北越雪譜二編 巻一
越後塩沢 鈴木牧之 編撰
江戸 京山人百樹 増修
○かくていそぐほどに雪ふゞ吹きます〳〵甚しく、橇かじきを穿はくゆゑ道みち遅おそく日も已すでに暮くれなんとす。此時にいたりて焼飯を売たる農のう夫ふは肚はら減へりて労つかれ、商人は焼飯に腹はら満みち足をすゝめて往ゆく。農夫は屡しば〳〵後おくるるゆゑ終つひには棄すてて独ひとり先さきの村にいたり、しるべの家に入りて炉ろへ辺んに身みを温あたゝめて酒を酌くみ、始はじめて蘇よみ生がへりたるおもひをなしけり。 ○さてしばらくありてほうい〳〵と呼よぶ声こゑ遠とほく聞きこゆるを家内の者きゝつけ、︵ふゞきにほうい〳〵とよぶは人にたすけを乞ふことば也、雪中の常とす︶雪ふゞ吹きた倒ふれぞ、それ助けよとて、近あた隣りとなりの人をもよび集あつめ手てご毎とに木こす鋤きを持て︵木鋤を持は雪に埋りし雪吹たふれの人をほりいださんため也、これも雪国の常也︶走はせ行ゆきしが、やゝありて大勢のもの一人の死しが骸いを家の土ど間まへ※かき﹇#﹁臼/廾﹂、U+8201、182-7﹈入れしを、かの商あき人びとも立たち寄より見れば、最さい前ぜん焼やき飯めしを売うりたる農夫なりしとぞ。この苧をが商人、或ある時とき余よが俳はい友いうの家に逗とう留りうの話はなしに件くだんの事を語かたり出いだし、彼かの時とき我六百の銭を惜をしみ焼飯を買かはずんば、雪ふゞ吹きの中うちに餓うゑ死じにせんことかの農のう夫ふが如くなるべし、今日の命も銭六百のうちなりとて笑ひしと俳はい友いうが語かたれり。
百もゝ樹き曰いはく、余よ丁酉の夏北ほく越ゑつに遊びて塩沢に在し時、近村に地芝居ありと聞きゝて京水と倶ともに至りしに、寺の門の傍かたはらに杭くひを建たてて横よこに長ながき行あん燈どんあり、是に題だいして曰いはく、当たう院ゐん屋やね根ふ普し請ん勧くわ化んけの為ため本ほん堂だうに於おいて晴せい天てん七日の間芝居興こう行ぎやうせしむるものなり、名なだ題いは仮かな名で手ほ本ん忠臣蔵役人替名とありて役やく者しやの名多おほくは変へん名みやうなり。寺の門内には仮かり店みせありて物を売り、人ひと群ぐんをなす。芝居には仮かりに戸板を集あつめて囲かこひたる入り口あり、こゝに守まもる者ものありて一人前まへ何程と価あたひを取とる、これ屋やね根ふ普し請んの勧くわ化んけなり。本堂の上り段に舞ぶた台いを作り掛かけ、左に花道あり、左右の桟さじ敷きは竹たけ牀すの簀こ薦こも張ばりなり。土間には薦こもを布しき、筵むしろをならぶ。旅たびの芝居大たい概がいはかくの如しと市川白猿が話はなしにもきゝぬ。桟さじ敷きのこゝかしこに欲もえ然たつやうな毛まう氈せんをかけ、うしろに彩さい色しき画ゑの屏びや風うぶをたてしはけふのはれなり。四五人の婦みな綿わた帽ばう子ししたるは辺へん鄙び﹇#ルビの﹁へんび﹂はママ﹈に古風を失うしなはざる也。観みる人ひと群ぐんをなして大入なれば、猿さるの如き童わらべども樹きにのぼりてみるもあり。小ちひ娘さきむすめが笊ざるを提さげて冰こほ々り〳〵とよびて土ど間まの中を売うる。笊ざるのなかへ木の青あを葉ばをしき雪の冰こほりの塊かたまりをうる也。茶を売べきを氷を売るは甚めづらし、氷のこと削けづ氷りひの条くだりにいふべし。 ○さて口上いひ出て寺へ寄きし進んの物、あるひは役者へ贈おく物るもの、餅酒のるゐ一々人の名を挙あげ、品しなを呼よびて披ひろ露うし、此処忠臣蔵七段目はじまりといひて幕まく開ひらく。おかるに扮なりしは岩井玉之丞とて田舎芝居の戯やく子しやなるよし、頗すこぶる美びなり。由良の助に扮なりしは余よが旅りよ中ちゆう文ぶん雅がを以もつて識しる人ひとなり、年とし若わかなればかゝる戯たはふれをもなすなるべし。常にはかはりて今の坂東彦三郎に似にたり。技げいも又観みるに足たれり。寺岡平右ヱ門になりしは余よが客かく舎しやにきたる篦かみ頭ゆひなり、これも常にかはりて関三十郎に似て音おん声せいもまた天てん然ねんと関三の如し。余よ京水と相あひ顧かへりみて感じ、京水たはふれにイヨ尾張屋と誉ほめけるが、尾張屋は関三の家いへ号ななる事通じがたきや、尾張屋とほむるものひとりもなし。一幕まくにてかへらんとせしに守る者木戸をいださず、便べん所じよは寺の後うしろにあり、空くう腹ふくならば弁べん当たうを買かひ玉へ、取とり次つぎ申さんといふ。我のみにあらず、人も又いださず。おもふに、人ひと散ちれば演しば場ゐの蕭さみ然しくなるを厭いとふゆゑなるべし。いづくにか出いづる所あらんと尋たづねしに、此寺の四方垣かきをめぐらして出べきの隙ひまなし。折をりふし童わらべが外より垣をやぶりて入りたるその穴あなより両人くゞりいでしは、これも又可をか笑しき一ツにてぞありし。
○藁わらひとたけにてあみたつる。はじめはわらのもとを丸けてあみはじめ、末にいたりてわらをまし二筋にわけ折かへし、 ○をはりはまん中にて結びとむる。是雪中第一のはきもの也。童もこれをはく也。上品なるはあみはじめに白紙を用ひ、ふむ所にたゝみのおもてを切入る。 ○是はうちわらにて作りあむ。常の※たび﹇#﹁韈のつくり﹂の﹁罘−不﹂に代えて﹁冂<人﹂、189-6﹈のまゝ是をはきて雪中に歩行しても、他の坐につく時足をそゝぐにおよばず。あみやうは甚むづかしきものなり、此図は大略をしるす。 ○他国には革にて作りたるを見る。泥どろ行みちには便なるべし。我国の雪中には途みちに泥どろある所なし、ゆゑにはき物はげたの外わらにてつくる。げたに、●駒の爪つめ●牛のつめなど、さま〴〵名もあり、男女の用その形もかはれど、さのみはとて図せず。 ○ハツハキといふは里りぞ俗くのとなへなり、すなはち裹はゞ脚きなり。わらのぬきこあるひは蒲がまにても作る。雪中にはかならず用ふ、やまかせぎは常にも用ふ。作りやう図を見て大略を知るべし。やすくいへばわらのきやはんなり。わらは寒をふせぐものゆゑ、雪のはきもの大かたはわらにて作るなり。
○シナ皮とて深みや山まにある木の皮にて作る、寸尺は身に応じ作る。大かたはたて二尺三寸はゞ二尺ばかりなり、胸むねあてともいふ。前より吹つくる雪をふせぐために用ふ、農業には常にも用ふ。他国にもあるなり。 ○シブガラミはあみはじめの方を踵きびすへあて、左右のわらを足あし頭くびへからみて作るなり。里俗わら屑くづのやはらかなるをシビといふ。このシビにて作り、足にからみはくゆゑに、シビガラミといふべきをシブガラミと訛なまりいふなり。 ○かんじきは古こく訓んなり、里りぞ俗くかじきといふ。たて一尺二三寸よこ七寸五六分、形かたち図づの如くジヤガラといふ木の枝にて作る。鼻は反そらしてクマイブといふ蔓つる又はカヅラといふつるをも用ふ。山やま漆うるしの肉付の皮にて巻かたむ。是は前に図したる沓の下にはくもの也、雪にふみこまざるためなり。 ○すかりはたて二尺五六寸より三尺余、横一尺二三寸、山竹をたわめて作る。○かじき○すかりの二ツは冬の雪のやはらかなる時ふみこまぬ為に用ふ。はきつけぬ人は一足もあゆみがたし。なれたる人はこれをはきて獣けものを追ふ也。右の外、男女の雪帽ばう子し雪下げ駄た、其その余よ種々雪中歩ほよ用うの具ぐあれども、薄はく雪の国に用ふる物に似にたるはこゝに省はぶく。
百もゝ樹き曰、余よ北越に遊びて牧之老人が家に在し時、老人家かぼ僕くに命めいじて雪を漕こぐ形すが状たを見せらる、京水傍かたはらにありて此図を写うつせり。穿はく物ものは、○橇かんじき○縋すかりなり。戯たはふれに穿はきてみしが一歩も進すゝむことあたはず、家かぼ僕くがあゆむは馬を御ぎよするがごとし。
○ 越後の城下
越後の国往わう古ごは出では羽ゑつ越ちゆ中うに距またがりし事国こく史しに見ゆ。今は七郡ぐんを以て一いつ国こくとす。東に岩いは船ふね郡ごほり︵古くは石いはに作る海による︶蒲かん原ばら郡︵新にひ潟がたの湊みなと此郡に属す︶西に魚うを沼ぬま郡︵海に遠し︶北に三みし嶋ま郡︵海による︶刈かり羽は郡︵海に近し︶南に頸くび城き郡︵海に近き処もあり︶古こ志し郡︵海に遠し︶以上七郡ぐん也。城下は岩いは船ふね郡こほりに村むら上︵内藤侯五万九千石ヨ︶蒲かん原ばら郡に柴しば田た︵溝口侯五万石︶黒くろ川かは︵柳沢侯一万石陣営︶三日市︵柳沢弾正侯一万石陣営︶三嶋郡に与よい板た︵井伊侯二万石︶刈かり羽は郡に椎しひ谷や︵堀侯一万石陣営︶古志郡に長なが岡をか︵牧野侯七万四千石ヨ︶頸くび城き郡に高たか田た︵榊原侯十五万石︶糸いと魚いか川は︵松平日向侯一万石陣営︶以上城下の外ほか頗すこぶる豊ぶね饒う﹇#﹁豊饒﹂の左に﹁ニギハヒ﹂の注記﹈を為なす処ところ、魚うを沼ぬま郡に小を千ぢ谷や、古志郡に三さん条でう、三嶋郡に寺てら泊とまり○出いづ雲もざ崎き、刈かり羽は郡に柏かし崎はざき、頸くび城き郡に今いま町まちなり。蒲かん原ばら郡の新にひ潟がたは北海第一の湊みなとなれば福地たる論ろんを俟またず。此この余よの豊はう境きやうは姑しばらく略りやくす。此地皆十月より雪降ふる、その深ふかきと浅あさきとは地ちせ勢いによる。猶なほ末すゑに論ろんぜり。○ 古こ哥かある旧きう蹟せき
蒲かん原ばら郡ごほりの伊いや弥ひこ彦さ山ん︵弥一作夜︶伊いや弥ひこ彦のや社しろを当国第一の古こせ跡きとす。祭まつるところの御神は饒にぎ速はや日ひの命みことの御子天あま香のか語ごや山まの命みことなり。 元げん明みや天うて皇んわうの和わだ銅う二年の垂すゐ跡しやくとす。︵社領五百石︶此山さのみ高山にもあらざれども、越後の海かい浜ひん八十里の中ほどに独どく立りうして山さん脉みやくいづれの山へもつゞかず。右に国くに上かみ山やま、左に角かく田だ山を提てい攜けい﹇#﹁提攜﹂の左に﹁カヽヘ﹂の注記﹈して一国の諸しよ山ざん是これに対たいして拱きよ揖ういふ﹇#﹁拱揖﹂の左に﹁コシヲカヽメル﹂の注記﹈するが如ごとく、いづれの山よりも見えて実じつに越後の鎮ちん﹇#﹁鎮﹂の左に﹁マモリ﹂の注記﹈ともなるべき山は是よりほかにはあらじとおもはる。さればこそ命みこともこゝに垂すゐ跡しやくまし〳〵たれ。此御神の縁えん起ぎ或あるひは験れいげん神じん宝はうの類るゐ記すべきあまたあれども姑しばらくこゝに省はぶく。 ○さて此山をよみたる古哥に︵万葉︶﹁いや日ひ子このおのれ神さび青あを雲くものたなびく日すら小こさ雨めそぼふる︵よみ人しらず︶﹂又家やか持もちに﹁いや彦の神のふもとにけふしもかかのこやすらんかはのきぬきてつ角ぬつきながら﹂▲長なが浜はま 頸くび城きご郡ほりに在あり。︵三嶋郡とする説もあり︶家やか持もちの哥に﹁ゆきかへる雁かりのつばさを休やすむてふこれや名におふ浦うらの長なが浜はま﹂▲名なだ立ち 同郡西にし浜はまにあり、今は宿しゆくの名によぶ。 順徳院の御製に︵承久のみだれに佐渡へ遷幸の時なり︶﹁都みやこをばさすらへ出いでし今こよ宵ひしもうき身名なだ立ちの月を見る哉かな﹂▲直なほ江えの津つ 今の高田の海かい浜ひんをいふ。 同御製に﹁なけば聞きゝきけば都みやこのこひしきに此この里さとすぎよ山ほとゝぎす﹂▲越こしの湖みづうみ 蒲かん原ばら郡に潟かたとよぶ処多し。里りげ言んに湖みづうみを潟かたといふ。その大なるを福ふく嶋しま潟がたといふ、四方三里計ばかり。此潟かたに遠からずして五さみ月だれ雨や山まあり。貫つら之ゆきの哥に﹁潮しほのぼる越こしの湖みづうみ近ちかければ蛤はまぐりもまたゆられ来きにけり﹂又俊とし成なり卿きやうに﹁恨うらみてもなにゝかはせんあはでのみ越こしの湖みづうみみるめなければ﹂又為ため兼かね卿きやう﹁年としをへてつもりし越こしの湖みづうみは五さみ月だれ雨や山まの森の雫しづくか﹂▲柿かき崎ざき︵頸城郡にある駅也︶ 親しん鸞らん聖しや人うにんの詠よみ玉ひしとて口こう碑ひに伝つたへし哥に﹁柿崎にしぶ〳〵宿やどをもとめしに主あるじの心じゆくしなりけり﹂按あんずるに、聖しや人うにん御名を善ぜん信しんと申て三十五歳の時讒ざん口こうに係かゝりて越後に謫ながさる、時に承しよ元うげん元年二月なり。後のち五年を経へて勅ちよ免くめんありしかども、法ほふを弘ひろめん為ためとて越後にいまししこと五年なり、故ゆゑに聖人の旧きう跡せき越地に残のこれり。弘ぐほ法ふ廿五年御歳六十の時洛みやこに皈かへり玉へり。︵越後に五年、下野に三年、常陸に十年、相模に七年也︶弘こう長ちやう二年十一月廿八日遷せん化げ寿ことぶき九十歳。件くだんの柿かき崎ざきの哥も弘ぐほ法ふあ行んぎ脚やの時ときの作なるべし。 此外▲有あり明あけの浦うら▲岩いは手での浦うら▲勢せ波ばの渡わたし▲井ゐく栗りの森もり▲越こしの松原いづれも古哥あれども、他たこ国くにもおなじ名所あればたしかに越後ともさだめがたし。さて今を去さる︵天保十一子なり︶五百四十一年前、永えい仁にん六年戌のとし藤原為ため兼かね卿きやう佐渡へ左させ遷んの時、三嶋郡寺てら泊どまりの駅えきに順じゆ風んふうを待まち玉ひし間あひだ、初はつ君ぎみといふ遊いう女ぢよをめし玉ひしに、初君が哥に﹁ものおもひこし路ぢの浦うらの白しら浪なみも立かへるならひありとこそきけ﹂此哥吉きち瑞ずゐとなりてや、五年たちてのち嘉かげ元ん元年為兼卿皈きら洛くありて、九年の後のち正和元年玉ぎよ葉くえ集ふしふを撰えらみの時、初君が件くだんの哥うたを入れられ玉へり、是を越後第一の逸いつ事じ﹇#﹁逸事﹂の左に﹁スクレタコト﹂の注記﹈とす。初君が古こせ跡き今寺てら泊どまりに在あり、里りぞ俗く初君屋やし敷きといふ。貞ぢや享うきやう元年釈しや門くも万んま元んげん記しるすといふ初君が哥の碑いしぶみありしが、断かけ破やぶれしを享きや和うわ年ねん間かん里りじ入ん重ちよ修うしう﹇#﹁重修﹂の左に﹁ツクリカヘ﹂の注記﹈して今に存そんせり。○ 雪の元日
凡およそ日本国中に於て第一雪の深き国は越後なりと古むか昔しも今も人のいふ事なり。しかれども越後に於も最もつとも雪のふかきこと一丈二丈におよぶは我わが住すむ魚うを沼ぬま郡ごほりなり。次に古こ志し郡、次に頸くび城き郡なり。其その余よの四郡ぐんは雪のつもる三郡に比ひすれば浅し。是を以論ろんずれば、我わが住すむ魚沼郡は日本第一に雪の深ふかく降ふる所なり。我その魚沼郡の塩しほ沢さはに生うまれ、毎年十月の頃ころより翌よく年としの三四月のころまで雪を視みる事已すでに六十余年、近この日ごろ此雪せつ譜ふを作るも雪に籠こも居りをるのすさみなり。 ○さて我わが塩しほ沢さはは江戸を去さること僅わづかに五十五里なり、直すぐ道みちを量はからばなほ近かるべし。雪なき時ならば健たつ足しやの人は四日ならば江戸にいたるべし。其江戸の元日を聞きけば縉しん紳しん朱しゆ門もん﹇#﹁縉紳朱門﹂の左に﹁ヲレキ〳〵﹂の注記﹈のはしらず、市しち中ゆうは千門もん万戸こ千ちと歳せの松をかざり、直すぐなる 御み代よの竹をたて、太平の七し五め三を引たるに、新しん年ねんの賀れい客しや麻上下の肩かたをつらねて往ゆき来ゝするに万歳もうちまじりつ。女太夫とか鳥とり追おひの三さみ味せ線んにめでたき哥をうたひ、娘の児このやり羽は子ご、男の児この帋いか鳶のぼり、見るもの聞きくものめでたきなかに、初はつ日ひ影かげ花やかにさし昇のぼりたる、実げに新あら玉たまの春とこそいふべけれ。其その元日も此雪国の元日も同おなじ元日なれども、大たい都とく会わいの繁はん花くわと辺へん鄙ひの雪中と光あり景さまの替かはりたる事雲うん泥でいのちがひなり。 ○そも〳〵我わが里さとの元日は野も山も田たは圃たも里さとも平ひら一いち面めんの雪に埋うづまり、春を知るべき庭てい前ぜんの梅柳の類るゐも、去年雪の降ふらざる秋の末に雪を厭いとひて丸太など立て縄なは縛からげに遇あひたるまゝ雪の中にありて元日の春をしらず。されば人も三四月にいたらざれば梅花を不み見ず、翁が句に 春も稍やゝ景けし色きとゝのふ月と梅、と吟ぎんぜしは大たい都とく会わいの正月十五日なり。また﹁山里は万歳遅おそし梅の花﹂とは辺へん鄙ひの三月なるべし。門かど松まつは雪の中へ建たて、七し五め三かざりは雪の軒のきに引わたす。礼れい者しやは木げ屐たをはき、従と者もは藁わら靴ぐつなり。雪径みちに階だん級〳〵ある所にいたれば主人もわらぐつにはきかふる、此げたわらぐつは礼者にかぎらず人々皆しかり。雪全まつたく消きゆる夏のはじめにいたらざれば、草ざう履りをはく事ならず。されば元日の初日影も惟たゞ雪の銀世せか界いを照てらすのみ。一ツとして春の景けし色きを不み見ず。古こ哥かに﹁花をのみ待らん人に山里の雪間まの草の春を見せばや﹂とは雪浅き都みやこの事ぞかし。雪国の人は春にして春をしらざるをもつて生しや涯うがいを終をはる。これをおもへば繁はん栄えい豊ほう腴いゆの大たい都とく会わいに住すみて年ねん々〳〵歳せい々〳〵梅ばい柳りう※ぜん色しよく﹇#﹁女+︵而/大︶﹂、U+5A86、173-11﹈の春を楽たのしむ事実じつに天てん幸かうの人といふべし。○ 雪の正月
