一
がちゃん! ﹁おや、またやっちゃった﹂ 下女のお松が恨めしそうに、洗い桶おけの中から縁の欠けた茶ちゃ碗わんを取出した。 ﹁どうしてわたしはこう運が悪いのだろう、皿でも茶碗でもわたしが触りさえすれば欠けてしまう。今朝からもう五ツも壊しちゃった。とてもこれでは凌しのぎがつかない﹂ 溜ため息いきをついていると、 ﹁お松さんまた出来たね﹂ と水口からのぞいた者がある。 色白の眉まゆの濃い、口くち許もとのしまった立派な人品だが、どこかに間の抜けたところがあるのと、いつもえへら笑いをしているのとで、﹁半はん化ばけ又また平へい﹂と呼ばれている下郎又平であった。半分だけ人間に化け損ったという意味の綽あだ名なである。 ﹁ああびっくりした﹂ お松は眼をむいて、 ﹁気味が悪いよ又平さんは、わたしが茶碗を欠きさえすればきっと嗅かぎつけてやって来るんだね。本当に妙な鼻だよ﹂ ﹁鼻じゃない耳さ、えっへへへへ﹂ 又平はだらしのない声で笑った。 ﹁武士は轡くつわの音で眼を覚まし、又平は茶碗の欠ける音で駆けつけるってな、諺ことわざにもあるだろう﹂ ﹁そんな話は聞いたこともないよ﹂ ﹁ところで今度は何だね﹂ ﹁この茶碗さ﹂ ﹁えっへへへ有難え、貰もらっておくぜ﹂ 又平は欠け茶碗を押し戴いただいた。 ﹁変だよ、全く変だよ又平さんは。いったいそんなに欠け皿や欠け茶碗を持って行って何にするのさ﹂ ﹁これがおいらの道楽さ。欠けっ振りのいい皿や茶碗を集めて、じっとこう眺めている気持は何とも言えねえ味なんだ。どうかこれからもせっせと欠いておくんなさい﹂ ﹁馬鹿におしでないよ﹂ お松はぷんぷん怒っている。又平は愛想笑いをしながら立去った、――この有様をさっきから、厨くりやの前を通りかかったこの家の娘椙すぎ江えが見ていた。そして又平の足音が遠のくと、そっと入って来て、 ﹁お松――﹂ と声をかけた。 ﹁あ、まあお嬢さま﹂ ﹁そんなに驚かなくてもいいわ。いまおまえ又平と欠け茶碗がどうかしたとか話していたようだけれど、あれは何のことなの?﹂ ﹁はいお嬢さま、あの又平はずいぶんおかしな人で、わたしが粗相をして欠いたお皿やお茶碗を集めているのでございます﹂ ﹁何にするんですって……?﹂ ﹁道楽だと申しております。欠けっ振りのいい皿や茶碗を並べて、じっと眺めていると嬉うれしくなるんだなんて、本当に半化けは半化けらしいことを申します﹂ ﹁お黙りなさい﹂ 椙江はきつい調子で、 ﹁又平は下郎でも男です。女のおまえがそんな悪口を言ってはなりません﹂ ﹁はい、すみません﹂ ﹁それから、こんなことは誰にもおしゃべりをするんではありませんよ﹂ そうたしなめておいて椙江は去った。 ここは播ばん州しゅう姫路の城下、八やえ重がし樫も主ん水どの道場である。主水は古こち中ゅう条じょ流うりゅうの剣法をもって当代の達人と言われる人物、家臣でこそないが領主池田侯から年々五百俵ずつ手当てを受け、家中の武士に指南をしている。もっともこれには条件があった。それはいわゆる﹁お止とめ流りゅう﹂といって、姫路藩以外の者に古中条流を伝授してはならぬという固い禁制があったのだ。 椙江は八重樫主水の一人娘で、年ようやく十九歳、才智に秀でているうえ、城下町で評判の美しい縹きり緻ょうをもっていたが、老年になった父をよく助けて、七人の内弟子と下女下郎の一家を、娘の手ひとつに切盛りしていた。 ﹁――道楽……本当に道楽かしら﹂ 椙江は自分の居間へ戻ろうとして広縁まで来たが、ふと小首を傾げて呟つぶやいた。 ﹁欠け茶碗、欠け皿、そんな物を集めて眺める道楽なんて、話に聞いたこともない。――みんなは半化けなどと言っているが、どうもあの又平はただの下郎とは……﹂ と呟いていると、庭の方でどっと笑い囃はやす声が起こった。二
