一
朝田隼はや人とが江戸から帰るとすぐに、小池帯たて刀わきが訪ねて来た。 ﹁こんどの事はまことに気の毒だ﹂と帯刀は挨拶のあとで云った、﹁しかし織部どのと西沢とのはたしあいは、斎藤又兵衛の立会いでおこなわれ、正当なものと認められたし、西沢は三年間の木戸詰に仰せつけられて山へいった、事ははっきり始末がついたのだから、どうか騒ぎを起こすようなことはしないでくれ﹂ 隼人は伏し眼のまま黙っていた。 ﹁丹後さま騒動がおさまって五年にしかならない﹂と帯刀はまた云った、﹁それも本当に平静をとりもどしたのは、丹後さまの亡くなった去年からだ、そこをよく考えて、家かち中ゅうぜんたいのために堪忍してくれ﹂ 隼人が静かに眼をあげた、﹁はたしあいのあったのは、六月十七日だったそうだな﹂ ﹁十七日の午後、北の馬場でだ﹂ ﹁おれは江戸で兄から手紙をもらったが、その日付は六月十二日になっていた﹂ 帯刀が訊きいた、﹁どういう手紙だ﹂ ﹁おれは騒ぎを起こすつもりはない﹂ ﹁こんどの事に関係のある手紙か﹂ ﹁それは二度と訊かないでくれ﹂と隼人が云った、﹁これからは後見として、甥おいの小一郎を育ててゆかなければならない、それがせめてもの兄への供養だと思う﹂ 帯刀は頷うなずいた、﹁どうかそうあってもらいたい、わかってくれて有あり難がとう﹂ 隼人は黙って会釈を返した。 兄の織部の死は江戸で聞いた。兄は勘定奉行を勤めていたが、部下の西沢半四郎という者と決闘をして即死した。納なん戸ど方の斎藤又兵衛という者が立会い人で、西沢と共に与田滝三郎になのって出、ありのままに事実を申し述べた。与田は中老の筆頭で、すぐ小池帯刀に連絡し、北の馬場へいって現場の検視をし、織部の遺いた躰いを朝田家へ運んだうえ、妻のきい女に仔しさ細いを告げた。遺躰には突き傷が二カ所あり、その一が心臓を貫いていた。――この藩では、立会い人の付いた決闘は正当なものと認められており、たとえ死者が出ても、法的に罪に問われることはなかった。但しこの場合には織部が温和な性格で、これまで人と争った例が殆んどなく、知友のあいだでもっとも信頼されていたため、どうして決闘などをしたかというその原因が疑われた。当の西沢は訊じん問もんに対して、侍のいちぶんが立たないから決闘したのであり、理由は故人の名誉にかかわるから云えない、と答えるだけであった。また斎藤又兵衛は、二人に頼まれてやむなく立会い人になったので、決闘の理由はなにも知らない、ということであった。 ――故人の名誉にかかわるから云えない。 西沢半四郎はそう答えたが、織部の後任を命ぜられた野口助左衛門は、事務引継ぎに当って帳簿の不正操作を発見し、出すい納とう会計から五百両ちかい金が、織部の印判によって引出されていることをつきとめた。そこで、与田滝三郎は西沢を呼び出したうえ、決闘の理由がその点にあったのかどうか、と訊問したところ、西沢はやはり返答を拒み、﹁自分としては故人の名誉のためになにも云えない﹂と云い張った。 朝田家は大目付によって調査され、故人の妻きいや、家士、召使たちも訊問された。しかし五百両という金額がいかに使われたか、ということはついにわからず、老臣協議の結果、﹁家かろ禄くを半減して返済に当てる﹂ということになった。これは織部の人柄と、それまでの勤めぶりを考慮された寛大な沙汰で、本来なら遺族は改易追放をまぬかれなかったであろう。以上のことを隼人は江戸で知った。そして織部の遺児、小一郎のうしろみをするようにと、帰国を命ぜられたのであった。 朝田の家禄は二百三十石で、役料とも二百五十石だったが、役料は家禄ではないから、半減というと百十石になる。そのころ米価は米一俵︵四斗四升︶が一分と六十匁から七八十匁に当っていたので、五百両を返済するには、概算して約八年ちかくかかる。米価は年によって高低があるけれども、八年より早く済むという望みはまずなかった。――幸い住居はそのままでよいことになったものの、家士、召使たちは減らさなければならない。家士は村井勘兵衛という老人夫妻、召使は下女一人にしたので、家や庭の掃除だけでもなかなか手がまわりかねる。召使は二人にしてもいいだろうと、隼人はすすめたが、きいは少しでも節約して返済に当てたいから、と云ってきかなかった。 別棟の長屋にいた村井夫妻を母おも家やへ移し、かれらのあとへ隼人がはいった。あによめのきいが二十五歳、彼は二十七歳なので、同じ屋内に住むことを避けたのである。あによめのきいは小池帯刀の妹に当り、十七歳で朝田へ嫁かして来た。隼人とは幼いころから知っていたため、いまさらそんな行儀にこだわる必要はないと思ったが、隼人にはその年の春、梅原家の二女と婚約の内談があったので、そちらへ遠慮しているのかもしれないと考えた。 九月にはいるとまもなく、帯刀の奔走によって隼人は二人扶ぶ持ちで藩校の剣道助教の席が与えられた。彼はもとその道場で助教を勤めていたが、教頭の後任となるため、柳やぎ生ゅう家から免許を取ることになり、二年の予定で江戸屋敷へいっていたもので、兄の死によって免許は取れなかったが教授の腕は充分にあった。こうして、隼人の国くに許もとでの生活が始まった。 朝四時に起床、六時に藩校の道場へ出る。稽古は午前ちゅうで終るが、特に希望する者たちを午後三時まで教え、午後五時に退出する。道場は大手門の外にあり、北屋敷にある朝田家とは約十町しかはなれていないので、往復にひまをとられることはなく、帰るとすぐ、夕食まで甥の小一郎に素読を教えた。小一郎は五歳になる。躯からだつきは小さいが、利りこ巧うで、たいへんな暴れん坊だった。その点は父の織部よりも、隼人の幼時に似ているらしい、知人からよく昔の隼人にそっくりだと云われた。 十月になってから、隼人は梅原家へ訪ねてゆき、内談のあった婚約を解消してもらった。梅原頼たの母もは五百三十石の寄より合あい役肝きも入いりで、小池帯刀の上役に当るが、隼人の口上にはいちおう反対し、こちらは待ってもよいと云った。隼人は小一郎が十五歳になるまで結婚はしないつもりであるし、十年も待ってもらうのは自分として耐えられないからと云い、梅原でもようやく承知した。――そのすぐあとのことである。稽古が終って道場から帰る途中、斎藤又兵衛に呼びとめられた。それまでつきあいもなく、もちろん口をきいたこともなかったが、顔だけは知っていたので、又兵衛だということはすぐにわかった。 ﹁知っています﹂相手がなのるのを聞いてから、隼人は云った、﹁なにか用ですか﹂ 隼人の眼には、両親のない乳ち呑のみ子を見るような、やさしく深い色が湛たたえられた。 ﹁歩きながら話しましょう﹂と斎藤は云った、﹁北の馬場までいってくれませんか﹂ ﹁いや﹂と隼人は穏やかに拒んだ、﹁私は帰って甥の勉強をみなければなりません、話があるならここで聞きましょう﹂ ﹁歩いて下さい﹂と斎藤が云った、﹁――じつは貴あな方たが訪ねていらっしゃるだろうと思って、待っていたのです﹂ 隼人は歩いてゆきながら、正面を見たまま﹁どうして﹂と反問した。 ﹁あのはたしあいのことで﹂と斎藤が口ごもりながら云った、﹁私になにか訊きたいことがあるのじゃあありませんか﹂ 隼人は三歩ほど歩いてから云った、﹁あの事ははっきり始末がついていると聞きました、そうではなかったんですか﹂ ﹁それはそうですが、しかし、――﹂斎藤はおちつかないようすで、咳せきをした、﹁そうすると貴方は、あのはたしあいについて疑念を持ってはいないんですね﹂ 隼人は振向いて相手を見た。その眼はやはりやさしそうな深い色を湛えていた。 ﹁疑念を残すようなことがあったのですか﹂と隼人が訊き返した。 ﹁いや、そうではない、そういう意味ではありませんが﹂と斎藤は唇をひき緊め、それから続けた、﹁私は立会い人でしたから、その責任の上からも、あのときのようすをはっきり話しておきたいと思ったのです﹂ ﹁それは与田老職に話されたのでしょう﹂ ﹁そうです﹂斎藤の額に汗がにじみ出た、﹁仔細を申上げたうえ、北の馬場へいって実地の検視もしてもらいました、そうそう、そのときは小池さんも同道されたのです﹂ ﹁それでもまだ、なにか話したいことがあるんですか﹂ ﹁いや、そうではありません、私はただ﹂斎藤の額から汗がしたたり落ちた、﹁もしかして貴方が、なにか疑念を持っているのではないかと思ったのです、それでいちど貴方にも、その場のようすを話しておきたかったものですから﹂ ﹁わかりました﹂と隼人は云った、﹁――用はそれだけですか﹂ ﹁それだけですが﹂と斎藤は口ごもるように云った、﹁私にも納得のいかないことは、どうしてはたしあいをしなければならなかったかという点です、朝田さんはなにも仰おっしゃらなかったし、西沢も固く口をつぐんでいるものですから﹂ 隼人は黙っていた。まだ斎藤の言葉が続くものと思ったのだろう、しかし斎藤はまた、隼人がなにか云うのを期待するようすで、ごく短いあいだだったが、ばつの悪い沈黙が挾はさまり、斎藤又兵衛の顔にばつの悪そうな表情がうかんだ。 ﹁まだなにかありますか﹂と隼人が訊いた。 ﹁いや、どうぞ﹂と斎藤は慌てて会釈した、﹁お暇をとらせて失礼しました﹂二
日の経つにしたがって、家中の人たちは隼人の性格の変ったことに気づいた。彼の少年時代は短気な暴れ者だったし、二十三歳で剣術道場の助教になってからも、稽古ぶりは烈しく容赦のないやりかたで、本心からその道をまなぼうとする者でない限り、とうていついてゆけるものではなかった。教頭の横よこ淵ぶち十九郎が彼を自分の後任に推し、柳生家で免許を取るように、江戸へゆく段取をつけたのは、腕の修業よりも、性格の陶とう冶やが目的であったらしい。もしそうだとすれば、僅か一年余日でその目的は達せられたといえるし、むしろ予期以上だったということができるだろう。 ――朝田は顔つきまで変った。 家中の人たちはそう評しあうようになった。 道場での稽古ぶりもずっと穏やかになり、上じょ手うずな者よりも下へ手たな者のほうに時間をかけ、手を取って教えるというふうな、入念なやりかたに変った。するとしぜんに、周囲の事情も少しずつ変化が起こり、以前には敬遠していたような人たちまでが、彼に近づいて来はじめ、道場の門人などをいれると五人から十人くらいの者が、毎晩のように隼人の住居へ集まって来た。――酒を飲んで気きえ焔んをあげるとか、剣法について講話をするというわけではない。茶を啜すすり菓子をつまみながら、話したい者は勝手に話すし、聞きたい者は聞いていればいい、議論の始まることもあるし、それが昂こうじて喧けん嘩かになりかかる場合もある。しかし隼人がひと言なにか云うと、それだけで議論にけりがつき、座はまたなごやかな空気に戻る、というぐあいであった。 両親のない乳呑み子を見るような、やわらかな温かみのある隼人の眼を見、口数少なにゆっくりと話す隼人の声を聞き、静かな力感のあふれた隼人の躯を身近くに感じていれば、それでかれらは満足するもののようであった。 年があけて二月になった或る夜、これらの者が帰ったあとに、根岸伊平次という若侍が残った。根岸は二十一歳、道場の門人であるが、家は八百石の老臣格で、すでに家督をし、妻と二歳になる子があった。 ﹁じつはまえからいちどお耳にいれようと思っていたのですが﹂と伊平次は低い声で云った、﹁織部どのと西沢とのはたしあいには不審な点があるのです﹂ 隼人は伏し眼になり、ぐっと顎あごをひき緊めたが、なにも云わなかった。 ﹁検視のときに医師も立会ったのです﹂と伊平次は続けた、﹁堤町の安岡宗そう庵あんですが、その話によると織部どのの傷のうち、心臓を突きぬいた一刀はうしろからやったもので、傷口は背中から胸へ貫いていたというのです﹂ ﹁それで﹂と隼人は眼をあげた、﹁――なにが不審だというのですか﹂ その反問は意外だったのだろう、伊平次はちょっと口ごもった、﹁なにがと云って、真剣勝負にうしろ傷ということがあるでしょうか﹂ ﹁ごく稀まれだろうけれども、絶対にないとは云えないでしょう﹂と隼人が云った、﹁それよりも、あの件は御老臣がたの吟味によって始末がついている、動かない証拠があればともかく、疑わしいという程度の理由で、騒ぎをむし返すようなことは慎んで下さい﹂ ﹁わかりました﹂と伊平次は頷いた、﹁ほかにも不審なことがあるのだが、そういう御意見ならなにも云わないことにします﹂ 若いためにこらえ性がないのだろう、伊平次の顔に不満の色があらわれるのを、隼人は認めた。 ﹁丹後さまの騒ぎを覚えていますか﹂と隼人は静かな口ぶりで訊いた、﹁――あのとき萱かや野の大学どのが詰腹を切らされ、貴方のお父上も百日の閉門を仰せつけられたでしょう﹂ ﹁ええ知っています﹂ 八年まえ、藩主和いず泉みの守かみ信容の叔父に当る丹後信のぶ温やすという人が、江戸家老と組んで藩の政治を紊みだし、危うく幕府の譴けん責せきをかいそうになった。そのとき信温らに対抗しようとした人たちのうち国家老の萱野大学は詰腹を切らされ、ほかに五人の重職が罷ひめ免んされたり罰せられたりした。三年のち、丹後が軽い卒中で倒れたのを機会に、事があらわれて丹後は隠居、処罰された人々は無実の罪であることが明白になって、それぞれ旧禄を恢かい復ふくされたうえ、和泉守から慰労の沙汰があった。同時に、信温に荷担した老臣二人と重職三人には、切腹、追放、重謹慎などの罪が科されたが、中にはそれを不服として、﹁幕府老中へ訴える﹂などと云う者があり、それははたされなかったけれども、家中にはかなりのちまで、不穏な空気が残っていた。 ﹁事があらわれて丹後さま一味は処罰され、一味によって無実の罪に問われた人々は元の身分を恢復しました、しかし、詰腹を切らされた萱野大学どのを生き返らせることはできないでしょう﹂と隼人は云った、﹁――人間のしたことは、善悪にかかわらずたいていいつかはあらわれるものです、ながい眼で見ていると、世の中のことはふしぎなくらい公平に配分が保たれてゆくようです﹂ 話してくれた好意には感謝するが、決闘のことは忘れてもらいたい。隼人はそう云って、なだめるように伊平次を見た。伊平次は納得して帰っていった。 その月の下旬に、小池帯刀が訪ねて来た。五人ばかり若侍たちが集まっていたが、帯刀はかれらに向って、要談があるから帰ってくれと云い、若侍たちはすぐに立ちあがった。帯刀はきつい表情になっていて、二人だけになってもすぐには話をきりださなかった。隼人はなにも感じないように、黙ったまま帯刀のために茶を注つぎ、相手が話しだすのを黙って待っていた。 ﹁いつかの約束を覚えているか﹂とやがて帯刀が口をきった、﹁織部どのと西沢との事は始末がついた、なにも詮せん索さくはしないと約束した筈だ﹂ ﹁詮索などという言葉はなかったようだが、約束したことは覚えている﹂ ﹁それなら約束は守ってもらいたいな﹂ ﹁これ以上にか﹂ ﹁山の木戸を調べさせているのはどういうわけだ﹂と帯刀が云った、﹁おれは柳田重太夫から聞いた、十二月以来、手をまわして木戸のことを調べているそうではないか﹂ ﹁調べているのは流人村だ﹂ ﹁あの部落は木戸の支配だし、木戸には西沢半四郎がいる﹂ 隼人はやわらかに咳をして、それから云った、﹁おれはずっと昔から流人村に興味を持っていた、あの部落がちくしょう谷と呼ばれること、住民たちが農耕を知らず、文盲でけもののような生活をしていること、いまでも木戸の番士によって、罪人同様に監視されていることなど、――どこまでが事実かは知らないが、古い物語でも聞くように、半ば哀れで半ば恐ろしいような印象が残っている﹂ こんど江戸へいっているあいだに、その部落のことを思いだした。帰国したらぜひいちど調べてみようと考え、他藩にそういうことがあるかどうか、手てづ蔓るを求めて捜してみたところ、二三の藩で似たような例のあること、また現在それがどう扱われているかということもわかった。 ﹁この藩では約三十年まえから、流人村へは流人を送っていない﹂と隼人は続けた、﹁とすれば、現在そこに住んでいるのは罪人ではなく、その子か子孫ということになる、それらがいまだに流人村にとじこめられて、けもののような生活をしているとすれば、それが事実だとすれば捨ててはおけないだろう﹂ ﹁そのことはおれも知らない﹂帯刀は疑いを解いたように肩をゆすり、﹁――だがそれは﹂と念を押すように云った、﹁本当に西沢とは関係がないのだろうな﹂ ﹁みていればわかる﹂と云って隼人は微笑した、﹁彼とはまったく関係のないことだよ﹂ 帯刀は義弟の顔をみつめた。それから頷いて、きいに酒の支度をさせてあるから、久しぶりに一杯つきあわないか、と云った。隼人は﹁そうだな﹂と口ごもった。気のすすまないようすだったが、それでも帯刀が立つと、いっしょに立ちあがって、母屋のほうへいった。――焼いた干物になます、菜の浸し物に野菜の甘うま煮に、椀は落し卵の吸物に、凍豆腐の味噌汁というつつましいものであったが、給仕に坐ったきいは薄化粧をしていた。隼人は盃さかずきに二つか三つしか飲まなかった。酒には強いほうなので、きいが幾たびかすすめたが、薄化粧をしたあによめの姿が眩まぶしいとでもいうように、隼人は眼をそらしながら穏やかに辞退した。――帯刀は少し酔うと高ごえになる癖があり、その声を聞きつけたのだろう、小一郎が寝ねま衣きのまま起きて来、襖ふすまをあけて覗のぞいた。 ﹁やあい﹂と小一郎は云った、﹁小池の伯父さんが酔っぱらってらあ﹂ きいが驚いて振返り、﹁小一郎さん﹂と叱ろうとしたが、帯刀はいい機嫌で、あぐらをかきながら手招きをした。 ﹁起きていたのか坊主﹂帯刀はあぐらに坐った膝ひざを叩いた、﹁こっちへ来い、抱いてやるぞ﹂ きいが制止するより早く、小一郎はとんで来て、帯刀の膝へ腰をおろし、すばやい眼つきで隼人の顔を見た。きいも同じように隼人を見、隼人は﹁いいよ﹂というふうに頷いてみせた。すると、小一郎は急に帯刀の膝から立ちあがり、伯父さんは酒臭いからいやだと云って、隼人の膝へ跨またがった。 ﹁小一郎さん﹂ときいが睨にらんだ。 ﹁叱るな﹂と帯刀が云った、﹁たまには男の膝が欲しくなるだろう﹂そして、抱かれた小一郎と抱いている隼人を眺めながら、涙ぐんだような眼になり、満足そうに頷いた、﹁うん、よし、これで酒がうまくなった﹂三