初編にもいへる如く我国の雪は鵞がま毛うをなすは稀まれなり、大かたは白しら砂すなを降ふらすが如し。冬の雪はさらに凝こほ凍ることなく、春にいたればこほること鉄てつ石せきのごとし。冬の雪のこほらざるは湿しめ気りけなく乾かわきたる沙すなのごとくなるゆゑなり。是これ暖だん国こくの雪に異こと処なるところなり。しかれどもこほりてかたくなるは雪解とけんとするのはじめなり。春にいたりても年としによりては雪の降ふること冬にかはらざれども、積つもること五六尺に過すぎず。天地に気やうき有あるを以なるべし。されば春の雪は解とくるもはやし、しかれども雪のふかき年は春も屋やね上のうへの雪を掘ほることあり。掘ほるとは椈ぶなの木にて作りたる木こす鋤きにて土つちを掘ほるごとくして取とり捨すつるを里りげ言んに雪を掘といふ、已すでに初編にもいへり。かやうにせざれば雪の重おもきに屋いへを潰つぶすゆゑなり。されば旧きう冬とうの家いへ毎ごとに掘ほり除のけたる雪と春降ふり積つもりたる雪と道み路ちに山をなすこと下にあらはす図づを見てもしるべし。いづれの家にても雪は家よりも高たかきゆゑ、春を迎むかふる時にいたればこゝろよく日ひの光ひかりを引んために、明あかしをとる処の窗まどに遮さへぎる雪を他処へ取とり除のくるなり。然しかるに時としては一夜の間あひだに三四尺の雪に降うづめられて家内薄うす暗くらく、心も朦まう々〳〵として雑ざふ煮にを祝いはふことあり。越後はさら也、北国の人はすべて雪の中に正月をするは毎年の事也。かゝる正月は暖だん国こくの人に見せたくぞおもはるゝ。○ 玉たま栗くり
江戸の児こど曹もが春の遊は、女児こは繍てま毬り羽はご子つ擢き、男児ごは紙た鴟こを揚あげざるはなし。我国のこどもは春になりても前にいへるごとく地として雪ならざる処なければ、歩ほか行うに苦くるしく路みち上なかに遊をなす事少すくなし。こゝに玉たま栗くりといふ児こど戯もあそびあり。︵春にもかぎらず雪中のあそび也︶始はじめは雪を円まろ成めて卵たまごの大さに握にぎりかため其上へ〳〵と雪を幾度もかけて足にて踏ふみ堅かため、あるひは柱はしらにあてゝ圧おし堅かため、これを肥こやすといふ。さて手てま毬りの大さになりたる時他の童わらべが作りたる玉たま栗くりを庇ひさ下ししたなどに置おかしめ、我が玉栗を以他の玉栗にうちあつる、強つよき玉栗弱よわき玉栗を砕くだくをもつて勝しよ負うぶを争あらそふ。此この戯たはふれ所によりて、○コンボウ○コマ○地ぢ独こ楽ま○雪いき玉んだま︵里のなまりに雪をいきといふ︶○ズヽゴ○玉ゴシヨ○勝かち合あひなどいふなり。此玉栗を作つくるに雪に少すこし塩しほを入るれば堅かたくなること石の如し、ゆゑに小児互たがひに塩を入るを禁きんずるなり。こゝを以てみる時は、塩しほは物を堅かたむる物なり。物を堅けん実じつにするゆゑ塩しほ蔵づけにすれば肉にく類るゐも不くさ腐らず、朝夕嗽くちそゝぐに塩の湯水を以すれば歯はをかためて歯の命を長くすといふ。玉栗は児こど戯もたはふれなれど、塩の物を堅かたくする証あかしとするにたれり。故にこゝに記しるせり。又童わらべのあそびに雪いきン堂だうといふあり、初編にいだせり。○羽はご子つ擢き
︵我里りぞ俗くはねをつくといはずはねをかへすといふ、うちかへすの心なるべし︶ 江戸に正月せし人の話はなしに、市中にて見上るばかり松竹を飾かざりたるもとに、美うつくしく粧よそほひたる娘たち彩いろどりたる羽はご子い板たを持て並ならび立て羽子をつくさま、いかにも大江戸の春なりとぞ。我里の羽子擢つきは辺へん鄙ひとはいひながら、かゝる艶やさ姿しきすがたにあらず。正月は奴しも婢べどもゝ少すこしは許ゆるして遊をなさしむるゆゑ、羽は子ごを擢つかんとて、まづ其処を見たてゝ雪をふみかためて角すま力う場ばのごとくになし、羽子は溲うつ疏ぎを一寸ンほど筒切になし、これに※やま雉どり﹇#﹁櫂のつくり+鳥﹂、U+9E10、180-1﹈の尾を三本さしいれる、江戸の羽子に比くらぶれば甚大なり。これを擢つくに雪を掘ほる木こす鋤きを用ふ、力にまかせて擢ゆゑに空そらにあがる甚高し。かやうに大なる羽子ゆゑに童わらべはまじらず、あらくれたる男女うちまじり、はゞきわらぐつなどにて此この戯たはふれをなすなり。一ツの羽子を並ならびたちてつくゆゑに、あやまちて取とり落おとしたるものは始はじめに定ありて、あるひは雪をうちかけ、又は頭かしらより雪をあぶする。その雪襟えり懐ふところに入りて冷つめたきに耐たへざるを大勢が笑ふ、窗まどよりこれを視みるも雪中の一いつ興きやうなり。京伝翁が骨こつ董とう集しふに︵上編ノ下︶下かが学くし集ふを引て、羽子板は文化十二年より三百七十年ばかりの前さき、文安のころありしものにて、それよりもなほさきにありし事は詳つまびらかならずといはれたり。又下学集には羽子板に︵ハゴイタ、コギイタ︶と両かなをつけたれば、こぎの子といふも羽子の事なりとあり。我国にも江戸の如くに児女のはねをつく所もあり。○ 雪ふゞ吹きに焼やき飯めしを売うる
雪国にて悚ふるひ懼おそるゝ物は、冬の○雪ふゞ吹き○ホウラ、春の雪なだ頽れなり。此奇きじ状やう奇き事じ已すでに初編にもいへり、されど一いつ奇きだ談んを聞たるゆゑこゝにしるして暖だん国こくの話はな柄しのたねとす。 ○そも〳〵金銭の貴たつときこと、魯ろ氏しが神しん銭せん論ろんに尽つくしたれば今さらいふべくもあらず。年としの凶作はもとより事に臨のぞんで餓うゑにいたる時小判を甜なめて腹はらは彭ふく張れず、餓うゑたる時の小判一枚は飯一碗わんの光をなさず。五十余年前の饑きき饉んの時、或所にて餓が死ししたる人の懐に小判百両ありしときゝぬ。 ○こゝに我が魚うを沼ぬま郡ごほり藪やぶ上かみの庄の村より農のう夫ふ一人柏かし崎はざきの駅えきにいたる、此路みち程のり五里計ばかりなり。途中にて一人の苧をが商せあ人きびとに遇あひ、路みち伴づれになりて往ゆきけり。時は十二月のはじめなりしが数日の雪も此日晴はれたれば、両人肩かたをならべて心こゝろ朗のどかにはなしながら已すでに塚つかの山といふ小ちひ嶺さきたふげにさしかゝりし時、雪国の恒つねとして晴せい天てん俄にはかに凍とう雲うんを布しき、暴ばう風ふう四方の雪を吹散ちらして白日を覆おほひ、咫しせ尺きを弁べんぜず。袖そで襟えりへ雪を吹入れて全みう身ち凍こゞえて息いきもつきあへず、大風四面よりふきめぐらして雪を渦うづに巻まき揚あぐる、是を雪国にて雪吹といふ。此ふゞきは不ふ意いにあるものゆゑ、晴せい天てんといへども冬の他たぎ行やうには必蓑みの笠かさを用ること我国の常なり。二人は橇かじきに雪を漕こぎつゝ︵雪にあゆむを里言にこぐといふ︶互たがひに声こゑをかけて助たすけあひ辛からうじて嶺たふげを逾こえけるに、商あき人ひと農のう夫ふにいふやう、今日の晴天に柏かし崎はざきまでは何ともおもはざりしゆゑ弁べん当たうをもたず、今空すき腹はらにおよんで寒さむさに堪たへず、かくては貴おみ殿さまに伴ともなひて雪を漕こぐことならず、さいぜんの話はなしにおみさまの懐ふところに弁べん当たうありときゝぬ、夫それを我に与あたへたまふまじきや、惟たゞには貰もらふまじ、こゝに銭六百あり、死しぬか活いきるかの際きはにいたりて此銭を何にかせん、六百にて弁当を売うり玉へといふ。農のう夫ふは貧びん乏ぼふの者なりしゆゑ六百ときゝて大によろこび、焼やき飯めし二ツを出して六百の銭に替かへけり。商人は懐ふところにありて温あたゝまりのさめざる焼飯の大なるを二ツ食し、雪に咽のどを潤うるほして精せい心しん健すこやかになり前にすゝんで雪をこぎけり。○かくていそぐほどに雪ふゞ吹きます〳〵甚しく、橇かじきを穿はくゆゑ道みち遅おそく日も已すでに暮くれなんとす。此時にいたりて焼飯を売たる農のう夫ふは肚はら減へりて労つかれ、商人は焼飯に腹はら満みち足をすゝめて往ゆく。農夫は屡しば〳〵後おくるるゆゑ終つひには棄すてて独ひとり先さきの村にいたり、しるべの家に入りて炉ろへ辺んに身みを温あたゝめて酒を酌くみ、始はじめて蘇よみ生がへりたるおもひをなしけり。 ○さてしばらくありてほうい〳〵と呼よぶ声こゑ遠とほく聞きこゆるを家内の者きゝつけ、︵ふゞきにほうい〳〵とよぶは人にたすけを乞ふことば也、雪中の常とす︶雪ふゞ吹きた倒ふれぞ、それ助けよとて、近あた隣りとなりの人をもよび集あつめ手てご毎とに木こす鋤きを持て︵木鋤を持は雪に埋りし雪吹たふれの人をほりいださんため也、これも雪国の常也︶走はせ行ゆきしが、やゝありて大勢のもの一人の死しが骸いを家の土ど間まへ※かき﹇#﹁臼/廾﹂、U+8201、182-7﹈入れしを、かの商あき人びとも立たち寄より見れば、最さい前ぜん焼やき飯めしを売うりたる農夫なりしとぞ。この苧をが商人、或ある時とき余よが俳はい友いうの家に逗とう留りうの話はなしに件くだんの事を語かたり出いだし、彼かの時とき我六百の銭を惜をしみ焼飯を買かはずんば、雪ふゞ吹きの中うちに餓うゑ死じにせんことかの農のう夫ふが如くなるべし、今日の命も銭六百のうちなりとて笑ひしと俳はい友いうが語かたれり。
○ 雪中の戯しば場ゐ
五ごこ穀くほ豊うじ熟ゆくして年としの貢みつぎも心こゝ易ろやすく捧さゝげ、諸しよ民みん鼓はら腹つゞみの春に遇あひし時、氏神の祭まつりなどに遭あひしを幸に地芝居を興こう行ぎやうするあり。役者は皆其処の素しろ人うとあるひは近きん村そん近駅えきよりも来るなり。師しし匠やうは田舎芝居の役やく者しやを傭やとふ。始はじめに寺などへ群より居あひて狂言をさだめてのち、それ〳〵の役を定む。此群より居あひの議ぎろ論ん紛ふん々〳〵として一度にて果はたしたるなし。事定りてのち寺に於て稽けい古こをはじむ、技わざ熟じゆくしてのち初日をさだめ、衣いし裳やう髢かつらのるゐは是を借かすを一ツの業なりはひとするものありて物ものの不たら足ざるなし。此芝居二三月の頃ころする事あり、此時はいまだ雪の消きえざる銀世せか界いなり。されば芝居を造つくる処、此役者等らが家はさらなり、親しん類るゐ縁えん者じや朋はう友いうよりも人を出し、あるひは人を傭やとひ芝居小屋場の地所の雪を平たひらかに踏ふみかため、舞ぶた台い花はな道みち楽がく屋や桟さじ敷きのるゐすべて皆雪をあつめてその形かたちにつかね、なりよく造つくること下の図づを見て知るべし。此雪にて造つくりたる物、天又人じん工こうをたすけて一夜の間に凍こほりて鉄石の如くになるゆゑ、いかほど大入にてもさじきの崩くづるる気づかひなし。弥やよ生ひの頃ころは雪もやゝ稀まれなれば、春しゆ色んしよくの空そらを見て家いへ毎ごとに雪囲かこひを取とり除のくるころなれば、処々より雪かこひの丸太あるひは雪ゆき垂たれとて茅かやにて幅八九尺広ひろさ二間ばかりにつくりたる簾すだれを借かりあつめてすべての日ひお覆ひとなす。ぶたい花みちは雪にて作りたる上に板をならぶる、此板も一夜のうちに冰こほりつきて釘くぎ付づけにしたるよりも堅かたし。暖だん国に比くらぶれば論ろんの外ほかなり。物を売うる茶屋をも作つくる、いづれの処も平一面めんの雪なれば、物を煮にる処ところは雪を窪くぼめ糠ぬかをちらして火を焼たけば、雪の解とけざる事妙なり。 ○さて戯しば場ゐの造ざう作さく成じや就うじゆしても春の雪ふりつゞきて連れん日じつ晴はれを見ず、興こう行ぎやうの初日のびる時は役者になりたる家はさら也、此しばゐを見んとて諸方に逗とう留りうの客きやく多おほく毎日空そらをながめて晴はれを待まちわび、客きやくのもてなしもしつくして殆ほとんど倦うみ果はて、終つひには役者仲なか間まいひあはせ、川の冰こほりを砕くだきて水を浴あび千せん垢ご離りして晴はれを祈いのるもをかし。百もゝ樹き曰いはく、余よ丁酉の夏北ほく越ゑつに遊びて塩沢に在し時、近村に地芝居ありと聞きゝて京水と倶ともに至りしに、寺の門の傍かたはらに杭くひを建たてて横よこに長ながき行あん燈どんあり、是に題だいして曰いはく、当たう院ゐん屋やね根ふ普し請ん勧くわ化んけの為ため本ほん堂だうに於おいて晴せい天てん七日の間芝居興こう行ぎやうせしむるものなり、名なだ題いは仮かな名で手ほ本ん忠臣蔵役人替名とありて役やく者しやの名多おほくは変へん名みやうなり。寺の門内には仮かり店みせありて物を売り、人ひと群ぐんをなす。芝居には仮かりに戸板を集あつめて囲かこひたる入り口あり、こゝに守まもる者ものありて一人前まへ何程と価あたひを取とる、これ屋やね根ふ普し請んの勧くわ化んけなり。本堂の上り段に舞ぶた台いを作り掛かけ、左に花道あり、左右の桟さじ敷きは竹たけ牀すの簀こ薦こも張ばりなり。土間には薦こもを布しき、筵むしろをならぶ。旅たびの芝居大たい概がいはかくの如しと市川白猿が話はなしにもきゝぬ。桟さじ敷きのこゝかしこに欲もえ然たつやうな毛まう氈せんをかけ、うしろに彩さい色しき画ゑの屏びや風うぶをたてしはけふのはれなり。四五人の婦みな綿わた帽ばう子ししたるは辺へん鄙び﹇#ルビの﹁へんび﹂はママ﹈に古風を失うしなはざる也。観みる人ひと群ぐんをなして大入なれば、猿さるの如き童わらべども樹きにのぼりてみるもあり。小ちひ娘さきむすめが笊ざるを提さげて冰こほ々り〳〵とよびて土ど間まの中を売うる。笊ざるのなかへ木の青あを葉ばをしき雪の冰こほりの塊かたまりをうる也。茶を売べきを氷を売るは甚めづらし、氷のこと削けづ氷りひの条くだりにいふべし。 ○さて口上いひ出て寺へ寄きし進んの物、あるひは役者へ贈おく物るもの、餅酒のるゐ一々人の名を挙あげ、品しなを呼よびて披ひろ露うし、此処忠臣蔵七段目はじまりといひて幕まく開ひらく。おかるに扮なりしは岩井玉之丞とて田舎芝居の戯やく子しやなるよし、頗すこぶる美びなり。由良の助に扮なりしは余よが旅りよ中ちゆう文ぶん雅がを以もつて識しる人ひとなり、年とし若わかなればかゝる戯たはふれをもなすなるべし。常にはかはりて今の坂東彦三郎に似にたり。技げいも又観みるに足たれり。寺岡平右ヱ門になりしは余よが客かく舎しやにきたる篦かみ頭ゆひなり、これも常にかはりて関三十郎に似て音おん声せいもまた天てん然ねんと関三の如し。余よ京水と相あひ顧かへりみて感じ、京水たはふれにイヨ尾張屋と誉ほめけるが、尾張屋は関三の家いへ号ななる事通じがたきや、尾張屋とほむるものひとりもなし。一幕まくにてかへらんとせしに守る者木戸をいださず、便べん所じよは寺の後うしろにあり、空くう腹ふくならば弁べん当たうを買かひ玉へ、取とり次つぎ申さんといふ。我のみにあらず、人も又いださず。おもふに、人ひと散ちれば演しば場ゐの蕭さみ然しくなるを厭いとふゆゑなるべし。いづくにか出いづる所あらんと尋たづねしに、此寺の四方垣かきをめぐらして出べきの隙ひまなし。折をりふし童わらべが外より垣をやぶりて入りたるその穴あなより両人くゞりいでしは、これも又可をか笑しき一ツにてぞありし。
○ 家かな内いの氷つら柱ゝ
旧きう冬とうより降ふり積つもりたる雪家の棟むねよりも高く、春になりても家内薄うす暗くらきゆゑ、高たか窓まどを埋うづめたる雪を掘ほりのけて明あかりをとること前にもいへるが如し。此屋や上ねの雪は冬のうちしば〳〵掘のくる度々に、木こす鋤きにてはからず屋や上ねを損そんずるあり。我国の屋や上ねおほかたは板いた葺ぶきなり、屋根板は他国に比くらぶれば厚あつく広ひろし。葺たる上に算さん木ぎといふ物を作つくり添そへ石を置おきて鎮おもしとし風を防ふせぐの便たよりとす。これゆゑに雪をほりのくるといへどもつくすことならず、その雪のうへに早さう春しゆんの雪ふりつもりて凍こほるゆゑ屋根のやぶれをしらず。春も稍やゝ深ふかくなれば雪も日あたりは解とけあるひは焼たき火びの所雪早く解とくるにいたりて、かの屋根の損そんじたる処木こ羽ばの下たをくゞりなどして雪水漏もるゆゑ、夜中俄に畳たゝみをとりのけ桶をけ鉢はちのるゐあるかぎりをならべて漏もりをうくる。もる処を修つく治ろはんとするに雪全まつたくきえざるゆゑ手をくだすならず、漏は次第にこほりて座ざし敷きの内にいくすぢも大なる氷つら柱ゝを見る時あり。是暖だん国こくの人に見せたくぞおもはる。 百樹曰、余よ越ゑつ遊いうして大家の造つくりやうを見るに、楹はしらの太ふときこと江戸の土蔵のごとし。天てん井じやう高く欄らん間ま大なり、これ雪の時明あかりをとるためなり。戸とし障やう子じ骨ほね太ふとくして手丈ぢや夫うぶなるゆゑ、閾しきゐ鴨かも柄ゑも広ひろく厚あつし。すべて大たい材さいを用もちふる事目を駭おどろかせり、これ皆雪に潰つぶれざるの用心なりとぞ。江戸の町にいふ店たな下したを越後に雁がん木ぎ︵又は庇ひさし︶といふ、雁木の下広くして小こ荷に駄だをも率ひくべきほどなり、これは雪中にこの庇ひさし下を往ゆき来ゝの為ためなり。余よ越後より江戸へ皈かへる時高田の城下を通とほりしが、こゝは北越第一の市しく会わいなり。商しや工うこう軒のきをならべ百物備そなはらざることなし。両側一里余庇ひさし下つゞきたるその中を往ゆくこと、甚意いく快わい﹇#﹁意快﹂の左に﹁コヽロヨイ﹂の注記﹈なりき。文ぶん墨ぼくの雅がじ人んも多しときゝしが、旅りよ中ちゆう年としの凶きやうするに遭あひ、皈き家かを急いそぎしゆゑ剌﹇し#﹁刺﹂の左に﹁テフダ﹂の注記﹈を入れざりしは今に遺ゐか憾んとす。○ 雪中歩ほか行うの用よう具ぐ
