一
夏なつ目めよ吉しの信ぶ︵次じろ郎うざ左え衛も門ん︶が駈けつけたとき、大ひろ間ではすでにいくさ評定がはじまって、人びとのあいだに意見の応酬がはげしくとり交わされていた。 ﹁父うえ、おそうござります﹂ 末座にいた子の信のぶ次つぐが、はいって来た父吉信をみて低いこえで云った。 ﹁今しがた二ふた俣また城へまいった物見︵斥せっ候こう︶がかえり、二俣もついに落城、甲こう州しゅう勢はいっきにこの浜はま松まつへおし寄せまいるとのことでござります﹂ ﹁知っておる﹂ 吉信は子のそばへしずかに坐った。 ﹁それで御評定はきまったか﹂ ﹁老臣がたは城へたてこもって防ぎ戦うがよろしいという御意見のようでござります。本ほん多ださま酒さか井いさまはおし出して決戦すると仰おおせです﹂ ﹁おん大将の御意はどうだ﹂ ﹁まだなにごとも仰せられません、せんこくからあのとおり黙って評定をお聴きあそばしてござります﹂ 吉信はうなずきながら上座を見あげた。徳とく川がわ家いえ康やす︵従五位上侍従このとき三十一歳︶は紺いろに葵あおいの紋をちらした鎧よろい直ひた垂たれに、脛すね当あて、蹈ふみ込こみたびをつけたまま、じっと目をつむって坐っていた。この日ごろやつれのめだつ面おもてに、濃い口くち髭ひげと顎あごの髯ひげとがその相貌をひときわするどくみせている。 事態は急迫している、存亡のときが眼前にせまっているのだ。 甲、信、駿の全土をその勢力のもとに把つかんだ武たけ田だ氏は、遠とお江とうみ、参みか河わの一部を侵して、ずいしょに砦城をふみやぶりながら、三万余の軍勢をもって怒どと濤うのごとく浜松城へと取り詰めている。味方は織おだ田のぶ信な長がから送られた援軍を合せてようやく一万余騎、それも連勝の敵軍にたいして、つぶさに敗戦の苦を嘗なめてきた劣勢の兵だった。 この一戦こそまさに危急である、この一戦こそまさに徳川氏の存亡を決するものだ。 老臣たちは守って戦うべしと云いい。酒井、榊さか原きばら、本多、小おが笠さわ原らの若く気英の人びとは出陣要撃を主張した。家康は黙ってその論諍をきいていたが、やがてつむっていた眼をみひらき、ゆっくりと列座の人びとを見まわしながら口をきった。 ﹁おのおのしずまれ﹂ 囂ごう々ごうたる応おう酬しゅうのこえがぴたりとやみ、一座の眼はいっせいに大将家康を見あげた。 ﹁敵軍三万余騎、みかたは一万にたらず、城をいでて戦うはいかにも無謀血気のようであるが、このたびはただ勝つべきいくさではない。武田氏を攻防いく年とせをかさねて、今こん日にちまでしだいに諸処の城とりでを失い、いまここに決戦のときを迎えたのだ、まん一にも浜松の城下を甲州勢の蹂じゅ躙うりんにまかせるとせば、もはや徳川の武ぶめ名いは地におちるであろう。たたかいは必死の際きわにおし詰められている、浜松に敵の一兵もいれてはならぬのだ、評定は出陣ときまった、いずれもすぐその用意につけ﹂ ﹁はちまん﹂ 本多忠ただ勝かつ︵平へい八はち郎ろう︶が膝を叩いて叫んだ、 ﹁それでこそ一いち期ごのご合戦、われら先陣をつかまつりましょう﹂ ﹁先陣はこの酒井こそ承わる﹂ 出陣ときまって気英の人びとはたがいに膝ひざをのりだした。守戦をとなえた老臣たちも、事がきまればいささかも逡巡するところはない、すぐ軍いくさくばりにとりかかった。 ﹁総勢出陣ときまれば、この本城のまもりをどうするか﹂ ﹁まもりは置かなければならぬ﹂ ﹁誰を留守にのこす﹂ ﹁この一期のいくさに遺のこるものはあるまい﹂ ﹁しかし城を空からにはできぬ﹂ 斯こういう場合のいちばん困難な問題がはたと人びとを当惑させた。