歌舞伎役者もはだしの美男
﹁みんなどうした、そんな隅の方へ引込んでしまってどうしようというんだ﹂村松銀之丞は竹刀に素振りをくれながら、端麗な顔でぐるっとまわりを見まわした、﹁道場は剣術の稽古をする所で居眠りをする場所じゃあない、さあおれが揉もんでやるから出て来い、そこにいる松井、おまえ出ろ﹂﹁いや、いや拙者はちょっと頭が痛いもんで﹂松井某は片手で額を押えながら慌てて後へ退った。﹁じゃあ野本おまえ来い﹂﹁私はもうあがるところで﹂﹁田中はまだ汗をかいてないな﹂﹁拙者はその、いやもう今日は腹が痛くって﹂﹁おれはどうも足の神経痛がよくない﹂﹁今日は親の忌日だから﹂ てんでが、指名されない先に逃げを張っている。……なにしろこの師範代は稽古が荒いのだ、歌舞伎役者のような美男で、起ち居も上品だし、言葉つきもたいそう雅みやびたものだが、いったん竹刀を持つと人が変ってしまう。どんな初心な者にも容赦というものがない、面を打って胴を払って足がらみにかけてすっ飛ばす、その一つ一つが辛しん辣らつで骨に徹とおるほど烈しい、これから先も加減というものがないのである、だから師範代の稽古というとみんなどこかしら痛みだしたり、親の忌日を思いだしたりするわけであった。 村松銀之丞は嘲ちょ笑うしょうの眼でもう一度ぐるっと彼等を眺めまわした、﹁どいつもこいつも骨の無い奴ばかりだ、痛いのが厭いやなら上手になれ、上手になる望みがなければ剣術なんか止やめてしまえ、そのほうがこっちも暇が潰つぶれなくていい、稽古というものは、……やあ伝七、おまえそんな蔭に縮まってなにをしているんだ﹂そう云いながら銀之丞はつかつかと片隅へいって、門弟たちの後に首を縮めていた一人の若者の肩を掴つかまえた、﹁古参のおまえがそんなことだから他の者までだらしがなくなるんだ、出ろ出ろ、久し振りでいっぽん教えてやる﹂﹁だめだよ村松、おれはもう、さんざ稽古をやったんだ、もう疲れているから勘弁してくれ﹂﹁叩っ殺しても死なないような体をして疲れたもくそもあるか、さあ出るんだ﹂﹁痛いじゃないかそんな﹂﹁だから温おと和なしく出ろと云うんだ、それしっかり立て﹂﹁押さなくってもいい、出るよ﹂掴まれた肩を振りほどきながら、こちらはしょうことなしに出ていった。色の黒い頬骨の出たぶこつな顔である、眉も眼も尻下りだし、口は大きいし、どう贔ひい屓きめに見てもぶおとこという他ほかに批評のしようがない相そう貌ぼうだ。支度をして竹刀を持って、ともかくも道場のまん中に立ちは立ったが、その姿勢は剣術をやるより煤すす払はらいのほうが似合っているようにみえる。だが断わっておくが哲人は至極まじめであって、些いささかもふざけたりした気持などはない、それどころかむしろ哲学的といってもいいほど敬けい虔けんな態度なのである。 ﹁なんという恰好だ﹂銀之丞はあたまごなしにこう罵ののしる、﹁おまえどこか紐ひもが緩んでるんだろう、もっとしゃんとならないのか、胸をぐっと張ってみろ、膝ひざをまっすぐに、下を向くんじゃない眼はこっちだ﹂﹁もう軍事教練はいけないんだぞ﹂﹁口をむすべ、詰らないことを云わないで腹へちからを入れるんだ、そんな……まあしようがない、いいから打込んでみろ、元気でやれ﹂ 伝七郎は全身のちからをこめて打ちを入れた、相手の顔をみるとか、呼吸を計るなどという芸は少しもない、まっ正直にこう上段へ竹刀をすり上げて打込んだ。これでは相手が師範代でなくったって、打てよう道理がない、体をかわされてのめる、背中を銀之丞がちょいと突いた、﹁どこへゆくんだ﹂﹁しなしたり﹂こう叫んで振向くところを、面へ一本恐しく利くやつをびしっと食った、胡こし椒ょうでも嗅かいだように鼻がつーんとする、ところを銀之丞がつけて入って得意の足がらみ、肘ひじでもって顎あごをぐわんと突き上げた、すべて法と手順がついているから伝七郎の体は反りざまになってすっ飛び、道場の羽目板へもっていって、だっとばかり叩きつけられた。 ﹁だらしのない奴だ、それで十年も稽古をしたと云えるか、いいかげんに剣術なんか止める方がいい、さもないと貴様が幾ら恋い焦れたって、こんな態を見られたら美しい人に嫌われてしまうからな﹂﹁な、なにを云うんだそんなばかな﹂﹁ばかなと云ったって赧あかくなってるじゃないか、貴様が某家の佳人に夢中だということは看板に書いたようなものだ、しっかりしろ﹂﹁それはひどいぞ﹂伝七郎は腰を撫なで撫で立ちあがった﹁幾らなんだってそんなことを、それはあんまりだ……﹂しかし銀之丞の方ではもう聞いてもいなかった。彼は颯さっ爽そうたる身振りで向うへゆき、別の門人に呼びかけていた、﹁おい松川こんどはおまえだ、出て来い﹂ 伝七郎は身を縮めるように道場を出ると、着替えもそこそこに逃げだしていった、秋とは云いわけのように暑い午後で、乾いて埃ほこ立りだった道の上にぎらぎらと傾いた日光が照返している、彼は辱しめられた無念さに顔を歪ゆがめ、強く下唇を噛かみながらまっ直に歩いてゆく、普通の者なら恐らく深刻な悲痛な表情になるのだろうが、彼の顔は不幸なことにそうならない、迂うか濶つに見ると背中を蚤のみにさされて痒かゆいのを我慢してでもいるような感じだ。 しかしいま銀之丞に辱しめられたばかりである。作者までいっしょになってこき下ろすのは止よそう。話を進める方が先だ。浮世の隅に隠れたる友
道場を出た伝七郎、武家町へ曲る辻つじまで来ると、そこで立止まってちょっと考えたが、家の方へはゆかずに本町通りをぬけ、鍛か冶じ屋や町のとある路次裏へと入っていった。……そのあたりはちょっと口にするのを憚はばかるような、けしからぬ名の付いた貧民長屋で、路次へ一歩はいるとなにやらすえたような匂いが鼻をつくし、長屋と長屋の間の狭い庇ひさし間に棹さおを渡して、股もも引ひきだの寝衣だのおしめだの下帯だのが干してあり、その下ではちょうど雑魚でも群れているように、襤ぼ褸ろを着た子供たちが泥どぶ溝い板たを踏鳴らしながら、喚いたり泣き叫んだり、罵ののしり合ったり、右往左往に駈けずりまわっている。こういうありさまなので、普通の者でも馴れないとちょっと入りにくい、まして武士などの近寄る所ではないのだが、奇妙なことに伝七郎はその路次へ入るといかにも気楽そうな顔になり、まるで自分の故郷へでも帰ったようにほっと安息の溜ため息いきをつくのだった。彼は干してあるおしめや股引の下を巧みに潜くぐりながら、泣いている子の頭を撫でたり喧けん嘩かの仲裁をしたり、転んだ子を抱き起したりしてやる、それがなかなか上手で壺にはまっているし、子供たちの方でも﹁おじさん﹂とか、﹁やあ忠さんとこのおじさんだ﹂などと甚はなはだ狎なれ狎れしく呼びかける、そこで彼はいっそう眼尻を下げ、にこにこ笑っていちいち会釈を返しながら通り過ぎるといったぐあいであった。 その路次の奥に共同の井戸がある。その井戸から斜はす交かいになった長屋の一軒、表にもう葉の黄色くなったなにかの鉢物を五つ六つ並べ、腰高障子に﹁忠﹂という字の書いてある家を伝七郎はおとずれた。﹁ああいるよ﹂と中から妙にしゃがれた声で返辞が聞えた。﹁構わず開けてくんな、誰だい﹂﹁おれだ﹂障子を開けて入るとひと間きりの六帖じょうのまん中で、褌ふんどしひとつになった若者が半はんだの手てお桶けだのを並べ、爼まな板いたを前に据えて魚を作っていた。彼は入って来た伝七郎を見ると満面を崩してようと叫んだ、﹁こいつは誂あつらえたようだ、来てくれりゃあいいがと思っていたところだ、まあとにかく上ってくんねえ﹂﹁なにをしているんだ﹂伝七郎は刀をとって上ると、相手の前へどかっと気楽そうに坐った、﹁おっ、鰯いわしだな﹂﹁鰯よ、こっちを酢にしてこっちを塩焼きにして、熱あつ燗かんで一杯という趣向なんだ﹂﹁悪くない、おれもなにか手伝おう﹂﹁なにもうこれでおしめえだ、いいから坐っててくんな﹂﹁火はもう起ってるのか﹂﹁これからだ﹂﹁それじゃあそいつをおれが引受けよう、焜こん炉ろは台所だったな﹂﹁ああ炭は上げ蓋の中にある﹂よしと云って伝七郎は手早く袴はかまをぬぎ着物をぬぎ、なんと半はん襦じゅ袢ばんに下帯ひとつという、武士としてまことにいかがわしい恰好になって、しかし恐しく楽しそうに台所へ出ていった。 さて、二人がささやかな酒宴の仕度をしている間に、あらまし彼等のことを紹介しておくとしよう。まず伝七郎だが、彼はここ備後のくに福山十万石、安倍伊予守の家臣で、永井平左衛門という者の三男である、父の平左衛門は九百石の中老で、名誉心の強い癇かん癪しゃく持ちの、いつも口をしちむずかしく片方へ歪めているという風の人だった。長兄の平助は納戸役、次兄の門之助は中小姓とそれぞれ役に就いているし、妹の浪江はすでに他へ嫁しているが、伝七郎だけは二十五歳でまだ部屋住だった。単に部屋住というだけならさしたることもないが、彼は恵まれない生れつきで、男振りもはえないし学問も武芸もできず、口が下手で愛あい嬌きょうがないという、まことにうらさびしい存在であった。