雪中歩ほか行うの具ぐ初編に其その図づを出いだししが製せい作さくを記しるさず、ふたゝびその詳つまびらかなるを示しめす。○藁わらひとたけにてあみたつる。はじめはわらのもとを丸けてあみはじめ、末にいたりてわらをまし二筋にわけ折かへし、 ○をはりはまん中にて結びとむる。是雪中第一のはきもの也。童もこれをはく也。上品なるはあみはじめに白紙を用ひ、ふむ所にたゝみのおもてを切入る。 ○是はうちわらにて作りあむ。常の※たび﹇#﹁韈のつくり﹂の﹁罘−不﹂に代えて﹁冂<人﹂、189-6﹈のまゝ是をはきて雪中に歩行しても、他の坐につく時足をそゝぐにおよばず。あみやうは甚むづかしきものなり、此図は大略をしるす。 ○他国には革にて作りたるを見る。泥どろ行みちには便なるべし。我国の雪中には途みちに泥どろある所なし、ゆゑにはき物はげたの外わらにてつくる。げたに、●駒の爪つめ●牛のつめなど、さま〴〵名もあり、男女の用その形もかはれど、さのみはとて図せず。 ○ハツハキといふは里りぞ俗くのとなへなり、すなはち裹はゞ脚きなり。わらのぬきこあるひは蒲がまにても作る。雪中にはかならず用ふ、やまかせぎは常にも用ふ。作りやう図を見て大略を知るべし。やすくいへばわらのきやはんなり。わらは寒をふせぐものゆゑ、雪のはきもの大かたはわらにて作るなり。
○シナ皮とて深みや山まにある木の皮にて作る、寸尺は身に応じ作る。大かたはたて二尺三寸はゞ二尺ばかりなり、胸むねあてともいふ。前より吹つくる雪をふせぐために用ふ、農業には常にも用ふ。他国にもあるなり。 ○シブガラミはあみはじめの方を踵きびすへあて、左右のわらを足あし頭くびへからみて作るなり。里俗わら屑くづのやはらかなるをシビといふ。このシビにて作り、足にからみはくゆゑに、シビガラミといふべきをシブガラミと訛なまりいふなり。 ○かんじきは古こく訓んなり、里りぞ俗くかじきといふ。たて一尺二三寸よこ七寸五六分、形かたち図づの如くジヤガラといふ木の枝にて作る。鼻は反そらしてクマイブといふ蔓つる又はカヅラといふつるをも用ふ。山やま漆うるしの肉付の皮にて巻かたむ。是は前に図したる沓の下にはくもの也、雪にふみこまざるためなり。 ○すかりはたて二尺五六寸より三尺余、横一尺二三寸、山竹をたわめて作る。○かじき○すかりの二ツは冬の雪のやはらかなる時ふみこまぬ為に用ふ。はきつけぬ人は一足もあゆみがたし。なれたる人はこれをはきて獣けものを追ふ也。右の外、男女の雪帽ばう子し雪下げ駄た、其その余よ種々雪中歩ほよ用うの具ぐあれども、薄はく雪の国に用ふる物に似にたるはこゝに省はぶく。
百もゝ樹き曰、余よ北越に遊びて牧之老人が家に在し時、老人家かぼ僕くに命めいじて雪を漕こぐ形すが状たを見せらる、京水傍かたはらにありて此図を写うつせり。穿はく物ものは、○橇かんじき○縋すかりなり。戯たはふれに穿はきてみしが一歩も進すゝむことあたはず、家かぼ僕くがあゆむは馬を御ぎよするがごとし。
○ ※そり﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、192-6﹈
※そり﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、192-7﹈︵字彙︶禹うわ王う水を治をさめし時載のりたる物四ツあり、水には舟ふね、陸りくには車、泥どろには※そり﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、192-7﹈、山には※かんじき﹇#﹁木+壘﹂の﹁土﹂に代えて﹁糸﹂、U+6B19、192-7﹈。︵書経註︶しかれば此※そり﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、192-8﹈といふもの唐もろ土こしの上古よりありしぞかし。彼かれは泥でい行かうの用なれば雪中に用ふるとは製せい作さく異ことなるべし。※そり﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、192-9﹈の字、○毳そり○※そり﹇#﹁くさかんむり/絶﹂、U+855D、192-9﹈○橇そり○秧そ馬り、諸しよ書しよに散さん見けんす。或あるひは○雪そ車り○雪そ舟りの字を用ふるは俗ぞく用ようなり。
そも〳〵此※そり﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、192-11﹈といふ物、雪国第一の用具。人じん力りきを助たすくる事船と車に同おなじく、且そのうへに作つくる事最いと易やすきは図づを見て知るべし。堀ほり川かは百ひや首くしゆ兼かね昌まさの哥に、﹁初はつ深みゆ雪き降ふりにけらしなあらち山越こしの旅たび人びと※そり﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、192-12﹈にのるまで﹂この哥をもつても我国にそりをつかふの古ふるきをしるべし。前にもしば〳〵いへるごとく、我国の雪冬は凍こほらざるゆゑ、冬に※そり﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、192-14﹈をつかへば雪におちいりてことならじ。※﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、192-14﹈は春の雪鉄石のごとく凍こほりたる正二三月の間に用ふべきもの也。其時にいたるを里りぞ俗く※そり道みち﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、192-14﹈になりしといふ。
俳はい諧かいの季きよ寄せに雪そ車りを冬とするは誤あやまれり。さればとて雪中の物なれば春の季きには似に気げなし。古哥にも多くは冬によめり、実じつにはたがふとも冬として可なり。
※そり﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、193-4﹈は作り易やすき物ゆゑ、おほかたは農のう商しやう家いへ毎ごとに是を貯たくはふ。されば載のするものによりて大小品々あれども作りやうは皆同じやうなり、名も又おなし。只たゞ大なるを里俗に修しゆ羅らといふ、大石大木をのするなり。
山々の喬たか木ききも春二月のころは雪に埋うづまりたるが梢こずゑの雪は稍やゝ消きえて遠とほ目めにも見ゆる也。此時薪たきゞを伐きるに易やすければ農のう人にん等らおの〳〵※そり﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、193-8﹈をて山に入る、或はそりをば麓ふもとに置おくもあり。常には見上る高たか枝きえだも埋うづまりたる雪を天てん然ねんの足あし場ばとして心の儘まゝに伐きりとり、大かたは六把はを一人まへとするなり。さて下に三把を並ならべ、中には二把、上うへには一把、これを縄なはにて強く縛くゝし麓ふもとに臨のぞんで蹉すべ跌らかすに、凍こほりたる雪の上なれば幾百丈の高も一まば瞬たきの間まにふもとにいたるを※そり﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、193-11﹈にのせて引ひきかへる。或はまた山に九まが曲りくねりあるには、件くだんのごとくに縛くゝしたる薪たきゞの※そり﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、193-12﹈に乗のり、片かた足あしをあそばせて是にて楫かぢをとり、船を走はしらすがごとくして難なん所じよを除よけて数百丈の麓ふもとにくだる、一ツも過あやまつことなし。其その術じゆつ学まなばずして自しぜ然んに得うる処奇々妙々なり。
※そり﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、193-14﹈を引て薪たきゞを伐きることいひあはせて行ゆくときは、二三人の食しよくを草にて編あみたる袋にいれて※そり﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、193-14﹈にくゝしおくことあり。山やま烏からすよくこれをしりてむらがりきたり、袋をやぶりて食しよくを喰くら尽ひつくす。樵きこ夫りはこれをしらず、今日の生かせ業ぎはこれにてたれり、いざや焼やき飯めしにせんとて打より見れば一粒つぶものこさず、烏からすどもは樹きの上うへにありて啼なく。人はむなしく烏を睨にらみて詈のゝしり、空へり肚たるはらをかゝへて※そり哥うた﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、196-2﹈もいでず、※﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、196-2﹈をひきてかへりし事もありしと、その人のかたりき。
そりをひくにはかならずうたうたふ、是を※そり哥うた﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、196-4﹈とてすなはち樵せう哥かなり。唱しや哥うがの節ふしも古こ雅がなるものなり。親おやあるひは夫おつと山に入り※そり﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、196-5﹈を引てかへるに、遠く※そり哥うた﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、196-5﹈をきゝて親おや夫をつとのかへるをしり、※そり﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、196-5﹈に遇あふ処までむかへにいで、親夫をば※﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、196-6﹈に積つみたる薪たきゞに跨またがらせて、妻つまや娘むすめがこれをひきつゝ、これらも又※﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、196-6﹈哥をうたうてかへるなど、質しつ朴ぼくの古こふ風う今目もく前ぜんに存そんせり。是繁はん花くわをしらざる幽いう僻へきの地なるゆゑなり。 春もやゝ景色とゝのふといひし梅も柳も雪にうづもれて、花も緑みどりもあるかなきかにくれゆく。されど二きさ月らぎの空そらはさすがにあをみわたりて、朗のど々かなる窓まどのもとに書ふみ読よむをりしも遙はるかに※そり哥うた﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、196-9﹈の聞きこゆるはいかにも春めきてうれし。是は我のみにあらず、雪国の人の人にん情じやうぞかし。
そりをひくにはかならずうたうたふ、是を※そり哥うた﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、196-4﹈とてすなはち樵せう哥かなり。唱しや哥うがの節ふしも古こ雅がなるものなり。親おやあるひは夫おつと山に入り※そり﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、196-5﹈を引てかへるに、遠く※そり哥うた﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、196-5﹈をきゝて親おや夫をつとのかへるをしり、※そり﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、196-5﹈に遇あふ処までむかへにいで、親夫をば※﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、196-6﹈に積つみたる薪たきゞに跨またがらせて、妻つまや娘むすめがこれをひきつゝ、これらも又※﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、196-6﹈哥をうたうてかへるなど、質しつ朴ぼくの古こふ風う今目もく前ぜんに存そんせり。是繁はん花くわをしらざる幽いう僻へきの地なるゆゑなり。 春もやゝ景色とゝのふといひし梅も柳も雪にうづもれて、花も緑みどりもあるかなきかにくれゆく。されど二きさ月らぎの空そらはさすがにあをみわたりて、朗のど々かなる窓まどのもとに書ふみ読よむをりしも遙はるかに※そり哥うた﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、196-9﹈の聞きこゆるはいかにも春めきてうれし。是は我のみにあらず、雪国の人の人にん情じやうぞかし。
百もゝ樹き曰いはく、我が幼えう年ねんの頃は元日のあしたより扇々と市中をうりありく声こゑ、あるひは白酒々の声も春めきて心も朗のどかなりしが此声今はなし。鳥追の声はさらなり、武家のつゞきて町に遠所には江こはの鮨すし鯛たひのすしとうる声今もあり、春めくもの也。三月は桜草うる声に花をおもひ、五月は鰹かつ々を〳〵に白しろ妙たへの垣根をしたふ。七夕の竹ヤ々々は心涼しく、師しは走すの竹ヤ〳〵は︵すゝはらふ竹うりなり︶聞きくに忙せはし。物皆季に応おうじて声をなし、情に入る事天然の理なり。胡こ笳かの悲かなしみも又然らん。件くだんのは人の声なり、ましてや春の鶯あるひは蛙、夏の蝉、秋の初雁、鹿、虫の音ね、冬の水ちど鵲りをや。本ほん編へん※そり哥うた﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、197-2﹈をきゝ春めきてうれしとは真しん境きや実うじ事つじ文客の至情なり、我是に感かんじてこゝに数すげ言んを置おく。※そり哥うた﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、197-3﹈の春めくこと江戸人にはおもひもよらざる奇情なり、これに似たる事猶諸国にもあるべし。
糞こやしをのする※そ哥り﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、197-4﹈あり、これをのするほどに小ちひさく作りたる物なり。二三月のころも地として雪ならざるはなく、渺びや々う〳〵として田たは圃たも是この下したに在ありて持もち分ぶんの境さかひもさらにわかちがたし。しかるにかの糞こやしのそりを引てこゝに来り、雪のほかに一点てんの目めじ標るしもなきに雪を掘ほること井を掘が如くにして糞こやしを入るに、我田の坪にいたる事一尺をもあやまらず、これ我が農のう奴ぬ等らもする事なり。茫ばう々〳〵﹇#﹁茫々﹂の左に﹁ヒロ〳〵﹂の注記﹈たる雪上何を目めあ的てにしてかくはするぞと問とひしに、目あてとする事はしらず、たゞ心にこゝぞとおもふ所その坪にはづれし事なしといへり。所しわ為ざは賤いやしけれども芸げい術じゆつの極ごく意いもこゝにあるべくぞおもはるゝゆゑに、こゝにしるして初しよ学がくの人芸げいに進すゝむの一は端しを示しめす。
※そり﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、197-11﹈の大なるを里りげ言んに修しゆ羅らといふ事前にもいへり、これに大材木あるひは大石をのせてひくを大だい持もちといふ。ひとゝせ京都本願寺御普請の時、末口五尺あまり長さ十丈あまりの槻けやきをし事ありき。かゝる時は修しゆ羅らを二ツも三ツもかくるなり。材木は雪のふらざる秋伐きりてそのまゝ山中におき、※そり﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、197-14﹈を用ふる時にいたりてひきいだす。かゝる大材をもをもつて雪の堅かたきをしるべし。田圃はたも平一面の雪なればひくべき所へ直すぐ道みちにひきゆくゆゑ甚弁べんなり。修しゆ羅らに大綱つなをつけ左右に枝えだ綱つないくすぢもあり、まつさきに本願寺御用木といふ幟のぼりを二本持もつ、信心の老若男女童わら等べらまでも蟻ありの如くあつまりてこれをひく。木やり音おん頭どと取り五七人花やかなる色いろ木もめ綿んの衣いる類ゐに彩いろ帋がみの麾ざい採とりて材木の上にありて木やりをうたふ。その哥うたの一ツにハアうさぎ〳〵児こう兎さぎハアヽわが耳はなぜながいハアヽ母の胎たい内ないにいた時に笹さゝの葉はをのまれてハアアそれで耳がながい大持がうかんだハアア花の都みやこへめりだした︵いく百人同音に︶いゝとう〳〵そのこゑさまさずやつてくれいゝとう〳〵〳〵。
