一の一
功くぬ刀ぎ伊い兵へ衛えがはいって行ったとき、そこではもう講演が始っていた。 二十畳と十畳の部屋の襖を払って、ざっと四十人ばかりの聴講者が詰めかけていた……下座の隅に坐った伊兵衛は、側にあった火桶を脇のほうへ押しやりながら、静かに周まわ囲りを見廻した。 この家の主人、国家老津つだ田た頼の母もをはじめ、豊とよ道みち左さぜ膳ん、笠かさ折おり吉きち左ざえ衛も門ん、河かわ村むら将しょ監うげんらの老職の顔もみえたし、こんな人がと思われる老人や、また学問などとはおよそ縁の遠い、紙かみ屋やじ十ゅう郎ろ兵べ衛え、斎さい藤とう孫まご次じろ郎う、小こば林やし大だい助すけなどという、若手の乱暴者たちもいた。それからもっと異様な風景だったのは、下座の隅のほうに、婦人たちが四五人熱心に傾聴していたことである。 ここは国家老の家で、二十畳の部屋には上段が設けてある、講演者はその上段のすぐ下のところに端然と坐り、机の上に書物を披いて講演していた。 ――これが山やま県がた大だい弐にか。 伊兵衛は手を揉もみながらじっと見た。 年齢は三十五六か、どちらかというと小柄のほうだし、骨組もあまり逞たくましくはないが、高くて広い額と、やや大きめな唇許と、それから深い光を湛えている静かな、澄んだ双そう眸ぼうが、いかにも意志の強さを表しているし、またどこかに人を惹きつける柔かい魅力を持っていた……。 伊兵衛は少しまごついた。彼が想像していた人柄とはだいぶ違うのである。もっと狷けん介かいな闘志満々たる態度と、舌端火を吐く熱弁家だと思っていたが、見たところ恰幅はまるで村そん夫ぷう子し然としているしその声調もひどく穏やかで、ちょっと座談でもしているような印象を与えられる……伊兵衛が坐ったとき、講演者はふと思出したように、 ﹁申し後れましたが、どうぞお楽に﹂ と片手をあげながら云った。 ﹁べつにむつかしい講こう議ぎをしているわけでもありません。固苦しくされるとかえって気詰りですから、みなさん火桶の側へ寄って楽にしてください。今宵はまたひどく冷えるようですが、御当地はいつもこういう陽気でございますか﹂ ﹁御覧のごとく山国でござるから﹂ 頼母が誘われるように和やかな調子で云った。 ﹁霜月に入ると寒気が厳しくなります。榛はる名な、赤城と真向から吹ふき颪おろすのが、俗に上州風と申して凛りん烈れつなものでござります。拙者どもは馴れておりますが先生には御迷惑でござりましょう﹂ ﹁ひどくまた今宵は冷えまするな﹂ ﹁雪にでもなるか知れませぬ﹂ 老職たちも急に肩の凝のほぐれたような、ほっとした調子で互いに頷うなずき合った。 一座の雰囲気が楽になるのを待って、講演者はまた静かにつづけだした……そのとき初めて伊兵衛は、広間の外の廊下にも聴衆がいるのをみつけた。燭台の光がそこまではよく届かないので、いちいち顔は分らないが、軽輩のなかでも年少の者たちのようだ。婦人たちがいたり、身分違いの軽輩がいたり……講演者の希望か国老の発意か、いずれにしてもこういう席にはかつてない、型破りなものである。 ﹁……さて得一と申すのは﹂ 講演者の眼が静かに一座を撫なでた。 ﹁すべて道の治るところ一なりという意味であります。天に二つの日輪はない、大地の他に大地はない、万民の君たるべきものまた一であります。忠臣は二君に事つかえず、烈女は二夫に触れず……これを得一と申します。天下の理はかように一を得て初めて泰平といたしますが、世が衰え紊みだれる時にはこの理が崩れてくる。婦女は貞節を忘れ、士は二君に事えて耻はじず、禄と位とその本源を二つに分つ。これによって名を好むものは彼につき、利を好むものはこれに従う。名利と情慾と相分れてついには乱世となるのであります。禄位その本源を分つと申しました。これを当代にたとえてみますと、ただ今の幕府は征せい夷い大将軍として天下を一統しており、また諸国の大小名に秩禄を与えておりますが、これは侯伯士太夫の爵位を授けることはできません……恐れながら、朝廷におかせられては、爵位をお授けあらせらるることはあっても、秩禄をお与えになることはおできにならぬ。征夷大将軍ですら、禁裏の宣下あって初めて存在するものです。たとえ何百万石源氏の長者の威勢をもってするも、宣下なくして大将軍の位はありません。禄位その本源を分つとはここを申したものであります。天下の理一をもって全しとする、その第一がすでにかくのごときありさまでは、名利と情慾とあい分れ、風俗人倫の紊乱することもまた、避けがたきところであります﹂ そのとき講演者の眼が燐りんのような光を放つのを、伊兵衛は、はっきりと見た。一の二
﹁やあとうとうやってきたな﹂ ﹁……しかも粉雪だ﹂ ﹁これは積るぞ﹂ 講演が終ったのは夜の十時、外はいつか霏ひ々ひたる雪になっていた。 誰よりも先に津田邸を出た伊兵衛は、長屋門のはずれのところで、武者窓の庇の下に雪を避けながら、出て来る客たちを見送っていた。……門前で左右に別れた人々は、合羽を衣きたり、津田家の貸し傘をさしたり、さまざまのかっこうで散って行った。そしてやがて人影のとだえた時分、来くる栖すみ道ちの之し進んが傘で吹きつける雪を除よけながらやって来た。 ﹁おい待っていたぞ﹂ 伊兵衛はそう呼びかけながら、庇の下から出て行った……振返った道之進の白はく皙せきの面が、積り始めた路上の雪明りを受けて青いように見えた。 ﹁なんだ来ていたのか﹂ ﹁来たさ、約束だもの﹂ ﹁待っていたが見えないから、もう来ないものと思っていたよ。初めから聴いていたのか﹂ ﹁火桶の側へ寄れというところから聴いた﹂ 伊兵衛はちょっと皮肉に笑った。 ﹁なにしろとまどいをしたよ。国老がいるかと思うと足軽がいる、おまけに女客まで同席ときた。講演者はまた気楽にしろの火桶を抱えろのと如才がない。大弐という先生がどれほどの学者か知らぬが人気とりにかけてはすばらしい気転だぞ﹂ ﹁悪い癖だ。貴公はどうかするとひどく捻くれた見かたをする﹂ ﹁そいつは言過ぎだぞ、捻くれた見かたというのは誹ひぼ謗うだ。拙者は真っ正直で口に飾がない。それだけのことだ。心はいつもさっぱりと割切れているんだ。さっきの講演にしても……大弐どのは立派な経綸を吐いているのだろう。なにも寒さに気を使って火桶の心配まですることはないはずだ﹂ ﹁それが貴公の悪い癖だというのだ﹂ ﹁またそいつか、癖だと云われてしまえばそれまでさ。しかし道之進﹂ 伊兵衛は次に出る言葉が、どんな重大な意味をもつかということをまるで気付いてもいないふうに云った。 ﹁あの大弐どのは殺されるぞ﹂ 道之進はぎょっとしたようすで振向いた。 伊兵衛は唇尻に微笑を湛えながら、なんだという表情で見返していた……年齢はまだ二十五であるが、道之進は出頭の近習番として家中の人望を一身に集めている。国詰でありながら召されてしばしば江戸へ出府するくらい、藩主美みの濃のか守みの信ぶく邦ににも寵ちよ愛うあいされている。 これに対して功刀伊兵衛は、家柄こそ藩の老職格であり、一枚流の剣では随一の名をとってはいたが、家中の評判はあまり好ましくなかった。彼は﹃曲軒﹄という綽あだ名なをもっている……ともするとなにかひと理窟こねるし、異説を建て、人と和する法を知らない。つまり臍へそが曲っているというくらいの意味である。彼にすれば付合をもよくしたいし、あえて異説を唱えるつもりもない。要もない理窟などはこっちが御免なくらいである。それにもかかわらず、彼が一言なにか云えば捻くれた理窟になり、すこし自分の意見を述べると異説を建てると云われる。 ――勝手にしやがれ。 と思うが平気でないのは事実だ。 人望を集めてめざましく出世する道之進と、こうして人好きのしない、どこかぎすぎすした伊兵衛とを、一緒に結びつけている友情は奇妙なものだった……伊兵衛は道之進が嫌いである。道之進も伊兵衛などは眼中にないと思っているらしい。しかも二人は奇妙にあい惹かれるものを感じていた。 もっとも面白い一例をあげると、伊兵衛には佐さ和わと呼ぶ妹が一人あった。とびぬけた美人とは云えないが、家中では才さい媛えんの評が高い。それでもう十六七の時分から縁談をいろいろと持込まれた……中には母親のひどく気に入った話もあったが、伊兵衛は承知しなかった。 ――拙者には亡き父上に代って責任があるから。 そう云ってみんな断ってきた。それが半年ほどまえ国老津田頼母を介して道之進から申込むと、待ってでもいたように承諾した――つまり道之進と佐和とはいま許いい嫁なずけの間がらであり、二人はやがて義理の兄弟になるべき関係にあった。 ﹁貴公なにを云うつもりだ﹂ 道之進は相手の眼を見入りながら云った。 ﹁大弐どのは殺されると云ったよ﹂ ﹁どうして、山県先生がどうして殺されるのだ。誰が殺すと云うのだ﹂ ﹁誰が殺すかと云えば大弐どのさ﹂ ﹁……﹂ ﹁山県大弐は自分で自分を殺すよ﹂一の三
﹁伊兵衛、それは貴公の意見だな﹂ ﹁これが拙者の悪い癖かも知れぬ。拙者は物ごとを捻くれて見るかも知れぬ。しかし大弐どのの説は叛はん逆ぎゃくの罪に当るぞ﹂ ﹁馬鹿なことを﹂ 雪の密度が濃くなった。 二人は互いの屋敷へ別れる路上へ来ていた……すっかり寝鎮まった武家屋敷はしんかんと音もなく早くも一寸あまり積った雪で、通り馴れた街辻がまるで見知らぬ他国へ来たような印象を与える。……道之進は立止って、 ﹁山県先生の説が新奇だということは認める。在来の学者たちがかつて触れたことのない、多くの重要な問題をとりあげているし、その説く方法も型破りな点が多い。けれど先生の論理は非難さるべきいささかの不条理もないはずだ﹂ ﹁本当にそう思うか、拙者の云うのは言葉じゃないぞ。言葉は人間が拵こしらえたものだ。どうにでも取繕ったりごまかしたりすることができる……しかし言葉の裏にある本心はごまかせない。拙者は大弐の説がなにを暗示しているか見抜いているんだ﹂ ﹁それはひとつ聞きたいな。貴公が山県説の核心を掴つかむほど、学識の深い男とは気がつかなかったよ﹂ 明らかに嘲笑である。腕力はべつだがそういう議論になれば、どう発展しようと道之進は勝算を持っている。伊兵衛くらいの頭で組立てられた理論なら、それが正当であろうとなかろうと即座に叩き潰つぶす自信があるのだ。 ﹁いやよそう﹂ 伊兵衛は口惜しそうに云った。 ﹁……拙者の意見など貴公にとって三文の値打もないだろう、拙者も貴公を説得したいと思わぬ。ただ今夜これから帰ってよく考えてみてくれ、大弐の得一篇の説は危い。すくなくとも我々武道を第一とする者にはおそろしく危険だ﹂ ﹁考えろと云うなら考えてみよう。拙者にはそれほどむつかしい説とは思われぬが﹂ そう云う道之進の眼を、伊兵衛は疑わしげに見みま戍もっていたが、やがてその唇尻にふたたびそっと微笑を刻みながら、 ﹁おい道之進﹂ と急に明るい声で云った。 ﹁貴公はかなり秀才なくせをして、まるで嘘のように愚鈍なところがあるのを知っているか﹂ ﹁人の見かたにはいろいろあるよ﹂ ﹁そう安心していられれば仕合せだ。いい夢を見たまえ﹂ 道之進の傘からとび出して、雪のなかを伊兵衛は大おお股またに駈けて行った。 夜のうちに二尺も積った雪が、朝になってもまださかんに降っていた……起きるとすぐ、裸で井戸端へとび出した伊兵衛は、健康な二十六歳の逞たくましい体へ、釣つる瓶べからざぶざぶと水を浴びた。まだ早いのであろう、裏庭にある家か士し長屋も雨戸が閉っているし、いつもすぐとび出して来る飼犬の﹃もじゃ﹄も姿を見せない。 ﹁……ひとつ、出掛けるかな!﹂ 手拭でごしごし、力任せに肌を擦りながら、伊兵衛は雪に煙る鬼鉾山塊を見やった。 雪に折敷かれた笹の道や、氷つら柱らの結ぶ崖がけ下したの穴や、それから吹溜りに蠢しゅ動んどうする熊の背などが、心を唆そそるように眼にうかぶ……熊がどの穴からどの道を通るか、鹿はどっちからどの林へ追込むか、伊兵衛には自分の掌のものを見るように分っている。 ﹁鹿の肉でみんなを呼ぶのも悪くないぞ﹂ ﹁なにを独言をおっしゃってますの﹂ いきなり後から呼びかけられて伊兵衛は振返る拍子に釣瓶へ頭をうちつけた。 佐和が縁側で笑った。 ﹁なんだ、急に大きな声を出しゃあがって、びっくりするじゃないか﹂ ﹁またそんな下品なお口を﹂ 妹は威おどすように奥へ眼をやった。 ﹁もう母上もおめざめですから﹂ ﹁おまえが驚かすから悪いんだ。なんでも母上とさえ云えばおれがへこむものときめてる、もうおれだってそんな年と齢しじゃないぞ﹂ ﹁……伊兵衛﹂ 向うで母親の呼ぶ声がした。 ﹁そんなところでなにを威張っているのです。早く着物を着てお入りなさい。風邪をひいたら外出は禁じますから﹂ ﹁はい、ただ今あがるところです﹂ 佐和は可お笑かしそうに肩を竦すくめながら、慌てて水口へ跳んで行く兄の姿を見送った。 伊兵衛は猟が好きである。 また上州小幡という土地が狩猟にはもってこいのところで、季節になれば熊、鹿、猪、猿などが多く出るし、兎などは子供でも猟れるほどいる……亡き父親の伊い右え衛も門んが猟好きで、鉄砲も良いものを持っていたし、また体を鍛える意味で幼少の頃から伊兵衛を伴れて歩いたものである。だからこの付近十数里の猟場なら、彼は本職の猟人よりずっと精しく知っていた。 ――ひとつ出掛けようか。 と云ったのは、むろん銃猟に出掛けようかという意味だ。しかし母親の喜き和わは猟嫌いだった。良おっ人とがいちど猟さきで誤って犬を射殺して以来、彼女は猟と聞くだけで色を変えるほど嫌いだった。 ﹁……なんと云って許してもらおう﹂ 着物を着ながら、伊兵衛は遊びに出掛ける少年のように、真面目になって思案していた。一の四
