酔っているのか、それともなにか感情を隠すためか、その夜のおつるの態度は桁けた外はずれに衝動的で、栄三郎には扱いかねるようであったが、その言葉や動作には、おつる自身が抑えきれないで苦しんでいるような、つきつめた情熱が感じられるので、彼は黙って云うままになるよりしかたがなかった。――明るい街へ出ると二人は離れた。駕か籠ご屋やの角を曲るときには、おつるは顔をそむけて走りぬけた。暗い急な坂にかかると、おつるはしばしば足を停め、彼に抱きつき、頬ずりをしたり、激しく唇を合わせたりした。 ﹁忘れないで、ね﹂――と、おつるは熱い息で囁いた、﹁いつまでも、いつまでもよ、忘れないでちょうだい﹂ ﹁ああ﹂と彼は頷き、おつるに頬ずりをして云った、﹁忘れやあしないよ﹂ 坂を登りつめ、裏木戸の前へ来た。 ﹁角屋さんの控え家なのね﹂おつるが木戸を見て云った、﹁やっぱりそうだったわ、――絵をお描きになるんでしょ﹂ ﹁知っていたのか﹂ ﹁初めての晩、小花姐さんが芸事のお師し匠ょさんだって云ったでしょ、あのときあたし絵をお描きになるんじゃないかって思いました﹂ ﹁そんなようなことを云ったんだな﹂ ﹁いいえ感じなんです、ここは景色がいいので、よく絵を描く先生方がいらっしゃいますわ、あなたはそういう方たちとは似てはいらっしゃらないけれど、なんとなくそういう感じがしたんです﹂おつるはそっと彼の手を握った、﹁そうしたら次の次の日に、樋の山で扇を落せって仰しゃって、それからあたしの落した扇を、丹念に眺めていらしったわ、――あたしそれを見ながら思いましたの、これはきっと絵になさるおつもりなんだって﹂ ﹁下まで送っていこう﹂栄三郎は踵くびすを返した、﹁いいよ、大丈夫だ、駕籠屋のところまでだ﹂ ﹁嬉しいわ﹂ ﹁あのときおつるはよくやってくれた﹂坂をおりながら彼は云った、﹁わけのわからない無理な注文だったのに、笑いもしないでよく念をいれてやってくれた、おかげで思いどおりのものが描けそうだよ、有難う﹂ おつるは黙ったままで、︵いかにも嬉しそうに︶握っている男の手に指を絡み、それをぎゅっと絞るようにした。――駕籠屋の角へ出る手前のところで二人は別れた。どちらもなにも云わず、眼を見交わしただけで別れた。おつるは両端の上へ切れあがった唇をいっぱいにあけた笑顔で、五拍子ばかり彼の眼に見いり、それからさっと向き直って思いきりよく去っていった。 明くる日、栄三郎は少し多いくらいに金を包んで、桑名屋へ届けさせた。 おつるにはもう逢うまい、少なくとも絵を仕上げるまでは逢うまい、と彼は自分に誓った。そして、描きかけた下絵をやめ、紙をあらためて本描きにとりかかった。――おつるは世話をする者があり、子供までいるうえに、石川孝之介とはなんの関係もないらしい。とすれば、問題は仕事の上の勝負ということになる。相手がどんな絵師かわからないけれども、土佐派というのが事実なら無縁ではない。師の横井宗渓は狩野派から出て大和絵の筆法をとりいれた、栄三郎は宗渓よりもさらに大和絵の風がつよいので、土佐派との競作ならやり甲が斐いがあると思った。 ――おつるのためにも、やってみせるぞ。 栄三郎はそう肚はらをきめた。いきごんだ気持ではなく、しっかり肚がきまったという感じであった。十
﹁よかったわ、いよいよ始まるのね﹂ 本描きにかかると知って、︵その支度の出来たのを見て︶おけいが顔をかがやかせながら云った。 ﹁あのなにか足りないっていうところも、くふうがおつきになったんですのね﹂ ﹁ああ﹂と彼はきげんよく頷いた、﹁どうやらうまくいきそうだよ﹂ ﹁それなら申上げてしまいますわ﹂おけいは賢さかしげな眼で、しかしちょっと恥ずかしそうに栄三郎を見た、﹁いつか石川さんが、画がり竜ょう点てん睛せいというようなことを云っていましたでしょ、あれはね、本当はおけいが教えてあげたことなんですの﹂ 栄三郎は訝いぶかしげな眼で娘を見た。 ﹁こんなこと父さんに知れたらたいへんですわ、先生にだって叱られるにきまってますけれど、あたしどうしてもあのままではなにかもの足りない、もう一つなにか点景があるほうがいいのじゃないかしらと思ったもので、自分ではまさか云えませんから、そっと石川さんにそう云うように教えてあげたんですの﹂ ﹁すると、――﹂と栄三郎は苦笑した、﹁あの男はそのままを口移しに云ったんですね﹂ ﹁だから気になさることはありませんって、あのときおけいが申上げましたでしょ、あの人の頭の中には自分が御家老の息子だということと、女のことよりほかになんにもありませんからって、――でも、やっぱりよけいなことだったでしょうか﹂ ﹁いや、よけいなことではなかった﹂栄三郎は頷いて云った、﹁あの男の口から云われたので、却かえってよかったかもしれない、自分でも不満だったのだが、あの虫の好かない男に云われたから却って奮発心が起こった、おけいさんに礼を云わなければならないくらいだよ﹂ ﹁それならよかったわ、それが本当なら、礼なんか云って頂くより嬉しいわ﹂ おけいはきらきらするような眼で、じっと栄三郎をみつめ、それから急にぼうと頬を染めながら、逃げるように去っていった。 栄三郎はおけいの眼の色にも、顔を染めたことにも気がつかなかった。彼には石川孝之介がにわかに道化てみえ、石川孝之介のためにいきまいた自分が、いくらか恥ずかしくさえなった。 ﹁しかしあの娘は、よくあれに気がついたものだな﹂彼は独りで呟つぶやいた、﹁おれ自身が不満に思っていたちょうど同じ位置に、……そのうえおつるを呼んで遊べと云ったことも、偶然だろうけれどぴったり当った、きっとそんな勘のいいところがあるんだな﹂ 筆は順調に進みはじめた。 朝は未明に起き、夕方は昏れかかるまで、食事のほかは殆んど立つこともなく描き続けた。食事は三度とも握り飯で、やっぱりそれまでのようにおけいが運んで来た、長四帖まで来て声をかけ、︵済んだのとひき替えに︶持って来たほうを置いて、そこから引返してゆくのであった。――けれども四五日すると、彼は夕食のときに酒を飲むようになった。酒を飲んで酔わなければ、おつるとの約束が守れそうもなくなってきたのである。日が昏れて、広い庭のかなたに街の灯が見えはじめるとまるで熱病のように心が渇き、おつるに逢いたいという衝動で、いても立ってもいられなくなる。水を浴びてみたり、うしろの日和山の上を歩きまわってみたが、飢餓に似たその衝動は抑えることがむずかしくなるばかりだった。できるだけ腹をへらしておいて酒を飲み、もっとも誘惑の強い宵のひと刻を、酔ってごまかすよりしかたがなかった。 おけいはなにも云わなかったが、酒の量がしだいに増すばかりなので、絵がうまく進まないとでも思ったらしい、﹁たまには外へ息ぬきにいってはどうか﹂などと云った。 おつると約束をした日からちょうど十日めに、桑名屋のおさとが訪ねて来た。 曇った日の黄たそ昏がれどきで、栄三郎は風呂あがりの浴衣になり、ぼんやり広縁へ出たところだったが、誰か声をひそめて呼ぶ者があるので見ると、裏木戸のところにおさとがいて、手招きをしているのが見えた。あたりはもう暗くなりかけていたし、広縁からそこまではかなり距離があるから、初めはおつるかと思い、危うく声が出そうになった。――彼は手まねで﹁待っているように﹂という合図をし、すぐに母おも屋やへいって外出するからと断わった。 ﹁おすすめに従って息ぬきをして来るよ﹂とおけいに笑いながら云った、﹁早く帰るつもりだけれど、ことによるとおそくなるかもしれないから﹂ おけいはほっとしたように﹁どうぞごゆっくり﹂と云った。彼の気が変ったのでいかにもほっとしたような顔色であった。――おさとは木戸の脇に待っていた。崖がけの上から掩おおいかかる木の茂みの暗がりに、緊張した小さな顔が白く浮いて見えた。 ﹁済みません、こんなところから伺ったりして﹂とおさとは云った、﹁お邪魔しては悪いと思ったんですけれど、あんまり可哀そうで見ていられないものですから﹂ ﹁可哀そうとは、――おつるか﹂ ﹁毎日来て泣いているんです﹂おさとは訴えるように云った、﹁二階のいつかのお座敷だの、このあいだの階下の奥の座敷だのへいって、一人で隠れて眼の腫はれるほど泣いていらっしゃるんです﹂ ﹁しようがないな﹂ 栄三郎は静かに云った。心は裂かれるように痛んだが、顔には苦笑をうかべ、できるだけ平静に自分を抑えつけた。 ﹁先生とはもうお逢いしない約束をなすったんですって、それで、おかみさんやあたしがお呼びしたらって云ってもきかないんです、先生の御迷惑になるし、こんどお逢いすればどうなるかわからないからって、どうしてもお呼びすることはできないって云いながら、毎日泣いてばかりいるんです﹂ ﹁ばかなはなしだ、小娘かなんぞじゃあるまいし﹂栄三郎は顔をそむけながら云った、﹁そんなことをしていると旦那をしくじるじゃないか﹂ ﹁旦那ですって、――つうちゃんにですか﹂ おさとが訝いぶかしそうな声をだしたので、冗談のつもりで云った栄三郎のほうが不審になった。 ﹁そうさ﹂と彼はおさとを見た、﹁旦那がいるし子供もあるんだろう﹂ ﹁まあいやだ﹂おさとは声をあげた、﹁つうちゃんは先生にまでそんなことを云ったんですか、まあ呆あきれた﹂ ﹁そうじゃなかったのか﹂ ﹁そうじゃありませんとも﹂とおさとは怒ったような調子になった、﹁世話をしようとか落ひ籍かせようっていうお客さまが多くて、あんまりうるさいからそういうことにしてあるんです、旦那どころですか、あの人はまだ男の肌も知ってはいないんですよ﹂ 栄三郎は頭の中で火花が散ったように思った。ぱっと明るく火花が散り、︵その閃せん光こうで︶それまで見えなかったものが、まざまざと見えたように感じられた。 ﹁しかし、――﹂と彼は口ごもった、﹁あれはもう二十五か六になるんだろう﹂ ﹁だから旦那があるといってもとおるんじゃありませんか、それに、そんなことは年とは関係がないし、つうちゃんのことならおかみさんもあたしもよく知っていますわ、――来て下さるんでしょう﹂ 彼は黙って坂をおりはじめた。十一
おつるは驚くほど痩やせていた。顔色も悪いし頬が尖とがって、眼は赤く腫れ、唇も白っぽく乾いていた。――それは初めのときとおされた二階座敷で、おつるは障子の蔭に隠れるように立っていたが、栄三郎が入っていって、そこにいるのをみつけると、ぱっと唇だけで笑い、すぐに眼を伏せ、彼のほうへ寄って来て、そっと抱かれながら囁ささやいた。 ﹁――ごめんなさい﹂ 栄三郎はやさしく抱きよせながら云った。 ﹁もうへんな約束はやめだよ、こんども自分で云いだしておいて、またこんなふうではしようがないじゃないか﹂ おつるは頷いて、彼の胸へ軟らかく凭れかかった。 ﹁私だって逢わずにいればおちつきゃしない﹂と栄三郎は続けた、﹁日が昏れて街の灯が見えだすと堪らなくなる、しかし約束だからと思って、いろいろと手を使って、自分で自分をごまかしていたんだ、おちついて仕事をするためにも、逢いたいときに逢うほうがいいんだよ﹂ ﹁わかりました﹂とおつるは云った、﹁これからはもう仰しゃるとおりにします﹂ しかし、おつるはやがて、三度﹁もう逢わない﹂と云わなければならなくなるのである。 栄三郎とおつるは逢い続けた。彼が桑名屋へかようのは一日おきであるが、そのあいだに、夜が更けてからおつるのほうで控え家へ来ることがあった。もちろんどこかの座敷の帰りで、裏木戸からそっと忍んで訪れ、少し話すと帰ってゆくのである。ときにはひどく酔って﹁このまま泊ってゆく﹂などと、だだをこねることもあるが、栄三郎が少し強い声をだすと、すぐにおとなしく立ちあがるのであった。 栄三郎は、おさとから聞いたことはすべて知らない顔をしていた。 