児こど曹もらが手遊の※そり﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、198-6﹈もあり。氷つら柱ゝの六七尺もあるをそりにのせて大持の学びをなし、木やりをうたひ引あるきて戯れあそぶなど、暖だん国こくにはあるまじく聞きゝもせざる事なるべし。猶※そり﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、198-7﹈に種々の話はなしあれどもさのみはとてもらせり。
○ 春しゆ寒んかんの力ちから
春にいたれば寒気地中より氷い結てあがる。その力礎いしずへをあげて椽えんを反そらし、あるひは踏ふみ石いしをも持あぐる。冬はいかほど寒かんずるともかゝる事なし。さればこそ雪も春は凍こほりて※そり﹇#﹁車+盾﹂、U+8F34、198-11﹈をもつかふなれ。屋根の雪を掘ほりのけてつみ上あげおくを、里りげ言んに掘ほり揚あげといふ。︵前にもいへり︶往ゆき来ゝの路みちにも掘あげありて山をなすゆゑ、春雪のこほるにいたれば、この雪の山に箱はこ梯ばしごのごとく階だんを作つくりて往来のたよりとす。かやうの所いづかたにもあるゆゑに下げ踏たの歯はに釘くぎをならべ打うちて蹉すべ跌らざる為ためとす。唐もろ土こしにては是を※るゐ﹇#﹁木+壘﹂の﹁土﹂に代えて﹁糸﹂、U+6B19、199-1﹈とて山にのぼるにすべらざる履はきものとす、※るゐ﹇#﹁木+壘﹂の﹁土﹂に代えて﹁糸﹂、U+6B19、199-1﹈和わく訓んカンジキとあり。○ シガ
*10 冬春にかぎらず雪の気きも物のにふれて霜しものおきたるやうになる、是を里りげ言んにシガといふ。戸とし障やう子じの隙すきよりも雪の気入りて坐ざし敷きにシガをなす時あり、此シガ朝あさ※ひ﹇#﹁口+敦﹂、U+564B、199-4﹈の温あた気ゝまりをうくる処のは解とけておつる。春の頃野山の樹き木ゞの下枝えは雪にうづもれたるも稍こずゑは雪の消きえたるに、シガのつきたるは玉もて作りたる枝えだのやうにて見事なるものなり。川かは辺べなどはたらく者には髪かみの毛けにもシガのつく事あり、此シガ我が塩しほ沢ざはにはまれなり。おなじ郡こほりの中うち小こい出でし嶋まあたりには多し、大河に近きゆゑ水すゐ気きの霜となるゆゑにやあらん。○ 初しよ夏かの雪
我国の雪里さと地ちは三月のころにいたれば次しだ第い々々に消きえ、朝あさ々は凍こほること鉄石の如くなれども、日ひな中かは上よりも下よりもきゆる。月末にいたれば目にも留とまるほどに昨きの日ふ今け日ふと雪の丈け低くなり、もはや雪も降ふるまじと雪囲かこひもこゝかしこ取のけ、家のほとり庭にはなどの雪をも掘ほりすつるに、雪凍りて堅かたきゆゑ雪を大おほ鋸のこぎりにて︵大鋸○里言に大だい切ぎりといふ︶ひきわりてすつる。その四角なる雪を脊せ負おひあるひは担にな持ひもちにするなど暖だん国こくの雪とは大に異ことなり、雪に枝えだを折れじと杉丸太をそへてしばりからげおきたる庭には樹きなども、解ときほどけばさすがに梅は雪の中に莟つぼみをふくみて春待かほなり、これ春の末なり。此時にいたりて去年十月以この来かた暗くらかりし坐ざし敷きもやう〳〵明あかるくなりて、盲まう人じんの眼めのひらきたる心地せられて、雛はかざれども桃の節供は名のみにて花はまだつぼみなり。四月にいたれば田たは圃たの雪も斑まだらにきえて、去年秋の彼ひが岸んに蒔まきたる野やさ菜いのるゐ雪の下に萌もえいで、梅は盛をすぐし桃桜は夏を春とす。雪に埋りたる泉せん水すゐを掘ほりいだせば、去年初雪より以この来かた二百日あまり黒まつ闇くらの水のなかにありし金きん魚ぎよ緋ひこ鯉ひなんどうれしげに浮うか泳みおよぐも言ものいはゞやれ〳〵うれしやといふべし。五月にいたりても人の手をつけざる日ひか蔭げの雪は依いぜ然んとして山をなせり、況いはんや山さん林りん幽いう谷こくの雪は三伏の暑中にも消ざる所あり。○ 削けづ氷りひ
百樹曰、余丁酉の年の晩夏豚児 京水を従 て北越に遊 し時、三国嶺 を踰 しは六月十五日なりしに、谷の底 に鶯をきゝて、
足 もとに鶯を聞く我もまた谷わたりするこし の山ぶみ
拙せつ作さくなれども実じつ境きやうなれば記しるす。此嶺たふげうちこし四里山やま径みち隆りう崛くつ﹇#﹁隆崛﹂の左に﹁ケハシクマガル﹂の注記﹈して数す武ぶ﹇#﹁数武﹂の左に﹁チトノアヒダ﹂の注記﹈も平へい坦たんの路を践ふまず浅あさ貝かひといふ駅えきに宿やどり猶なほ○二ふた居ゐた嶺ふげ︵二リ半︶を越こえて三みつ俣またといふ山さん駅えきに宿し、芝しば原はら嶺たふげを下り湯ゆさ沢はに抵いたらんとする途みちにて遙はるかに一いち楹えいの茶さて店んを見る。庇ひさしのもとに床ゆかありて浅き箱やうのものに白く方かくなる物を置おきたるは、遠とほ目めにこれ石とこ花ろて菜んを売ならん、口には上のぼらずとおもひながらも、山をはなれて暑もはげしく汗あせもしとゞに足もつかれたれば茶さて店んあるがうれしく、京水とともにはしりいりて腰をかけ、かの白き物を見ればところてんにはあらで雪の氷なりけり。六月に氷をみる事江戸の目には最いと珍めづらしければ立よりて熟よく視みれば、深さ五寸計ばかりの箱に水をいれその中に小ちひさき踏ふみ石いしほどの雪の氷をおきけり。売ちや茶をう翁るおきなに問ば、これは山やま蔭かげの谷にあるなり、めしたまはゞすゝめんといふ。さらばとて乞こひければ翁おきな菜なき刀りはうてうを把とり、のなかへさら〳〵と音おとして削けづりいれ、豆の粉こをかけていだせり。氷に黄きな粉こをかけたるは江戸の目には見も慣なれず可をか笑しければ、京水と相あひ目もくして笑わらひをしのびつゝ、是は価あたひをとらすべし、今ひとさらづゝ豆の粉をかけざるをとて、両りや掛うがけに用よう意いしたる沙さた糖うをかけたる削けづ氷りひに、歯もうくばかり暑をわすれたるは珍めづらしき事いはんかたなし。
そも〳〵このけづり氷ひといふ物を珍ちん味みとする事古こし書よに散さん見けんせしその中に、定家卿の明月記に曰﹃元久二年七月廿八日途みちより和わか哥どこ所ろに参まゐる、家かり隆うあ朝そ臣ん唐から櫃ひつ二ふた合つを取とり寄よせらる、○破わり子ご○瓜うり○土かは器らけ○酒さけ等とうあり、又寒かん氷ひやうあり自みづから刀たうを取とり氷を削けづらる、興きやうに入る事甚し﹄︵本書は漢文也︶件くだんの元久二年乙丑より今天保十一年まで凡六百三十余年を歴へて、古人の如く削けづ氷りひを越後の山さん村そんに賞しや味うみしたる事珍ちんとすべし奇とすべし。実じつに好こう古この肝きもを清きよくす。
○按あんずるにひといふは冰こほりの本ほん訓くん、こほりと訓よむは寒こゞ凝えこるの義なりと士清翁が和わく訓んか栞んにいへり。氷ひむ室ろといふ事、俳諧の季きよ寄せといふものなどにもみえたれば普あまねく人ひとの知りたる事にて、周礼にもいでたれば唐土のむかしにもありしことなり。 御みく国には仁徳紀に見えたればその古きを知るべし。延えん喜ぎし式きに山城国葛かつ城らき郡ごほりに氷ひむ室ろ五ヶ所をいだせり、六月朔日氷室より氷をいだして朝てう庭ていに貢こう献けんするを、諸しよ臣しんにも頒わか賜ちたまふ事年とし毎ごとの例れいなるよしなり。前に引し明月記の寒かん氷ひやうは朝庭よりの古これ例いの賜たまものにはあるべからず、いかんとなれば削けず氷りひを賞味せられしは七月廿八日なり、六月朔日にたまはりたる氷、七月廿八日まで消きえずやあるべき。明月記は千写しや百の書なれば七は六の誤あやまりとしても氷室を出いでし六月の氷朝あしたを待まつべからず。盖けだし貢こう献けんの後氷ひむ室ろも守りが私に出いだすもしるべからず。 ○さて氷ひむ室ろとは厚あつ氷きこほりを山蔭などの極ごく陰いんの地中に蔵おさ置めおき、屋いへを作りかけて守らす、古哥にもよめる氷ひむ室ろも守り是なり。其氷ひむ室ろは水の氷こほりををさめおくやうに諸しよ書しよの注ちゆ釈うしやくにも見えしが、水の氷れるは不ふけ潔つなり、不潔をもつて貢こう献けんにはなすべからず。且水の冰こほりは地中に在ありても消きえ易やすきものなり、是これ他たなし、水は極陰の物なるゆゑ陽に感かんじ易やすきゆゑなり。我越後に削けづ氷りひを視て思おもふに、かの谷たに間あひに在ありといひしは天てん然ねんの氷室なり。むかしの冰室といふは雪の氷こほりむろなるべし。極陰の地に竅あなを作り、屋を造つくり掛かけ、別に清しや浄う〴〵の地に垣かきをめぐらして、人に踏ふませず、鳥てう獣じうにも穢けがさせず、而しかして雪を待まち、雪ふれば此地の雪をかの竅あなに撞つきこめ埋うづめ、人是を守り、六月朔日是を開ひらき、最もつとも清しや浄う〴〵なる所を貢こう献けんせしならん歟か。是己おのれが臆おく断だんを以て理に就ついて古いにしへの氷室を解かいするなり。 ○氷室の古哥枚あげ挙つくすべからず。かの削氷を賞味し玉ひたる定家に︵拾遺愚艸︶﹁夏ながら秋風たちぬ氷室山こゝにぞ冬をのこすとおもへば﹂又源の仲正に︵千載集︶﹁下たさゆる氷室の山のおそ桜きえのこりたる雪かとぞ見る﹂この哥氷室山のおそ桜を消きえ残のこりたる雪に見たてたる一首の意こゝろ、氷室は雪の氷なるべくぞおもはるゝ。今加州侯毎年六月朔日雪を献けんじ玉ふも雪の氷なり。これにても古いにしへの氷室は雪の氷なるをおもふべし。 ○さてかの茶さて店んにて雪の氷をめづらしとおもひしに、その次日より塩しほ沢ざはの牧ぼく之し老人が家に在ありしに、日毎に氷こほ々り〳〵とよびて売来る、山やま家がの老らう婆ばなどなり。掌こぶしほどなるを三銭にうる、はじめは二三度賞味せしがのちには氷ともおもはざりき。およそ物の得えがたきは珍めづらしく、得えや易すきはめづらしからざるは人にん情じやうの恒つねなり。塩沢に居て六月の氷のめづらしからざりしをおもへば、吉野の人はよしのゝ花ともおもはず、松嶋の人は松嶋の月ともおもふまじ。たゞいつまでも飽あかざる物は孝心なる我子の顔かほと、蔵をさ置めおく黄こが金ねの光ひかりなるべし。
○按あんずるにひといふは冰こほりの本ほん訓くん、こほりと訓よむは寒こゞ凝えこるの義なりと士清翁が和わく訓んか栞んにいへり。氷ひむ室ろといふ事、俳諧の季きよ寄せといふものなどにもみえたれば普あまねく人ひとの知りたる事にて、周礼にもいでたれば唐土のむかしにもありしことなり。 御みく国には仁徳紀に見えたればその古きを知るべし。延えん喜ぎし式きに山城国葛かつ城らき郡ごほりに氷ひむ室ろ五ヶ所をいだせり、六月朔日氷室より氷をいだして朝てう庭ていに貢こう献けんするを、諸しよ臣しんにも頒わか賜ちたまふ事年とし毎ごとの例れいなるよしなり。前に引し明月記の寒かん氷ひやうは朝庭よりの古これ例いの賜たまものにはあるべからず、いかんとなれば削けず氷りひを賞味せられしは七月廿八日なり、六月朔日にたまはりたる氷、七月廿八日まで消きえずやあるべき。明月記は千写しや百の書なれば七は六の誤あやまりとしても氷室を出いでし六月の氷朝あしたを待まつべからず。盖けだし貢こう献けんの後氷ひむ室ろも守りが私に出いだすもしるべからず。 ○さて氷ひむ室ろとは厚あつ氷きこほりを山蔭などの極ごく陰いんの地中に蔵おさ置めおき、屋いへを作りかけて守らす、古哥にもよめる氷ひむ室ろも守り是なり。其氷ひむ室ろは水の氷こほりををさめおくやうに諸しよ書しよの注ちゆ釈うしやくにも見えしが、水の氷れるは不ふけ潔つなり、不潔をもつて貢こう献けんにはなすべからず。且水の冰こほりは地中に在ありても消きえ易やすきものなり、是これ他たなし、水は極陰の物なるゆゑ陽に感かんじ易やすきゆゑなり。我越後に削けづ氷りひを視て思おもふに、かの谷たに間あひに在ありといひしは天てん然ねんの氷室なり。むかしの冰室といふは雪の氷こほりむろなるべし。極陰の地に竅あなを作り、屋を造つくり掛かけ、別に清しや浄う〴〵の地に垣かきをめぐらして、人に踏ふませず、鳥てう獣じうにも穢けがさせず、而しかして雪を待まち、雪ふれば此地の雪をかの竅あなに撞つきこめ埋うづめ、人是を守り、六月朔日是を開ひらき、最もつとも清しや浄う〴〵なる所を貢こう献けんせしならん歟か。是己おのれが臆おく断だんを以て理に就ついて古いにしへの氷室を解かいするなり。 ○氷室の古哥枚あげ挙つくすべからず。かの削氷を賞味し玉ひたる定家に︵拾遺愚艸︶﹁夏ながら秋風たちぬ氷室山こゝにぞ冬をのこすとおもへば﹂又源の仲正に︵千載集︶﹁下たさゆる氷室の山のおそ桜きえのこりたる雪かとぞ見る﹂この哥氷室山のおそ桜を消きえ残のこりたる雪に見たてたる一首の意こゝろ、氷室は雪の氷なるべくぞおもはるゝ。今加州侯毎年六月朔日雪を献けんじ玉ふも雪の氷なり。これにても古いにしへの氷室は雪の氷なるをおもふべし。 ○さてかの茶さて店んにて雪の氷をめづらしとおもひしに、その次日より塩しほ沢ざはの牧ぼく之し老人が家に在ありしに、日毎に氷こほ々り〳〵とよびて売来る、山やま家がの老らう婆ばなどなり。掌こぶしほどなるを三銭にうる、はじめは二三度賞味せしがのちには氷ともおもはざりき。およそ物の得えがたきは珍めづらしく、得えや易すきはめづらしからざるは人にん情じやうの恒つねなり。塩沢に居て六月の氷のめづらしからざりしをおもへば、吉野の人はよしのゝ花ともおもはず、松嶋の人は松嶋の月ともおもふまじ。たゞいつまでも飽あかざる物は孝心なる我子の顔かほと、蔵をさ置めおく黄こが金ねの光ひかりなるべし。
○ 雪の多たせ少う
越後国南は上州に隣となる魚うを沼ぬま郡ごほりなり。東は奥州羽州へ隣となる蒲かん原ばら郡ごほり岩いは船ふね郡なり。国くに堺さかひはいづれも連れん山ざん波はた濤うをなすゆゑ雪多し。東北は鼠ねずみが関︵岩船郡の内出羽のさかひ︶西にしは市いち振ふり︵頸城郡の内越中の堺︶に至いたるの道八十里が間都すべて北の海かい浜ひんなり。海気によりて雪一丈にいたらず︵年によりて多少あり︶又消きゆるも早し。頸くび城き郡の高田は海を去さる事遠からざれども雪深し。文化のはじめ大雪の時高田の市中︵町のながさ一リにあまる︶雪に埋うづまりて闇あん夜やのごとく、昼ちう夜やをわかたざる事十余日、市中燈ともしびの油尽つきて諸人難義せしに、御領りや主うしゆより家毎に油を賜たまひし事ありき。此時我塩沢も大雪にて、夜昼をしらず家雪にうづまりて日光を見ざる事十四五日︵連日ふゞきなるゆゑ雪をほる事ならず家うづまりてくらきなり︶人気欝うつ悶もんして病をなすにいたれるもありけり。 百樹曰、余牧之老人が此書の稿かう本ほんに就つきて増ぞう修しうの説せつを添そへ、上じや梓うし﹇#﹁上梓﹂の左に﹁ホンニスル﹂の注記﹈の為ために傭よう書しよ﹇#﹁傭書﹂の左に﹁ハンシタカキ﹂の注記﹈へ授さづくる一本を作るをりしも、老人が寄よせたる書中に、 ﹁当年は雪遅おそく冬至に成候ても駅えき中ちゆうの雪一尺にたらず、此日ひな次みにては今年は小雪ならんと諸人一統悦び居候所に廿四日︵十一月なり︶黄たそ昏がれより降ふりいだし、廿五六七八九日まで五日の間昼ちう夜やにつもる事およそ一丈四五尺にもおよび申候。毎年の事ながら不意の大雪にて廿七日より廿九日まで駅えき中ちう家毎の雪掘ぼりにて混こん雑ざついたし、簷えん外ぐわい急たちまち玉山を築きづき戸外へもいでがたく悃こまり申候。今日も又大雪ふゞ吹きに相成、家内暗くらく蝋らふ燭そくにて此状をしたゝめ申候。何程可ふる降べく哉や難はか計りがたく一同心痛いたし居申候﹂︵下略︶是当年︵天保十亥とし︶十一月廿九日出の尺てが翰みなり。此文をもつても越後の雪を知るべし。 ○余越後の夏に遇あひしに、五穀こく蔬そく果わの生そだ育ち少しも雪を畏おそれたる色なし。山さん景けい野やし色よくも雪ありしとはおもはれず、雪の浅き他国に同じ。五ござ雑つ組そに︵天部︶百草雪を畏おそれずして霜を畏る。盖けだし雪は雲に生しやうじて陽やう位ゐ也、霜は露つゆに生じて陰いん位ゐ也といへり。越後の夏を視みて謝しや肇でうが此説せつに伏ふくせり。○ 浦うら佐さの堂だう押おし
我住塩沢より下しも越後の方へ二宿越こえて︵六日町五日町︶浦うら佐さといふ宿あり。こゝに普ふく光わう寺じといふ︵真言宗︶あり、寺中に七間四面の毘びし沙やも門んだ堂うあり。伝つたへていふ、此堂大同二年の造ざう営えいなりとぞ。修しゆ復ふくの度たび毎ごとに棟むね札ふだあり、今猶歴れき然ぜんと存そんす。毘沙門の御みた丈け三尺五六寸、往わう古ご椿つば沢きざはといふ村に椿の大たい樹じゆありしを伐て尊そん像ざうを作りしとぞ。作さく名めいは伝つたはらずときゝぬ。像ざう材ざい椿なるをもつて此地椿を薪たきゞとすればかならず祟たゝりあり、ゆゑに椿を植うゑず。又尊そん鳥を捕とるを忌いみ玉ふ、ゆゑに諸鳥寺内に群ぐんをなして人を怖おそれず、此地の人鳥を捕かあるひは喰くらへば立たち所どころに神しん罰ばつあり。たとひ遠ゑん郷きやうへ聟むこ娵よめにゆきて年を歴へても鳥を喰しよくすれば必凶あし応きことあり、験れいげんの煕あき々らかたる事此一を以て知るべし。されば遠ゑん郷きやう近きん邑いう信しん仰かうの人多し。むかしより此毘沙門堂に於て毎年正月三日の夜に限かぎりて堂だう押おしといふ事あり、敢あへて祭さい式しきの礼れい格かくとするにはあらねど、むかしより有あり来きたりたる神じん事じなり。正月三日はもとより雪道なれども十里廿里より来りて此浦うら佐に一宿し、此堂だう押おしに遇あふ人もあれば近きん村そんはいふもさらなり。*11