三月はじめに山の木戸から使いがあって、木戸番頭の生田伝九郎が変死した、ということを告げた。御用林を見廻りに出た途中、雪解の崖がけ道みちから落ちて即死した。死躰は山で荼だ毘びにしておろすから、遺族を山へ同行したい、ということであった。隼人はこれを聞くとすぐに、早の飛脚を江戸屋敷へやった。 木戸の番頭が死んだので、その後任を選ぶことになり、重職のあいだで人選が始まった。それはちょっとした難題であった。山の木戸詰に仰せつけられるのは、不行跡とか職務上の失策などのあった者で、明らかに﹁左遷﹂の意味が含まれていた。そういう該当者のない場合には、重職で人を選むのであるが、木戸詰は島流しも同様のひどい生活であり、ほかにも悪い条件が多いため、選ばれる者よりも、却かえって選ぶ人たちのほうが当惑するくらいであった。 三月十七日に、江戸から隼人への返書があった。彼はそれを読むとすぐに、教頭の横淵十九郎を訪ねて自分の望みをうちあけた。横淵はおどろいたようすで、隼人の顔を暫く見まもっていたが、やがて、任期が終ったら道場へ戻るか、と訊き、隼人がそのつもりだと答えると、ではそうするがよいと承諾した。――老臣に達しのあったのは十九日で、その日の午後、明日登城するように、と重職から使いがあり、家へ帰ると小池帯刀が待っていた。彼は怒ったような顔つきで、向うへゆこうと云い、すぐに隼人の住居のほうへいった。 ﹁あした城中へ呼ばれるが﹂と帯刀は坐るのももどかしげに云った、﹁どういうお沙汰があるかわかっているか﹂ 隼人はうんといった。 ﹁辞退するだろうな﹂と帯刀が訊いた。 隼人は首を振った。 ﹁辞退しない﹂と帯刀が云った、﹁お沙汰は山の木戸の番頭だぞ﹂ ﹁おれが殿に願い出たんだ﹂ 帯刀は口笛でも吹くように口をすぼめ、それをぐっと一文字にしながら、尖とがった眼つきで隼人を睨んだ。 ﹁めあては西沢だな﹂ ﹁いや﹂と隼人は首を振った。 ﹁改めて云うが、番頭は辞退してくれ﹂と帯刀が云った、﹁朝田家はお咎とがめを受けているが、押して道場の助教に採用してもらった、その義理を考えても、いまの席をはなれることはできない筈だぞ﹂ ﹁横淵先生からはもう許しが得てある﹂ 帯刀は息を詰め、それから云った、﹁おれをだしぬいたわけか﹂ ﹁云えば反対しただろう﹂隼人はゆっくりと云った、﹁しかしおれが木戸へゆくのは西沢のためではない、どうか同じことを何度も約束させないでくれ﹂ ﹁理由も云わずにか﹂ ﹁まえにちょっと話したが、流人村をなんとかしたいのだ﹂ ﹁なんとかするとは﹂ ﹁いってみなければわからない﹂隼人は左の手で右の肩を揉もみながら云った、﹁これまで調べたところでは、あの部落のことはまるで投げやりになっている、記録は七年まえのものが最後で、そのときの住民は二十七家族で七十四人、男三十八人、女三十六人となっていた、ところが、それさえも十年まえの記録と同一で、実際の調べとは思えないんだ﹂ ﹁あの部落の話は聞きたくないね、胸が悪くなる﹂ ﹁そうらしいな﹂と少し皮肉な口ぶりで隼人は云った、﹁みんなそうらしい﹂ ﹁本当にちくしょう谷のことなんかで山へゆくのだとすると、云っておかなければならないと思うが﹂帯刀はちょっと云いよどんだ、﹁――これはじつはほかにすすめる人があるんだが、隼人にきいといっしょになってもらってはどうか、という話があるんだ﹂ 隼人は自分の手をうち返し眺めていた。 ﹁もちろんいそぎはしない﹂帯刀はまた怒ったような調子になった、﹁隼人は小一郎が十五歳になるまで結婚はしないと云ったそうだ、本心からそうするつもりかもしれないが、それは不自然でもあるし無理なことだ、またきいのほうも二十六歳で、これはむろんよそへ再婚するというわけにはいかない、――なにを笑うんだ﹂ ﹁笑やあしない﹂隼人は静かに眼をあげた、﹁いずれその話は出るだろうと思っていた、世間ではよくそんなふうに纒まとまるようだからな、ああ、考えておくよ﹂ ﹁あれが嫌いなら話はべつだぞ﹂ ﹁嫌いなことはない﹂と隼人は答えた、﹁小さいじぶんからよく知っているし、兄と婚約がきまったときはがっかりしたくらいだ、――しかし、まあいい、考えておくよ﹂ その翌日、隼人は登城して家老に会い、江戸から使者があったこと、彼に木戸の番頭を命ずるという沙汰であること、などを告げられた。家老の樋ひぐ口ち門左衛門がそれを伝え、隼人はお受けをした。そこには年寄役の林兵右衛門、中立庄しょ太うだ夫ゆう、また中老の与田滝三郎らが列席してい、与田が隼人に質問した。 ﹁そのほうは自分からこの役を願い出たということだが、それは事実か﹂ 隼人は事実であると答えた。 ﹁仰せつけられる役目に差別があってはならないが﹂と与田は云った、﹁この役だけは誰にも嫌われている、この役が嫌われていることはそのほうも知っているであろう﹂ 隼人は顔をあげて訊き返した、﹁そのお沙汰には、流人村についてなにか、御指示があると存じますが﹂ ﹁私の問いに答えてくれ﹂ ﹁それが私の答えです﹂と隼人は云った、﹁それとも御指示はございませんか﹂ ﹁流人村の件について﹂と家老の樋口が云った、﹁そのほうの望みをかなえてやれ、という意味のことが書き添えてある﹂ 隼人はそこで、小池帯刀に云ったとおりのことを語った。その土地へいって、実際の状態を調べたうえで、改廃すべきことがあったらやってみたい。いずれにしても、このまま放置されていてよい問題ではないと思う、と云った。老職たちは低い声で、二三のことを相談しあったのち、こんども与田滝三郎が隼人に云った。 ﹁木戸には西沢半四郎がいる﹂与田はさぐるような眼で隼人をみつめた、﹁この役目を願い出た本心が、まことにいま申したとおりであるか、それとも、西沢のいるためであるかどうか、その点についてわれわれには疑念があるのだ﹂ 隼人は黙っていた。かれらが疑念を持ったとしても、こちらの責任ではない、といったような顔つきであった。 ﹁そのほうはどう思う﹂と与田が訊いた。 ﹁私の所存は申上げたとおりです﹂と隼人は答えた、﹁ほかに申上げることはございません﹂ 与田は家老を見た。 ﹁では、――﹂と樋口が云った、﹁両三日うちに沙汰をしよう﹂ そして、三月二十二日に再び城へ呼ばれ、正式に木戸番頭に仰せつけられた。隼人は二十五日の早朝、新たに雇った儀平という小者を供に、城下町を出立した。木戸から迎えに来た二人の足軽が案内で、雨妻川の流れに付いたり離れたりしながら、しだいに嶮けわしくなる山道を、北西に向って登っていった。 木戸のあるのは大仏岳の頂上ちかい岩場だった。麓ふもとからは約五里のみちのりであるが、断だん崖がいの中腹に危うくしがみついているようなその道は、登り降りが多く、狭くて勾こう配ばいが急で、馬を通すこともできなかった。また五カ所に桟道があって、そこを﹁難所﹂と呼んでいるが、これは崖の岩に穴を穿うがち、それへ丸太の支柱を入れた上に、厚い松材の板を渡したもので、百尺あまり下には、雨妻川の上流に当る大仏川の渓流が、大きな岩をめぐって白い飛しぶ沫きをあげているのが見える。――このかけはしは一度に一人しか渡ることができず、馴れた者でも下を見ると眼が昏くらむと云われていた。隼人たちは、第一の桟道にかかるところで弁当をつかい、それからは桟道ごとに休みながら登ったが、木戸へ着いたときはすっかり日が暮れていた。 ﹁たいそうな御健脚です﹂案内の一人が隼人に云った、﹁私ども馴れている者でも、十時より早く登った者はございません、失礼ですがお疲れのごようすもみえませんな﹂ ﹁いや疲れたよ﹂と隼人が云った、﹁――御苦労だが先さき触ぶれにいってくれ﹂ 足軽の一人は木戸のほうへ走っていった。 木戸は太い杉丸太の柵さくで囲まれ、黒木の冠かぶ木きも門んがある。岩を削った踏段を登り、門をはいってゆくと、番所の玄関前に、番士たちが並んでいた。玄関柱の左右に藩家の定紋を印した、高たか張はり提ぢょ灯うちんが明るい光りを投げてい、並んでいる番士の両端に、足軽たちが四人ずつ、おのおの提灯を持ってつくばっていた。――隼人はかれらの前で立停り、一人一人をゆっくりと眺めてから、しっかりした声で静かに云った。 ﹁私はこんど木戸番頭に仰せつけられて来た﹂そこで彼は一と呼吸してからなのった、﹁――朝田隼人という者です、これから御一同の御助力を頼んでおきます﹂ 番士たちのあいだに、ほんの一瞬ではあるが、かすかな動揺の起こるのが認められた。しかしすぐに、一人の男が一歩前へ進み出た。 ﹁岡村七郎兵衛です﹂と云って彼は歯をみせた、﹁お忘れですか﹂ 隼人はほうといったが、彼の問いには答えずに、次の番士へ眼をやった。次の者は小野大九郎、また乾いぬい藤吉郎、松木久之助、そして最後の一人が西沢半四郎となのった。 隼人はそこで初めの一人に振返り、﹁久しぶりだな岡村﹂と云った、﹁おまえのことはふしぎに忘れていた、はあ、こんなところへ来ていたのか﹂四
ぎあまんのように冷たく、澄み透とおった山の空気が、きびしく五躰にしみとおり、あらゆる筋肉をこころよく緊張させた。東の空の低い棚たな雲ぐものふちが、橙だいだい色を帯びた金こん色じきに光り、その反映で、大仏岳の頂上の岩肌がほの明るく浮き彫りになった。頂上の北側に、如にょ来らいノ峰というのがそびえている。頂上より六七十尺も高く、瘤こぶのように突き出ている岩塊であるが、そちらは北風が吹きつけるのと日ひか蔭げの部分が多いために、まだかなり雪が残っていた。 いま隼人の立っているところは、大仏岳の頂上を一段ばかり北西へおりた庇ひさ岩しいわの上で、そこが国境であり、また隣藩との境でもあった。向うはまだ暗く、岩地の急斜面は白くて濃い雲の中へおりてゆくが、その白い雲のほかにはなにも眼につく物はなかった。――この山を越して隣りの領地へぬけるには、﹁木戸﹂のあるその鞍あん部ぶしかない。戦国末期まではそこに砦とりでがあったというが、木戸が造られてからでも百五十年以上は経っている。山越えをするには唯一の地形なので、ひそかに物資を移出入する者や、逃亡する罪人や、また御用林を盗伐に来る者などがあり、現在でもなかなかゆだんはできなかった。 棚雲をぬいて陽ひが昇り、岩の斜面が眩しく光った。隼人は戻って、木戸へさがる道とは反対のほうへ曲ると、突然、そこの岩蔭から人が出て来、危うくぶつかりそうになった。しかし相手は、隼人の来ることを期待していたらしく、一と足さがりながら礼をした。 ﹁西沢です﹂と彼は云った、﹁西沢半四郎です、ちょっと話したいことがあるのですが﹂ 隼人は相手を見た。枯木か石ころでも見るような、感情の少しもない平静な眼つきであった。 ﹁御用のことなら聞きましょう﹂と隼人は云った、﹁だが、御用以外のことは断わります﹂ ﹁そうでもありましょうが、織部どのとのはたしあいについて、一言ごんだけ聞いて頂きたいのです﹂ ﹁それは済んだことです﹂ ﹁お願いです、どうか一と言ことだけ聞いて下さい﹂ ﹁いや﹂と隼人は穏やかに遮さえぎった、﹁御用以外の話は断わります﹂ そしてゆっくりと歩きだした。 木戸と反対のほうへゆくその道は、岩をめぐって段さがりに左へくだり、やがて流人村の上部へと出る。まえの日に、隼人はいちど案内されて来たから、迷うことはないと思ったが、或る曲り角のところで、うしろから﹁その道は違います﹂と呼びかけられた。振返ってみると岡村七郎兵衛で、彼は大おお股またに近よって来た。 ﹁闇夜のつぶて、ゆだん大敵﹂岡村はとぼけた笑顔でこう云った、﹁外出するときには供を伴つれないといけませんね、山は危険です、いつどこからなにが出て来るかわかりませんよ﹂ ﹁悪七兵衛などといわれたくせに﹂と隼人が云った、﹁案外おまえも苦労性なんだな﹂ 隼人の眼はまた、ふた親のない乳児を見るような、温かくやさしい色を湛えた。 ﹁あの綽あだ名なを御存じなんですか﹂ ﹁おまえはおれの教え子だぞ﹂ ﹁年は三つしか違いませんよ﹂ ﹁腕だってそう違いはなかったさ﹂と隼人は云った、﹁流人村へゆくんだが﹂ ﹁こっちです﹂と岡村が手を振った。 藩校の道場で、隼人は岡村に稽古をつけた。手筋はかなりよく、上達も早かったが、力が強いうえに乱暴者で、人と喧嘩が絶えなかった。隼人が江戸へゆくちょっとまえに、道場で二人を相手に喧嘩をし、一人の腕を折ったため、横淵教頭から破門された。 ﹁もう破門も許されるころじゃないか﹂と歩きながら隼人が訊いた、﹁あれからまたなにかやったのか﹂ ﹁そんなところです﹂岡村はそう云って、隼人に振返った、﹁――朝田さんがここへ来たのは、到着された晩に話したことが本当の目的なんですか﹂ ﹁岡村はいつ来たんだ﹂ ﹁話をそらしますね﹂ ﹁番はいつあくんだ﹂ ﹁番は一年ですから﹂と岡村が答えた、﹁この八月には城下へ帰ります、しかし、望めば延期することもできますよ﹂ 暫く歩いてから、﹁断わっておくが﹂と隼人が低い声で云った、﹁これからはつまらない疑いや臆測で、人の動作を見張るようなことはしないでくれ、――わかるだろう﹂ ﹁こっちへおりるんです﹂と岡村が云った。 岩を削った急な踏段をおりると、すぐ向うに流人村の部落が見えた。 断きり崖ぎしと断崖とに三方を囲まれ、東のほうへ段さがりに低くなる端が、そのまままた断崖に続いていた。ひとくちに云うと、屏びょ風うぶで三方を囲まれた雛ひな段だんのような地形で、石を組みあげた台地が斜面に段をなしており、若木の檜ひのきや杉の疎林のあいだに、住民たちの家がちらばって見えた。――昨日はそこから引返したのであるが、隼人は暫く眺めていたのち、岩のごつごつした、狭い、不規則な電光形になっている道を、ゆっくりとおりていった。うしろから岡村七郎兵衛が、部落までゆくのかと訊いた。そのつもりだ、と隼人は答えた。 ﹁ちょっと待って下さい、それは考えものですよ﹂ ﹁ひと廻りするだけだ﹂ ﹁貴方はまだ御存じないでしょうが、部落の中には桁けた外はずれな人間がいます﹂と岡村が云った、﹁生田さんが崖から落ちたのもあやまちではなく、権八に突き落されたのだ、などという話さえあるくらいです﹂ ﹁根拠のある話か﹂ ﹁おそらくあやまって落ちたのでしょう、供を五人伴れていましたが、五人とも生田さんが足を踏み滑らせて落ちるのを見たということです、もっとも、そこは七曲りといって、断崖の中腹を削った狭い道が幾曲りもしているし、生田さんと供の者たちとははなれていたようすなので、落ちるのを、本当に見たかどうかはわからないんですが﹂と云って岡村は肩をゆりあげた、﹁――死躰をあげにいったとき、崖の上から覗きこんでいた者があり、それが権八だったということで、そういう噂うわさが出たのだろうと思います﹂ 隼人は立停って岡村を見た、﹁権八にそんなことをする理由でもあるのか﹂ ﹁特にこれという理由はないでしょうが、権八に限らず、部落の人間はみな木戸の者を憎んでいますからね﹂ ﹁どうして﹂ ﹁どうしてですって﹂岡村は吃どもり、また肩をゆりあげた、﹁――だってその、囚人が牢ろう守もりを憎むのは当然じゃありませんか﹂ 隼人はなにか云いかけたが、口をつぐんでまた歩きだした。道をくだりきったところに、平らな石を積んだ道標のようなものと、すっかり朽ちてしまった杭くいのようなものがあった。岡村七郎兵衛はそれを指さして、昔はそこに流人村という標しるしの石が立ててあり、柵がまわしてあったのだ、と説明した。 ﹁どうしても中へはいるんですか﹂ ﹁そのために来たんだ﹂ ﹁よろしい、では正内老人のところへ寄りましょう、老人がいっしょならまず安全です﹂ それはどういう人間か、隼人はそう訊こうとしたが、口には出さなかった。標の石のあるところは、部落の最上部であった。石で組みあげた台地は五段になってい、一段に五棟から七棟の家があった。――ちょうどそのとき、部落を越した向うの断崖の上部を、朝の日光が赤く染めだし、その赤い色のしだいにひろがってゆくのが眺められた。部落のあたりはまだうす暗く、青白い炊かしぎの煙が、上からなにかで押えられでもするように、五段の条すじをなして横にたなびき、たなびいたまま動かずにいた。 急な踏段を曲りながらおりてゆくと、どこかでするどい女の悲鳴が聞えた。隼人が立停り、岡村も足を停めた。悲鳴はまをおいて聞えて来た。つんざくような、するどい、けものめいた叫び声で、隼人は﹁生皮を剥はぐ﹂という昔の刑罰を思いだした。 ﹁いや、よしましょう﹂と岡村が云った、﹁かれらにはかれらだけの習慣があります、木戸の掟おきてもかれらの習慣まで支配はできません﹂ ﹁おまえに来いとは云わない﹂ 隼人はそう云って歩きだした。 ﹁私は正内老人を呼んでゆきます﹂と岡村が云った、﹁軽はずみなことはしないで下さい﹂ 岡村は左のほうへ走っていった。 隼人は声のするほうへいそいだ。丈の低い檜の疎林があり、その蔭に一棟の家があった。棟が低く、萱かや葺ぶきの朽ちかかったような屋根に手が届くくらいであった。 こういう家を三棟まで見、やがて十字の辻つじに出た。台地の中央を縦に通じているらしい、そこで女の悲鳴がまぢかに聞えた。隼人は右へ曲り、踏段を駆けあがった。――登りきったところは、百坪ばかりのなにもない空地で、隅のほうに枯れた杉の木があり、その枝に裸の女が吊つるされていた。 杉の枯木のこちらに、男や女が七八人立ち並び、一人の逞たくましい男が諸もろ肌はだぬぎになって、革かわ鞭むちのような物で裸の女を打っていた。――まばゆいほど白く、きめのこまかな女の肌に、鞭の痕あとが赤く幾筋となく印され、中には皮膚が裂けて、血の滲にじんでいるのが見えた。手首を縛って吊されている女は、打たれるたびに悲鳴をあげ、躯を左右へ振ったり、吊された繩を中心にぐらっと廻ったりした。豊かな乳ちぶ房さや、まろやかに張りきった腹部が激しく波を打って揺れ、解けた髪の毛が生き物のように、女の顔を包んだり、ばらばらに振り乱されたりした。 ﹁よせ﹂と隼人は静かに呼びかけた、﹁――無法なことをするな﹂五
そこにいる男女がこっちへ振返った。どれが男でどれが女か、若いのか年をとっているのか、殆んど見分けがつかなかった。見分けをつけている暇もなく、女を鞭打っていた半裸の男が、ゆっくりとこっちへ歩みよって来た。背丈は五尺三寸そこそこであるが、肩幅が不自然なほど広く、黒い胸毛に掩おおわれた胸は、筋肉が瘤のように盛上っていた。額の狭いうしろにのめった頭には、赤茶けた髪の毛が密生してい、また頬へかけて、同じ色の髯ひげが隙もなく伸びているあいだに、きみの悪いくらい赤く厚い唇と、大きな、黄色い歯の剥むき出されるのが見えた。 ﹁どんな罪があるか知らない﹂と隼人はなお静かに云った、﹁だが、かよわい女にそんなむごい仕置をしてはならぬ、おれはこんど来た木戸番頭で、朝田隼人という者だ﹂ 男はまっすぐにこっちへ来た。隼人はべつに危険も感じず、そこに並んでいる男女のほうへ、さらに呼びかけようとしながら、大股に近よって来る男のまったく無表情な顔を見、岡村七郎兵衛の注意を思いだした。 ――軽率なことはしないで下さい。 隼人は脇わきへ除よけようとした。そこへ男がとびかかって来、些いささかの躊ちゅ躇うちょもなく、拳こぶしを振って隼人の顔を殴った。そんなことをされようとは予想もしなかったし、男の動作は驚くほど敏びん捷しょうで、しかもちから強く、断だん乎ことしたものであった。左の頬骨を殴られたと思うと、右の頬を殴られ、隼人は眼の中で電光がはしるのを見た。立ち直る暇もなく、むろん躰をかわす暇もない。初めの拳で頭の芯しんが痺しびれ、よろめきながら、腹とうしろ頸くびに烈しい打撃を感じ、倒れたときに、後頭部が岩に当る鈍い音を聞いた。 ぼんやりと、遠くで人の話すのを聞きながら、隼人はながいあいだうとうとしていた。子供のころ眠っていて、隣り座敷で父と客とが話してい、夢うつつにその話し声を聞いている、というような感じがした。 ﹁こっちから二番めです﹂と一人の声が云っていた、﹁あのかけはしは架かけ直さなければいけません、支えの木が腐っていますよ﹂ ﹁あたまのごんぜよ﹂と暫くして女の声が云った、ちょっとしゃがれぎみの、穏やかなまるい声であった、﹁鹿ですよ、めすとおすと二頭ですって﹂ ほかにもわけのわからない会話を幾たびか聞いた。そうしてやがて、割れるような頭の痛みで隼人は眼をさました。うす暗い行燈の光りで、低い天床が見え、すぐ近くで焚たき木ぎのはぜる音が聞えた。 ﹁気がつかれたようだ﹂と云う声がした。 すると岡村七郎兵衛の顔が、上から隼人を覗きこんだ。岡村は微笑した。 ﹁どうですか﹂と岡村が云った、﹁まだ痛みますか﹂ 隼人は唇を舐なめた。躯じゅうが冰こおるように寒く、喉のどが耐えがたいほど渇いていた。 ﹁ここはどこだ﹂と隼人が訊いた。 ﹁正内老人の住居です﹂ 隼人はその名を口の中で呟つぶやき、そして初めて、あった事を思いだしたように頷いたが、そんな僅かな動作さえ、頭の中にするどい痛みが起こり、彼は眉をしかめた。﹁飲むものが欲しい﹂と隼人は云った、﹁それから、木戸へ戻ろう﹂ ﹁それは無理です﹂と脇のほうで誰かが云った、﹁頭をひどく打っておられるし、熱もまだ高いようです、いま動かれてはお躯に悪うございましょう﹂ 岡村七郎兵衛が﹁薬湯です﹂と云った。隼人は注意ぶかく半身を起こして、湯呑の中のものを啜った。うす甘く辛味があって、いやな匂いが鼻をついた。頭の中にもう一つ痛む頭があるような感じがし、骨という骨がずきずきした。どうやら動けそうもないな、隼人はそう思って、またゆっくりと横になった。 ﹁あの女はどうした、岡村﹂と隼人は頭にひびかないように、かげんをしながら訊いた、﹁あの女はどうして打たれていたんだ﹂ 岡村ではなく、べつの声が答えた。 ﹁男の知れぬ子をみごもったのです﹂とその声が云った、﹁ぶろうという者の娘で、名はいち、年は二十になります、生れつき知恵のおそいうえに唖お者しですが、相手が誰かということはわかっていて、どうしてもそれを告げようとしないのです﹂ ここは流人村であり、昔から住民は厳しい掟にしばられていた。その一に﹁密通﹂の禁があって、それを犯した者は死ぬまでの笞ちけ刑いに処された。罪人の子孫を殖やさないため、特に重刑を科したらしい。ずっと昔に幾たびか実例があり、女のほうは打ち殺されたが、男はみな逃げたということである。 ﹁六十年ほどまえ、旅の行者の狐騒動ということがあって、住民の半分ちかくが死にました﹂と語り手は続けた、﹁それから密通の禁もゆるやかになり、いまでは木戸の監視も殆んど解かれたようなかたちですが、――権八はあの娘と夫婦になるつもりでいたものですから、昔の掟を盾たてに取って、あのような無態なことをやったのでございます﹂ 隼人は静かに声のするほうを見た。炉ろば端たに一人の老人が坐り、長い金かな火ひば箸しで炉の火のぐあいを直していた。年は七十ちかいだろうか、逞しい躯と、顎あごの張った長い顔に、一種の威厳が感じられた。髪の毛は灰色であるが、眉毛は黒ぐろと太く、口くち許もとにも壮者のような力があった。それが正内老人であった。 ﹁権八というのは、殴っていた男か﹂と隼人が訊いた。 老人はゆっくりと頷うなずいた、﹁水牢につないでおきました﹂ ﹁水牢だって﹂ ﹁いや、昔の水牢でして﹂と老人は炉の火をみつめたままで云った、﹁――岩を掘った穴の上へ造った牢です、昔は罪人を鎖でつなぎ、腰まで浸るように水を引いたものだそうですが、いまでは樋といもありませんし、牢の中はよく乾いております﹂ 放してやれ、と隼人は云おうとして、それを云う気力もなく眼をつむった。 それからまる三日、彼は高熱に悩まされながら、半睡半はん醒せいの時をすごした。岡村七郎兵衛はずっと付いていたし、木戸からも幾人かみまいに来たが、隼人は正内老人と、看病してくれるあやという娘に興味をひかれた。あやの年は十七歳、いつも水で洗ったばかりのような爽さわやかな顔つきで、眉と眼が際立って美しかった。正内老人のところへ読み書きの稽古にくるそうで、﹁今日まで続いたのはこの娘ただ一人です﹂と老人は云っていた。――あとから考えると、権八に襲われ、老人の世話になったことは、彼にとっては極きわめて幸いであり、七日めに木戸へ戻るまでには、その部落に伝わっている故事のかずかずを聞き、住民たちにもかなり会うことができた。このあいだにほぼ察せられたのであるが、﹁住民たちがけもののような生活をしている﹂という評が、かなり事実に近いこと、また、かれらが正内老人を心から尊敬し、頼りにしていることなどであった。 隼人はいちど、自分が番頭になって来た目的を、正内老人に話してみた。そのとき老人は暫くのあいだ、炉端から黙って隼人を見ていた。 ﹁私はまえから、貴方の眼に気がついていました﹂と老人はやがて云った、﹁それで、こんなことをうかがうのですが、西沢半四郎という番士の方がおられるそうですね﹂ 隼人は頷いた。 ﹁その方のことはどうなのですか﹂ ﹁なにか聞いたとすれば﹂と隼人は重い物でも持ちあげるように答えた、﹁それはただ、想像から出た噂にすぎない﹂ ﹁ここでは噂は早く伝わります﹂と云って老人は隼人を見まもった、﹁――私は貴方の眼を見て、貴方が噂されるようなことをする人ではない、と思っていました﹂ それから老人は調子を変えて、隼人の考えていることは徒労に終るだろう、と云った。ずっと以前にも、ここの住民を解放しよう、という意見が出たし、住民たちにも、山をおりて新しい生活を始めるように、と説得したことがあった。しかしそれは、﹁住民たちによって拒否された﹂という。かれらは流人の子孫だという、抜きがたい先天的なひけめがあり、長い年月、山で孤絶した生活をして来たために、広い世間へ出ることに深い怖おそれを感じていた。 ﹁実際にもそのとおりなのです﹂と老人は云った、﹁男は十七八になると、たいてい山をおりてゆきます、――これをここでは、ぬける、といっておりますが、おりていった者は消息不明になるか、または生活にやぶれ、年老いて、ただ骨を埋めるためにだけ帰って来る、というようなありさまです﹂ 消息を絶った者の中には、どこかで仕事にとりつき、立派に一家を成した者があるかもしれない。そういう者があったにしても、流人村の出身ということは隠しとおそうとするであろうし、多くは失敗して貧窮に喘あえいでいるか、行倒れて、名も知られずに葬られるか、どちらか一つというふうに考えられていた。 ﹁それは、ここへ帰って来る年寄たちが、証人のようなものです﹂と正内老人が云った、﹁帰って来たかれらは、一年か二年のうちに死んでしまいますが、それだけで、いかに世間の生活が辛くきびしいか、ということを住民たちは感じるようです﹂ 私は貴方の考えを間違っているというのではない、と正内老人は終りに云った。貴方がもし辛抱づよく、本心からそれをやりとげるつもりなら、及ばずながら私も助力をしよう。けれどもここには、その他にも困難な問題が多いので、じっくり腰を据えてやる気構えが必要である。まず、住民たちと親しくなること、それが第一であろう、と老人は云った。 高熱がさがった四日めに、隼人は忘れていたことを思いだし、権八を放してやれと命じた。そのとき側にいたあやが、﹁権八は逃げました﹂と云い、慌てて口を手で押えた。 ﹁申し訳のないことですが﹂と正内老人があやの言葉に続けた、﹁格こう子しろ牢うが古くなっていたのでしょう、おとついの夜押しやぶって、山越しに隣りの領内へ逃げたもようです﹂ 隼人は岡村七郎兵衛を見た。 ﹁むだでした﹂と云って岡村は肩をゆりあげた、﹁追手をかけましたが、足跡もみつからなかったそうです、しかしもう、ここへ帰って来るようなことはないでしょう﹂六