おつるは病身な母親と姉夫婦︵その子供二人︶の面倒をみているそうであった。かれらは鳥羽からほんのひと跨またぎ北に当る、小浜という漁村に住んでいる。姉の主人は漁師であるが、酒と博奕が好きで、稼いだものはみな遣ってしまう。人は悪くはないのだが、結局おつるがいるのでおつるに頼ってしまうというところらしい。――おつるは十二の年叶かの家うやという置屋へ養女分として入った。それは、おつるが自分で叶家へいって、﹁あたし芸妓になりたい﹂と云ったのがきっかけになったのだそうである。︵いつか栄三郎に向って﹁あたし芸妓が好きなんです﹂と云ったのは誇張ではなかったらしい︶叶家のおかみさんはおつるの気性に惚ほれ、養女分として気を入れて仕込んだ。当時はまだおつるには兄︵のちに海で死んだが︶がいて、若い漁師のうちでは腕っこきといわれるくらいだったから、べつに家へ仕送りをする必要もなく、好きな芸事の稽古にうちこむことができた。いま桑名屋の主婦になっているおはまも、そのころ叶家にいて、もう売れっ妓の姐さんだったが、おつるの気の強いのと、芸熱心で筋のよいのには驚いたということである。座敷へ出るようになると、たちまち人気者になり、世話をしようという客があとからあとからとあらわれた。こういう客の中には出先の茶屋の義理などで、どうしてもいやと云いとおせないことがある。おつるにも﹁うん﹂といわざるを得ない場合が三度ばかりあった。しかし彼女はどうしてもからだを許そうとしないし、座敷からひくことも承知しなかった。無理にからだを求められたりすると、全身が石のように冷たく硬直し、痙けい攣れんを起こして、まるでいまにも死ぬかと思われるようなありさまになる。ときには本当に息が絶えたようになるので、三度とも客のほうで諦あきらめて手を引いたのであった。それでも人気は落ちなかった、三味線と踊りはずばぬけているし、なにより座敷が面白いのである。近頃では旦那があり子供もあると云っているが、そんなことは誰も気にしないし、却ってひいき客が殖ふえるばかりのようであった。 こういう事情はみな、おさとが訪ねて来ていっしょに桑名屋へゆく途中、彼女の口から聞いたのであるが、栄三郎はおつるにはなにも知らないふうをし、やはり旦那があり子供があるつもりにしていた。 絵は順調に進んでいった。栄三郎の一日おきの桑名屋がよいも、おつるが忍んで来ることにも変りはなかった。こうして七月、八月と過ぎ、海に秋の波が立つようになった。栄三郎がそれをはっきり覚えているのは、その夜︵桑名屋へ︶でかけようとしたとき、おけいが珍しく離れ座敷へやって来て、今夜は寒くなりそうだから着てゆくようにと、仕立ておろしの羽折をそこへ出した。 ﹁ずいぶん波の音が聞えるでしょ﹂とそのときおけいが云った、﹁こんなふうに波の音が聞えるようになるともうすっかり秋で、夜が更けると寒くなるんですのよ﹂ 栄三郎は眩まぶしそうな顔つきで、おけいの着せかける羽折に袖をとおしながら、その波の音を聞いた。彼はおけいがなにか云うつもりだなと思った。仕事のあいだは誰もこの座敷へは入らない約束で、まえにも記したとおり、食事を運んで来るおけいも長四帖から引返していた。それがその夜に限って断わりもなく入って来たし、夜更けに帰ることもよく知っているような口ぶりで、それはなにごとか云いだすか、またはこちらになにかを感じさせるようなものを多分に含んでいた。だがおけいはなにも云わなかった、少なくとも栄三郎が気遣っていたようなことはなにも云わず、むしろ陽気な調子でせきたてた。 ﹁さあいってらっしゃいまし、お風邪をひかないように気をつけて下さいましね﹂ 栄三郎は、ほっとして桑名屋へでかけた。 彼がその夜そんなふうに、おけいからなにか云われはしないかと思ったのは、半月ほどまえ、おつるに﹁角屋のお嬢さんはあなたが好きらしいわね﹂とからかわれたことがあった。