これがもっと身分の軽い家に生れていたらなんでもないのだが、なにしろ藩の中老の伜せがれだから人眼についた。殊に二人の兄が父に似て権勢慾の強い、利己主義な、それだけに頭もよく、いわゆる切れる人間に属していたから、彼の無能はいっそう際立ってみえた。それを更に効果的にしたのが村松銀之丞であるが、両者の関係を語るには十六七年ほど昔へ遡さかのぼらなければならない。……永井家の屋敷は大手筋の端にあり、すぐ裏が足軽の組長屋になっている。そこに足軽組頭を勤める村松庄兵衛という者がいた。銀之丞はその子である。幼年じぶんから容貌のきわめて秀麗な、恐しく才はじけた性質の、眼から鼻へぬけるような子供だった。彼は決して同じ足軽長屋の子供とは遊ぼうとせず、いつも伝七郎を好んで誘いに来、巧みに自分が音頭取りになって暴れた、その悪いた戯ずらなかまに通町の小商人の子で忠太郎という者がいた、詰りこれがいま鍛冶屋町の裏うら店だなにくすぶっている忠太なのだが、彼に就てはあとで語る機会があると思う。……こういうわけで、伝七郎と銀之丞とは七八つの頃からの友達であるが、﹁友達﹂という言葉は伝七郎の側からいうので、銀之丞がそう思っているかどうかは甚だ疑問である。なぜなら彼が伝七郎と親密に遊んだのは初めの二三年で、それからのち平田とか川勝などという、永井家より上席の家の子弟と近づくに従って、伝七郎などには振向きもしなくなった。意地悪な云い方をすれば、彼は重役の家の子弟に近づくため伝七郎を踏台にしたようなものであった。もっとも彼にはそうする値打ちがあったといってもよいだろう、長ずるに従って風ふう采さいは歌舞伎役者のように端麗になり、学問所へ入れば首席を占めるし、武芸も抜群で、二十一歳のときから藩の道場で師範代をするという風だった。早くから重役の子たちと交わっていたので、十七八になると上役に注目されだし、現在では奉行役所で筆頭書役を勤めている、もちろん身分も小姓組にのぼり、食しょ禄くろくも百七十石に加増された。……昔いっしょにとんぼ捕りや竹馬遊びをした銀之丞が、同い年でこの出世ぶりをみせたから、伝七郎の鈍才はますます眼立つわけである。なにかというと父や兄たちはそれを指摘した、﹁村松をみろ、少しは銀之丞にあやかれ﹂﹁口惜しいとは思わないか﹂などという顔である、そういうときいつも伝七郎は恐れ入って低頭するばかりだった。だって、他にどうしようもなかったから。……生得は哀しき路次裏の酒
それでも伝七郎は、決して僻ひがむようなことはなかった、それどころか銀之丞に心から敬服し、彼が自分の友達だということに誇りをさえ感じていた。それに対して銀之丞がどういう態度をとるかということは、さっきの道場でもう読者諸君はよく御存じの筈である、ただ作者としては、あれが今日が初めてではなく、毎日のことだという点を付加えて置けば充分であろう、もっとも今日は少し手きびし過ぎた、銀之丞は触れてならないことに触れ、衆人の前で不必要に彼を辱しめた。だが、どうやら酒しゅ肴こうの支度が出来て、二人は盃さかずきのやり取りを始めたようだ、とにかく貧しい酒盛の方を見るとしよう。 ﹁どうだ伝さん、酢は利いてるか﹂﹁うんよく利いてる、うめえ﹂﹁香りは青じそに限るんだが、茗みょ荷うがっきりねえんだからしようがねえ、まあ一つ﹂﹁まあおめえに遣やろう﹂﹁いいってことよ、重ねねえな、おらあ毎日やれるがお屋敷じゃそうもいくめえ、ここへ来たときくれえは遠慮ぬきにやってくんな﹂﹁だがいつもこっちは馳走になるばかりだからなあ﹂﹁よさねえか、友達の仲で馳走もくそもねえ、そんな他人ぎょうぎを云うと怒るぜ﹂﹁他人ぎょうぎじゃあねえ本当なんだ﹂伝七郎は注がれた酒を一くち舐なめて置き、感慨に耽ふけるような調子でこう云い出した、﹁おれは十万石の家中で中老を勤める者の子だ、痩やせても枯れても侍のはしくれだ、いかに友達とはいいながら、汗水ながして稼かせぐおまえのことを思えば、一杯の酒だって奢おごられる義理はないんだ、それはわかっているんだが、なあ忠さん、おれはここへ来るのがなにより楽しい、こうしておまえと二人で呑む酒が、おれにはなにより楽しいんだ、おまえには察しもつくまいが﹂と、彼は胸に溜った物を吐き出すように云った、﹁おれは自分の家にいても、朝から晩まで気楽に息をつくことさえできないんだ、なにかと云えば鈍物だの愚か者だ、家名を汚すとか、一族の名折れだとか、親おや父じも兄貴もまるっきりおれを眼の敵にする、外へ出たって同じことだ、誰もまじめにおれとは付合う者はいない、誰も彼もにやにやと妙な笑いかたをしておれを見る、親父が中老だから挨拶は丁寧だが、心の中で舌を出してるのがはっきりわかる、それゃあおれはこのとおりの人間だ、だが、好きこのんで醜ぶお男とこになったんじゃあない、頭の悪いのも不器用なのも、みんな親が生みつけてくれたんだ、笑うなら親を笑ってくれ、おれは時どきそう呶ど鳴なりたくなる、本当のはなしだぜ忠さん﹂﹁うん……﹂と、忠太はなにか喉のどにひっ絡まったような声をだした。伝七郎は盃を取って一くち啜すすり、ほっと溜息をついてから続けた、﹁だがおれには呶鳴ることもできない、どんな眼で見られてもどんな悪口を云われても、どんな意地の悪い扱いをされても黙って首を縮めて、こそこそ隅のほうへ引込むだけだ、なにしろ自分がいちばん自分の値打ちを知っているからな、……ただここへ来たときだけは、おまえとこうして話すときだけはおれも人間らしくなる、このとおり楽々と坐って、誰に気兼も遠慮もなく呑んだり話したりできる、おれは嬉しいんだ。本当におれは嬉しいんだぜ﹂﹁わかってるよ、おいらにもそいつはわかってるんだ、そして﹂と、忠太は相手の盃に酌をし、たいそうしんみりした調子でこう云った、﹁そして、おいらだって同じなんだ、伝さんとこうしているときだけは誰に遠慮もなく、九尺二間の釜かま戸ど将軍で手足を伸ばしていられるが、世間へ出れば半人まえの扱いしかしちゃあくれねえ、なぜだ、伝さんなぜだと思う﹂﹁…………﹂﹁こいつはなあ伝さん、おれもおめえも真っ正直すぎるからだぜ、空ぞらしい世辞が云えねえ、人の眼をくらましてうまい汁を吸う智恵がねえ、ごまかし仕事が出来ねえ嘘がつけねえ、詰り世間の奴等に云わせれば、これが世渡りの方便だということが、おめえとおれにはどうしてもできねえ、半人まえだの愚か者だといわれるのはそのためなんだ、おれの親父もそれで通町の店をたたんじまったのよ﹂ 忠太郎の父は通町で小さな金物店をやっていたが、馬鹿という字が付くほどの正直者で、はじめ親譲りのかなり大きな呉服屋を詰らなく潰してしまい、その金物店も親類の肝入りで持ったのだが、忠太郎が十五の年にはそれさえもちきれなくなり、ついに店をたたんでこの裏長屋へめり込んでしまった。その少しまえに妻に死なれたので、忠太郎と二人、普請場の手伝いなどに雇われてかつかつの暮しを続けていたが、それから七年してはかなく死んでしまった。……まったく有るに甲か斐いなき一生だったが、自分ではそうは思わなかったらしい、呉服屋の若旦那だった頃は、なんの苦労もなくそれ相応の暮しをしたのだろうが、曾かつていちどもその頃をなつかしがった例ためしがない、金物店の時代でも鍛冶屋町の裏長屋よりは増しな生活をしたに違いないが、﹁あのじぶんはよかった﹂とひと言くちにしたことがなかった。むしろ裏店へめり込んで、普請場の手伝いなどするようになってから、時たま味噌を肴さかなに一合の酒を啜りでもすると、まるで相好を崩して、﹁うめえなあ﹂と舌鼓をうつ、﹁おれにゃあこれが極楽だ﹂なんぞとも云った。忠太郎の記憶を信じてよければ、その裏店で暮している間ほど幸福そうな父親を見たことがなかった。そして死ぬときには忠太郎に向って、﹁正直にしな﹂と繰返し繰返し云ったものだ、﹁馬鹿と云われても白痴と云われてもいい、正直にやってゆきな、あこぎなことをして儲もうけたって、人間が寝るには畳一帖で沢山だ、飯は三杯、寒くたって、着物を十枚とは着られねえ、慾をかくな、睡ってからうなされねえように生きるのが人間の道だぜ﹂蟹かにはその甲に似せて穴を掘るという、恐しく悟ったようで、なんとも馬鹿げた遺言をしたものであった。恋は男の正真正銘