木戸へ帰ってから、隼人は半月ほど躯を休めた。権八の拳にはひじょうな力があったし、倒れるとき岩で後頭部を打ったことも原因であろう、立ち居などの動作を急にすると、激しいめまいがして、倒れそうになる。おそらく頭の中になにか故障があって、それが恢復していないのであろう、そう考えてなるべく安静にしていた。 木戸の建物は三棟あった。役所、長屋、倉、と呼ばれていて、番頭や番士は役所の棟に住み、足軽と小者たちは長屋。そして倉には食糧や諸道具が置いてあった。――役所は表と裏にわかれていた。表には役部屋のほかに吟味所があり、その土間は付属の牢に続いている。そこは木戸の掟に反したり、領境を不法に越えたりする者を監禁するところで、罪の重い者は城下へ送られることになっていた。これらの建物は多く杉の丸太が使われ、柱も太く、二重の板壁も厚板であり、天床も太いがっちりとした梁木がむきだしに見えた。ぜんたいがおそろしく頑丈に造られているのは、冬のきびしい風雪や、寒気を防ぐのが目的で、窓も戸口も狭いうえに小さく、屋内はいつもうす暗く陰気であった。――役所にも長屋にも﹁炉の間﹂というのがある。十二帖じょうほどの広さで、六尺四方の大きな炉が切ってあり、煖だんをとるのも、食事をし茶を飲むのも、すべてそこですることにきめられていた。二十余年まえに、番士の部屋で火の不始末から、危なく火事になりそこねたため、その後は﹁炉の間﹂以外に火を置くことを禁じられたのであった。 隼人は休んでいるあいだに、流人村の記録を詳しく読んだ。同じものは町奉行所にもあるが、それは報告する必要のある件だけで、こちらはその原本であるため、記事は煩はん瑣さなくらい詳細に綴つづられていた。 城下から初めて流人が送り込まれたのは、約百四十年まえのことで、その制が廃止された三十年まえまでに、流罪になって来た者の数は八十七人であった。女囚も五人あったが、このうち一人は病死、他の四人は三年から五年のあいだに、罪を解かれて山をおりていた。また男の罪人のうち、当人の行状がよく、妻子があって希望すれば、村へ呼びよせることが許されてい、百余年のあいだに、そういう例が九回記録してあった。しかしそれらは妻だけの場合で、子供を伴れて来た例は一つもなかった。――村での労役は御用林の作業と、山道の整備とで、農耕は︵高冷地のため殆んど不可能だったが︶許されておらず、食糧は藩から給与されていた。米はなく、麦、稗ひえ、粟あわ、もろこしなどの雑穀に、塩引の鮭さけ、干ひだ鱈ら、煮干、そして乾ほした野菜などであるが、鮭や干鱈はたいてい木戸で取りあげてしまうようであった。 部落の日常生活については記録がない。労役の状態と、年一回の人数しらべと、死者の名と、殺傷、喧嘩、山ぬけなど、あった事件が書いてあるだけで、男女の数の対比も明らかではないし、――というのは、記録は流罪人だけに限られており、妻が許されて良おっ人とといっしょになっても、記録にはのせないからであるが、また子供が幾人生れ、その子がどう育てられるかということも、疾しっ病ぺいに関することも記しるしてはなかった。――さすが年代が下ってからは、家族の数や男女別の人数がしらべてある。だが、それさえも十年以前のしらべが最後で、それから三年、同じ計数が書かれただけで終っていた。 ﹁思ったとおりだ﹂ざっと眼をとおしてから、隼人はそう呟つぶやいた、﹁流罪になって来た者はみな死んでいる、いまいる住民の中には一人の罪人もいない﹂ 部落で生れた子は、みな母親の名しか書いてなかった。父が罪人であるために、そうしたのだと思われるが、母親や娘に同名のものが少なくないため、親子、夫婦、姻いん戚せきのつながりがよくわからず、ぜんたいとして、男女関係の混乱していることが想像された。 ――ちくしょう谷などと呼ばれるのは、そんなことも原因の一つだろうか。 隼人は肩を落した。押しのけようとして手を掛けた岩が、千貫もある巨きょ巌がんだとわかったときのような、重くるしく、やりきれない気分におそわれたのであった。正内老人も、かれらを解放し新しい生活につかせることは﹁困難である﹂と云った。かれらが長い年月にわたって、人間ばなれのした生活をして来たとすれば、人間らしい生活におそれを感じるのは当然であろう。それなら、この部落で人間らしい生活をはじめさせるがいい、と隼人は思った。 ﹁もしもそれが千貫もある巨巌で、人間の力では押しのけることができないとしたら﹂と彼は自分の手を見ながら云った、﹁鑿のみと槌つちとで、端から少しずつ欠いてゆくがいい、そのくらいの辛抱はできる筈じゃないか﹂ 隼人は丹念に記録を読み返した。 彼は流人村の歴史をよくのみこんでおきたかった。かれらに近づくには、かれらの伝統や慣習を知らなければならない。こちらの思案を押しつけるより、かれらを内部から動かすことが、この場合には特に大事であると思った。――まえにも記したように、記録からは得るものは少なかった。密通者を罰したこと。男は十七八になると﹁山ぬけ﹂をする者が多いこと。女はごく稀まれな例を除いて、大部分が部落から動かないこと。そのため男女の比率がしだいに接近し、若い年齢では、男より女の数のほうがはるかに多いこと、などがわかった程度であった。――その中で一つ、約六十年まえの出来事だが、隼人の注意をひく記録があった。正確には五十八年以前の冬のことで、そのとき百二十余人いた住民の、殆んど半数が死んだという、奇怪な記事であった。 ――猛風雪のため、二十日あまり流人村の見廻りができなかった。 こういう書きだしで、見廻りにいってみると、五十四人が死んでおり、それがみな焦げた木の枝で躰たい腔こうを突き刺されているのを発見した。口、肛こう門もん、鼻びこ腔う。女は老若の別なく陰部に、それぞれの太さの焦げた枝が、深く突き刺してあった。また生き残っていた住民の半数以上が狂乱状態で、親が子を、良人が妻を、同じ方法で責めてい、止められる限りは止めたが、それらの中からもさらに四人の死者が出た。――あまりのむごたらしさ、想像を絶するこの残ざん虐ぎゃくさはどうしたことか、気の慥たしかな者を呼び集めて訊きいてみると、﹁弥七の娘に狐が憑ついた﹂ということであった。十日ほどまえに、風雪の中を一人の行者が来て、宿を求めた。骨ばかりのように痩やせた、白髪の眼の大きな老人であったが、弥七の娘が病気で寝ていると聞き、治してやると云って祈きと祷うした。しかしすぐに、この娘には悪い狐が憑いているから、それを追い出さなければならないと云った。そこで松葉いぶしにかけ、近所の者を集めていっしょに呪じゅ文もんを唱えだした。呪文は簡単なもので、みんなすぐに覚えたし、行者のあとについて熱心に唱和した。そのうちに娘が暴れだした、病気のところを松葉いぶしにかけられ、聾ろうするような多勢の呪文を聞かされて逆上したらしい。異様な叫び声をあげながら、家の中を狂いまわった。行者は娘を捕え、手足を押えさせ、﹁この狐は尋常のことでは出てゆかない﹂と云って、炉から燃えている榾ほたを取り、娘の陰部へ突き入れた。それから肛門、口、鼻腔など、――暗い家の中にはいぶした松葉の煙が、炉の火を映して赤く染まり、娘ののたうち痙けい攣れんする五躰や、その号泣する声など、人の唱和する呪文とともに、この世のものとは思えないような、すさまじく、怪異な状態をもりあげていった。 娘はまもなく悶もん絶ぜつした。すると、娘の片方の足を押えていた女が、突然、悲鳴をあげて暴れだした。行者はその女を指さして、﹁狐はこの女に移った﹂と云った。娘が死んだので、娘に憑いていた狐が、その女のほうへ移ったというのである。みんなは行者の云うままにその女を捕え、行者は娘にしたと同じ手段で、その女を責め殺した。――人々はすでにみな、その非現実で怪異な状態にとりつかれてい、その女が悶死するとすぐに、次の者が狂いだした。行者はかれらのあいだを駆けまわり、呪文を唱えながら、狐が誰に移ったかということを指摘し、するとその人間は狂いだし、行者が手を出すまでもなく、かれら自身でその人間を責め殺した。――まるで鼠ねずみ花火に火をつけたように、これが次から次へとひろがってゆき、弥七の家から逃げだした者が、各自の家でまた同じように狂いだし、互いに責め殺すという結果になった。 この記事は秦はた武右衛門という、そのときの木戸の番頭が書いたもので、秦はすぐに行者を捜索させたが、部落にはもちろんいなかったし、どっちへたち去ったか、足跡もみつけられなかった。これまでに、流人村へ外部から人のはいったためしはないし、そのときは特にひどい風雪が続いていて、そうでなくても難所の多い険道を、そんな行者などがどうして登って来たか、またどこからどのようにして去っていったか、すべてが謎なぞのようで、どう解釈していいかまったくわからなかった。 ﹁この話は聞いたことがある﹂読み終ってから隼人は思いだした、﹁そうだ、正内老人が話していたんだ、行者の狐騒動で住民の半分が死んだ、それから密通の禁もゆるやかになった、と云っていたようだ﹂ そして隼人は初めて、いったい正内老人というのはどういう人間だろうか、と不審をもつようになった。あやという娘に読み書きを教えている、という口ぶりや、ぜんたいの人柄に一種の風格が感じられた。――彼は改めて部落の人別帳をしらべてみ、どこにも正内老人の名が記してないことを慥かめた。七
朝田隼人が二度めに部落へいったのは、四月十八日のことであるが、それまでに彼は、木戸の番士と部落の女たちとの、不快な関係について二三の話を聞き、自分でもいちどその事実を見た。話によるとずっと昔からのことであり、代々黙認されて来たのだという。木戸の生活は単調そのもので、これという娯楽もなく、男ばかりが顔をつき合せているため、とかく気持がすさみがちである。また、部落では若い男が少ないし、躾しつけも教育もされず、野放し同様に育っている女たちは、求めて木戸の番士たちに近づこうとする。どちらの側からいっても防ぎようがない、ということであった。 隼人がまだ城下にいてしらべたときにも、その話はおよそわかっていた。だが彼には真実らしく思えなかったし、山へ来てからはすっかり忘れていた。ところが四月十日すぎの或る夜、彼は自分の眼でそれを現実に見たのである。――季節はもう初夏であるが、山の天候は変りやすく、風のない晴れた日でも、夕方からは寒気がきびしくなり、岩肌に薄氷の張ることも稀ではなかった。その夜は珍しく暖かで、そよ風もなく、谷のはるか下のほうから、夜鳥の鳴く声さえ聞えて来た。――夜の十一時ころだろう、ひと眠りして眼のさめた隼人は、どうやら寝そびれたらしく、いつまでも眠れないうえに、肌が汗ばんできたので起きあがり、新しい寝ねま衣きを出して、着替えをした。するとそのとき、戸外で鳥の鳴く声がした。梟ふくろうのような声で、ほっほう、ほっほうと二た声鳴き、ついで、まをおいてまた三声鳴いた。 ――梟がこんなところまで来るのか。 そう思っていると、役所の脇にある通用口で、そっと引戸をあける音がした。引戸は重いので、音を忍ばせるあけかたが、却かえってはっきりと注意をひいた。隼人は立ちあがって、寝衣の上に常着を重ね、なおその上から合かっ羽ぱをはおって部屋を出た。炉の間を覗のぞいたが誰もいない、土間へおりて脇へまわってゆくと、通用口の引戸があいてい、そこから月の光りがさしこんでいた。――彼は静かに外へ出た。かなりまるくなった月が、眩まぶしいほど近く空にかかってい、地面の砂粒まで見えるほど、あたりは明るかった。微動もしない空気は暖かく、ほのかになにかの香が匂った。岩蔭に萠もえ出る若草か、それともひるま陽に暖められた岩が匂うのか、極めてほのかではあるが、それはいかにも季節の変ったことを告げるかのように、深く、胸の奥までしみとおった。 隼人はふっと振返った。倉のほうで、鳩の鳴くような、女の含み笑いが聞えたのである。ついでなにかの物音がし、また同じ含み笑いが聞えた。隼人はそっちへ歩いていった。長屋とは反対側に当る、役所の建物の北側を、裏のほうへまわってゆくと、藁わら小屋の外に人影が見えた。その小屋は倉の脇にあり、繩や蓆むしろや綱などが置いてある。人影は一つに見えたが、それは青白い月光の中で抱きあっており、男と女であることが隼人の眼にわかったとき、二人は抱きあったまま、藁小屋の中へはいっていった。――隼人は静かに近よっていった。小屋の中から、女の含み笑いが聞え、それがひそめた叫び声になり、男の太い喉のど声ごえがなにか云った。隼人は小屋の戸口の脇に立った。 ﹁おれは朝田隼人だ﹂と彼は低い声で呼びかけた、﹁聞えるか﹂ 小屋の中がしんとなった。 ﹁私はどちらの顔も見ていない﹂と彼はまた云った、﹁もちろん誰であるかわからないし、知りたいとも思わない、だが、今後こういうことは固く禁ずる、――二人とも出てゆけ、私はおまえたちを見ない﹂ 隼人は空を見あげた。 小屋の中で物音がし、すぐに人が出て来た。草履をはいているのだろう、足音はしなかったが、荒い呼吸が聞え、それがすばやく、長屋のほうへ去っていった。月を見あげている隼人の顔に、やがて悔恨のような表情がうかび、その眼にはいつものあの、親のない嬰えい児じを見るような、温かく深い色が湛えられた。 明くる日、隼人は木戸の者をぜんぶ集めて、部落の女とかかわりをもつことを禁じた。 ﹁私は藩校の道場で助教をしていた﹂彼はすぐに話を変えた、﹁――骨が固くなってはいけないから、躯がよくなったら組み太刀でもやってみたい、よかったらおまえたちもやらないか、一と汗かくとさっぱりするぞ﹂ ﹁それは有難いですが﹂小野大九郎という番士が云った、﹁ここには道具がなにもないんです﹂ ﹁木剣を三本持って来てある﹂と彼は云った、﹁組み太刀だけなら道具は要らないが、今月から月つき便びんがあるから、道具を取りよせて稽古をしてもいいな﹂ ﹁いいですね﹂と西沢半四郎が乗り気をみせて云った、﹁朝田さんの教授なら願ってもないことです、ぜひそうして頂きましょう﹂ 隼人は西沢を見た。石ころか木片でも見るような眼つきで、それから足軽たちのほうへ振向き、足軽も小者たちも望みがあればいっしょにやれ、と云った。 四月から九月まで、﹁月便﹂といって、月にいちど城下と連絡をとる。このあいだに食糧や必要な物資を運びあげるのだが、道が嶮けわしく、危険や困難が多いにもかかわらず、番士たちは城下町へゆけるというだけで、いつもこの役を奪いあうということであった。 四月十八日の朝、隼人はまた流人村へいった。このときも岡村七郎兵衛がついて来、それには及ばないと云ってもきかなかった。 ﹁貴方はかれらに馴れたと思っているんでしょう﹂と岡村は云った、﹁慥かに、正内老人のところで会った連中は貴方に好意をもったようです、しかしあれはあのときだけのことで、なが続きはしやあしません、部落の人間は考えることもすることも衝動的で、一つの感情を持続するとか、或る仕事にうちこむというようなことができないんです、木戸の者に対しては根の深い、それこそ本能のような怖れと憎悪をもっていますが、そのためにみんなが一致してなにかするということもない、一人一人がばらばらで、横のつながりというものがまるでないんです﹂ ﹁ずいぶん詳しいじゃないか﹂ ﹁なに、眼と耳があれは誰にだってわかりますよ﹂そう云って、岡村は調子を変えた、﹁このあいだ云ったことは本当にやるつもりですか﹂ ﹁組み太刀か﹂ ﹁いや、部落の女についてのことです﹂ 隼人は暫く歩いてから答えた、﹁やるつもりのないことを禁ずると思うか﹂ ﹁よくお考えになったでしょうね﹂ ﹁ここの生活は辛い﹂と隼人が云った、﹁それはよくわかっているが、おれと西沢のほかはみな一年で番があく、それでなくとも、木戸詰を命ぜられるのは、大なり小なり失策のあった者で、いわば一種の処罰なんだから、一年ぐらいの辛抱ができないわけはない筈だ﹂ ﹁理屈はそのとおりですがね、ええ﹂と岡村が云った、﹁こっちはそれで押えられても、部落の女たちのほうが問題です、私は去年の七月に来て、冬になるまでいろいろな経験をしました、木戸の者にも相当なやつがいますが、村の女たちに比べるとまだおとなしいほうです、いや、話すことはできません、私が話すまでもなく、もうすぐ朝田さん自身の眼で見ることになりますよ﹂ ﹁正内老人のことをなにか知っているか﹂ 急に話題が変ったので、岡村七郎兵衛は気をぬかれたとみえ、すぐには返辞をしなかった。 ﹁なるほど﹂とやがて岡村は頷いた、﹁老人と話しあうおつもりですね、いい御思案のようだがそれもだめです、老人はそういうことについて、これまでできる限りやってみたようですからね﹂ ﹁老人がどういう素姓の者かと訊いているんだ﹂隼人は問い返すような岡村の眼に、首を振って云った、﹁いや、あの人の名は人別帳にはのっていないんだ﹂ ﹁――すると、どういうことになるんですか﹂ ﹁それが知りたいんだ、なにか聞いたことはないか﹂ 岡村七郎兵衛は知らなかった。小者の中には五年も木戸に詰めている者がある、その男は村のことをずいぶんよく知っているようだが、正内老人についてはなにも話したことはない。村の人別にはいっていないということは、おそらく誰も知らないだろう、と七郎兵衛は云った。 ﹁ああそうだ﹂暫く歩いてから、岡村はふと気づいたように云った、﹁――老人には妻女と子供があって、どちらも村で病死したということを聞きましたよ、墓地へゆけば墓がある筈です﹂ ﹁村の中にあるのか﹂ ﹁御案内しましょう、いちばん高いところです﹂ 坂をくだり、でこぼこした断崖に沿って、標の石のところまでゆくと、岡村七郎兵衛は﹁こっちです﹂と手を振り、このまえより一段高い檜ひのきのほうへ登っていった。――岩ばかりの道であるが、道や杉が爽やかに匂い、岩の隙間には草が芽ぶいていた。土地が悪いのか、風雪がきびしいためか、ここでは檜も杉も丈が低く、幹や枝葉も痩せているようにみえるが、その若葉の匂いや、岩地をぬいて伸びる草の、あざやかな若みどりの色は、そのまま生命の力と、根づよさを示しているように思えた。――墓地を殆んど登り詰めようとするところで、岡村七郎兵衛は左へ曲り、五十歩ほどいってから、右側にある檜の生垣へ、手を振ってみせた。 ﹁私はここで待っています﹂ ﹁待たなくともいい﹂と隼人が云った、﹁先に老人のところへいっていてくれ﹂八