横庭のところで、又平は四、五人の内弟子につかまっていた。みんな稽けい古こを終わったところで、慰み半分にからかっているところだ。 ﹁やい又平、貴様はこの城下で美しい娘が何人いるか知っているか﹂ ﹁えっへへへへ一人は知っています﹂ ﹁誰だ、どこの娘だ﹂ ﹁こちらのお嬢さまでさあね﹂ 門弟たちはどっと笑った。 ﹁馬鹿でも椙江さまの美しいのは分かるとみえるな、――どうだ又平、貴様お嬢さまの婿君になる気はないか﹂ ﹁でも……身分が違うから――﹂ ﹁わっはっはっははは﹂ またしてもみんなは腹を抱えて笑う。 ﹁こいつめ、身分が違うなどと本気になっているぞ。もし身分が違わなかったらどうする﹂ ﹁違わなかったら……まあ止しましょう﹂ ﹁どうして止すんだ﹂ ﹁言うとまた皆さんが笑うから﹂ 羞はずかしそうに顔を赤らめながら言うのを見ると、今度こそ堪たまらぬという様子で、門弟たちは腹を揉もみながらひいひい笑い崩れた。――この有様を広縁から見ていた椙江は、庭へ下りると静かに近寄って来て、 ﹁皆様は何をしています﹂ と声をかけた。一同はびっくりして、 ﹁や、これは、お嬢さま﹂ ﹁大勢で下郎を弄なぶり物になさるなどと、見苦しいではありませんか。冗談も程になさらぬと、父上のお耳に入れまするぞ﹂ ﹁と、とんでもない。ほんの座興で、決して弄り物などに致した訳ではございません。どうか御勘弁を﹂ 門弟たちは首をすくめて逃げだした。椙江は苦笑しながら見送っていたが、 ﹁又平――﹂ と振返って、 ﹁おまえ、門人衆のつまらぬ冗談にかかわり合ってはいけません﹂ ﹁へい﹂ ﹁あの人たちはおまえをからかっているのです。何を言っても知らぬ顔をしておいで。分かりましたね﹂ ﹁へい有難うございます﹂ 又平はぺこりとお辞儀をしたが、 ﹁けれどお嬢さま、本当のところを申しますと、からかっていたのはわたしの方でございますよ。えっへっへへへへ﹂ ﹁何ですって――?﹂ しかし又平はさっさと立去って行った。椙江は呆あきれて、しばらくその後ろ姿を見送っていた、――あれほど弄り物にされていながら、﹁からかったのは自分の方だ﹂とは、本当に底抜けの馬鹿であろうか?……それとも。 ﹁それとも、何か仔しさ細いがあるのかしら﹂ 椙江はそっと呟いた。 又平がこの家へ奉公に来たのは一年ほど前のことである。人入れ業﹁島しま田だや屋そ宗う兵べ衛え﹂の世話で、在ざい方かたの百姓の三男ということであったが、人品卑しからず、働くことも三人前は働くのに、言うことやすることが人並み外れで、門人たちは常によい慰み物にしていた。それを陰になり日ひな向たになって庇かばってやる椙江は、――どういう訳か又平のそぶりに納得の行かぬところがあるように思えてならない、もしかすると仔細あって、わざと愚か者の風を装っているのではあるまいか?…… ﹁でも、そうとすると、何のために馬鹿の真似をする必要があるだろう﹂ 結局、椙江には分からなかった。 それからさらに十日ほどたったある夜のことである。ちょうど秋の最中で、十七夜の月がすばらしく冴さえていた、椙江は独り静かに月を見ようと、縁を下りて、虫の音を聞きながら庭はずれの松林の中へ歩み入って行った。――青白く光を吸った夜霧が、快く肌へひんやりとしみ、素足に落ちかかる下草の露のしめりも、そぞろに秋思を唆そそって、感じ易い乙女の胸はいつか甘い哀傷のなかに溶けて行った。 ﹁静かだこと……﹂ ほっと呟いた時、椙江は――どこか近くで忍びやかに気合をかける鋭い声を聞いた。父はもう臥ふし戸どへ入っているし、門人たちはみんな月見に出て行ったはずである、誰だろう……と思っているとまたしても、 ﹁――えィ……﹂ と、骨へとおるような気合。 ﹁門人衆の気合ではない﹂ さすがに八重樫主水の娘、自分で稽古こそしないが、気合に籠こもる術の差ぐらいは分かる、……不審に思って声のする方へ忍び足に近寄って行った。築山を廻まわって横庭へ入る。左は竹たけ藪やぶで右へ曲がると物置がある、……その裏手にぼうっ、と紙しそ燭くの光がさしていて、一人の男が、今しも木剣を大上段に構えているところだった。三