﹁なあ伝さん﹂と、忠太は手酌で一杯ぐっと呷あおった、﹁おめえもおれも、詰りはこういう生れつきなんだ、それでいいとしようじゃあないか、他人の小こま股たを掬すくおうとめっぱりっこであくせくするより、自分にできるだけのことを精いっぱいやって、誰の泣きもみせず正直に暮していれば、いつかいちどはおれ達の値打ちもわかる時が来るだろう、もしこの世でわからなくったって死にあ一列一体だ、百万長者も叩き大工も、閻えん魔まの庁へゆけば裸一貫よ、その時こそは勝負がつくんだ、そう思って辛抱しようぜ、なあ伝さんそう思わねえか﹂﹁そうかなあ、おまえまでそんな風に考えてるのかなあ﹂伝七郎は渋いような顔をした、﹁おれは忠さんなんぞは腕利きの大工で、もうじき親方にでもなる羨うらやましい身分だと思っていたんだ、わからねえもんだな﹂こう云って片手で肩を叩こうとしたが、とたんに、﹁痛え﹂と叫んで亀の子のように首を縮めた。﹁どうしたんだい﹂﹁背中のここが……おお痛え﹂﹁けんびきでもつったんじゃあねえか﹂﹁そんな痛みじゃあないんだが、どう……﹂と云いかけて伝七郎は低く呻うなった、﹁ああそうか、村松にやられたんだ﹂﹁村松って銀の字か﹂﹁うん、今日また例の手で無理やり稽古をつけられたんだ、ひっ外されてのめるところを、後からちょいと突かれたが、あれだ﹂﹁ひでえことをしやあがる、傷にでもなってやあしねえか﹂﹁なにそんな大おお袈げ裟さなもんじゃあない、それにこんなものはもう一つのことに比べればお笑い草さ﹂﹁もう一つのことって、他にまだなにか悪さをやったのか﹂﹁あいつ……﹂云いかけてちょっと口ごもったが、いいかげん酔ってもきたし口惜しさが羞しゅ恥うち心しんに勝ったのだろう、彼はぐいと前こごみになってこう云った、﹁あいつ今日、道場のまん中でおれに恥をかかせやがった、そんなにだらしのねえ態をしていると、幾ら焦れたって美しい人に嫌われるぞとよ﹂﹁美しい人てえのはなんだ﹂﹁ひと口に云えば女ということさ、恥を云わなきゃあ理がとおらねえ、おまえだからざっくばらんに云っちまうが、伝さん、おれには三年まえから心に想っている人がいるんだ﹂﹁初耳だぞ、そいつは﹂﹁相手は道場の師範の娘さんで三枝というんだ、世間なみに云えば美人というほどじゃあねえだろう、背も低いし色もあんまり白くはない、ただいつも笑っているような眼と、左の眼の下にある泣き黒ぼく子ろがなんともいえず可愛らしいんだ、けれども相手は藩の師範の娘だし、おれはこのとおりの人間だ、逆立ちをしたって及ぶ恋じゃあない、それはよくわかっている、だからこそ今日までおまえにも打明けずにいたんだが﹂﹁隠すより顕あらわるるだな﹂﹁そうだ、銀之丞のやついつか感づいていたのだろう、いきなり満座のなかでばらしゃあがった﹂伝七郎は新しく燗のついた徳利を取って、三杯ばかりたて続けに呷った。﹁だがあんな法はないんだ、おれが三枝という娘を想っているのはまったくきれいな気持だ、雪のようにきれいな気持なんだ、この恋をかなえようとか、自分の女房にしようなんて気持はこれっぱかりもない、ただあの娘が仕合せであるように、あの眼がいつまでも笑っていられるように、心からそう祈っているだけなんだ、そして、……こいつはそう楽なことじゃあない、しんそこから好きになり、身も世もなく心を惹ひかれて、寝る間も忘れないほど焦れていながら、とても自分の手には届かないと諦あきらめて、蔭でそっと幸福を祈っているなんて、男としてこいつはずいぶん辛いことなんだ、人の大勢いるまえでからかい面で口にするような、そんな軽はずみなものじゃあないんだ﹂こう云っているうちに、伝七郎の眼からすばらしく大粒の涙がぽろぽろとこぼれ、その一滴がちょうど口のところへ持って来た盃の中へ落込んだ。人間の習慣は面白いもので、伝七郎はそれが豆粒ででもあるかのように、慌てて摘つまみ取ろうとしたのは奇観であった。﹁あいつはそういう人間だ﹂と忠太が、くいしばった歯の間から、呻うめくように云った、﹁あいつは世の中に、怖いものはねえと思ってる、もう四年ばかりまえの事だ、久しぶりで大手先で行会ったから声をかけたんだ、こっちが少し酔っていたせいもある、それでなくってあんな野郎に口を利くんじゃあねえ、ほろ酔いでいい心持だったもんだからひょいと声をかけた、するとあいつがなんと云ったと思う伝さん、こうだ、……こういう眼で見やあがって、﹃下郎さがれ﹄とぬかしゃあがった、下郎さがれ、昔はいっしょに草っ原で蜻とん蛉ぼを追いまわした仲じゃあねえか、幾ら出世をしたからって、なんぼ武士と町人だからって、幼な友達を下郎と云うことはねえだろう﹂﹁そうか、そんなことを云ったか﹂﹁おらあ知ってるんだ﹂忠太もそろそろ酔ったようである、くるっと裾を捲まくるしぐさをして︵なぜなら褌ひとつで捲くる着物を着ていないから︶片膝を立ててから云いだした、﹁あいつ、この春あたりから新北の色街へ入り浸りになっていやあがる、御家中の上役をとり巻いて遊ぶんだ、妓おんなを取持ったり酒で殺したり、ずいぶんきたねえおべっかを遣ってるんだ、そのうえ自分でも三人とか五人妓をひっかけてるってえ評判だ、おらあちゃんと知ってるんだ、偉そうな面あしてるが、あいつはいんちき野郎だ﹂踏まれた草の歪む伸びよう
﹁そいつは違う、それは違うぞ忠公﹂そう云う自分の声で、伝七郎はひょいと眼がさめた。あたりは仄ほの白じろい光が漲みなぎって、森閑となんの物音もしない、いやどこか遠くで小鳥の囀さえずりが始まっている、どきっとしてはね起き、恐る恐る見まわすと、自分の部屋に寝ているのだった。彼はほっと太息をついた。﹁やれやれ、おれはまた忠公の家ででも寝てしまったかと思った﹂それにしてもよく帰って来たと、今さら胸を撫でおろすような気持である。彼はもういちど太息をついて寝床の中へもぐり込もうとしたが、酔い覚めのひどい渇きに気がついて、そっと炉の間へはいっていった。そこは湯茶の支度をする部屋である、彼は炉に掛けてある湯釜の蓋をとり、冷たいやつを柄ひし杓ゃくで汲くんで、呑もうと口へ持っていったとたん﹁ばか者、なにをする﹂とうしろから呶鳴りつけられた。次兄の門之助が立っていた。﹁柄杓へ口をつけて飲む馬鹿があるか、そんなに飲みたかったら表へいって泥ど溝ぶの水でも飲むがいい、それが貴様には似合っているぞ﹂﹁そうしてもいいですよ﹂さすがに伝七郎もむっとした、彼は次兄から眼を外そらしながら、﹁たぶん永井家の名誉になるでしょうからね﹂と云った、﹁なに、もういちど云ってみろ、貴様、きいた風なことを申して﹂﹁だって兄上が﹂﹁黙れ、口答えをすると殴るぞ﹂拳こぶしをつき出しながら近寄って来た。伝七郎は黙った。門之助は弟の顔を軽侮に耐えぬもののように睨にらみつけたが、小言を言う張合いもないといいたげに舌打ちをして、﹁朝食が済んだら木下に紙を出させて罫けい紙しを刷っておけ﹂と命じた。﹁私がやるんですか﹂﹁おまえに命じるからはおまえがやるに定ってるじゃないか﹂﹁庄兵衛がいつも刷ってるんでしょう﹂﹁庄兵衛には用があるんだ、おまえは遊んでいる体じゃないか、文句を云わずにはいと云ってやれ、二千枚ばかり刷るんだ、晩までだぞ﹂そして彼はさっさと去っていった、伝七郎はべそをかいたような顔で、しょんぼりと湯呑へ湯ざましを汲んだ。 朝食のあとすぐ、家扶の木下老人に細川紙を出して貰い、版木やばれんや色壺や皿や刷は毛けなどを揃そろえ、用部屋で罫紙を刷りに掛った。この頃は家にいるとよくこんな雑用を命じられる、永井家には十人ほど家士や下僕がいるので、その者たちにさせればよいようなことも、﹁伝七郎やれ﹂と押しつけられる、家士たちに対しても恥かしいし、同じ父の子で自分だけがそんな風に扱われることも情けなかった。おれが愚鈍だからだ、そう思って諦めてはいるが、時にはくやしくなって独りで涙をこぼすこともあった。……版木へ刷毛で紺を塗り、紙を当ててばれんで擦こすり、刷れたやつを剥はがして重ねる、単調きわまることを同じ手順で二千回やらなければならない、半はん刻ときもするともうその単調さに飽き飽きしてきた、刷ったのを数えるとまだ二百枚にも足りなかった。﹁やれやれ﹂思わず溜息をついたとき、家士の来田庄兵衛が入って来た。彼はもう五十四五になり、温厚な性質で伝七郎にとっては唯一人の味方であった。 ﹁さあ私が代りましょう、ご苦労でござりました﹂そう云って彼はそこへ坐った。﹁なにか用事があるのじゃありませんか﹂﹁いや、御用はもう済ませてまいりました、お兄上方もみなさん御登城でござります、さあもうようございます﹂﹁じゃあ頼みます﹂伝七郎はほっとしながら立上った、﹁二千枚といってましたからね、晩までにやって置いて下さい﹂そして逃げるように用部屋から出ようとしたが、ふと戻って来て、﹁来田さん少しありませんか﹂と小さな声で云った、顔の赤くなるのが自分ではっきりわかった。庄兵衛は黙って頷うなずき紙入れから幾いく干ばくかを取出し、懐紙に包んで差出した、すべて無言だし、こちらへ眼も向けない、﹁済みません﹂伝七郎は手早く袂たもとへ押込むと、こんどは逃げるように廊下へ出ていった。 伝七郎はまっすぐに鍛冶屋町へいった。酔った翌日はまた呑みたいものだ、それにゆうべは忠太郎の奢りだから、たまには奢り返して義理も果したいと思った。なにしろ父がくれる小遣といったら雀の涙ほどのもので、酒を呑むなどいうことは夢にも及ばない、よほど呑みたいときには忠太郎の所へゆくか、庄兵衛にねだるかするより仕方がないのである。﹁福山藩十万石の中老の伜に、叩き大工の振舞酒を呑ませればさぞ名誉だろう﹂などと肚はらの中で父親に悪態をつくが、面と向っては眼もあげられないのだ、﹁そっちがそういう積りなら、こっちもそういうことになってやる、へん、おれにだって一分や五厘の意地はあるんだ﹂そんな風にいきまいてみるけれど、そして自分ではいっぱしひねくれる積りなのだが、生得というものはどうしようもなく、彼は依然として気の小さい、ばか正直な、善良すぎるほど善良な伝七郎でしかなかった。……鍛冶屋町の路次の入口で、彼は袂の紙包の中を検べてみた、そして思ったより多分に入っていたのだろう、思わずにやにやと笑いながら、元気に路次へ入っていった。ところが忠太はいなかった、隣りの女が、﹁忠さんは仕事ですよ﹂と教えてくれた、その筈である、彼はがっかりして路次を出たが、とたんに向うから村松銀之丞とばったり顔を見合せた。高峰の花も取れば取れるもの