墓地は五百坪ばかりの広さで、四方を檜の生垣で囲んであった。岩いわ屑くずを集めたものか、赭あかみを帯びたあら土が、ところどころ饅まん頭じゅうのように盛上げてある。それはまだ新しいのであろう、そのほかは盛上げた土も平たくなり、墓である標だけのように、長さ一尺、幅三寸ばかりの板が立っている。近よってよく見ると、その板の表面には、死者の俗名と、死んだ年月日が書いてあるだけで、法名のあるものは一つもなかった。隼人は順に墓標を読んでいった。松造、何年何月何日。はる、何年何月何日。すが。――こばな。――女名前のほうが多いようだし、古いものは字がうすれたり、まったく消えてしまったりして、判読もできないのがずいぶんあった。 隼人は中ほどに立停り、墓とはいえないその墓の群を眺めまわした。 ﹁たとえ金石で組みあげた墓でも、時が経てばやがては崩れ朽ちてしまう﹂彼は口の中で、墓のぬしに呼びかけるように、呟いた、﹁――死んでしまった貴方がたには、法名が付こうと付くまいと、供養されようとされまいと、なんのかかわりもないだろう、そういうことはみな生きている者の慰めだ﹂ 隼人は深く長い溜ため息いきをついた。彼はするどい苦痛を抑えるかのように、唇をひきしめ、眉をしかめた。赭くしらちゃけたあら土に、小さな標を立てただけの、それらの墓のぬしは﹁罪人﹂であった。その墓地の蕭しょ殺うさつたる眺めが、そんなにもするどく彼の心を撃ったのは、かれらが﹁罪人であった﹂という理由からであるかもしれない。罪を犯して捕われるような者は、たいてい気が弱く、めはしもきかず、孤独な人間のようである。隼人はいまその墓土の下から、かれらの嘆きの声が聞えてくるように思い、眼をつむってじっとうなだれていた。 まもなく﹁あの﹂と呼びかける者があった。眼をあいて振返ると、あやという娘が、墓地の端に立っていた。 ﹁あの――﹂と娘は赤くなりながら云った、﹁正内さまが待って﹂ そう云いかけたが、突然、口を大きくあいて叫びながら、つぶてのように走って来て、隼人に躰当りをくれた。隼人は娘の躯からだを受けとめてよろめき、同時に、うしろから斜めに、空を切ってなにかが飛んで来、二十尺ほど向うの墓土に突き立つのを見た。糸がはしったようにみえたが、墓土に突き立ったのは矢であった。 ﹁危ない﹂娘はけんめいに隼人を押しやった、﹁先生、危ない、権八です﹂ 隼人は押されながら振返った。十五六間うしろの断崖の中腹に、人の姿がちらっと見えた。なにかをかぶった頭と、二の矢を持った右手が見えただけで、それは向うへとびおりでもするように、さっと岩蔭に消えてしまった。 ﹁大丈夫だ、もう大丈夫だ﹂ あやは両手で隼人にしがみついたまま、歯の音がするほど激しくふるえていた。隼人は手を放そうとしたが、娘の手指は関節が硬ばっていて、殆んど一本ずつ指をひらかなければならなかった。 ﹁さあゆこう﹂隼人は歩きだしながら訊いた、﹁いまのは本当に権八だったのか﹂ あやはまだふるえていた、﹁そうだと思います﹂ ﹁はっきり見えたのか﹂ ﹁いいえ﹂と娘はかぶりを振った、﹁弓を射ようとするところを見ただけです、でも、――権八のほかにあんなことをする者はいないと思います﹂ 隼人は墓土に突き立っている矢を抜き取り、それを持って、あやといっしょに正内老人の住居へいった。 老人は枸く杞この茶というのを淹いれ、もろこしの薄焼を作ってくれた。枸杞の茶というのはひなた臭く、隼人の口にはなじまなかったし、薄焼にも手を出す気にはなれなかった――あやが墓地であった事を話すと、炉端の向うで、岡村七郎兵衛が﹁どうです、云ったとおりでしょう﹂というような眼くばせをした。 ﹁猟に使う矢ですね﹂老人は矢をしらべてみながら云った、﹁この村で作ったものです、それは慥かですが、権八がやったとは、ちょっと考えられませんな﹂ あれから二十余日も経っているし、この村へ戻ったようすはない。もし戻ったとすれば、少なくとも自分にだけはわかる筈である。また戻って来ないとすれば、この山の中で二十日以上も飢えずにいられるとは思えない、と老人は云った。 ﹁それじゃあ﹂と娘が云った、﹁あのげんまだろうか﹂ 老人はゆっくり首を振った、﹁げんまも頭六も乱暴者だが、御番頭を射殺するほど頓とん狂きょうでもないし、そうする仔しさ細いもないだろう﹂ ﹁いや、もういい﹂隼人は岡村がなにか云いかけるのを遮さえぎった、﹁この話はよそう、そしてこれは四人だけのことにして、ほかの者にはもらさないように頼む﹂ 彼はそれを、あやには特に念を押し、老人と話すことがあるからと云って、彼女を家まで送るようにと岡村に命じた。もちろん座を外せという意味である。あやは辞退したが、七郎兵衛は渋い顔をして立ちあがった。――二人が去ったあと、隼人の話を聞いた正内老人は、弱よわしい太とい息きをついたまま、ながいこと黙っていた。答えが出ないというよりも、思いあぐねたというようすで、それからようやく、自分の湯呑に枸杞の茶を注いだ。 ﹁これは容易なことでは防げません﹂と云って老人は咳せきばらいをし、茶を啜すすった、﹁この私にも覚えのあることですが、禁をきびしくすることは、川の水をただ堰せき止めるようなもので、水は必ず堰を突きやぶるでしょうし、却って事を悪くするばかりです﹂ ﹁そうかもしれないが、このまま放っておくわけにもいかない﹂と隼人は云った、﹁むしろ私はこれをうまく利用して、この村の者に新しい生きかたを教えたらどうかと思うのだが﹂ 老人は息を深く吸いこんだ、﹁木戸のほうは押えられるでしょう、城下町に生れ、それぞれ躾けもされ学問もし、作法を守ることが身についている、だがここではまるで違うのです、それも単に躾けや学問のあるなしではありません、根はもっとずっと深いところにある、一つには血の近い者の結婚が続いたためか、白痴や不具者が多い、それらは云うまでもないし、健康な者でもとしごろになると衝動が抑えられなくなる、もともとここでは、衝動を抑えるという習慣がなかったのです﹂ ﹁それならその習慣をつけるようにしよう﹂と隼人が云った、﹁――人間である限り学問や教養がなくとも、自分をよくしようという本能や、不倫な行為に対する自責、羞しゅ恥うち心しんぐらいある筈ではないか﹂ ﹁貴方は忘れていらっしゃる﹂老人はまた太息をつき、ゆっくりと首を左右に振った、﹁ここは流人村です、百五十年ちかいあいだ、世間からまったく隔てられ、罪人であり罪人の血筋だという刻印を捺おされて、なんの希望もなく生きて来た者たちです、かれらの心に刻まれた刻印がいかに根深いか、そのためにしみついた絶望感がどんなに抜きがたいものか、おそらく、貴方には御想像もつくまいと思います﹂ 隼人は黙って、炉から立ち昇る青白い煙を見まもっていた。 ﹁私は、――﹂とやがて隼人が眼をあげた、﹁正内どのを頼みにして来たのだが﹂ ﹁できる限りのお手助けは致します、それはこのまえにも申しました﹂と老人が云った、﹁しかし私はここを知りすぎていますし、自分で失敗した経験もあるので、非常に困難であるということを、よく承知しておいて頂きたいのです﹂ ﹁失敗した経験というのは、どういうことだ﹂ ﹁私はこの村の人間ではございません﹂ 隼人は黙っていた。住民の人別に名がのっていなかった、ということを云おうとしたが、その必要はないと思ったのである。――だが、老人の話は隼人をおどろかせた。老人は同じ家かち中ゅうの侍であり、四十年まえに藩籍をぬけて、この流人村の住民になった、ということであった。 ﹁姓名は申上げられません、家は二百石ばかりの番頭格で、私はその三男でした﹂ 二十二歳のとき、彼は木戸詰を命ぜられて来、流人村の事情をしらべた。そして、住民たちの悲惨なありさまに義憤を感じ、かれらを正しい生活にみちびこうと考えて、町奉行に訴状を送ったりした。――当時も木戸の番士と、部落の女たちとの関係は紊みだれていた。女が妊娠すると、部落のうちで堕胎してしまう。方法はわからないが、おそらく原始的なものだろう、そのために女が死ぬことさえ稀ではなかった。 ﹁私は木戸の番頭に向って、規律をきびしくするように申入れ、また番士と女たちとの密会の邪魔をしました、番頭はとりあってくれず、いくら邪魔をしても、密会を防ぎきることはできませんでした﹂老人はそこで、もうさめてしまった茶を啜り、両手で湯呑を包むように持って続けた、﹁そうしているうちに、私自身があやまちを犯すことになったのです、――相手はこごさという、十六になる娘で、親はまさうちと申しました、それが姓であるか名であるかわかりません。その男の曾そう祖そ父ふが流罪になったのだそうで、夫婦ともこの村の生れであり、こごさはその一人娘だったのです﹂ 自分はその娘が好きになり、暇があると訪ねていって、読み書きを教えた。娘は十六歳とは思えないほど、躯つきも気持も幼く、自分の云うことをよくきいたし、熱心に稽古もするようにみえた。ところが六十日ほど経った或る夜、こごさが木戸へ忍んで来、柵さくの外へさそわれたうえ、極めて簡単に肌を触れあってしまった。九
﹁私は自分にその気持がなかったとは申しません、柵の外までさそいだされたのですし、拒めば拒めたのですから﹂老人はそっと首を振った、﹁――私はこごさを思い違えていたのです、躯つきはもとより、気持もまだ幼いと思っていましたが、その夜こごさが私をさそう態度は、年とし増ま女のように巧みであり能動的でした、まだ女を知らなかった私は、殆んど夢中で、こごさのするままになっていたようなものでした﹂ 取返しのつかないことをした。悔恨は二重であった。こごさにも済まないし、木戸の同僚たちにも顔向けができない、ここはいさぎよく責任をとるべきだ。そう決心をすると、番あけで城下へ帰るなり父に義絶してもらった。理由は云わず、ただ﹁家名を汚すような過失をしたから﹂自分はこのまま他国するつもりである。そう主張して親子の縁を切ってもらい、すぐに村へ引返して来た。――そうして、半ば無理じいにまさうちを承知させ、空あいていた現在の家で、こごさと二人の生活を始めた。そのころはまだ送られて来る流人があり、食糧の配分にもゆとりがあったため、木戸の監視をのがれるほかには、さして困難なこともなく、他の住民たちとも馴染むようになった。 ﹁正確にいうと、それから四十一年になります﹂老人は指を折ってみて、頷いた、﹁さよう、まる四十一年です﹂ こごさに対して責任をとるというだけではなく、それを機会に、村の住民たちを立ち直らせよう、という計画を持っていた。第一に読み書き、ついで論語のわかりやすい講話、また孝子節婦の伝など、かれらの興を唆そそるようにつとめて話した。だが、どんなにやってみても、一人としてついてくる者がなかった。反感をもつとか、ひねくれているとかいうのならまだいい。それならまた手段もあるが、かれらにはそれさえもなかった。幾世代も檻おりの中で生きて来たけもののように、食欲と性欲のほかは、あらゆることに興味を失っていた。御用林の仕事でも、山道の整備でも、監視され指図をされない限り、なに一つすすんでしようとはしないのである。 ﹁私はそれを四十年も見てまいりました、もちろん、そのあいだずっと、かれらのために力を尽したとは云いません﹂老人は自分の右手をみつめた、﹁――正直に申せば、しんけんに、うちこんでやった期間は、前後十年くらいのものだったでしょう、それも、松の木に桃の実をならせようとするようなものだ、と思って投げだしたり、いや、万里の長城も人間の築いたものだ、とふるい立つといったようなぐあいでした﹂ こごさが娘を産み、名をゆきとつけた。こごさの父親が死に、母親が死んだ。そのときから自分は正内と名のり、娘のゆきの教育に専念した。また一方では木戸にはたらきかけ、罪人でない者を解放し、領内で新しい生活ができるようにしてもらいたい、と繰り返し願い出た。木戸へ来る番頭の中に、一二同意する者があり、城下の役所と折衝のうえ、﹁希望する者があったら申出るように﹂というところまでこぎつけたこともあった。 ﹁これはまえにいちど申上げましたな﹂老人は炉へ焚たき木ぎをくべた、﹁――村の者がどうしたかはあのとき申しました、里へおりようと云う者が一人もありません、尤もっとも、これも申上げたと思うのですが、男は十七八になるとたいてい山ぬけをしますから、村に残っているような者が動きたがらないのは、当然のことだったかもしれません﹂ 娘のゆきは頭もかなりよく、健康に育っていった。読書欲もつよいし、手跡の筋もよかった。礼儀作法も武家なみにきびしく躾しつけたが、よくのみこんでそれを守った。これはものになると思い、この娘だけでも人並に育てあげれば、そこから道がひらけるかもしれないと思った。――自分の眼に狂いはないと信じていたが、ゆきは十六歳の秋、堕胎の失敗で急死した。娘がいつそんなことをしたか、自分はまったく知らなかったし、四カ月という胎児を見るまでは信じられなかった。 ﹁私は妻を問い詰めました、妻は知っていたのです﹂老人はまた自分の手をみつめ、暫く黙っていてから、静かに続けた、﹁――私は妻を折せっ檻かんしました、ばかなことですが、殺してしまおうかとさえ思いました、こごさには折檻される意味がわからないようすでしたが、やがて私に云い返しました、ここはちくしょう谷だ、自分にも覚えがある筈だ、と﹂ 正内老人は長い金火箸で炉の火を直し、立ちあがっていって、湯呑の中の冷えた茶をあけると、その蔀しと窓みまどのところに立って、ながいこと外を見まもっていた。おそらく感情をしずめるためだったのだろう、やがて戻って来て坐り、炉に掛っている茶ちゃ釜がまから、湯呑に茶を注いだ。すると、ひなた臭いような枸杞の香が、隼人のところまで匂って来た。 ﹁貴方の御思案に水をさすようなことを申上げたのは、こういう経験があるからです﹂と老人は微笑しながら云った、﹁それだからおやめなさいなどとは申しません、この部落をこんな状態のままにしておくことは、住民が哀れだというだけでなく、御領主の面目にもかかわることです、いつか、誰かが、しんじつ立ってこの仕事をやらなければならない、それには事実がどんなに困難であるか、ということに当面する勇気と、中途で挫くじけない忍耐力が必要です﹂ ﹁御妻女はいつごろ亡くなられたのです﹂ ﹁八年になりますかな、――あの墓地の、娘の側へ埋めてやりました、私もやがてそこへ埋めてもらうつもりです﹂ 隼人は老人を見て云った、﹁あやというあの娘だけは、まだ稽古を続けていると云われましたね﹂ 正内老人はじっと隼人の眼を見返した。 ﹁諄くどいようですが﹂と老人は云った、﹁私の経験したことと、ここがちくしょう谷と呼ばれていることを、お忘れにならないで下さい﹂ 隼人は二三のことを頼んで、まもなく老人に別れを告げた。 道へ出ると岡村七郎兵衛が待ってい、隼人は村を見廻ってから、木戸へ帰った。その途中で、七郎兵衛が﹁権八は戻っているらしい﹂と云った。あやを送っていったとき、あやの母親から聞いたのだそうで、唖お者し娘のいちが、ときどき夜なかになにか持って出てゆく、それが喰たべ物らしいので、たぶん権八のところへ届けるのだろう、ということであった。 ﹁それはおかしい﹂と隼人が云った、﹁あの娘は誰とも知れぬ男の子をみごもって、権八に鞭むちで打たれたんだ、それが権八に喰べ物を届けるだろうか﹂ ﹁幾たびも云うようですが、私は去年の七月から木戸にいます、その点では朝田さんより先輩ですからね﹂と岡村は気取って、思わせぶりな口調で云った、﹁ここでは、常識で考えられる以外のことなら、どんなことでもおこりかねませんよ﹂ ﹁おれはいい先輩を持ったらしいな﹂ ﹁ついでに云っておきましょう﹂と岡村が急にまじめな顔で云った、﹁――あやという娘に気をつけて下さい﹂ 隼人は立停って彼に振向いた。 ﹁なに、格別どうということはありません﹂岡村は肩をゆりあげ、こんどはとぼけたように云った、﹁ただあの娘が、たいそう貴方に御執心であり、これは相当に危険だということを﹂ ﹁わかった﹂隼人は歩きだしながら遮った、﹁それは正内老人からよく聞いたよ﹂ ﹁私のほうが先輩だと云いませんでしたか﹂ ﹁先に走りだした者が必ず先に着くときまってはいないようだ﹂と隼人が穏やかに答えた、﹁しかし、忠告はよく覚えておくよ﹂ 岡村七郎兵衛は気取って一いち揖ゆうした。 それから二日のち、四月二十日に、その年初めての﹁月便﹂を城下へ遣やった。宰領は小野大九郎、足軽五人と小者三人が規定の人数であった。朝四時に起きて、六時まで組み太刀の稽古を始めたが、木戸の者はぜんぶ稽古に出たし、どうやらこれは続くようであった。隼人はまた、夜の立番の規則をつくった。午後八時から夜明けまで、番士一人と足軽一人が組みになり、一刻交代で柵の中を見廻るのである。不審なことがあったら、直接﹁自分に知らせろ﹂と固く命じ、彼自身もときどき見廻りに出た。 正内老人に頼んでおいたものの一つ、村の現在の詳しい人別帳が届いた。それによると、家族の数は二十一、男二十三人、女三十二人で、役所の記録よりずっと少なかった。名前にも記録にはないものが多く、﹁ごんぜ﹂とか、いちの親の﹁ぶろう﹂とか、﹁せこじ﹂などというのがあり、また﹁あたま﹂﹁はら﹂﹁しり﹂という呼び名には、いつのころかわからないが、三人の男が一頭の鹿を射止めて三等分した。そのとき頭を取った男が﹁あたま﹂と呼ばれ、胴を取った者が﹁はら﹂、尾のほうを取った者が﹁しり﹂と呼ばれるようになった、と老人が注を加えてあった。ごんぜは﹁あたま﹂であり、せこじは﹁はら﹂であるが、﹁しり﹂の家は絶えているという。男は四十代の者が二人、五十歳以上の者が十一人、あとは小児が十人で、若者は一人もいない。女は男より十人も多いし、赤児から老婆までほぼ数が平均してい、娘と独身の女とが十三人もあった。 ﹁白痴が男に二人、女に四人﹂と隼人は読んだ、﹁足萎なえが男に三人、女に一人、聾ろう唖あ者が女に三人、盲人が男に二人、――五十五人の中で不具者が十五人もいるとは、ひどいものだな﹂ 人別帳を下に置いたとき、隼人の顔には深い疲労の色があらわれていた。十
﹁月便﹂が木戸へ戻ったのは五日めの夕方であった。こちらから遣った人数のほかに、城下から荷を運ぶ小者が十五人来、これらは一夜だけ木戸へ泊って城下へ帰った。――隼人は小池帯刀に宛てて手紙を託したが、荷物の中には頼んでやった楽器、琴、篠しの笛ぶえ、三味線、太鼓などがはいっていた。みんな稽古用の安価な品ではあるが、その荷を解いてひろげたとき、番士たちは不審そうに集まって来た。 ﹁どうなさるんですか﹂乾藤吉郎といういちばん若い番士がたのしそうに訊いた、﹁みんなで稽古をして合奏でもするんでしょうか、私はちょっとなら三味線が弾けますけれど﹂ ﹁それはいい﹂と隼人が云った、﹁そのうち弾いてもらうとしよう﹂ ﹁いつでもどうぞ﹂手を擦すり合さないばかりの調子で、乾は熱心に云った、﹁自分ではそれほどうまいとは思いませんけれど、新町では筋がいいって評判だったんです﹂ ﹁ばかだな、こいつ﹂と松木久之助が低い声で云った、﹁新町がよいが祟たたって山へ来たんだろう、懲りないやつだよ、おまえは﹂ ﹁みんなに頼みがある﹂と隼人が云った、﹁じつは村の者たちにこれを教えたいんだ、私はなにもできない、笛をちょっと習っただけで、それも歌口を湿す程度なんだ、乾は三味線を弾くそうだし、ほかになにかやれる者があったら助すけてもらいたいが、どうだろう﹂ ﹁私が琴をちょっとやりました﹂と西沢半四郎が云った。 隼人は西沢を見た。西沢を見るときの、あのいつもの眼つきで、それから静かにその眼をそらせながら云った、﹁琴はきまった、――ほかに誰かいないか﹂ ﹁私は太鼓も叩けます﹂と乾が答えた。 みんなが笑った。 ﹁足軽の中に笛の上手な男がいます﹂と岡村七郎兵衛が云った、﹁磯いそ部べし庄ょう左ざえ衛も門んといって、これは本式らしいですよ﹂ ﹁では組頭に話しておこう﹂隼人は頷いて云った、﹁詳しいことは村の者と相談のうえできめるが、たぶん御用林の仕事が済んでからになると思う﹂ そのときは頼むと隼人は云った。 翌日、隼人は村へゆき、正内老人と会って話した。御用林の仕事に出る人数をきめ、それから取寄せた楽器のことを相談すると、老人は頷きながら、ここでもまた﹁いそがないほうがよい﹂と注意した。老人もずっと以前にためしたことがある、大おお須す才之助という番頭のときで、琴と一ひと節よぎ切りを使った。一節切は老人がやり、琴は番頭が城下から盲芸人を呼んでくれた。けれども村の者は暫く聞くと飽きてしまい、習おうという者もなかったし、三十日も経つと聞きに来る者さえなく、ついに失敗に終った、ということであった。 ﹁音曲は人の品性を高め、また心をやわらげ、たのしませる徳があります﹂と老人は続けて云った、﹁しかしそれも、環境や生活に或る程度のゆとりがあってのことで、この村のように特殊な悪条件の中では、こちらによほどの忍耐と、年月をかける気組みがなければ、うまくゆくまいと思います﹂ ﹁やれるところまでやってみましょう﹂と隼人は云った、﹁辛抱することにかけては、かなり自信のあるほうですから﹂ 老人は隼人の眼を、なにやら意味をかよわせるようにみつめ、それから静かに会釈した。隼人は当惑したように眼をそらした。 御用林の仕事は五月いっぱいかかった。 