○さて押おしに来きたりし男女まづ普ふく光わう寺じに入りて衣いふ服くを脱ぬぎ了すて、身に持たる物もみだりに置おき棄すて、婦ふじ人んは浴ゆか衣たに細ほそ帯おびまれにははだかもあり、男は皆裸はだかなり。燈とも火しびを点てんずるころ、かの七間四面の堂にゆかた裸はだかの男女推おし入りて、錐きりをたつるの地なし。余よも若かりしころ一度此堂押にあひしが、上へあげたる手を下へさぐる事もならざるほどに逼せまり立たちけり。押おすといふは誰たれともなくサンヨウ〳〵と大だい音おんに呼よばはる声こゑの下に、堂内に充みち満〳〵たる老若男女ヲヽサイコウサイとよばはりて北より南へどろ〳〵と押、又よばはりて西より東へおしもどす。此一おしにて男女倶ともに元もと結ゆひおのづからきれて髪かみを乱みだす甚奇きなり。七間四面の堂の内に裸はだかなる人こみいりてあげたる手もおろす事ならぬほどなれば、人の多さはかりしるべし。此諸人の気い息き正月三日の寒気ゆゑ烟けふりのごとく霧きりのごとく照てらせる神じん燈とうもこれが為ために暗くらく、人の気い息き屋根うらに露つゆとなり雨のごとくに降ふり、人気破は風ふよりもれて雲の立のぼるが如し。婦人稀まれには小児を背せな中かにむすびつけて押おすも有あれども、この小児啼なくことなきも常とするの不ふ思し議ぎなり。況いはんや此堂押にいさゝかも怪け瑕がをうけたる者むかしより一人もなし。婦人のなかには湯ゆ具ぐばかりなるもあれど、闇くら処きところに噪わや雑くやして一人もみだりがましき事をせず、これおの〳〵毘びし沙やも門んで天んの神しん罰ばつを怖おそるるゆゑなり。裸はだかなる所ゆゑ以んは人じん気きにて堂内の熱ねつすること燃もゆるがごとくなるゆゑ也。願ぐわ望んまうによりては一里二里の所より正月三日の雪中寒気肌はだへを射いるがごときをも厭いとはず、柱はしらのごとき氷つら柱ゝを裸はだ身かみに脊せお負ひて堂押にきたるもあり。二タおし三おしにいたればいかなる人も熱あつきこと暑中のごときゆゑ、堂のほとりにある大なる石の盥てう盤づばちに入りて水を浴あび又押に入るもあり。一ト押おしては息いきをやすむ、七押七踊をどりにて止やむを定さだめとす。踊をどりといふも桶をけの中うちに芋いもを洗あらふがごとし。ゆゑに人みな満みう身ちに汗あせをながす。第七をどり目にいたりて普ふく光わう寺じの山やま長をとこ︵耕さく夫をとこの長をいふ︶手に簓さゝらを持もち、人の手てぐ輦るまに乗のりて人のなかへおし入り大だい音おんにいふ。﹁毘沙門さまの御おん前まへに黒くろ雲くもが降さがつた︵モウ︶﹂ ︵衆おほ人ぜい︶﹁なんだとてさがつた︵モウ︶﹂︵山男︶﹁米よねがふるとてさがつた︵モウ︶﹂とさゝらをすりならす。此さゝら内へ摺すれば凶きよ作うさくなりとて外そとへ〳〵とすりならす。又志しぐ願わんの者兼かねて普ふく光わう寺じへ達しおきて、小桶に神み酒きを入れ盃さかづきを添そへて献けんず。山男挑てう燈ちんをもたせ人をおしわくる者廿人ばかりさきにすゝみて堂に入る。此盃手に入れば幸さいはひありとて人の濤なみをなして取んとす。神み酒きは神に供くうずる状かたちして人に散ちらし、盃は人の中へ擲なぐる、これを得えたる人は宮を造つくりて祭まつる、其家かならずおもはざるの幸福あり。此てうちんをも争あらそひ奪うばふにかならず破やぶる、その骨ほね一本たりとも田の水みな口くちへさしおけば、この水のかゝる田は熟みの実りよく虫のつく事なし。神しんのあらたかなる事あまねく人の知る所なり。神じん事じをはれば人々離りさ散んして普光寺に入り、初はじめ棄すて置おきたる衣いる類ゐ懐くわ中いちゆう物を視みるに鼻はな帋がみ一枚だに失うする事なし、掠かすむれば即そく座ざに神しん罰ばつあるゆゑなり。 ○さて堂内人散さんじて後、かの山やま長をとこ堂内に苧をが幹らをちらしおく例れいなり。翌よく朝てう山長おとこ神み酒き供くも物つを備そなふ、後うしろさまに進すゝみて捧さゝぐ、正面にすゝむを神の忌いみ給ふと也。昨さく夜やちらしおきたる苧をが幹ら寸ずた断〳〵に折をれてあり、是これ人ひと散さんじてのち諸しよ神じんこゝに集あつまりて踊をどり玉ふゆゑ、をがらを踏ふみをり玉ふなりといひつたふ。神かみ事ごとはすべて児じ戯ぎに似にたること多し、しかれども凡ぼん慮りよを以て量はか識りしるべからず。此堂押に類るゐせし事他国にもあるべし、姑しばらく記しるして類るゐを示しめす。 北越雪譜二編巻之一 終 ﹇#改丁﹈
○さて押おしに来きたりし男女まづ普ふく光わう寺じに入りて衣いふ服くを脱ぬぎ了すて、身に持たる物もみだりに置おき棄すて、婦ふじ人んは浴ゆか衣たに細ほそ帯おびまれにははだかもあり、男は皆裸はだかなり。燈とも火しびを点てんずるころ、かの七間四面の堂にゆかた裸はだかの男女推おし入りて、錐きりをたつるの地なし。余よも若かりしころ一度此堂押にあひしが、上へあげたる手を下へさぐる事もならざるほどに逼せまり立たちけり。押おすといふは誰たれともなくサンヨウ〳〵と大だい音おんに呼よばはる声こゑの下に、堂内に充みち満〳〵たる老若男女ヲヽサイコウサイとよばはりて北より南へどろ〳〵と押、又よばはりて西より東へおしもどす。此一おしにて男女倶ともに元もと結ゆひおのづからきれて髪かみを乱みだす甚奇きなり。七間四面の堂の内に裸はだかなる人こみいりてあげたる手もおろす事ならぬほどなれば、人の多さはかりしるべし。此諸人の気い息き正月三日の寒気ゆゑ烟けふりのごとく霧きりのごとく照てらせる神じん燈とうもこれが為ために暗くらく、人の気い息き屋根うらに露つゆとなり雨のごとくに降ふり、人気破は風ふよりもれて雲の立のぼるが如し。婦人稀まれには小児を背せな中かにむすびつけて押おすも有あれども、この小児啼なくことなきも常とするの不ふ思し議ぎなり。況いはんや此堂押にいさゝかも怪け瑕がをうけたる者むかしより一人もなし。婦人のなかには湯ゆ具ぐばかりなるもあれど、闇くら処きところに噪わや雑くやして一人もみだりがましき事をせず、これおの〳〵毘びし沙やも門んで天んの神しん罰ばつを怖おそるるゆゑなり。裸はだかなる所ゆゑ以んは人じん気きにて堂内の熱ねつすること燃もゆるがごとくなるゆゑ也。願ぐわ望んまうによりては一里二里の所より正月三日の雪中寒気肌はだへを射いるがごときをも厭いとはず、柱はしらのごとき氷つら柱ゝを裸はだ身かみに脊せお負ひて堂押にきたるもあり。二タおし三おしにいたればいかなる人も熱あつきこと暑中のごときゆゑ、堂のほとりにある大なる石の盥てう盤づばちに入りて水を浴あび又押に入るもあり。一ト押おしては息いきをやすむ、七押七踊をどりにて止やむを定さだめとす。踊をどりといふも桶をけの中うちに芋いもを洗あらふがごとし。ゆゑに人みな満みう身ちに汗あせをながす。第七をどり目にいたりて普ふく光わう寺じの山やま長をとこ︵耕さく夫をとこの長をいふ︶手に簓さゝらを持もち、人の手てぐ輦るまに乗のりて人のなかへおし入り大だい音おんにいふ。﹁毘沙門さまの御おん前まへに黒くろ雲くもが降さがつた︵モウ︶﹂ ︵衆おほ人ぜい︶﹁なんだとてさがつた︵モウ︶﹂︵山男︶﹁米よねがふるとてさがつた︵モウ︶﹂とさゝらをすりならす。此さゝら内へ摺すれば凶きよ作うさくなりとて外そとへ〳〵とすりならす。又志しぐ願わんの者兼かねて普ふく光わう寺じへ達しおきて、小桶に神み酒きを入れ盃さかづきを添そへて献けんず。山男挑てう燈ちんをもたせ人をおしわくる者廿人ばかりさきにすゝみて堂に入る。此盃手に入れば幸さいはひありとて人の濤なみをなして取んとす。神み酒きは神に供くうずる状かたちして人に散ちらし、盃は人の中へ擲なぐる、これを得えたる人は宮を造つくりて祭まつる、其家かならずおもはざるの幸福あり。此てうちんをも争あらそひ奪うばふにかならず破やぶる、その骨ほね一本たりとも田の水みな口くちへさしおけば、この水のかゝる田は熟みの実りよく虫のつく事なし。神しんのあらたかなる事あまねく人の知る所なり。神じん事じをはれば人々離りさ散んして普光寺に入り、初はじめ棄すて置おきたる衣いる類ゐ懐くわ中いちゆう物を視みるに鼻はな帋がみ一枚だに失うする事なし、掠かすむれば即そく座ざに神しん罰ばつあるゆゑなり。 ○さて堂内人散さんじて後、かの山やま長をとこ堂内に苧をが幹らをちらしおく例れいなり。翌よく朝てう山長おとこ神み酒き供くも物つを備そなふ、後うしろさまに進すゝみて捧さゝぐ、正面にすゝむを神の忌いみ給ふと也。昨さく夜やちらしおきたる苧をが幹ら寸ずた断〳〵に折をれてあり、是これ人ひと散さんじてのち諸しよ神じんこゝに集あつまりて踊をどり玉ふゆゑ、をがらを踏ふみをり玉ふなりといひつたふ。神かみ事ごとはすべて児じ戯ぎに似にたること多し、しかれども凡ぼん慮りよを以て量はか識りしるべからず。此堂押に類るゐせし事他国にもあるべし、姑しばらく記しるして類るゐを示しめす。 北越雪譜二編巻之一 終 ﹇#改丁﹈
北越雪譜二編 巻二
北越 鈴木牧之 編選
江戸 京山人百樹 増修
さて元禄の頃ころ高田の御城下に細ほそ井ゐし昌やう庵あんといひし医師ありけり。一に青庵といひ、俳はい諧かいを善よくして号がうを凍とう雲うんといへり。ひとゝせはせを翁奥羽あんぎやのかへり凍とう雲うんをたづねて﹁薬やく欄らんにいづれの花を草くさ枕まくら﹂と発ほつ句くしければ、凍とう雲うんとりあへず﹁萩はぎのすだれを巻まきあぐる月﹂此時のはせをが肉にく筆ひつ二枚ありて一枚は書しよ損そんと覚しく淡うす墨ゞみをもつて一ひと抹ふでの痕あとあり、二枚ともに昌しや庵うあ主んぬしの家につたへしを、后のちに本書しよは同所の親しん族ぞく三崎屋吉兵衛の家につたへ、書しよ損そんのは同所五智如来の寺にのこれり。しかるに文政のころ此地の 邦はう君くん風ふう雅がをこのみ玉ひしゆゑ、かの二枚持もち主ぬしより奉りければ、吉兵ヱヘ常つね信のぶの三幅対に白銀五枚、かの寺へもあつき賜ありて、今二枚ともに 御ござ蔵うとなりぬと友人葵きて亭い翁がものがたりしつ。葵亭翁は蒲かん原ばら郡ごほり加茂明神の修しゆ験げん宮本院名は義よし方かた吐とさ醋くと号がうし、又無むは方うさ斎いと別べつ号がうす、隠いん居きよして葵きて亭いといふ。和わか漢んの博はく識しき北越の聞なた人かきひとなり。芭蕉が件くだんの句ものに見えざればしるせり。 百もゝ樹き曰、芭蕉居こ士じは寛永廿年伊賀の上野藤堂新七郎殿の藩はんに生る。︵次男なり︶寛文六年歳廿四にして仕しは絆んを辞じし、京にいでゝ季きぎ吟ん翁の門に入り、書しよを北きた向むき雲うん竹ちくに学まなぶ。はじめ宗むね房ふさといへり、季吟翁の句くし集ふのものにも宗房とあり。延えん宝はうのすゑはじめて江戸に来り杉さん風ふうが家に寄よる、︵小田原町鯉屋藤左ヱ門︶剃てい髪はつして素そせ宣んといへり、桃たう青せいは后のちの名なり。芭はせ蕉をとは草さう庵あんに芭蕉を植うゑしゆゑ人よりよびたる名の后のちには自みづから号がうによべり。翁の作に芭蕉を移うつ辞すことばといふ文あり、その終をはりの辞ことばに﹁たま〳〵花さくも花やかならず茎くき太ふとけれども斧をのにあたらず、かの山中不ふさ材いの類るゐ木ぼくにたぐへてその性よし。僧そう懐くわ素いそは是に筆を走はしらし張ちや横うく渠わうきよは新しん葉えふを見て修しゆ学がくの力ちからとせしとなり。予よその二ツをとらず。たゞ此蔭かげに遊びて風雨に破やぶれ易やすきを愛あいす﹁はせを野のわ分きして盥たらひに雨をきく夜哉﹂此芭蕉庵の旧きう蹟せきは深ふか川清きよ澄すみ町ちやう万年橋の南詰づめに対むかひたる今或ある侯こうの庭てい中ちゆうに在り、古池の趾あと今に存せりとぞ。︵余芭蕉年表一名はせを年代記といふものを作せり、書しよ肆し刻こくを乞ども考証未レ足ゆゑに刻をゆるさず︶翁おきな身を世せい外ぐわいに置おきて四方に雲うん水すゐし、江戸に趾あとをとゞめず。終つひには元禄七年甲戊十月十二日﹁旅たびに病やみて夢ゆめは枯かれ埜のをかけ廻めぐる﹂の一句をのこして浪花の花屋が旅りよ※さう﹇#﹁窗−穴かんむり﹂、U+56F1、223-9﹈に客かく死しせり。是挙きよ世せい﹇#﹁挙世﹂の左に﹁ヨノナカ﹂の注記﹈の知る処なり。翁が臨りん終じゆうの事は江州粟津の義仲寺にのこしたる榎本其角が芭蕉終しゆ焉うえ記んきに目前視るが如くに記しるせり。此記を視みるに翁いさゝか菌きん毒どく﹇#﹁菌﹂の左に﹁キノコ﹂の注記﹈にあたりて痢りとなり、九月晦日より病に臥ふし、僅わづかに十二日にして下かせ泉んせり。此時病びや床うじやうの下もとにありし門人○木もく節せつ︵翁に薬をあたへたる医なり︶○去きよ来らい○惟ゐね然ん○正せい秀しう○之しだ道う○支しか考う○呑どん舟しう○丈ぢや草うさう○乙おつ州しう○伽かか香う以上十人なり。其角は此時和泉の淡あはの輪わといふ所にありしが、翁大坂にときゝて病ともしらずして十日に来り十二日の臨りん終じゆうに遇あへり、奇きぐ遇うといふべし。︵以上終焉記を摘要す︶其角が終焉記の文中に︵此記義仲寺に施板ありて人の乞ふにあたふ、俳人はかならずみるべき書なり︶﹃義仲寺にうつして葬礼義信を尽つくし京大坂大津膳ぜ所ゞの連れん衆じゆう被ひく官わん従ず者さまでも此翁の情なさけを慕したへるにこそ招まねかざるに馳はせ来きたる者三百余人なり。浄じや衣うえその外智月と︵百樹云、大津の米屋の母、翁の門人︶乙州が妻縫ぬひたてゝ着せまゐらす﹄又曰﹃二千余よ人の門もん葉えふ辺へん遠ゑんひとつに合かつ信しんする因ちなみと縁えんとの不ふ可か思し議ぎいかにとも勘かん破はしがたし﹄百樹おもへらく、孔子に三千の門人ありて門に十哲てつをいだす。芭蕉に二千の門葉ありて、庵あんに十哲とよぶ門人あり。至しぜ善んの大たい道だうと遊いう芸げいの小せう技ぎと尊そん卑ひの雲うん泥でいは論におよばざれども、孔子七十にして魯ろこ国くの城しろ北のきた泗上に葬はうふりて心こゝ喪ろのもを服ふくする弟で子し三千人、芭蕉五十二にして粟津の義仲寺に葬はうむる時招まねかざるに来る者三百余人、是こゝ以をもつて人に師たるの徳ありしをおもふべし。盖けだし芭蕉の盆ぼん石せきが孔夫子の泰たい山さんに似たるをいふなり。芭蕉曾かつて﹇#﹁﹂の左に﹁ウルコヽロ﹂の注記﹈の風ふう軽けい薄はくの習しふ少しもなかりしは吟ぎん咏えい文ぶん章しやうにてもしらる。此翁は其角がいひしごとく人の推すゐ慕ぼする事今に於も不ふ可か思し議ぎの奇きじ人んなり。されば一句く一章しやうといへども人これを句く碑ひに作りて不ふき朽うに伝つたふる事今猶なほ句く碑ひのあらざる国なし。吟ぎん海かいの幸かう祥しやう詞しり林んの福ふく禎てい文ぶん藻さうに於て此人の右に出る者なし。されば本文にもいへるごとくかりそめにいひすてたる薬やく欄らんの一句の墨ぼく痕こんも百四十余年の后のちにいたりて文政の頃白銀の光りをはなつぞかし、論ろん外ぐわ不いふ思し議ぎといふべし。蜀山先生嘗かつて謂よに予いつて曰いはく、凡およそ文ぶん墨ぼくをもつて世に遊ぶ者もの画は論せず、死し後ごにいたり一字一百銭に当あてらるゝ身とならば文ぶん雅がの幸福足たるべしといはれき。此先生は今其幸福あり、一字一百銭に当あてらるゝ事嗟あ乎ゝ難かたいかな。 ○さてまた芭蕉が行ぎや状うぢ小やう伝せうでんは諸しよ書しよに散さん見けんして普あまねく人の知る所なり、しかれども翁おきなの容かほは挙きよ世せい知る人あるべからず。されば爰こゝに一証を得えたるゆゑ、此雪せつ譜ふに記きさ載いして后こう来らいに示しめすは、かゝる瑣さだ談ん﹇#﹁瑣談﹂の左に﹁チヒサイハナシ﹂の注記﹈も世に埋まい冤ゑん﹇#﹁埋冤﹂の左に﹁ウヅマル﹂の注記﹈せん事のをしければ、いざ然さらばとて雪に転ころばす筆の老らう婆ばし心んなり。 ○こゝに二代目市川団十郎初代段だん十郎︵のち団に改む︶の俳はい号がうを嗣ついで才牛といふ。后のちに柏はく筵えんとあらたむ。︵元文元年なり︶此柏はく筵えんは、○正徳○享保○元文○寛保を盛さかんに歴へたる名人なり。妻つまをおさいといひ、俳名を翠すゐ仙せんといふ、夫婦ともに俳諧を能よくし文ぶん雅がを好このめり。此柏はく筵えんが日記のやうに書かき残のこしたる老おいの楽たのしみといふ随ずゐ筆ひつあり。︵二百四五十帋の自筆なり︶嘗かつて梱こん外ぐわい﹇#﹁梱﹂の左に﹁シキヰ﹂の注記﹈へ出いださゞりしを、狂哥堂真顔翁珎ちん書しよなれば懇こん望まうしてかの家より借りたる時余よも亡ばう兄けいとともに読よみしことありき。そのなかに芝居土用やすみのうち柏はく筵えん一蝶が引船の絵の小屏風を風入れする旁かたはらにて、人にん参じんをきざみながら此絵にむかしをおもひいだして独ひと言りごといひたるを記しるしたる文に﹁我れ幼えう年ねんの頃ころはじめて吉原を見たる時、黒羽二重に三升の紋つけたるふり袖を着きて、右の手を一蝶にひかれ左りを其角にひかれて日本堤づゝみを往ゆきし事今に忘わすれず。此ふたりは世に名をひゞかせたれど今はなき人なり。我は幸に世にありて名もまた頗すこぶる聞きこえたり︵中略︶今日小川破はり笠つら老うまゐらる。むかしのはなしせられたるなかに、芭蕉翁はほそおもてうすいもにていろ白く小兵なり。常つねに茶のつむぎの羽織をきられ、嵐らん雪せつよ、其角が所へいてくるぞよとものしづかにいはれしとかたられたり﹂此文はせをを今目前に見るが如し。︵翁の門人惟然が作といふ翁の肖像あるひは画幅の肖像、世に流伝するものと此説とあはせ視るべし︶小川破笠俗称平助壮さう年ねんの頃ころ放はう蕩たうにて嵐雪と倶ともに︵俗称服部彦兵ヱ︶其角が堀江町の居きよに食しよ客くかくたりし事、件くだんの老おいの楽たのしみ又破笠が自じ記きにも見ゆ。破笠一に笠翁また卯ばう観くわん子、夢むち中ゆう庵あん等の号あり。絵ゑを一蝶に学まなび、俳諧は其角を師とす。余が蔵する画幅に延享三年丙寅仲春夢中庵笠翁八十有四筆ふでとあり。描まき金ゑを善よくして人の粕かすをなめず、別に一いつ趣しゆの奇きこ工うを為なす。破はり笠つ細工とて今に賞しやうせらる。吉原の七月創はじめて機から燈くりとうろを作りて今に其余よ波はを残のこせり、伝でん詳つまびらかなれどもさのみはとてもらせり。