ちょうどその頃、鬼鉾山へ登る道で、主従と見える二人の男が膝を没するほどの雪に悩んでいた。 一人はゆうべ国老の邸で講演していた山県大弐である。従者は二十二三と思える小柄な青年で、痩せた少し前まえ跼かがみになった肩と、反対に仰向になっている頭とがちょっと異様な印象を与えていた。 ﹁東とう寿じゅ……歩けるか﹂ 大弐は足を止めて振返り、笠をあげながら呼びかけた。 ﹁悪い日に来た。こんなではないと思ったものだから津田どのの止めるのを振切って来たが、どうもこれではおまえには無理だった﹂ ﹁もったいない仰せ、わたくしは血気の体でございます。足が遅くて申訳ございませんが、少しも難儀ではございません﹂ そう云って振仰いだ青年の顔は、両眼とも盲めしいていた。頭の坐りの異様なのは彼が盲人だったからであった。 ﹁意地を張らずに帰れと申したいが、ここまで来てしまってはそうもならぬ。我慢してみるか﹂ ﹁その御心配では辛うございます﹂ 東寿と呼ばれる盲青年は、盲いた眼をかなしげに、大弐のほうへ振向けながら云った……言葉つきにも、振向けたその表情にも、知らぬ者だったら、恐らく冷たい手で心臓を撫でられるようなものを感じたに違いない。彼はその体ぜんたいに、えたいの知れぬ軟体動物のような粘っこさを持っていた。 二人は道を進んで行った。 坂にかかってもう二十丁は登ったであろう。真北に向いた斜面で吹きつける粉雪は力も緩めず眼界を遮さえぎる。今は背に受けているからいいが、下るときの困難さが思いやられた。 俗に権現平と呼ばれている坂の中途で、やや平坦な迂うか回い路へさしかかった時……東寿はふと足を止めてしまった。 ﹁……東寿どうしたか﹂ 大弐が呼びかけた。 ﹁人が尾つけてまいります﹂ ﹁……人が来る﹂ ﹁どうも気になっていたのですが﹂ 東寿は頭を傾げ、遠くの物音を聞き取ろうとするように、しばらくじっと呼吸をのんでいた。枯れた梢にひょうひょうと風が鳴っている。林のそこここで、枝から雪ゆき塊くれの落ちる音が聞える……しかし大弐には、その他になんの物音も聞えなかった。 ﹁尾けてまいります﹂ 東寿が呟つぶやくような声で云った。 ﹁先生、その辺にお体を隠す場所はございませんか﹂ ﹁もう少し先に権現堂が見える﹂ ﹁それはいけません。林の奥か藪やぶの蔭か足跡を尾けられぬ処へお隠れください﹂ ﹁杣そま人びとか猟人などではないのか﹂ ﹁違います。わたくしの耳に刻みついている歩きかたです。深谷の駅まで尾けて来て、それ以来聞えなくなったあの歩きぶりです﹂ ﹁では一人ではあるまい﹂ ﹁増えております。あのおりは三人でございました。今は五人……ことによるとそれ以上おります。どうぞ早く﹂ ﹁だがその人数に東寿独りでは﹂ ﹁先生﹂ 東寿の声はなんとも云いようのない哀切な響をもって大弐を制した。 彼がこの危険にどう処するか、それは大弐がいちばんよく知っている……それで多少の不安を残しながら、大弐は裸になった櫟くぬぎ林の奥へ、なるべく足跡を残さぬようにしながらはいって行った。 東寿のかんは的中した。 間もなく道の上に、合羽も笠も雪まみれになった人影が、一つ、二つひどく先を急ぐようすで、七人までやって来るのが見えた……彼らは権現平へかかるとともに、こっちへ向いて立っている東寿を認めた。 ﹁……盲無念だ﹂ 先頭にいる一人が云った。 その声調は同伴者たちに一様の戦せん慄りつを与えた。覚悟して来たことはみんなの眼に現れている。しかし盲無念だと云われたせつな、七人は一様に身震いをした――しかし次の瞬間、先頭にいた一人が合羽と笠を脱捨てた。 ﹁近くにいる、逃すな﹂ おうと云いざまみんな即座に合羽と笠とを捨てた。下は袴はかまの股もも立だちを取り、汗止め襷たすきがけの充分な身拵えである。 東寿も静かに雨具を脱っていた。 両方なにも云わなかった……そして三度、やっぱり先頭にいた武士の一人が、 ﹁盲無念は拙者が引受けた。大弐を捜せ﹂ そう叫びながら突進した。二の一
﹁待て、ちょっと待て﹂ 伊兵衛は先へ行く仲間を呼止めた。 ﹁どうした﹂ ﹁獲物か﹂ 斎藤孫次郎と、紙屋十郎兵衛とは、一緒に叫びながら戻って来た。 そこは熊笹に蔽おおわれた崖下の径で、片側に楢ならの若木の疎林があるのと、あまり高くはないが屏風のような崖が迫っているため、吹きつけてくる雪は膝を越すほど積っていた。 伊兵衛は鉄砲を左の脇に抱えたまま、身をかがめて、獣の足跡でも探るように、じっとなにかを見戍っている。 ﹁なんだ功刀、熊か、猪か﹂ 戻って来た孫次郎がそう囁ささやきながら覗きこむと、伊兵衛は雪の上を指さしながらここを見ろと云った。 血けっ痕こんが雪を染めていた。 伊兵衛の示す指を追って行くと、崖のひとところが崩れて、熊笹の密生している場所から、径を越して、楢の疎林の中まで、その血痕は点々と尾を曳いていた……先に行った二人が気付かなかったのは吹きつける雪に埋れていたからで、彼らが雪を踏返したため、はじめて伊兵衛の眼についたのである。 ﹁手負いだな。しかも大物だろう﹂ ﹁熊だぞこれは﹂ ﹁そうかも知れない。だが……﹂ 二人は早くも意気ごんだが、伊兵衛はなにか腑ふに落ちぬものがあるようすだった。 彼らが猟をするために、この鬼鉾山へやって来たのは九時過ぎであった。伊兵衛はまずこの峡間にある熊の道を襲うつもりで、山の口から左へ折れて来た。そのとき四五人の侍たちが、正面の坂を足早に登って行くのを、伊兵衛は吹雪のかなたにちらと認めた。 ――ばかに急いでいるな。 と、そのとき伊兵衛は思った。 むろん家中の者だろうと思ったし、それだけで忘れていたが、いま眼の前になま新しい血痕を見ていると、あのとき急いで登って行った侍たちの姿がふと思いだされたのである……孫次郎と十郎兵衛は側から急きたてた。 ﹁おい、なにを考えているんだ﹂ ﹁早く追っかけよう、どっちへ行けばいいんだ。下か、上か﹂ ﹁こっちだ、しかし気をつけろ﹂ 伊兵衛は疎林の中へはいって行きながら、脅すように低い声で云った。 ﹁手負いの獣は危険だぞ、いきなり跳びついて来るからな。静かにするんだ﹂ 三人は静かに進んだ。 疎林はなだらかな斜面をなして、北側へと低くなっている。あとからあとからと吹きつけては積る雪の、ひとところだけ、なにものかしばらく前に通った跡が、窪くぼみとなって残っていた。伊兵衛は先頭に立ってその跡を尾けた。 しかし百歩と行く必要はなかった。 雪の窪みが尽きたところに、古い杉が一本だけ立っている。その根本に、雪をかぶって倒れている者があった……伊兵衛は火縄を消して鉄砲を孫次郎に渡しながら走り寄った。 引起してみると、若い見慣れぬ武士だった。 ﹁やっ、人間か﹂ ﹁斬られている﹂ 孫次郎と十郎兵衛は息をのんだ。 伊兵衛は手早く傷所をみた。若い武士は脇腹を突かれていた。そしてもう絶息していた……そのとき、うしろから覗きこんでいた孫次郎が、なにをみつけたか伊兵衛を押し除けて、 ﹁おいちょっと見せろ﹂ と前へ乗出して来た。そして死者の顔をじっと見戍っていたが、急にあっと声をあげた。 ﹁数馬、数馬だ﹂ ﹁……貴公、知っているのか﹂ ﹁知っているとも。江戸屋敷の近習番で、大沢数馬という男だ。おれとは鈴すず木きじ次ろう郎だ太ゆ夫う先生の道場で一緒に剣法を習ったこともある、江戸屋敷では指折りの男だ﹂ ﹁それはたしかか。江戸藩邸の者がこんな処へ来るのはおかしい﹂ ﹁いやたしかだ。数馬に相違ない﹂ ﹁しかし死顔は変るという、よく似た他人はあるものだぞ﹂ 十郎兵衛がしきりに念を押した。 そのとき伊兵衛の頭に、ふたたびあのときの侍たちの姿がうかんできた。吹雪のなかを、ひどく急いで登って行った姿が……。 ﹁おい孫次郎、向うを見よう﹂ ﹁どうするのだ﹂ ﹁あの上になにかある。急げ﹂ 伊兵衛の足下で雪煙があがった。孫次郎も十郎兵衛もそのあとを追って走りだした。二の二
元の場所へ引返した三人は、密生している熊笹を押し分け、その根に縋すがりながら、崩れたところを伝って崖を登った。 崖の上は杉林で、かなり急な斜面をなして権現堂のほうへ登っている。伊兵衛はなんども立止って、人声でも聞えはせぬかと耳を澄ました……しかし吹雪の咆ほえるほかにはなんの物音もしなかった。 ﹁あっ見ろ。あそこにも……﹂ しんがりを走っていた十郎兵衛の声がした。三人の登って行くところから十四五間も右手に、雪まみれになって倒れている者があった……汗止めの白い帛きぬが鮮かに三人の眼にしみた。 ﹁二人で見てこい。おれは上へ行ってみる﹂ そう云い捨てて伊兵衛は斜面を駈け登って行った。 権現堂の迂回路はひっそりとしていた。しかし路上の雪はひどく踏荒らされ、ところどころに血痕が滴っていた……笹の葉のあいだに光っている物があるので、近寄ってみると抜身の刀だった。 また死体があった。 右手の櫟林へのめり込むようなかたちで、ほとんど折重なって二人倒れていた……近寄って傷所を検めると、一つは胸、一つは右の脾ひば腹ら、みなひと突の深い刺傷である。 ――みんな同じ傷だ。 一刀致命の突である。 孫次郎と十郎兵衛が追いついて来た。二人ともすっかり顔色が変っていた……斜面に倒れていたのも名は覚えがないが、やはり江戸屋敷の家臣だと云う。 ﹁傷はどこだ﹂ ﹁ここをやられていた﹂ 孫次郎は心臓の上を押えた。伊兵衛はそこにある二つの死体を見ろと云った。孫次郎はその顔をひと眼見るなり、絞るような呻き声をあげた……そしてやはり江戸表の藩士で、谷たに口ぐち平へい六ろくと野のじ島まち忠ゅう之のじ丞ょうという名をあげた。 三人は手分けをして、なお付近を探してみた。しかし雪に埋ったものか、それとも人数はそれだけだったのか、他にはなんの発見もなかった。探し疲れて権現堂の迂回路へ戻って来ると、孫次郎はもういちど二人の死体を検めて、 ﹁おかしい、この突き傷にはなんだか覚えがある……みんな一刀ずつ、しかも的確に急所を覘ねらった突は、凡手ではない﹂ ﹁とにかくこうしていてもしようがない﹂ 伊兵衛が云った。 ﹁十郎兵衛、貴公行って目付役に届けて来てくれ。それから死体を運ぶ人手がいる。若い者を五六人と戸板を頼むぞ。ここはおれと斎藤が預るから﹂ ﹁やれやれ、とんだ獲物になったぞ﹂ 十郎兵衛はすぐに出掛けた。 いったい何ごとがあったのだ。江戸屋敷の者が四人も、国許へ潜入して来て、この山中で死体になっている……四人が果合いをしてともに死んだのか、それとも誰かに四人とも討ち果されたのか、もしそうとしたら相手はどうしたか、まだこの山中にいるだろうか。 吹雪はますますひどくなる、凍いての烈しい風が、櫟林の梢を払ってひゅうひゅうと鳴っていた。 ﹁そうだ、思いだした﹂ 孫次郎がふいに眼をあげた。 ﹁なにを……﹂ ﹁この傷、一刀致命の刺傷、こんなみごとな突をするやつは他にない。あいつだ﹂ ﹁……誰だ﹂ ﹁長はせ谷が川わ東寿という、やはり鈴木先生の道場にいた門人で、まだ二十一か二だろう。両眼とも盲いているが技はすばらしかった﹂ ﹁盲人? 盲人で剣を使うのか﹂ ﹁使うどころではない、鈴木門中でそいつの突を受けきれる者は一人もなかった……我々は盲無念と呼んでいた﹂ ﹁盲無念とはどういう意味だ﹂ ﹁意味は分らぬ。誰が呼ぶとなく、いつかしらそういう名が付いてしまったのだ……いまこの突傷を見ると、歴あり々ありと彼の姿が見える。少し前かがみになって、見えない眼を空へ向けながら、小太刀を籠こ手て高に構えた姿が……あいつだ。盲無念の他にこれだけの突をするやつはない﹂ 孫次郎はまるでそこに盲無念と呼ぶ当の相手を見るかのように身を震わせながら深く息を吸込んだ。 ﹁しかし、相手がその男として、この四人とこんな場所で果合いをするような関かかわりがあるのか。四人ともその男に仕止められたとして﹂ ﹁分らぬ。おれは去年の春、国詰になってこっちへ来た。その後でなにか間違いがあったかも知れない。しかしおれがいた時分にはべつにそれほど深い関係はなかったはずだ﹂ ﹁いったいその男は何者なんだ﹂ ﹁その男とは東寿のことか﹂ ﹁盲人で剣を使うというが、武士なのか町人なのか。なんのために剣を使うんだ﹂ ﹁そいつも分らん﹂ 孫次郎は頭を振って云った。 ﹁なんでも父親は浪人だったそうだ。彼は琵び琶わの師匠が本業なのだが、剣法が好きで道場へ通って来るのだと聞いていた。むろん剣で身を立てるなどという野心はないようすだったし、その独特な突の手を別にすれば、気質の穏かな口数の寡すくない良い人間だったよ﹂ ﹁どうも話と事実とがちぐはぐだな。しかし、なにしろ当人たちが死んでしまってるんだから、江戸屋敷の者にでも糺たださなくては分るまい﹂ 伊兵衛は雪帽子をあげて道の向うを見た。吹雪は大きな力で枯林を襲い、梢を揺りたて、地を吹き捲まくり、あらゆるものを灰色の翼で薙なぎたてながら去って行く。 ――この吹雪のなかで何ごとがあったのだろう。 伊兵衛は盲無念という男を思い、また遠くこの山中へ来て死んだ四人の身上を思いやった。 ――なにがあったのだろう。二の三