にわかにみんな口をつぐんだ、主家の運命を賭する一戦、いまこそ武士の死すべきときである、この戦たたかいにおくれたらもののふの名はすたるのだ。 しわぶきのこえも聞こえなくなった一座のかた隅から、そのときしずかに名乗りでる者があった。 ﹁おそれながら、ご本城のおん留守はわたくしがおあずかり申しましょう﹂ みんなの眼がそのこえの方へ集った。こえの主ぬしはすこし蒼あおざめた顔で家康の方をみあげていた、それは夏目吉信であった。 ﹁ああ夏目か﹂ ﹁次郎左衛門か﹂ 人びとの面おもてにはかすかに軽侮のいろが動いた。そしてたがいに﹁さもありなん﹂という眼つきでうなずきあった。次郎左衛門の子信次は全身をふるわせながら、骨も砕けよと双のこぶしを膝につき立てていた。 ﹁よし、城の留守は夏目に申しつける、いずれも出陣の用意をいそげ﹂ 家康のこえが大きくひびきわたると共に、列座の人びとは歓かん声せいをあげて立った。ときは元げん亀き三年︵一五七二︶十二月二十一日黄たそ昏がれすぎのことであった。二
﹁なんたること。父上、これはなんたることでござりますか﹂ 信次は色をうしなった唇くちびるをふるわせながら、噛みつかぬばかりにはげしく父を責めた。 ﹁御主君の御運を賭するこのいくさに、もののふとあるものは誰しもご馬前の死をこそねがえ、みずから留守城のまもりを名乗りいで、好んでだいじの合戦におくれるとは、そもいかなるご所存でござります﹂ 吉信は答えなかった。 ここは浜松城玄げん黙もく口ぐちの矢やぐ倉らのうえである、必死を期した徳川八千の軍勢は、大将家康の本隊と共に、霜こおる夜をついて、いま粛々とみかたが原めざして出陣して行った。二千に足らぬ兵と留守城のまもりをあずかった夏目吉信は、玄黙口のやぐらの上にのぼって、兵馬の去って征いった闇のかなたを、身じろぎもせずに見まもっている。 ﹁なさけのうござります、信次には父上のご所存がなさけのうござります﹂ 信次のこえは喉のどにつまっていた、 ﹁すぐる永えい禄ろく九年︵一五六六︶におみかた申してより、いつの戦たたかいにもご馬前のはたらきかなわず、家中の人びとからは絶えずに降こう参さん人にん、ごれんみんの者という眼で見られております、このたびこそは先陣にうっていで、めでたき死にざまを見せて夏目の家名をたてるべきときと存じましたのに、これでわれら一族の名も泥上にまみれてしまいました、あまりと申せばなさけなきおふるまい、ざんねんにござります﹂ 信次は面おもてをおおい、床板にどっかと崩れて泣きだした。 夏目吉信は徳川恩顧の者ではなかった。彼は参みか河わノ国くに額ぬか田だご郡おりの郷士であって、永禄六年九月、一向宗徒が乱をおこしたとき、大おお津つは半んえ右もん衛じ門ょ尉う、乙おと部べは八ちべ兵えじ衛ょ尉うらと共に一揆の徒にくみし、野羽の古こる塁いに拠よって反旗をひるがえした、家康はただちに松まつ平だい主らと殿のも助のす伊けこ忠れただに命じてこれを討たした。伊忠は深溝城をまもっていたが、神速に兵をだして野羽のとりでを囲み、困難なたたかいの後のち、乙部八兵衛尉のうらぎりに依よって城を乗取り、ついに夏目吉信をいけどりにして勝った。家康はよろこんで伊吉の﹇#﹁伊吉の﹂はママ﹈功をたたへ﹇#﹁たたへ﹂はママ﹈、 ――夏目は参みか河わにきこえた豪士である、これを克く攻めて勝ち、城将をいけどりしたることまことに奇特というべし、恩賞はのぞみにまかするゆえ何なりと申してみよ。 そう云って賞讃した。そのとき主との殿もの助すけ伊忠はかたちをあらためて、 ――仰せにしたがって一つ御恩賞を乞こいたてまつる、夏目吉信は一揆の徒にはくみしましたれども、その智略その勇剛まことに惜しむべき人物にて、ごれんみんをもってかれが命を助け、おん旗はた本もとのすえに加えられたまわば、かならずお役に立つべしと存じまする、御恩賞として乞いたてまつるはこの一事のみでござります。 