○余よ先年俗にいふ大やま和とめぐりしたるをり、半月あまり京にあそび、旧きう友いうの画家春しゆ琴んき子んしに就ついて諸しよ名めい家かをたづねし時、鴻かう儒じゆの聞きこえ高き頼らい先生︵名襄、字子成、山陽と号、通称頼徳太郎︶へも訪とむらひ、坐ざだ談ん化石の事におよび、先生余よに蟹かにの化石一枚を恵めぐむ。その色枯かれずして生いけるが如く、堅かた硬きことは石なり。潜せん確かく類るゐ書しよ又本ほん草ざう三才図づ会ゑ等にいへる石いし蟹かに泥でい沙しやと倶ともに化して石になりたるなるべし。盆ぼん養やうする石せき菖しやうの下もとにおくに水中に動うごくが如し。亀の徒おと者もに其その図づを出いだす、是も今は名家の形かた見みとなりぬ。
百もゝ樹き曰いはく、余よ京水をしたがへて越後に遊びし時、此小を千ぢ谷やの人岩いは淵ぶち氏︵牧之老人の親族なり︶の家にをとゞめたる事十四日、︵八月なり︶あるじの嗣むす子こ廿四五許ばかり、号がうを岩がん居きよといふ、書しよをよくす。余よに遇ぐうせしこと甚はなはだ篤あつし。小を千ぢ谷やは北ほく越ゑつの一いつ市しく会わい、商しや家うか鱗りん次じとして百物備そなはらざることなし。海うみを去さる事僅わづかに七里ゆゑに魚ぎよ類るゐに乏とぼしからず。余よ塩しほ沢ざはにありしは四十余日、其地海に遠くして夏は海魚に乏とぼしく、江戸者の口に魚ぎよ肉にくの上のぼらざりし事四十余日、小を千ぢ谷やにいたりてはじめて生なま鯛たひを喰しよくせしに美び味みなりし事いふべからず。又の時じせ節つにて、小を千ぢ谷やの前ぜん川せんは海に朝てうするの大河なれば今捕とりしをすぐに庖はう丁ちやうす。味あぢはひ江戸にまされり。一日をてんぷらといふ物にしていだせり。余よ岩がん居きよにむかひ、これは此地にては名を何なにとよぶぞと問とひしに、岩居これはテンプラといふなり、我としごろ此物の名めい義ぎ暁さとしがたく、古こら老うにたづねたれどもしる人さらになし、先生の説せつをきかんといふ。余よ答こたへてまづ食しよく終をはりてテンプラの来らい由ゆを語かたるべしといひつゝのてんぷらを飽あくまでに喰しよくせり。
○こゝに我わが郡ぐん中ちゆうの山さん村そんに︵不ふし祥やうのことなれば地名人名をはぶく︶まづしき農のう夫ふありけり、老母と妻と十三の女子七ツの男子あり。此農夫性せい質しつ篤とく実じつにしてよく母につかふ。ひとゝせ二月のはじめ、用ありて二里ばかりの所へいたらんとす、みな山やま道みちなり。母いはく、山なかなれば用心なり、筒つゝをもてといふ、実げにもとて鉄てつ炮はうをもちゆきけり。これは農のう業げふのかたはら猟れふをもなすゆゑに国こく許きよの筒つゝなり。かくてはからず時をうつし日も暮くれかゝる皈かへりみち、やがて吾が村へ入らんとする雪の山蔭かげに狼おほかみ物を喰くらふを見つけ、矢やご頃ろにねらひより火ひぶ蓋たをきりしにあやまたずうちおとしぬ。ちかよりみればくらひゐたるは人の足あしなり。農夫大におどろき、さては村ちかくきつるならんと我わが家やをきづかひ狼おほかみはそのまゝにしてはせかへりしに、家のまへの雪の白きに血ちのくれなゐをそめけり。みるよります〳〵おどろきはせいりければ狼二疋逃にげさりけり、あたりをみれば母はゐろりのまへにこゝかしこくひちらされ、片かた足あしはくひとられてしゝゐたり。妻つまは※まど﹇#﹁窗−穴かんむり﹂、U+56F1、252-14﹈のもとに喰くひ伏ふせられあけにそみ、そのかたはらにはちゞみの糸などふみちらしたるさまなり。七ツの男の子は庭にはにありてかばね半なかば喰くはれたり。妻つまはすこしいきありて夫をつとをみるよりおきあがらんとしてちからおよばず、狼おほかみがといひしばかりにてたふれしゝけり。農のう夫ふはゆめともうつゝともわきまへず鉄てつ炮はうもちて立あがりしが、さるにても娘むすめはとてなきごゑによびければ、床ゆかの下よりはひいで親にすがりつきこゑをあげてなく、おやもむすめをいだきてなきけり。山さん家かは住ぢゆ居うきよもこゝかしこはなれあるものゆゑ、これらの事をしるものもなかりけり。農のう夫ふは時の間まに六十の母、三十の妻、七ツの子を狼の牙きばにころされ、歯はがみをなして口をしがり、親子ふたり、くりこといひつゝ声をあげてなきゐたり。村のものやう〳〵にきゝつけきたり此体ていをみておどろきさけびければ、おひ〳〵あつまりきたり娘にやうすをたづねければ、※まど﹇#﹁窗−穴かんむり﹂、U+56F1、253-8﹈をやぶりて狼三疋はせいりしが、わしは竈かまどに火をたきてゐたりしゆゑすぐに床ゆかの下へにげ入り、ばゞさまと母さまとお弟とがなくこゑをきゝて念ねん仏ぶつ申てゐたりといふ。かくて此ありさまをいふべき所へつげしらせ、次の日の夕ぐれ棺くわん一ツに妻つまと童わらべををさめ、母の棺くわんと二ツ野の辺べおくりをなしけるに涙なみだそゝがざるものはなかりけるとぞ。おもふにはゝが筒つゝをもてといひしゆゑ、母の片かた足あしを雪の山蔭かげにくらひゐたる狼おほかみをうちおとして母の敵かたきはとりたれど、二疋をもらししはいかに口くち惜をしかりけん。これよりのち此農のう夫ふ家を棄すて、娘むすめをつれて順じゆ礼んれいにいでけり。ちかき事なれば人のよくしれるはなしなり。 百もゝ樹き曰、日本の狼は幻ばけ化る事をきかず、唐もろ土こしの狼はばけること老狐にことならず。宋そう人ひと李りは等うとうが太平広記畜ちく獣じうの部に︵四百四十二巻︶狼おほかみ美びじ人んに幻化﹇#﹁幻化﹂の左に﹁バケ﹂の注記﹈して少わか年いひとと通じ、あるひは人の母にばけて年七十になりてはじめてばけをあらはして逃にげさり、又は人の父を喰くひ殺ころしてその父にばけて年を歴へたるに、一日その子山に入りて桑くはを採とるに、狼おほかみきたりて人の如く立其その裾すそを銜くはへたるゆゑ斧をのにて狼の額ひたひを斫きり、狼にげ去さりしゆゑ家にかへりしに、父の額ひたひに傷きずの痕あとあるを視みて狼なることをさとり、これを殺ころすに果はたして老おい狼たるおほかみなり。親をころしたるゆゑ自みづから県けんにいたりて事の由よしをつげたる事など○広くわ異うい記○宣せん室しつ志しを引てしるせり。悍かん悪あくの事に狼の字をいふもの○残ざん忍にんなるを豺さい狼らうの心といひ○声のおそろしきを狼らう声せいといひ○毒どくの甚はなはだしきを狼らう毒どくといひ○事の猥みだりなるを狼らう々〳〵○反はん相さう﹇#﹁反相﹂の左に﹁ムホン﹂の注記﹈ある人を狼らう顧こ○義ぎ无なきを中山狼○恣ほしいまゝに食くふを狼らう○病やまひ烈はげしきを狼らう疾しつといひ○狼ろう藉ぜき○狼らう戻れい○狼らう狽ばいなど、皆彼かれに譬たとへて是をいふなり。︵文海披沙︶されば獣じう中ぢゆう最もつとも可にく悪むべきは狼おほかみなり。余よ竊ひそかに以おも為へらく、狼は狼にして狼なれども、人にして狼なるはよく狼をかくすゆゑ、狼なるをみせず。これが為ために狼らう毒どくをうくる人あり。人の狼なるは狼の狼なるよりも可おそ惧るべく可にく悪むべし。篤とく実じつを外げめ面んとし、奸かん慾よくを内ない心しんとするを狼おほ者かみものといひ、娵よめを悍いび戻るを狼おほ老かみ婆ばゝといふ。巧たくみに狼らう心しんをかくすとも識しき者しやの心しん眼がんは明めい鏡きやうなり。おほかみ〳〵惧おそれざらんや恥はぢざらんや。
○ 雪なだ頽れに熊くまを得うる
酉いう陽やう雑ざつ俎そに云いふ、熊ゆう胆たん春は首くびに在あり、夏は腹はらに在り、秋は左の足にあり、冬は右の足にありといへり。余よ試こゝろみに猟かり師うどにこれを問とひしに、熊くまの胆きもは常に腹はらにありて四し時じ同じといへり。盖けだし漢かん土どの熊くまは酉いう陽やう雑ざつ俎その説せつのごとくにや。凡およそ猟れふ師し山に入りて第だい一いちに欲ほつする処ところの物は熊なり。一いち熊ゆうを得うればその皮とその胆きもと大小にもしたがへども、大おほかたは金五両以上にいたるゆゑに猟れふ師しの欲ほつするなり。しかれども熊は猛たけく、且かつ智ちありて得うるに易やすからず。雪中の熊は皮かはも胆きもも常に倍ばいす、ゆゑに雪に穴けつ居きよするを尋たづね捜さがし、猟れふ師しども力ちからを戮あはせてこれを捕とるに種しゆ々〴〵の術じゆつある事初しよ編へんに記しるせり。たま〳〵一いち熊ゆうを得うるとも其その儕ともがらに価あたひを分わかつゆゑ利りと得く薄うすし、さればとて雪中の熊は一ひと人りの力ちからにては得うる事こと難かたしとぞ。 ○茲ここに吾わが住すむ近きん在ざいに后ごや谷む村らといふあり。此村の弥左ヱ門といふ農のう夫ふ、老おいたる双ふた親おや年とし頃ごろのねがひにまかせ、秋のはじめ信州善光寺へ参さん詣けいさせけり。さてある日用ありて二里ばかりの所へゆきたる留る守す、隣りん家かの者過あやまちて火を出いだしたちまち軒のきにうつりければ、弥左ヱ門が妻つま二ふた人りの小こど児もをつれて逃にげ去さり、命いのち一ツを助たすかりたるのみ、家かざ財いはのこらず目もく前ぜんの烟けむりとなりぬ。弥左ヱ門は村に火くわ災さいありときゝて走はせ皈かへりしに、今け朝さ出いでし家は灰はひとなりてたゞ妻つま子この无ぶをよろこぶのみ。此夫ふう婦ふ心こゝろ正しや直うぢきにして親おやにも孝かう心しんなる者ゆゑ、人これを憐あはれみまづしばらく我わが家に居をるべしなど奨すゝむる富ふの農うもありけるが、われ〳〵は奴ぬぼ僕くの業わざをなしても恩おんに報むくゆべきが、双ふた親おや皈かへり来りて膝ひざを双ならべて人の家に在あらんは心も安からじとて諾うけがはず。竊ひそかに田でん地ぢを分わかちて質しち入いれなしその金にて仮かりに家を作り、親も皈かへりて住すみけり。草くさを刈かる鎌かまをさへ買かひ求もとむるほどなりければ、火の為ために貧まづしくなりしに家を焼やきたる隣りん家かへ対むかひて一いち言ごんの恨うらみをいはず、交まじはり親したしむこと常にかはらざりけり。かくてその年もくれて翌よく年としの二月のはじめ、此弥左ヱ門山に入いりて薪たきゞを取りしかへるさ、谷に落おちたる雪なだ頽れの雪の中なかにきは〳〵しく黒くろき物もの有あり、遙はるかにこれを視みて、もし人のなだれにうたれ死したるにやと辛からうじて谷に下り、是これを視みれば稀け有うの大熊雪なだ頽れに打うち殺ころされたるなりけり。此雪なだ頽れといふ事初しよ編へんにもくはしく記しるしたるごとく、山に積つもりたる雪二丈にもあまるが、春の陽やう気き下したより蒸むして自しぜ然んに砕くだけ落おつる事大だい磐ばん石じやくを転まろばしおとすが如し。これに遇あへば人馬はさらなり、大木大石もうちおとさる。されば此熊もこれにうたれしゝたるなり。弥ざゑもんはよきものをみつけたりと大に悦よろこび、皮かはも胆きももとらんとおもひしが、日も西に傾かたぶきたれば明あ日すきたらんとて人の見つけざるやうに山やま刀がたなにて熊を雪に埋うづめかくし、心に目しるしをして家にかへり親おやにもかたりてよろこばせ、次のあした皮かはを剥はぐべき用意をなしてかしこにいたりしに胆きもは常に倍ばいして大なりしゆゑ、弁べん当たうの面めん桶つうに入れて持かへりしを人ありて皮かはを金一両胆きもを九両に買かひけり。弥ざゑもんはからず十両の金を得えて質しち入れせし田地をもうけもどし、これより屡しば〳〵幸さいはひありてほどなく家もあらたに作りたていぜんにまさりて栄さかえけり。弥左ヱ門が雪なだ頽れに熊を得たるは金きん一いつ釜ふを掘ほり得えたる孝かう子しにも比ひすべく、年とし頃ごろの孝かう心しんを天てんのあはれみ玉ひしならんと人々賞しやうしけりと友いう人じん谷こく鴬あう翁をうがかたりき。○ 雪なだ頽れの難なん
吾が住すむ塩しほ沢ざはは下した組ぐみ六十八ヶ村の郷がう元もとなれば、郷元を与あづかり知る家には古こら来いの記きろ録くも残のこれり。其旧きう記きの中なかに元文五年庚申︵今より百年まへ︶正月廿三日暁あかつき、湯ゆざ沢はし宿ゆくの枝えだ村掘ほり切きり村むらの后うしろの山より雪なだ頽れ不ふ意いに押おし落おとし、其その※ひゞき﹇#﹁口+向﹂、U+54CD、215-10﹈百雷らいの如く、百姓彦右ヱ門浅右ヱ門の両りや家うけなだれにうたれて家つぶれ、彦右ヱ門并に馬一疋即そく死し、妻さいと嗣せが息れは半死半生、浅右ヱ門は父子即死、妻さいは梁うつばりの下に圧おされて死にいたらず。此時 御領主より彦右ヱ門息せがれへ米五俵、浅右ヱ門妻さいへ米五俵賜たまはりし事を記しるしあり。此魚うを沼ぬま郡こほりは大たい郡ぐんにて 会津侯御預あづかりの地なり。元文の昔も今も 御ごり領やう内ないの人じん民みんを怜あはれみ玉ふ事仰あふぐべく尊たつとむべし。そのありがたさを吾が后のちへも示しめさんとて筆ふでの序ついでにしるせり。近年は山家の人、家を作るに此雪なだ頽れを避さけて地を計はかるゆゑその難なんまれなれども、山やま道みちを往ゆき来ゝする時なだれにうたれ死するもの間まゝある事なり。初しよ編へんにもいへるが如く、○ホウラは冬にあり、雪なだ頽れは春にあり。他国の人越後に来りて山さん下かを往わう来らいせばホウラなだれを用心すべし。他国の人これに死したる石せき塔たふ今も所々にあり、おそるべし〳〵。○ 雪せつ中ちゆうの葬さう式しき
吾が国に雪ふゞ吹きといへるは、猛まう風ふう不ふ意いに起おこりて高かう山ざん平へい原げんの雪を吹ふき散ちらし、その風四方にふきめぐらして寒かん雪せつ百万の箭やを飛とばすが如く、寸すん隙げきの間あひだをも許ゆるさずふきいるゆゑ、ましてや往ゆき来ゝの人は通みう身ち雪に射いられて少すこ時しのまに半はん身しん雪ゆきに埋うづめられて凍こゞ死えしする、まへにもいへるがごとし。此ふゞきは晴せい天てんにも俄にはかにおこり、二日も三日も雪あれしてふゞきなる事あり、往ゆき来ゝもこれが為ためにとまること毎年なり。此時に臨のぞんで死しば亡うせしもの、雪あれのやむを待まつも程ほどのあるものゆゑ、せんかたなく雪あれを犯をかして棺くわんを出いだす事あり。施せし主ゆはいかやうにもしのぶべきが他たの人ひとの悃こま苦る事見るもきのどくなり、これ雪国に一ツの苦くぢ状やうといふべし。我われ江戸に逗とう留りうせしころ、旅りよ宿しゆくのちかきあたりに死亡ありて葬さう式しきの日大嵐あらしなるに、宿やどの主あるじもこれに往ゆくとて雨あま具ぐきびしくなしながら、今け日ふの仏ほとけはいかなる因いん果くわものぞや、かゝる嵐あらしに値あひて人に難なん義ぎをかくるほどなればとても極ごく楽らくへはゆかるまじ、などつぶやきつゝ立いづるを見て、吾が国の雪ふゞ吹きに比くらぶればいと安しとおもへり。○ 竜りう燈とう