伝七郎は、初め化かされたような気持だった。会うといきなり一杯つきあえと誘われ、そのまま新北の花街へ来てこの﹁小花﹂という茶屋へあがった。茶屋の女たちは下へも置かぬもてなしで、酒肴が並ぶとすぐ歌妓が来る、美しい手で左右から酌をされ、嬌きょ艶うえんと凭もたれかかったり肩なんぞ叩かれるという、夢のような世界と相成ったのだ。こんなことは生れて初めての伝七郎、大袈裟に云えば魂も宙に飛んでしまい、骨抜き泥どじ鰌ょうのように酔って、よし狐こ狸りの類の化かすにもせよ、ただこの仙境の消えであれかしと願うだけだった。﹁こちら様はどこかでお眼にかかっているわ、たしかに覚えがあるんですもの﹂さっきから頻しきりにそう云う妓がいた、銀之丞はひどくきまじめな調子で、﹁冗談を云ってはいけない、そちら様は謹厳一方で、なかなかおまえ達のような者にお近づきあそばす御身分ではない、しかもいまさるりっぱな家の御息女に想いつかれていらっしゃるんだ、おまえはそちら様の御兄弟と思い違えているのだろう﹂﹁こちらの御兄弟って……﹂﹁榎えのき屋敷のなあ様さ﹂﹁あら、こちら永井様の﹂妓はおおぎょうに眼を瞠みはった、﹁ほんとうに、そう伺えば横顔が似ていらっしゃるわ、そしてどこかのお嬢さまに想いつかれていらっしゃるというのはほんとうなんですか﹂﹁本当ならどうする﹂﹁いいえ正直のはなしほんとうなら、そのお嬢さまのお眼は高うござんすよ、おんなにとってこういう殿御がいちばん実があって頼母しい方なんですもの、にくいことねえ﹂﹁そんな﹂と伝七郎は坐り直した、﹁いかんぞ村松、そんな根もないことを云って、こんな所でまでおれに恥をかかす法はないじゃないか﹂﹁おれは事実を云ってるんだ﹂銀之丞は相変らずまじめである、﹁友達としてありのままを云ってるんだ、おまえは考え違いをしている、相手がたいへんおまえに心を惹かれているという事実をおまえは知らない﹂﹁いったい﹂伝七郎はちょっと色をなした、﹁いったいそれは、誰のことを云うのかね﹂﹁ここで名を云っていいなら云おう、だがそんな必要はない筈だ、元気をだせ永井、高たか峰ねの花は登っていって折る人間のものだ、おまえは十万石の中老の子だぞ、相手とは身分が格段に違う、しっかりしろ伝七郎﹂﹁信じられない﹂伝七郎はがくりと頭を垂れた、﹁信じられないよ村松、あの人が少しでもおれのことなんぞ考えてくれるわけはない、そんなことがあっていいだろうか、そんな夢のようなことが﹂﹁おれは師範代としてあの家とは昵じっ懇こんだ、あの人とも時には話すことがある、だから友達として助言をする気になったのさ、あとはおまえの決心ひとつだ、中老職の御三男しっかり頼むぞ﹂ あらおやすくないと、妓たちのわっという騒ぎにとり巻かれた伝七郎は、体じゅうが火のようになり心臓がひき裂けそうに高鳴るので、むやみに盃を呷りながら深いもの思いに耽った。銀之丞と別れて﹁小花﹂を出たのはもう昏くれ方であった、家へ帰ろうとして忠太郎のことを思いだし、心も空に鍛冶屋町へまわった。忠太郎は夕飯の支度で焜炉に火を起しているところだった。﹁そんなことは止しにしよう﹂伝七郎は例の紙包を差出しながら云った。﹁今日はこれだけあるんだ、なんでもいいからおまえの見つくろいで早いところ酒と肴を頼む、呑んで相談したいことがあるんだ﹂﹁たいへんな景気じゃあないか、いいのかい﹂﹁いいとも、と云ったってそれっきりのもんだ、足りないところはがまんしてくれ﹂﹁冗談じゃあねえ、伝さんとおいらなら三日ずぶろくになれらあ、じゃあひとっ走りいって来るぜ﹂﹁おれが燗の湯を沸かして置くからな﹂忠太郎は横っとびに表へ馳かけだしていった。 酒が来、岡持が来て、行あん灯どんに火を入れるとそれで席は出来た。なにしろゆうべの今日だし、伝七郎の方はもう入っているので、盃がまわるとすぐ二人とも発してきた。﹁おまえなあ忠公、おまえゆうべ村松の悪口を云ったが、あれは少し違うぞ﹂﹁どうして﹂﹁おれは今朝も寝床の中でそう云ったんだ、違うぞって、あんなことは友達の間で云うのじゃあない、あれはよそうぜ﹂﹁だっておいらあ知ってるんだ、昔からそうだったがあいつにはまっとうでねえところがある、油断のならねえ、人の小股を掬うようなところがよ﹂﹁おまえは世間の評判につられているんだ、出る杭くいは打たれるという、村松は学問も武芸も家中で何人と指に折られる秀才だ、現に足軽組頭から小姓組の筆頭書役に出世しているが、なまはんかなことでこんな出世ができる筈はない、世間ではそれを嫉ねたんで色いろ蔭口をきくんだ、けれど幾ら蔭口をきいたって村松の出世をどうすることもできやしない、みんな無能な奴等の嫉みなんだ、本当だぞ忠公﹂﹁そうかも知れねえ、だがおらあ嫌えだよ、あいつは偉えかも知れねえし、出世もするだろうがおらあ嫌えだ、あいつはまっとうじゃあねえ、友達の情というものさえねえもの、おいらのことを下郎と﹂﹁そいつは待った、まあ一ついこう﹂岩へ卵を投げつける智恵
﹁おれもそう思っていた﹂伝七郎は友達の盃に酌をしながら云った、﹁村松は友情のない男だ、秀才ではあるが友達の情はない男だと思っていたんだ、ところが今日そいつが間違いだということがわかった、あいつはそんな男じゃあなかった、友達のことは心配していてくれるんだ、どんなに心配していてくれたかということは……﹂﹁なんでえ、泣くのか伝さん﹂﹁聞いてくれ忠公、おれはゆうべおれがある人に惚ほれているということを話したな﹂﹁ああ聞いたよ、そして男一匹りっぱな惚れ方だと思うよ﹂﹁あのことだ、道場のまん中で村松がそのことを云った、満座の中で恥をかかせたと思ったが、あれはおれに勇気をつけるためだったんだ﹂﹁よくわからねえ、それあどういう組立てなんだ﹂﹁村松は今日こう云ったんだ、元気を出してやれ、相手はおれに心を寄せているんだ、高峰の花だって折れば折れる、ましてこっちは十万石の中老の子じゃあないか、剣術師範などとは身分が違う、堂々とやってみろってさ﹂﹁相手が伝さんに惚れているって﹂﹁惚れているなんぞとは武士は云わない、心を寄せているというんだ、おれもまさかと思ったが、村松は師範代としてあの家族と親しくしている、それで察しがつくとこう云うんだ﹂﹁それを銀之丞が面と向って云ったのかい﹂﹁面と向って云ったんだ﹂﹁ふうん……﹂忠太郎は首を振った。なにか頭に浮かぶものがあるのだが、伝七郎と同様ごく単純にできているし、おまけにもう酔ってもきたから、その浮かんできたものを捉つかまえることができない、そこで彼は彼なりに結論を急いだ、﹁そんなら伝さん思い切ってやるんだ﹂﹁と云うと……﹂﹁銀之丞の云うことをどこまで信用していいかわからねえが、元気をだせということだけはたしかだ、おらあゆうべ伝さんが帰ったあとで考えた、伝さんの惚れ方はりっぱなもんだって。男がそこまで惚れるということは冗談や出来心じゃあねえ、正真正銘、竹を割ったようにきれいなものだ。とすれば、なあ伝さん、ひとつ勇気を出してぶっつかってみねえ﹂﹁ぶっつかるって、どこへぶつかるんだ﹂﹁その相手へよ、その師範とかいう娘の親父へ体当りといくんだ﹂﹁だめだ、そいつはいけねえ、向うはおまえ師範をするくらいの腕だぜ、体当りどころか竹刀を持ったとたんに、ぽんぽんと……﹂﹁剣術をやるんじゃあねえ申込みだ﹂﹁申込み……﹂﹁つきましてはお嬢さんを嫁に頂きたい、こう正面から当ってみるんだ﹂﹁ま、待ってくれ﹂伝七郎はぶるぶるふるえだした、﹁そんなことを云って忠公、おまえそれは正気か﹂﹁もちろん正気だ、銀之丞が勇気を出せというのもそれだが、おいらあ、ゆうべっから考えていたんだ、これが浮気やちょいとした出来心かなんかなら別だが、男が性根からうち込んだ恋だぜ、誰に憚ることもねえし相手は剣術師範だ、おめえは中老の御三男で押しも押されもしねえ身分だ、心配しねえでひとつがんと当ってみようじゃあねえか﹂﹁嘘はねえ、うん、おまえの云うことに嘘はねえ、だが……﹂﹁伝さん男は度胸だぜ﹂と、こっちは乗りかかった船の追手に帆をかけた調子で詰寄った、﹁正真正銘なところを押切ってみねえな、万一いけなかったとしても、そうやって独りでうだうだしているよりさっぱりすらあ、なにごとにも極りをつけるてえことは大切だ、やってみねえ﹂ 伝七郎にも少しずつ勇気が出はじめた。