一
持って生れた性分というやつは面白い。こいつは大抵いじくっても直らないもののようである。筆者の若い知人に、いつも﹁つまらない、つまらない﹂と云う青年がいた。なにがそんなにつまらないのかと訊きくと、﹁なにもかもつまらないんです、別に理由はないんで、ただつまらなくってしようがないんです﹂と答える、﹁――なにしろ尋常三年生のときからこっちずっとつまらないんですから﹂こう云って欠あく伸びをした。それからまた、﹁こいつは遺伝かもしれません、親父もよくそう云ってましたからね﹂などと云いだした、﹁――うちは百姓ですが、親父はなんにもしやしません。一日じゅう座敷に坐って、莨たばこをふかしたり寝ころんだり、古いぼろ三じゃ味みせ線んを持ち出して来て、ぽつんぽつん糸を弾はじいたりしているんです、そんなものすぐに抛ほうりだして、欠伸をして寝ころんじまう、そうしちゃあ溜ため息いきをついて、ああつまらねえ、よくそう云ってましたよ﹂要するに親の代からつまらないというわけで、さすが物に動ぜざる筆者も、これには挨拶の言葉がなかった。 牧野主かず計えはひじょうに多忙である。彼の日常をみればわかるが、こっちの頭がちらくらするほど忙しい、もちろんそういう位置にもいたわけだが、性分がもう少しどっちかへずれていたら、それほど忙しがらずとも済んだ筈である。――とにかくまず御紹介するとして、赤坂氷ひか川わし下たまで来て頂きたい、そこに原田市郎左衛門の大きな町道場がある、門の前に下男が二人いて、しきりに掃いたり水を撒まいたりしているが、なにかみつけたとみえ、一人が高たか箒ぼうきを控えて笑いながらこう云った。 ﹁おいみな、また韋いだ駄て天んが飛んで来るぜ﹂ ﹁いやはやどうも﹂片方も苦笑する、﹁――足もとから土煙りが立ってる、どうしてまああんなに忙しいのだろう﹂ ﹁避よけろ避けろ、轢ひき殺されるぞ﹂ 向うから走って来る者がある。色の白いやや肥った躯からだで背丈は五尺八九寸、かたちのいい眉にきゅっとひき緊った唇、ちょっと下した三さん白ぱくだが品のいい眼で、なかなかぬきんでた風格である。――これが御紹介する牧野主計だ、父は永井上かず総さの守かみ直なお陳のぶの家臣で、九百五十石の江戸やしき勘定奉行、彼はその二男で年は二十五になる。三年まえから原田道場の師範代をつとめ、同時に会計も事務もひきうけていた。それは師範の市郎左衛門が病気がちなのに、折江という娘が一人しかなく、それらの事を托す者がなかったからである。……で、彼は走って来た。正に下男どもの云う如く足もとから土煙りを立てて、だがこれは今朝に限ったことではなく、いつもこのとおりだから御承知が願いたい。 ﹁お早うございます﹂二人は道を避けて挨拶した、﹁――いいお日ひよ和りでございます﹂ 主計はかれらの前を風のように擦過した。 ﹁ああお早う、いい日和だな、いつも精が出るな、御苦労﹂ こう答えたのであるが、二人の耳にはあいうえおという風にしか聞えなかった。――主計は脇の入口からとびこんで、自分に当てられた着替え部屋へはいった。弥一郎という十三歳になる内門人の少年が、手になにか持って、口をもぐもぐさせながら追って来た。 ﹁牧野先生お早うございます。木下さんが来て待っておいでですよ﹂ ﹁木下、――どこの木下だ﹂ ﹁めだまですよ、めだまの木下さんです﹂ ﹁そういうことを云ってはいかんと云ってあるだろう、なにを喰べてるんだ、一つよこせ﹂少年の持っている紙袋へ手を入れ、二つ三つ摘つまんで口へ抛りこむ、﹁――なんだ、松華堂の玉露糖じゃないか、こんな贅ぜい沢たくなものをどうしたんだ、買い食いをするひまがあったら少しは稽古をしろ﹂ ﹁いいえ買い食いなんて﹂少年はひどく狼ろう狽ばいした、﹁――これは貰ったんですよ、本当です、武田さんに貰って﹂ だが主計はもう廊下へ出ていた。いちど道場を覗のぞいて、﹁すぐ始めるぞ﹂と声をかけ、そのまま接待へはいっていった。――木下六郎兵衛は川かわ越ごえの秋あき元もと但たじ馬まの守かみの家臣で、牧野とは遠縁に当っていたし、主計とはごく幼い頃からの親しい友だった。一人息子で父が去年亡くなってから、家督を継いで母とふたりで暮している。木下も母親も暢のん気きな性分で、ときたま訪ねる主計には、自分の家より気楽で居ごこちがよかった。 ﹁やあ待たせて済まなかった、ばかに暑いじゃないか、春でも来たようじゃないか﹂こう云いながら主計は坐る、﹁――たいへん待ったかね、しかしばかに早くどうしたんだ﹂ ﹁相変らずおちつかないな﹂六郎兵衛はにやにやする、﹁――第一に暑くなんかない、寧むしろ今朝は冷えるよ、寒いと云ってもいいくらいだ、第二にそうたいして待ちゃあしない、つい今しがた来たばかりさ、第三に早く来ることは知っている筈だ、昨日ちゃんとそう云ってあるんだから﹂ ﹁昨日だって、おまえが、……おれにか?﹂ ﹁おい冗談じゃないぞ﹂六郎兵衛は口をへの字なりに曲げた、﹁――それじゃあ頼んでおいたことも忘れたのか﹂ ﹁ああそうか、そうか、あれは今日かね﹂ 主計はにやっと笑う、相手もにやっと笑う。だが主計はまだ頼まれた用件というのを思いだせない、そこで話を転じようと、一種の表情をするとたんに、六郎兵衛はちゃんと察して答えを出してやった。 ﹁忘れたんだな、金だよ﹂ ﹁ああ金﹂主計はびくっとした、﹁――金だって、おいおい金ってなんの金だい﹂ ﹁おまえが忙しい人間でなければ、おれは殴るところだぜ﹂六郎兵衛は拳げん骨こつを握ってみせた、﹁――七日の式の費用がどうしても足らない、済まないが五枚だけ頼むと﹂ ﹁ああわかったわかった、そうかあれはおまえか、同じような話が三つあったんでどれがどれだかつい眼移りがしちゃって﹂ ﹁へえーそういうのも眼移りかね﹂ ﹁まあ怒るなよ、慥たしかに五枚ひきうけた、しかし明日じゃいけないかね、忘れたというわけじゃないが、なにがあれしてなんだもんだからね、ついあれしてなにがその﹂ ﹁明日でもいいさ、しかし早くないと困る﹂ ﹁おれが届けるよ、暗いうちならいいだろう﹂ ﹁明るくなってからでもいいさ、じゃあ忙しいだろうから帰る﹂六郎兵衛はこう云って立上った、﹁――金五枚、明早朝、こんど忘れたら本当に怒るぞ﹂ ﹁もちろん大丈夫、心得た、が、――おい、式をやるってなんの式だい﹂ 六郎兵衛は振返って大きな眼玉︵そのためにそういう綽あだ名なのある︶を剥むいてこっちを睨にらみつけた。そしてなにも云わずにさっさと玄関のほうへ出ていった。――主計は部屋へもどるとすぐ、稽古着になって道場へとびだした。そのころ原田道場といえば江戸でも指折りの存在で、内外あわせると三百人あまりの門人を擁し、主計を筆頭に三人の師範代が教えていた。あるじ市郎左衛門はいま病弱のため殆んど教授をしないが、梶かじ派は一刀流では遠近に知られた武道家である。彼の師は梶新左衛門といって、小野二郎右衛門忠勝の直系であるが、その小野派一刀流から出て新しく自分で﹁梶派﹂を建て、将軍家の手直し番にまで上った人物である。その梶派の二代を継いだのが原田市郎左衛門なのだから、筆頭師範代をつとめる牧野主計もそうありふれた腕でないことは慥かだ。 道場では武田平之助と亘わた理り又十郎が稽古をつけていた。もうひとりの師範代は坐って見ていたが、主計が来ると眼で招いた。杉原兵ひょ庫うご助のすけといって三人のうちではいちばん腕が立ち、教えかたが軟らかいので門人たちに好かれていた。 ﹁あれを見て下さい、武田のを﹂兵庫助はこう囁ささやいた。 ﹁――またいやなことを始めました﹂ 主計はそっちを見やった。 武田平之助は市郎左衛門の子飼いからの門弟で、ひところは筆頭師範代に擬せられたほどであったが、この一二年酒をおぼえたためか手筋が荒すさんで暴あらあらしくなり、どうかすると無法な奇手をあみだして、市郎左衛門の怒りをかうようなことがたびたびだった。――いまも井上という上位の門人と立ち合っているが、躰たいの構え足の踏みかたが異様である。慥かになにか法外はずれな手を案じだしたらしい。主計は眉をしかめると、声をあげながらそっちへずかずか近寄っていった。 ﹁ちょっと厳しそうじゃないか、井上には無理だ、おれが代ろう﹂ ﹁――厳しそうだって﹂平之助は竹しな刀いをさげてこっちを見た、﹁――そんなことがあるものか、ほんのちょっとしたくふうだよ﹂ ﹁みせて貰おう﹂ ﹁いいけれども、やるなら胴を着けてくれないか﹂ 平之助はこう云って唇で笑った。自分より上を遣うものに胴を着けろと云うのは、それだけの自信があってのことだろうが礼儀ではない、寧ろ傲ごう慢まんともいうべきで、こういう修業をする者としては、極めて不心得な態度である。主計はそれならと云って、すなおに胴を着けた。 二人は位取りをした。互いに中段である、ごくあたりまえな中段にとって呼吸五つばかり、後ろへひいた主計の右足の踵きびすがすっと僅かに浮いたが、同じ刹せつ那なに平之助の竹刀が弧を描いて左から主計の腰を斬り上げた、もちろん軽い手である、しかし斬り上げた竹刀はそのまま電光のように返って主計の逆胴をはっしと斬って取った。 ﹁まいった――﹂ 主計は二間ばかりとび退ってこう叫んだ。それからすぐ相手のそばへいって、ずいぶん厳しいなと低いこえで囁いた。 ﹁少し厳しすぎる、ほかの者にはいけないな、やるときはおれを相手にするがいい、まちがうととんだことになるよ﹂二
平之助は苦い顔でなにか云おうとしたが、主計はもう振返って、﹁さあ河村いこうか﹂と次の者に稽古をいどんでいた。――二時間して道場をあがると、裸になって裏の井戸端へとびだした。ふつうは雑用をする内門人に世話をさせるのだが、彼はひとりでがらがら水を汲くみあげ、五六杯肩から浴びて膚の赤くなるまで手拭で擦こする。春とはいっても二月初旬のことでまだかなり寒いが、これは真冬の烈風や雪の日でも同じことだ。……きゅっきゅっと音のするほど躯を擦っていると、庭をまわって一人の娘がこっちへ来た。この家やのむすめ折江である、上わ背もあるし手も足ものびのびとした豊かな躯つきで、眉の長い眼もとのやさしいおっとりとした顔だちをしていた。 ﹁やあこれは﹂主計は吃びっ驚くりして、まだ濡れている躯へ浴衣をひっかけた、﹁――これはどうも、お早うございます、いや、もうそれほど早くはありませんな、どうなさいました、なにか御用ですか﹂ ﹁こんなところへまいって失礼ですけれど、お部屋ではいつもお人がいらっしゃいますので﹂折江はこう云って彼の眼を見た、﹁――それにもう、ずいぶん日も経っておりますから、どうなすったかと思いまして﹂ ﹁と仰おっしゃると、――ああそうですか、節句のお支度のことですね﹂ ﹁いいえ、いつかお話し下すったあの、――あのことでございますわ﹂ ﹁わかりました、妹の琴をお譲りする話でしょう﹂主計はにこりと笑う、﹁――大丈夫ですよ、まだ話してはありませんがあいつ嫁にゆくんですから。琴を三面も持って嫁にゆけやしません、必ずお譲りするようにしますから安心していらっしゃい﹂ ﹁わたくし琴のことなど申上げてはおりませんわ﹂ ﹁琴でもない﹂主計は狼狽する、﹁――と云うといったい、……ああ、ああわかった、あれですね、あの古竜堂で持って来た茶壺﹂ そのとき向うで弥一郎が呼びたてた。 ﹁牧野先生お客ですよ﹂ ﹁よし、いまゆく﹂ ﹁わたくし明後日から松乃をつれて江の島へまいります﹂折江は口早にこう云った、﹁――往ゆき帰り十日はかかると存じますから、そのあいだに話をおきめになって下さいまし、こんどこそお願い致します﹂ ﹁はあ承知しました、しかし江の島へいらっしゃるって、なんです、なにか御用でもあるんですか﹂ ﹁お客さまが待っておいでですわ、もういらっしゃいまし﹂折江はやれやれという風に頭を振った、﹁――江の島から鎌倉へ見物にゆくということは半年もまえからの話で、よく御存じの筈ではございませんの、貴あな方たのお忙しいことを知っていますから、がまん致しますけれど、……いいえようございますわ、いらっしゃいまし、ただあのことだけはお忘れのないようにお願い致しましてよ﹂ ﹁はあ慥かに、必ずこんどは大丈夫です﹂ 接待には五人の客が待っていた。三人は若い武家の入門希望者であった、彼はそれを杉原兵庫助にひきついだ。腕の程度をみて入門の諾否をきめるのである。他の一人は麹こう町じまちの秋元但馬守の家臣で、﹁出稽古に来て貰いたい﹂という相談、もう一人は下した谷やの横川又右衛門という剣法師範の使者で、﹁三月某日、芝愛あた宕ごや山まで奉納試合をするが、そのとき当道場からも参加して貰えますか﹂という申込みであった。この二つは自分の一存ではきめられない、待たせておいて師の部屋へいった。――そこはこの建物の西の端にあり、榁むろの木を林にした庭に面し、西側の窓の外は竹たけ藪やぶになっていた。市郎左衛門はその窓に倚よって、鶯うぐいすの鳴くのを聞いていた。まだ五十二の若さであるが、病弱になってから生やした顎あご髯ひげが殆んど白く、骨立った頬やするどい眼のあたりに非凡な人のひらめきが感じられるけれども、全体としては憔しょ悴うすいの色がかなり強くあらわれていた。 ﹁秋元侯はやかましいので評判だ、亘理や杉原では到底いけないだろう、そこもとはもう手一杯であろうし、お断わりするほうがよくはないか﹂ ﹁私わたしでよければまいります、決して手一杯などということはございませんから﹂主計はこう云ってすぐ次へ移る、﹁――奉納試合はどう致しますか、下谷の横川というのは慥か念流だと思いますが、ちょっとかんばしくない噂うわさを耳にしたことがあります﹂ ﹁こちらに総稽古があるからと云って断わるがよかろう、益もないことだ﹂ ﹁はい、では私これから稽古に出ます﹂ 接待へ戻って二人にそれぞれ返辞をし、出るしたくをしているとまた客だ。一人は相さが模み屋や吉兵衛という武具屋、これは道場で使う面めん籠こ手てや竹刀の修理新調を扱っている。一人は大工の頭とう梁りょうで、道場の一部を直す相談である。かれらとの話が済むなり石井勇作という内門人に道具を持たせて主計は出た。――麻あざ布ぶ六本木の脇わき坂ざか家から飯倉の松平伊賀、次に芝桜川町の松平右京家、愛宕下の島津兵部、そして金かな杉すぎ橋ばしの戸田大学という順である。戸田を済ませて出るともう町は黄たそ昏がれだった。 ﹁やあ御苦労、帰っていいよ﹂主計は勇作にこう云った、﹁――おれは用事があって銀座のほうへまわるからな、じゃあ﹂ そしてさっさと歩きだした。――勇作はそれを見送りながらにやにや笑った。出稽古の帰りには三日にいちど必ず﹁銀座へまわる﹂と云って別れる、半年ばかりまえからのことでおかしいと思ったから或日そのあとを跟つけてみた。すると銀座などというのは嘘で、芝しば神しん明めいのはなやかな町へゆき、とある横町の粋いきな造りの家うちへはいる、近所できくと荻おぎ江えぶ節しを教える家うちだそうで、師匠は園その次じという美しいので評判の女だということであった。 ――あの忙しいからだでよくそこまで手がまわるな、呆あきれたものだ。 道場へ帰ってその話をすると、みんなそう云ってあっけにとられた。中にはまたそのくらいの道楽がなければ却かえって躯が続かんだろうと云う者もあり、先生の耳へはいれないようにと注意しあったものである。――そんなことがあろうとは夢にも知らず、主計は例のいそぎ足で神明へやって来ると、問題の﹁粋な造りの家﹂へやあ御免と云いながら無遠慮に上りこんだ。 ﹁あら牧野さんですか、ちょっと待って下さいな﹂ 襖ふすまの向うでそう云う声がしたとき、すでに主計はその襖をあけていた。 ﹁あらいけません、こんな恰好なのよ﹂ いま風呂から帰ったところらしい。肌ぬぎになって鏡へ向っていた女が、両袖で胸を隠しながら振返った。――これが園次である。なるほど美しい。柔らかな肉付きのやや肥えた躯つきであるが、背丈が小づくりで関節が緊っているから、寧むしろかたちよく痩やせてみえるくらいだ、年はもう三十二になるのだが、二十三四より上にはみえない。こんなしょうばいに似合わず、仇あだっぽいというよりやぼったい感じで、それが一種のひと懐っこい美しさを表わしていた。 ﹁これはどうも﹂主計は少しも騒がず、﹁――向うの部屋はあいているかね﹂ ﹁ええおしたくが出来てるでしょう﹂ ﹁じゃあ御免を蒙こうむるよ﹂こう云って次の間へゆく、そこは女主人の寝間らしく、色なまめかしい道や具ぐがのべてある、主計は羽折と袴はかまをぬいだなり、その中へもぐりこんで寝てしまった。――これは相当けしからぬ仕掛けである、彼ほどの人間がかくの如きじだらくな振舞をするとはなにごとであるか、読者はこう敦とん圉ぎょされるかもしれない、だが心配は御無用、一時間ぐっすり眠った彼はとび起きて顔を洗うと、園次を相手にまじめくさって荻江節の稽古を始めた。 ﹁いいえそうじゃないんですよ、ようござんすか、つつんつんつん、ちちちつんつつん、萩はぎのしずくのはらはらと、しいずうく――こう張るんです、はい﹂ ﹁私は張ってる積りなんだがね、――萩の、しいずうくう……﹂ ﹁いいえ、しいずうく――ですよ、はい﹂ まる一時間﹁萩のしずく﹂でいじめられ、汗のしずくを拭って立上ると、まっしぐらに虎の門外にある永井家の上屋敷へ帰り、殆んど門限ぎりぎりにとびこんだ。