筑つく紫しのしらぬ火といふは古哥にもあまたよみて、むかしよりその名たかくあまねく人のしる所なり。その然もゆるさまは春しゆ暉んきが西さい遊いう記き*12にしらぬ火を視みたりとて、詳つまびらかにしるせり。其しらぬ火といふも世にいふ竜りう燈とうのたぐひなるべし。我国蒲かん原はら郡こほりに鎧よろ潟ひがたとて︵里言に湖を潟と云︶東西一里半、南北ヘ一里の湖こす水ゐあり、毎年二月の中の午の日の夜、酉の下刻より丑の刻頃まで水上に火燃もゆるを、里人は鎧よろ潟ひがたの万燈とて群あつまり観みる人多し。余よが友いう人じんこれをみたるをきゝしに、かの西遊記にしるしたるつくしのしらぬ火とおなじさまなり。近年湖こす水ゐを北海へおとし新田となりしゆゑ、湖こち中ゆうの万燈とうも今は人じん家かの億おく燈とうとなれり。又我国の八はつ海かい山さんは巓いたゞきに八ツの池あり、依て山の名とす。絶ぜつ頂ちように八海大明神の社あり、八月朔日を縁日とし山にのぼる人多し。此夜にかぎりて竜りう燈とうあり、其来る所を見たる人なしといふ。およそ竜燈といふものおほかたは春夏秋なり。諸国にある諸書にしるしたるを見るに、いづれもおなじさまにて海よりも出いで、山よりもくだる。毎年其日其刻こく限げん、定りある事甚奇き異いなり。竜神より神仏へ供くうと云いふが普ふつ通うの説せつなれど、こゝに珎めづらしき竜りう燈とうの談あり、少しく竜燈を解げすべき説なれば姑しばらくしるして好かう事ず家かの茶ちや話わに供きようす。 我わが国くに頸くび城きこ郡ほり米よね山やまの麓ふもとに医いわ王うさ山ん米べい山さん寺じは和同年中の創さう草〳〵なり。山のいたゞきに薬師堂あり、山中女人を禁きんず。此米山の腰を米山嶺たふげとて越後北海の駅えき路ろなり、此辺ほとり古こせ跡き多し。余よ先年其古跡を尋たづねんとて下しも越後にあそびし時、新しん道だう村の長をさ飯いひ塚つか知とも義よしの話はなしに、一ひと年ゝせ夏の頃の為ために村の者どもを从したがへ米よね山やまへのぼりしに、薬やく師しへ参詣の人山こもりするために御おは鉢ちといふ所に小屋二ツあり、その小屋へ一宿しゝに是この日は六月十二日にて此御鉢といふ所へ竜りう燈とうのあがる夜なり。おもひまうけずして竜燈をみる事よとて人々しづまりをりしに、酉の刻とおもふ頃、いづくともなくきたりあつまりしに、大なるは手てま鞠りの如く、小なるは卵たまごの如し。大小ともに此御鉢はちといふあたりをさらずして、飛ひぎ行やうするあるひはゆるやか、あるひははしる、そのさま心ありて遊あそぶが如し。其光ひかりは螢ほた火るひの色に似にたり。つよくも光り、よはくもひかるあり。舞まひめぐりてしばらくもとゞまるはなく、あまたありてかぞへがたし。はじめより小やの入り口を閉とざし、人々ひそまりて覗のぞきゐたれば、こゝに人ありともおもはざるやうにて、大小の竜りう燈とう二ツ三ツ小屋のまへ七八間さきにすゝみきたりしを、かれがひかりにすかしみれば、形かたち鳥のやうに見えて光りは咽のどの下より放はなつやうなり。猶なほ近ちかくよらばかたちもたしかに視みとゞけんとおもひしに、ちかくはよらずしてゆるやかに飛めぐれり。此夜は山さん中ちゆうに一宿の心得えなれば心用の為ために筒つゝをも持もたせしに、手てたれの上手しかも若ものなりしが光りを的まとにうたんとするを、老人ありてやれまてとおしとゞめ、あなもつたいなし、此竜燈は竜神より薬師如来へさゝげ玉ふなり。罰ばちあたりめと叱しかりたる声に、竜燈はおどろきたるやうにてはるか遠く飛さりしと知とも義よし語かたられき。○ 芭はせ蕉をを翁うが遺ゐぼ墨く
およそ越後の雪をよみたる哥うたあまたあれども、越こし雪のゆきを目もく前ぜんしてよみたるはまれなり。西さい行ぎやうが山さん家かし集ふ、頓とん阿あが草さう菴あん集しふにも越後の雪の哥なし、此韻ゐん僧そうたちも越地の雪はしらざるべし。俊とし頼より朝あそ臣んに﹁降ふる雪ゆきに谷たにの俤おもかげうづもれて稍こずゑぞ冬の山やま路ぢなりける﹂これらは実じつに越後の雪の真しん景けいなれども、此あそん越後にきたり玉ひしにはあらず、俗ぞくにいふ哥かじ人んは居ゐながら名めい所しよをしるなり。 伊だて達まさ政むね宗きや卿うの御哥に﹁さゝずとも誰たれかは越こえん関せきの戸とも降ふりうづめたる雪ゆきの夕暮ぐれ﹂又﹁なか〳〵につゞらをりなる道みち絶たえて雪に隣となりのちかき山里﹂此君は御名たかき哥かせ仙んにておはしまししゆゑ、かゝるめでたき御哥もありて人の口こう碑ひにもつたふ。雪の実じつ境きやうをよみ玉ひしはしろしめす御ン国も深みゆ雪きなればなり。芭蕉翁が奥おくに行あん脚ぎやのかへるさ越後に入り、新にひ潟がたにて﹁海に降ふる雨や恋こひしきうき身みや宿ど﹂寺てら泊どまりにて﹁荒あら海うみや佐さ渡どに横よこたふ天の川﹂これ夏秋の遊いう杖ぢやうにて越後の雪を見ざる事必ひつせり。されば近来も越地に遊ぶ文ぶん人じん墨ぼく客かくあまたあれど、秋のすゑにいたれば雪をおそれて故ふる郷さとへ逃にげ皈かへるゆゑ、越雪の詩しい哥かもなく紀きか行うもなし。稀まれには他国の人越後に雪中するも文ぶん雅がなきは筆にのこす事なし。吾が国三条の人崑こん崙ろん山人、北越奇談を出板せしが︵六巻絵入かな本文化八年板︶一いち辞じは半んげ言んも雪の事をしるさず。今文ぶん運うん盛さかんにして新板湧わくがごとくなれども日本第一の大雪なる越後の雪を記しるしたる書しよなし。ゆゑに吾が不ふが学くをも忘わすれて越ゑつ雪せつの奇きぢ状やう奇きせ蹟きを記して後こう来らいに示しめし、且越ゑつ地ちに係かゝりし事は姑しばらく載のせて好かう事ずの話わへ柄いとす。さて元禄の頃ころ高田の御城下に細ほそ井ゐし昌やう庵あんといひし医師ありけり。一に青庵といひ、俳はい諧かいを善よくして号がうを凍とう雲うんといへり。ひとゝせはせを翁奥羽あんぎやのかへり凍とう雲うんをたづねて﹁薬やく欄らんにいづれの花を草くさ枕まくら﹂と発ほつ句くしければ、凍とう雲うんとりあへず﹁萩はぎのすだれを巻まきあぐる月﹂此時のはせをが肉にく筆ひつ二枚ありて一枚は書しよ損そんと覚しく淡うす墨ゞみをもつて一ひと抹ふでの痕あとあり、二枚ともに昌しや庵うあ主んぬしの家につたへしを、后のちに本書しよは同所の親しん族ぞく三崎屋吉兵衛の家につたへ、書しよ損そんのは同所五智如来の寺にのこれり。しかるに文政のころ此地の 邦はう君くん風ふう雅がをこのみ玉ひしゆゑ、かの二枚持もち主ぬしより奉りければ、吉兵ヱヘ常つね信のぶの三幅対に白銀五枚、かの寺へもあつき賜ありて、今二枚ともに 御ござ蔵うとなりぬと友人葵きて亭い翁がものがたりしつ。葵亭翁は蒲かん原ばら郡ごほり加茂明神の修しゆ験げん宮本院名は義よし方かた吐とさ醋くと号がうし、又無むは方うさ斎いと別べつ号がうす、隠いん居きよして葵きて亭いといふ。和わか漢んの博はく識しき北越の聞なた人かきひとなり。芭蕉が件くだんの句ものに見えざればしるせり。 百もゝ樹き曰、芭蕉居こ士じは寛永廿年伊賀の上野藤堂新七郎殿の藩はんに生る。︵次男なり︶寛文六年歳廿四にして仕しは絆んを辞じし、京にいでゝ季きぎ吟ん翁の門に入り、書しよを北きた向むき雲うん竹ちくに学まなぶ。はじめ宗むね房ふさといへり、季吟翁の句くし集ふのものにも宗房とあり。延えん宝はうのすゑはじめて江戸に来り杉さん風ふうが家に寄よる、︵小田原町鯉屋藤左ヱ門︶剃てい髪はつして素そせ宣んといへり、桃たう青せいは后のちの名なり。芭はせ蕉をとは草さう庵あんに芭蕉を植うゑしゆゑ人よりよびたる名の后のちには自みづから号がうによべり。翁の作に芭蕉を移うつ辞すことばといふ文あり、その終をはりの辞ことばに﹁たま〳〵花さくも花やかならず茎くき太ふとけれども斧をのにあたらず、かの山中不ふさ材いの類るゐ木ぼくにたぐへてその性よし。僧そう懐くわ素いそは是に筆を走はしらし張ちや横うく渠わうきよは新しん葉えふを見て修しゆ学がくの力ちからとせしとなり。予よその二ツをとらず。たゞ此蔭かげに遊びて風雨に破やぶれ易やすきを愛あいす﹁はせを野のわ分きして盥たらひに雨をきく夜哉﹂此芭蕉庵の旧きう蹟せきは深ふか川清きよ澄すみ町ちやう万年橋の南詰づめに対むかひたる今或ある侯こうの庭てい中ちゆうに在り、古池の趾あと今に存せりとぞ。︵余芭蕉年表一名はせを年代記といふものを作せり、書しよ肆し刻こくを乞ども考証未レ足ゆゑに刻をゆるさず︶翁おきな身を世せい外ぐわいに置おきて四方に雲うん水すゐし、江戸に趾あとをとゞめず。終つひには元禄七年甲戊十月十二日﹁旅たびに病やみて夢ゆめは枯かれ埜のをかけ廻めぐる﹂の一句をのこして浪花の花屋が旅りよ※さう﹇#﹁窗−穴かんむり﹂、U+56F1、223-9﹈に客かく死しせり。是挙きよ世せい﹇#﹁挙世﹂の左に﹁ヨノナカ﹂の注記﹈の知る処なり。翁が臨りん終じゆうの事は江州粟津の義仲寺にのこしたる榎本其角が芭蕉終しゆ焉うえ記んきに目前視るが如くに記しるせり。此記を視みるに翁いさゝか菌きん毒どく﹇#﹁菌﹂の左に﹁キノコ﹂の注記﹈にあたりて痢りとなり、九月晦日より病に臥ふし、僅わづかに十二日にして下かせ泉んせり。此時病びや床うじやうの下もとにありし門人○木もく節せつ︵翁に薬をあたへたる医なり︶○去きよ来らい○惟ゐね然ん○正せい秀しう○之しだ道う○支しか考う○呑どん舟しう○丈ぢや草うさう○乙おつ州しう○伽かか香う以上十人なり。其角は此時和泉の淡あはの輪わといふ所にありしが、翁大坂にときゝて病ともしらずして十日に来り十二日の臨りん終じゆうに遇あへり、奇きぐ遇うといふべし。︵以上終焉記を摘要す︶其角が終焉記の文中に︵此記義仲寺に施板ありて人の乞ふにあたふ、俳人はかならずみるべき書なり︶﹃義仲寺にうつして葬礼義信を尽つくし京大坂大津膳ぜ所ゞの連れん衆じゆう被ひく官わん従ず者さまでも此翁の情なさけを慕したへるにこそ招まねかざるに馳はせ来きたる者三百余人なり。浄じや衣うえその外智月と︵百樹云、大津の米屋の母、翁の門人︶乙州が妻縫ぬひたてゝ着せまゐらす﹄又曰﹃二千余よ人の門もん葉えふ辺へん遠ゑんひとつに合かつ信しんする因ちなみと縁えんとの不ふ可か思し議ぎいかにとも勘かん破はしがたし﹄百樹おもへらく、孔子に三千の門人ありて門に十哲てつをいだす。芭蕉に二千の門葉ありて、庵あんに十哲とよぶ門人あり。至しぜ善んの大たい道だうと遊いう芸げいの小せう技ぎと尊そん卑ひの雲うん泥でいは論におよばざれども、孔子七十にして魯ろこ国くの城しろ北のきた泗上に葬はうふりて心こゝ喪ろのもを服ふくする弟で子し三千人、芭蕉五十二にして粟津の義仲寺に葬はうむる時招まねかざるに来る者三百余人、是こゝ以をもつて人に師たるの徳ありしをおもふべし。盖けだし芭蕉の盆ぼん石せきが孔夫子の泰たい山さんに似たるをいふなり。芭蕉曾かつて﹇#﹁﹂の左に﹁ウルコヽロ﹂の注記﹈の風ふう軽けい薄はくの習しふ少しもなかりしは吟ぎん咏えい文ぶん章しやうにてもしらる。此翁は其角がいひしごとく人の推すゐ慕ぼする事今に於も不ふ可か思し議ぎの奇きじ人んなり。されば一句く一章しやうといへども人これを句く碑ひに作りて不ふき朽うに伝つたふる事今猶なほ句く碑ひのあらざる国なし。吟ぎん海かいの幸かう祥しやう詞しり林んの福ふく禎てい文ぶん藻さうに於て此人の右に出る者なし。されば本文にもいへるごとくかりそめにいひすてたる薬やく欄らんの一句の墨ぼく痕こんも百四十余年の后のちにいたりて文政の頃白銀の光りをはなつぞかし、論ろん外ぐわ不いふ思し議ぎといふべし。蜀山先生嘗かつて謂よに予いつて曰いはく、凡およそ文ぶん墨ぼくをもつて世に遊ぶ者もの画は論せず、死し後ごにいたり一字一百銭に当あてらるゝ身とならば文ぶん雅がの幸福足たるべしといはれき。此先生は今其幸福あり、一字一百銭に当あてらるゝ事嗟あ乎ゝ難かたいかな。 ○さてまた芭蕉が行ぎや状うぢ小やう伝せうでんは諸しよ書しよに散さん見けんして普あまねく人の知る所なり、しかれども翁おきなの容かほは挙きよ世せい知る人あるべからず。されば爰こゝに一証を得えたるゆゑ、此雪せつ譜ふに記きさ載いして后こう来らいに示しめすは、かゝる瑣さだ談ん﹇#﹁瑣談﹂の左に﹁チヒサイハナシ﹂の注記﹈も世に埋まい冤ゑん﹇#﹁埋冤﹂の左に﹁ウヅマル﹂の注記﹈せん事のをしければ、いざ然さらばとて雪に転ころばす筆の老らう婆ばし心んなり。 ○こゝに二代目市川団十郎初代段だん十郎︵のち団に改む︶の俳はい号がうを嗣ついで才牛といふ。后のちに柏はく筵えんとあらたむ。︵元文元年なり︶此柏はく筵えんは、○正徳○享保○元文○寛保を盛さかんに歴へたる名人なり。妻つまをおさいといひ、俳名を翠すゐ仙せんといふ、夫婦ともに俳諧を能よくし文ぶん雅がを好このめり。此柏はく筵えんが日記のやうに書かき残のこしたる老おいの楽たのしみといふ随ずゐ筆ひつあり。︵二百四五十帋の自筆なり︶嘗かつて梱こん外ぐわい﹇#﹁梱﹂の左に﹁シキヰ﹂の注記﹈へ出いださゞりしを、狂哥堂真顔翁珎ちん書しよなれば懇こん望まうしてかの家より借りたる時余よも亡ばう兄けいとともに読よみしことありき。そのなかに芝居土用やすみのうち柏はく筵えん一蝶が引船の絵の小屏風を風入れする旁かたはらにて、人にん参じんをきざみながら此絵にむかしをおもひいだして独ひと言りごといひたるを記しるしたる文に﹁我れ幼えう年ねんの頃ころはじめて吉原を見たる時、黒羽二重に三升の紋つけたるふり袖を着きて、右の手を一蝶にひかれ左りを其角にひかれて日本堤づゝみを往ゆきし事今に忘わすれず。此ふたりは世に名をひゞかせたれど今はなき人なり。我は幸に世にありて名もまた頗すこぶる聞きこえたり︵中略︶今日小川破はり笠つら老うまゐらる。むかしのはなしせられたるなかに、芭蕉翁はほそおもてうすいもにていろ白く小兵なり。常つねに茶のつむぎの羽織をきられ、嵐らん雪せつよ、其角が所へいてくるぞよとものしづかにいはれしとかたられたり﹂此文はせをを今目前に見るが如し。︵翁の門人惟然が作といふ翁の肖像あるひは画幅の肖像、世に流伝するものと此説とあはせ視るべし︶小川破笠俗称平助壮さう年ねんの頃ころ放はう蕩たうにて嵐雪と倶ともに︵俗称服部彦兵ヱ︶其角が堀江町の居きよに食しよ客くかくたりし事、件くだんの老おいの楽たのしみ又破笠が自じ記きにも見ゆ。破笠一に笠翁また卯ばう観くわん子、夢むち中ゆう庵あん等の号あり。絵ゑを一蝶に学まなび、俳諧は其角を師とす。余が蔵する画幅に延享三年丙寅仲春夢中庵笠翁八十有四筆ふでとあり。描まき金ゑを善よくして人の粕かすをなめず、別に一いつ趣しゆの奇きこ工うを為なす。破はり笠つ細工とて今に賞しやうせらる。吉原の七月創はじめて機から燈くりとうろを作りて今に其余よ波はを残のこせり、伝でん詳つまびらかなれどもさのみはとてもらせり。
○ 化くわ石せき渓たに
東とう游いう記きに越前国大野領の山中に化くわ石せき渓たにあり。何物にても半月あるひは一ヶ月此渓たにに浸ひたしおけばかならず石に化す、器きぶ物つはさらなり紙一束そく藁わらにてむすびたるが石に化くわしたるを見たりとしるせり。我が越後にも化石渓あり、魚うを沼ぬま郡こほり小こい出での在ざい羽はか川はといふ渓たに水へ蚕かひこの腐くさりたるを流ながししが一夜にして石に化くわしたりと友いう人じん葵きて亭いを翁うがかたられき。かの大野領の化石渓は東游記の為ために名な高たかけれども我が国の化石渓は世にしられず、又近江の石亭が雲うん根こん志し変化の部に︵前編︶人あり語云、越後国大おほ飯ひこ郡ほりに寒かん水すゐ滝たきといふあり、此処深しん山さん幽いう谷こくにして沍こか寒ん﹇#﹁沍寒﹂の左に﹁ツヨクサムキ﹂の注記﹈の地なり。此滝坪つぼへ万物を投なげこめおくに百日を過すぐさずして石に化すとぞ、滝坪の近所にて諸木の枝葉又は木の実みその外生しや類うるゐまでも石に化たるを得るとぞ。予よ去る頃此滝の石を取よせし人ありて見るに、常の石にあらず全ぜん躰たい鐘しよ乳うにうなり、木の葉など石中にふくむ則すなはち石なり。雲うん林りん石せき譜ふにいふ鐘しよ乳うにうの転てん化くわして石になるならん云云。牧ぼく之し案あんずるに、越後に大おほ飯ひご郡ほりなし又寒かん水すゐ滝たきの名もきかず。人あり語かたるとあれば伝でん聞ぶんの誤あやまりなるべし。盖けだし北ほく越ゑつ奇きだ談んに会あひ津づに隣となる駒こまが岳たけの深しん谷こくに入ること三里にして化くわ石せき渓たにと名付る処あり、虫ちゆ羽うう草木といへども渓たにに入りて一年を歴ふればみな化して石となる。其その川甚苦くか寒んにして夏も渉わたるべからざるが如し。又蘇そも門んが岳たけの北下した田だが郷うの深しん谷こくにも化くわ石せき渓たにあり云々。雲うん根こん志しの説せつはこれらの所を聞きゝ誤あやまりたるならん。○ 亀の化くわ石せき