踊りの稽古で会うたびに彼の話が出るのだそうで、その話しぶりがただではないというのである。栄三郎は笑って相手にしなかったが、その後おけいのふとした眼つきや動作などに、まえには感じたことのないもの、一種の憂いといったふうなものが感じられるのに気づいた。もちろん彼はそれが自分に対する愛情のあらわれだなどとは思わなかった、むしろおつると逢っていることを非難されているのではないか、というふうに考えたのである。おつるのことは初めおけいのほうから云いだした。 ――新水へいっておつるという人を呼んでごらんなさい。 彼は新水へはいかなかったが、偶然にもおつると逢い、その夜からお互いに離れがたいあいだがらとなった。まだ、深い契りこそ交わさないけれども、どんな契りよりも深く二人の心はむすびついている。おつるとの仲がそんなふうでなければ、栄三郎は初めからおけいに彼女と逢ったことを話したであろう。しかし彼はひと言も話さなかったし、話さないことをいくらかうしろめたくさえ思っていた。それで、その夜、羽折を持って来られたときには、いよいよなにか云われるかと思ったのであった。十二
秋の波音を聞いた日から、五日ばかり経った或る風の吹く日の午後、栄三郎はおつるに誘われて、また樋の山へ登った。 それはおつるの望みであった。栄三郎は昼の時間が惜しかった、絵はもう完成に近く、あの︵落ちている︶扇子に着彩すればいいところまでいっていた。けれどもおつるは﹁どうしても明日いっしょに登りたい﹂とせがんだ。なにかわけがあるのかと訊くと、﹁久しぶりに我儘が云ってみたいのだ﹂という。彼は苦笑しながら承知したのであった。 午ひるちょっとまえから風が吹きだして、そう強くはないが、街の中は埃ほこ立りだっていた。切通しの辻地蔵のところで待ちあわせ、登り口まではべつべつに歩いた。――まえに来たのは暑いさかりだったが、九月といえば晩秋のことで、木々の葉も草も枯れかかり、北から吹きつける風に揺れながら、乾いた音をたてていた。おつるはいつもの活溌な歩きぶりで、栄三郎におくれず元気に登った。 二人は夏来たときの、想い出の場所を歩いた。おつるは絶えず爽やかな微笑をうかべ、栄三郎の髪が︵風のために︶乱れると、櫛くしを出して撫なでつけたりした。 ﹁此処だったわね﹂おつるが扇子を落した処で立停った、﹁この薄すすきのこっちの処ところだったわ、なつかしいわね﹂ ﹁いまでも、あのときの姿が眼に見えるよ﹂ ﹁いろいろな思い出ができたわ﹂ おつるの声は咏嘆のようであった。栄三郎は彼女の姿を眺めた。おつるは小さな眼で心をかよわせるように彼を見、唇をいっぱいにあけて笑顔をつくりながら、彼のほうへ両手を伸ばした。栄三郎はその手を握った。 ﹁夏になれば、海へいって夜光虫を見るわ﹂とおつるは笑顔のまま云った、﹁秋になったら此処へ来ればいいわね、――あなたが江戸へお帰りになってから、あなたが恋しくなったらそうするの、ね、あたしあなたがいらっしゃらなくなっても大丈夫よ﹂ ﹁私が江戸へ帰るときは﹂と栄三郎が云った、﹁おつるもいっしょにゆくんだよ﹂ おつるは握られている手を放そうとした。栄三郎は放させなかった。おつるはなにか云おうとして、彼から眼をそらした。 ﹁もう絵もあがるし、いい機会だから今日は云ってしまうが﹂と栄三郎は続けた、﹁私はもうずっとまえからそのつもりだった、二人は結婚するんだ、角屋の主人に仲人になってもらって、ちゃんと祝言をして﹂ ﹁だめ、だめ、そんなことできやしません﹂ ﹁できなくってさ、私はなにもかも知ってるんだぜ、おまえには旦那も子供もない、おっ母さんと姉さんたちに仕送りをしているだけだっていうことを、まあいいから聞けよ、私たちが、江戸へいっても小浜への仕送りは﹂ ﹁いいえだめ、待って下さい、それはだめなんです﹂ ﹁だめなことはないよ﹂ ﹁いいえだめなんです﹂おつるは喘あえぐように云った、﹁あたしのことはたぶんおさとちゃんからお聞きになったんでしょう、あのひとはそりゃあたしのことはよく知っています、けれどすっかり知っているわけじゃありません、こういうしょうばいにはいろいろな義理が重なって、どんなに仲の良い友達にも話せないことがたくさんあるんです﹂ ﹁私にも話せないというのか﹂ ﹁堪忍して下さい﹂おつるは唇で笑った、﹁誰のちからでも、どうにもならない義理があって、あたしこんど、本当に、人の世話にならなければならなくなりましたの﹂ ﹁――人の世話に﹂ 栄三郎は、あっという眼をした。 ﹁ね、堪忍して﹂とおつるは続けた、﹁初めから旦那も子供もいるつもりだったでしょ、あたしの云ったことが本当で、おさとちゃんの話は嘘だったと思ってちょうだい﹂ ﹁――本当に、人の世話になるのか﹂ ﹁ええ、落ひ籍かされることに定きまったんです、それでこんどこそもう、おめにかかれなくなるから、今日むりに此処へ伴れて来て頂いたんです﹂ ﹁それで﹂と栄三郎は握っている手を放した、﹁――それは、もうどうにもならないのか﹂ ﹁これだけは、もう、どうにもなりません﹂ ﹁なんにも後悔はしないんだな﹂ ﹁あたしの魂はあの絵の中に残るもの﹂とおつるは明るい口ぶりで云った、﹁心をこめて落したあの扇子が、あなたの絵の中に残るんですもの、本望だわ﹂ 栄三郎はじっとおつるをみつめ、それから囁くようにもういちど訊いた。 ﹁本当に、どうにもならないんだな﹂ おつるは頷いた。両端の切れ上った唇をいっぱいにあけた笑い顔で、上眼づかいに彼を見返しながら、はっきりと頷いた。 ﹁相手は好い人か﹂ ﹁好い人です﹂とおつるは云った、﹁ね、――あたしのこと堪忍して下さるわね﹂ ﹁どうだかね﹂栄三郎は唇を曲げて海のほうを見た、﹁ひどく波立っているな、秋から風が強くなって、ここの海も荒れるんだってね﹂そしてまた云った、﹁そろそろ帰るとしようか﹂ ﹁まっすぐお帰りになる﹂ おつるはそう云って彼を見た。栄三郎は歩きだしながら頷いた。 ﹁桑名屋へはいらっしゃらない﹂ ﹁ああ、今日はよそう﹂ ﹁あたしいってますわ﹂おつるは栄三郎のあとから歩きながら云った。﹁――今日からもうお座敷へは出ないんです、だから桑名屋へいって遊ぶつもりよ、ね、――いらっしゃらない﹂ 栄三郎はなにかきげんのいい返辞をしようとした。けれども感情が隠せそうもないので、黙って首を振ったまま歩き続けた。おつるもそれからはなにも云わなかった、あとさきになって坂道を黙っておりてゆく二人のまわりで、茶色に枯れはじめた草がやかましく風にそよいでいた。 おつると切通しで別れた栄三郎が、控え家へ帰って裏木戸から入ると、仕切の生垣の向うに金右衛門がいて目礼し、すぐに木戸をあけてこっちへ来た。 ﹁江戸へ船が出ますのでな﹂と金右衛門は近づいて来ながら云った、﹁夜の十時の潮で出ますので、絵のようすを知らせてやりたいと思ったものですから﹂ ﹁もう殆んどあがっています、よろしかったらごらん下さい﹂ ﹁いやじつは、甚はなはだ失礼でしたが、少し仔しさ細いがあってさきほど拝見致しました﹂ ﹁仔細、――﹂栄三郎は振向いて云った、﹁なにかあったんですか﹂ ﹁競作の件です﹂金右衛門は渋い顔をした、﹁私はまるで知りませんでした、つい昨日、御家老から聞いて驚いたのですが、どうして仰しゃっては下さらなかったのですか﹂ 栄三郎は黙って肩をすくめた。十三
金右衛門は家老の石川舎とね人りから聞いたが、競作の事は孝之介の一存であって、舎人自身もごく最近に知ったのだという。それで金右衛門は栄三郎の仕事が気になり、留守ではあるが絵の進行ぐあいを見せてもらった、ということであった。
﹁まことにみごとな出来で﹂と金右衛門は続けた、﹁下絵のときより一段と冴さえておりますし、失礼ですが貴方のお作の中でもこれだけのものは初めてではないかと存じました、これならもうどんな相手でも敵ではないでしょう、競作の中止になったのが残念なくらいでございます﹂