﹁――あ、又平﹂ 椙江は思わず低く呟いた。さよう、木剣を振りかざしているのは下郎又平である。そして足あし許もとには薪まき割わり用の台があって、その上に欠け皿がひとつおいてある、――どうするかと、眸ひとみをこらして見まもる刹せつ那な。 ﹁――えィ……﹂ 紙燭の光をきって木剣が閃ひらめいた。はっと椙江が息をひいて見る――と、戛かっともいわず、台上の欠け皿はすっぱりと両断されていた。 ﹁まあ……お見事﹂ 思わずあげた賞しょ讃うさんの声に、 ﹁だ、誰だ﹂ と振返った又平、そこに椙江の姿をみつけると仰天したらしい。慌てて木剣を隠しながらぺこりとお辞儀をした。 ﹁お見事でした﹂ 椙江は近寄って言った。 ﹁木剣の一撃で大皿を、まるでお豆腐のようにお切りなすった秘術――あれこそ古中条流﹃忍び太刀﹄の一ひと手てでござりましょう﹂ ﹁な、何と……﹂ ﹁下郎に姿こそやつしても、まことは名ある御方とお察し申しました。仔細あれば他言は致しませぬ。どうぞお打明け下さりませ﹂ ﹁えへへへ、どうも、えへへへへへ﹂ 又平はだらしなく笑って頭を掻かきながら、 ﹁どうも、そんなにおっしゃられると面目がございません。名ある御方にも何にも、下郎又平は下郎又平で、へへへへどうか﹂ ﹁いえ、お隠しなされても駄目です。百人に余る門人衆のうち、一人としてまだ伝授された者のない﹃忍び太刀﹄の秘手、そうやすやすと会得できるはずがござりませぬ﹂ ﹁いや驚いた、これは驚いた、――すると、なんでございますか、いまの皿割りが、古中条流の大事な術に似ているとおっしゃるのでございますか。へえ……こいつは占しめた﹂ 又平は急に胸を反らして、 ﹁それではわたしはもう、大先生と同じ腕前になった訳ですな。さあ大変だ。そうだとするとこんな下郎などはしていられないぞ﹂ ﹁――又平﹂ ﹁いやそれは冗談ですが、実はこうなのですお嬢さま、わたしも八重樫道場の下郎とあれば、木剣の持ちようぐらい知らなくては恥だと思いまして、毎日あの道場の溜たまりの後ろ窓から皆様のお稽けい古こ振りを拝見していたのです。そのうちに門前の小僧なんとやらで、自分でも木剣を持ってみたくなり、ひとりでこっそり悪いた戯ずらを始めたのでございました。しかしただ木剣を振廻すだけでは面白くありません。そこでお松さんから貰もらい溜ためてあった欠け皿や茶ちゃ碗わんを持出し、先生の型の見よう見真似で据すえ物ものの真似事をしていたのです、――という訳で、べつにそのほかには何も仔細があるの何のという訳ではございません。それどころか、こんなことが皆様に知れるとまたいじめられますから、どうか内証にしておいて下さいまし﹂ ﹁それでは、どうしても本当のことを打明けては下さらないのですか﹂ ﹁打明けると言えば、いま申し上げただけでぎりぎり結着、これ以上は逆さに振って絞っても出る物はございません。どうか内証にお願い致します。でないと本当に困りますので、えへへへへ﹂ 突拍子もなく笑いだす馬鹿らしさ。椙江はじっと相手の顔をみつめていたが、やがて踵きびすを返すと物をも言わず母屋の方へ立去った。 ﹁お嬢さま、もし――お嬢さま﹂ 又平は驚いて呼んだが、 ﹁――へっ﹂ と首をすくめ、﹁何が御機嫌に障ったのだろ、何か悪いことでも言ったかな﹂ 困ったように、椙江の後ろ姿を見送っていたが、これもやがて紙燭を消して自分の小屋の方へ去って行った。 