一
﹁大変だあ大変だあ、頭かしらいるか﹂ 表からやみくもに跳込んできた安やす吉きち、お天気安という綽あだ名なのある若い者だ、――ちょうどいま上りっ端ぱなで、愛用の鳶とび口くちを磨いていたは組の火消し頭佐さ兵へ衛え、 ﹁ええ騒々しいや、頭アいるかって眼の前にいるおいらが見えねえのか﹂ ﹁ほ、まったくそうだ﹂ ﹁呆ほうけてやがる、なにが大変だ﹂ ﹁なにがって落着いてちゃあいけねえ、は組の若い者が全滅だ﹂ ﹁この野郎、云うにこと欠いては組の若い者が全滅たあなんだ、貘ばくがおとといの夢を吐きゃあしめえし、途とて轍つもねえことをほざくと向う脛ずねをかっ払うぞ﹂ ﹁嘘じゃねえ、まったくの話だ﹂ お天気安は眼を白黒させながら、 ﹁なにしろ頭、井いす杉ぎな灘だ屋やで浪人者が暴れてたんだ、そこへ辰たつ兄あに哥いが通りかかったもんだから、よしゃいいのに例の調子で停めにはいった﹂ ﹁なにを云いやがる、町内の紛ごた擾くに口をきくなあおれっちの役目の内だ、それでどうした﹂ ﹁するてえと浪人者がはたして怒った﹂ ﹁なにがはたしてだ﹂ ﹁いきなり大だん刀びらを抜くてえと、真向から辰兄哥をばらりずんと斬り放した﹂ ﹁――野郎﹂ というと佐兵衛も気が早い、いま磨いていた鳶口を持直すなり、ぱっと表へ跳び出した。――横丁を大通りへ出ると四よつ辻つじの二、三軒手前に井杉灘屋という居酒店がある。その店先に黒山のような人ひと集だかりがしていた。 ﹁やあ退どいた退いた、邪魔だ邪魔だ﹂ 人混を掻かき分わけて店へ踏みこむ、――血まみれの辰たつ次じがのたうちまわっているか、と気もそぞろに飛んできた、佐兵衛の眼前に展開したのは、なんと! 辰次はしゃっきりとして、あべこべに酔倒れている浪人者をせっせと介抱している。 ﹁おう辰、おめえ無事だったか﹂ ﹁こりゃあ頭いいところへきておくんなすった、蜆しじみ河岸の道場にいた仁に木き先生ですぜ﹂ ﹁なんだと?﹂ ﹁安吉をつれて風ふ呂ろへいった帰りに、通りかかるとここで浪人者が暴れているんで、停めにへえってみたら、びっくりしましたぜ、三年めえに道場を出たまんま行ゆく衛えの知れねえ仁木先生なんで﹂ ﹁そいつぁあ仰天だ﹂ と佐兵衛が覗のぞきこんだ、――尾羽うち枯らした装な風り俗、月さか代やきも髭ひげもぼうぼうに伸びているが、まさしく仁木兵ひょ馬うまである。 ﹁なるほど仁木先生に違えねえ、これじゃあどうにもしようがねえから、とにかく自う家ちへおつれ申すとしよう﹂ ﹁それがこのとおり動かねえんで﹂ ﹁まあいいや、おめえそっちの肩を貸しねえ、二人で担いでいこう、――太たへ平いさん、騒がしてすまなかったな﹂ 店の亭主に会釈をすると、佐兵衛は辰次に手伝わせて、酔よい潰つぶれている浪人を担ぎ出した。 本所蜆河岸に、梶派一刀流を指南する本もと山やま図づし書ょという剣客がいた、当時江戸十剣の内に数えられ、一町四方という広大な屋敷構えの道場には、五百人にあまる門人を有していた。ところで、本山図書には男子がなく、小こな浪みという娘が一人なので、当然道場の跡目ということが問題になっていた。 無論、五百名の門人の多くは諸侯の家士であったが、図書のもとで子飼から育った者の中に、松まつ林ばや甲しき子ね雄お、仁木兵馬という二人は、門中の双そう璧へきといわれ、男ぶりも腕前も群を抜いた秀才同志だった。