さっき銀之丞に云われたことが改めて思いだされたし、忠太郎の威勢のいい調子がなんともいえず心を唆そそる。そうだ、いつまで独りでくよくよしていたって浮かばれはしない、だめならだめでいっそはっきりする方がいいかも知れない、身分のこともあるし、銀之丞の云うとおりもし少しでも三枝が自分に好意をもっているとすれば、……そうだ、こいつは思い切って正面から当って砕けよう、伝七郎は歯をくいしばりながらくっとこう顔をあげた。 ﹁よしやろう、当ってみよう忠さん﹂﹁決心がついたかい﹂﹁男は度胸だ、誰に憚ることもない、正真正銘なところでやってみる、勝敗は時の勢い、そのあとはなんとか云ったっけ、おれは憤然としてやるぞ﹂それじゃあ前祝いだというので、さらに呑みだしたのは覚えているがあとは夢中だった。灼やけつくような渇きに眼が覚めると、自分の部屋の濡れ縁にごろ寝をしていた。びっくりしてとび起きると着物はじっとりと夜露に濡れている、あたりはまだ暗いが東の方が仄白んで、厨くりやのあたりから薪を割る音が聞えてくる、井戸端へいって釣つる瓶べからじかに飽きるほど呑み、もう寝るには遅いと思ったから、ついでに顔を洗った。さっぱりと眼が覚めて、初秋の未明の爽やかさが身に浸み入るようだ、云いようのないちからが体じゅうに漲みなぎり満ちて、気持も常になく溌はつ溂らつとしている。……よし、この意気だ、半分は残っている酔いのためだが自分ではそう気がつかない、この意気で乗込んでやろうと思うと、一世一代の勇気が湧わいてきた。……上ろうとしたら長兄の平助が廊下の向うからやって来て、﹁ばかに早いじゃないか﹂と珍しくあたりまえな調子で呼びかけた、﹁ええ早朝稽古に道場へゆこうと思いまして﹂と、こちらも大いに張のある返辞をした。いい心持である、そのまま厨へいって、炊きたての飯で塩むすびを拵こしらえさせ、水を呑みながら三つばかり頬張ると、着替えをして、颯爽と屋敷を出ていった。蒔かぬ種子まで苅らされる運
伝七郎は頻りに汗を拭いている、相対して坐った沖田源左衛門は、いま聞いた客の言葉に茫然として、頓とみには挨拶の文句も浮かばない。なにしろ寝ていたところを起されて、いきなり、﹁お嬢さんを嫁に欲しい﹂というのである。うっかりしているところを面へ一本、それも痛烈なやつを打込まれた感じで、うんと云ったきり絶句してしまった。そして次には、そこに四角張って坐り、例の不細工な顔をむやみに緊張させて、返辞いかにと固くなっている伝七郎の恰好を見ると、こんどは擽くすぐられるようにおかしくなり、危く失笑しそうになったので、慌てて空から咳ぜきをしながら、﹁よくわかりました﹂と、もっともらしく頷ずいた。相手は藩の中老の息子である、いかにばかばかしくとも一概にそっけない態度はとれなかった。
﹁お話はよくわかりましたが、拙者の方にも存じよりがござるので、数日の御猶ゆう予よが願いたい、よく勘考のうえ追ってこちらから御返辞を仕つかまつる﹂﹁はっ、どうかお願い致します﹂伝七郎は二度ばかり低頭したが、ふと思いだしたので、﹁それから甚だ勝手ですが、お返辞はどうか、私じかにお聞かせ下さい、親どもにはまだ内聞ですから、どうか、じかにお聞かせ下さるようお願い致します﹂﹁承知仕つった﹂﹁ではその、今日はこれで……﹂追いたてられるような気持で座を立った伝七郎、外へ出ると思わず二三度ちから足を踏んだ。
﹁男は度胸、まったくだ﹂朝の光の輝やかしく射しはじめた巷ちまたを、こう見下ろすような感じで彼は呟つぶやいた、﹁事は当って砕けろという、やってみれば大したことはない、沖田先生まさに虚を突かれた形じゃないか、なにしろこっちは正真正銘の矢でも鉄砲でも持って来いというところだからな﹂えへんなどとたいそうな機嫌で屋敷へ帰った。
天下を取ったような気持で、その日は昏れた。二日めになるとそろそろ不安になり、三日めには昂然とあがっていた額が下りはじめた。稽古は隔日なので、あれから道場へ二回いったが、師範はなにも云わないし、そんなことが有ったかというけぶりも見せない、﹁男は度胸﹂もくそもない、伝七郎は生得の弱気にとり憑つかれて、今はもうなにもかも無い昔にかえりたくなった。すると六日めの夜のことである、彼の居間へ次兄の門之助が足音あらく入って来て、﹁父上がお呼びだ﹂と呶鳴るように云った。﹁首の根をよく洗ってゆけ、殊によるとお手打ちだからな、可哀そうな奴だ﹂﹁なにがお手打ちですか﹂﹁文句を云わずにいってみろ﹂ふんと、いかにも侮ぶべ蔑つに耐えぬように鼻で笑った。……また小言か、伝七郎はうんざりしながら、それでも袴はかまの紐ひもを締め直して父の部屋へいった。
そこには父の脇に長兄の平助もいた。二人のようすは恐ろしく厳粛で、伝七郎が挨拶をし座に就くまでそれこそ眼も動かさず、息もしないようにみえた。﹁この馬鹿者﹂いきなり父の口を衝いて出たのがその一喝だった。そして縮みあがる伝七郎の前へ、一通の手紙を投げだしながら、﹁それを読んでみろ﹂と云った。彼はそれを取上げて、恐る恐る読んでみた、――なんと、それは紛れもなく沖田源左衛門からのもので、申込んだ縁談の断り状であった。
……御令息より拙者むすめ御所望のお話し忝かたじけなく面目至極には御座候え共、むすめ儀はかねて御家中村松銀之丞殿と縁組み仕るべき約束にて、にわかに御意には添い兼ね申し候。さりながら折角の思おぼ召しめしではあり、拙者こと剣道師範を承わる身に候えば、村松殿と御令息と試合の上、いずれとも勝ちたる方と縁組を致すが至当なりと思案あい定め申し候。このむね村松殿に通じ候ところ異存これ無く、期日も来る九月二日と決定致し申し候、右の次第に御座候えば、…………
そこまで読むのが精いっぱいだった、全身ぶるぶる震いだしながら、思わずその手紙を鷲わし掴づかみにして、﹁ひどい﹂と呟やく頭上へ、まるで石でも抛なげうつように罵ばげ言んが飛んできた。それは長兄平助の声である、﹁武士たる者が他家へ押しかけて、その家の娘を嫁にくれなどと自分の口から申す、さような不面目なことは永井家の人間としてゆるすわけにはゆかぬ、貴様にもそれだけの覚悟はあるだろう、しかしそれは後のことだ、当面の問題は村松との試合だ、その手紙に書いてあることはよくわかったろうな﹂﹁…………﹂伝七郎にはなんとも答えようがなかった。ただぽろぽろと涙が出た。口惜し涙といえばいえたが、とにかく何かに手痛く裏切られたといういいようもない涙だった。平助はつづけて、﹁貴様は勝たなければならぬ、たとえ死んでも勝たなければならぬ。万一にも負けるようなことがあれば、よし父上がゆるすと仰おっしゃっても我等がそのままでは捨て置かぬ、永井家の名誉にかけて、詰腹を切らせるからそう思え﹂﹁試合までにあと十日ある﹂と父が付加えた、﹁それまで充分に稽古をして、いま平助が申すとおり必ず村松に勝つのだ、沖田とのことはその後で糺きゅ明うめいする、わかったな、わかったら立て﹂伝七郎は立った。
彼の頭は昏こん乱らんし、心は動どう顛てんしていた。世の中も人間も不信と虚偽のかたまりであること、真実はいつも汚辱され堕おとされ踏みにじられること、あらゆるものが救いようもなく自分の敵であること、そんな考えが濁流の渦を巻くように彼を掴み、ひきずりまわした、彼は溺おぼれかかる者が水から逃げるように屋敷をとびだした。
毒を舐めれば皿までの故事