椙江は﹁下郎に身をやつしているが、本当は名ある武士に違いない﹂と言った。しかし又平の様子はどこまでも、﹁半化け﹂で、自分の口から言った通り、下郎の猿真似としか思えぬ節が多い、――この男、果して下郎か? それとも名ある武士のやつしであろうか?……この謎は間もなく解ける時が来たのである。 それから四、五日経った――ある日、八重樫道場には門弟中の腕利きで、三羽烏と呼ばれる沼ぬま田たぐ軍んじ十ゅう郎ろう、黒くろ板いた権ごん六ろく、石いし山やま弾だん兵べ衛えの三人と、竜虎といわれる岡おか部べご五だ太ゆ夫う、伊いた丹みひ兵ょう右え衛も門んの両師範代が居並んだ。 上段に端たん坐ざした八重樫主水は、 ﹁いずれも揃ったな﹂ と一座を見廻して、静かに白はく髯ぜんを撫ぶしながら口を切った。 ﹁今こん日にち、一同に改めて話すことがある。ほかでもないが儂わしも老年に及んで、一、二年このかたとかく体の工合が思わしくない。この調子では御家中への指南も疎おろそかになる道理ゆえ、近く隠居をしようと考えるのじゃ、――それについて儂の跡目をどうするかだ﹂四
五人の高弟は思わず膝ひざを乗出した。 ﹁承知の通り儂には娘が一人しかない。そこで、ただ今からここに集まった者五名で勝抜き試合をしたうえ、最後に勝った者へ古中条流の秘伝、忍び太刀、浮き太刀、飛電、小さざ波なみ、火かり竜ゅう――の組太刀、並びに極意を授け、また娘椙江とめあわせて八重樫の家名を相続させたいと思う。どうじゃ、一同これに異存はないか﹂ ﹁――ははっ﹂ 五名は平伏して、 ﹁何で異存がござりましょう。仰せの趣有難くお受け致しまする﹂ ﹁いずれも同意じゃな﹂ ﹁ははっ﹂ 主水は微笑しながら頷うなずいて、 ﹁さらば、早速ながら勝抜き試合を致す。組合せはこれに認したためてあるぞ、――いずれも用意﹂ ﹁畏かしこまりました﹂ 勝抜けば古中条流の極意秘伝を授けられたうえ、姫路城下でも何人という美しい椙江をめとり、八重樫道場の跡目相続ができるというのだから、五人の喜びと意気は燃上がった。――身支度も甲か斐い甲が斐いしく、主水の認めた組合せ順に左右へ並ぶ。 ﹁試合の前に一言申し聞ける﹂ 主水はかたちを正して言った、﹁この度の勝負、勝つも負けるも必ず遺恨なきよう。またいままでは同輩ながら、勝抜いた者には今日より師として仕えること、きっと申し付けたぞ――さらば、試合検分しよう﹂ 一同は左右に座をひらく、まず最初のひと組、師範代岡部五太夫と黒板権六の両名が進み出た。 試合は凄すさまじい気合の火花を散らしながら展開した。誰の顔にも必勝の決意がある、――我こそ勝抜いて名誉ある八重樫家の跡目を継ごうと、大事を取りつつも懸命に奮闘した。一番、二番と進んで、一いっ刻ときほどのちには、三羽烏の一いち人にん沼田軍十郎と伊丹兵右衛門の二人が勝ち残った。 さていよいよ最後の勝負である。四半刻ばかり休んで息を入れ、いざ立合おうとした時、――不意に娘の椙江が、 ﹁しばらく、しばらくお待ち下さいませ﹂ と父の前へ進み出た。 ﹁なんだ椙江、ここは女子供の出る場所でないぞ、控えて居れ﹂ ﹁お言葉ではござりますが、この勝負はわたくしにとっても生涯の大事お怒りを承知でお願いがござります﹂ ﹁なるほど、勝抜いた者をそなたの婿に定める勝負、徒あだに見過ごせぬというも道理じゃ。して願いとは何事だ﹂ ﹁恐れながら、この試合へ、下郎又平をお差加え下さりますよう﹂ 意外な一言に、並いる面々は勿もち論ろんのこと主水もびっくりして、 ﹁なに、下郎を加えよとは?﹂ ﹁仔しさ細いはのちに申し上げます。椙江が一生の良人を定める大事、枉まげてお聞届け下さいませ﹂ 娘ながらいかんと言えば覚悟がありそうな、思い詰めた眼まな差ざしを見て、主水は――何かこれには訳があろう、と考えたから、 ﹁聞かれる通りだ﹂ と門弟たちの方へ振返った。