――ことに図書は仁木兵馬を側から離さず、一にも二にも兵馬、兵馬と愛していたので、 ――お嬢様の婿むこは仁木さんだ。 と下馬評はいつか定きまってしまい、近所の者などは兵馬を指して、 ――蜆河岸の若先生。 などと呼ぶようになった。 ところが、ちょうど今から三年まえ、どうしたことか仁木兵馬の姿が突然この道場から見えなくなった。図書は言葉少なに、 ――武術鍛錬のため諸国修業に出した。 と語っていたが、事実はそうでないらしく、娘の小浪などは悲嘆のあまりそれから半年ほど病床についたくらいであった。――は組の火消し頭佐兵衛は、かねてから図書のもとへ親しく出入りしていたし、仁木兵馬とも懇意だったので、それとなく行衛を捜していたがついにわからず、空しく三年の月日がたってしまったのである。二
﹁仁木先生、あなたはまだ御存じあるめえが、道場は大変なことになりましたぜ﹂ ﹁そんなことはどちらでもいい、酒をつげ﹂ ﹁お酒はいくらでもあげますが、まああっしのいうことも聞いておくんねえ﹂ 自家へつれ帰ると、もうすぐ酒を求める兵馬に佐兵衛は骨を叩たたかんばかりにしていった。 ﹁先月の、そうだちょうどいまごろのことだっけ、風の強い夜更の二時すぎ、道場から急に火が出て、どうする暇もなくお屋敷から道場、すっかり丸焼けになってしまいました﹂ ﹁そりゃあおおかた清きよ姫ひめの祟たたりであろう﹂ ﹁なんです﹂ ﹁道どう成じょ寺うじの火事だというから﹂ ﹁冗談どころじゃありません、駆けつけたあっしたちで、やっとお嬢さまだけゃあお助け申しましたが、旦那あとうとう御焼死なすった……﹂ 兵馬は急に酔で蒼あお白ざめた顔を伏せたが、――そうかといってべつに驚いたようすもないので、佐兵衛は訝いぶかしそうに、 ﹁仁木先生、――おまえさん、知っておいでなさるのか﹂ ﹁いや、いやいや、知らんよ﹂兵馬は大声に遮った。 ﹁今朝江戸へ入ったばかりで、そんな話はいま聞くのが初めてだ、しかし日頃の先生にも、似合わぬ焼死をなさるとは不覚だな、――そして、内門で人したちは誰も先生に気づかなかったのか﹂ ﹁それがね、その日にかぎって運の悪いことに松林さんが皆をつれて正月の祝いに奥の植半で夜通しの酒宴というわけです。たった一人残っている孫まご七しち爺じいさんが、お嬢さんの手をひいて煙の中をうろうろしているところへ、ようやくあっしたちが間に合ったので﹂ ﹁で……後はどうなった﹂ ﹁へえ、なんでも松林さんを御ごひ贔い屓きになさる伊いた丹みなんとかいうお大名が、緑町の空き屋敷を買ってくれたのへ手入れをして、そっくり道場を移してお嬢さまも引き取り、なかなかお盛んにやっていますが、――なんでも近いうちにその伊丹てえお大名の肝きも煎いりで、お嬢さまと婚礼をしたうえ、正式に大先生の跡目相続をなさるてえ話ですぜ﹂ ﹁うまいことやったな、ははははは﹂ 兵馬は手酌で、前にあった湯ゆの呑みへ酒を注ぐと、ぐいぐいつづけさまに呷あおりつけたが、 ﹁ちょいと出てくる﹂といって立ち上った。 ﹁出てくるったって、急にそんな﹂ ﹁なに、甲子雄とお嬢さんの顔が見たくなったんだ、二人の仕合せな顔がさ﹂ ﹁そいつぁあいけねえ﹂佐兵衛はぐいと乗り出して、 ﹁他の者あとにかく、そんな尾羽うち枯らした姿をお嬢さまに見せちゃならねえ﹂ ﹁――なぜだ!