家では朝が早いから父も妹もたいていは寝ている、母親だけはどんなにおそくとも食事のしたくをして待っていてくれるが、この頃は特に帰りのおそいことが続くので、それとなしに探るような眼で見られるのがうるさかった。 ﹁あたしたちの後だけれど風呂へおはいりなさらないか、暫くはいらないのでしょう﹂ ﹁なに毎日二三度も水を浴びますから﹂ ﹁水では垢あかはおちませんよ、ざっと流していらっしゃいな、そのあいだにお汁を温ためておきますから﹂ ﹁いや御飯にして下さい、全然はらぺこです、やあ鯉ですね﹂彼は膳ぜんの前へ坐る、﹁――すると源助が来たんですか﹂ ﹁たまきの御祝儀の日を思い違えたんだそうです、またあさって持って来ると云ってましたよ、あなたお汁をあがらないの﹂ ﹁鯉こい濃こ汁くがあるんですか、もちろん頂きますとも﹂ ﹁この頃だいぶお帰りがおそいのですね﹂母親は汁を温ために立ちながら云った、﹁――お忙しいのだろうけれど、こんなにおそくなるのなら食事をなすって来なければ毒ですよ﹂ ﹁でも食事は家のに限りますからね、母上のお手料理を頂いてはよそのは喰べられやしません、まったくですよ﹂彼は母の追及を避けるために無意味な言葉を続ける、﹁――源助はまたあさって来るんですか、へえ、百姓はうまくいってるんですね、下男としても使える男だ、だから百姓でも相当でしょうね、いちど私も会いたいのだけれどこう忙しくては……﹂三
武家は朝の早いものであるが、牧野ではどこより早起きで名がある。一年じゅうとおして午前四時には全家族が朝食をする定きまりで、病びょ臥うが公用でない限りこの家法から除外されることは決してない、――主計は三時ちょっと過ぎに起きると、顔を洗うまえに妹の部屋へいった。たまきは鏡に向って髪を梳すいていた、今年十八歳になる、躯も大柄だし顔かたちも派手なので、主計は﹁饅まん頭じゅ牡うぼ丹たん﹂という綽あだ名なをつけ、たいへん泣かれたし父親に怒られたことがあった。 ﹁やあお早う、もう起きてたのかい﹂ ﹁あらこんな処へいらしってはいやですわ﹂ ﹁すぐゆくよ、ほう、いい髪をしているな﹂彼はこう云いながら側へ寄る、﹁――ずいぶんみごとじゃないか、これは知らなかった、丈たけなす黒髪というやつだね﹂ ﹁もうたくさん、あちらへいらしって﹂ ﹁じつは頼みがあるんだよ﹂ ﹁ほうら、たいていそうだと思いましたわ、髪をお褒ほめなさることなんぞためしがないんですから﹂ ﹁そんなことがあるものか、それとこれとは別だ、おれは口では云わないがいつでもおまえを自慢にしているんだ、それでなくったって兄妹じゃないか、お世辞をつかって金を借りるなんていう他人行儀なことをするものか﹂ ﹁お金ですって、――わたくしにですの﹂ ﹁済まないが五両、ほんの四五日だよ﹂ ﹁だって、そんなにたくさん何に御ごい入りよ用うなんですの﹂ ﹁それはいろいろあるさ、つまり竹刀を新しく買わなくちゃならないし、稽古着だの面だのもあるし、とにかく四五日すると道場から手当が下さがるんだ、それまででいいから﹂ ﹁ねえ主計兄さま﹂たまきは櫛くしを措おいて兄を見た、﹁――あなたなにか隠していらっしゃいますわね、この頃はずっとお帰りもおそいし、お金もかなりお遣いなさるし、いいえわたくしはお信じ申しておりますけれど、父上や母上はたいそう心配していらっしゃいますわ、なにかわけがあるのでしたら﹂ ﹁冗談じゃない、ばかなことを云っちゃあいけない、子供じゃあるまいしそんな、少しぐらい帰りがおそいからってそんな、つまらないことをいちいち疑ぐられて堪るものか、とにかく急ぐんだからちょっと五両﹂ ﹁わたくし、そんなにたくさん持っていませんわ﹂ ﹁だめだよ、このあいだ借りるとき見たら二十両もあったじゃないか﹂ ﹁まあ呆あきれた、そんなことまでごらんになるなんて、恥ずかしいとお思いなさらないんでしょうか、以前はお金のことなぞ口になさることもなかったのに﹂ ﹁乞こじ食きの子だって三年経てば三つになる、さあ頼むよ﹂ ﹁いやですわ、あのお金はお嫁入りに持ってゆくんですから﹂ ﹁だからさ、四五日すると道場から手当が出るんだ、そうすればこれまでのものも纒まとめて、なんなら利を付けて返すよ、大丈夫まちがいなしなんだ、母上に云えばいらない心配をなさるし、おまえのほかに頼む者がないんだから、そう焦じらさずに早く出してくれ﹂ ﹁すっかりお上手になって、とてもかないませんわ﹂たまきはこう云って兄をやさしく睨にらみ、手文庫をひき寄せて金を紙に包んだ、﹁――その代り明日のお式にはきっと出て下さいましね、今からお約束しておきましてよ﹂ ﹁有難う、これでおれの面目が立つよ、しかし明日の式って、――なんだっけね﹂ ﹁こころ細いのねえ、たまきのお輿こし入いれじゃございませんか﹂ ﹁お輿入れ、ああ嫁にゆくんだっけな、知ってるよ、なに忘れるものかきっと出るさ﹂彼は紙包を袂たもとに入れて立ったが、﹁――ははあそれで源助が鯉を持って来たんだな、しかしまさか明日とは知らなかったぞ、来月ぐらいだと思っていたがね、本当かね﹂ ﹁明日の夕方六時ですわ、もう二度と申上げませんから﹂ 明日の六時と口のなかで繰返しながら、主計はそのまま顔を洗いに井戸端へ出ていった。とたんに会ったのが父の茂右衛門である、じろりと怖い眼でこっちを見、主計の挨拶を黙って受けてすれ違った。井戸端には兄の大学がいて提ちょ灯うちんの光の下で裸の肌を拭いていたが、これも主計を見ると怖い眼をした。 ﹁お早うございます、この半はん插ぞうはあいていますか﹂ ﹁気をつけろよ﹂大学は低いけれども厳しい調子でこう云った、﹁――隠すことは顕あらわれる、妙な噂が耳にはいるぞ﹂ ﹁そんなことはありませんよ、噂なんてでたらめなもんです﹂ ﹁気をつけろと云ってるんだ、でたらめであろうとなかろうといちど弘ひろまった噂は消せるものじゃあない、そんな評判の立たぬように気をつけろと云うんだ﹂ ﹁わかりました、気をつけます﹂ 主計は顔だけさっさと洗い、﹁お先へ﹂と云って逃げだした。神明の家のことが知れたらしい、どこからわかったろう、誰にもみつかる筈はないんだが、――主計は首を傾かしげながら急いで着替えをした。朝食が済んでもまだ外はほの暗かった。主計はいつもより早く家を出ると、榎えの町きちょうにある秋元邸へまわり、木下六郎兵衛の住居を訪ねた。起きたばかりとみえて、六郎兵衛は冴さえない顔で出て来た。 ﹁やあ早いな、感心に忘れなかったな﹂ ﹁怒られるからね、じゃあこれを﹂ ﹁済まなかった、慥かに、――あがって茶でも飲んでゆかないか﹂ ﹁そうしちゃあいられない、ここで失敬する﹂ ﹁七日にも忘れずに頼むぞ﹂ ﹁なんだっけ、七日って﹂ ﹁おい大概にしろよ﹂六郎兵衛は睨んだ、﹁――昨日も式はなんだなんて云ってたが、それじゃあすっかり忘れていたんだな﹂ ﹁いや忘れちゃあいないが念のために﹂ ﹁おれの祝言だ﹂六郎兵衛はぶっつけるように云った、﹁――おれが結婚をするんだ、この家へ嫁が来るんだ、七日の宵に祝言の杯をあげるんだ、わかったか﹂ ﹁わかったよ、忘れやあしないよ、だが、――あれは七日だっけかね、七日というと﹂ ﹁今日が六日だから七日は明日だ﹂ ﹁明日ね、へえー、本当だろうね﹂ ﹁殴るぞ﹂ ﹁いいよわかったよ﹂主計は後ろへ退る、﹁――七日の夕方だろう、来ればいいんだろう、来るよ、冗談じゃない、むやみに祝言の重なる日があるもんだ、よっぽどの吉日なんだな﹂ ﹁なにをぶつぶつ云ってるんだ﹂ ﹁なにこっちの話さ、じゃあ失敬﹂ 秋元邸の門を出ると、﹁さあ忙しいぞ﹂と呟つぶやきながら走りだした。一日に二つの結婚があったって別にふしぎはない、黄こう道どう吉きち日じつなどと云って、そんな日には江戸じゅうに幾百組も結婚式があるかわからない、日本全国にしたらたいへんなものだろう、しかし妹と親友の二た組がかち合うのには弱った、おまけに祝言なんというやつはたいてい宵のくちにやるものだから、両方に義理を立てるとすればよっぽど敏びん捷しょうに動かないと間に合わない。 ﹁知らなかったねこいつは、驚いた、電光石火といかなくちゃならん、やあお早う﹂彼は例の如く道場まで走り続けた、﹁――よく精が出るな、いい日和で御苦労﹂ 下男たちにこう云いながら門をはいる、そしてまた忙しい一日が始まるのだった。――さて、稽古が終って、井戸端へ躯を拭きに出たとき、彼はふと昨日そこで折江と話しあったことを思いだしてはっとした。 ﹁慥か江の島見物にゆくと云った、それも明日だったように思うが﹂こう呟いて、空を見上げる、﹁――そうだ明日だった、なにもかもいっしょくただ、極上飛切り掛値なしの吉日なんだな、しかし、――うん、なにか頼まれた、留守のあいだになにかやっておいてくれと、……なんだっけ、はてなんだっけかしらん﹂ 暫く考えたが思いだせなかった。しようがない訊いてみようと思い、躯を拭いて着替えをすると、庭をまわって奥へいった。――折江は広縁でばあやの松乃といっしょに、なにか着物を取出して見ているところだった。 ﹁旅のおしたくですか、これから稽古に出ますがなにか外そとに御用はありませんか﹂ ﹁そんな心配は結構でございますよ﹂松乃が笑いながら答えた、﹁――牧野さまはそうやってしなくともよい用事を御自分から買って出ていらっしゃる、それでは幾つお躯があっても堪りませんですよ﹂ ﹁なに用事はついでのある者がすればいいのさ、それからあれです﹂主計はさりげなく折江に呼びかけた、﹁――その、昨日お話のですね﹂ だがそのとき、向うから弥一郎が顔色を変えて走って来た。 ﹁牧野さん来て下さい、大変です﹂ ﹁大きな声をだすな、なんだ﹂ ﹁武田さんが大先生に折せっ檻かんされています、早くいって止めて下さい﹂ ﹁どこだ﹂主計は走りだした。 ﹁道場です、杉原さんにも誰にも手が出せないんです、とても大変なんです﹂ 道場へいってみると、門人たちは居いた堪たまらなかったとみえて誰もいず、師の市郎左衛門が俯うつ伏ぶせにうずくまっている武田平之助の背せなへ、竹刀でぴしぴしと烈しい打ちょ擲うちゃくをくれていた。 ﹁お待ち下さい先生、お待ち下さい﹂ ﹁いかん、止めるな﹂ ﹁まず暫く﹂主計は師の躯を抱き止めた、﹁――おからだに障りますからお止やめ下さい。御不興がございましたら私から申し聞かせます。どうぞこのまま、武田、向うへゆけ﹂ 押分けながら、市郎左衛門を抱くようにし居間へ伴つれていった。市郎左衛門は肩で息をしていた。そして居間へはいるなりそこへ崩れるように坐ったが、同時に顔を脇へそむけて、怒りと悲しみの入混った声音でこう云った。 ﹁――哀れなやつだ﹂四