来栖道之進は、国老津田頼母から迎えの書面を読んでいた……ちょうど昼の食事をおわったところで、読んでいると母が茶を運んで入って来た。 ﹁お出掛けですか﹂ 母は道之進の側へ茶を置きながら坐った。 彼女は名を曽そ女めといった、同家中の足軽組頭の娘で十六のとき来栖家へ嫁し、十九で道之進を生んだが、二十五歳のときに良人に死なれて以来、ずっと寡婦を通しながら立派に道之進を育てあげてきた。 長男の顔は母に似るというが、道之進の美しい容貌はそのまま母写しなのであろう。曽女は小幡家中でも評判の美人であったが、どこかしら陶器のような冷たさがあり、気質にもそれを持っていた。……切り口上の言葉つきにも、いつかしら微笑している口許にも、なんとなく人を見透すような、皮肉なものが漂って、それは一人子の道之進にとってさえ近づきにくい、冷たい疎隔を感じさせた。それがいま道之進の男にしては端麗すぎる容貌の中に、かすかなかげりになっているように見える。 ﹁御家老から使者でしたが﹂ 道之進は書面を巻き納めながら、 ﹁急の御用で江戸表まで行くことになるようです。その支度をしてすぐにでかけたいと思います﹂ ﹁では支度をいたしましょう﹂ 曽女は立とうとしたが、 ﹁その御用というのは長くかかるようですか﹂ ﹁この書面だけでは分りませんが、なにか母上の御都合でもございますか﹂ ﹁功刀の娘のことでねえ﹂ 曽女はそう云いかけたが、 ﹁まあそれは後にしましょう。帰ってからでもいいのだから﹂ そう云って立って行った。 功刀の娘といえば許嫁の佐和のことだ。来る春には、主君の御帰国を待って祝言をあげる運びになっている……佐和がどうかしたのだろうか、道之進は思いがけぬ疑惑を与えられてちょっと気が揺らいだ。 ――しかし、いま訊いても話す母ではない。 そう思って彼は黙っていた。 そのまま旅に出られる支度で、供一人を伴つれて国老の屋敷を訪れたのは、それから半はん刻ときほど後のことであった……すぐ客間のほうへとおされたが、それと入違いに、目付役の鳴なる海みだ大いく九ろ郎うが辞去して行った。 ﹁降るなかを御苦労であった﹂ 頼母は待兼ねていたように挨拶をそこそこに受けて云った。 ﹁じつは大任を頼みたいのだ﹂ ﹁拙者に勤まることでございましたら﹂ ﹁県先生が暴漢に襲われてな﹂ ﹁……暴漢に﹂ ちらと道之進は伊兵衛の顔を思いだした。 ﹁今朝、地理を観るために鬼鉾山へ登られたのだ。この雪だからといちおうはお止め申したが、先を急ぐからとの仰せで、東寿どのとお二人で登って行かれた。すると……権現堂のところで、あとを尾けて来た七人の者が、有無を云わせず斬ってかかったそうだ﹂ ﹁して先生には!﹂ ﹁東寿どのは盲人ながら稀代の剣士とみえ、七人のうち四人までその場に討止め、無事に戻ってみえられたが……その暴漢が困ったことに家中の者なのだ﹂ 道之進は息をのんだ。ふたたび伊兵衛を思ったのである、しかしその疑いはすぐに解けた。 ﹁家中と申しても国許の者ではない。みな江戸屋敷の人間で、江戸からずっと先生を尾狙って来たらしい﹂ ﹁なんのためにさようなことを﹂ ﹁まだそのもとには知るまいが、江戸の老職吉よし田だげ玄ん蕃ばとわしとの推挙で、県先生をお上の賓師におすすめ申してある。このたび当地へ講演にお招き申したのもその手順の一であるが……江戸表重役のうちに反対する者があってな﹂ 頼母は肥えた体をかがめながら、ふと声を低めて続けた。 ﹁それは、ただ県先生を賓師に迎えることに反対するのではなく、御政治向きの反目が根をなしているのだが﹂ ﹁松まつ原ばらどのでございますか﹂ 道之進は大胆に云ってのけた。 織田美濃守の家中に二つの勢力が対立している。一つは江戸家老吉田玄蕃、国家老津田頼母、この両者の系統に属する一派、他の一つは江戸表用人松まつ原ばら郡ぐん太だゆ夫う、津つだ田しょ庄うぞ造う、同じく年寄役柘つげ植げ源ん右え衛も門んらとその一派である……吉田、津田の一派はひと口に云うと進取派で、旧い政策を捨て、藩政を新しく改革しようとしている。松原郡太夫の一派は旧守派で、ただこれ古い権力政治を押通そうとしていた。 しかし、この二つの勢力争いには、さらにもう一つ複雑な条件が加わっていたのである。 それは――。 現藩主、美濃守信のぶ邦くには養子で、実父は高家の織おだ田しょ少うし将ょう信のぶ栄ひでであった。この信栄は権勢を好む人で、藩主の実父という位置をかさに、小幡の藩政を思うままにしようとしていた……松原郡太夫一派は、この少将信栄とあい結んでいたのである。 むろん、こういう家中の対立は隠密なものであった。何人も口にすべからざることだった。しかし道之進は今はっきりと相手の名をあげた。彼は、来るべき時が来たことを感じたからである。 ﹁そうだ、おそらく彼であろう﹂ 頼母は頷いた。二の四
﹁いましがた、鬼鉾山から四人の死体が運ばれて来た。猟に出ていた功刀伊兵衛と、紙屋十郎兵衛、斎藤孫次郎の三名がみつけたのだ。悪いことに孫次郎は去年の春まで江戸勤番であったから、死んだ四人も見知っている。また七名のうち三人は、手傷を負ってどこかに潜んでいるようすだ﹂ ﹁孫次郎を黙らせ、表沙汰にならぬよう始末をしませぬと、乗ぜられる口実になりますな﹂ ﹁それで、そのもとに江戸へ立ってもらいたい﹂ ﹁御方策がございますか﹂ ﹁七人の者が当地へまいるについて、国許へは届出が出ておらぬ。これが唯一の材料だ。七人の者を脱藩私闘の名目で、処置してきてくれ﹂ ﹁それは……大任でございます﹂ ﹁そうしなくてはならん。ぜひそうしなくてはならんのだ。吉田玄蕃にはべつに書状を書くから、彼と談合してやってくれ﹂ ﹁松原どのは一筋ならぬ人物、たやすくはまいるまいと存じますが、できるだけ押切って仕ります﹂ なお細々とした打合せを終って、立とうとした道之進はふと思出したように、 ﹁それで先生はいかがあそばしました。もう御出立でございますか﹂ ﹁御出立のはずであったが、まずこの騒ぎの鎮まるまで御滞在を願ってある……というのが、四人を仕止めた相手が東寿どのだということを、やっぱり孫次郎が察しているらしい﹂ ﹁知合いでございますか﹂ ﹁江戸で同じ剣法道場で学んだので、東寿どのの太刀筋を見知っているとのことだ……東寿どのが県先生の供をして、当地に来ていることまでは気付かぬらしいが、もしそれが分ったら無事には済むまい。それで当分この屋敷にお匿かくまい申そうと思う﹂ 道之進はしばらく考えていたが、 ﹁いかがでございましょう﹂ と頼母の眼を見ながら云った。 ﹁孫次郎を拙者と同道で江戸へやっていただけませぬか、そういたせば東寿どのを見知る者は彼一人ですから、後が安全だと存じます﹂ ﹁それは妙案だ。すぐそう計らおう﹂ 頼母は直ちにその手配をした。 旅支度をして駈けつけた斎藤孫次郎とともに、道之進が頼母の家を出たのは午後二時過ぎであった。……旅に立つ時刻ではなかった。吹雪もひどかった。しかし一刻も急がなければならぬ。とくに例を破って供の者にも馬を与え、四騎、雪を蹴立ててでかけた。 彼等が武家屋敷の辻を曲って、街道口のほうへ去ったとき、それと行違いに、功刀伊兵衛が辻を曲って来た。 そして津田家の玄関へ入って国老に面会を申入れた。 しかし面会は断られた。 ﹁御家老にはただいま御多用で、お会い申す暇がないと申されます﹂ ﹁しかし手前の用向も同様、今日鬼鉾山で討果された江戸詰家中の者の処置について、ぜひともお訊ね申したいことがあるのです。いまいちおうお取次ぎください﹂ ﹁他ならぬこなたさまのことゆえ、お会いできるものならお断りはなさいますまい、今日はお帰りを願います﹂ ﹁……ではひと言、伺っておきたいが﹂ 伊兵衛は家扶の眼を見すえるようにしながら云った。 ﹁山県大弐どのは御当家にまだ御滞在ですか﹂ ﹁さあ……それは﹂ ﹁もう御出立ですか﹂ 家扶は伊兵衛の視線から眼を外らした。 ﹁まだ……さよう、まだ御滞在かと思いますが、あるいは御出立になったかも知れません。わたくし用事にとり紛れて、そのほうのことは存じませぬが﹂ ﹁……ではいたしかたがない﹂ 伊兵衛はもういちど家扶の眼をみつめてから、会釈をして外へ出た。 しかし門を出て、長屋塀について三十歩あまり行ったとき、津田邸の裏に当って、すさまじい人の叫声と、物の引裂ける音が起ったのを彼は聞いた。 ――なんだ。 伊兵衛は立止って耳を傾けた。 しかし、もうなんの物音もしなかった。吹きまくる雪に包まれて、国老の屋敷は森閑と鎮りかえっていた……胸に喰込むような、凄せい惨さんな叫びであった。急に板の引裂けるような物音だったが……。 ﹁そら耳だったのか﹂ 伊兵衛は呟きながら歩きだした。三の一
津田頼母に面会を断られた功刀伊兵衛は、その足で斎藤孫次郎を訪ねた。ところが孫次郎はいなかった。 ﹁急の御用で、たったいま、江戸へお立ちなさいました﹂ ﹁一人でか﹂ ﹁来栖さまと御一緒だと伺いましたが﹂ 留守の者にはそれだけしか分らなかった。伊兵衛はそこから紙屋十郎兵衛の家へ廻った。彼はまだ部屋住の気楽な身分で、かなり年の違う弟が一人ある。伊兵衛が庭のほうから覗くと、彼は弟と一緒に雪まみれになって、おそろしく大きな雪達だる磨まを拵えているところだった。 ﹁やあ、どうした。なにか用か﹂ ﹁ちょっと話がある。出てくれないか﹂ ﹁よし、すぐ表から廻って行こう﹂ 十郎兵衛は支度を直して表から出て来た。伊兵衛は一緒に自分の家のほうへ向いながら、声をひそめて云いだした。 ﹁十郎兵衛、鬼鉾山で斬られていた四人には伴れがあった﹂ ﹁伴れがあったって?﹂ ﹁全部で七人いた。あすこに倒れていたのは四人だが、負傷して辛くも生き延びた者が三人ある……いまおれの家へ来ているんだ﹂ 十郎兵衛はあっと云って眼を瞠みはった。 ﹁二時間ほど前に、裏口からそっとやって来た。三人の中に桃もも井いき久ゅう馬まがいたんだ﹂ ﹁三年まえに江戸詰めになって行った、あの桃井か﹂ ﹁そうだ﹂ 伊兵衛は道の左右に眼を配りながら、声をひそめて続けた。 ﹁あの久馬だ。三人とも怪我をしている。大した傷ではないし、世間に知れてはいかんから、いま母と妹に手当をさせているが﹂ ﹁それでいったい……その七人はどうしたんだ。あんな処でなにをしたんだ。斬った相手というのは何者だ﹂ ﹁山県大弐だ﹂ ﹁なに、あの山……﹂ ﹁手を下したのは大弐じゃない、孫次郎の云ったとおり盲無念というやつだ。七人はお家のために大弐を刺そうとして、ひそかに後を尾けてこの小幡へ来ていた。そして鬼鉾山で追詰めたのだが、盲無念のために、逆に四人斬られ、三人も傷ついてしまったのだ﹂ ﹁なんのために、しかし、どうして山県大弐をお家のために斬ろうとしたんだ﹂ ﹁江戸家老、国家老、この両者と重役たちのあいだの相談で、大弐をお上の賓師に迎え、なお藩政の枢機に参与させようということになっているそうだ……ところが、山県大弐の学説は幕府の忌き諱いに触れる点が多く、おまけに不穏なことを企んでいるなどという噂もあるので、ひそかに探索が廻っているという状態だそうだ﹂ ﹁そいつは怪しからん。そんな人間をお上の賓師に迎えるなんて、まるで求めて幕府の譴けん責せきを待つようなものじゃないか﹂ ﹁それで、御館の少将さま︵信栄︶と、御用人松原どのの意見で、禍の根を断つために、七人がやって来たのだ……久馬は云ってるんだ、大弐を斬るのはお家のためだけではない、天下の治安のためだと﹂ ﹁武士ならそうするはずだ、おれだって!﹂ 十郎兵衛は拳を突出したが﹁それで、孫次郎には知らせたのか﹂ ﹁いや斎藤は江戸へ立ったそうだ﹂ ﹁江戸へ?……なんのために?﹂ ﹁来栖と一緒だそうだが、四人の死体の件についての急使だろうと思う。津田どのは七人が大弐を刺そうとした事実から、江戸屋敷へなにか先手を打つつもりに相違ない﹂ ﹁……分らんなあ﹂ 十郎兵衛はやけに頭を振って云った。 ﹁国老はあんな良い人だし、人物も小幡などには惜しいと云われていたくらいなのに、どうしてそう大弐などに迷っているんだろう。大弐が本当に公儀から密偵されているような男だとしたら、国老に分らぬ訳はあるまいが﹂ ﹁人間には誰しも弱点がある。金に眼が昏くらむとか、女に迷うとか、権勢に執着するとか、大きい人物は大きいなりに、やっぱり弱点を持っているものだよ﹂ ﹁国老になにかそんなことがあるのか﹂ ﹁小幡は小藩でも由緒ある織田の直流だ。この藩政を自分の手に握っているということは、誰にしたってそう不愉快なことじゃないさ﹂ 二人は功刀の屋敷へ曲ろうとしていた。するとそっちから、雪を蹴立てて、ころぶように走って来た者がある。 ﹁あっ、兄上さま﹂ 妹の佐和であった。三の二