﹂ ﹁なぜったって、そう云えば先生にだって分るはずだ。ねえ先生、おまえさんが行衛知れずになってから、お嬢さまは落がっ胆かりなすって、半年の余も病気におなんなすったんだ、――誰が知らなくとも、おまえさんを慕っていなさるお嬢さまの気持は、この佐兵衛がようく知っているんだ、……そんな、そんな落おち魄ぶれた恰かっ好こうを見せたら、お嬢さんはきっとまた﹂ ﹁ははははは、おい止よせよ佐の字﹂ 兵馬は大剣を腰にさしながら、 ﹁水の流れも人の心も、半刻として止まらねえのが世の中だ、お嬢さんにしたって昔は知らず、今は甲子雄と婚礼が定ったといえば、落魄れた兵馬を見るのもいい慰みだろう﹂ ﹁――先生は人が違いなすったねえ﹂ ﹁まあそんなところさ、行ってくるぜ﹂ と兵馬は表へ出ていった。 捜すまでもない。緑町四丁目で――有名な本所七不思議の一つ、﹃足洗い屋敷﹄の向う裏になっている角地、立派な構えで梶派一刀流指南、松林甲子雄という看板が出ていた。案内を乞こうと、顔見知りの内門弟があらわれて、仰天しながら奥へ知らせる、すぐに稽古着のままで甲子雄が出てきた。 ﹁おお仁木、仁木か﹂悦よろこびに眼を耀かがやかせながら、 ﹁よく無事で帰ってきた、待兼ねていたぞ、さあ、とにかく奥へあがって﹂ ﹁まあいい、それより先に十両ばかり金を貸してくれ﹂ ﹁金を、――?﹂ ﹁ふふふふ御覧のとおりの恰好で、今夜の宿銭にも困っているんだ、それともこの道場へおいてくれるか﹂ ﹁いや、入用なら十両くらい用立てるが﹂ といっているところへさっきの門弟から聞いたのであろう、小浪が気もそぞろのありさまで走ってきた。 ﹁まあ、兵馬さま、よう御無事で﹂ ﹁これはお嬢さま﹂兵馬もさすがに手をおろした。 ﹁ただ今江戸へ着きましたが、先生には意外の御最期……などと云ってみたところで、この姿では御ごあ挨いさ拶つにもなりません。兵馬もすっかり落魄れましてな、はははは﹂ ﹁とにかくあがったらどうだ﹂ 甲子雄が側から口を添えた。三
朝からの酒びたり、酔うとごろ寝、日が暮れるとお天気安をつれて、外へ出てまた呑みまわる――まるでなっていない仁木兵馬だった。 ﹁あんな人じゃなかったが﹂ 佐兵衛は気抜けがしたように、 ﹁人間なんてまったくどう転ぶか知れたものじゃあねえ、噂に聞くと初めて訪ねていって松林さんから十両借りたそうだが、もうそうなっちゃあ人間もおしめえだ﹂ 以前惚ほれこんでいただけに、佐兵衛の失望は大きかった。――するとある日、ようやく朝の掃除がすむかすまぬという時分、兵馬が相変らず二階のひと間で、ぐいぐい朝酒を呷っているところへ、 ﹁先生大変だ、片付けたり片付けたり﹂ とお天気安が駆上ってきた。 ﹁てめえの大変も黴かびが生えてる、また詰らねえ下げて手も物のの鍔つばでもみつけたのだろう﹂ お天気安は火消の三さん下し奴たに似合わず、古道具屋から安物の鍔を買って集めるという妙な道楽をもっていた。 ﹁そんなこっちゃねえ、緑町からお嬢さんが訪ねておいでなすったんで、いま頭がおつれ申すから先へいって、片付けておけと﹂ ﹁ええ、汚ねえ手で徳とっ利くりへさわるな!