道場へ取って返すと平之助は部屋へいったという、主計は石井勇作に﹁したくをしておけ﹂と命じておいてそっちへいった。平之助は蒼あお白ざめた顔で着替えをしていた。主計は近寄っていって肩を押えた。 ﹁あの手をみつかったんだね﹂ ﹁――悪いか﹂ ﹁云ったじゃないか、おれとだけやるがいいって、まあ坐れよ﹂主計は相手をそこへ坐らせ、自分も膝ひざをつき合せて坐った、﹁――はっきり云うが悪い、あの手はいけない、昨日はいちおう負けたがあれは悪手だ、こんなことを云うだけやぼだが、刀法というものが実際の役に立つ時代は去った。刀は武家の象徴だし、刀法は精神鍛錬がおもな目的になっている、勝ち負けも大事だが、それより更に法とか品位とか気きは魄くなどが大切だ、梶派が特にそれを重んずることは知っている筈じゃないか、なんのためにそう焦あせるんだ﹂ ﹁焦るのが無理か、牧野﹂平之助はするどい眼をあげた、﹁――おれは足軽の二男坊だ、十四の年からこの道場で育ち、いちどは筆頭師範代にもなりかかった、だがそれがゆき止りだった。おれはもう二十八になる、それだけの才しかないのかもしれないが、このままゆけば家を持つことはおろか妻を娶めとることさえ出来ない、尋常のことをやっていたのでは平ひらの師範代で一生ひやめしを食わなくてはならないんだ、そこもとのような幸運に恵まれた者には、これがどんなにみじめなことかわからないだろう﹂ ﹁おれが幸運に恵まれているかどうかは預かろう、しかしそこもとがもしそう考えるなら、いっそう自重しなければならぬではないか﹂ ﹁自重も我慢もするだけはした、けれどもその限度がみえてきた、先生の気持もおれからはもう離れている、おれはおれの腕、おれのくふうで道を拓ひらくより仕方がなくなったんだ、おれのくふうした手で梶派を破るよりほかにおれの生きる道はなくなったんだ﹂ ﹁しかしあの手はよくないぞ﹂主計はできるだけ穏やかに云った、﹁――刀法は幾百年という長い年月を経て、経験とくふうと錬磨を積んできた、法にかなわぬものは亡び、成長すべきものが成長してきた、そこもとが今それを無視していかなる奇手を編み出そうとも、無法が法に勝てるわけはないだろう﹂ ﹁おれの逆胴が無法だと云うのか﹂ ﹁そこもと自身がいちばんよく知っている筈だ、もういちど云うがあれは悪いよ﹂ ﹁口ではなんとでも云えるさ﹂平之助はぴくっと唇をひきつらせた、﹁――今そこもとはいちおう負けたと云ったな、ふん、竹刀だからそんなことが云えるんだ、あれがもし真剣なら、失敬だがそこもとの命は﹂ ﹁わかった、それまでにしよう﹂主計はにこっと笑って手をあげた、﹁――ここで喧けん嘩かをしたってしようがない、それより少し休まないか、実は折江さんが明日、十日ぐらいの予定で江の島から鎌倉へ見物にゆかれるんだ、供は松乃さんと吉造ということだったと思うが、護衛役ということでそこもとにいって貰えたらいいんだが﹂ 平之助は一種の表情でじっとこちらを見、ついで妙な笑いかたをした。 ﹁それは、いってもいいが、しかし﹂ ﹁先生のほうは後でおれからそう云おう、機嫌を直して海でも見て来るがいい﹂主計は劬いたわるようにこう云い添えた、﹁――念のために云っておくが、いま先生はたいへん悲しそうにしていらしったぞ、本当に悲しそうな声でこう仰おっしゃった、……平之助は可哀そうだと﹂ ﹁まさにそのとおりさ﹂まるで意味を穿はきちがえた眼つきだった、﹁――おれは哀れな人間だよ、しかし……﹂ 主計はあとを聞かずに立上った。 かくて飛切り別べつ誂あつらえの吉日である。朝のうち折江に、﹁武田が供に加わるから﹂と囁いて旅へ送り出し、日程どおり馳かけまわるうち、弥一郎に木下家へ紋服を届けさせ、出稽古を終るとそのまま、いっさんに榎坂へと走はせつけた。――既に日の昏くれで、部屋には燈あかりがはいっていた。小部屋へはいって届いていた物と着替える。木下の母堂はじめ見知らぬ人々が、狭い家うちの中をおちつきなく動きまわっている中から、正装した六郎兵衛が多少は衒てれた恰好で現われ、突つき袖そでなどしてみながら苦笑いをしてみせた。 ﹁忘れずによく来たね、どうだこの姿は、おかげで馬ま子ごの衣いし裳ょうだ﹂ ﹁なるほどね、髭ひげを剃そって髪油を付けて、熨のし斗めあ目さが麻みし裃もを着たところは捨てたものじゃあない、どうして三百石は安いもんだ﹂ ﹁おまえがそう云ったってもしようがない、それに式が済めばすぐ質屋だ﹂ ﹁式といえば何時なんだ﹂主計は袴はかまの紐ひもを緊めながら云った、﹁――実はなるべく早く済まして貰いたいんだ、先方が来て座がきまったら帰るからね﹂ ﹁なんの冗談を云うつもりなんだ﹂ ﹁いや冗談どころか、もう一つあるんだ﹂ ﹁幾つあってもいいさ、なにが幾つあろうとこっちはおれの祝言だ、親友のおまえが列席しないで式がやれるかどうか考えてみろ﹂ ﹁それはそうだけれど、弱ったな、それはそうだけれども、こいつは弱った﹂ ﹁弱るもくそもあるか、どんなことがあろうと今夜は放さないからそう思え、早くしたくをしないともう向うで来るぞ﹂ そして六郎兵衛は、向うへいってしまった。主計はうろうろと足袋を穿く、木下の母堂が来て裃を着るのを手伝ってくれる、口のなかで弱った弱ったと云いながら、どうやらしたくの出来たとき、玄関に人の到着したけはいがし、母堂は﹁まあお着きですよ﹂と云いながら出ていった。 ﹁おれはどうしたらいいんだ﹂主計はいちど坐ってまた立った、﹁――どこにいたらいいんだ、なにかするんだろうか、座敷へなにか運ぶんだろうか﹂ すっかりあがりぎみで、廊下へ出たとたんばったり母に会った。母、さよう、主計の生みの母である。 ﹁ああお母さん、ど、どうなすったんです﹂ 母は盛装していた。そして妹の手を曳ひいている。妹のたまきは白しろ無む垢くを着て、白のかいどりを重ね、裾を長くひいていた。あれっと思って振返ると、原田という叔父夫妻と父の茂右衛門がみえた。 ――ははあ、……ははあ。 主計は、ごくっと喉のどを鳴らした。 ﹁いやどうも﹂彼は後ろへ退った、﹁――きれいですね、たまきは、私は来ていたんですよ、このとおりです、向うにいますから﹂ 身を飜すという風に、彼は六郎兵衛の居間へとんでいった。そして友達を廊下の隅へ引張ってゆくと、いきなりげらげらと笑いだした。 ﹁どうしたんだ、ばかだね、なにが可お笑かしいんだ、おい、なにをそう笑うんだ﹂ ﹁もうちょっと笑わしてくれ﹂ そしてようやく笑いやむと、相手の耳へ口を寄せて事情を囁いた。 ﹁なんだって﹂六郎兵衛は例のめだまを大きく瞠みはった、﹁――おい主計、きさま、おい、それは本当のことか﹂ ﹁さすがのおれも驚いた﹂ ﹁こっちは呆れるよ、いくらなんだって﹂ こんどは、六郎兵衛が笑いだした。 ﹁だがそうするとなんだな、おまえから借りた五両はちょいと微妙なものになるなあ﹂ ﹁五両がどうしたって﹂ ﹁そうじゃないか、あの金はおまえがたまきから借りておれに貸したんだろう、たまきは今夜からおれの妻だ、いいか、そうすればだな、おまえはおれに五両貸してくれたが、同時におれの妻から五両借りているわけだ﹂ ﹁よしてくれ頭がちらくらする﹂ やがて時刻が来た。藩の重職も二人列席して、かなり華やかな盃さかずきが始まった。祝儀には秋元家のお側そば用よう人にんを勤めるという老人が、おそらく自慢の芸なのだろう、さびのある枯れた声で小こう謡たいを二番までうたい、めでたく式が終って酒宴になった。――おちついていられない性分ばかりではない、婿の親友というたちばもあるので、主計は立ってしきりに酒間をとりもった。なにしろ人に好かれる人間なので、初対面の客ともすぐ慇いん懃ぎんになり、ひきとめられて盃をしいられるから、原田の叔父と向き合ったときにはかなり酔っていた。 ﹁相変らずおちつかんな、おまえは﹂叔父は盃をさしながら云った、﹁――そうせかせか忙しくばかりしないで少しはゆとりを持つがいい、剣術のほうはどうだ﹂ ﹁さっぱりいけません、これも相変らずです﹂ ﹁身を固めなくちゃいかん﹂叔父はじろじろと甥おいを眺めまわした、﹁――もう妻帯してもいい頃だ、おれが養子の口を捜してやるからゆくがいい、そしてもう少しおちつくんだ、おまえにはいい素質があるんだから﹂ ﹁妻帯ですか﹂主計はふと首を傾げる、﹁――そうですな、妻帯、……身を固める﹂ そこで彼はあっと声をあげた。 ――そうだ、それだった。こう思って主計は膝を撫なでた。折江から頼まれたのはそれだった、師の市郎左衛門に結婚の申込みをすることだ、留守のあいだに、よしきた、こんどこそ忘れないぞ。五
明くる朝であった。道場へゆくとすぐ、主計は市郎左衛門をその居間に訪ね、いずれ正式に人は立てるがと云って、折江との結婚の内諾を乞うた。――相手にはとつぜんすぎるかもしれないが、なにしろ忙しいのでまた忘れたら困ると思ったのだ。市郎左衛門もほぼそれとは察していたらしい、
﹁そんなことを折江から聞いたようにも思うが﹂こう云ってふとするどくこちらを見た、﹁――しかし、わしは承知できない、はっきり断わる﹂
主計はあっと口をあいた。師の表情はこれまでになく冷やかで、どこかに嫌悪の色さえあるようだ、主計は寧ろどぎまぎした。
﹁お言葉ではございますが、これは、実はもうとうから﹂
﹁断わるには理由があるのだ﹂
市郎左衛門は立っていったが、すぐに手紙を二通手にして戻り、それを主計の前へ押しやりながら云った。
﹁これを見ろ、そのうえで聞くことがあれば聞く、まさか覚えがないとは云えぬだろう﹂
主計はそれを手に取った。表は二つとも彼の名であり、裏は﹁その字﹂となっている、披ひらいてみると艶えん書しょだった、それもたいそう露骨でみだらがましく、読むうちにこっちの顔が赤くなるような文句である、明らかに誰かの拵こしらえたしごとだ、﹁その字﹂が園次であるにしても、そんな文をよこすわけがないし貰うような覚えもない。
﹁これはどうしてお手にはいったのですか﹂
﹁そこもとの袂たもとから落ちたという﹂
﹁それでこれをお信じなさるんですか、このような下賤なものを、しかも人にみつけられれば身を滅ぼすようなものを、私が袂に入れて落すような人間だとお思いなさるのですか﹂
﹁それではなぜそんなものが袂から落ちたのか、聞けば先頃から神明あたりのいかがわしき家いえに出では入いりしているそうだが、それも根のないことだと云うのか﹂
﹁慥たしかに神明のさる家へはまいります﹂主計は眼をあげて云った、﹁――荻江節を教える園次と申す者の家うちです、半年ほどまえよりかよっておりますが、これは唄を習うためで、そのほかにはなんの意味もございません﹂
﹁なんでまた唄などを習うのだ﹂
﹁御承知のとおり私はおちつきのない性質で、自分では努めて起居にゆとりを持とうと思うのですが、生しょ得うとくと申しましょうかなかなかそれが身に付きません、芸ごとは心をやしない気を寛ひろくすると聞きましたので、柄にも合わず勘も悪くて、半年してもまだ一つの唄があがらないありさまですが、これも修業のひとつと思ってかよっているのでございます﹂
市郎左衛門はじっと主計を見まもった。愛している門人である、もちろん深く信じてもいた、その愛と信とが強かっただけに、却かえってそんな中傷にも肚はらを立てるのだ。そのうえながい病弱で心も躯も衰えている、耐こらえ性しょうがなくなってもいたことが、いま主計の弁明と彼のまぎれのない眼を見てはっきりわかった。
﹁それにしてもいったいなに者が、かような物を先生にごらんに入れたのでしょうか﹂
﹁それは聞くな、わかればよいのだ﹂
﹁いやそれでは済みませぬ、ただごらんに入れただけならともかく、袂から落ちたなどと云い拵えるのは――﹂
そこまで云いかけた主計は、とつぜん飛鳥のように立って後ろの襖ふすまを明けた。それまで立聞きをしていたのだろう、弥一郎があっと云って逃げようとする、
﹁待て、弥一郎﹂
主計はとびかかって、少年の肩を掴つかみ、そこへひき据えた。弥一郎は唇を白くし、がたがたと震えていた。――襖の向うで二人の対話を聞くうち、すっかり動どう顛てんし怯おびえたものらしい、ひき据えられるとすぐに、そこへ手をついて震えながら告白を始めた。