三百町歩余りある檜と杉のうち、杉は幕府に属するので﹁御用林﹂と呼ばれていた。毎年五月から九月まで、下生えの除去と、病虫害と、盗伐の有無をしらべるのが、木戸の役目の重要な一つであり、伐採にはべつに樵きこりが雇われるのであった。――このときの人数は、村から男十二人と女二十一人、十四五歳から五十六七歳まで、合わせて三十三人。木戸からは番士二人と足軽八人、小者二人が出、隼人も五日にいちどの割で見廻りにいった。――そこは大仏岳の南側にあり、断崖の多い嶮けん路ろをゆかなければならない。特に﹁大崩れ﹂と呼ばれる崖道は岩質が脆もろいとみえ、皿さら大だいに欠けた岩が、狭い道の上へ絶えず落ちて来る。これはたいてい道を越して、左側の断崖へ落ちてゆくが、ときには道の上へも崩れて来るため、そこを通りぬけるにはよほどの注意が必要であった。隼人のまえの番頭だった生田伝九郎が墜死したのは、その﹁大崩れ﹂から一段ばかりいったところで、道がもっとも狭くなり、大きく右へ曲っていた。そこから先を七曲りというそうだが、初めて隼人を案内した松木久之助は、道の端にひとところ岩の欠けている場所を指さして、﹁そこです﹂と教えた。――隼人が見ると、道が断崖の上へ庇ひさしのように突き出ており、高さは六七十尺あるだろうか、下はごつごつした岩地で、その向うに御用林の一部が霞かすんで見えた。 ﹁松木も供をしていたのか﹂ ﹁私と小野大九郎、それに足軽三人がいっしょでした﹂と松木が答えた、﹁生田さんは先頭にいて、その角を曲ったと思うとすぐ、岩の崩れる音と生田さんの声が聞えたんです、凄すごいような声で、われわれはみな立たち竦すくんでしまいました﹂ ﹁権八がやったという噂うわさが出たそうだな﹂ ﹁そんな噂がいまでもあります﹂ ﹁しかしこんな狭いところでどうするというんだ﹂ ﹁あの上から﹂と松木が眼をあげた、﹁あの崖の上から石を落すという手はあります﹂ 隼人は用心ぶかく二歩進んで、振仰いだ。彼は片手をあげたが、上から小さな岩屑がばらばら落ちて来たので、それを除よけるためにあげたとみえた瞬間、彼は﹁松木、危ないぞ﹂と叫びながら、自分の躯をぴったりと崖の岩肌へ貼はりつけた。殆んど同時に、上から落ちて来た岩――それは一と抱えもありそうにみえた――が、彼の躯をかすめて道の端を叩き、岩角を打ち砕いて、断崖の下へ消えていった。断崖の下のほうで、岩の砕ける音がこだまして聞え、その音が聞えなくなるまで、隼人は崖に身を押しつけたまま動かなかった。 ﹁松木――﹂とやがて隼人が呼びかけた、﹁けがはないか、大丈夫か﹂ ﹁私は大丈夫です﹂ ﹁いいと云うまでそこを動くな﹂ 隼人は顔だけそろそろと振向けた。十二三尺うしろで、松木も崖へぴったりとかじりつき、恐怖の眼でこっちを見ていた。 ――権八に限らず、村の住民はみんな木戸の者を憎んでいる。 ――囚人が牢ろう守もりを憎むのは当然のことだ。 いつか岡村七郎兵衛の云った言葉が、隼人の耳にはっきりとよみがえってきた。 ﹁いや﹂隼人は喉のどで云いながら首を振った、﹁そうとは限らない、そうとは限らない﹂ 彼は極めて慎重に、仰向いて崖の上を見ながら、崖に貼りついたままで、静かに左へと、横向きに躯を移していった。朝田さん大丈夫ですか、と松木が叫んだ。大丈夫だ、おまえはまだ動くな、と隼人が叫び返した――三十尺ほど移動すると次の曲り角になり、そこから振返ると、いまの道を見渡すことができる。隼人は頭上に気をくばりながら、眼をそばめてそこを眺めやった。道から約二十尺ほど高い崖の一部に深い裂けめがあり、ちょうど凹おうの字のような形をしていて、人間ひとりなら楽にはいれるほどの幅があった。 ﹁よし﹂隼人は松木に向って手を振った、﹁もう大丈夫だ﹂ 松木久之助がこっちへ来るあいだ、隼人はその裂けめを見まもっていたが、人の姿はもちろん、物の動くけはいも認められなかった。松木は昂こう奮ふんしていた。自分の推測したことがそんなにもすばやく、眼の前で実証されたことに吃びっ驚くりもし、また自慢でもあったらしい。だが隼人は固く口止めをした。 ﹁少し考えることがあるから、いまの出来事は黙っていてくれ﹂と隼人は云った、﹁誰にも話してはいけない、わかったな﹂ 松木久之助は黙っていると誓った。 ﹁あの崖の上はどこへ通じているのか﹂ ﹁大仏岳の尾根続きです﹂と松木が答えた、﹁如にょ来らいノ峰のちょっと手前を、左へ曲って来るとあの上へ出るんです、この道よりも半分くらい近いんですが、尾根ですから風も強いし、雪になると歩けないので、御用林の道はこっちへ作ったのだそうです﹂ 隼人は暫く歩いてから云った、﹁こんな話をしたことも黙っていてくれ﹂ 御用林の見廻りを済ませて、木戸へ帰って来た隼人を見ると、岡村七郎兵衛が門のところに立っていて、いま権八を追っている、と告げた。 ﹁貴方がおでかけになるとまもなく、小者の三造と西沢がみかけたそうです﹂と岡村は云った、﹁道の向うの岩蔭から覗いていたんだそうで、すぐ二た手に別れて追って出ました、まだ帰って来ませんが、なにか変ったことはありませんでしたか﹂ 松木久之助が﹁では﹂と云いかけ、隼人を見て口をつぐんだ。隼人はなにもなかったというふうに首を振った。 ﹁権八だということは慥かなのか﹂ ﹁さあ、――﹂岡村は肩をゆりあげた、﹁見たのは西沢と小者ですから、私はなにも知りません﹂ 隼人は無表情に役所のほうへ去った。 追手に出たのは西沢半四郎と小者三人である。小野大九郎と乾藤吉郎は、十人の足軽たちと当番で御用林にいた。それで、木戸を無人にすることはできないので、岡村七郎兵衛だけが残ったのであった。――追手の四人はまもなく帰って来たが、そんなになが追いをしながら、権八を捉つかまえることもできなかったし、どっちへ逃げたかもわからずじまいだった。西沢半四郎は詳しい報告をしようとしたが、隼人はその必要はないと首を振り、今後は許しのない限り木戸をあけてはならない、と云った。十一
梅雨にはいってから、組み太刀の稽古は休んだが、御用林の仕事は続けていたし、夜の立番もゆるめなかった。雨の夜はいいだろうと云う者もあったが、その雨がかなり強く降る夜半に、柵さくの外で梟の鳴き声がした。足軽二人が出ていってみると、頭から蓑みのをかぶった女が三人、柵にしがみついていて、﹁入れておくれ﹂と呼びかけた。――隼人はそれを見たのである。彼も梟の鳴き声を聞いたので、合羽をかぶってそっと戸外へ出、柵に沿って廻ってゆくと、女たちが足軽とやりあっているのをみつけた。女たちは思いきって卑ひわ猥いなことを叫び、﹁入れてくれ﹂と、殆んど泣き声をあげて哀願していた。冬のあいだずっとがまんし続けたから、躯からだの内部でけものが暴れている、骨も身も焼かれるようだ、というような意味のことを訴え、一人は下半身をあらわにして、露骨な、あらあらしい動作をし始めた。 ﹁よせ﹂隼人はこっちからどなった、﹁なにを見ているんだ、追い返せ﹂ 二人の足軽はとびあがりそうになり、慌てて女たちを追いのけようとした。女たちは動くけしきもなく、下半身を剥むきだしにした一人は、地面へ膝ひざを突くと、両手で髪の毛をつかみながら、礼拝でもするかのように、続けさまにがくんがくんと大きくおじぎをし、その動作につれて咆ほえた。それは人間の叫びや悲鳴とはまったく違って、野獣の咆ほう哮こうそのもののように聞えた。 ﹁もういい﹂隼人は足軽に向って云った、﹁その提ちょ灯うちんをこっちへよこして、おまえたちは長屋へ戻れ﹂ 足軽の一人が近よって来、雨用の笠のある提灯を渡し、二人とも長屋のほうへ去っていった。かれらは口もきかず、隼人の顔も見なかった。ぶすっとして去ってゆく二人の姿には、不満と怒りがあらわれているようであった。 ――むずかしいものだな。 隼人はかれらを見送りながら太息をつき、それから女たちのほうへ歩みよった。 ﹁こんなことをしてはいけないと禁じてある筈だ﹂と隼人は静かに云った、﹁三人ともうちへ帰れ、もう木戸の者は決して出て来はしない、雨の中でまごまごしていると風邪をひくぞ﹂ 膝を突いた女は、同じ動作を繰り返しながら、けもののように咆えてい、他の二人は隼人に挑みかかった。声をひそめるかと思うと喚き、笑い声が泣き声になり、耳を掩おおいたくなるほどあけすけなことを、身ぶり手まねで誇張しながら、飽きるようすもなく叫び続けた。――隼人は圧倒された。それはもう色情などというものではない、もっと根本的で、はかりがたく強大な、そして超自然ななにかの力がはたらいているようだ。卑猥を極めた言葉や、身ぶりや声の抑揚は、彼女たちがそうしようと思ってしているのではなく、なにかの力に支配されて、自分では意識せずにやっているようにさえ感じられた。 ――これが防ぎきれるだろうか。 隼人は自分に問いかけた。 ――防ぐことが理にかなうだろうか。 女たちは叫び、哀訴し、咆哮し、笑い、また喚き続け、隼人は頭を垂れて立っていた。するとやがて、正内老人の声が聞えた。眼をあげると、蓑を着、笠をかぶった老人が、柵の向うに立っていた。 ﹁貴方は明日のお役があります﹂と老人は云った、﹁この女たちは私がみておりますから、どうぞいっておやすみ下さい﹂ ﹁いや、御老躰ではむりです﹂ ﹁私のほうが扱い馴れております、いいときをみて伴つれ戻りますから、貴方はどうかやすんで下さい﹂ 隼人はちょっと考えてから、﹁ではこの提灯を貸しましょう﹂と云ったが、老人はそれも要らないと手を振った。正内老人が来るとすぐ、女たちも静かになったので、隼人はあとのことを老人に頼み、自分の部屋へ帰った。――彼は夜具の中へはいっても、なかなか眠ることができなかった。女たちが示した嬌きょ態うたいや叫び声の強烈な印象が、眼にも耳にもなまなましく灼やきついていて、それが神経をかき乱し、血をわきたたせた。そのうえ雨の音にまじって、戸外から女たちの声が聞えて来、とだえたかと思うとまた聞えて来る。現実のものかそら耳か、雨の音が邪魔ではっきり区別はつかなかったが、隼人が眠りつくまで、その声は断続して聞えていたようであった。 そういうことがあったため、雨の夜でも立番は欠かさなかったが、女たちがあらわれるときには、あとから必ず正内老人も来た。老人は立番の者を去らせ、女たちが騒ぎ疲れるのを待って、なだめすかしながら伴れ戻る。中にはひどく暴れ狂い、夜の明けるまで柵にしがみついているような者もあるが、老人は辛抱づよく、なにも云わずに側で見ている。そして、女がすっかり精をきらせて、声をあげることもできなくなるまで、待っているのであった。 ﹁どんなに威おどしても、力ずくでもだめです﹂とのちに老人は云った、﹁――ああして暴れたり、喚き叫んだりしているうちに、女たちの血もしずまるのでしょう、二た晩か三晩も続ければ、それで次のめぐりまでおさまっているようです﹂ これは女たちの、生理的な波に強く支配されるらしい。またその波は互いに共鳴することが多く、騒ぎだすときには幾人かが同時にそういう状態になり、しずまるときも同時にしずまるようである、と老人は云った。――尤も御用林の仕事があり、昼の労働で疲れることも、女たちにとって一つのはけ口になっているであろう。御用林のほうが終ったら、なにかまた考えなければなるまい、と老人が云い、隼人もそのとおりだと思った。 女たちのこういう騒ぎが、木戸の者に刺しげ戟きを与えたことは云うまでもない。木戸の中でも御用林でも、急に乱暴なことをするとか、激しい口論や喧けん嘩かがしばしば起こった。いちどは小野大九郎と乾藤吉郎が決闘しようと云いだし、岡村七郎兵衛が立会い人に頼まれた。岡村は困って隼人のところへ告げに来、隼人がいって﹁決闘は許さぬ﹂と叱った。二人は承知しなかった。立会い人のある決闘は昔から許されている。番頭にそれを禁ずる権限はない、と主張した。 ﹁おれにはその権限がある﹂と隼人は云った、﹁城下なら知らぬこと、木戸ではおれの支配に従わなければならない、いったい喧嘩の原因はなんだ﹂ 二人は答えなかった。 ﹁云えないのか﹂と隼人が追求した、﹁云えないようなことで命の遣り取りをしようというのか﹂ 乾藤吉郎の顔が赤くなった。大九郎が私のことを、と乾は俯うつむいたまま云った。三味線や太鼓はうまいかもしれないが、剣術はなっていないと云った、というのである。隼人は小野大九郎を見た。 ﹁いや違います﹂と小野が云った、﹁三味線や太鼓ほど剣術がうまければ、というのは侍だましいがあればということですが、――そうすれば木戸詰になどされずに済んだろう、と云ったのです﹂ ﹁それはおかしい﹂隼人の眼にいつものやさしい色がうかんだ、﹁小野自身も木戸詰になっているんじゃあないか、それとも小野は、侍だましいで木戸詰になったのか﹂ こんどは小野大九郎が赤くなった。 ﹁ここでは決闘は許さない﹂と隼人は代る代る二人を見ながら云った、﹁しかし刀を使わず、素手で殴りあいをするだけなら、事情によっては許してもいい、この場合は許してやろう、やるなら存分にやれ﹂ 二人は顔を見合せた。 ﹁よそう﹂と小野が云った、﹁おれが悪かった、あやまる﹂ ﹁あやまってもらうほどのことでもないさ﹂と乾が応じた、﹁おれも云いすぎたよ﹂ こういうことは、女たちの騒ぎのあとでよく起こったが、決闘などということはその一度だけであった。 御用林の仕事が終りかけていた或る日、――見廻りにいった朝田隼人は、檜林の中であやに捉まった。雨は三日まえからあがったままで、林の中の水をたっぷり吸った土には、木こ洩もれ陽びが斑はん点てんになってゆらぎ、檜の若葉が咽むせるほどつよく、しかし爽やかに匂っていた。――隼人はひとりで、朽葉を踏みながら林の端までいった。どこかで老ろう鶯おうが鳴き、筒鳥の声が甲高く谷にこだまして聞えた。林の外は勾配の急な斜面が谷底まで続き、杉の若木や雑木林が茂っていて、谷底のほうから、大仏川へ落ちる渓流の音が聞えて来た。芽ぶいてまのない雑木林は、ごく薄い紫色に霞んでみえ、その中にところどころ若木の杉が、白っぽい若みどりの秀ほをぬいていた。隼人は檜の匂いに包まれながら、遠い渓流の音をぼんやりと聞いている。すると、突然うしろから人に抱きつかれた。 ――三度めだ。 隼人は息が止るように思った。岩蔭から射かけられた狙ねら矢いや、頭上へ襲いかかった岩、そしてこんどはと思ったのは光りの閃ひらめくような一瞬のことであった。うしろから抱きついた手は柔らかく、小さく、そしてくくと鳩の鳴くような含み笑いの声が聞えた。 ﹁なんだ﹂彼は肩の力をぬきながら云った、﹁あやだな﹂ それはあやであった。彼女は喉のどで含み笑いをしながら、うしろからぴったり押しつけた躯で、彼をぐいぐいと押した。 ﹁よせ、どうするんだ﹂ ﹁朝田先生にいい物を見せてあげる﹂あやは熱っぽい口ぶりで云った、﹁向うの林の中にあるの、すぐそこよ﹂ 隼人は娘の躯の柔軟で固いまるみを、じかに背中に感じた。その柔らかで固いまるみの当るところが、火を当てられたように熱くなった。彼はその感覚をうち消そうとして、頭をつよく振りながら、押されるままに斜面をおりていった。あやは含み笑いを続けてい、雑木林の中にはいると立停った。そこは空気が陽にあたためられた湯のように温かく、萠もえ出た草の芽と若葉の香が、むっとするほど刺戟的に匂っていた。あやは隼人を放し、彼の前へまわって出ると、ここよ、と云いながらこっち向きに跼かがみ、草の芽の中を掻かきさぐった。――少ししゃくれぎみの子供っぽいまる顔が赤く上気してい、富士型の白い額に五六筋、短い髪の毛が汗で貼り付いている。隼人は﹁なにがあるんだ﹂と訊いた。あやはくっと顔をあげた。唇と眼が笑いかけた。ほんの少し薄桃色の歯茎の覗く小さな並びのよい歯と、それを縁取る赤い湿った唇と、そしてうわめづかいに見あげた眸ひと子みの、きらきらするような光りとは、隼人を強くとらえ、手繰りよせるように思えた。 ﹁これ、――﹂とあやは云った。 云いながらあやは、そこへ腰をおろし、両膝を立てると、それを左右へ開いた。継ぎの当った、丈の短い黒っぽい袷あわせの裾が割れ、眼に痛いほど白くふくよかな内うち腿ももと下腹部とが、むきだしになった。隼人はとっさに眼をそらしたので、ふくよかな内腿と下腹部との、張り切った白さだけしか見なかったけれども、あやの動作の思いがけなさと、殆んど作為の感じられない大胆さとに、怒りや、羞恥よりも、むしろ激しい敗北感におそわれた。 ﹁先生、見て、――﹂とあやが云った、﹁あたしきれいでしょ﹂ 隼人には云うべき言葉が思いうかばなかった。彼は眼をそむけたまま、檜林のほうへ歩きだした。先生、とあやが呼んだ。隼人は答えずに斜面を登ってゆき、あやが追いかけて来た。あやは隼人の袖を掴つかんで引止め、彼の前に立ち塞ふさがった。 ﹁あたしが嫌いなの、先生﹂あやの眼が火がついたようにぎらぎらしていた、﹁あたし先生が好きなのに、先生はあたしを嫌いなの﹂ ﹁その話はあとでしょう﹂ ﹁あたしを抱いてよ﹂あやは挑みかかるように云った、﹁ねえ、あたしを抱いて、先生、そうすればいいことを教えてあげるわ﹂ ﹁娘がいまのようなことをするものじゃあない﹂云いかけて隼人は口をつぐみ、ゆっくりと首を振った、﹁この話は村へ帰ってからにしよう﹂ ﹁嘘じゃない、本当にいいことよ﹂とあやはなお云った、﹁あたしのほかには誰も知らないし、先生には大事なことなの、嘘じゃない、本当に大事なことなのよ﹂ ﹁そんならいま云ってごらん﹂ ﹁あそこで﹂あやは嬌なまめかしい表情で、いま出て来た雑木林のほうへ眼をやった、﹁あそこであたしを抱いて、可愛がってくれたら云うわ﹂ 隼人はあやを除よけて歩きだした。 ﹁先生﹂とあやは追って来た、﹁聞きたくないの、聞かなくってもいいの﹂ 隼人は黙って斜面を登り、檜林の中へはいった。正内老人がこごさの話をしたときのことを、彼は苦々しく思いだした。あやだけはまだ、老人のところへ稽古にかよって来る、見た感じも乙女らしくすがすがしい。この娘ならうまく育てられるのではないか、そういう意味で老人の考えをさぐってみた。すると老人は云った。 ――諄くどいようだが、ここがちくしょう谷と呼ばれていることを忘れないで下さい。 隼人はそそり立つ断崖の前に立って、それを登る手段がないことをつきとめたときのように、自分のみじめな無力さをつくづくと感じるのであった。先生、待って、と呼びかけながら、あやはまた追いついて来た。隼人は耳もかさずに歩き続けた。 ﹁云うわ、先生﹂あやは息をきらせながら、追いついて隼人の袖を掴んだ、﹁先生があたしのこと嫌いでも、あたしは先生が好きだから云うわ﹂ 隼人は立停ってあやを見た、﹁私はおまえが嫌いではない、おまえはきれいだし温おと和なしい賢い娘だ、しかし、いまのようなことをするあやは嫌いだ﹂ ﹁あたしのことを嫌いじゃないの﹂ ﹁いつものあやは嫌いではない﹂ ﹁それなら、抱いて可愛がってもらうことがどうしていけないの、誰だってそうしているのに、先生だけどうしてそんなにいやがるの、なぜなの﹂十二