﹁娘の願い通り取計らってやろうと思うが、一同の意中はどうじゃ?﹂ ﹁はっ、先生の宜よろしきように﹂ 妙なことになって来たぞとは思ったが、なにしろ相手は下郎、しかも日ごろから自分たちが﹁半化け﹂と綽あだ名なしている馬鹿の又平だ、横よこ面めんの一本も食らわせれば泡を吹いて参るだろうと、たかを括くくって承知した。 ﹁忝かたじけのうござります。ではすぐ又平を呼んで参りますゆえしばらく……﹂ と椙江は急ぎ足に去って行ったが、――待つほどもなく又平を引ひき摺ずるようにして出て来た。又平は道場の真ん中へ引出されると、がたがたふるえながら、 ﹁ど、どういうわけでございますか、何か悪いことでも致したなら、御勘弁下さい、どうかひらに御勘弁を﹂ ﹁いや何も謝ることはない﹂ 伊丹兵右衛門が冷笑して言った。 ﹁お嬢さまのお望みで、その方と拙者共と試合をするのだ、さあ立て﹂ ﹁と、とんでもない、そんな﹂ ﹁ええ面倒だ。誰か道具を着けてやれ﹂ 兵右衛門の言葉に、二人ばかり立って来て無理矢理道具を着けさせてしまった。 ﹁どうかお助け下さい、だ、駄目だ﹂ と悲鳴をあげるのへ、兵右衛門が竹刀を構えながら大喝一声、 ﹁そら行くぞ、えィーッ﹂ だ! と踏込んだ。刹せつ那な! ﹁助けてえッ﹂ 悲鳴と共に右へ跳ぶ又平、つけ入った兵右衛門、一撃のもとにのしてしまおうと、胴を望んで猛然と打込んだ。五
鋭い横胴、危うし! と見る刹那、又平の体は独こ楽まのように舞って左へ転ずる。力余ってだだだっとのめる兵右衛門、見みく縊びっていただけに怒りを発して、 ﹁や、えいー![※(感嘆符二つ、1-8-75)](../../../gaiji/1-08/1-08-75.png)
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六
その夜と、いうよりもすでに明け近い八ツ半ごろ︵午前三時︶、のことだった。自分の小屋で眠っていた又平は、心へ徹る鋭い殺気を感じてがばと起上がった。
﹁――はてな……﹂
闇の中で耳を澄ますと、母屋の方に当たって乱れた足音と凄すさまじい気合の声。
﹁何かある﹂
と呟つぶやくのと、枕まく許らもとにある木刀を持ってとび出すのと同時だった。弦月の光淡く照る庭をひと走りに、広縁の前へ来ると、内から雨戸が明いて――椙江が、
﹁お嬢さま!﹂
と呼ぶ又平を見るなり、
﹁あ、又平、早く、父上が﹂
﹁お退のき下さい﹂
椙江を押退けるようにして跳び込んだ又平、居間へ駆けつけると、有あ明り行あ燈けの光のなかに五人の武士が、いずれも抜きつれて主人を取巻いている。
﹁狼ろう藉ぜき者もの!﹂叫んで踏込む又平、
﹁や――?﹂
振返るのを見ると意外や、伊丹兵右衛門はじめ五人の高弟である。
﹁こ、これは?﹂
と驚く又平に、主水が油断なく身構えたまま言った。
﹁又平か。こやつら……儂わしを闇討ちにして流儀の秘伝と、娘椙江を横奪しようというのだ﹂
﹁奇怪な、――﹂
又平はさっと主水の横へ出る。とたんに黒板権六が、
﹁それっ、おのおの、やってしまえ﹂
﹁心得た!﹂
だっと一時に斬ってかかった。又平は権六の刃やいばをひっ外して右へ跳ぶと、主水を脇へ押しやるようにして、
﹁先生、こやつらは又平が引受けました。お嬢さまをお護り下さい﹂
と叫ぶ。振返って、﹁やいこいつら、子飼いの弟子の分際として非道無残な振舞い、一人も生かしてはおかぬぞ、来い
﹂
﹁下郎め、その口忘るなッ﹂
兵右衛門がさっと斬りつける。
﹁こっちだ、えいッ﹂
飛ひえ燕んのごとく跳ぶ又平。だだだ! 足音が乱れて、が! ぱちり
刃と木剣と鳴る、瞬時にして権六が真っ向を打たれた。
﹁きゃあ!﹂