﹂ 兵馬は安吉の手を払って、 ﹁朝酒五合は兵馬様のお勤めだ、将軍家が御成りでも片付けるこたあねえ、いやなら会わねえからとそういいねえ﹂ ﹁いけないよ先生、おまえさんはそれだから﹂ ﹁いいえ、どうぞそのまま﹂ そう声をかけながら小浪が入ってきた。 ――お天気安は横っ跳びに出ていく。 ﹁これはこれは﹂と兵馬も坐すわり直した。 ﹁どうもかような見苦しいさまを御覧にいれて、なんとも面目がございません、ひらに――﹂ ﹁兵馬さま﹂小浪はちらと四あた辺りを見まわして、 ﹁先日、ゆっくりお話し申す隙ひまもございませんで名残惜しゅう存じました。じつはあたくし――あなたさまのお帰りを、どんなにお待ち申していたか知れないのです﹂ ﹁しかし、そんなことは今さらになって﹂ ﹁いいえ、あなたはなにも御存じないのです﹂ 小浪は声をひそめていった。 ﹁拙者が、なにを知らぬとおっしゃる?﹂ ﹁父は不意の出火で焼死いたしました、――あなたもそれは御存じでございましょう?﹂ ﹁うかがいました﹂ ﹁嘘です!﹂小浪は袖そでで眼を押えながら、﹁焼死したのではございません。父の死体には……刀かた痕なきずがございました﹂ ﹁――――﹂ ﹁誰も気付かなかったようですが、あたくしははっきり見ました、肩から胸へかけて、鋭い刀痕がありありと残っていたのです﹂ 兵馬はいきなり燗かん徳どっ利くりを取ると、盃はい洗せんへあけてぐぐぐと呷りつけたが、――どう思ったかそのままごろりと仰あお反むけに倒れて、 ﹁そんな話は、伺ったところでしようがない、あなたはもうすぐ甲子雄の嫁に……﹂ ﹁兵馬さま!﹂小浪は悲しげにさえぎった。 ﹁それはあんまりです、父の不審な死しに態ざまも、あなたにだけお話し申そうと、きょうまで胸に秘めてきた小浪の気持……そんなふうにおっしゃるのはあんまりです﹂ ﹁泣くのは勘弁してください。せっかくいい心持に酔った酒が醒さめてしまう。うーい、眠くなりましたから失礼、あとでまた金を借りにいくと、帰ったら甲子雄へお言こと伝づてを頼みます、……御免!﹂ ﹁兵馬さま、それは御本心――﹂ とすりよったが、兵馬はもう眼を閉じて、軽く鼾いびきさえかき始めている、――小浪は口惜しそうにその寝顔を見ていたが、やがて力なく立って部屋から出ていった。そのまま午ひる過ぎまでぐっすり眠った兵馬、刻とき外れの食事をすませると、 ﹁おい安の字、一緒に歩あゆびねえ﹂ ﹁合点だ、先生のお供なら這はってもいきやす﹂ ﹁意地の汚ねえ声を出すなよ﹂ と安吉を伴つれて外へ出た。 ﹁きょうはどちらのほうへのしやすね﹂ ﹁もう呑むことを考えていやがる、ちょうど金がなくなったからまず緑町の甲子雄を強いた請ぶるんだ。あれだけ立派に道場を張っていれば、十両や二十両の冥みょ加うが金きんは安いもんだぜ﹂ ﹁そりゃあ悪いよ先生、おまえ様はとかく松林さんを悪くいうが、あの人はどうして、なかなか物のわかる良い人物ですぜ﹂ ﹁ほう、きさままた妙に肩を持つな、甲子雄から割でもとってるのか﹂ ﹁冗談じゃあねえ、わっちがまえから鍔道楽なのは先生も御存じでしょう、その点でわっちゃあ松林さんの気性を見抜いているんだ。亡くなった大先生も鍔にゃあ眼が明るかったが、松林さんとくるとわっちに輪をかけたような鍔狂人だからね、鍔道楽するくれえの人間に悪いやつはねえ﹂四