夜も十時となれば騒々しい裏長屋も寝しずまってしまう、まっ暗がりの危い足あし許もとを拾い拾い、忠太の家の表へ来た伝七郎、閉まっている戸を叩くとすぐに中から返辞があった。 ﹁誰だ﹂﹁おれだ、伝七郎だよ﹂﹁伝さんだって、構わず開けて入ってくんな﹂と云う、なるほど鍵かぎなんぞ掛っているわけはない、がたびしする戸を開けて入る、すぐに後を閉めて上ると、忠太郎が行灯に火を入れ、夜具を隅の方へ押付けた。﹁こんなに更けてからどうしたんだ、なにかあったのかい﹂﹁あったんだ、済まないが水を一杯飲ませてくれ﹂﹁水はねえや、湯冷しでもいいか﹂﹁なんでもいい、喉がひりつきそうだ﹂﹁口からやってくんな﹂かかる世界では不作法が作法である、湯沸しをそのまま取って差出すのを、伝七郎は口から吸いつくように喉を鳴らして飲んだ。﹁さあ、おちついたら一つ話してくんな、いったいどんな事が起ったんだ伝さん﹂﹁なにもかも目茶苦茶だ、なにもかもだ、おれは腹を切らなきゃならなくなった﹂﹁なあんだって﹂﹁腹だ、切腹だよ﹂﹁いったいそれはどういうわけなんだ﹂﹁他に相談する者はなし、やっぱりおまえに聞いて貰いたくって来たんだ、忠さん、男の度胸がいけなかったよ﹂と、沖田師範へ体当りをしたことから今日までの始終を手短かに語った。﹁おれは師範に云ったんだ、これはまだ親どもにも内証だから、返辞は必ずおれにしてくれ、どうかじかにおれへ返辞をたのむ、二度も三度も念を押したんだ、それなのにあの師範の奴、まるで当つけのように親父へ手紙をぶっつけやがった﹂﹁ひでえことする奴があるもんだ、そいつはそれでも侍なのか﹂﹁しかも剣術師範だ、銀之丞にしたってそうだ、あの人がおれを好いているなんて云ったが、もしそれが本当なら、親父があんなことをするのを黙って見ちゃあいねえ筈だ、そうだろう忠さん﹂﹁そうだろうと思うなあ、ことによるとあいつめ、伝さんを煽あおりたててなにかひと芝居書きあがったぜ﹂﹁とすると九月二日の試合が、だってあいつがなんのためにこんな手数をかけてわざわざおれと勝負をする必要があるんだ﹂﹁そんなこたあわからねえ、あんないんちき野郎のすることはおいらなんぞにゃあ見当もつくもんか、で……腹切りてえのは﹂﹁それがさ、村松と勝負をして勝てばいいが、負けたら永井の名誉のために詰腹を切らせると云うんだ、驚かしじゃない、あいつらは家名とか面目なんぞのためなら、本当に人間の二人や三人平気で腹を切らせ兼ねないんだ、おれが村松に勝てないことがわかりきっているとすれば、詰りもう腹を切るというのは定きまりきったことじゃないか﹂伝七郎は話すだけ話してしまうと、もう身も心もくたくたといった感じで、例の背中を蚤にでもさされたような渋面を作りながら、げっそりと、うなだれ込んでしまった。あらゆるものが死に絶えたように、森閑と寝しずまった長屋のどこかで、心ぼそくも生き残ったこおろぎが一匹、ころころとはかなげに咽むせび鳴くのが聞える。忠太はありもしない智恵を絞って、絶体絶命の友になにか打開の途みちはないものかと思案を凝らしていたが、﹁考える﹂という習慣のない人間だから妙案を思いつくまえに眠くなってきた、そしてこくりと頭をのめらせて、﹁しまった﹂と思ったとたんに、すばらしい︵忠太としては︶計略を考えだした。﹁伝さん﹂と、彼はむきだしの膝小僧を叩いて、たいそう厳粛な調子できりだした、﹁おめえ、こうなったら肚を据えようじゃあねえか、どうだ﹂﹁えっ、そ、それじゃあやっぱり腹を切るのか﹂﹁そうじゃあねえ、腹を切る積りで土地を売るんだ﹂さすがに忠太の計略らしいが、伝七郎にはとんとわからなかった、﹁土地を売るったって、おれは地面なんぞ持っちゃいねえぞ﹂﹁あったところでなんのために地面を売るんだ、そうじゃあねえ、ずらかるんだ、どろんをきめるのよ﹂﹁なんだかおまえの云うことはさっぱりわからねえ、頼むから絵解きをして云ってくれ﹂﹁じれってえな、詰りこの土地から逃げだそうというのよ、男一匹、死ぬ気になればどんな他国へいったって食うくらいのことは出来る、これまでのことはきれいさっぱり切捨てちまうんだ、そして新しい土地へいって新しい暮しを始めるんだ、どうだいこいつは﹂﹁いいと思うけれども、おれはいいと思うけれどね、しかし……親父や兄貴たちがうんと云うかしら﹂﹁はっきりしねえな、どろんをきめるのに親兄弟と相談するやつがあるかい、黙ってずらかるんだ、誰にも知れねえように逃げだすんだよ﹂﹁ああ﹂と伝七郎は、初めて生返ったように体を起した、﹁そんならいいも悪いもない逃げよう、すぐ今夜にでも逃げよう﹂﹁まあ待ちねえ﹂自分の妙案に気をよくして、忠太郎はここでぐっとおちつき、そこにある湯沸しを取って口からじかにごくごくと飲んだ、それから伝七郎の眼をこういう風に覗のぞき込んで、﹁伝さんは毒を食わば皿までという地口を知ってるか﹂と云った。地口とくるところが凝っている、伝七郎はきまじめに頷ずいて知っていると答えた。娘あぶなし宵闇の秋
﹁この土地をずらかるとなったら打つ手がある﹂軍師忠太は声を低くした、﹁それはそのなんとかいう師範のお嬢さん、その人を担ぎだすんだ﹂﹁担ぎだす﹂﹁おめえの恋は、正真正銘まじりっけのねえきれいなもんだ、そしておめえをこんなどたん場へ追い込んだのも、元はといえばそのお嬢さんのためだろう、おめえがずらかればお嬢さんはどうなる、あのいんちき野郎の銀的の女房になっちまうんだぜ、口惜しくはねえか伝さん﹂﹁…………﹂こちらは熱湯でも飲んだように顔をしかめた、﹁男の本音でまじりっけなしに惚れたおめえは国を売り、肝かん腎じんのお嬢さんは銀的の女房になる、そんなちょぼ一があるかい、おめえが我慢するにしたっておいらが黙っちゃあいられねえぜ﹂﹁そう云ったって忠さん、そんなことが﹂﹁出来るよ、おれがやってみせる、汚ねえ慾や曲った根性でやるんじゃあねえ、正真正銘これっぱかりの嘘もねえ恋のためなんだ、それも他に打つ手がなくってぎりぎり結着の、どうしようもなくってやるこった、誰に憚ることがあるもんか、堂々とやんねえな﹂﹁そうだ、こいつは正真正銘のぎりぎり結着だ、手を貸してくれるか忠さん﹂﹁いいとも、乗りかかった舟だ、双もろ肌はだぬぎでやろうじゃあねえか﹂﹁まことに済まない﹂伝七郎はそこで膝の上へ手を揃えた、﹁本当なら幾らか力にならなければならないおれが、あべこべに毎いつも厄介をかけ通したうえ、到頭こんなろくでもないいざこざに巻き込んでしまった、ただ一人の友達のおまえに、こんな迷惑をかけようとは思わなかった、だが云わしてくれ、本当におれは嬉しい、嬉しいぜ忠さん﹂﹁それを云うこたあねえや、おめえおれを泣かせるぜ﹂忠太郎は喉になにか絡まったような声で云った。 二人がこのようなかんばしからぬ相談をしたことに就て、あまり怒らないで頂きたい、というのは、それほど智恵のまわりのよくない彼等の企みが、そう旨うまく思う壺にはまる道理がないからである。それにしても、とにかく彼等がその計画をすすめたことは事実だった、福山十万石といっても、三都の繁昌とは違って田舎の城下町だから、こういうときには話は早い、伝七郎は姿をくらましている身分なので、長屋のひと間に閉じこもっていたが、忠太は三日ばかりとび廻って、沖田の方をすっかり調べて来た。それによると、八月二十八日に、藩の重役で安倍内記という者がいる、その邸で姉娘が近く嫁入りをするため、親しい娘達を集めて別れの宴席を設けることになった、それへ沖田の三枝も招かれてゆくということがわかったのである、﹁伝さんこいつだ﹂と忠太郎はすっかりいきごんで云った、﹁なにしろ集るのが暮六つというんだから、早くったって帰りは八時になる、御蔵下の安倍さんから柳小路までの間には、昌林寺の籔やぶ小こう路じがあるからもってこいだ、やるならこの他に折はねえぜ﹂﹁いいだろう、その日ときめよう﹂﹁それからこいつは伝さんにゃあどっちでもいい事だろうが﹂と云って、永井の家の様子を話しだした。伝七郎の失しっ踪そうは父や兄達にとってたいへんな打撃だったのだろう、あの翌朝から密ひそかに手分けをして、八方へ追手を出すとともに、城下町をずいぶん捜し廻ったらしい、だがこの鍛冶屋町の裏とは気づく筈もなく、大体のところ諦めた模様だということだった。﹁そうだろうな﹂伝七郎はにやっとした、﹁おれがここでててんをきめたとなれば面目まる潰つぶれだからな﹂﹁なんでえててんというのは﹂﹁おまえが教えたんじゃあないか、地面を売るというのよ﹂﹁それあどろんをきめるだぜ、それから地面じゃあねえ、土地を売るだ﹂﹁ああどろんか、なんでも太鼓を叩くような音だと思ったっけ﹂﹁大笑いだ﹂二人は声を忍ばせて笑った。 逃げ口はこの道かこの道、その先はこうとあらまし手順がついた、そして彼等は酒を飲みだした。なにしろ二人ともばか正直の小心者だから、こんなだいそれた企みを抱えて素しら面ふでいられるわけがない、そこで酔っては良心を昏くらましながら、なるべく景気のいいことばかり考えたり話したり、ひたすら、その日の来るのを待つ、かくていよいよ八月二十八日の宵となった。 御蔵下という所にある安倍内記の邸から、沖田三枝が出て来たのは今の時間にして九時ちょっと過ぎた頃であった、供は老人の下僕ひとりである、定紋を書いた提ちょ灯うちんで道を照しながら、そこから西へ辻を曲り、大きな屋敷ばかり並んでいる通りを足早に歩いてゆく、やがて昌林寺前へとさしかかった。木像ながら閻魔の御利益