﹁佐和じゃないか、どうしたんだ﹂ ﹁お捜ししていましたの﹂ 佐和は蒼白く、ひきつったような顔をして、息を喘あえがせていた。 ﹁兄上さまがおでかけなさるとすぐ、土ど井いさまと山口さまのお二人が﹂ ﹁二人がどうしたって﹂ ﹁大弐を斬るとおっしゃって出ていらっしゃいました﹂ ﹁桃井はどうした。久馬は﹂ ﹁桃井さまはお足の傷が痛みだして動くことができず、家で臥ふせっておいでなさいます﹂ 伊兵衛は思わず呻うめいた。 ――もしや? さっき津田邸を出たとき、裏庭のほうでただならぬ物音がした、不審に思いながらそのまま来てしまったが、もしや……あのとき二人が斬り込んだのではないだろうか、物音は烈しかった。そしてすぐに止んだ。二人があのとき斬り込んだのだとすると、物音がすぐに止んだのは……権現堂の四人と同じ運命に遭ったのではなかろうか。 ﹁十郎兵衛﹂ 伊兵衛は振返って、 ﹁貴公は妹と一緒に家へ行ってくれ、久馬を頼む﹂ ﹁貴公どうする﹂ ﹁二人は津田邸へ斬り込んだ。手後れかも知れんが見て来る。久馬を頼む、誰が来ても渡すんじゃないぞ﹂ そういうなり、伊兵衛は足た袋びはだしになり、傘を妹の手に押しつけざま走りだした。 表から行っても無駄だと思ったから、津田邸へ駈けつけた彼はすぐ裏手へ廻った。雪はますます密かに降っている。吹き巻く風に煽あおられて地上から舞立つ粉雪が縦横にその灰色の幕を翻した。 伊兵衛は厩舎の屋根にとびついて、その上によじ登った。そして、積っている雪の中に身を伏せながら内庭のようすを窺うかがった。 正面に五十坪あまりの母屋が建っている。左に続いて離れ屋と茶室があり、そのうしろに主が﹃望翠楼﹄と号つけている高二階、破は風ふ造りの閣が建っていた。 どこにも人気はなかった。結構を凝らした泉庭も今は雪の下に埋れ、まき立つ吹雪だけが空しい舞を舞っている……大弐がいるとすればあの望翠楼だ。そう直感した伊兵衛は、なおしばらくようすを窺った後、静かに邸内へと滑り下りた。 物音の聞えたのは、たしかにその辺である。しかしいまはなにもかも雪の下になってしまった。伊兵衛はようやく黄たそ昏がれの色の濃くなった庭上を、植込の蔭に沿って走ると、あとは一気に茶室の土庇の下へ駈け込んで行った……そして、そこでひと息ついたとき、幽ゆう咽えつたる琵琶の音を耳にした。 ――長谷川東寿、盲無念だ。 伊兵衛はそう気付いた。 孫次郎の話に、東寿は琵琶をよくしたと聞いたし、この屋敷に琵琶を弾く者はない。たしかに彼だと思いながら、伊兵衛はいつかその音調に強く惹きつけられている自分を感じた……大絃はそうそうとして急雨のごとく小絃は切々として私語のごとし、という白氏の詩片がふと頭にうかんだ。……そうそうと切々と錯雑して弾ずれば、大珠小珠玉盤に落つ……そのとき琵琶の音はそれほど華麗ではなかった。白氏の措辞を連想させたのはその無用の技であって、発する真韻はもっと深刻な、もっと直接なものであった。かつて音楽などに嗜たしなみをもたなかった伊兵衛は、その韻律がどれほどのものか分らなかったが、じかに胸へ訴えてくる啾しゅ々うしゅうの音には、ほとんど心を戦慄させられるものがあった。 ――ええ、くそっ! 伊兵衛はやがて頭を強く振って立った。 ――おれはなにをしているんだ。 琵琶の音はすなわち大弐の所あり在かの手引きではないか、伊兵衛は茶室に沿って廻り、望翠楼の横手へと出た。絃音は明らかに閣上から聞えてくる。彼は妻戸口の外へ迫って、じっと中の気配に耳をすました。 するとその耳に、西側の裏木戸で人の呼びかわす声が聞えてきた。数は四、五人、なにか運び出そうとしているようすである。伊兵衛はとっさに裏へ廻った……木戸口のところで、津田邸の家士たちが五人、新しい幕に包んだ物を外へ担ぎ出そうとしていた。 山口と土井の死体に違いない。 伊兵衛は呼びかけようとしたが、それよりも大弐主従のほうが先だと思って、ふたたび元のところへ引返した……琵琶の音は止んでいた。そして低い談笑の声が聞え、一人はたしかに津田頼母である。 ――踏み込め! と伊兵衛がまさに妻戸へ手を掛けようとした、そのとき階上の談笑の声が、下へと降りて来るのが聞えた。 ﹁しかしこの雪に夜道をおいでなさるには、お二人だけでは心許のうございますな。碓うす氷いへかかる道はよほどひどうございますが﹂ 頼母の声である。 ﹁数年まえにも二度ばかり通って、案内はよく心得ております。思わぬ御迷惑をかけてなんとも申訳がございません。どうか御心配なくたたせていただきます﹂ ﹁とにかく峠口までは家の者に……﹂ 話声は廊下のかなたへ消えて行った。 ――碓氷へかけて夜旅に出る。 伊兵衛はぐっと拳を握った。三の三
日暮れの早い土地ではあり、ことにひどい吹雪で、山県大弐と東寿とが津田邸を出たのはもう家々に灯の入る時分だった。 津田家の若い家士が、前後に三人ずつ警護していた……風はやや力を弱めたが、粉雪はやむことを忘れたように降り続けていた。城下を出て富岡までの道は、ところどころ膝を没するほど積った場所があり、用水堀も田溝も見分けのつかぬ状態だった。 富岡で日はまったく暮れた。 警護の家士たちは、そこで宿をとるように勧めたが、大弐は笑って肯うなずかなかった。そして六人を小幡へ帰らせてしまった。 ﹁雪も夜旅も、兵法を学ぶ身には得がたき修業の道具です。歩けなくなったら岩蔭にでも夜を明かしましょう。大弐四十二歳の体がどれだけもつか、試してみるのも一興です﹂ そう云って笑った。 二人になった主従は、荒涼と雪に昏れた道を板鼻へと向った……しかしそのうしろから、あいだ二十間ほど隔てて、伊兵衛が追って来るのに気付いていたかどうか……伊兵衛は先に鍋川の渡を越して待ち、主従をやり過して尾けて行った。 彼はいきなり大弐を斬ろうとは思っていなかった。初めて大弐の講演を聴いた夜、その説が現在の秩序を誹謗するものであり、聴きようによっては徳川幕府を顛てん覆ぷくさせようとするもののあるのすら感じられた……﹃天に二日なく地に二王なし﹄という点で、朝廷と幕府を対照し、﹃禄位その本源を分つ﹄と称して、京と江戸と離間する論法をたて、すなわち乱世のよって起るところだと云った。伊兵衛は自分が学問に精しくないのを知っている。だから、面倒なもって廻った議論はできない。ただ彼は徳川氏が天下を平定するまでの、武家政治の幾変転をかえりみて、やっぱり現在の秩序はもっとも自然な道をたどり、道理によって発達したものだと信じていた……志を得ざる人々が、畏かしこくも京都を口にして幕府に矢を向け、おのれの功名心を満足させようとした例はすくなくない。しかし道理を無視したものが成功するか、世人を毒しいたずらに血を流すだけが結局ではないか、慶安の変もそうだった、承応の別べつ木きし庄ょう左ざえ衛も門んもそうだ。そして今また同じようなことが起ろうとしているのである。 伊兵衛が来栖道之進に、 ――大弐どのは殺されるぞ。 と云ったのは、右のように考えたからであった。むろん自分で手にかけるつもりはなかった。そういう危険な説を述べる者が、いつまで幕府の耳目を免れているはずはない、そう感じたからであった。しかしめぐりあわせはついにここへきてしまった。彼はいま大弐の心底を糺ただしたうえ、場合によっては本当に自分の手で斬る決心をしていた。 富岡から一里半あまり、小野という部落へかかったとき、先へ行く山県主従がふと道の上に立止った……雪明りではあるが、夜のとばりが深く、おまけに粉雪がひそかに降っていたので、伊兵衛がそれに気付いたのは、両者の間隔が四、五間に迫ってからのことだった。 ――あっ。 仄ほの明りのなかに立止っている主従を見て、伊兵衛は思わず低く叫びながら一歩戻った。すると間髪を容れず、 ﹁お逃げなさるな﹂ と供の盲人が声をかけた。 ﹁鍋川の渡の向うから尾けてみえた、知っていてお待ち申したのです……ここなら邪魔もはいりますまい。いざ、まいられい﹂ そう云いながら合羽をはねた。 ――盲無念、一刀致命の突。 孫次郎に聞いていた無気味な敵と、いま前に相対したのである。雪と闇とに遮られてよくは見えないが、小柄な痩せた体をややかがめ、見えぬ眼を仰にしながら静かに腰の小剣の柄へ手をかけた姿は、なにかしら慄然とさせる鬼気を持っていた。 伊兵衛は大弐に呼び掛けようとした。まず彼の心底を知りたかったから……しかし、盲人の全身から発する殺気は、眼に見えぬ一万の箭やを射かけるように、伊兵衛の神経を妖あやしく縛りつけてしまった。 蛇に見込まれた蛙、恐らくそのときの伊兵衛はそんな感じだったに違いない、神髄が痺れたようになって、手を動かすこともできず、息をつくことさえ苦しくなった。 ――いかん! と気付いたとき、相手はすでにずっと間合を縮めていた。そして、夜目にも白い右手が、するすると音もなく小剣を抜いた。三の四
桃井久馬は二十六歳になる。 元は国詰めの書物番で、功刀の隣屋敷に住んでいたが、三年まえ、父母と弟と一緒に江戸詰めになって去った……気質が狷介なので、隣同士でも親しい付合いはなかったが、それでも功刀兄妹とは幼友達であった。 ﹁まだ痛みまして﹂ ﹁いくらか楽になったようです﹂ ﹁もう少し冷したほうがようございましょう。そのほうが肉もよく上ると申しますから﹂ ﹁いや、もうけっこうです﹂ 立て廻した屏風に、行あん燈どんの光があかあかと映えていた……夜具の衿を口許まで引寄せた久馬は、痛みを外らすように、ふと屏風のほうへ眼をやった。亡き主人伊右衛門がそんな趣味のある人で、よく旅絵師などを呼んでは、いろいろなものを描かせて悦んでいた。 ――わしは格式のある絵は好かぬ、絵は心だ、下手でもよい、その人の心の表れている絵なら、どんな安絵師のものでも珍重する。 よくそう云っていたのを知っている。この屏風もそうした旅絵師の一人の描いたもので、南画風の山水に北宋風の花鳥を配し、それに文人画のぼかしをおいたというようなものだった。それができあがったときには、さすがの伊右衛門も苦笑して言葉がなかった。ことに六曲の左端に葭よしの茂った水があってそこに一羽の水みず禽とりが飛んでいるのだが、その鳥の正体がどうしても分らない。羽色は鶺せき鴒れいとも見えるし、脚の長いところは鷭ばんのようでもあり、嘴くちばしは宛然として鷺さぎに類する……久馬は少年の頃、伊兵衛とともにこの屏風を見るたびにそれを指さしては笑ったものであった。 ﹁ああ、なつかしい屏風ですね﹂ ﹁……なんでございますの﹂ ﹁この屏風です。そっちの端にいる鳥がなんだか分らないので、伊兵衛とよく冗談を云ったものですよ﹂ 佐和も思いだしたように、手をそっと唇に当てながら笑った。 ﹁そうでございました。父はそれを聞くのがいやでしたそうで、ずっと納戸へしまったきり出させませんでしたの……家へ来て絵を描いたかたは、たいていまた、二度め三度めとお寄りなさいましたけれど、この屏風を描いたかただけは、それっきり音沙汰がございませんてしたわ……いまどうしていることでしょう﹂ ﹁もうずいぶん昔のことですね﹂ 久馬はそっと眼を閉じた。 彼は佐和を恋していた。物心のつく頃から彼女の俤おもかげを追っていた。しかし彼は自分の家柄の低いことを恥じ、自分の才分の拙つたないのを恥じ、容貌の醜いのを恥じていた。 ――自分などの手の届くひとではない。 絶えずそうおのれを抑えながら、苦しい日を送ったものである。三年まえに江戸へ立ったときは、ふたたび彼女を見ることができぬという辛さより、側にいることの苦しさから脱れられるのを悦んだ……三年の時日はやっぱり彼の心にも忘却の救いを与えてくれた。ときおり、幻を描いてみることはあっても、絶望的な、身を噛むような悩しさには襲われなくなった。 ――あのひとは、あのひとに相ふさ応わしい人間と結婚するだろう。そして子を生み、やがて老いてゆくことだろう。 しかし、おれの心にはあのひとが残っている。あの若さも、美しさも、清純さも、そのまま少しも変らずに遺っているんだ。 未練ではないと彼は信じていた。男が一生にただ一人の妻として選ぶべき女、その他にはどんな女も自分の妻ではあり得ない。そういう女に対する男の本当の愛だと信じていた。 彼は同志六人とともに、山県大弐を鬼鉾山の権現堂に追い詰めたが、四人を討止められ、自らも傷ついた。そのとき彼は、 ――ここが死に場所だ。 と覚悟すると同時に、 佐和がすぐ近くにいる。 という心の叫びを聞いた。 土井勇ゆう次じろ郎う、山口藤とう吉きちの二人と、傷ついた身をここへ遁のがれて来たのは、むろんそのためだけではない、どこまでも大弐を刺そうと思ったからである。しかし、その心の片隅に、佐和を見て死のうという気持がなかったと断言することはできなかった。 大弐が国老の屋敷にいると聞くや、山口、土井の二人は矢も楯も耐らず出て行ったが、彼は高腿の刺傷が烈しく痛んで起てず、空しくここに残っている。ここに残って佐和の介抱を受けている。 ――ああ。 と思わず久馬は呻声をあげた。 ﹁どうなさいまして?……痛みますの﹂ ﹁いや﹂ 久馬は傷よりも烈しい胸の苦痛に、強く眉を寄せながら首を振った。 ﹁あの二人はどうしたかと思いましてね﹂ ﹁兄がすぐまいりましたし、まだ帰って来ないところをみますと、お二人も御無事でいらっしゃるのではないでしょうか……兄は御家老さまとは別懇でございますから﹂ 表に人の帰って来た気配がした。 ――紙屋さまだ。 そう思ったので、 ﹁ただいまお食事を持ってまいります﹂ と云いながら佐和はそっと立上った……玄関へは母親が出ていた。そこには紙屋十郎兵衛が、四五人の若侍たちを伴れて来ていた。みんな厳重な身拵えである。槍を持っている者もあった。日が暮れても兄が戻らないので、十郎兵衛がようすを見に行ったのだが、そんな身支度で、五人も一緒に戻って来たのは、兄の身になにか異変があったのではないだろうか……佐和は顔色を変えた。 ﹁紙屋さま、兄は……﹂ ﹁国老の屋敷にはいませんでした﹂ 母親と話していた十郎兵衛は、佐和のほうへ元気な眼を振向けて続けた。 ﹁いま御母堂にお話し申したのですが、国老の屋敷にはいませんでした。しかし山県大弐が夜道をかけて発足しているので、おそらくそれを追って行ったものと思います。それで我々もあとから追ってみるつもりなんですが﹂ ﹁あのお二人のようすは分りませんの﹂ ﹁分りました﹂ 十郎兵衛は暗然と声をひそめて云った。 ﹁お気の毒ですが……どうやら返討になったらしいのです。四人の死体と一緒に、崇福寺へ運ばれたのをたしかめましたから﹂ それでは兄は大弐を追って行ったに違いない。佐和は眼に見えるような気がした。 ﹁とにかく我々は追いかけます。ここへはもう誰も来ないでしょう。久馬には安心するように云っておいてください……ではみんな﹂ 五人とともに、紙屋十郎兵衛は雪を冒して出て行った。佐和はそれを見送りながら神に祈るような気持で呟いた。 ――どうぞ間に合いますように、どうぞ兄が無事で戻りますように。四の一