と真実を籠こめて云った。家康はその熱心にうごかされ、伊忠のねがいをゆるして吉信を麾き下かに加え、かつ三郎信康に属せしめたのであった。いま信次が、 ――ごれんみんの者。 ――降参人。 ということばを口にしたのは、そういう過去があったからで、また徳川幕下の諸士たちがそういう眼でみることも避けがたい事実だった。なによりも名を惜おしむ武士にとって、これはいつまでも耐えられる問題ではない、折さえあったら華ばなしくたたかって汚名を雪そそごうと、一族は切歯しつつ今日まで周囲のつめたい眼を耐えしのんで来たのだ。 ﹁おきかせ下さい父上、いかなるご所存でかような未練なおふるまいをなさったのでござります、父上はそれほど命が惜しいのでござりますか﹂ ﹁そうだ、……命は惜しい﹂ 吉信はまた北の夜空をみまもりながら、水のようにしずかなこえで云った、 ﹁いったんの死はむずかしくはない、たいせつなのは命を惜しむことだ。人間のはたらきには名と実とがある、もののふは名こそ惜しけれ﹂ ﹁父上もそれをご存じでござりますか﹂ ﹁その方はどうだ﹂ はじめて吉信はふりかえった。五十五歳、鬢びんに霜をおいて、ふかく頬ほおのおちくぼんだ彼の面上に、抑へつけているはげしい意力が脈うっていた。吉信はわが子のまえに坐すわり、噛んでふくめるような口調で云いはじめた。 ﹁名を惜しむということを、そのほうはよくよく知っているか、信次。もののふは名こそ惜しけれとは疋ひっ夫ぷも口にする、しかし名にも虚名というものがあるぞ、すなわち中身のない名だ、名あって実のともなわざることを云う。……父がごれんみんをもって命を助たすかり、降こう参さん人にんとなっておん旗本に加わったのは、おのれの命ひとつが惜しかったからではない、この君きみこそ天下の仕置たるべき人、この君こそ身命のご奉公をつかまつるべき人と思ったからだ﹂三
﹁よいか信次﹂ 吉信はしずかにつづけた。 ﹁父はおのれ一族の名をあげ、その方共に高名出世をさせとうてご随ずい身しん申したのではない、一家一族をささげて徳川のいしずえとなるためにお仕え申したのだぞ﹂ ﹁…………﹂ ﹁ご馬前にさき駈けして、はなばなしくたたかうも武士のほんぶんではある、けれどもそれは、今そのほうが申したような心ここ懸ろがけではかなわぬことだ。そのほうの頭には夏目の家名がしみついておる、おのれこそあっぱれもののふの名をあげようという功名心がある、ご主君のために髑どく髏ろを瓦がれ礫きのあいだに曝さらそうと念うよりさきに、おのれの名を惜しむ心がつよい。信次、虚名とはすなわちそのような心を申すのだぞ﹂ ﹁…………﹂ ﹁一期のご合戦に先陣をのぞむのは誰しもおなじことだ、けれども誰かは留守城をあずからねばならぬ。先陣をつるぎの切きっ尖さきとすれば本城のまもりは五ごた躰いといえよう、五躰のちからまったくしてはじめて切尖も充分にはたらくことができるのだ、たとえ先陣、留守の差はあっても、これを死しし處ょとする覚悟に二つはないぞ、わかるか信次﹂ 信次は両手をついて噎むせびあげた、身命も捨て名も捨てた父のこころが、はじめてわかったのだ。留守城のまもりは誰しも好むところではない、まして吉信がみずから望んで出るとすれば、人びとは﹁いかにも降参人の望みそうなことだ﹂と頷うなずくであろう、吉信はそれをよく知っていた、知っていながらあえておのれから望み出た。はたして人びとは軽侮の眼で見た、吉信はそれをもあまんじて留守をあずかったのである、彼は身命を捨てるまえにおのれの名を捨てたのだ。 ﹁父上、信次がおろかでござりました﹂ ﹁…………﹂ ﹁仰せのとおり、わたくしは夏目の家名にまなこを昏くらまされておりました﹂ 信次はしぼりだすように云った。 ﹁もはや世の謗そしりもおそれませぬ、人の批判にも臆おくしませぬ、いまこそ、瓦礫のなかに無名のしかばねを曝す覚悟ができました、いまこそおのれの死處がわかりました、さきほどの過言をおゆるし下さいまし﹂ ﹁わかればよし、たたかいはこれからだ、命をそまつにせまいぞ﹂ 吉信はそう云い終ると、しずかに立ってやぐらを降りていった。 明くれば十二月二十二日。 三万余騎の軍をひっさげた武田信しん玄げんは、天てん龍りゅうのながれを渡って、大だい菩ぼさ薩つ︵浜はま名なご郡おり有あり玉たま村むら︶より三みか方たが原はらにせまった。徳川家康は八千余をもって南よりのぼり、右翼に酒井忠ただ次つぐと織田の援軍との混合隊を配はいし、左翼に石いし川かわ、小笠原、松平、本多の軍を置き、そのうしろぞなえにみずから本陣を張って鶴かく翼よくのかまえをとった。 これに対して武田勢は、先陣に小おや山まだ田のぶ信し茂げ、山やま県がた昌まさ景かげ、内ない藤とう昌まさ豊とよ、小おば幡たの信ぶさ貞だら。だい二陣に馬ばば場のぶ信は春る、武田勝かつ頼よりら。信玄の本隊はその後づめとなり、魚ぎょ鱗りんの陣形をもって南下し来きたった。 午七後つ四時、たがいの先鋒に依って合戦のひぶたは切られた。 老ろう獪かいにして経験ふかき信玄の戦術は、まだわかき家康の敵すべきところではなかった。援軍の将佐さく久まの間ぶ信も盛りまず敗れ、おなじく滝たき川がわ一かず益ますも戦場を捨てた。戦たたかいはみるみる苦戦におちいり、本多忠勝、酒井忠次、石川数かず正ただ﹇#ルビの﹁かずただ﹂はママ﹈らおおいに反撃したが、夕闇の頃にいたって全軍の敗勢おおうべくもなく、家康はついに退却の命を発した。しかも彼は乗じょ馬うめを曳ひかせてこれにまたがり、 ﹁旗本のめんめんはわれと共にしんがりせよ、余よの隊は浜松までひけ、しんがりは旗本にてひきうけたぞ﹂ とさけんだ。そしてみずから本隊と共にしっぱらい︵殿軍︶となり、追いかかる敵とたたかいつつ退却していった。 けれども武田勢の追げきはげしく、本多忠ただ真ざね死し松平康やす純ずみ死し、鳥とり居いの信ぶも元と、成なる瀬せま正さよ義し、米よね津づま政さの信ぶらあいついで討ち死じにをとげた。しかも敵軍の右翼は大きく西へ迂回して、徳川軍の退路をまさに断たんとしている。家康は激怒のあまり死を決し、 ﹁全軍かえせ﹂ と命をくだした。 そのときである、浜松城の方から疾駆して来た二十五六騎の一隊が、家康のはたもとへ乗りつけると共に、その部将のひとりがだいおんに呼びかけた、 ﹁君にはなにごとを躊ちゅ躇うちょしたもうや、敵の軍勢はいきおいに乗じたり、ここは本城に退ひきて後日の合戦をまつべきなり、はやはや浜松へ退きたまえ、それがししんがりを承うけたまわる﹂四
家康はふりかえった。乗りつけて来たのは夏目次郎左衛門吉信である、彼は城の櫓やぐらから、家康危急のさまをみて駈けつけたのであった。
﹁いやもはや退ひかぬぞ﹂
家康は馬のたづなをしめながら叫んだ、
﹁本城ま近ぢかにて斯かくやぶれたうえは、命ながらえてなにかすべき、しかも敵軍すでにわが退路を断たんとする、もはやわが武運のつくるところだ。くちとり、馬をはなせ!﹂
鐙あぶみをなげて馬の口取をしたたかに蹴る、吉信はおのれの馬よりとんで下りると、家康の馬の轡くつわをしかと取った。