昌林寺という寺の前から一丁ばかりは、片方は墓場、片方は籔と杉林の淋しい道になる、俗に籔小路といって、ほんの僅かな距離だが昼間でもひっそりとした場所だ。……すたすたと急ぎ足にやって来た三枝と下僕が、ちょうど寺の門前を通り過ぎたときである、まっ暗がりの中からとびだして来た伝七郎が、いきなり下僕の持った提灯を叩き落し、忠太郎が娘へとびかかって羽交い絞めにしながら手で口を塞ふさいだ、﹁泥棒、どろぼう﹂なんと思ったか老下僕はそう喚きながら逃げだす、伝七郎はちょっとまごついた、﹁泥棒﹂と云われようとは思わなかったから。けれども理合を説いている暇はなかった、﹁伝さん来てくれ、痛え痛え﹂と忠太郎が悲鳴をあげている、彼は三枝に手を噛かまれていたのだ、﹁猿さる轡ぐつわを噛ませてくれ、手拭はおれのふところにある、いや縛る方が先だ、こう暴れちゃあ始末にいかねえ、い、痛え、指が千切れちまう、早くしてくんな﹂﹁ま、待ってくれ、もうじきだ﹂こっちは命までもと想っている人だから、痛くしまい怖がらせまいと手加減をするのでてきぱきといかない、だいぶまごまごしたが、それでもどうやら手足を縛り猿轡を噛ませて、二人で肩へ担ぐなり打合せどおり裏道をとって馳かけ出した。 馳けだすまではそうでもなかったが、馳けだすと間もなく二人とも恐ろしく怖くなってきた。さっきの下僕は家のある所へゆくなり喚きちらしたに相違ない。この城下でこんな出来事は稀まれだし、まだ宵のことだし、聞いた者はみんなとびだして来るだろう、すぐに籔小路へ馳けつける、番所へ知らせる、沖田へはもちろん役人へも告げに走る、むやみやたらに手をまわして、四方八方から追っかけて来るだろう、提灯、追詰めて来る足音、その叫び声など、そのありさまがまざまざと眼に見えるようだった。それでやたらに馳けつづけた、けれど例え娘でも人間ひとりそう軽くはない、こいつを担いで休みなしに馳けるというのは無理である。しかも闇夜のことで道を迷い、定めて置いた逃げ口から外れたりしたので、広い田たん圃ぼへかかる林の中の道まで来ると、もう意地にも我慢にも馳けられなくなった。﹁伝さん休もう、おらあ死にそうだ﹂﹁おれも息が止りそうだ、まいった﹂﹁いやここで下ろしちゃあいけねえ、向うにお堂みてえなものがある、あすこへいって休もう、道の上じゃあ追手の眼につくから﹂道を右へ切れると、大きな杉の木が林になっている、その奥に古びたお堂があった、そこへいって娘の体を下ろす。とたんに二人とも反ざまにぶっ倒れて、今にも死にそうにはあはあと喘あえいだ。 ﹁の、喉のどが渇いて、灼けつきそうだ﹂伝七郎が干からびたような声で云った、忠太もようやく起きあがって、﹁よし、おいらが水を捜して来よう、その間おめえはお嬢さんと堂の中で隠れていてくんな﹂こう云って忠太は、伝七郎といっしょに娘をお堂の中へ抱え込んだが、そのとたんに、﹁ひゃっ﹂と妙な声をだして跳び上った、﹁びっくりするじゃないか、なんだ﹂﹁あれを見な﹂﹁ええ﹂ふり返って見ると、伝七郎も思わず声をあげそうになった、ついそこに閻えん魔ま大王の像が安置してあるのだ、高さ六尺ばかりで、他の部分はよくわからないが、厳いかめしい顔の金を塗った大きな眼が、闇の中におどろおどろしくこっちを睨にらみつけている、﹁なんだ閻魔の木像じゃないか﹂﹁ひょいと見たら鼻っ先にあの顔があったんだ、おらあ胆が潰れたぜ、しかしこれでようやく見当がついた、これは梁瀬川の渡しへ出る道だぜ﹂﹁するとこれは赤閻魔だな﹂﹁こいつは思いがけねえ好都合だ、渡し舟を掠って海へぬけるという手がある、が、とにかく水を捜して来よう﹂忠太郎はそう云って立つと、そこに供えてある華立を取って外へ出ていった。……後に残った伝七郎、そこに倒れている三枝を静かに起してやったが、柔かい体の手触りとむすような香料にうたれて、にわかに相手が哀れになりだした、﹁三枝どの、なんとも申しわけのないことをして、まことに済みません﹂と、彼は声を震わせながら云った、﹁しかしこれ以上乱暴なまねや不作法なことは決してしませんし、もし貴あな女たが、……そうです、貴女がもしお望みなら無事にお宅へお返しを致します。ただ一つ、こんな無謀なことをしなければならなかった私の心中を察して下さい、他のことはなにも云いません、私は貴女に身も心も奪われていました﹂﹁…………﹂﹁もちろん私は自分の値打ちを知っています、学問も武芸もできず人間はこのとおり醜いし口もろくに利けない、まったく取柄のない人間です、だから貴女を妻に欲しいなどと考えたことはいちどもないし、自分の心を知って頂こうとさえ思ったことはありませんでした、ただ遠くからそっと貴女を見ること、貴女がいつまでもお仕合せで、絶えず頬笑んでいるような美しいお顔つきが曇るようなことのないよう、そう祈るだけで満足していました、嘘も隠しもない、本当に私はそれだけで満足していたんです、だからもし村松銀之丞から妙な話さえ聞かなければ、今夜このようなあさましいことにはならずに済んだでしょう﹂負けるを知らぬ人の負けよう
﹁こうなったらはっきり云いますが﹂と、伝七郎は続ける、口が下手どころか今夜の彼は、ただ人間がせっぱつまった誠心誠意をこめた場合にのみ、天の意によって表わされるように、なかなかの能弁だった、﹁ついこの間ですが、村松が私をさる所へ呼んで、貴女が私に好意をお持ちだと、ごめんなさい村松が云ったのですから、そして勇気をだしてやってみろと唆けしかけたのです、初めは信じなかったんですが、恋に眼も昏んでいたし、ごらんのとおりの愚直者ですから、ついその気になってお父上へあんな御相談に上ったのでした、それからのいきさつはたぶん御承知でしょうから省きます、そしてわかって頂きたいことはこれだけなんです、私に少しも卑しい気持のないこと、ただ心から貴女のお仕合せを祈っていること、これだけ知って頂けば、もう私にはなんの望みもお願いもありません、え、なにか仰しゃいましたか﹂﹁…………﹂娘は猿轡を噛まされた首を振り、いやいやをするように身もだえをした。伝七郎にはそれがあらゆることを拒否する身振りのように思え、胸がきりきりと痛みだした、﹁貴女にはわかって頂けないんですね、まったく、それが本当でしょう。こんな無礼きわまる乱暴をしながら、心がきれいだと云っても信じられる道理はない、貴女にはたぶんお笑い草でしょう﹂こんなことを云いだすのは、すでに良心の呵かし責ゃくというやつが始まった証拠である、へんに息ぐるしくなり、心臓がどきどき烈しく搏うちはじめた、その上いけないことに、閻魔大王の像が鼻先に睨んでいる、だんだん眼が暗がりに慣れてくるから、顔かたち体つきまで朧おぼろげに見える、大きな口をくわっとあいて、巨大な両眼を怒らしてはったとねめつける形相は、暗がりの朧ろな中だけに活き活きとして、今にもその口から喝と大だい叱しっ咤たがとびそうに思える。伝七郎の首が少しずつ縮んできた、見まいとすれば余計に怖い、身をすくめながら外方を向いていたが、やがて堪らなくなったのだろう、厳然として立つ閻魔の像の方へちょっと頭を下げ、﹁さあ三枝どの帰りましょう﹂と、おろおろ声で云った、﹁もう云いたいことはすっかり申上げたし、なにも心のこりはありません、お宅まで送ってまいります、お立ち下さい﹂こう云って立たせようとした。そのときである、表の方から忠太郎が、﹁大変だ伝さん、こっちへ追手がやって来るぜ﹂と叫びながらとび込んで来た。﹁なに追手だって﹂﹁向うに梁瀬川へおちる小川がある、むかしいっしょに鮒ふなや蟹かにを捕りにいったことがあった、あれを思いだしたので、少し遠いが走っていって水を汲んだ、二口みくち飲んで、伝さんの分を汲んで戻ろうとすると、川沿の道を提灯が十二三もやって来るんだ、いけねえと思って草籔の中へとび込み、這はうようにして帰って来たんだが、追手はあの土橋の所で四方に分れた、そのうちの提灯が一つ、おれの後からいまこっちへやって来る﹂﹁そうか、それあ却かえって世話なしだった﹂﹁ど、どうするんだ伝さん﹂﹁見ていればわかる、話はあとだ、おまえはお嬢さんを伴つれて後から来てくれ﹂そう云うなり伝七郎はまことに決然たる足どりで外へ出ていった。 彼が道へ出るのと殆んど同時に、提灯を持った一人の侍が北からやって来て、危くこちらと突当りそうになった、﹁誰だ﹂と相手は驚いて提灯をあげる、その顔を見て伝七郎はあっと叫んだ、﹁村松……おまえだったのか﹂﹁なんだ伝七じゃあないか﹂﹁いいところへ来てくれた、貴公は沖田の三枝どのを捜しているんだろう﹂﹁そうだ、知ってるのか﹂﹁知ってるとも、恥かしいが三枝どのを掠ったのはこの伝七郎だ、精くわしい話をする暇はないがあの人は無事であそこにいる、これから家まで送ってゆこうとしていたところだ、貴公に渡すから伴れていってくれ﹂﹁そんな高い声をだす奴があるか﹂銀之丞はそう云って一歩こちらへ寄った、﹁貴様がせっかく掠って来た女だ、いいから何ど処こへでもこのまま伴れて逃げろ﹂﹁ええ、な、なんだって﹂﹁この道を梁瀬川へ出れば渡しがある、その舟で海へ下れば間違いなく、国越えができるだろう、そっちへは追手の廻らないようにしてやるから早くゆけ﹂﹁待ってくれ、まあ待ってくれ、おれはもうこれ以上あの人になんの望みもないんだ、おれは後悔しているんだ、貴公はあの人の体になにか瑕きずでもついたと思うかも知れないが、決して断じてそんなことはない、神に誓って云うが、あの人はまったく清浄無む垢くだ﹂﹁たくさんだ、そんな詰らぬことを云う暇に早く逃げろ、と云うのはなにも貴様のためじゃない、おれのためにもその方が都合がいいんだ﹂﹁貴公に都合がいいって﹂﹁こうなったらはっきり云ってもよかろう、おれはあんな娘などに未練はないんだ、むしろあんな娘と結婚することは迷惑なくらいだ、おれには少しばかり大きい野心があって、ながい間ずいぶん種子を蒔まくのに苦心して来た、それがようやく実を結び始めている、今ここで剣術師範の娘なんぞ嫁にしたら、これまでの苦心の半分が無駄になってしまう、だからいつかおれは貴様に勇気をだしてやれと云ったじゃないか、おれとの試合にだって出ればよかったんだ、おれは負ける積りでいたんだからな﹂そして銀之丞は、静かに笑った。愚か者にも笑う順番