隼人はあやの眼をみつめた、﹁大事な話というのはそのことか﹂ あやは唇を噛かんで黙った。隼人は歩きだそうとした。あやは走って彼の前へまわり、大きな眼で彼を見あげた。 ﹁おしつんぼのいちが﹂とあやは云った、﹁夜なかに権八のところへ喰たべ物を届けるって、このまえ云ったこと覚えてるでしょ﹂ ﹁覚えている﹂と隼人は頷うなずいた。 ﹁あれは間違ってたんです、届けるのは権八のところじゃなく、べつの人なんです﹂ 隼人は黙っていた。 ﹁本当のこと云うんですからちゃんと聞いて下さい、あたしこのあいだの晩、いちのあとを跟つけていったんです﹂とあやはしんけんな顔つきで続けた、﹁――このまえ貴方に矢を射かけた者があるでしょう、あの右のところに上へ登れる段々があるのです、いちはそこを登っていきました、いちは耳が聞えないからいいけれど、権八に聞きつけられたら危ないでしょ、だからあたし用心して、はだしになって跟けてったんです﹂ 段々を登りきったところは崖の中腹で、道があるわけではないが、岩が棚のように横へ延びている。それを右へ伝ってゆけば、村の入口の標石の脇へ出られる。左は岩のゆき止りで、いつか何者かが隼人を覘ねらったのは、その岩蔭からであった。 ﹁いちが棚岩へ登ってから、ちょっとまをおいてあたしも登りました﹂とあやは云った、﹁するとすぐそこにいちがいたので、もうちょっとでぶっつかりそうになり、あたしはぞっとしながら岩にかじりつきました、――いちの向うに人がいて、いちが鼻声をだしながら、なにか手まねで話しているようです、気づかれなかった、ああよかったと、あたしは暫く息をころしていました、それからもう大丈夫だと思ったので、そろそろと岩角から覗いて見ると、いちの向うにその人が、こっちを向いていたんです﹂ ﹁そんな夜なかによくわかったな﹂ ﹁十七日の晩は月が出ていました﹂ ﹁顔も見えたのか﹂ ﹁木戸の人でした﹂とあやが云った、﹁黒い頭巾をかぶっていたので、顔の半分は隠れてましたが間違いありません、木戸の西沢半﹂ 隼人がとびかかり、片手であやの頭を押え、片手で口をぴったり塞いだ。 ﹁云うな﹂と隼人はあやの口を塞いだまま云った、﹁その名を云うな﹂ よほど驚いたのだろう、あやは躯を固くし、眼だけ横に動かして隼人を見た。 ﹁二度とその名を口にしてはいけない﹂と隼人は繰り返した、﹁この場限りだ、いいか、誰にも云ってはいけないぞ﹂ 頭を押えられたままで、あやは二度こっくりをし、隼人は手を放した。あやは口をぽかんとあけ、もの問いたげな眼で、じっと隼人の顔を見た。 ﹁でもその人――﹂とあやがおそるおそる云った、﹁いちの腹の子の親ですけれど﹂ 隼人は唇をひきむすんだ。 ﹁いちは﹂と彼は重い物でもひきずるように訊いた、﹁子をおろさなかったのか﹂ ﹁産むと云ってきかないんですって、それにもう帯もとっくに済んでますから﹂ あの悪七兵衛が肩をゆりあげるのはこんな気持のときなんだな、隼人は自分をなだめるようにそう思った。 ﹁とにかくその人間の名は口にしないでくれ﹂と彼は眼をそむけながら云った、﹁さあ、仕事にかからないと咎とがめられるぞ﹂ あやは﹁はい﹂と答えた。いつものあやらしい、すなおな声であった。 隼人はあやの話を聞いてから、気分がかなり軽くなった。矢を射かけたのが権八らしいということは、正内老人も否定していたが、べつの意味でも、いちは権八の手であんなにひどく鞭むち打うたれた。その権八に対して、ひそかに食物をはこぶということは、どうもしんじつらしく思えなかった。 やっぱりそうだったのか。 あの男がいちを巧みに使って、権八が生きているようにみせかけたのだ。木戸の近くで権八を見かけたと云って、追手をかけたのもあの男だ。七曲りの上へ出る距離は、崖の道より半分がた近いという。あの男は先廻りをして待伏せ、上から岩を押したのだ。そうするために﹁権八を見かけた﹂という口実を設けて木戸を出たのだ。 ――そうときまれば気は楽だ。 権八でないとわかれば、一人に対して用心すればいい。権八もまたあらわれるかもしれないが、この隼人だけを覘う理由はないだろう。慥たしかな相手はあの男ひとりだ、と隼人は思った。 御用林の仕事が終り、六月になった。 組み太刀の稽古は、当番仕事のある者をべつとして、午後にもやることになり、これは岡村七郎兵衛に任せた。隼人は楽器類を正内老人の住居へ持ってゆき、今後のことについて相談をかさねた。老人はまえから、村に耕地を作ることを考えていた。高冷地だから米は作れないが、土を運びこむことができれば、粟あわ、もろこし、蕎そ麦ば、黍きびなどは作れる、麦も作れるかもしれない。量はどちらでもよいが、﹁耕作﹂という習慣をつけさせたい、というのである。隼人はもちろん同意し、土を運ぶには木戸の者も助力しようと云った。 ﹁ごらんになっているでしょうが﹂と老人は熱心に云った、﹁村の台地は石で組みあげてあります、地形は東東南に向いていますから、石が陽に暖められるとその熱が土にこもって、作物を育てるのに好都合だと思います﹂ 現に自分は小麦と黍を一段ほど作っている。そこは陽当りもよし岩質が脆いので、入れ土をするのも楽であったが、台地の三段めと五段めは似たような地質だから、まずそこへ土入れをしてみてもよいだろう、と老人は云うのであった。 ﹁問題は土ですね﹂ ﹁それです﹂老人は頷いた、﹁私は四ツ沢から、――四ツ沢というのは、こちらから数えて三つめの桟道を、左へ登ったところで、肥えたいい土がありますが、俵にして背負って、さよう、百日ばかり運びましたかな、それでやっと一畝ばかりの畑が出来ました﹂ ﹁もう少し近くにはありませんか﹂ ﹁領境の向うならあります﹂老人は金かな火ひば箸しで灰に図を描いた、﹁この如来ノ峰から二十町ばかりおりると、山火事で焼けたまま、草だけの荒地になっているところがあります、そこなら近くもあり道もよいので、ずっと楽に運べますが、隣藩の土地ですから、なかなかむずかしいと思います﹂ ﹁なんとか手を打ってみよう﹂と隼人は云った、﹁とにかく、このまえ話したように遊ばせておいてはよくない、力仕事をすることで、女たちの精力のはけ口にし、また働く習慣も身につくようにしよう﹂ 隣藩とは城下から交渉させるが、それまで四ツ沢の土を運んではどうか、と隼人が云い、老人もそれがよかろうと頷いた。音曲のほうは木戸の者が来て演奏し、当分のあいだはただ聞かせるだけにする。かれらのほうからすすんで習いたいと云いだすまで、こちらからは決してすすめない、ということにきまった。――五日に一度、夕食後から一刻半、正内老人の住居で、三味線は乾藤吉郎、琴は西沢半四郎、笛は足軽の磯部庄左衛門、太鼓も足軽の岸田久内、以上の四人が演奏に当った。それと同時に、村の男女のうち、足腰の丈夫な者を十人と、足軽五人を一と組にし、これを二た組作って、交代で四ツ沢から土運びをさせた。 隼人は六月の﹁月便﹂で、また小池帯刀へ手紙をやった。すると十日ほど経って、帯刀が自分で木戸まで登って来た。隣藩との交渉はうまくゆくだろう、同じ譜代大名であるし、こっちには幕府御用の杉林があることだから、と帯刀は云った。しかし、人の肩で運ぶくらいの土で、本当に耕地が出来るのか、という質問から、隼人は正内老人と相談したことを詳しく語った。帯刀には興味がないのか、聞くだけは黙って聞いていたが、隼人の話が終ると、顔をしかめながら首を振った。 ﹁おれにはわからない﹂と帯刀は云った、﹁隼人の口ぶりは、まるでその事に一生を賭かけているように聞えるぞ﹂ ﹁そんな力んだことは考えていないよ﹂ ﹁だろうな﹂帯刀は当然だというふうに云った、﹁こんな山の中の、六十人にも足りない人間たちのために、朝田隼人ともある者が一生を投げだすことはない、ひととおりやって気が済んだら山をおりるんだな﹂ ﹁それを云うためにわざわざ来たのか﹂ ﹁いや、用があって来たんだが、それはあとのことにしよう﹂帯刀は旅りょ嚢のうの中から手紙を取り出した、﹁きいから預かって来た、小一郎の手紙もあるそうだ﹂ 隼人はそれを受取って、封を披ひらいた。 あによめの手紙は簡単な時候みまいで、この十七日は亡き良おっ人との一周忌に当るが、お咎めを受けている身の上だから、法要もごく簡略にするつもりである、ということが付け加えてあった。小一郎のは仮名書きであったが、墨をたっぷり含ませた筆で勝手に書いたらしく、字と字がくっついて紙面がまっ黒になってい、殆んど判読することさえできなかった。 ﹁読みかたはおれが教わって来た﹂と帯刀が側から云った、﹁こう読むんだ、――叔父さんは山の中で淋しくないか、小一郎は昨日は晒さらし飴あめを五つと饅まん頭じゅうを三つと、そのあとに、えーと、というのがはいるんだ、それから煎せん餅べいを七枚と芋の田楽を喰べました、もし山の中にも飴や饅頭があるなら、小一郎も叔父さんのところへゆきます、今日は饅頭を三つと、――五つかな、晒し飴を十と、ええばかばかしい﹂ 帯刀は片手を振りあげた、﹁まあそういった文面だそうだ、ぜひおれにこう読めと云うもんだから読んだまでだが、われながらばかなはなしだ﹂ ﹁それほどでもないさ﹂隼人は微笑した、﹁おかげでよくわかったよ﹂ 帯刀は眼を怒らせて隼人を睨にらんだ。 木戸では酒は禁じられていた。帯刀は大きなふくべに酒を入れて持って来、夕食のとき隼人にもすすめたが、隼人は禁を盾に拒んだ。六月十四日といえば真夏であるのに、日が昏くれると気温がさがって、火のない隼人の部屋は、かなり寒さが強く感じられるようであった。帯刀はふくべから湯呑へ、冷のまま酒を注ついで飲みながら、初めのうちは胴ぶるいをしていた。炉の間なら暖かいのだが、帯刀が酒を飲んでいるので、隼人は席を移そうとは云わなかった。塩引の鮭さけを焼いたのと、山やま蕗ぶきの煮浸し、木の芽味噌という肴さかなも、帯刀にはまったく気にいらないらしく、﹁いつもこんな物を喰べているのか﹂と三度も繰り返し訊き、食事は塩からい鮭の茶漬で済ませた。 ﹁酔が出ないようだな﹂茶を注ぎながら隼人が云った、﹁炉の間へゆくと火があるぞ﹂ ﹁いや、ここでいい﹂帯刀は爪楊枝を使いながら云った、﹁片づけさせてくれ、話があるんだ﹂ 隼人は鈴を振って、当番を呼んだ。食しょ膳くぜんが片づくと、帯刀は少し酔が出たらしく、赤らんだ顔で茶を啜りながら、西沢はどうしているかと訊いた。べつにどういうこともない、無事にやっているがなぜだ、と隼人が問い返した。帯刀はそれには答えず、根岸伊平次を知っているな、と訊き直した。 ﹁知っている、道場で稽古をつけていた﹂ ﹁なにか話を聞かなかったか﹂ 隼人は黙って帯刀の顔を見まもった。 ﹁朝田さんの傷の一つが、背中から突き刺されたものだ、ということを話したそうだが、覚えはないか﹂ ﹁それは済んだことだろう﹂ ﹁いや、新しい事実があるんだ﹂と帯刀は云った、﹁根岸から聞いてしらべてみたんだが、勘定方から五百両引出したのは朝田さんではないらしい、朝田さんの印判が使ってあるが、その印判も偽造のようだ﹂ ﹁なんのためにそんなことをしらべたんだ﹂ ﹁なんのためだって﹂帯刀はむっとしたように隼人を見た、﹁朝田さんの罪が無実であり、はたしあいにも不審があるとすれば、しらべてみるのが当然じゃあないか﹂ ﹁それはもう済んだことだ、――小池自身がそう云った筈だぞ﹂ ﹁そう云ったのは事実がわからなかったからだ﹂ 隼人は静かに立ちあがって戸とだ納なをあけ、手文庫の中から一通の封書を取り出すと、戻って来て帯刀に渡した。 ﹁おれが江戸で受取った兄の手紙だ﹂と隼人は云った、﹁日付は十二日、はたしあいをする五日まえに出したものだ、読んでくれ﹂ 帯刀は手紙を披いた。 文面はおよそ次のようなものであった。――勘定方の出納会計から、自分の印判で五百両ちかい金が、不正に引出されているのを発見した。できごころではなく計画的なもので、帳簿の操作も極めて巧みにやってある。誰のしごとかということは、そのやりかたですぐにわかったから、ひそかに呼んで、二人だけで話してみた。その男は自分のしたことだと認め、悪い商人に騙だまされて米の売買に手を出したが、八月末までには始末をつけると云った。おそらくそのつもりだろうが、商人の名はどうしても云わないし、五百両という多額な金の調達はむずかしいと思う。彼は事務にもすぐれた能力を持っているし、平生はあまり口もきかない小心な人間で、親しい友人もないようだ。結婚して二年めになる妻と、生れてまのない子供がいる。人間はどれほど潔白にみえても、生涯に一度や二度はあやまちを犯すものだ、自分にも覚えがある、隼人にもあるだろう。多くの場合は自分の心に傷が残るだけで、身の破滅をまねくような例は極めて少ない。しかしこの男の立場は非常に困難だ。彼の上司だから、自分にもむろん責任がある。自分は責任をとるけれども、その男の将来を考えるとまったく心が昏くらくなる。金は多額だが、返済の方法がないわけではない、問題はどうしたらその男を破滅させずに済むかということだ。これはまだ誰にも話していない、おまえだけに云うのだからそのつもりでいてくれ。どういうわけでおまえだけに伝えたかということはわかってくれると思う。――大体こういう意味のことが書いてあった。 帯刀は読み終った手紙を、膝の上にひろげたまま、眼をみひらいて隼人を見た。 ﹁終りの文句はおれにもわからなかった﹂と隼人が云った、﹁おれにだけうちあけるという理由はなんだろう、考えてみたが見当がつかない、そのまま忘れていると、兄がはたしあいをして死んだ、という知らせを受取った、それから帰藩の沙汰があって、国くに許もとへ帰る途中ふと思いだした、――丹後さま騒動のとき、おれは同志三人と相談して江戸家老を斬ろうと計り、家を出奔しようとしたところを兄に捉まった﹂ そのとき自分は十七歳、剣術には自信があったし、向う見ずな乱暴者で、藩家のために一命をなげうつという壮烈な意気に酔っていた。兄は知っていたらしい、自分を捉まえると意見をしたが、自分は断じてやると主張した。すると兄は力ずくでも止めると云い、組み打ちになった。年も六つ違うが、兄は意外なほど腕力が強く、自分はたちまち組み伏せられてしまった。十三
隼人はそこで言葉を切り、そのときのことを回想するように、暫く眼をつむって沈黙した。 ﹁おれを組み敷いておいて、兄はこう云った﹂とやがて隼人は続けた、﹁江戸家老を斬っても丹後さまがいる以上なんの役にも立つまい、丹後信温さまは殿の叔父に当るから、これに刃を向けることはできないだろう、――丹後さま一味が本当に悪事をおこなっているのなら、それがあらわれずにいるということは決してない、世の中のことはながい眼で見ろ、たいていのことは善悪の配分が正しくおこなわれるものだ﹂ 帯刀は手紙を巻きながら、﹁朝田さんの意見はわかった﹂と頷うなずき、ついで肚はら立だたしげに云った、﹁だがこの手紙を読んでいるのに、なぜ隼人はなにも云わなかったんだ﹂ ﹁忘れたのか﹂と隼人が云った、﹁おれが帰国したときすぐに小池が来て、決闘のことは済んだ、立会い人もあったし、老職の詮せん議ぎでも正当だと認められた、残念だろうが事を荒立てないでくれと、諄くどいほど念を押していたぞ﹂ ﹁それはこういう事実を知らなかったからだ、この手紙を読めば、謀殺だということは明白だし、五百両の件でも朝田さんの無実が証明された筈だ﹂ ﹁それならなぜ、おれが帰国したときにそれをしなかった、小池はおれの口を封じ、ただ騒ぎを起こすなと繰り返しただけじゃあないか﹂と隼人が云った、﹁――こう云っても小池を責めるわけじゃない、立会い人の証言もあり、老職がたの詮議もきまっていた、仮に再吟味を願い出て事実を糾明すれば、兄の罪は消え家かろ禄くは旧に復するかもしれない、だが、死んでしまった兄を生き返らせることはできない﹂ 隼人は頭を垂れ、低い声で続けた、﹁あのとき小池の云ったとおり、慥かにもう済んでしまったことだ、兄はどんなふうに死んだかは知らないし、死ぬときは兄も無念だったろう、しかしいまはもうその男をゆるしていると思う、その手紙にあるとおり、兄がいちばん案じていたのは、どうしたらその男を破滅させずに済むかということだ、――兄はきっともうその男をゆるしている、兄は昔からそういう人だったからね﹂ ﹁慥かに、――朝田さんはそういう人だった﹂と帯刀は頷いた、﹁だがこういう卑劣な人間をそのままにしておいていいと思うか﹂ 隼人は静かに顔をあげた、﹁おれはいつか根岸伊平次に、兄の口まねをしてこう云ったことがある、――人間のしたことは善悪にかかわらず、たいていいつかはあらわれるものだ、世の中のことはながい眼で見ていると、ふしぎなくらい公平に配分が保たれてゆくようだ――﹂ 帯刀は太い息を吐き、あぐらに坐り直して、脛すねをぼりぼりと掻いた。 ﹁では、――﹂と帯刀は云った、﹁このままなにもするなと云うのか﹂ ﹁その男を罪死させるか、侍らしく立ち直らせるかとなれば、兄は必ず後者を選ぶだろう﹂ ﹁隼人自身はどう思うんだ﹂ ﹁こんどの事についてはおれの考えはない、兄ならこうするだろうと思えるようにやってゆくだけだ﹂ 帯刀はじっと隼人の顔を見まもった。 ――人間はこんなにも変ることのできるものか。 帯刀の眼は感嘆の色を湛えた。江戸から帰って以来、隼人は顔つきから人を見る眼色まで変った。暴れ者で一徹で、こらえ性のなかった彼が、兄を殺した相手をゆるし、不当な譴けん責せきを忍び、そして流人村の住民を救おうとしている。――いったいどういう機縁でこんなに変ったのか、死んだ織部どののためか、それとも織部どの同様、もともと彼にもそういう性質があったのか。帯刀は一種のもどかしさと、深い感動の気持の中でそう思った。 ﹁小一郎に返事を書いてくれ﹂と帯刀は話を変えて云った、﹁必ず返事を貰って来ると約束をさせられたんだ、頼むぞ﹂ ﹁今夜のうちに書こう﹂と隼人は頷いた。 ﹁それから、――これはよけいなことかもしれないが、西沢には注意するほうがいいな﹂ ﹁その名を口にしないでくれ﹂ ﹁いや、朝田さんにしたことを考えても、どんな卑劣なまねをするかしれないやつだから、それを忘れないように頼むというんだ﹂ ﹁わかった﹂と隼人が云った、﹁しかしいまの名は二度と口にしないでくれ、ここでは勿もち論ろん、城下へ戻ってからもだ﹂ ﹁よし﹂と帯刀は頷いた。 城下へ帰った帯刀から、七日ほど経って知らせがあり、隣藩の了解を得たから、土を運ぶがよいと云って来た。こんどは道もよいし距離も近いので、ずっと楽だし仕事もはかどり、雪の来るまでに約二反歩ほど土を入れることができた。――けれども、住民たちにはなんの変化もみられなかった。自分たちの肩で土を運び、僅かではあるが自分たちの耕地が出来た。来年も土を運べば耕地はもっと殖ふえるだろう。それはかれら自身のものであり、かれら自身で作物が作れるのである。隼人はそのことをかれらに云った。 ――おまえたちは罪人ではないし、ここはもう流人村ではないのだ。誰に憚はばかることもない立派な領民だ、もし望むなら里へおりてもいいが、ここを動きたくないのなら農耕を覚えるがよい。ものを作り、収穫をするということには、人間だけが味わえる大きなよろこびがある。 ――これは鬼神も鳥けものも知ることのできないよろこびだ。 隼人はそう云った。しかしかれらはなんの反応も示さなかった。鬼神や鳥けものは作物を作らない、というところで、僅か四五人がくすくす笑っただけであった。音曲のほうもそれと同じことで、五日に一度ずつ木戸から四人でかけてゆき、正内老人の住居で一いっ刻とき半演奏をする。隼人も欠かさずいっしょにゆくが、聞きに来るのは男女の年寄が四人か五人で、それも半刻ほどすれば帰ってゆくか、残った者も居眠りを始めるというぐあいであった。 ――いいだろう、根くらべだ。 隼人は失望したが、投げる気持はなかった。正内老人はここへ骨を埋めるつもりで、ここの女と夫婦になり、四十年という年月をかれらのために注ぎ込んで来た。それでも、かれらの殻からをやぶることができなかったのである。――よほどの忍耐と、年月をかけるつもりがなければ、決してうまくはゆくまい、と老人は云った。それに対して隼人は、やれる限りやってみる、辛抱することにかけては自信がある、とはっきり答えた。 ﹁おれもここへ根をおろそうか﹂と或るとき彼は呟つぶやいた、﹁正内老人も根をおろした、老人は眼にこそ見えないが種子を蒔まいた、その種子は村のどこかに根をおろしている筈だ、おれがその種子を育ててみようか﹂ 帯刀は僅か六十人たらずの人間のためにと云った。だが人間は、たった一人のために生涯を賭けることさえある。流人村の住民は古い藩法の置き土産だ。ここを﹁ちくしょう谷﹂と呼ばせるようにしたのは、藩の仕置の怠慢によるもので、住民たちの責任ではない。とすれば、怠慢だった仕置の責任をとり、かれらを人間らしい生活に立ち直らせるのは、藩に仕える者の当然な役目だ。 ﹁思いきってそうしようか﹂とそのとき彼は自分に云った、﹁――あのあやを嫁に貰って、村へ住居を造って﹂ あやという名が口に出たとたん、隼人はつよく眉をしかめた。殆んど無意識に口から出たのであるが、いつか雑木林の中で見せられた彼女の肢した躰いと、それに重なるように、あによめきいの姿が思いうかんだのである。隼人は痛みでも感じたかのように、顔を歪ゆがめながら眼をつむった。 ――きいといっしょになって朝田家を立てないか。 そう云った帯刀の言葉は、まだなまなましく耳に残っているし、きいがそれを承知だということも、ほぼ間違いのないことであった。隼人ときいとは二つ違いで、幼いころは死んだ兄よりも仲がよかった。年が近いので結婚などということは考えたこともないし、兄の嫁になったときも嫉しっ妬と感などはなく、ちょっとがっかりはしたが、兄のためによろこんだものであった。しかし、帯刀からそう云われたときには、どきっとするほどそれがもっとも自然であり、もともと二人はそうなるようなめぐりあわせのうえで生きて来た、というふうに思えたのであった。 ――帯刀は独断で云ったのではない、あの人の意志を慥かめたか、少なくともあの人が承知することをみぬいていたのだ。 帯刀がその話をもちだしたとき、隼人は考えてみようと答えた。ことによったらそうしてもいい、という気持が動いたし、兄も認めてくれるだろうと思えた。だが、これからここに住みついて、村の住民と一生をともにするとすれば、きいとのことは断念しなければならない。きいや小一郎をこんなところで生活させるのは無理だし、帯刀も許さないだろう。 ﹁きいはおれに期待しているだろうか﹂と彼は眼をつむったままで呟いた、﹁断わることはきいの心を傷つけるだろうか﹂ 九月下旬に、檜林で盗伐があった。狩に出ていた村の者がみつけ、木戸から人数が駆けつけた。相手は五人、躰格もよく力も強い男たちで、斧おの、鉞まさかりなどのほか、熊を突く槍などを持って、逆に襲いかかって来た。やむなく隼人は刀を抜いて、もっとも強い一人を斬り伏せ、二人に傷を負わせた。――二人の傷はどちらも足で、倒れたまま動けず、他の二人は逃げ去った。隼人は追うなと命じ、傷ついた二人の手当にかかったが、そのとき西沢半四郎があらわれた。西沢がその場にいなかったことは、自分しか知らないと思っていたが、岡村七郎兵衛も気づいていたとみえ、﹁ようやく重役のおでましか﹂と皮肉な調子で云った。 西沢は屹きっと見返した、﹁重役がどうしたって﹂ ﹁やっといまおでましかと云ったのさ﹂ ﹁それはどういう意味だ﹂ ﹁いままで姿が見えなかったからさ﹂と岡村が云った、﹁それともおれの眼が悪くって見えなかったのかもしれないがね﹂ ﹁岡村、よせ﹂と隼人が叱った。十四