﹁ああ、その鍔で思い出した﹂ お天気安は手を拍うって、 ﹁いま思い出しても惜しくってならねえのは、ねえ先生、わっちがこの道楽にはいって一世一代てえ掘出し物をしたんで﹂ ﹁と思ったら偽だというやつか﹂ ﹁ところが、南蛮鉄で龍の透し彫、眼に金の象眼が入っている、耳のところにちょいとした疵きずはあるが、なんともいえねえ品で、わっちゃあ越前の古鍔と睨にらんだから、すぐ蜆河岸の道場へ持っていったんでさ﹂ ﹁そんな詰らねえ話はよしにしな﹂ ﹁まあ聞いとくんねえ、先生もひと眼ご覧なさるなり、安――こいつは掘り出したぞ。越前の甚じん左ざえ衛も門んに相違ない、わしが十両で買おうとこうおっしゃるんで、その時お金をいただけばよかったんだが、こっちも欲があるからね、いちど松林さんに御覧を願いてえと思って訊きくと、正月祝いに奥の植半へ、門人衆をそっくりつれて呑明しにいらしったてえことで、――じゃあ明朝お帰りになったら御覧にいれてください。どちらでも高いほうへお売りいたしますと、帰ってきたらその晩に火事だ﹂ ﹁ざまあみろ、大欲は無欲だ﹂ ﹁肝かん腎じんの先生は亡くなる、焼跡を捜しても鍔は出ず、元も子もすっから勘左衛門、今思っても惜しくってならねえ﹂ ﹁こっちゃあ可おか笑しくって大笑いだ﹂ 無駄話をしながら道場の前まできた。 ﹁おめえここで待っていねえ﹂と安吉を表へ残しておいて、兵馬はずいとはいっていった。 門人に稽けい古こをつけていた甲子雄は、兵馬がきたと聞くと眉まゆをひそめたが、断るわけにもいかず客間へ通し、稽古の区切をつけて、衣服を改めて会いに出た。――兵馬は客間の真中へごろりと横になったまま、 ﹁やあ、先日は失礼﹂ ﹁――拙者こそ﹂甲子雄は静かに座って、 ﹁なにか用でもあってこられたのか﹂ ﹁また金さ、二十両ばかり貸してもらいたいのだ﹂ ﹁貸すのはいいが、――そうたびたびは困るな、多くの門人を抱えて、これだけの道場を経営すると、そういつも遊んでいる金はないものだ﹂ ﹁いやならいいのさ、そのかわりこの道場へ転げこむばかりだ、昔のよしみでまさかそれもいかんとはいうまいが﹂ ﹁いや貸さぬとはいわん、貸すことは貸すがたびたびは困るというのだ﹂ ﹁甲子雄、きさまそんなにおれが嫌いか﹂ ﹁何をいう、貴公と拙者の仲で、今さらそんな穿せん鑿さくをする必要はあるまい﹂ ﹁そうか﹂兵馬はにやっと笑って、 ﹁おれはまた、ここへおいてくれというたびに、きさまが慌てて金を貸すからおれが側におるとそんなに迷惑なのかと思ったよ、ははははは、落魄れると人間も僻ひがみが出るて﹂ ﹁そんな馬鹿なことがあるものか、では二十両でいいのだな﹂ ﹁うんけっこうだ、あとはまた――﹂云いかけて、何をみつけたか、急に兵馬はむっくりと起き直った。――立とうとしていた甲子雄が、 ﹁どうした﹂ ﹁いや、なに……﹂と苦笑しながら、 ﹁貴公の差しているその脇差、ばかに凝った拵こしらえだと思って、さっきから感心して見ていたのだ、――ちょいと見せてくれ﹂ ﹁ああ、どうぞ﹂甲子雄が脱とって渡すのを、受取った兵馬、眼を据えて柄つか頭がしらからずっと拵えを見ていたが、ぎらり抜放って中身を検あらためる。 ﹁――以前見たな、これは﹂ ﹁そう、父から譲られたあの兼光だ、先日拵えを変えさせたのだ﹂ ぴたっと納めて返す。 ﹁ありがとう、ちょっと失礼する﹂ そういうと、呆あっ気けにとられている甲子雄を後しり目めに、玄関へ出ていった兵馬、――何か安吉にいいつけてすぐに戻ってくると、座につくなり、 ﹁ときに、変なことを訊くようだが﹂ ﹁――なんだ﹂ ﹁蜆河岸道場の出火の夜、貴公は門人たちと奥の植半で呑のみ明していたそうだが、あの晩貴公は道場へ戻ったのではないか﹂ ﹁いいや、どうしてだ?﹂ ﹁なにべつに仔しさ細いもないが訊いたまでだ﹂ ﹁拙者は酒に弱いので早く酔いつぶれて、離はな室れを借りて寝てしまった、火事の知らせがあるまで、なにも知らずに眠っていたのだ﹂ ﹁では、誰も道場へは戻らぬのだな﹂ ﹁無論、みんな植半にいたが……それがどうかしたのか﹂ ﹁なに、べつにどうもしないさ﹂ 兵馬はふたたびにやりとして、 ﹁ときにどうだ甲子雄、久しく貴公と手合せをせぬが、一本立合おうではないか﹂五
﹁急に立合いをしろとは妙だな﹂
﹁妙なことがあるものか、久しい浪人暮しで、腕が鈍ったかどうか試してみたくなったのだ、それともおれとではいやか﹂
﹁いや望むところだが……﹂
﹁ではすぐにしたくをしてくれ、思いたつと我慢のならぬのがおれの性分だ﹂といいながら、早くも立上る。――そのようすを見た甲子雄、おりこそ良し、骨の髄まで懲りるほど打据えてやろうと、ひそかに頷うなずきながら、先に立って道場へ案内した。
﹁おい、木剣でやろうぜ﹂
﹁――大丈夫か?﹂
﹁おれなら大丈夫だ、剣術は素面素籠こ手ての木剣とこなくちゃあ味がない﹂
﹁それでは望みどおり﹂
三年間に相手はかく落らく魄はくしたが、こっちは一日もたゆまぬ修練で充分腕に自信がある、木剣を望むこそ幸い手足の一本も打折ってくれよう、――甲子雄は心中ほくそ笑んでしたくにかかった。
その時、道場へ門人に案内されて、お天気安が佐兵衛と一緒にはいってきた。
﹁仁木先生、頭をお伴つれ申しましたぜ﹂
﹁おう御苦労――﹂兵馬は振り返って、
﹁頼んだ物は持ってきてくれたか﹂
﹁へえ、何だか知れませんが、十両持ってすぐこいというお話で﹂
佐兵衛が近寄ってきて、
﹁裸のまんま持ってきましたが﹂
﹁すまない、借りておくぞ、――これから甲子雄と面白い勝負をするから、隅のほうへさがって見物していけ﹂
﹁そいつぁあ豪気ですな、拝見しましょう﹂
﹁それから安、――きさま、奥へいってお嬢さまを呼んでこい、早くしろ﹂
﹁へえ合点です﹂安吉は奥へ飛んでいく。――兵馬は受け取った金を甲子雄に差し出して、
﹁先日の十両、返すぞ﹂
﹁どうしたのだ、返してもらうつもりで貸したのではない、きょうもこれから二十両……﹂
﹁いや取っておけ、木剣試合はちょいと間違うと命に関わる、借金を残して死ぬのはいやなもんだ、さあこれで貸借なしだぞ﹂
﹁そうか、――よし﹂
頷いて金を受け取る。二、三歩さがって、
﹁では、願おう﹂
﹁――心得た﹂と兵馬も退る、――ところへ安吉が、小浪を促して立ち現われた。
﹁先生、お嬢さまが見えました﹂
﹁御苦労、――お嬢さま、いま甲子雄と面白い勝負をしますから、そこでゆっくりと御覧ください、それから……安﹂
﹁へえ﹂
﹁その上段に甲子雄の脇差がある、それをちょっときさま見てくれ﹂