のめって行って襖ふすまもろとも顛てん倒とうする、同時に岡部五太夫が右へ、石山弾兵衛が仰のけざまに、いずれも致命の一撃を食らって倒れた。残るところ二人、軍十郎と兵右衛門。
﹁やい、伊丹に沼田、さっきはお世辞で負けたが、今度はお世辞ぬきだぞ。古中条流はこう使うのだ見ておけ、――えィッ﹂
叫ぶなり又平は体たいを沈めて軍十郎の横胴へ一刀、と見る刹せつ那な、木剣は光のごとく翻転して面上へ尾を曳ひいた。
﹁あっ!﹂
避よけも躱かわしも出来ぬ早はや業わざ、軍十郎はまるで名剣で斬られたごとく、真っ向を割下げられて後ろざまにすっ飛ぶ。同時に兵右衛門が、
﹁下郎
﹂
と叫んで踏込んだが、
﹁心得たッ﹂
又平が右うそ足くを縮めて体を捻ひねる。やっ! という掛声、木剣が閃ひらめいたと見る一瞬、兵右衛門、断鉄の一撃を脾ひば腹らに食らって、うんとも言わず横ざまにどうと倒れた。
﹁あっぱれ、見事じゃ、見事じゃ﹂
主水は思わず手を挙げて褒めた。又平はにっこり笑って木刀をおくと、近寄って来る主水の前へ平伏して、
﹁先生にはお怪我もなく祝着に存じます。早速この趣を届け出でまして﹂
﹁いや待たれい﹂
主水は静かに制して、﹁昼、道場においてわざと負けた手の内といい、またただ今の太刀筋、殊に沼田、伊丹を仕止めたは、正しく古中条流の秘伝、火竜、小さざ波なみ、飛電の組太刀と見た。姿こそ下郎なれども尋常の人じんではござるまい。仔しさ細いお聞かせ下さらぬか﹂
﹁恐れ入りました﹂
又平はぴたりと坐すわり直して、
﹁今は何をか包みましょう、拙者は加かが賀のく国に前田家中にて梅うめ本もと又また次じろ郎うと申す未熟者でござるが、藩主前田侯より古中条流の秘伝を会得して参れという命を受けて参りました。しかしこれは姫路藩のお止とめ流りゅうにて、他国の者には伝授禁止とござりますゆえ、致し方なく身分を偽り、下郎となって住込んだのでござります、――以来一年、ひそかに先生の型を拝見して苦心勉強の甲か斐いあり、いささか会得するところがあったと存じますが、しかし、申せばこれ流儀を盗んだも同様でござります。先生をお偽り申し上げた罪、またお止流を盗みました罪、かく現れました上から潔くお裁きを受けまする。いざ……いかようともご存分に﹂
そう言い終わると共に、又平――否、梅本又次郎はぐいと首を差しのべた。主水は黙って始終を聞いていたが、
﹁あああっぱれ﹂
と呻うめくように言った。﹁前田侯には良き御家来を持たれたよ。まずお手を上げられい、本来武道を一藩に止どめるというが無法、優れた術なれば出来るだけ世に弘ひろめて、流儀を盛んならしむるが剣法の道でござる。――藩侯には憚はばかりあれど決して貴殿を咎とがめる筋はござらぬ。さ、お手を上げられい﹂
﹁ではあの、お赦ゆるし下さいまするか﹂
﹁貴殿ほどの人に伝えらるれば古中条流も本望でござる。道場へおいでなされい。土産代りに流儀の秘伝悉ことごとく御伝授仕つかまつろう、いざ﹂
支度に立上がる主水の後ろ姿を、又次郎は感謝と悦よろこびに眼をうるませながら見送る、――うしろから、椙江がそっと寄添うようにして、
﹁さ、道場へおいで遊ばしませ﹂
と言う。又次郎はすっくと立って、
﹁お嬢さま、今こよ宵い限りの下郎又平が、秘法伝授を受ける晴れの姿、どうぞあなたも御覧下さいませ、いざ――﹂
とばかりに振返る。半化けと罵ののしられた又平の面は、生まれ変わったように輝いている――今こそ梅本又次郎。椙江は頬を染めながら、静かに道場の方へ案内に立った。
それから三日後。本望を達して加賀国へと旅立つ又次郎に、一人の美しいつれがあった。いうまでもなくそれは椙江であった。
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