﹁私はあいつらを追っていたんだ﹂と西沢がせきこんで云った、﹁杉林をぬけてゆく二人を私が追っていったことは、誰かがきっと見ていた筈だ﹂ ﹁それはおれが見ていた﹂と隼人が云った、﹁つまらぬ口論はやめろ﹂ ﹁番頭どのは眼がいいですな﹂と岡村が云った。 隼人は岡村の顔を見た。岡村は首をすくめ、この死躰を運ぶから集まれ、と足軽たちに呼びかけた。西沢は一人で脇のほうへ寄り、蒼あお白じろく硬ばった表情で、なにかぶつぶつ独り言を云っていた。――死躰は村の墓地に埋め、負傷者は木戸の仮かり牢ろうへ入れた。隼人が繰り返し訊じん問もんしたけれども、二人は頑強に答えず、盗伐の事実も否定した。檜林では五十年の樹が二本伐られ、一本は根まわりの半ばまで斧が入れられていた。隼人は自分の手に負える相手ではないと思い、詳しい始末書を付けて城下へ送ることにした。 そのころから山は冬の景色に変りだした。空は曇っていることが多く、時しぐ雨れがしばしば降り、風の強い日は、下の谷間から巻きあげられて来る枯葉が、しだいに色褪あせ、ちぢれ、虫くいだらけのものになり、数も日ごとに減るばかりだった。郭かっ公こうや筒鳥に代って、晴れた日にはつぐみやひたき、頬白、あおじなどの声が聞え、木戸の者たちの中には、辛抱づよく粟や稗を撒まいて、かれらを呼びよせようとする者もあったが、岩ばかりのそんな高いところでは、寄って来る鳥もなかった。――土運びが続いているためか、柵さくへ近づく女たちも稀まれになったので、夜の立番はやめてしまった。ときたま夜が更ふけてから、梟ふくろうの鳴きまねの聞えることもあるが、もう寒さがきびしいので、いつまでも立ってはいられないのだろう、長くても半刻くらいすれば帰ってゆくようであった。夜ながになればと待っていたが、音曲のほうは同じことで、聞き手は殖えもせず、興味をもつようすもないので、演奏者のほうが飽きてしまい、乾藤吉郎などは故障を申立てて、休むことばかり考えるようになった。 十月三日に初雪が降った。 正内老人が﹁今年は雪が早そうだ﹂と云うので、隼人は五日に﹁月便﹂を出した。それが今年最後の月便で、盗伐で捕えた二人も伴つれてゆかせた。二人は傷が痛くて歩けないと云ったが、隼人は相手にならず、棒で叩いても歩かせてゆけと命じた。宰領は岡村七郎兵衛と松木久之助で、松木は二度めであるし、岡村は延びていた番明きで、そのまま城下へ帰るのであった。 ﹁もし必要なら﹂と支度ができてから、岡村が隼人に云った、﹁――というのは、もしお役に立つならという意味ですが、もう少し残っていてもいいですよ﹂ ﹁四十日近くもよけいに勤めたんだ、もう帰るほうがいい、御苦労だった﹂と云って隼人は軽く岡村をにらんだ、﹁――もう悪七兵衛などと云われないようにしてもらいたいな﹂ ﹁どうですかね﹂岡村は苦笑しながら、一種の眼つきで隼人をみつめ、低い声に力をこめて云った、﹁――どうか彼に用心して下さい﹂ 隼人は黙って眼をそむけた。 かれらが木戸を出てゆくとまもなく、晴れている空から雪が舞いだし、やむかと思ったが、午ひるすぎには粉雪になってしまった。積っては桟道が危ないだろう、と思っていると、午後二時ころに足軽の一人が戻って来て、かけはしが落ちて通れなくなった、と告げた。――奇妙なことに、そのとき隼人はすぐ、﹁こっちから二つめではないか﹂と訊きき返した。訊き返してから初めて、どうしてそんなことが口から出たのか、自分でもわからないのに気づいておどろいた。 ﹁さようです﹂その足軽は荒い息をしながら答えた、﹁こちらから二番めのかけはしで、支えの柱が折れてしまったのです﹂ ﹁人にけがはなかったか﹂ ﹁木を盗みに来たやつらが落ちました﹂と足軽は手まねをして云った、﹁あの二人を先に立てていったのですが、かけはしのところで、逃げる気になったのでしょう、腰繩のまま二人で駆けだしたのです﹂ 繩尻を取っていた足軽は、かれらが自由に歩けないようすなので、ゆだんをしているところを突きとばされた。二人は繩付きのまま、つぶてのように走っていったが、かけはしの上へ走りこんだとたんに支柱が折れ、はし板ともつれあいながら、谷底へ落ちていった。 ﹁まえから危ないと思っていたのですが﹂と足軽は手拭で顔を拭きながら云った、﹁それでもかげんして渡ればまだ大丈夫だったでしょう、やつらは逃げるのに夢中で、力いっぱい踏みこんだので、腐っていた支え柱が折れたものだと思います﹂ ﹁木戸の者でなくてよかった﹂隼人はそう呟いてから、その足軽に訊いた、﹁ではみんな戻って来るのだな﹂ ﹁もうやがて着くじぶんです﹂ 隼人は考えた。谷へ落ちた二人は、生死を慥かめるまでもないだろう。あの高さでは助かる率はまったくないから。だが﹁月便﹂はぜひもういちど出さなければならない。とすれば、すぐにかけはしを直すことだ。こう思って訊いてみると、村にいる﹁あたま﹂のごんぜという者がやるということで、隼人は村へでかけていった。まず正内老人を訪ねてわけを話すと、ごんぜはもう年も六十だし、冬になると腰痛が出て動けなくなる。おそらく役には立つまいと云いながら、隼人を案内してくれた。――ごんぜは炉端で、夜具にくるまって寝ていた。三日の雪から起きることもできない、と七十あまりの老婆が側から云った。ごんぜの妻のせこじだという、枯木のように痩やせた躯からだが、二つに折れるほど腰が曲っていた。正内老人はそこを出て、粉雪の中を五段めまでおり、源という男を訪ねた。源も六十くらいになろう、妻と、こさという白痴の、二十五歳になる娘の三人ぐらしで、男の子が二人あったが、二人とも山ぬけをしたまま帰らない、ということであった。 ﹁ごんぜの手伝いをしたから、やりかたぐらいは知ってるが﹂と源は拇おや指ゆびのない右足の指を、ぼりぼり掻きながら云った、﹁自分でやったこともないし、もう躯がきかねえからねえ﹂ ﹁やりかたは知っているのか﹂と隼人が訊いた。 ﹁綱でぶら下るだ﹂源は正内老人に向って云った、﹁崖がけの上の木へ綱を掛けてな、その綱でぶら下って、ああ、綱で躯を縛るだな、それでぶら下って、支え柱を打込むだ﹂ こんなふうにやるのだと、幾たびも云い直したり、同じことを繰り返したりしながら、長い時間をかけて、源はその方法を語った。隼人は熱心に聞いていた。もどかしいような顔もしなかったし、こまかいところは納得のゆくまで問い糺ただした。 源の住居を出ると、﹁木戸でなさいますか﹂と老人が訊いた。そうするつもりだと隼人は答え、老人に礼を述べて木戸へ帰った。﹁月便﹂の者たちも戻ってい、岡村七郎兵衛が、仔しさ細いを話そうとしたが、隼人は﹁わかっている﹂と制止して、そのまま倉へいった。岡村はあとからついて来ながら、かけはしをどうするかと訊いた。もちろんすぐ架かけ直すんだ、と隼人は答えた。 ﹁ごんぜは承知しましたか﹂ ﹁いや﹂隼人は倉の戸の鍵かぎをあけながら首を振った、﹁おれたちの手でやるんだ﹂ ﹁それにしては季節が悪いですな﹂ 隼人は倉の中へはいり、太綱を解いてしらべてみた。それは直径二寸ばかりの麻の綱で、長さは一と巻きが三丈五尺で、三巻きあった。 ﹁百尺とちょっとか﹂隼人は呟いた、﹁まにあえばいいが﹂ 彼は岡村に手伝わせて、三巻きの綱を外へ運び出した。一と巻きでも担ぐのに骨が折れるほど重い、隼人はそれを柵のところへ持ってゆくと、一と巻きずつ解いて、柵の杭くいにひっかけたが、ちょっと考えてから、誰でもいい、力のありそうな者を三人ばかり呼んで来てくれ、と岡村に云った。岡村は走ってゆき、小野大九郎と松木久之助、それに足軽組頭の石岡源内を伴れて来た。隼人は綱の強さをためすのだと云い、自分と岡村とで一方につき、小野と石岡が一方についた。松木は巻いてある綱を繰り出す役で、ひっ掛けた杭を中心に、二た組四人の力で引きあいながら、一寸も余さず、順に辷すべらせてゆき、三巻きとも大丈夫だということを慥かめた。四人は雪をかぶったまますっかり汗をかいていた。 ﹁よし、これを役所へ持ってゆかせてくれ﹂と隼人は石岡に命じ、岡村たちと戻りながら云った、﹁明日は下見にゆくから、この三人でいっしょに来てくれ﹂ ﹁晴れたらでしょう﹂と岡村が訊いた。 隼人はぶっきらぼうに答えた、﹁吹雪でもさ﹂ 岡村七郎兵衛は小野と松木に、唇を反らせながら肩をゆりあげてみせた。 明くる朝六時。足軽たち八人に綱を担がせて、隼人たち四人は木戸をでかけた。夜半に風が吹きだしたとき、雪はやんだらしいが、風が強いために、積った粉雪が舞い狂うので、しばしば視界を遮さえぎられ、なかなか道がはかどらなかった。源に教えられたとおり、一つめのかけはしを渡ると、左にはざまがあった。勾こう配ばいの急な狭いはざまで、笹ささを掴みながらまっすぐに登り、登り詰めたところで右へ曲った。むろん道などはない、葉の落ちたから松や杉などが林をなしてい、地面は笹で掩おおわれている。――三巻きの綱が重荷で、はざまを登るのに半刻ちかくかかったろう。林の中をゆくのにも、下枝を折ったりくぐったり、またあとへ戻ったりしたので、目的の二本杉をみつけたときは、もう十時を過ぎたころのようであった。源の云った二本杉の、一本は枯れていた。どちらも樹齢は二百年くらいとみえ、そこから三十歩ほど東へゆくと、崖になっていた。地形はほぼ三角形で、突端に当る崖の下が、落ちたかけはしの位置になる筈であった。 ﹁慥かに此こ処こですか﹂と岡村が訊いた。 隼人は崖の端へ腹はら這ばいになり、かれらに足を押えさせて、下を覗のぞいて見た。しかし崖の中途に岩が張り出ていて、その下を見ることはできなかった。十五
隼人は立ちあがって、躯に付いた雪と岩いわ屑くずを払った。 ﹁ここからは見えない﹂と彼は云った、﹁おりてみるから綱を解いてくれ﹂ ﹁貴方がおりるんですか﹂と岡村が訊いた。 ﹁綱を解いて﹂と隼人は足軽たちに云った、﹁それを一本につないでくれ﹂ ﹁こんなことは貴方の役ではない﹂と岡村が云った、﹁私がやりますから任せて下さい﹂ ﹁こんなことは誰の役でもないさ﹂と隼人が云った、﹁ただおりて見るだけではなく、しらべて来ることがあるんだ、まあ黙って見ているがいい﹂ 岡村七郎兵衛は憤然とそっぽを向いた。 綱は太いうえに固く、つなぎ合せるのに暇がかかった。隼人は両刀を小野に預け、綱の一端を胴のところで二重に巻いて結ぶと、他の端を杉の幹へまわさせた。杉の幹を支えに綱を繰り出すこと、それにかかるのが五人、一人は崖の端にいて、隼人の合図を伝えること、などを命じた。――岡村七郎兵衛が崖の端に立ち、隼人は崖を下っていった。綱に擦こすられて、岩屑や雪が落ちて来、隼人は﹁笠が必要だな﹂と呟いた。 ﹁なんですか﹂と上から岡村が問いかけた。 隼人は﹁なんでもない﹂と答えた。 岡村七郎兵衛は手をあげて、足軽たちのほうへ静かに、手招きのような合図をしてみせていた。まもなく下から、﹁止めろ﹂という声が聞え、岡村が動かしていた手を止めると、綱はぴんと張ったまま止められた。 ﹁やっぱり此処だ﹂と隼人の云う声がした、﹁かけはしは半分落ちただけらしい、――もう少しおろせ﹂ 岡村はその合図をし、綱は繰り出された。ほどなくまた﹁止めろ﹂という声がし、綱のゆとりはあるかと訊いて来た。足軽たちにしらべさせて、松木が﹁二丈とちょっとだ﹂と答え、それを岡村が隼人に伝えた。 ﹁よし﹂と隼人が云った、﹁少ししらべるから、綱を木へ結んでおけ﹂ 隼人はなにをしているのか、かなり長いあいだ声もせず、物音も聞えなかった。松木と小野がこっちへ寄って来、大丈夫かな、と心配そうに呟いた。岡村七郎兵衛はむっとした顔つきで、粉雪の舞い狂っている谷の向うを眺めていた。やがて﹁あげろ﹂という声が聞え、岡村たちも綱に付いて、静かに引き揚げた。あがって来た隼人は、頭や躯を払いながら、大丈夫やれる、明日来てやろう、と云った。支柱の木はここの林の杉を使い、渡す板は木戸から持って来ればいい。来年の春になったら本式にやり直すとして、とにかく仮のものを造っておこう、そう云って、小野大九郎から両刀を受取り林の中へはいっていった。 崖に穿うがってある支柱の穴に合わせて来たのだろう、ふところから出した紐ひもには結び目があり、目測で選んだ杉の幹を、その紐ひもで巻いて計っていった。 ﹁しまったな﹂と隼人は計りながら独り言を云った、﹁鋸のこぎりと斧おのを持って来るんだったな、そうすればここで支柱が作れたんだ﹂ 岡村が云った、﹁そうなにからなにまで、独りで思いつくものじゃありませんよ﹂ ﹁気にするな﹂と隼人が云った、﹁ただの独り言だ﹂ 岡村七郎兵衛は肩をゆりあげた。 隼人は選んだ七本の杉に、脇差の刃で印を付け、綱を二本杉の根元に置かせると、あたりを眺めまわしてから﹁帰ろう﹂と云った。木戸へ戻ったのは午後二時まえだったが、木戸のずっと手前で、その方向に煙のあがっているのが見えた。風はかなり弱くなっていて、青みを帯びた鼠色のその煙は、木戸のあたりから左へとなびいていた。 ﹁あの煙はなんだ﹂と小野がまず云った、﹁まさか火事じゃないだろうね﹂ ﹁まさかこの昼なかに﹂と松木が云った、﹁まさかね﹂ ほかの者は黙ってい、石岡源内が組下の者にいってみろと命じた。若い足軽の一人が駆け登ってゆき、みんなも足を早めた。 ――あれだけの煙は火事でなければ出ないだろう。 火事だとすれば水と人手が足りない。水は木戸から五丁も下の、僅かな湧わき水を運びあげて使う。大おお樽だるに五つは常備してあるが、火事が大きくなればまにあわない。おまけに足軽八人と番士三人を伴つれ出したから、あとは小者まで加えても九人しかいない。これはかけはしどころではないぞ、隼人は思った。――駆け戻って来た若い足軽が、火事は倉ですと告げたとき、岩と岩のあいだに、火の粉が美しく舞いあがるのが見えた。 ﹁綱を掛けて引き倒したのです﹂と若い足軽はそれを指さして云った、﹁長屋や役所へ火が移りそうなので、綱を掛けて引き倒すところでした﹂ 隼人は黙ってさらに足を早めた。 木戸のまわりには、村の住民たちが六七人、柵さくにつかまって見物してい、その中から正内老人が出て来た。住民が柵の中へはいることは禁じられている。隼人は手まねで﹁どうぞ﹂という意味を示したが、老人には構わず、大おお股またに倉のほうへいった。――そこはまだ濃密な煙に包まれてい、倒れた倉の残骸を、橙だいだい色のが舐なめていたし、穀物の焦げる香ばしい匂いが、咽むせるほど強く漂っていた。――隼人の姿を認めたのだろう、乾藤吉郎が走って来た。役所の羽目板へ水をかけていたらしく、片手に手てお桶けを持ったまま、頭からぐしょ濡れになっていた。彼のあとから、西沢半四郎も走って来、乾より先に﹁申し訳ありません﹂と頭を垂れた。 ﹁どうしたのだ﹂隼人は穏やかな声で西沢に訊いた、﹁倉には火のけがないのに、どこから出たんだ﹂ ﹁放火だと思います﹂ ﹁中で女の声がしました﹂と乾が云った、﹁倉へはいって火をつけたのでしょう、気がついたときはもう手がつけられないありさまで、中から女の声が聞えて来ました﹂ 隼人はきっと下唇を噛かんだ。 ――鍵を掛け忘れた。 昨日あの綱を出したとき、役所へ運んでおけと云ったまま、戸前の鍵を掛け忘れた、と隼人は思った。そして、中から女の声がした、という言葉に気づき、どきっとして、われ知らず西沢半四郎の顔を見た。 ﹁それで、女はどうした﹂ ﹁知りません﹂西沢は首を振った、﹁女の声を聞いたのは乾だけで、私やほかの者は聞きませんでしたから﹂ ﹁いや女の声が聞えたのは慥かです﹂と乾は挑みかかるように云った、﹁私はまっさきに駆けつけたんですが、引き倒すちょっとまえにも叫び声が聞えました、ほかにも慥かに聞いた者がある筈です、私は﹂ 隼人が手をあげて遮った、﹁そして女はどうした、倉の中から出たようすか﹂ ﹁そうではないと思います﹂ ﹁中にいるのがわかっていて、そのまま倉を引き倒したのか﹂ ﹁いちめんの火でどうにもなりませんでしたし、役所や長屋へ火が移りそうでしたから、ほかにどうしようもなかったのです﹂ 隼人は正内老人を眼で捜した。老人は役所の脇に立ってい、隼人はそっちへ歩み寄った。老人は隼人の話を聞くと、それは唖お者しのいちだろうと云った。親のぶろうが柵の外に来ているが、いちはまえから木戸の誰かを恨んでいるらしく、いつか火をつけてやると云い続けていた。それで木戸が火事になったので、娘を捜したがどこにもいず、いそいでここへ駆けつけて来た、ということであった。 ﹁いちのしたことだとわかれば、どんなお咎とがめを受けるかわからない、いまのうちに逃げようか、などと申しておりました﹂ ﹁いや、そんなことはない﹂と隼人は頭を左右に振った、﹁娘に恨まれるようなことをした木戸の者にこそ責任はあるが、娘の親を咎めるような筋は決してない、その心配は無用だと伝えて下さい﹂ 死躰が出たら渡すからと云って、老人をぶろうのところへゆかせ、隼人はまた火事場へ引返した。 穀物が焼け残っているかもしれないので、水を掛けるわけにゆかず、火の鎮まるのを待って死躰を捜し出した。隼人はその場にいなかったが、粟の下になっていた死躰は、着物が少し焦げただけなので、いちだということはすぐにわかり、待っていたぶろうと村の者たちに渡した、という報告を聞いた。穀物で焼け残ったのは米が五俵、ほかに麦や粟などが一石足らずということであった。 ﹁こうなると、かけはしがいよいよ大事になりましたな﹂と岡村七郎兵衛が云った、﹁雪の来ないうちに来年四月までの食糧を運ばなければならないでしょう、運びきれますかね﹂ ﹁かけはしは明日やるよ﹂と隼人は云った、﹁運びきれなかったら雪が来たって運ぶまでさ、岡村は番があいたんだから、そんな心配をすることはないだろう﹂ ﹁番を延ばすことができますよ﹂ ﹁そんな必要はないさ﹂ ﹁面白いな﹂と岡村が云った、﹁町奉行へ願い出れば番を延ばすことができるし、それを拒む権限は貴方にはないんですよ﹂ 隼人はじっと岡村七郎兵衛の眼をみつめ、それから云った、﹁おまえはいったいなにを考えているんだ﹂十六
﹁なんにも﹂と岡村は首を振った、﹁なんにも考えてなんかいやしません、どうやら貴方の側のほうがいごこちがいいんでしょう、そんなところらしいですよ﹂ ﹁ばかなやつがいるものだ﹂ ﹁でしょうとも﹂と岡村が云った、﹁なにしろ朝田隼人の後輩ですからね﹂ 隼人は立ちあがって、外出の支度をした。 ﹁これからおでかけですか﹂ ﹁ちょっとぶろうをみまって来る﹂と隼人は云った、﹁明日は早くでかけるから、もう寝るほうがいいぞ﹂ 隼人は流人村へゆき、正内老人を訪ねた。老人は﹁ここでは仏事などはしないから﹂と云ったが、とにかく案内してくれた。老人の云ったとおり、ぶろうの家では通夜もせずに寝てしまったらしく、老人が呼んでも起きるけしきはなかった。隼人は老人に礼を云って、いっしょにそこを去りながら、ここでは仏事などはしない、という言葉にひどくまいってしまった。 ――いったいかれらは、人間の生死をどう考えているのだろう。 正内老人はいつか、ここがちくしょう谷と呼ばれていることを忘れないでくれ、と云った。しかし、肉親の死をとぶらうことさえしないとはどういうことか。そんなにまで人間らしさを失うということがあり得るだろうか。隼人は毒を舐めでもしたような、悪おし心んを感じながらそう思った。 ﹁かけはしはいかがでした﹂と正内老人が訊いた、﹁架け直しができそうですか﹂ ﹁下見をして来ましたがやれそうです﹂と隼人が答えた、﹁倉が焼けたので、食糧の補給をしなければなりませんから、明日いってやるつもりです﹂ ﹁お役に立てるといいのですが﹂と老人は低い声で云った、﹁ここの人間は御迷惑をかけるばかりで、まことにお詫わびの申しあげようもございません﹂ ﹁村の人たちをこのようにしたのは藩の責任です﹂と隼人は答えた、﹁音曲のことでも、耕地のことでも、じつを云うと幾たびも投げたくなるのですが、藩の仕置に責任があったことを思うと、やはり及ぶ限りやってみようという気持になるのです﹂ ﹁私は失敗致しました﹂と老人が深い声で云った、﹁こんなことを申上げるのはいかがかと思いますが、朝田さまも失敗なさるかもしれません、そんなことのないように祈りますけれども、肝心なことは失敗するかしないかではなく、貴方が現にそれをなすっている、ということだと思うのです﹂ 老人はそこで言葉を切った。自分の云ったことの意味が、そのとおり隼人に理解されるかどうかをうかがうかのように。そして隼人が黙って頷くのを見ると、失礼なことを云って申し訳がない、気に障ったらゆるして頂きたい、と辞儀をした。 ﹁いや、こちらこそ﹂と隼人は会釈を返した、﹁こんな時刻に御足労をかけて済みません、かけはしを直したらまた御相談にあがります﹂ ﹁お待ち申しております﹂と云って、老人は夜空を仰いだ、﹁明日は晴れるようでございますな﹂ 翌朝、隼人は四時に起きた。老人の云ったとおり、まだ暗い空はいちめんの星で、微風もなかったが、寒さは真冬のようにきびしく、地面はすっかり凍っていた。昨夜のうちに揃そろえさせておいた、かけはしに使う渡り板は、まっ白に霜をかぶってい、数えてみると、命じておいたより十枚も多くあった。 ﹁穴をこじる物と槌つちだな﹂隼人は洗面をしながら呟つぶやいた、﹁槌があればいいが﹂ 朝食のまえに、隼人は博多の男帯二本で股当てを作った。綱で躯を縛るだけでは、動作が自由にいかないことがわかったからである。帯二本で二つの輪を作り、それを綱の先端へ繋つなぐようにする。