﹁東寿、待て、待て﹂ 大弐の声がした。 ﹁降りかかる火は防がなければならぬ。しかしこっちから仕掛けてはならんぞ﹂ ﹁しかし先生、こやつも刺客の片割れです﹂ 東寿の小剣は伊兵衛の胸元を覘ったまま動かない。大弐は大股に戻って来た。 ﹁許さぬ、刀をひけ東寿﹂ ﹁…………﹂ ﹁刀をひけと云うに﹂ 東寿はそっと右足を引き、構えていた小剣を下した。大弐は雪明りにじっと伊兵衛のほうを見やった。 そして力の籠こもった声で静かに、 ﹁小幡藩中のかたか﹂ と呼びかけた。伊兵衛は身が竦み、喉が干あがって答えることができなかった。 ﹁いずれにもせよ﹂ と大弐は答がないので続けた。 ﹁後を尾けるのは止めにせられい、大弐一人の首を打つとも、正しき大道を亡ぼすことはできぬ。区々たる藩家の内紛に眼を晦くらまされ、人間の踏むべき道を失うとは笑止千万な……お帰りなさい。貴公たちの手に討たるる大弐ではない﹂ 云い終ると、大弐は東寿を促して闇のかなたへ去って行った。 伊兵衛はしばらくその後姿を見送っていたが、急に意を決してその後を追った……東寿の剣に立竦んで、身動きのできなくなった瞬間から、静かな大弐の言葉が終るまでの短い時間に、伊兵衛は根底の知れない一つの感動に襲われていた。それは説明しようもないし自分でも判断しがたい、一種の顛動であった。 東寿の剣は、かねがね聞いていたとおりすばらしいものだった。その身構えから発する妖よう気きとも云うべきものは、たしかに人の心胆を奪う力を持っていた。しかしそれは防いで防げないものではなかった。少くとも伊兵衛には、対等に剣を交えるだけの自信は充分にあった。けれど……その異常な、ものの他に、東寿の全身はもっと大きな、不動のものの上に立っていた。生死をまるで度外にした、不抜の信念、ずんと一本つきぬけた意志が、その全身から熱のように放散していた。 生死を超えて﹃道﹄のために自分を投げだしている強さ! それが伊兵衛の胸を圧倒したのである。道を踏む者の無我の気が、伊兵衛の手足を縛りつけたのだ。 ﹁山県どの、おーい﹂ 走りながら伊兵衛は叫んだ。凍てた雪が、足下でばりばりと鳴った。およそ七八町、足も宙に追って行くとやがて……立止っている主従の姿が見えた。 ﹁お待ちください。山県どの﹂ 伊兵衛は近寄りながら、 ﹁さきほどのお言葉について伺いたいことがある。話が済むまではけっして乱暴はしません﹂ ﹁東寿、退っておれ﹂ 大弐はそう云って振返った。 ﹁御不審があるならお話し申そう。しかし、夜も更けて寒気も厳しく、道の上の立話もなるまい。よろしかったら板鼻の宿まで同道なさらぬか﹂ ﹁望むところです。御一緒にまいろう﹂ ﹁笠も合羽もなく、雪まみれでは寒かろう﹂ 大弐は伊兵衛の姿を、改めて見直すようにしながら云った。 ﹁東寿、包の中になにかあろう。出してお貸し申すがよい﹂ 盲人は背から包を解き下し、綿の入った十徳のようなものを取出した。大弐はそれを伊兵衛の肩へ掛けてやった。 ﹁これでいくらかは凌しのげるであろう﹂ ﹁お借り申します﹂ 伊兵衛は素直に受けて会釈した……そしてふと、初めて津田邸の講こう筵えんに出たとき、 ――ずっと火桶の側へお寄りください。 と聴衆にすすめていた大弐の姿を思出した。いかにも角の円い、親切な思いやりであるが、伊兵衛には笑止に見えた。今もまた同じように、いったんは白刃を擬した間柄であるのに、寒さを凌がせようというとりなしが、なんとなく取ってつけたような、空々しいものに思えてならなかった。 ――まあどうにでもしてみろ、そんなことで籠ろう絡らくされる相手とは違うぞ。 伊兵衛はそっと冷笑して、 ﹁拙者が御案内に立ちましょう﹂ と二人の先へ立って歩きだした。 板鼻の宿へ入ったのは、夜の十時頃であった。いちどやんだ雪が、その時分からまた吹雪だしたので、松葉屋という宿屋へ入って、三人は草わら鞋じを脱いだ。四の二
﹁山県どのはさきほど﹃正しき道﹄ということを云われた﹂ ﹁申しました﹂ ﹁あなたの説かれる﹃新論﹄の説が、正しき道だと云うのですか﹂ 宿の湯へはいってから座敷に相対するとすぐ、伊兵衛は膝を正して切出した……大弐は静かな光を湛えた眼で、若者の顔をひたと見戍りながら、 ﹁功刀どのは拙者の新論を読まれましたか﹂ ﹁読みません。先夜の講演を聴いたのみです﹂ ﹁それでもけっこう、あれを聴かれたら改めてお訊ねにも及ぶまいと思うが﹂ ﹁いやお訊ね申さなくてはならぬ﹂ 伊兵衛は大弐の眼を見返して云った。 ﹁山県どのの説は幕府を誹謗し、名を尊王に托して世人を過つものだと思う。あなたは﹃得一﹄の説において禄位二つに別れるは乱世の基なりと云われた﹂ ﹁お待ちなさい﹂ 大弐は静かに制した。 ﹁ここで新論の末節を論じたところでいたしかたはない。そんな議論は措いて、根本のことを考えてみてはどうです﹂ ﹁根本のこととは﹂ ﹁我々はいったい何者なのか、我々の立っているこの国土はどういうものなのか、それをまず検めてみましょう……功刀どの、我々は大和の民です。日本という国土に生れ、一天万乗の天皇を戴いている、この点にあなたの御異存がありますか﹂ ﹁それは山県どののお言葉どおりです﹂ ﹁ではなんの議論もないはずです……拙者の選した﹃柳りゅ子うし新しん論ろん﹄は、けっきょくそれを明らかにしただけのことです。人間は愚なもので、余りに分りきったことがらは眼に見ず、耳に聞こうとしません。我々が日本人である以上、一君万民の国風が不易であるということは分りきっている。その分りきったことが人々の眼には見えなくなっているのです﹂ ﹁どう見えなくなっているのです﹂ ﹁たとえばあなたがそうだ。功刀どの、あなたは小幡の藩士で、代々織田侯に扶持されている。織田侯はまた幕府から領地をもらっている。あなたは小幡藩士として主家にことあるときは一身を賭とすであろう。また幕府が軍を催す場合にも命を抛なげうって働くに違いない。しかし……もしことあって朝廷が召されたとして、功刀どのは即座に家を捨て、身を捨ててお召に応ずる覚悟がありますか﹂ ﹁しかしそのためにこそ、征夷大将として幕府があるではありませんか﹂ ﹁その幕府が、万一にも朝廷に弓をひくとしたらどうなさる。史書に例のないことではない。もしそうなったらあなたはどうします﹂ ﹁…………﹂ ﹁あなたの学んだ武道はどう教えます﹂ 大弐はちょっと言葉を切って云った。 ﹁現在武士道の教えるところは主君のために身命を惜しむなかれという。あなたは代々織田家の家臣で、代々織田家の扶持を喰はみ、その恩顧を受けている。だから織田家のために不惜身命の覚悟はあるであろう。その主家が、幕府とともに大逆の軍を催したとして、あなたは即座に京へはせのぼることができますか﹂ 伊兵衛は言句に詰った。 ﹁功刀どの?﹂ 大弐は静かに、微笑さえ含んで続けた。 ﹁これはむずかしい論ではない。日本の国民として、あまりに分りきった話です……しかし、あなたはすぐに答えることができない、なぜ答えられないのかお分りですか。つまりあなたも、分りきったことが見えなくなっているからです﹂ そのとき階下から、なにか罵ののしり交わす人声が大きく聞えてきた……そして、それに続いてばたばたと、家の中へ踏込んで来る跫音が、廊下から階段へと近づいて来た。 ﹁……先生﹂ 部屋の隅にいた東寿が、そっと小剣を引寄せながら片膝を立てた……伊兵衛は即座に立上って、 ﹁拙者が見てまいりましょう﹂ と出て行った……大剣を左手に、階段を下りるとばったり出会ったのは紙屋十郎兵衛だった。後に四五人、家中の者がいた。 ﹁おお功刀、無事だったか﹂ ﹁紙屋か、これはなんの騒ぎだ!﹂ ﹁貴公がどうしたかと思って追って来たんだ。どうしたあいつは、大弐は斬ったか﹂ ﹁その話は後でする。まあこっちへ来い﹂ ﹁斬らんのだな、二階にいるのか﹂ ﹁話があるんだ、外へ出よう﹂ ﹁いや放せ﹂ 十郎兵衛は一歩退いた。 ﹁我々が貴公の助勢に来たのは事実だ。しかしそれは第二、目的は山県大弐にある。お家の禍根を断つために彼を斬らなくてはならん﹂ ﹁それは初めからおれが引受けている。いいからおれに任せろ﹂四の三
﹁功刀、貴公まるめられたな﹂ 十郎兵衛の眼がきらりと光った。 ﹁我々は貴公が傷つき、雪の上に倒れている姿を想像して来たところが、貴公は宿の丹前を着て納っているし、どうやら大弐を斬る考えも無くなったようすだ……しかし我々は退かんぞ!﹂ ﹁おれがまるめられたかどうかはべつとして、考えの変ったことだけはたしかだ。とにかくここはいちおう引取ってくれ。仔細はあとで話すから﹂ ﹁いや退かぬ。貴公こそ退け﹂ 十郎兵衛は左手で大剣の鯉口を切った。 ﹁山県大弐はお家を危くする、我々はお家の禍を未然に防ぐのだ。邪魔をすると貴公とて容赦はない﹂ ﹁待て抜くな紙屋﹂ 伊兵衛は手をあげて叫んだ。 ﹁おれと貴公たちとなんの要があって斬合うんだ。山県どのがお家の禍根だと、貴公に云ったのはこの功刀だ。そのおれが改めて云う。山県どのに手を出すな。山県どのを斬るまえにおれの云うことを聞け﹂ ﹁無用だ。すでに変心した貴公の言葉など聞く要はない。通せ功刀!﹂ ﹁通さぬ……東寿どの﹂ 伊兵衛は振返って、階上へ叫んだ。 ﹁先生を伴れてお立退きなさい。ここは拙者が引受けます﹂ ﹁うぬ裏切り者が!﹂ 十郎兵衛が喚きざま抜討ちをかけた。それより疾はやく伊兵衛は身を翻して階段の半ばまで跳退いていた。十郎兵衛は、頭上へ打下される太刀を避けようともせず、そのまま足を踏み鳴らして階段を駈け登る。 ﹁功刀は拙者がもらう。大弐を逃すな﹂ と叫んで詰寄った。 声に応じて、後にいた三人が、裏手へとびだして行くのを見ながら、伊兵衛は大弐主従のいた部屋の前まで退って来た。 ﹁山県どの、東寿どの﹂ 声を掛けたが返事がなかった。 ――逃げてくれた。 と思う、そのはなへ、十郎兵衛が絶叫とともに斬込んだ。しかし大剣は空を截きって障子を裂き、伊兵衛は裏うら梯ばし子ごのほうへ走っていた。 ――大弐どのを落さなくてはならぬ。しかし彼等を傷つけることはできない。 ﹁待て、功刀!﹂ という声を背に、伊兵衛は裏梯子を滑り下りると、逃げ惑う宿の人々のあいだをぬけて、裏手へとびだした。 先に裏へ廻った三名が、街道のほうへ走って行く姿がちらと見えた。伊兵衛は宿の丹前を着たなりである。裾が足にからまるし広い袖が邪魔だった。しかし懸命に走ってすぐ三名に追いついた。 ﹁待て、待たぬと斬るぞ﹂ 脱兎のように、追い越しておいて向直ると、伊兵衛ははじめて大剣を抜いた……伊兵衛の腕を知らぬ者はない。きらりと闇に大剣が閃ひらめいたとき、三名はぴたっと足を止めた。しかしすぐにそこへ、十郎兵衛と他の二人とがはせつけて来た。 ﹁かまわぬ、斬って通れ﹂ 十郎兵衛が叫んだ。 ﹁よし斬ってこい﹂ 伊兵衛は左手に持った鞘を投げながら応じた。 ﹁話しても分らぬやつはこっちも容赦はせぬ。だが一言だけ云っておく、おれたちは間違っていたんだ、ひと口には云えない。言葉で説明することはできない、けれども山県どのを乱臣と見たのは拙者の誤りだ。小幡一藩の興廃から見たらあるいは禍根となる人かも知れない。しかしそれは山県どのの乱臣であるためではない。おれはいまそれを説明することができない。おれ自身がもっとよく知りたいんだ﹂ ﹁問答無用だ。功刀、きさま小幡の藩士として、この刀が受けられるものなら受けてみろ﹂ かっと喉を劈つんざく声とともに、十郎兵衛が体ごと突込んで来た。伊兵衛はわずかに体を躱かわした。そして十郎兵衛が烈しくのめって行くのを見たとき、 ――正しき道。 という言葉がちらと頭へうかんだ。 ――もし朝廷のお召があったら、家を捨て身を捨てて、即座に京へはせ上る覚悟があるか。 そう云った大弐の語気が、まざまざと耳底に甦よみがえってきたのだ。幕府制度を固くするためにのみ、歪ゆがめられてきた武士道、忠義を唱えながら、そのもっとも本質たる朝廷への精忠という意義を蔽い隠してきた武家道徳、その正体が朧おぼろげながら伊兵衛には分りはじめたのだ。 ﹁よし来い十郎兵衛﹂ 伊兵衛は決然と叫んだ。 ﹁おれはいま小幡藩士の功刀伊兵衛ではない。もっと大きな、武士が武士として踏むべき道に立っているんだ。一人もここを通さんぞ﹂ ﹁かかれ! たかが伊兵衛一人、斬って通れ﹂ 十郎兵衛が雪を蹴って殺到した……降りしきる雪の中に、白刃が条を描き、蹴立てる雪が煙のように闇を染めた。四の四