栄三郎は眼をあげて金右衛門を見た。
﹁なにが中止になったんですって﹂
﹁競作の件でございます﹂金右衛門は微笑した、﹁はっきり事情はわかりません、たぶん相手の絵が思わしくなかったのでしょう、孝之介さまが自分から中止すると云いだされましてな、――もしもの場合には、貴方のお作は私が頂きたいと思っていたのですが﹂
栄三郎は頷きながら広縁へあがった。そうして、金右衛門が去ろうとするのを、ふいに振返って呼びとめた。
﹁船は今夜出るのですか﹂
﹁さよう、夜の十時でございます﹂
﹁私もそれに乗れますか﹂
﹁それはもちろん、――﹂と金右衛門は訝いぶかしそうに栄三郎を見た、﹁船は店のものですし、まだ二人や三人の客は乗れますが、どうしてまた急にそんなことを仰しゃるのですか﹂
﹁ぜひすぐに手配をして下さい﹂栄三郎は頑固な口ぶりで云った、﹁絵はこれから仕上げてしまいます、どうしてもその船で帰りたいと思いますから、ぜひそうお願いします﹂
そして、あっけにとられたような金右衛門を残して座敷の中へ入り、障子を閉めてしまった。
栄三郎はすぐに筆を取った。
絵は日の昏れがたに仕上った。七十余日の労作で、︵もちろん満足ではないが︶もう筆をいれるところはどこにもなかった。それでもなお一刻ばかり、絵の前に坐ってにらんでいたが、おけいが三度目に夕ゆう餉げを聞きに来たとき、ようやく振返って頷いた。
﹁飯は欲しくありません﹂と彼は云った、﹁勝手なことを云って恐縮ですが、肴さかなはなにもいりませんから酒を飲まして下さい﹂
﹁あのう﹂とおけいが云った、﹁あちらに心祝いの支度がしてあるからって、父さんが云っているんですけれど﹂
﹁いやこちらで頂きます﹂彼はおけいを見て云った、﹁わけは云えないが、私はもう誰にも会いたくない、貴女の御両親にもです、このままそっと逃げだしてゆきたいんです﹂
﹁ええわかります﹂とおけいは頷いた、﹁おけいにはよくわかりますわ﹂
﹁――貴女にわかるって﹂
﹁わたし勘がいいのよ﹂とおけいは謎なぞめいた微笑をして栄三郎を見た、﹁ではこちらへ持って来ますわ、お別れにお酌をさせて頂きますわね﹂
そして立って出ていった。
やや時間をとってから、おけいが小間使と二人で、酒しゅ肴こうの膳を運んで来た。時間をとったのは化粧を直したためらしい、白おし粉ろいも紅べにも濃く、香料がかなり強く匂った。
﹁おめでとうございました﹂
おけいはまずこう云って、神妙におじぎをした。むろん絵の完成を祝ったのであろう、膳の上にも祝いの肴が並んでいるし、酒も燗かん徳どく利りではなく銚ちょ子うしであった。
﹁貴女にはお世話になった、おけいさん﹂と彼は盃さかずきをさし出した、﹁お別れに一つ受けてくれないか﹂
おけいは首を振った。
﹁いいえ﹂とおけいは云った、﹁それはあたしは頂けません、その盃を受取る人はほかにいますわ﹂
﹁おけいさんは受けてくれないんだな﹂
﹁先生は御存じないのよ﹂おけいは静かに云った、﹁その盃はおつるさんにあげなければいけませんわ﹂
栄三郎は、どきっとして眼をそばめた。
﹁競作がやめになったのはおつるさんのためですわ﹂とおけいは続けた、﹁あの人が孝之介さまの云うことをきいて、落籍されることを承知したために中止になったんですわ﹂
﹁おつるが石川に﹂と栄三郎は声をあげた、﹁石川孝之介に、――おつるが落籍されるって﹂
﹁絵をお描きになるくらいだから、もっと気もよくおまわりになると思ったのに、先生は案外ぼんやりなところがおありになるんですのね﹂
﹁話してくれ、――それはいったいどういうことなんだ﹂
﹁あの孝之介は、――呼びすてでいいわあんな人、――あの人はまえからおつるさんが好きで﹂とおけいは云った、﹁自分は奥さんがあるのに、お妾めかけになれっていつもしつこく口説いていたんです、おつるさんはてんで相手にならなかったんですけれど、先生といっしょに樋の山へいったとき、孝之介の取巻の侍たちがみつけて告げ口をしたんでしょう﹂