輪の一つ一つへ足を入れて躯を吊つれば、両手が使えるから仕事が楽に出来る、と考えたのであった。――穴をこじるための鉄かな梃てこや槌は、小者たちが持っていた。道具類は倉にあったので焼けたが、それでも斧や手斧、鋸など、必要な品はたいてい揃えることができ、六時ちょっと過ぎには木戸をでかけた。人数は岡村七郎兵衛に乾藤吉郎、松木久之助と足軽六人で、弁当を持った小者が二人付いた。 晴れてはいるが、寒気の強いため、道は凍っていて滑りやすく、重い板を運ぶのにかなり苦労した。第一のかけはしを渡ってから、板を運ぶ組は別れて、そのまま道を下り、隼人らの組は昨日のはざまを登った。そして、二本杉までいって、印を付けた杉を伐きり、支柱にする杭を作っていると、板を運んだ組が登って来た。――隼人は陽の当るところで、綱の先に股当てを繋いだり、槌や鉄梃を肩から吊るように、革紐で結んだりした。 ﹁今日は私にやらせてくれませんか﹂と岡村七郎兵衛が来て云った、﹁貴方に出来ることなら私にも出来るでしょう、なにも貴方が一人占めにすることはないと思いますがね﹂ 隼人は眼もあげなかった。 ﹁おまえが番を延ばすことを、拒む権利はおれにはないそうだが﹂と隼人は云った、﹁おれが番頭として当然やるべき仕事をするのに、よけいな口出しをする権限は﹂ ﹁きさまにはない、ですか﹂岡村はわざと憎たらしい調子で云った、﹁私にはどうも貴方が臨済かなにかの修行僧のようにみえてしようがないんですがね﹂ 隼人は黙っていた。そして、岡村七郎兵衛が言葉を継ごうとすると、その出ばなを挫くじくように云った。 ﹁そう人をおだてないでくれ﹂ 岡村は口をつぐみ、それから、ひそめた声で云った、﹁私はときどき貴方の顔を、拳げん固こで思うさま殴りつけたくなることがある﹂ ﹁どうしてやらないんだ﹂ ﹁まえならやってますよ、しかしいまはだめです、いまの貴方は殴り返さないでしょうからね﹂と岡村は云った、﹁藩校の道場で、私が稽古をつけてもらっていたころの貴方は、もっときっぱりと男らしかった、稽古のつけかたもきびしく水際立っていたし、怒ったときの貴方の眼を、見返すことのできる者は一人もいなかった、ところがいまはまったく違う、貴方は決して怒らないし、気の弱い母親のような眼で人を見る、――朝田さん﹂岡村はそこでもっと声をひそめた、﹁いったい貴方はなにを考えているんですか﹂ 隼人は初めて顔をあげた。 ﹁西沢をどうするんです﹂と岡村が云った、﹁白状しますが、このまえ小池帯刀さんがみえたとき、じつはお二人の話を聞いてしまったんです﹂ 隼人は眼をつむった、﹁どういうわけだ﹂ ﹁知りたかったからです﹂と岡村は云った、﹁貴方が番頭になって来られると聞いたときから、私はおよその事情を察していました﹂ ﹁その話はまえに済んでいる﹂ ﹁そのとおりですが、私はそのままは信じなかった、私は貴方が本心を隠していると思いました﹂と岡村は云った、﹁それ以来ずっと、私は貴方のなさることをゆだんなく見まもっていたんです、そこへ小池さんが来られたので、これはなにかあると思うのが当然でしょう﹂ そう思ったのは自分一人ではない、西沢半四郎も不安そうなようすで、隙があれば隼人の部屋へ近づこうとしていた。そうさせないためもあって、自分はわざと西沢に見えるように、部屋の外に立って、二人の話を聞いたのである、と岡村七郎兵衛は云った。 ﹁織部さんの手紙の内容も、話のぐあいでおよそわかりました、しかし、――しかしですね﹂岡村はむきな口ぶりで云った、﹁亡くなった織部さんが、いまはその男をゆるしているだろう、という貴方の意見は、誤っているとは思いませんか﹂ 隼人は眼をつむったまま黙っていた。 ﹁それは法というものを嘲ちょ弄うろうすることになるとは思いませんか﹂ 隼人は静かに頭を左右に振った、﹁法は最上のものではない、法を完全におこなおうとすれば、この世で罪をまぬがれる者はないだろう、人間はみな大なり小なり罪を犯している、この世にはあらわれずにいる罪が充満しているといってもいいくらいだ﹂ ﹁それは理屈です﹂と岡村が云った、﹁そういう一般論はいいですよ、しかしこれは貴方にとって肉親の問題でしょう、兄上である織部さんを殺し、朝田家に汚名を衣きせた卑劣な男を、貴方はゆるしきることができますか、人間が人間をゆるすとか、救うとかいうことには限度がありますよ﹂ ﹁小池との話を聞いたのなら、覚えている筈だ、おれは兄ならこうするだろうと思うとおりにやるだけだ﹂隼人は立ちあがりながら云った、﹁ゆるすということはむずかしいが、もしゆるすとなったら限度はない、――ここまではゆるすが、ここから先はゆるせないということがあれば、それは初めからゆるしてはいないのだ﹂ ﹁織部さんが本当にそう望まれると、信じていらっしゃるんですか﹂ ﹁おれは兄をよく知っているよ﹂隼人は革紐を結んだ鉄梃と槌を取りあげ、紐を肩に掛けて吊りぐあいをためした、﹁――もういちど念を押しておく、この話はもう決してしないでくれ﹂ 岡村七郎兵衛は肩をゆりあげ、﹁貴方を一つ思いっきり殴れたらいいんだがな﹂そう云って、杭を作っている足軽たちのほうへ去った。隼人は眉をしかめた。気張ったようなことを云ったあとの後悔で、口の中いっぱいに苦い味がひろがるように感じ、眉をしかめながら舌打ちをした。そこへ乾藤吉郎が走って来て﹁支柱の寸法を見て下さい﹂と云った。十七
支柱にする杭は直径七寸、長さは六尺で七本作った。穴へ嵌はめ込むところを二尺だけ皮を剥はぎ、あとは皮付きのままで、これは出来あがるとすぐ、はざまをまわって桟道へ運ばせておいた。 隼人は杉の割り木で、楔くさびを十ばかり作ると、それを両の袂たもとに入れて立ちあがった。そのとき、杭を運んだ足軽たちといっしょに、村のあやがやって来た。あやははにかみ笑いをしながらこっちへ近よって、こくんとお辞儀をした。岡村七郎兵衛が横眼で隼人を見た。 ﹁どうしたんだ﹂と隼人はあやに云った。 ﹁正内のおじいさんから聞いて﹂とあやはまだ肩で息をしながら云った、﹁心配でしようがないから見に来ましたの、そうしたらあの人たちに会ったので、ここへ伴れて来てもらったんです﹂ 隼人が頷くと、岡村七郎兵衛がつっけんどんに﹁下に誰かいなくていいのですか﹂と訊いた。 ﹁下にいても手伝いはできないんだ﹂と隼人は静かに答えた、﹁みんなで綱にかかってくれ、岡村は昨日のように合図役だ﹂ それからあやに云った、﹁見るなら温おと和なしくしておいで、いいね﹂ あやはきまじめな顔でこっくりをした。 鉄梃と槌を肩から吊り、崖の端へいってから股当てを着けた。そして頭巾をかぶり、綱を引きこころみてから、ゆっくりと崖をおり始めた。岩屑が散って来、眼の前にある岩肌が、陽にあたためられて爽やかに匂った。股当てのぐあいはよく、躯に加わる綱の力がずっとやわらげられた。足を岩に踏張りながら、隼人はふと﹁そうか﹂と呟いた、﹁かけはしが落ちたと聞いたとき、こちらから二つめかとすぐ訊き返したのは、老人のうちで寝ているときに、誰か話していたことが記憶に残っていたんだな﹂隼人はそっと首を振った、﹁つまらないことが記憶に残るものだな﹂ 桟道のところで彼は綱を止めろと命じた。かけはしの残った部分は、そこから少し左寄りにある。隼人は岩を蹴けってはずみをつけ、振子のように躯を振って、かけはしの上へ移った。その残った部分も、落ちたほうの支柱の一本が腐っていた。隼人は用心してその上を歩き、新しい支柱の置いてある場所を慥たしかめた。――そこは断崖の尖せん端たんを向うへまわった、かけはしの袂たもとに置いてあり、一本ずつに麻繩で背負い紐が付いていた。それを慥かめてから、隼人はまた綱を引きこころみ、躯を断崖のほうへ戻した。――綱の長さを少し伸ばさせ、まず左の端にある穴から仕事を始めた。腐って折れた支柱の残りを、鉄梃でこじり出し、穴の中をきれいにするのだが、穴は斜めに上へ向いているし、支柱のいちばん元に当るところは、どれもまだしっかりしているため、こじり出すだけでも予想外に暇がかかった。 ﹁とにかく﹂と隼人は汗を拭きながら呟いた、﹁うまくゆくかどうか、まず一本ためしてみるとしよう﹂ 鉄梃の革紐をしっかりと肩に掛け、岩を蹴ってはずみをつけると、隼人はかけはしへ移って、支柱の一本を背負いあげた。麻紐はしっかりしてい、充分に支柱の重さに耐えそうである。隼人は源に云われたことを、頭の中で繰り返しながら、上を見あげて叫んだ。 ﹁杭を背負ったぞ、聞えるか﹂ ﹁聞えます﹂と岡村がどなり返した、﹁どうしますか﹂ ﹁綱に重みがかかるから注意してくれ﹂ ﹁大丈夫です、こっちは総掛りです﹂ 隼人は身に付けた物を、いちいち手で触ってみてから、静かにかけはしから身を放した。股当てを思いついたのはよかった。肩を緊めつける支柱の重さが、意外なほど大きいのにおどろきながら、隼人は自分に頬笑みかけた。綱を巻いただけでは、その重みだけで手も足も出なかったであろう。しかしこの股当てがあればやれるぞ、と彼は思った。 ﹁あせるな、一日かかって一本でもいい、それでも七日あれば支柱は出来るぞ﹂と隼人は呟いた、﹁岩の縁を欠かないこと、穴へ杭を差込むには、だましだましやること、それから、絶対に下を見ないこと﹂ 眼の下は百尺以上もある断崖で、はるかな渓流の音を聞くだけでも、その高さがわかるように思えた。隼人は決して下を見なかったし、渓流の音も聞かないようにつとめた。――第一の支柱はうまくはいった。少し隙間があるので、楔くさびを下側に三本打ち込むと、隼人が全身の力を掛けても微動もしなかった。 ﹁どうだ、ちょっとしたものじゃないか﹂と云って隼人は首を振った、﹁なんでこうむやみに独り言が出るんだ、まるで老いぼれたやもめ男のようだぞ﹂ 彼はかけはしへ戻り、二本めの支柱を背負った。そのとき岩蔭から、一人の男がとび出して来た。黒い山着のような着物に、黒い頭巾をかぶっていたが、そのけはいを感じて隼人が振返ると、いきなり刀で斬りつけて来た。隼人にはただ黒い姿と、白刃の閃せん光こうしか眼にはいらず、綱を掴つかんですばやく断崖へ跳んだ。空を切る刀の音が二度聞え、隼人の躯は綱に吊られて、振子のように左右へ揺れた。相手の男はかけはしの端へ乗りだし、隼人の躯が揺れ戻って来ると、断崖に垂れている綱を切ろうとした。隼人は支柱を背負っているため、その重みで綱の揺れを止めることができず、男の刀は四たびまで綱に当った。――隼人は﹁よせ﹂と叫ぼうとした。そのかけはしは危ない、落ちるぞと叫びたかったが、舌が動かず、声も出なかった。男は逆上したようすで、五たびめにはもっと身を乗りだし、力任せに綱へ向って刀を振った。すると、その力を支えきれなかったのだろう、端の支柱が折れ、かけはしの端の板が三枚、殆んど音もなく崩れ落ちた。 男はあっと叫んだ。彼の手から刀が飛び、彼は身をおどらせて、いま隼人が打ち込んだばかりの、新しい支柱にとびつき、両手で辛くもしがみついた。――隼人は相手を見まもった。頭巾がずれて、顔の半分があらわに見える。それは西沢半四郎であった。隼人はじっとその顔をみつめてい、西沢は支柱にしがみついたまま、はっ、はっと激しく喘あえいでいた。 これはあまりに残酷だ。 隼人はそう思った。 ――人間がこんなにもみじめに、敗北した姿を曝さらすということがあるだろうか。 西沢半四郎がそろそろと首を廻して、隼人のほうを見た。彼の顔は恐怖のため仮面のようになり、両眼は瞳どう孔こうがひらいているようであった。西沢の口があいて、歯が見えた。白くなった舌が、力なく唇を舐め、ついで、ひしゃげたような声が聞えた。 ﹁――助けて下さい﹂西沢は隼人の眼をみつめながら、たどたどしい口ぶりで云った、﹁お願いです、――助けて下さい﹂ そのとき隼人の眼の色が変った。西沢を見るときにはいつも、木か石ころでも見るような眼つきをしたが、助けてくれと云う声を聞いたとたんに、あの親のない赤児を見るような、やわらかくあたたかい色に変った。 ﹁動いてはいけない﹂と隼人は云った、﹁いまゆくからじっとしていろ﹂ 隼人は背負っていた支柱の負い紐を、肩から外した。支柱は背中から落ちてゆき、断崖に当って二度ばかり音を立てたが、下へ落ちた音は聞えなかった。隼人は崖を蹴ってはずみをつけ、西沢の側へ揺れてゆくと、両手でしっかり彼を抱き取った。両手と両足で隼人にしがみついた西沢は、隼人の胸に顔を押し当てて、すすり泣いた。 ﹁どうかしましたか﹂と崖の上から岡村がどなった、﹁あがって少し休んだらどうですか﹂ ﹁杭を一本落してしまった﹂と隼人が答えた、﹁まもなくあがるが、杭をもう一本作っておいてくれ﹂ それから西沢に向って囁ささやいた、﹁一つ約束をしてもらうことがある﹂ ﹁私は死ぬべきでした﹂と嗚おえ咽つしながら西沢が云った、﹁貴方に助けてもらうなんてあさましすぎる、どうして助けてくれなどと云ったのか、自分でもまったくわかりません﹂ ﹁その話は木戸へ帰ってからにしよう、もし少しでも済まないという気持があったら、温和しく木戸へ帰ると約束してくれ﹂ ﹁私にはわかりません﹂西沢は声を忍んですすりあげた、﹁どうしていいのか、なんにもわからなくなりました﹂ ﹁しっかりつかまっていろ﹂ 隼人はそう云って、注意ぶかく崖を蹴った。西沢は身をちぢめて、しがみついた手足に力をいれ、躯ぜんたいでふるえた。隼人はいそがず、ゆっくりと揺れを大きくしてゆき、かけはしの残った部分へ足が掛ると、それが落ちないことを慥かめてから、はじめて西沢をはなし、自分も渡り板の上におりた。 ﹁いまのことは私と西沢自身しか知ってはいない﹂と隼人は云った、﹁西沢には妻女とまだ幼い子があるそうだ、今日のことは耐えがたいだろうが、ここまでくれば底の底だ、これを立ち直る機会にする気はないか﹂ 西沢は崩れるようにそこへ膝ひざを突いた。 ﹁もしその気になれず、恥ずかしいからといってここで無分別なことをするようなら﹂と隼人は続けた、﹁おれはあったことをすべて老職に訴えて出る、そうすれば妻子がどうなるかはわかるだろう、――わかるだろう﹂ 西沢は深く頭を垂れた。 ﹁木戸へ帰って話しあおう﹂と隼人は云った、﹁恥辱を耐えぬくということも立派な勇気だ、こんどはその勇気をみせてくれ、そのくらいのことはできる筈だぞ﹂ ﹁木戸へは帰ります﹂西沢はかすれた声で云った、﹁あとのことはわかりませんが、木戸でお帰りを待っていることはお約束します﹂ ﹁では今夜また会おう﹂と隼人が云った、﹁人の眼につかないように帰ってくれ﹂十八
隼人は自分の肌に、西沢の躰たい温おんが残っているのを感じた。綱で吊られた隼人の躯からだに、西沢は両の手足でかじりつき、そうして身をちぢめながら躯全体でふるえていた。
――臆病な、弱い人間なんだな。
その夜木戸の居間で、西沢半四郎と向きあって坐りながら、隼人は心の中でそう思った。西沢のこの臆病なこころと弱さを、兄も知っていたに相違ない。それで兄は西沢を庇かばおうとし、逆に西沢の奸かん計けいにかけられたのだ。しかし、あの断崖の支柱にしがみついて﹁助けて下さい﹂と云うあの声を聞いたら、おそらく死んだ兄でも助けの手をさしのべたことだろう。西沢は罪を犯したが、犯した罪を糊こ塗としようとして、逆に自分の正体を曝ばく露ろしてしまった。今日の彼の失敗は、どんな刑罰にもまさる刑罰だ、と隼人は思った。
﹁今夜はなにもかも云ってしまいます﹂西沢は頭を垂れて云いだした、﹁かけはしのとき貴方は、ここまでくれば底の底だと云われましたが、ここへくるまでの私が、どんな気持で毎日をすごしていたかということを知って頂けたら、私にとってあの言葉がどれほど救いになったかもわかって頂けると思います﹂
﹁その話はもう無用だ﹂
﹁私はすっかり聞いて頂きたいのです﹂
﹁いやその必要はない、話して肩の荷をおろしたいということかもしれないが、その荷をおろすことはできない、それは西沢が一生背負うべきものだし、一生背負いとおす責任があることもわかっている筈だ﹂
﹁では、聞いて下さらないのですか﹂
隼人は立ってゆき、戸納の手文庫の中から、兄の手紙を出して来て、西沢半四郎の前へ押しやった。
﹁聞く必要のないことは、その手紙を読めばわかる﹂と隼人は云った、﹁江戸で兄から貰った手紙だ、読んでくれ﹂
西沢半四郎はすぐには手を出さなかった。なにが書いてあるかということがわかるからであろう、膝をみつめたまま、やや暫く息をひそめてい、やがて心をきめたように、その手紙を取りあげた。まるで灼しゃ熱くねつした鉄でもつかむような手つきであった。
――兄上、どうか彼をごらんになっていて下さい。
隼人は心の中でそう云いながら、西沢のようすを見まもっていた。自分が見るのではなく、自分の眼をとおして兄が見ているようなおもいで、――初め、西沢半四郎の顔には苦くも悶んの表情があらわれた。ついでそれは血のけを失って硬ばり、頬のあたりがひきつった。呼吸が苦しくなったように、唇があいて、息づかいの荒くなるのが聞えた。
――おれは無むざ慚んなことをしている。
隼人は歯をくいしばった。
――だがこれはどうしてもやらなければならないことだ、これは兄へのたった一つの供養であり、西沢を立ち直らせるためにも、避けてはならないことだ。
隼人は矢を射かけられたことを思い、頭上から岩を落されたことや、かけはしでの出来事を思い、また、死んだ唖お者し娘いちのことを思った。だが、怒りや、憎悪感は起こらなかった。
兄に対してしたことをも含めて、西沢半四郎はみじめに敗北している。これらのことが誰にも知れずに済んだとしても、彼自身、自分がみじめな敗北者だということは、骨に徹してわかっているだろう。可哀そうなやつだ、と隼人は思った。
西沢は手紙を読み終った。
彼はひろげたままの手紙を膝に置いて、頸くびの骨の折れるほど低く、頭を垂れた。それは切腹をした者が、介かい錯しゃくの刃を待つ姿勢そのままにみえた。
﹁その手紙は西沢が焼いてくれ﹂と隼人が咳せきをして云った、﹁やむを得ない事情で、小池帯刀にだけは読ませたが、ほかに読んだ者は一人もない、小池が他言しないことは云うまでもないし、手紙を焼いてしまえば証拠はなにも残らなく、それでこれまでのことは縁が切れるのだ﹂
﹁私は、私はやはり﹂と西沢は吃どもった、﹁事実を老職へ訴え出て、いさぎよく罪を受けたいと思います﹂
﹁それで兄が生き返るか﹂と隼人が穏やかに云った、﹁手紙に書いてあったろう、兄がなにより心配していたのは、どうしたら西沢を破滅させないで済むかということだ、それは兄の本心なんだ﹂
西沢半四郎は眼をぬぐった。
﹁兄が生き返るならなのって出るがいい﹂と隼人は続けた、﹁それができないとすれば、兄の気持を生かすこと、西沢が侍らしい侍に立ち直ることが、ただ一つの、せめてもの償いではないか﹂と隼人は云った、﹁――おれはこの木戸でくらす、できることなら一生、流人村のために働くつもりでいる、そうなれば城下で顔を合わせることもないし、西沢も気兼なしにやってゆけるだろう、番が解けるまでの辛抱だ﹂
西沢はようやく顔をあげた。
﹁では本当に、――﹂と西沢は口ごもった、﹁私はゆるしてもらえるのですか﹂
﹁話はもう済んだ﹂
西沢はうなだれたが、またすぐに顔をあげ、こんどは隼人をまともにみつめて云った、﹁お願いがあるのですが﹂
隼人は西沢を見返した。
﹁私を貴方の側に置いて頂きたいのです﹂と西沢は云った、﹁貴方がここにいらっしゃるなら、私もいっしょにここに置いて下さい、貴方からはなれては生きる力がありません、自分でよくわかりません、私は一人ではとうてい生きてゆけません﹂
﹁それはいつかまた話すとしよう﹂
﹁いや、お願いです、少なくとも城下へ戻って、人がましいくらしをするだけは不可能です、貴方が流人村のために働くなら、私にその手助けをさせて下さい﹂
﹁妻女や子供はどうする﹂
﹁ここへ呼びます﹂西沢は伏し眼になった、﹁妻は来てくれるでしょうし、ここでくらすことも反対はしないと思います﹂
﹁まだあと二年ある﹂隼人は眼をそらしながら云った、﹁番の解けるときが来てもその気持が変らなかったら、そのときまた相談をしよう、――今夜はもう寝るほうがいい﹂
西沢はなおなにか云いたそうだったが、ではこれを頂いてゆきますと、手紙を巻きおさめ、会釈をして出ていった。――隼人は黙って坐っていた。自分が判断し、その判断にしたがってやったことを、仔細に思い返していたらしい。かなり長い時が経っても、なにごとかなし終ったという、くつろぎの色も、やすらぎの色さえもあらわれなかった。
﹁すっかり終って、一つのものが始まろうとしているのに﹂と隼人は呟いた、﹁――おれにはなにも終ってはいず、なにも始まりはしないようにしか思えない、ただ、すべてが初めに返ったような感じだ﹂
隼人は重苦しげな顔つきになり、仰向いて、眼をつむった。﹁兄さん﹂と彼は救いを求めるように呼びかけた、﹁これでよかったのでしょうか、それとも、私のしたことは誤っていたでしょうか﹂
いつもすぐ思いだせる兄の顔が、そのときはどうしても眼にうかばず、答えてくれるようにも思えなかった。しかし、まるでそれに代るように、正内老人の云った言葉が、耳の奥によみがえって来た。
――肝心なことは、と老人は云った。事が失敗するかしないかではなく、現に貴方がそれをなすっている、ということです。
隼人はその声を聞きすますようにしていたが、やがてそっと、静かに頷うなずいた。