来栖道之進が江戸から帰って来たのは、それから七日目のことであった……同行した斎藤孫次郎はそのまま自分の家へ帰ったが、道之進は旅装のまま津田邸を訪れた。 頼母は居間で待っていた。 ﹁御苦労であった﹂ ﹁思わぬことができまして帰国が後れました﹂ ﹁思わぬこととは、なにか……﹂ ﹁山県先生はどうなされました﹂ 挨拶もそこそこに、道之進は声をひそめて云った……旅の疲れもあろう、しかし彼の蒼白な顔にはなにやらもっと重大なものがひそんでいた。頼母は訝いぶかしげに眉を寄せて、 ﹁山県先生はあれからすぐ御出立になった。もっともそれについて少し困ったことはできたが﹂ ﹁なんでございます﹂ ﹁功刀伊兵衛が紙屋十郎兵衛と若手の者四五人を相手に、板鼻の宿で間違いをしでかしたのだ。仔細はよう分らぬ。十郎兵衛と若手の二人が重傷し、伊兵衛はそのまま立退いてしまったが……人を遣わして調べさせたところによると、伊兵衛は山県先生をお護り申して行ったようすだ﹂ ﹁伊兵衛が、県先生を……﹂ 道之進にはまるで謎のような言葉だった。初めて講演を聴いた夜、伊兵衛は大弐の説を罵倒して、 ﹁山県どのはいまに殺されるぞ﹂ と云った。国を危くする説だと云った。その伊兵衛が、こんどは逆に大弐を護衛して行ったという。 ﹁しかし、それはなにかの間違いではありませんか﹂ ﹁間違いではない。紙屋たちが山県先生を斬ろうとするのを、伊兵衛が邪魔をしたので間違いができたらしい。どうしてそんなことになったか、わしにもまるで仔細は分らぬが、宿場の噂を集めてみるとそうなるのだ﹂ 頼母はそういう間ももどかし気に、 ﹁それで、そのもとの思わぬことができたというのはなんだ﹂ ﹁江戸の情勢が意外にさし迫りました﹂ 道之進はぐっと身を乗出した。 ﹁県先生に対する幕府の探索は、網の目のように行渉っております。学問の上からは松まつ宮みや主しゅ鈴れいどのが主となって働き、身辺のことは大目付が八方へ手を廻しているのです……御存じかも知れませんが、先生の御門下に藤ふじ井いう右も門んと申される御仁がおります﹂ ﹁評判だけは聴いている﹂ ﹁その右門どのが江戸新吉原で刃傷沙汰を起され、公儀の手にお召捕りとなりました……幕府が今日まで、大弐どのに手を着けることができなかったのは﹃尊皇の大義﹄を説かれるところに在ったのです。この説が根本であるため、京へ憚はばかって手が出せなかったのです。しかし右門どのが刃傷沙汰で召捕られるとともに、幕府は一味捕縛の決心をしたのです﹂ ﹁なんのために、右門どのの刃傷が先生に累を及ぼすのか﹂ ﹁理屈はどうにでもつきましょう。要は県先生を奉行所へ曳く口実さえできればよいのです。そしてその手筈はできたもようです﹂ 道之進は声をひそめて続けた。 ﹁御家老、ことここに及んでは万事休しました。県先生との一切の関りを断つべきです。一刻もなおざりには相成りません。もし処置が後れますと御家老の位置は水すい泡ほうに帰します﹂ ﹁わしの位置?……わしの位置などがなんだ﹂ ﹁江戸表に於おいては、少将さまはじめ、松原郡太夫どのらが蹶けっ起きしようとしております。ここは先手を打って御家老より県先生を直訴あそばすが必勝の策と存じます﹂ ﹁道之進、なにを申す﹂ 頼母は唖あぜ然んと眼を瞠った。 ﹁わしに……わしに先生を訴えろと云うのか﹂ ﹁そのとおりです。少将さま御一党の先手を打つのです。さすれば御家老の御身分は今日よりさらに強固なものとなるは必定です﹂ ﹁分った。そちの思案はよう分った﹂ 頼母は惘もう然ぜんとして云った。 ﹁そうか、今日までそちが県先生に師事するごとく見せたのは、江戸家老やわしが藩政を執っていたからだな。そちは県先生に師事したのではなくて、藩政を執る権力に追従していたのだな﹂ ﹁御家老、わたくしはお家のおためを思うばかりです。御家老の御身分が御安泰であることを願っているだけです﹂ ﹁そのために県先生を幕府へ訴えよと申すのか。さような不義無道を犯してまで、お家を安泰にしおのれの身を全うせよと云うのか……帰れ、もの申すも穢けがらわしい。帰れ道之進﹂ 道之進は黙って頼母の眼を見上げた……蒼あお白ざめた顔に、剃刀のような双眸が鋭い光を放っていた。彼は静かに座を滑ると、 ﹁お怒に触れまして恐入ります﹂ と平伏しながら云った。 ﹁なれど、いまいちおう押して申し上げます。御家老の思召がどうありましょうと、幕府の方針はすでに決定しております。少将さまはじめ、松原一味はかならず県先生を訴えるに相違ございません。いずれにしましても、先生の運命は明白でございます。ここは御家老の御意志を決すべき、大切な場合と存じます﹂ そして道之進は退座して行った。五の一
﹁もし、もし……﹂ 闇の中から、あたりをはばかるような呼声であった……伊兵衛は油断なくあたりに眼を配りながら足を停めた。 ﹁誰だ、呼んだのは拙者か﹂ ﹁おおやっぱり、旦那さま﹂ そう云いながら、路みち傍ばたの木蔭からとびだして来たのは家僕の五ごろ郎う次じだった。 ﹁やっぱり旦那さまでございましたか、お待ち申しておりました﹂ ﹁こんな処で待っていたとはなぜだ﹂ ﹁お留守のあいだに大変なことになりました。大奥さまもお嬢さまも、お屋敷にはいらっしゃいません。旦那さまにも横目役所から手配がきております﹂ ﹁そうかやはりあれが禍になったか﹂ 板鼻の宿で山県大弐を救うため、紙屋十郎兵衛はじめ数名の者に手傷を負わせた……そうならぬよう、ずいぶん苦心したが、ついに三四人に手を負わせてしまった。 ――しかし私怨ではない、大弐どのを救うためにしたことだ。津田国老には分ってもらえるであろう。 それまで大弐を刺そうとして、反対に盲無念のために討止められた人々は、津田頼母が仔細なく片付けたのを知っている。だからこの場合も、むろん国老がなんとか後始末をしてくれるだろうと、考えていた。そう考えたから、すぐ帰るよりは、少しほとぼりをさましてからのほうがよかろうと思い、また一方では、もっと深く大弐の学問に触れたいという希望もあって、二十日あまり一緒に甲州路の旅をともにして来たのであった。 大弐は展墓のため、甲斐の国巨こ摩ま郡篠原村の故郷へ帰るのだった。しかしそれは同時に、故郷の人々と今生の袂べい別べつをする隠れた意味ももっていたので、篠原村では十日あまりも滞在し、有士のために両三回ほど講筵も敷いた……伊兵衛は甲斐路の途上と、篠原村に滞在しているあいだに、大弐の思想をかなり精しく聴くことができた。そして、彼は生れ変ったように、明るく大きな視野を与えられ、国体と臣民との本来のつながりをしかと掴んで、大弐と別れて来た。 武家政治を安泰にするための道徳、かって至上律と思っていた狭い武士道から解放されて、大きな正しい道をみいだした彼は﹃今こそ本当に生きる﹄という強い自覚をもって帰ったのだ。 母や妹のことは、国老が始末をしてくれるものと信じていたし、自分も帰藩したら、改めて来栖道之進とともに、国老の新政のために身を投げだして働こうと考えていた……ところが、いま家僕の言葉を聞くと母や妹は屋敷から身を隠したらしいし、自分にも横目役から追捕の手が伸びているという。これはいったいどうしたことなのか。 ﹁それで、母上はどうしておられる﹂ ﹁とりあえずわたくしの実家へお匿い申し上げました﹂ ﹁おまえの家は日野の在だったな﹂ ﹁鮎川の向う岸で川治と申すところでございます。ここからは二里あまり、すぐに御案内をいたしましょう﹂ ﹁いや待て……そこは安全な場所だろうな﹂ ﹁はい、御領分外でございますから、小幡の小役人ははいれまいと存じます﹂ ﹁よし、それではおまえ先に帰ってくれ﹂ 伊兵衛はきっと夜空を見上げながら云った。 ﹁拙者が無事に帰ったこと、間もなくお眼通りするということをお伝え申すのだ。明日はきっとまいるから﹂ ﹁でも旦那さま、もしや城下へおいでなさいますのでしたら﹂ ﹁拙者のことは心配するな。母上への伝言を忘れずに、行け、闇夜で道が危い、くれぐれも注意して行くのだぞ﹂ ﹁でも……旦那さま﹂ 気遣わしげな家僕の声をあとに、伊兵衛は城下への道を足早に急いだ。 来栖を訪ねようかと思ったがまず国老に会うべきだと考え直して、裏道伝いに津田邸へ向った……まだ宵の八時頃であったが、雨催いの闇夜で、忍ぶには屈竟である。 ――玄関からは訪ねられない。 それは覚悟していた。 残雪が、斑まだらに闇の小径の標になってくれた。伊兵衛は遠い人声や、犬の気配にまで注意しながら、やがて津田邸の裏手へ辿り着くと、いつか大弐を覘って忍び込んだ心覚えの場所から、巧みに邸内へと身を躍らせた。五の二
﹁……誰だ﹂ 障子にゆらりと人影が映って、低く呼びかけながら窓のほうへ近寄って来る。 津田頼母の声だった。 伊兵衛は丸窓の障子へ身をすり寄せるようにしながら声を忍ばせて、もういちど名乗った。 ﹁功刀伊兵衛でこざいます﹂ あっという低い驚きの声が聞えた。 ﹁声を立てるな、いま人払いをして来るまで、そのまましばらく待て﹂ 囁くように云って、頼母は足早に向うへ去ったが、間もなく戻って来ると、廊下のほうの雨戸を開けて手招きをした……伊兵衛は敏捷に走って行くと、草鞋を脱ぎ、手早く足の汚れを押拭って上へあがった。 ﹁……こっちがよい、まいれ﹂ 頼母は手燭に灯を移し、先に立って渡り廊下から望翠楼の階上へと案内して行った……そこはかつての夜、大弐と別宴を催したところで、東寿が弾じていた琵琶の音色は今も伊兵衛の耳にまざまざと残っている。 ﹁いや、挨拶はよい﹂ 燭台に灯を入れると、頼母は待兼ねたように膝を乗出して云った。 ﹁気懸りなのは山県先生のお身上じゃ。先生は御無事か﹂ ﹁はい、甲斐のお国許まで、無事にお見届け申してまいりました。御家老……拙者板鼻にて家中の者を傷つけましたことは、山県先生をお救い申すためのやむを得ぬ手段でございました﹂ ﹁それは分っている。しかし、どうして先生をお救い申す気になったのか。聞くところによると、そのもとは先生を乱臣賊子だと申していた一人でなかったのか﹂ ﹁いま考えますと、まことに身の竦む思いでございますが、甲斐への旅中と、篠原村に滞在するあいだ先生のお教えを受けて、いろいろと発明いたしました……それで﹂ と伊兵衛は膝を正して云った。 ﹁今後は道之進ともよく談合のうえ、微力ながら藩政御改革のために、一身をなげうって御奉公を仕りたいと存じます﹂ ﹁……なんと申して、その言葉に答えたらいいか﹂ 頼母は急に力の抜けたさまで眼を伏せた。 ﹁なんと云ったらいいのか、功刀、遅かったぞ。わずかの間になにもかも変った﹂ ﹁御家老……﹂ ﹁山県先生が幕府の手にかかるのは時日の問題となった。わしの藩政改革に反対する一味の者は、すでに幕府へ訴状を出してしまった。万事挫ざせ折つだよ、功刀﹂ ﹁訴状とはどのような訴状です。先生を訴える理由があるのですか﹂ ﹁幕府顛覆の謀反ありと称したのだ。この点だけなら先生は弁明をなさるに違いない。しかし当藩へ講演に見えられたとき、兵法問答のうえで江戸城攻略と、碓氷峠を中心にして軍略を述べられたことがある。むろん……これは先生の師事する者だけ集ったおりのことだし、問答の例として述べられたのだが、それを筆記した者があって訴状に精しく認めて出したのだ﹂ ﹁先生に師事する者だけの集りであったら、外へ洩れるようなことはないと存じますが﹂ ﹁かつては師事し、先生の思想に傾倒していると見せながら、じつはそうでなく、おのれの出世立身のためそうしていた者があった……その者が事態不利とみて寝返りをうったのだ﹂ ﹁そんな人間が……いや、いちどでも先生の説明に耳を傾けたことのある人間の中で、そんな卑劣なことのできる者がおりましょうか﹂ ﹁功刀……そのもとは帰ってすぐここへ来られたのか﹂ 頼母はふいに別なことを訊いた。 ﹁は、途中で家僕に出会い、母どもの在所だけ知れましたのでとりあえずここへお伺い申しました﹂ ﹁では母御にはまだ会っていないのだな﹂ ﹁まだ会いません﹂ ﹁じつは来栖からわしのもとへ……﹂ 云いかけたが、舌が鈍るらしく、ちょっと言葉を切ってから続けた。 ﹁そのもとの妹と道之進との縁談を破約にしてくれと申込んでまいった﹂ ﹁それは意外な話です﹂ 伊兵衛は信じられぬというように、 ﹁事実でございましょうか、佐和を嫁に欲しいと申込んだのは道之進でございます。母は望まなかったのですが拙者が彼の誠意を認めて婚約を結んだので、いまさら彼から破約を申出るはずはないと思いますが﹂ ﹁なかだち役を買ったわしにも、こんなことが起ろうとは信じられなかった。しかし功刀……人間が心をむきだしにするときは、善悪にかかわらず恐しい力を現すものだな﹂ ﹁それはどういう御意でございますか﹂ ﹁山県先生を幕府へ売るための、訴状を書いたのは道之進だ﹂ ﹁…………﹂ ﹁彼は、おのれの立身のために、先生に師事するごとく見せていた。わしの藩政改革が成功するとみて、わしのために働いていた。しかし事態が変り、幕府が、先生に強圧の手をのばし始めると知るや、即座に身を翻してわしから去り、松原郡太夫に一味して先生を売ったのだ……そのもとの妹との縁談を破った理由もそこにある。人間が心をむきだしにする時のすさまじさ、功刀、そのもとはこれをすさまじいと思わぬか﹂五の三
