――そんな風で澄江堂の話はなかなか尽きない。そして、いつの間にか僕らは銀座をあとに京橋を渡り、もう春陽堂の前あたりを歩いてゐた。丸善へでも寄つて、それでおしまひかと思つてゐると、飾窓を一瞥しただけで、 ﹁ところで君。――﹂とか何とか、澄江堂の話は程なく室町を通り抜けてしまつた。今川橋も何ごともなく過ぎて、僕らはやつと万世橋でその日の散歩を終りにすることが出来た。また別の日は此逆に、上野から日本橋まで疲れる気色もなく歩き続けたこともあつた。これらは、もう七八年にもならうか、澄江堂が我鬼先生の時分で、お互に健康な時代の一両日だつた。健康な時代と云へば、これらよりもづつと以前になるが、詩人金子光晴と僕とは浅草からの帰り、田原町から上野山下に出、須田町から九段を通つて牛込見附神楽坂を過ぎ、当時住んでゐた小石川水道町まで歩いたことがある。何を語り合つてゐたか忘れたが断へずおしやべりを続けてゐたことは事実であり、長途の割にはくたびれもしなかつたやうである。だがこんなのは散歩とも云へないものかも知れない、散歩だとしたところが凡そ無思慮な散歩と称すべきであらう、ただ歩いたといふに過ぎないものかも知れない。 此間、下谷根岸から三田の慶応義塾まで犬を連れて歩いて来たといふ青年を見て、帰りはどうする気だらうと其無鉄砲に驚いたが、顧ると僕と雖も年少の頃はその程度のことは無鉄砲とも何とも考へずにやつて来たのだつた。 ◇ 僕は嘗て﹁ある日歩く﹂といふ小説を書いたことがある。だから――及その他の理由から、僕は散歩が好きらしいと思つてゐる人もあるそうである。だが、殊さら﹁ある日歩く﹂と珍らしそうに書くだけに、実は歩くのは余り好きな方ではないのである。何かと云ふと、すぐ乗り物を利用したがる方である。散歩といふ文字は、如何にも軽快で、散歩慾をそゝるに足る十分の魅力を具備してゐるが、さて現実の散歩といふもの、大抵は埃りつぽく、くたびれ易い変なものである。散歩といふ軽快な文字に誘惑されて出かけた帰り、重くるしい気分に、若し少しでもなつてゐなかつたとしたら、――そんな健康な人は幾人あることだらう、羨ましい次第である。ケエベル小品集には、日本には散歩に適する径がないと書いてあつたと記憶するが、﹁日本には﹂と大きく出ていいか悪いか分らないが、とにかく余り好適の散歩場所のないのは事実である。 僕は今郊外目黒に住んでゐるが、﹁郊外﹂などといふ文字も字面が軽薄らしいだけで、実は軽薄でも重厚でもなく、ただのつまらない田舎といふ意味に過ぎない。その郊外に住んでゐると、散歩するには事を欠かないだらうとは誰でも云ふことであり、僕自身も郊外に住んでから大いに散歩してみるつもりでもゐた。だが移り住んで丁度一年、僕は近所の有名な甘藷先生の墓さへ、つひ両三日前に通りすがつただけだつた。 目黒と東京と、どつちが天気の日が多いか。――こんな事を云ひ出すと、東京には上り坂と下り坂とどつちが多いかといふメンタルテスト類似に見下げられるかも知れないが、此のどつちが天気の日が多いかは、そんな戯問でなく﹇#﹁戯問でなく﹂はママ﹈、確かに田舎に住むものにとつての実際の問題である。﹁天気の日﹂と漠然と云つては間違ひが起るから、云ひ直すと、散歩に適する日は、確実に東京の方が目黒よりは余計に持つのである。 云つてしまへば頭から何だと愚にもつかぬ事だが目黒では雨が降つたら泥濘脛を没して当分は散歩に出られないのである。東京でなら――少くも銀座でなら、例へ雨の降つた日でも、降り様によつてはその日のうちに草履で散歩に出ることが可能である。だが郊外では――これから冬も過ぎて霜どけの時分など、いよいよ散歩に適する日が、――径みちが、乏しくなるのである。郊外は散歩するによろしなどと、それはそんないい日も時折りはあるといふことに過ぎないのである。 ◇ だから僕はよく銀座に出かけて行く。が僕は銀座へ散歩する目的で出かけたことは滅多にない、大ていは買物かたがたか、何処か喫茶店の片隅に腰をおろす為にである。喫茶店で、誰にか会はないかと、その実会ふと反つて煩しくて厭な場合の方が多いのだが、――片隅でまづさうに茶を啜つてゐるのは散歩よりは快適である。 僕は小説では屡々主人公を散歩させる。そして何どの主人公もいかにも散歩好きの人間らしくしておく。だが、これは作の便宜に出ることであつて、必ずしも作者が散歩を好んでゐることにはならない筈である。頃日、ある人が僕の或作を批評して、此作者にしては珍らしく突込んだ作とか何とか云つてゐたが、突込むとは一体何を意味することか。主人公が散歩してゐる青年では突込んだことにならないのか。自己に庶ちかい生活をのみ生活と考へる誤謬から、少しは解放されるように努力したまへと云ひたい。人おのおの思ふところあり見るところあり、年年赤ん坊が生れる以上、歳歳赤ん坊の小説があつていい理屈だ。 銀座を散歩する人は、今夜もまた﹁大きいのと小さいの﹂が散歩してゐるのを目にすることだらう。﹁大きいのと小さいの﹂と云へば知つてゐる人には直ぐ通じる二人の西洋人のことだ。この両人はいかにも親友らしく、そして両人以外には全然孤独らしく、何と仲よささうに銀座を散歩してゐることか。何かの都合で大きい方か小さい方かが一人きりで散歩してゐるのを見ると、今夜は片方が病気ででもあるのかと僕にさへいささかの心配である。この大小二人の紅毛人の散歩は、いかにも﹁西洋﹂を想はせ、何か﹁西洋人の生活﹂を考へさせる力を持つてゐる。僕も、黙つてさつさと歩くいい相手を獲たら、これでなかなか美事な散歩の実行家になるであらう。散歩は元来は好きでありながら容易に実行しないのは、ひとりで歩くには少し年とり過ぎたせいだらう。 ◇ 雨天の散歩、この文字も部屋の内で考へてゐる分には美しい文字だ。だが、本当に歩いてみたまへ、五度に一度だらう散歩の気もちになれるのは。大ていは早く帰つて、湿つた着物を着換へたくなるだらう。京都の散歩も――別して秋は、と考へられるが、京都は僕には故郷のせいか、人目が繁くて狭過ぎる気がしてならない土地だ。事実、静かな町なかを散歩しながら、不図何処かに人の視線を感じ、直覚的に見かへすと、格子窓の内から白い顔が覗いてゐる、そんな事がありがちの土地だ。これは僕と京都とに限らず、誰でも故郷を散歩する人が悩まされる化物かも知れない。 ◇ 散歩の題を得て、こんなことを書いてゐたら限りなく書くことがあるだらう。例へば、散歩のついでに本屋に立寄つてみて、昨日二冊あつた自分の著作集が、けふは一冊になつてゐるのを発見するような、謂はば実用的の散歩など、――だが少し下らないようだ。