そう云いざま、兵馬は位取りをして、
﹁甲子雄、いいかっ﹂
﹁おう、――﹂
さっと両名は相あい青せい眼がんにつけた。――居並ぶ門人たちも佐兵衛も、小浪はことさら胸を躍らせ、呼吸を詰めてじっと見まもる。
﹁安、――鍔つばを見ろ﹂兵馬がいった。
﹁あっ、こ、これは……﹂
﹁覚えがあるか﹂
﹁仁木さんこりゃあ、こりゃあ﹂
お天気安、眼を剥むいて吃どもった、――兵馬はひたと木剣をつけたまま、
﹁龍の透彫、金象眼の眼、耳に疵きずのあるところ、きさまがあの晩、大先生のお手へ預けた物に相違あるまい﹂
﹁ま、まさに、まさにこれです﹂
﹁甲子雄、尻しっ尾ぽを掴つかんだぞ!﹂
という刹那、さっと色を変えた甲子雄、
﹁――しまった﹂呻うめくなり、
﹁くそっ!﹂
死物狂いに打ちこもうとするのを、
﹁どっこい慌てるな、そう打ちこむと胴へ行くぞ、――お嬢さま聞いていますか、甲子雄の脇差についている鍔は、あの晩安吉がお父上に預けていった品です。こやつめ……植半の離室に酔いつぶれていると見せ、そっと脱出して道場へ戻ったのです、――あなたが御覧になったという、先生の死体の刀疵は、この甲子雄の仕業ですぞ﹂
﹁うぬ、うぬ――えいっ﹂狂気のように打ちこむ甲子雄、
﹁来い、そらっ﹂
踏違えた兵馬は、だっとのめる相手の、肩へ一刀、ぴしーり、
﹁あっ﹂
がらり木剣を取り落すところを、
﹁えいっ、や!﹂
脾ひば腹らと真向へ、凄すさまじい打を入れる。甲子雄はがっと異様に叫びながら、口から黒血を吐きつつどっとのめり倒れた。
﹁お嬢さま﹂兵馬は一歩さがっていった。
﹁先生の仇かたき、ひと太刀お恨みなされい﹂
戸外には初午の太鼓が聞える。その夜、佐兵衛の二階で、祝いの酒宴を前に、兵馬は機嫌よく話していた。
﹁今だから話すが、三年前に旅へ出たのは、拙者とお嬢さんの間を妬ねたんで、甲子雄のやつが門中に騒ぎを起そうとするようすが見えた、そこで先生と相談した結果、ひとまず甲子雄の気を抜くつもりで旅へ出たのだ。――あれから諸国を修業して、久かたぶりに江戸恋しく道場をたずねてみると、あれほどの大先生が焼死されたという。こいつは臭いとすぐ気がついたので、酔ってくだんのごとき始末さ。はたして、あいつめ、先生がどうしてもお嬢さんを自分にくれそうもないとみて、とうとうあんなことをしでかしてしまったにちがいない。だが悪事は栄えぬものだ、あれだけ深く企たくらんでいながら、日ごろの鍔狂人が祟たたって、ついあの鍔に目をつけたのが運の尽、もう一歩というところで露顕に及んでしまった。……今度の手柄は、お天気安が掠さらったわけさ﹂
﹁そういわれちゃあ面目ねえ﹂
﹁遠慮するな、てめえの道楽がこんな役に立とうたあ思わなかった、さあ乾ほせ﹂
佐兵衛も上機嫌で、
﹁これで大先生も浮ばれましょう。あっしもなんだか胸の閊つかえが下りたような心持だ、――ねえお嬢さん、大先生の一周忌が過ぎたら、あなたと仁木先生のお仲人は佐兵衛が勤めますぜ﹂
﹁まあ、いやな頭﹂
小浪は体いっぱいに羞はじらいを見せて、ちらと兵馬のほうへをした。――わっとお天気安が奇声をあげるのが合図、一座がどっと歓声にどよむ――その声を縫って、とととんとことことこと、初午の太鼓が、宵寒の風に乗って元気よく響いてきた。