伊兵衛はながいあいだ黙っていた。 彼の頭は濁流の渦巻くように混乱して、しばらくは考えを統一することも困難だった……彼は道之進の明敏な質たちに一目おいていた。道之進の才子肌な点には不快を感じても、犀さい利りな頭脳と進退のみごとさには敬服していた。 ――気に喰わぬやつだ。しかし人物としては一流にぬきんでているだろう。 そう信じていた。だからこそ、母の反対を押切ってまで佐和を嫁にやる約束をしたのだ。 ところが彼はこんなふうに本心をさらけだした。婚約の破棄はまず措くとして、あれほど傾倒しているかに見せた山県大弐への態度が、じつはおのれの立身の手段であったとは赦しがたい。事実だとすれば、それがもし事実だとすれば……いや! 人間はそんな陋ろう劣れつにはなれぬはずだ、心の企む不善にも限度がある。そこまで自分を卑劣に堕すことは不可能だ。 ――おそらく彼にはなにか思案があるのだろう。国老とのあいだに意志の齟そ齬ごする点があるのに違いない。 伊兵衛は一縷るの希望にたどり着いて、 ﹁来栖は屋敷におりましょうか﹂ と顔をあげた。 ﹁止めたほうがよい﹂ 頼母は静かに頭を振った。 ﹁会ったところでどうにもならぬ。ことにそのもとへ追捕の命令が出ている。ことここに及んでは小幡に留っても無益じゃ。県先生によって発明するところがあったなら、その道のために身を捧げるがよい……世中へ出て行け、そして先生の教える正しき道を、少しでも多く世の人々に伝えるがよい﹂ ﹁拙者は来栖に会います。そのうえで仰せのようにいたします﹂ ﹁自ら死地に入ると同様だぞ﹂ ﹁拙者はそうたやすくは死にません。また死ぬことを怖れてもおりません……御家老、また改めて御意を得ます﹂ ﹁待て。どうしても会いたいならわしが手紙で呼び出してしんぜよう。そのもとは崇福寺の門前で待っているがよい。来栖がそこへ行くよう手配をする﹂ ﹁しかし、彼が来ましょうか﹂ ﹁来なかったら押掛けても遅くはないであろう、大丈夫行くと思う﹂ ﹁ではお願い仕ります﹂ 伊兵衛は津田邸を辞した。 外へ出てから、崇福寺の梅ばい叟そう和おし尚ょうがかねて松原郡太夫一味であったということに、伊兵衛は気付いた……そうだ、道之進がもしこれで崇福寺へ来るとすれば、松原一味に寝返ったことも明白になる、そう思った伊兵衛は、そこで自らひとつの決意をもたなければならなかった。 寺へ近づいた彼は、山門の前にある茶店の軒下へ入った……昼だけ茶を汲む老婆がいて、夜になると誰もいないから、夜風、人眼を避けるには屈竟である。 しかし長く待つ必要はなかった。 遠い跫音を耳にしたので、伊兵衛がそっと覗いて見ると、提ちょ灯うちんの火が一つ、急ぎ足にこっちへ近寄って来る……じっと身をひそめたまま待っていると、それはまさに来栖道之進だった。しかも自分が持っているもので、下僕も伴れずただ一人だった。 ――しめた。 伊兵衛は頷うなずきながら、相手が眼前に近づいたとき、つかつかと参道の上へ出て行った。 ﹁来栖、待兼ねたぞ!﹂ 突然そう云って行手を塞ふさがれた道之進は、あっと低く声をあげながら二三歩退った。 ﹁……誰だ、誰だ﹂ ﹁なにをそんなに驚くんだ。おれだよ﹂ ﹁……く、功刀……﹂ ﹁伊兵衛さ、待っていたんだ﹂ ﹁ではあの手紙は﹂ 道之進がもう一歩退るのを、押えつけるように伊兵衛が叫んだ。 ﹁止せ、逃げようとしても無駄だ。おれは貴公に訊きたいことがあって来てもらったんだ。訊きたいことを訊くまでは放さん﹂ ﹁そんなら家へ来るがいい。なんのためにこんなことをするんだ﹂ ﹁おれがいまどんな身上かということは知っているだろう、手間は取らせぬ。まあ、こっちへ来て掛けないか﹂ ﹁縁談のことなら、拙者は知らんぞ﹂ 道之進は懸命に、立ち遅れた自分を取戻そうとしながら、伊兵衛とともに茶店の中へ入って来た……伊兵衛が提灯を受取って、縁台の上に置き、道之進と相対して腰掛けながら、 ﹁貴公が知らなくて誰が知っているんだ﹂ ﹁母だ、母が独りでしたことなんだ﹂ ﹁理由があるのか﹂五の四
﹁耻を話さなければ分らない﹂ 道之進はふと眼を伏せながら云った。 ﹁貴公にもこれまで話したことはないが、拙者の母は、拙者の立身出世ということを第一に考えているひとだ。そのためには自分の身を殺すこともいとわぬし、どんなことでもする覚悟でいる﹂ ﹁佐和を妻にしては立身の妨げになるとでもいうのか﹂ ﹁打明けて云えばそれだ。母はこの縁談のまえから、江戸詰の年寄役平ひら賀がじ準ゅん曹そうどのの娘と話を進めていたのだ。それがなかなかうまく運ばないうち、拙者のたっての望みで佐和どのとの話をいちおう承知した……ところが、つい最近になって、こんどは平賀のほうからぜひといって話を蒸し返してきたのだという﹂ ﹁それだけの理由で、佐和との話を破約しようというのか﹂ ﹁いや、それは母の意志がそうだというだけで、拙者はなにも破約するとはいわぬ﹂ ﹁しかし、津田どのへ申入れたことは知っているのだろう……知らないのか﹂ ﹁知っている。母の意志でどうにもしようがなかったのだ。しかし拙者としては、国老なり貴公のほうから拒まれるのは必定と思っていたから、そのうえで母を説得しようと﹂ ﹁できなかったらどうする。貴公が我々の拒絶を楯に母御を説いて、それでもならぬと云われたらどうするのだ……来栖、だがおれの訊きたいのはそんなことではない﹂ ﹁……?﹂ 伊兵衛はじっと相手の眼を見ながら、 ﹁貴公はまだ山県先生に心服しているか﹂ ﹁……それは、どういう意味だ﹂ ﹁どういう意味でも、あらゆる意味に於てだ。いつか雪の夜、講演のあった帰途に話し合ったことがある。今でも貴公はあのときと同じように先生を尊崇しているか﹂ ﹁むろん、それは、先生の思想は立派なものだ。しかし拙者は今になって思出すが、貴公があのとき大弐どのは斬られるといった。あの言葉はたしかに一理あると思う﹂ ﹁おれの言葉などはどうでもいい、貴公の本心が知りたいんだ。本当の考えを聞かしてくれ。貴公はもうあのときほど先生に傾倒していないのではないか﹂ ﹁先生は今でもけっして﹂ ﹁ちょっと待て、来栖﹂ 伊兵衛は手をあげて遮った。 ﹁おれはこの場かぎりの云い抜けは聞きたくないぞ。貴公は学問がある、機智も豊富だ、伊兵衛などは手もなく云いくるめられると思うかも知れない。しかし、今夜の伊兵衛は少し違うぞ。わずか二十余日のあいだではあるが、おれは世間の嘘実と、人心の表裏とをいろいろと見てきた。言葉の綾や巧みな云い廻しではもうごまかされない。いいか、貴公も武士だ。つまらぬ見栄や外聞を棄てて本心を云ってくれ﹂ ﹁拙者の……山県先生に対する気持は、以前と少しも変ってはいない。それは、武士の名に賭けて誓う。しかし功刀……いま幕府は先生を捕縛する手段をととのえている。このまま棄てておいてはお家に重大な累を及ぼすのは必定だ﹂ ﹁それで先生を幕府へ訴えたのか﹂ ﹁功刀、それは違う。そんなことを、拙者がすると思うか﹂ ﹁もっとはっきり云え。おれの眼を見ろ、おれの眼を見てはっきり云うんだ﹂ ﹁拙者は知らん。誰が貴公にそんなことを云ったか知らぬが拙者の知ったことではない。松原郡太夫一味か、少将さまの手で﹂ ﹁黙れ、黙れ来栖﹂ 伊兵衛はつと立った。 ﹁それなら訊くが、今夜なんの要があってここへ来た。梅叟和尚はかねて松原どのに一味の仁と知っているだろう。その和尚のもとへ、なんのために忍んで来たのだ﹂ ﹁……それは﹂ ﹁偽せ手紙と知らずに来た。それがきさまの本心を語っていることに気が付かぬか﹂ ﹁…………﹂ ﹁来栖、おれは、きさまを斬るぞ﹂ 蒼白になった道之進の顔を、さっと恐怖の色が走った……それはどたん場に追詰められた野獣の表情に似ていた。伊兵衛はその女のように美しい顔を、心から忿ふん怒ぬと侮蔑の眼で睨み下しながら、それでもなお、道之進の悲鳴の中からでも、底を突いた本音が出ることを希望した。 ﹁道之進、立て!﹂ 叫びながら大剣の柄へ手をかけた。 刹せつ那な! 道之進は身を躍らし、縁台を伊兵衛のほうへはねあげて、毬まりのように外へとびだした……伊兵衛は一刀その背へあびせたが、届かなかった。それで、逃さじと追って出た。 あとにははね飛んだ提灯が、生物のようにめらめらと燃えだした。六の一
鼬いたちのように素早かった。 背をかがめて、疾走していた道之進は、用水堀の土橋の袂たもとまで来たとき、足たび袋はだ跣しの足を、凍てた雪に踏み滑らせて、だっと顛倒した。 ――しまった。 はね起きようとするうしろへ、 ﹁来栖、動くな!﹂ と叫びながら伊兵衛が殺到した。 道之進は起きようとした姿勢をそのまま、本能的に防禦のかたちに振り向けた……つり上った眸ひと子みと、まくれた唇のあいだから剥きだしになっている歯と、暴々しく喘ぐ息と……伊兵衛は路上の雪の仄明りにそれを見やりながら、 ――これがこいつの正体だ。 ――小幡きっての美貌も、織田家随一と称された俊敏の才も、ひと皮剥けばこんな卑しい、哀れな見下げ果てたものだったのだ。 ――これがおれの義弟になるやつだったのか。 忿怒と、憐れん愍びんと、軽侮と、色々な感情が閃光のように頭のなかでひらめいた。 ﹁立て来栖、立って刀を抜け﹂ ﹁……いやだ﹂ 道之進は肩で息をしながら、かすれた声で女のように叫んだ。 ﹁拙者はいやだ、拙者には貴公と斬り合う力はない、それは貴公が知っているはずだ。斬るならこのまま斬ってくれ﹂ ﹁きさまおれが斬らんとでも思っているか﹂ 伊兵衛は白刃の切きっ尖さきを道之進の面上につきつけながら、 ﹁きさまはまだ自分の陋ろう劣れつさに気付いていないだろう。ちっぽけな才分に慢じて、おのれの栄達のために山県先生を売り、津田国老を売り、友を売り、婚約をさえ売った……きさまのそのとり澄ましたかっこうや分別のありそうな進退言説は、あるいは人々を瞞まん着ちゃくしてうまうま出世したかも知れぬ。だが、……いったいどれほど出世ができるんだ、それだけの代価を払ってどれほどの栄達ができるんだ﹂ ﹁…………﹂ ﹁仮にきさまが小幡一藩の家老になれたとしよう、しかし高々二万石の家老が、そんな代価を払うほどの栄達だと思うのか、来栖﹂ ﹁…………﹂ ﹁人間が生れてくるということはそれだけで壮厳だ。しかしもしその生涯が真実から踏み外れたものなら、その生命は三文の価値もない、狡こう猾かつや欺ぎま瞞んはその時をごまかすことはできても、百年歴史の眼をもってすれば狐の化けたほどにも見えはしないぞ。大臣大将の位に昇るものは星の数ほどあるが、青史に名を残した人物がどれだけあった……来栖、きさまはいくら長生きをしても百年とは生きられないんだぞ。経ってゆく一日一日は取返すことができないんだぞ。そんな卑劣な、醜汚なことをしていて、きさまは人間に生れてきたことを誇れると思うのか﹂ 道之進の肩はいつか細々とすぼまっていた。凍てた雪の上に坐ったまま深く頭を垂れ、両手は袴の襞ひだをくしゃくしゃに掴んでいた。 ﹁おれはそんなきさまを生かしてはおけぬ。斬ってやる、覚悟しろ、来栖﹂ ﹁……斬ってくれ﹂ 道之進は噎むせぶように云った。 ﹁貴公に云われるまでもなく、拙者は自分の卑しさを知っていた。どんなに俊才だの人物だのと云われたって、自分の値打は自分がいちばんよく知っている。拙者は評判を聞くことが苦しかった。そして自分の本当の値打が分ったとき、いままでの評判が悪罵に変るだろうと思うと、どうしても自分を評判どおりの人間にしなければならぬと思いはじめた……どんなことをしても……そうしなければならぬように思われた。功刀……拙者が正身の来栖道之進にかえるのは、一日のうちただ眠っているときだけになってしまった。あとは拙者じゃない、噂や人望が拵えあげたまったく別な人間だった。拙者には苦しく、重荷で、辛い辛い別の人間の生活だったんだ﹂ 肺腑を絞る声であった。道之進は、面を蔽って泣いた。 ﹁こうなるともう、化けの皮の剥げるまで欺瞞を続けなければならない。しかしいつかはそれが明るみに晒さらされる。いつかは曝ばく露ろするときがくる。いつくるか、どんなかたちで……拙者の頭にはいつもその恐怖があった、独りになるといつもその恐怖で震えていたんだ﹂ ﹁拙者は山県先生を売った、津田国老の信頼を裏切った、貴公をも、佐和どのまでも裏切った﹂ 道之進はおのれを鞭打つように続けて云った。 ﹁生きている以上、おれはこの陋劣な行為をどこまでも続けなければならぬ。功刀……斬ってくれ、それが朋友の慈悲だ﹂六の二