ああと栄三郎は盃を置いた。
――不義者。
あのとき二人の酔った侍は﹁不義者﹂と云っていた。なにが不義者かと思ったが、その意味がいま彼にもわかるようであった。
﹁そこで孝之介は怒って﹂とおけいは続けた、﹁――まず先生の絵の邪魔をするために競作ということを企み、それをおつるさんに云ったんですって、おつるさんは先生のことを心配して、自分は身をひこうと思ったんだけれど、やっぱり逢わずにはいられない、悪い悪いと思いながら逢っているうちに、孝之介のほうはますます執念ぶかくなって、おまえが飽くまでいやだというなら、家老の職権で古渓先生の絵をはねてしまう、もうその手順をつけているんだなんて威おどかしたんです﹂
﹁それで、それでおつるは承知したのか﹂
﹁自分さえ死んだ気になればいいんだって、とうとう落籍されることになったんですわ﹂
﹁おつるがそう云ったんだな﹂
﹁おつるさんがそう云いました﹂とおけいはそっと眼をふせた、﹁――おとついお稽古の帰りに、泣きながらすっかり話してくれたんです﹂
﹁古風なやつだ﹂栄三郎は首を振った、﹁そんな手で女を口説きおとす石川も古風だが、そんな手に負けて自分をころすおつるもあんまり古風すぎる、ばかなやつだ﹂
栄三郎の眼から涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。彼はもういちど﹁ばかなやつだ﹂と云いながら、これまでのおつるの腑ふにおちない言葉や動作や、びっくりするほど衝動的な態度などを思いだし、その哀れさに胸が詰って、どうにも涙を抑えることができなかった。
﹁そんなばかなやつとは知らなかった﹂こう云って栄三郎は立とうとした、﹁私はこれからいって来ます﹂
﹁いいえ大丈夫、時間はたっぷりありますわ﹂おけいは微笑しながら云った、﹁――この話は先生には云わない、どんなことがあっても先生には話さないっていう約束でしたの、でもあたし決心したことがあるから申上げたんです﹂
﹁断わっておくが私はおつるを伴つれてゆきますよ﹂
﹁もちろんですとも、あたしだってそう思ったから申上げたんですわ﹂おけいは袂から袱ふく紗さづ包つみを出してそこへ置いた、﹁今夜の船でいっしょにゆけるように、必要な切手やなにかみんなこの中に入っていますわ﹂
栄三郎は眼をみはっておけいを見た。
﹁どうして、――﹂と彼は吃どもった、﹁どうしてまた貴女はこんなことまで﹂
﹁お二人が好きだからです﹂
おけいはこう云って明るく笑った。すがすがしいほど明るい笑いだったが、眼は涙でいっぱいだった。その涙が頬を伝って落ちるのも知らないようすで、おけいは栄三郎をみつめたまま云った。
﹁先生のことも好きだし、おつるさんも大好きなんです、そしてあたし自分のちからでお二人を仕合せにしてあげられると思うと、嬉しくってもうしようがないんです、わかって下さるでしょ、先生﹂
栄三郎は頭を垂れた。
﹁船の者にもそう云ってありますわ﹂とおけいは云った、﹁おつるさんは渋るかもしれないけれど、先生がそう仰しゃればいっしょにゆくに定ってます、あとのことはあたしが引受けますから、江戸へいらしったらどうぞお仕合せにね、そして、――おけいのことも忘れないで下さい﹂
栄三郎は襖絵のほうへ眼をやった。その絵の枯野に落ちている扇子は、落していった人の姿をあらわしている。その人の姿よりも鮮やかに枯野の上の扇子は去っていったその人の姿をあらわしている。
――おけいの心は、この枯野の扇子のように、いつまでも痛く記憶に残るだろうな。
栄三郎はそう思って眼をつむった。
﹁有難う、おけいさん﹂と彼はひそめた声で云った、﹁――いつまでも忘れないよ﹂
広縁の下あたりで、かねたたきが鳴いていた。