﹁わからない﹂伝七郎は頭を振った、﹁おれには貴公の云う意味がよくわからない﹂﹁なにがわからない﹂﹁だってもし三枝どのと結婚する積りがないのなら、おれをたきつけたり試合をするなんて、面倒くさいことはぬきにして、はっきり厭いやだと断ればいいじゃないか、そこがおれには合点がいかないんだ﹂﹁……そのわけならわたしが存じております﹂とつぜん、二人の後でそういう声がした。まったく突然だったので、二人ともぎょっとしてふり返る、そこへ三枝が静かに歩み寄って来た、そのうしろには更に忠太郎が、かなり得意な眼つきで護衛者のように付き従っていた。
﹁そこの杉の木の蔭で、お二人のお話はたいていお伺い申しました、永井さまには色いろ申上げたいことがございますけれど、まず一つだけ、今おわかりにならないと仰しゃったことをお話し申しましょう。村松さまがわたくしとの縁談を嫌いながら、なぜはっきり厭だと仰しゃれなかったか、それは村松さまがわたくしの父に、かなりの多額の借財をしていらしったからです、そして、わたくしはなにも存じませんでしたけれど、借財をなさるに就て父と村松さまとの間に、御出世のうえはわたくしと結婚するというお約束があったようでございました、それで、御自分から厭と仰しゃることができなかったのだと存じます﹂﹁おい銀の字……﹂と三枝の後から忠太が顔を出した、﹁とうとう化けの皮の剥はげる時が来たなあ、おらあずっと前から知ってたんだ、貴様がまっとうでねえ、いんちき野郎だということをよ、伝さん、おめえにもこんどこそ正体がわかったろう﹂﹁ちょっと待て﹂伝七郎は忠太を制して、ぐいと銀之丞の顔を覗きこんだ、﹁いまの三枝どのの言葉を聞いたか、村松﹂﹁聞いたよ﹂﹁それでなにか云うことはないか﹂﹁まずないな﹂歌舞伎役者のような美貌が、提灯の光をうけて闇の中に凄すごいほど美しく浮いて見える、彼はさすがに少し蒼あおざめたが、動揺の色など微みじ塵んもみせなかった。伝七郎はその顔をまじまじと見まもっていたが、とつぜん、﹁わッはッはッはッは!﹂と笑いだした。
三人があっけにとられている前で、実に爽快に彼は笑ったのである、そして笑い止めると同時に、﹁おい銀之丞﹂とのしかかるような調子で呶鳴りだした、﹁貴様そんな男だったのか、貴様そんな下らない男だったのか﹂﹁それがどうした﹂﹁よく聞け、おれはな、貴様にどんな意地の悪いことをされても、満座の中で冷汗をかくようなめにあわされても、それから貴様に就てどんな悪い評判を聞いても、決して貴様を怨んだり憎んだり、軽蔑したりしたことはなかった、なぜなら、おれは貴様を信じていたからだ、貴様がすばらしい秀才で、学問にも武芸にもすぐれてい、智恵才覚も衆をぬくりっぱな人物であり、福山藩のためにやがては柱石ともなる男だと信じていたからだ。ところが実際はどうだ、出世したさに上役へ賄わい賂ろを贈り饗きょ応うおうをする、しかもそれが他人から借りた金だし、その金のために婚約をしながら、うまくおれを煽おだてて娘を押付け、自分はもっと身分の高い家とでも縁を結ぶ積りだったんだろう、おい銀之丞、貴様そんなちっぽけな、うす汚ないけちな奴だったのか、それでも武士だと云って歩けるのか﹂﹁云うだけ云ったら知らせろ﹂と、銀之丞は静かに提灯を傍わらの木の枝へぶら下げた、それからこちらへ向き直り、左手で刀の鍔つば元もとを握りながら、﹁村松銀之丞がちっぽけな男かどうか見せてやる﹂﹁おっ﹂伝七郎はとび退のいた、﹁き、貴様、おれを斬る積りか﹂﹁おれには野心がある、しかもそれはもう手の届くところへ来ているんだ、邪魔になる者はどけてゆくより仕方がない﹂﹁よし!﹂伝七郎はぎゅっと唇を噛んだ、﹁よし、いいとも、これまでは貴様に頭が上らなかった、だが今はもう違うぞ、おれには貴様の正体がわかった、貴様のその汚れくさった性根で、嘘いつわりのないおれの正真正銘が斬れる道理はない、やってみろ銀之丞﹂伝七郎の声の尾を断ち切るように、銀之丞の腰から白い電光が飛んだ、ひゃっというような声をあげて、伝七郎は二三間うしろへすっ跳んだが、それでもすばやく刀を抜いて身構えをした。銀之丞は唇に冷笑をうかべながら、下段に刀をつけてじりじりと間を詰める、まるで獲えも物のをねらう蛇のような云い知れぬ妖よう気きが、その全身から発する感じだ、これまでの伝七郎なら、それだけですくんでしまったろう、だがいま彼は銀之丞を上から見下ろしている、底の底まで軽侮し卑しめている、だからそんな妖気なんぞはてんで感じないのである、そして彼は大胆不敵にも刀を上段へすり上げた。えい、という気合がとび、銀之丞がさっと斬込んだ、伝七郎は上段の剣を力いっぱい振り下ろした。なんと、斬込んだ銀之丞はそのままつんのめり、伝七郎は刀を持って棒立になっていた、……勝負どころを見たのは三枝である、銀之丞の踏みだした第一の足が石に躓つまずいたのだ、そしてつんのめった銀之丞がそのまま起きないので、よく見ると頭から右の眼へかけて、すうっと斬られていた、﹁おい伝さん、傷は浅手だ、銀的はまだ生きてるぞ﹂忠太にそう呶鳴られて、伝七郎は振向こうとした、しかし体じゅうの骨や筋が硬こわばって身動きができない、だがそれより先に三枝が、﹁いいえもういけません、これで勝負はついています﹂と凛りんとした声で云った、﹁そして村松さまは、もうお死になすったのも同様でございます﹂そう云うのを聞いたのだろう、伝七郎はかなしばりが解けでもしたように、そこへくたくたと尻餅をつき、﹁斬った、銀之丞を斬った﹂と情けない声をあげて笑いだした、要するに彼は二ど笑ったわけである、だが二どめの情けない笑い声のなかに、どんなに豊かな力づよい自覚があったかということは、当人以外には知ることができないに違いない。
﹁おれは知ったよ﹂と、伝七郎は云う。暗がりの道を梁瀬川の渡し場の方へ歩きながら、忠太郎と三枝に向って彼は能弁に語る、﹁世の中で立ってゆくには銀之丞のようでなくてはいけない、相そう貌ぼうも秀で、学問にも武芸にもぬきんでていなくては駄目だ、おれのように愚鈍な生れつきの者は、隅にひっこんで首を縮めているより仕方がない、そう思っていた。だがそれは間違いだった、伝七郎は伝七郎でりっぱなものなんだ、忠太は忠太でそのままりっぱなんだ、いけないのは自分から駄目だと思うことなんだ、わかるか忠公﹂﹁いち言もねえ、おらあ世の中がまるで変ったようにみえらあ﹂﹁銀之丞はあれでおしまいだ、三枝どのの仰しゃるとおり、銀之丞はもう福山藩では生きてはゆかれない、なぜだ、……それに反しておれはこれからだ、おれの生涯はこれから始まるんだ、おれは今こそ生れて始めて大手を振って歩ける、なぜだろう、……こいつは大きな問題だぞ﹂﹁大きな問題はいいが、伝さんやっぱり渡し舟で海へ下るのか﹂﹁ああいけねえ、うっかり来てしまった﹂伝七郎はびっくりして足を止めた、﹁そうだ、三枝どのをお家までお送りしなければならなかった﹂﹁いいえ﹂と、三枝がさっきからの沈黙を破って、じっと伝七郎を見あげながら云った、﹁……わたくし、永井さまと御一緒に、どこへなりとまいりとうございます、お伴れ下さいますでしょうか﹂﹁それは御本心ですか﹂﹁だって……﹂と、三枝は眼のふちを染めながら面を伏せた、﹁こんな恥かしいことのあった後ですもの、いけないと仰しゃられれば尼になるより他はございませんわ﹂﹁えへん﹂と忠太が声をあげた、﹁ではおいらはここいらで……﹂﹁待て忠太﹂と声をかけてから、伝七郎は三枝の肩へ手をやった、﹁三枝どの、そのお言葉が本当なら御一緒に城下へ戻りましょう、城下へ戻って、新しく初めからやり直しましょう、伝七郎はもう逃げる必要はない、永井家の三男坊として、ま正面からやり直します﹂﹁わたくし、そのお言葉を待っておりました、うれしゅうございます﹂
﹁忠太は見ていませんよ﹂と、忠太郎は馳けだしながら叫んだ、﹁あっしには、なんにも見えませんよ、伝さん、お先にててんだ、ごめんよ、はあ、どろんとててんだ、どろんとててんだ……﹂