噎びあげる道之進の声のなかに、ぱちんと大剣を鞘へ納める音がした……そして伊兵衛が、 ﹁それだけ聞けばいい﹂ と抑えたような声で云った。 ﹁おれはきさまを斬るつもりだった。けれどそれ以上にきさまの本音が聞きたかった。いまの言葉でおれは満足した。人間は弱点の多いものだ。みんなそれぞれ過を犯している。しかしそれが弱点であり過であると知ったら、大悟一番、はじめからやり直すときだ……世間の評判などは良くも悪くも高が知れてる。そんなものは吹き過ぎる風ほどの値打もない。大切なのは自分の生命いっぱいに生きることだ。真実のありどころを見はぐらないことだ……来栖、やり直してみろ。ここで斬られて死ぬよりも困難な、むつかしいことだ。しかしいちど本音を吐いてしまえば人間案外に胆が据わる。やってみろ生きるということは壮厳だぞ﹂ 云い終るとともに、伊兵衛はさっさとそこを歩きだした。 夜道を急ぐあいだ、彼の脳裡を去来するものは単純ではなかった……山県大弐が来て、去った。そのわずかなできごとをめぐってなんと多くのことがあったろう。それは山湖の水面へ石を投じたにも譬たとえられる、なにごともない平和な生活のなかでは、すべてがそれぞれの位置にあってそれぞれの役割を果しているかに見えた。ある者は湖面に花を咲かせていたし、ある者は根となって人眼に触れぬ水底に隠れていた。魚は平和を娯たのしみ、鳥は波上に歓びを謳うたった。しかしひとたびそこに巨岩が投ぜられるや浮沈そのところを異にするもの飛び去り、圧し潰されるもの、散乱昏こん沌とんとしてことごとくその所在を変えおのれの位置を失った……真実だったと見えたものが虚偽の正体を曝露し、見えざるものが判然とかたちを現した。投ぜられた石が大きければ大きいほど、その影響の表れも徹底的である。山県大弐の来訪によって、幾多の生命が消え、多くの人の生涯が変った。大弐の大きさもさることながら、それはもっと深く、大弐の説く学説の真実とその価値とが及ぼした結果である。 ――そうだ。 伊兵衛は強く自分に頷きながら思った。 ――大いなる朝がくるんだ。未明の辻に行迷っている魑ちみ魅もう魍りょ魎うは、夜明けの光とともに消えなければならぬ。この国を蔽っている闇は、もうすぐ大きな朝を迎えるんだ。 馴れぬ道だったし、暗夜を行くので、鮎川の岸へ出たのはもう東天の白みかかる頃だった。 流れを越して、川治の里と訊いて行くと、五郎次の家はすぐに分った……北と東を丘に囲われた、竹藪のなかにその家はあった。屋敷廻りには豊かな果樹園があり、畑と田が鮎川の岸のほうまでひろがっていた。 竹藪を廻って行くと、裏のほうから出て来た五郎次と会った。 ﹁おお、旦那さま﹂ ﹁道が分らなくて少し遅くなった﹂ ﹁ようまあ、御無事で﹂ ﹁母上はお眼覚めか﹂ ﹁はい、いましがた雨戸を繰る音がしたと存じます。御案内いたしましょう﹂ 五郎次は母屋の前を横切って、袖垣のようになっている槇まきの生垣の向うへ導いた――家族の住居とは離れて、隠居所でもあろう、松をとり廻した閑素な一棟がある、その横手で、筧かけひの水を汲んでいたのは佐和だった。 ﹁お嬢さま、旦那さまがお着きでござります﹂ ﹁え、兄上さまが……﹂ 振返った眼と、近寄って来た伊兵衛の眼とが熱く喰合った。 ﹁兄上さま﹂﹁……佐和﹂ 二人の眼は、互いに相手の心のなかまで見透した。そして、短い日数のうちに、すっかり変った兄を、妹を、同じ血の温かい感応で、しみ入るように感じ合った。 ﹁母上にお変りはないか﹂ ﹁はい……ただ兄上さまのことをお案じなされて、ずっと塩断ちをあそばしていました﹂ ﹁おまえに色々と迷惑をかけたな﹂ 佐和はそっと袂を眼へ押当てた……五郎次が知らせたのであろう。家の中で仏壇の鐘が鳴るのが聞えて来た。おそらく母が、伊兵衛の無事だったことを、亡き父の霊に告げているのに違いない。 ﹁桃井はどうした。久馬は﹂ ﹁紙屋さまがお引取りになりました……お二人ともひどい言をおっしゃって、母上さまをお泣かせ申しました﹂ ﹁もっと苦しいことがあるぞ﹂ 伊兵衛は息苦しいような声で云った。 ﹁あとで精しく話すが、兄は小幡のお家の臣ではなくなる、扶持も、家名も捨てる。これからは世間全体を敵にして働くんだ。おまえにも母上にも、もっと辛い苦しいことが重ってくるかも知れぬ……佐和、だがどんな苦しいことがあっても、この国の民として正しい生きかたをするという誇りだけはおれたちのものだ。これだけは忘れてくれるな。いいか﹂ ﹁はい、よう存じております﹂ 佐和は濡れた眼をあげて兄を見た。 ﹁兄上さまが山県先生をお護りしていらしったと聞きましたときから、母上もわたくしも、覚悟は決めておりました。どうぞわたくしたちのことは御心配なさらず、お望みどおりにお働きくださいまし﹂ ﹁そうか……そうか。おう母上もそう思っていてくだすったのか、それだけが心懸りだったが、それでおれは肩の荷が下りた。行こう佐和、母上のお顔が見たい﹂ 伊兵衛の顔はいきいきと輝いてきた。六の三
母はいつもの母だった。 よく戻ったとも云わず、無事を喜ぶ色も表には見せなかった。一刻前に出た子を迎えるように、常と少しも変らぬ態度で、すぐに母子三人の食膳に向った。 それが三人揃って向う最後の食膳だということは、母親にも佐和にも、伊兵衛にもよく分っていた。けれども﹃最後﹄という意味は﹃終り﹄ではない。新しい出発のための、旧いものと訣別するための﹃最後﹄である。この家族の上にはもう以前のようなかたちでは平和は訪れないだろう。終ることのない困難との闘いが始るのだ。その意味からすれば最後でもあり、同時に新しい出発への最初の食膳だとも云えた。 食事が終って、佐和が片付けに立つと、母の喜和は伊兵衛を仏壇の前へ伴った。 ﹁ここへお坐り、母からひと言だけ云っておくことがあります﹂ ﹁はい﹂ 伊兵衛は端座した……喜和はしばらく黙って我子の面を見ていたが、やがて静かな、けれど力の籠った声で云った。 ﹁あなたがこれからどういう道へ進んでゆくか、母はよく知っています……けれど、さっきあなたは佐和に﹃これから世間全体を敵として働く﹄と云っておいでだった﹂ ﹁はい、そう申しました﹂ ﹁違います。それはあなたの考え違いです。母などが云わなくとも知っているでしょう。小幡のお家の御先祖は織田信長公です。信長公は尊王のお志に篤いおかたで、室町幕府の秕政のため、式微にましました禁廷を御造営、また久しく絶えていた欠典をあげ、常職を継ぎ置かれるなど、武家政治はじまって以来、第一に忠臣の誠をお示しあそばしました……お家はこのかたの直流です。あなたはその織田家の臣下なのです。また……今こそ徳川幕府の力が強く、政治の表は江戸に帰していますけれどこの国の民はみな万乗の君を御親と仰ぎ奉っています。一人としてそうでない者はありません……世間はあなたの敵ではなく、みんな同じ志をもつ味方なのです。そう思えませんか﹂ 伊兵衛はほとんど驚きをもって母の言葉を聞いていた。 ﹁母上、ようお聞かせくださいました。仰せのとおり伊兵衛の考えは狭うございました。伊兵衛は闘うことに心を奪われたあまり、つい偏狂人になろうとしていたようです。いかにも、世間を敵とせず、味方として働きます﹂ ﹁愚な言葉が少しでも役立ってくれたら嬉しゅう思います。では……お仏壇へ燈みあ明かしをあげて、父上にしばらくのお暇ごいをなさい﹂ そう云って喜和は座を退った。 火急の場合にもそれだけは移し守ってきた、我家に伝わる古い仏壇を、そのまま眼前に見たとき、伊兵衛は厳粛に身のひきしまるのを覚えた。 燈明をあげ香を点じ、鳴鉦して向直ると、母が古い胴巻に包んだ物を差出した。 ﹁これに金子が百二十両あまりあります﹂ ﹁それはいけません母上、拙者は﹂ ﹁いいえなにも云わずに取っておおき﹂ 母は拒むことを許さなかった。 ﹁お父上が御倹約あそばしたので、まだ少しは手許にあります。無くなったらいつでも云っておよこしなさい。母にできる限りは送ってあげます﹂ ﹁しかし母上や佐和に御苦労をかけては相済みません。拙者はどうにかいたしますから﹂ ﹁わたしや佐和は女です。賃仕事をしても喰べるくらいのことはできます。五郎次がここに置いてくれるそうだから、けっしてわたしたちのことは心配する必要はありません。持っていらっしゃい﹂ 伊兵衛は黙って平伏し、押戴いて金包を受取った。 別れに臨んでも、もはや云うべきことはなかった。安泰を祈る門出ではない。生きて再会ができるかどうかも分らない。しかし母は健けな気げに泣かなかった。 ﹁では母上、御健固を祈ります﹂ ﹁……死に場所を誤らぬよう。それだけを母は祈っています﹂ ﹁五郎次、母上を頼んだぞ﹂ ﹁……旦那さま﹂ 五郎次はそれ以上なにも云えなかった。ただ泪なみだの溢れた眼で若き主人を見上げながら、なんども大きく頷くだけだった。 伊兵衛はもういちど母の顔を見た。母の眼は微笑していた。伊兵衛も微笑した。そして思切って外へ出ながら、 ﹁佐和そこまで送らないか﹂ ﹁はい﹂ 妹はとびたつように追って来た。六の四
竹藪を廻って丘の上へ出た。
東の山脈の上に、ようやく昇った朝日が八万の光芒を放って耀きだした。道の上にむすんだ霜を踏み砕きながら、丘の下り口まで来たとき、伊兵衛は足を止めて振返った。
﹁さて、お別れだ。佐和﹂
﹁はい﹂
﹁別れるまえにひと言だけ云っておく﹂
﹁…………﹂
﹁ゆうべ道之進と会った。あれをおまえの良人に約束したのは兄の鑑めが識ね違いだった。精しいことは云えないが、ゆうべは道之進を斬るつもりだった﹂
佐和は顔色を変えた。
﹁あいつは性根の腐ったことをした。武士の名を汚すやつだ。それで斬ろうとした……しかし斬れなかった。あいつは才子でもなく智恵者でもない。気の弱い、可哀そうな男だ。火やけ傷どをするまで火の熱さを知らなかった男だ。それで兄は……赦してやった﹂
伊兵衛はそっと妹の肩へ手を置いた。
﹁あいつは、おまえにも顔向けのならぬことをした。けれどもう忘れてやれ、兄も赦したんだ。おまえも忘れてやれ﹂
﹁……はい﹂
﹁分ったらいい。では……母上を頼むぞ﹂
佐和は感動を籠めた眼をいっぱいに瞠いて兄を見上げた。伊兵衛はやさしく妹の肩を叩き、にこっと笑って手をあげた。
﹁さらばだ﹂
﹁……どうぞ御健固で﹂
伊兵衛は頷いた。もういちど頷いた。それから大きく右手を振って、力のある足どりで、坂を下りて行った。
めざすは八塩の温泉を越えて秩父路へ、そして江戸へ、日輪のさしのぼる東へ、東へ。
佐和は溢れくる涙を押し拭い、押し拭い、いつまでも見送っていたが、やがて兄の姿が林を廻って消えると、静かに家のほうへ引返して来た……するとちょうどそのとき、反対のほうから丘を駈け登って来た旅たび装ごしらえの武士が一人、佐和の姿を認めると、あっと叫びながら走り寄って来た。
﹁佐和どの﹂
﹁…………﹂
振返った佐和は、笠を脱った相手の顔を見るなり、たじたじと身を退いた。
﹁……来栖さま﹂
それは来栖道之進であった。彼は脱った笠を左手に持つと、蒼あお白ざめた顔に、両眼を熱く光らせながら進み寄った。
﹁佐和どの、まだ伊兵衛はおりますか﹂
﹁……いいえ﹂
﹁もう出立しましたか﹂
﹁はい、いまあの道を向うへ﹂
﹁そうですか﹂
道之進はつと低おじ頭ぎした。
﹁赦してください佐和どの、道之進はゆうべ生れかわりました。あなたにも、小母上にも合せる顔がありません。先日来のことは、ただお赦しを願うだけです……拙者はお暇をとりました。母も家も捨てました。これから伊兵衛のあとを追って、彼の草鞋の紐を結びます。生命のあるかぎり伊兵衛とともに働きます。どうか道之進の愚かな行為を赦してください﹂
﹁そのお言葉で充分でございます﹂
佐和も声を顫ふるわせながら云った。
﹁破約のお話がありましたときも、わたくしには来栖さまの他に良人はないと決めておりました。本当に破談になったら、わたくしあなたの前で自害するつもりでいました﹂
﹁……では、赦してくれますか﹂
﹁たとえあなたがどのようなお身上になろうとも、わたくしは来栖家の妻でございます﹂
罪を責められるよりも、それは道之進にとって耐えがたい呵かし責ゃくの言葉だった……彼は低く頭を垂れややしばらく息をのんでいた。
﹁あなたの、いまの言葉が、道之進にとってはなによりの餞はな別むけです。これでもう、怖れるものはありません……小母上にはお眼にかからずにまいります。どうぞお二人とも御健固でいらしってください﹂
﹁はい。来栖さまもどうぞ……鮎川の畔で、いつまでもお待ち申している者のあることを、どうぞお忘れくださいますな﹂
﹁帰って来ます﹂
つきあげてくるものを抑えて、道之進は噎ぶように云った……男の火のような眼を、心の内へ迎え入れながら、佐和はひそかに独り呟いた。
――これでわたしは、このかたを二度失うのだ……けれどこのかたの心だけは、こんどこそもう離れることはない。
帰って来ます。
それが最後の言葉だった。道之進は佐和の眼を瞶みつめたまま歩きだした。やがて足を速めたが、振返るたびに、佐和の眼と彼の眼とは熱く結びついた……やがて道は下り坂になり、道之進の姿は隠れていった。伊兵衛の去った道をまっすぐに、彼もまた東へ、東へと去って行った。東へ……東へ。
陽はいよいよ高く、松林では鳥が祝福の声をあげはじめた。頂に雪をのせた山々は、あさ緑に晴れあがった空の下にあって、もう微かすかに、春の萠えを告げていた。