﹁君にはおろかなることを仰せたもうぞ、進むべきときに進み、しりぞくべきときにしりぞき、いくたび敗戦の苦を嘗なむるとも、屈せず撓たゆまず、ついの勝利をはかるこそまことの大将とは申すべし、はやく本城へ退きたまえ、吉信しんがりをつかまつる﹂
﹁否いないかに申そうとて、われの此こ処こにあることは敵すでに知る、追撃は急なり、もはやのがれぬ運と思うぞ﹂
﹁未練の仰せなり、君きみのおん諱いみなを冒おかしてふせぎ矢つかまつるあいだ、此処はいかにもして浜松へ退きたまえ、ごめん﹂
叫ぶとともに、家康の馬の轡をちからまかせに南へひき向け、おのれの槍の石突をかえしてその乗馬の尻をはっしと打った。
馬は狂奔してまっしぐらにはしりだした、旗本の人びともそれについて退いた。吉信はとくと見さだめてからふたたび馬にとび乗り、追いこんで来る甲州勢の真まっ向こうへ突っかけながら、
﹁徳川家康これにあり﹂
とだいおんに名乗った。
﹁駿する河がの守かみ家康これにあり、われと思わん者はであえ、この首あげて功名せよ﹂
名乗りかけ名乗りかけつつ、手兵二十五騎と共に悪鬼のごとく斬りこんでいった。
すでに戦場は暮色が濃かった。あれこれ徳川の本陣とめざしていた甲州勢は、徳川家康といふ﹇#﹁いふ﹂はママ﹈名乗をきいていろめきたった。
――すわこそ敵の大将。
――のがすな、討ちとれ。
とばかりおっとり囲んで来た。吉信はこのさまを見てしすましたりと、馬上に十文字の槍をふるって縦横に奮戦した。
﹁家康ここにあり。であえ、……であえ﹂
わめき叫びながら、むらがり寄せる敵をさんざんに駈けなやましたが、わずかな手兵はしだいに討ち取られ、吉信もついに数あまた※きず﹇#﹁やまいだれ+創﹂、U+24EA8、262-5﹈を負った。かたな折れ、矢つきたのである。
――もはやこれまで。
と思った彼は、馬上に浜松城のかたを再拝して云った、
﹁危急の場合とはいえ、われらごとき者の槍の石突をお当て申し、おん名を冒しまいらせた罪は万死に価あたいすべし。吉信ただいまうちじにつかまつる、おんゆるし候え﹂
そして夏目次郎左衛門は討ち死をとげた。
このあいだに家康はしゅびよく退陣し、旗本の人びとも追つい躡じょうする敵を撃退しつつ浜松城下までひきしりぞいた。
ときすでに午六後つ六時をすぎて、くもり月の空は暗あん澹たんと昏くれた。
浜松城の大手には篝かが火りびがどうどうと焚たきつらねてあり、年少夏目信次が守兵をひきいて城門をまもっていた。この篝火をめあてに馬を乗りつけて来た家康は、夏目信次のすがたをみると馬を下り、つかつかとその前へあゆみ寄って云った。
﹁信次、そのほうの父は、家康にかわってみごとに死んだぞ﹂
﹁は……﹂
﹁吉信なくば生きては帰れなかった、吉信こそ家康の命の恩人だぞ﹂
﹁もったいのうござります﹂
信次はしずかに拝はい揖ゆうしながら云った。
﹁もったいのうござります﹂
彼には父の顔がみえるように思えた。父はおのれの名に未練はなかった、ただおのれの身命をなげうって、奉公すべき場所を誤ることなきようにとねがった。
――父上はその本望を遂とげた、父はねがっていた死處を得られたのだ、しかも誰にもまして華ばなしく、うらやむべき死處を。
退却して来た兵はただちに城の守備についた。玄黙口には鳥居元忠を。下※﹇#﹁兎﹂の一画目の後に﹁一﹂を追加し、八画目の点を除いたもの、263-11﹈口には大おお久くぼ保た忠だ世よと柴しば田たや康すた忠だを。山手口には戸とだ田ただ忠つ次ぐ、塩町口には酒井忠次、松平家いえ忠ただ、小笠原長なが忠ただを。その他鳴なる子こは、二之丸、飯いい尾おの出丸にも兵をくばり、守備と反撃の体勢がみるまにととのった。
元亀三年十二月二十二日は、かくてまったく夜に入った。