﹁おゆるし下さい、私はなにも知らないのです、なにも知らずにあんなことをしたのです、いやだったんですけど、怒られるのが怖かったもんですから、それに、――牧野さんが堕落するのを直すためだからと云われて﹂
﹁誰だ、そうしろと云ったのは誰だ﹂
﹁武田さんです﹂
主計の顔にさっとなにかがはしった、水みの面もを一陣の風がはしるように、――彼はいま思いだす、平之助の絶望的な状態を、法外はずれの奇手をあみだす苦しまぎれのもがきを、こんな下手くそな中傷の仕方を、……そしていま当人が折江に付いて旅に出たことを。
﹁先生、――今日の稽古を休ませて頂いてよろしゅうございましょうか、実は申しわけのないことですがお嬢さまに付けて武田を﹂
﹁知っている﹂市郎左衛門は頷うなずいた、﹁――彼の気を変えてやろうとするそこもとの計らいと察したから、気づかぬ風をして出してやったのだ﹂
﹁軽がるしいことを致しました、このままには捨ておけません﹂主計は立った、﹁――馬を拝借させて頂きます﹂
﹁主計、斬ってはならんぞ﹂
しかし主計は、黙ってそこをとびだした。
昨日の朝から約一昼夜、女づれだからそう遠くまではゆくまい。氷川下から馬を駆って東海道をまっしぐらに西へ六ろく郷ごうの舟わ渡たし、川崎から鶴見、神奈川の宿しゅくまでとばし続けで、さすがに馬が疲れだした。しかし心はせく、無理を承知で鞭むちをくれかくを入れ、保ほ土どヶ谷やから戸塚へと長い坂を馳かけ登っていった。
戸塚にかかる少し手前、松並木が途切れて左右に畑と枯田のうちわたしてみえるところで、ようやく折江の一行に追いついた。――かれらを追いぬいて馬を停め、とび下りて振返るのを見ると、折江と松乃とがまず声をあげ、平之助は明らかに恟ぎょっとした。
﹁ちょっと申上げたいことがあったものですから、――吉造、この馬を預かってくれ﹂下男に手綱を渡した彼は、折江のそばへ来てにこっと笑った、﹁――先生にあのことを申上げました、まだおゆるしは頂きませんが頂いたも同様ですから﹂
﹁まあそんな﹂折江は少し頬を染めながらこちらを睨んだ、﹁――こんなところで、そのようなことを仰しゃっては困りますわ﹂
﹁しかし、善は急げといいますからな﹂
﹁それにしても、此こ処こまでわざわざ追っていらっしゃるなんて﹂
﹁いやほかにも一つ用があったんです、武田をお付けしましたが彼に急用が出来ましてね、ここから帰すことにしますから、どうぞあとは二人だけお伴れになって下さい、これで申上げることは済みました﹂主計は馬を吉造から受取った、﹁――松乃どの、吉造もしっかり供をたのむぞ﹂
﹁ではもうお戻りなさいますの﹂
﹁なにしろ急用ですからね、どうぞ構わずいらしって下さい、私もお見送りをせずに引返します、お帰りになるまでには、日取りもきめておく積りです﹂
﹁なんてお忙しいのでしょう﹂折江はついそう云って笑いだした、﹁――ではこのまま﹂
御平安にと云って主計は振返り、そこに立っている平之助を促して道を戻った。――二町あまり来て見かえると、もう折江たちの姿は松並木のかなたに隠れていた、主計はそこから左手へ三段ほどはいったところに、いま満開の梅林があるのをみつけ、﹁あれへいって休もう﹂と、馬を曳ひきながら狭い道へはいっていった。梅林のまわりは平坦なかなり広い草原になっている、主計は傍らの木に手綱をゆわえつけた。
﹁なぜ追って来たかわかるか、武田﹂
﹁云いたいことがあったら云うがいいだろう、なんの用だ﹂
﹁弥一郎がすっかり白状した﹂主計はじっと相手の眼を見た、
﹁――子供だましのつまらない手だった、よせばよかったのに、あの逆胴の手よりもっと下らない﹂
﹁云うことはそれだけか﹂
﹁もう一つある、先生のお考えは知らないが道場へは帰って貰いたくない、どう考えてもおまえは不似合だ、おまえにはおまえでほかに場所があるようだ﹂
﹁帰れと云っても帰りはせんさ﹂
平之助は冷笑した、
﹁――だが土産を進呈したいから持っていってくれ﹂
﹁結構だね、貰ってゆくよ﹂
﹁かさばらない物だ﹂
云うと同時に絶叫して、抜打ちを仕かけた。間合も呼吸も好いい条件だったが、主計はその先せんをとって後ろへ跳び、二の太た刀ちの来るまえに刀を抜いていた。
﹁例の手をやってみろ、真剣ならなんとか云ったな﹂主計は刀を直線にして中段に構え、にっと微笑をうかべながら云った、﹁――どうしてあの手が悪いかを教えてやる、来い﹂
平之助はなにも云わなかった。歯をくいしめ、かっと眼を瞠みはり、暫く呼吸をはかっていたが、とつぜん跳躍すると﹁えい﹂つんざくように叫んで籠こ手てを返す、刀は主計の左脇から面上へのびたが、同じ刹せつ那なに主計の躯が棒のようになり、その刀が大きく、のの字を描いて光った。――平之助はあっと叫び、刀をとり落してだっと左へのめったが、若木の梅のえだに躯をぶっつけて顛てん倒とうした。……すると彼の躯の上へはらはらと、梅の花が雪のように白く散りかかった。
﹁これでわかったろう﹂主計は丁寧に刀を拭いながら云った、
﹁――右手の肱ひじの筋を斬ったんだ、もう剣術はやめるがいい、おまえのはいつか必ず身を滅ぼす剣だ、なにかほかのことで身を立てるんだな﹂
平之助は倒れたまま、苦しげに喘あえいでいた。
﹁医者に来るように云うから此処にいるがいい、じゃあ元気になれよ、気を変えればなにをしたって楽しく生きられる、縁があって会うようなときには、おまえの明るい顔がみたいものだ、――武田、正直に生きるということはそれだけでもいいものだぞ﹂
そして主計は馬を曳きだし、さっさと梅林から出ていった。
――医者をみつけて、武田の手当を頼んで、道場へ帰って、改めて結婚を申込んで、仲人を誰に頼むか。馬を駆りながら主計はこう思う。……さあ忙しいぞ。