吾が同どう郡ぐん岡をかの町まちの旧きう家か村山藤左ヱ門は余よが壻むこの兄なり。此家に先代より秘ひさ蔵うする亀の化くわ石せきあり、伝つたへていふ、近ちかき山さん間かんの土中より掘ほり得えしといふ、実じつに化石の奇きひ品んなり、茲こゝに図づを挙あげて弄ろう石せき家かの鑒かんを俟まつ。 百もゝ樹き曰、件くだんの図づを視みるに常にある亀とは形かた状ち少しく異ことなるやうなり。依て案あんずるに、本ほん草ざうに所いは謂ゆる秦しん亀き一名筮ぜい亀きあるひは山亀といひ、俗に石いし亀がめといふ物にやあらん。秦しん亀きは山中に居をるものなり、ゆゑに呼よんで山亀といふ。春夏は渓けい水すゐに遊び秋冬は山に蔵かくる、極きはめて長寿する亀は是なりとぞ。又筮ぜい亀きと一名するは周しう易えきに亀を焼やきて占ひしも此亀なりとぞ。件くだんの亀の化石、本草家の鑒かん定ていを得えて秦しん亀きならば一層そうの珎ちんを増ますべし。山にて掘ほり得えたりとあれば秦しん亀きにちかきやうなり。化石といふものあまた見しに、多は小ちひさきものにてあるひはまた体かたち全まつたきも稀まれなり。図づの化石は体かたち全まつたく且そのうへ大なり、珎ちんとすべし。○余よ先年俗にいふ大やま和とめぐりしたるをり、半月あまり京にあそび、旧きう友いうの画家春しゆ琴んき子んしに就ついて諸しよ名めい家かをたづねし時、鴻かう儒じゆの聞きこえ高き頼らい先生︵名襄、字子成、山陽と号、通称頼徳太郎︶へも訪とむらひ、坐ざだ談ん化石の事におよび、先生余よに蟹かにの化石一枚を恵めぐむ。その色枯かれずして生いけるが如く、堅かた硬きことは石なり。潜せん確かく類るゐ書しよ又本ほん草ざう三才図づ会ゑ等にいへる石いし蟹かに泥でい沙しやと倶ともに化して石になりたるなるべし。盆ぼん養やうする石せき菖しやうの下もとにおくに水中に動うごくが如し。亀の徒おと者もに其その図づを出いだす、是も今は名家の形かた見みとなりぬ。
○ 夜光玉
雲うん根こん志し異れいいの部に曰、予よが隣とな家りに壮さう勇ゆうの者あり儀兵衛といふ。或時田たが上みだ谷にといふ山中に行ゆきて夜よふ更けて皈かへるに、むかうなる山の澗たに底そこより青く光り虹にじの如く昇のぼりてすゑは天そらに接まじはる。此男勇ゆう漢かんなれば无む二无む三に草木を分けて山を越、谷をわたりてかの根こん元げんをさぐりみるに、たゞ何の異ことなる事もなき石なり。ひろひとりて背せに負おひ皈かへるに道すがら光ること前の如し。甚だ夜道の労らうをたすかり、暁あかつきの頃ころ我が家に着ぬ。件くだんの石を軒のきの外そとに直なほし置おき、朝飯などしたゝめて彼の石を見んとするに石なし、いかにせし事やらんとさま〴〵にたづねもとむれども行方しれずとなん。又本国甲かふ賀かこ郡ほり石いし原はら潮てう音おん寺じ和尚のものがたりに、近里の農人畑はたを掘ほり居ゐしに拳こぶしほどなる石をほりいだせり、此石常の石よりは甚だうつくし、よつて取りかへりぬ、夜に入りて光ること流りう星せいの如し。友のいふ、是は石れいせきなり、人の持ものにあらず、家にあらば必災わざはひあるべし、はやく打やぶりてすつべしと。これをきゝて斧をのをもつて打うち砕くだきしを竹やぶの中へすてたり、其夜竹林一面に光る事数万の螢火の如し。翌よく朝てう近里の人きゝつたへて集あつまり来り、竹林をたづねみるに少しのくづまでも一石も有る事なし。又筑ちく后ごの国くに上あが妻つま郡の人用ありて夜中近村へ行に一ツの小川あり、かちわたりせしに、なにやらん光る物あり、拾ひとりてみれば小石なり、翌日さる方へ献ず、しばらくして失たりとぞ。︵以上一条全文︶是これ等らは他国の事なり、我が越ゑち后ごにも夜光の玉のありし事あり。新し発ば田たより︵蒲原郡︶東北加か治ぢといふ所と中条といふ所の間路みちの傍かたはら田の中に庚申塚あり、此塚の上に大さ一尺五寸ばかりの円まろき石を鎮ちんしてこれを礼まつる。此石その先せん農のう夫ふ屋いへの后うしろの竹林を掃さう除ぢして竹の根など掘ほるとてかの石一ツを掘ほり得えたり。その色青みありて黒く甚だなめらかなり、農のう夫ふこれをもつて藁わらをうつ盤ばんとなす、其夜妻庭にはに出いでしに燦さん然ぜんとして光る物あり、妻妖ばけ怪ものなりとして驚おどろき叫さけぶ。家ある主じ壮わか夫もの三五人を伴ともなひ来りて光る物を打うつに石なり、皆もつて怪くわいとし石を竹林に捨つ、その石夜よご毎とに光りあり、村人おそれて夜行ものなし。依て此石を庚申塚に祭り上に泥ど土ろを塗ぬりて光をかくす、今猶なほ苔こけむしてあり。好かう事ずの人この石を乞こへども村そん人じん祟たゝりあらんを惧おそれてゆるさずとぞ。又駒こまが岳たけの麓ふもと大湯村と橡とち尾を村の間を流るゝ渓たに川を佐さ奈な志し川といふ、ひとゝせ渇かつ水すゐせし頃水中に一点てんの光あり、螢の水にあるが如し。数日処を移うつさず、一日暴ばう風うに水増まして光りし物所を失うしなふ、后のち四五町川下に光りある物螢けい火くわの如し。此地山中なれば村そん夫ふ等ら昏こん愚ぐにして夜光の玉なる事をしらず、敢あへてたづねもとむる者もなかりしに、其秋の洪こう水ずゐに夜光の玉ふたゝびながれて所しよ在ざいを失うしなひしとぞ。︵以上北越奇談の説︶偖さて茲こゝに夜やく光わう珠のたまの実じつ事じあり。我われ文政二年卯の春下しも越後を歴れき遊いうせしをり、三嶋郡に入り伊や弥ひ彦こ明神を拝をがみ、旧きう知ち識きなれば高橋光みつ則のり翁をうを尋たづねしに、翁大によろこびて一いつ宿しゆくを許ゆるしぬ。此翁和哥を善よくし且かつ好かう古この癖へきありて卓たく達たつの人なり、雅がだ談ん湧わくが如く、おもはずをとゞめし事四五日なりし。一夕せき翁の語りけるは、今より四五十年以前吉田の︵三島郡の内なり︶ほとり大鳥川といふ渓たに川に夜な〳〵光りものありとて人怖おぢて近づくものなかりしに、此川の近所に富長村といふあり、こゝに鍛か冶ぢの兄弟あり、ひとりの母を養やしなふ、家最もつとも貧まづし。此兄弟剛がう気きなるものゆゑかの光り物を見きはめ、もし妖ばけ怪ものならば退たい治ぢして村のものどもが肝きもをひしがんとて、ある夜兄弟かしこにいたりしに、をりしも秋の頃水もまさりし川面づらをみるに、月暗くらくしてたゞ水の音をきくのみ。両人炬たいまつをふりてらしてこゝかしこをみるに光るものさらになく、また怪あやしむべきをみず、さては人のいふは空そら言ごとならん、いざとて皈かへらんとしけるに、水上俄にはかに光くわ明うみやうを放はなつ、すはやとて両人衣服を脱ぬぎすて水に飛入り泳およぎよりて光る物を探さぐりみるに、くゝり枕ほどなる石なり、これを取とり得えて家に皈かへり、まづの下もとに置おきしに光り一いつ室しつを照てらせり。しか〴〵のよし母にかたりければ、不ふ思し議ぎの宝たからを得えたりとて親子よろこび近きん隣りんよりも来りみるもありしが、ものしらぬ者どもなれば趙てう壁へき随ずゐ珠しゆともおもはずうち過すぎけり。かくて后のち弟おとゝ別べつ家けする時家の物二ツに分わかちて弟に与あたへんと母のいひしに、弟は家かざ財いを望のぞまず光る石を持もち去さらんといふ。兄がいはく、光る石を拾ひろひ得えしは我が企くはだてなり、汝なんぢは我が力ちからを助たすけしのみなり、光る石は親の譲ゆづりにあらず、兄が物なり。家かざ財いを分わかつならばおやのゆづりをこそわかつべけれ、与あたふまじ〳〵。弟いな〳〵あの石はおれがものなり、いかんとなればおん身は光る石を拾ひろはんとの企くはだてにはあらず、妖ばけ物ものを退たい治ぢせんとて川へいたり、おん身よりは我われ先さきに川へ飛いり光りものを探さぐりあてゝかづきあげしも我なり、しかればおれがひろひしを持さらんになにかあらん。いや〳〵此兄がものなり、弟がのなりと口こう論ろんやまず、終つひにはつかみあひうちあひしを、母やう〳〵におししづめ、しからば光る石を二ツに破わりて分つべしといふ。弟さらばとて明玉をとりいだし鍛か冶ぢする※かなとこ﹇#﹁金+質﹂、U+9455、233-10﹈の上にのせ※かなつち﹇#﹁金+奄﹂、U+4936、233-10﹈をもて力にまかせて打ければ、をしむべし明玉砕くだ破けて内に白玉を孕はらみしがそれも砕くだけ、水ありて四あた方りへ飛とび散ちりけり。其夜水のかゝりし処光かりゝ暉やく事螢ほたるの群むらがりたるが如くなりしに、二三夜にしてその光りも消きえ失うせけりとぞ。いかに頑ぐわ愚んぐの手にありしとはいひながら、稀きせ世いの宝玉鄙ひじ人んの一いつ槌つゐをうけて亡ほろびたるは、玉も人も倶ともに不幸といふべしと語かたられき。牧ぼく之し案あんずるに、橘たち春ばな暉しゆんきが著あらはしたる北ほく※さう瑣さだ談ん﹇#﹁窗−穴かんむり﹂、U+56F1、233-14﹈︵後編の二︶蔵ざう石せき家かの事をいふ条くだりに曰いはく、江州山田の浦の木之内古こは繁ん、伊勢の山中甚作、大坂の加嶋屋源太兵ヱ、其外にも三都の中の好かう事ず家か侯こう国こくの逸いつ人じん、蔵ざう石せきに名の高き人近年夥おびたゝし、余よも諸家の奇きせ石きを見しに皆一家の蔵をさむる処三千五千種しゆにいたる、五日十日の日を尽つくしてやう〳〵眼めをふるを得うるにいたる、その多き中にも格別に目をおどろかすほどの珎ちん奇きの物は无なきものなり。加嶋屋源太兵ヱものがたりに、過すぎし年とし北国より人ありて拳こぶしの大さの夜やく光わうの玉あり、よく一室しつを照てらす、よき価あたひあらば売うらんといひしかば、即そく座ざに其人に托たくして曰いはく、其玉求もとめたし、暗あん夜やにその玉の入りたる箱の内ばかり白きやうに見えなば金五十両にもとむべし、又その玉にて闇夜に大なる文字一字にても読よみえられなば金百両にもとむべし、又書しよ状ぢやうよむほどならば三百金、いよ〳〵一室をてらさば吾が身上のこらずの力ちからを尽つくして求もとむべし、媒なかだちして玉はるべしといひしが、そのゝちなにの便たよりもなくてやみぬ、空そら言ごとにてありしと思はる云云。此文段は天明年中蔵ざう石せきの世に流はや行りたる頃加嶋屋が話はなしをそのまゝに春しゆ暉んきが后のちにしるしたるなるべし。さて又余よがかの鍛か冶ぢ屋が玉のはなしをきゝしは文政二年の春なり、今より四五十年以前とあれば、鍛か冶ぢが玉を砕くだきたるは安永のすゑか天明のはじめなるべし。然しかりとすれば、蔵ざう石せきの流はや行りたる頃なれば、かのかじまやが話はなしに北国の人一いつ室しつをてらす玉のうりものありしといひしは、我が国の縮ちゞ商みあ人きびとなどがかぢやの玉のをきゝつたへて商あきなひ口をいひしもはかられず。しかるに玉はくだきしときゝてかじまやへ答こたへざりしにやあらん。卞へん和くわが玉も楚そわ王うを得えたればこそ世にもいでたれ、右にのせたる夜光の話はなし五ツあり、三ツは我が越後にありし事なり。いづれも世にいでず、嗟あ乎ゝ惜をしむべし〳〵。 百もゝ樹き曰、五ござ雑つ組そ物の部に鍛か冶ぢ屋がはなしに類るゐせるあり。明みんの万ばん暦れきの初はじめ中みんちゆう連江といふ所の人蛤を剖わりて玉を得えたれども不みし識らずこれを烹にる、珠たま釜かまの中に在ありて跳をど躍りあがりして定さだまらず、火くわ光くわう天そらに燭もゆ、里さと人びと火くわ事じならんと驚おどろき来りてこれを救ふ。玉を烹たるもの、そのゆゑを聞きゝて釜かまの蓋ふたを啓ひらきて視みれば已すでに玉は半なかば枯かれたり。其珠たま径わたり一寸許ばかり、此これ真しんに夜やく光わう明月の珠たまなり。俗ぞく子しに厄やくせられたる事悲かな夫しきかなと記しるせり。又曰、︵五雑組おなじつゞき︶魏ぎの恵けい王わうが径わたり寸いつすんの珠たま前後車を照てらすこと十二乗じようの物はむかしの事、今天みか府どのくらにも夜やく光わう珠のたまはなしと明みん人ひと謝しや肇てうが五ござ雑つ組そにいへり。○神しん異い記き○洞とう冥めい記きにも夜やく光わう珠しゆの見えたれども孟うき浪たることに属しよくす。古ここ今んち注ゆうにはすぐれて大なる鯨くぢらの眼めは夜光珠を為なすといへり。卞へん和くわが玉も剖これ之をわれば中うち果はたして有たま玉ありといへば、石中に玉を孕はらみたる事鍛か冶ぢの砕くだきたる玉卞へん和くわが玉に類るゐせり。趙てうの恵けい王わうが夜光の玉を、秦しんの照せう王が城しろ十五を以て易かへんといひしは、加嶋屋が北国の明めい玉ぎよくを身しん上しやう尽つくして買かはんと約やくせしに類るゐせり。さて又癸きし辛んざ雑つし譏きぞ続くし集ふ︵巻下︶に、機はた婦おりをんな糸を水にひたしおきたるに、夜中白く大なる蜘く蛛もきたりてその水をのむに身みに光りをはなつ、かの婦ふじ人んこれを見て大にあやしみ、籠にはとりのかごを罩ふせてかの蜘く蛛もをとらへしに腹はらに夜やく光わう珠のたま在あり、大さ弾だん丸ぐわん﹇#﹁弾丸﹂の左に﹁テツハウタマ﹂の注記﹈の如しとしるせり。︵此事を前文に牧之老人が引たる北越奇談玉の部に越後にありし事とていだせり。その事癸辛雑識に少しもちがはず、おもふに癸辛雑識は唐本にて且又容易には得がたき書なれば、北越奇談の作者俗子の目に奇をしめさんとてたはむれに越後の事としてかきくはへたるもしるべからず。しかし癸辛雑識続集は都下にすら得がたければ本書を見たるにはあるべからず、博識に伝聞したるなるべし︶又増ぞう一いち阿あご含んぎ経やう︵第卅三。等法品第卅九︶に転てん輪りん聖じや王うわうの徳にそなはりたる一尺六寸の夜やく光わう摩まに尼は宝うは彼かの国くに十二由ゆじ旬ゆんを照てらすとあり、文ぶん多おほければあげず。盖けだし一いち由ゆじ旬ゆんは異いこ国くの四十里なり、十二由ゆじ旬ゆんは日本道六十六里なり。一尺六寸の玉六十六里四方を照すは奇き異いといふべし。転てん輪りん王此玉を得えて試こゝろみに高き幢はたの頭かしらに挙あげ著おきけるに、人じん民みん等ら玉の光りともしらず夜の明あけたりとおもひ、おの〳〵家かせ業ぎをはじめけりと記しるせり。此事碩せき学がくの聞きこえ高たかき了れう阿あ上人の話はなしにきゝてかの経を借かり得えて読よみしが、これぞ夜光の玉の親おや玉なるべき。○ 餅もち花ばな
餅もち花はなや夜よるは鼠ねずみがよし野山︵一にねずみが目にはとあり︶とは其角がれいのはずみなり。江戸などの餅花は、十二月餅もち搗つきの時もちばなを作り歳徳の神棚へさゝぐるよし、俳はい諧かいの季きには冬とす。我国の餅花は春なり。正月十四日までを大おほ正月といひ、十五日より廿日までを小こ正月といふ、是我わが里俗の習ならはせなり。さて正月十三日十四日のうちに門松しめかざりを取り払ひ、︵我国長岡あたりにては正月七日にかざりをとり、けづりかけを十四日までかくる︶餅花を作り、大神宮歳徳の神夷えびすおの〳〵餅花一枝えだづゝ神棚へさゝぐ。その作りやうはみづ木といふ木、あるひは川かは楊やなぎの枝えだをとり、これに餅を三角又は梅桜の花形に切たるをかの枝にさし、あるひは団子をもまじふ、これを蚕まゆ玉たまといふ。稲いな穂ぼ又は紙にて作りたる金銭、縮ちゞみあきびとなどはちゞみのひな形を紙にて作り、農のう家かにては木をけづりて鍬すき鋤くはのたぐひ農のう具ぐを小さく作りてもちばなの枝にかくる。すべておのれ〳〵が家かげ業ふにあづかるものゝひなかたを掛る、これその業げふの福をいのるの祝しゆ事くじなり。もちばなを作るはおほかたわかきものゝ手てわ業ざなり。祝いはひとて男女ともうちまじりて声こゑよく田たう植ゑう哥たをうたふ、此こゑをきけば夏がこひしく、家の上こす雪のはやくきえよかしとおもふも雪国の人情なり。此餅花は俳諧の古き季きよ寄せにもいでたれば二百年来諸国にもあるは勿もち論ろんなり。ちかごろ江戸には季きによらず小児の手遊に作りあきなふときゝつ。○ 斎さいの神かみ勧くわ進んじん
我が塩しほ沢ざは近きん辺へんの風俗に、正月十五日まへ七八歳より十三四までの男の童わらべども斎さいの神勧くわ進んじんといふ事をなす。少し富ふ家かの童わらべこれをなすには※ぬる木でのき﹇#﹁木+備のつくり﹂、U+235BE、239-10﹈を上下より削けづり掛かけて鍔つばの形を作る、これを斗とぼ棒うといふ。これを二本大小にさし、上下をちやくし、童わら僕べのともに一升ますをもたせ又はひもありてくびにかくるあり。その中へ五六寸ばかりの木を頭かしらばかり人形に作り、目鼻をゑがき、二ツつくりて女神男神とし、女神はかしらに綿わたをきせ、紙にて作りたる衣服に紅べににて梅の花などゑがく。男神には烏帽子をきせ、木をけづりかけて髭ひげとす。紙のいふくに若松などゑがく。此二ツをかの升の内におき、斎さいの神かみ勧くわ進んじ々ん/々\とよばゝりありく。敢あへて物ものの欲ほしきにもあらず正月あそびの一ツなり、これ一人のみにあらず、児こど輩もおの〳〵する事なり。これに与あたふるものは切餅あるひは銭も与あたふ。又まづしきものゝわらべらは五七人十人余よも党たうをなし、茜あか木ねも綿めんの頭づき巾んにあさぎのへりをとりたるをかむり、かの斗とぼ棒うを一本さし、かの二ふた神を柳こりに入れて首にかけさいの神くわんじん、銭でも金でもくはつ〳〵とおやれ〳〵 と門かど々〳〵をおしありく。これに銭をもあたへあるひは濁にごり酒などのませ、顔に墨をぬりてわらひどよめく、これかならずするならはせなり。又長岡のほとりにてはかの斗棒のけづりかけの三尺ばかりなるに、宝づくしなどゑがきたるをさして勧くわ進んじんす、これは小児にあらず、大人のいやしきがわざなり。勧くわ進んじんのことばに﹁ぜにでもかねでもおいやれ、らいねんの春は娵よめでも聟むこでもとるやうに、泉のすみからわくやうに、すつくらすわいとおいやれ〳〵﹂かくして勧進の銭をあつめて斎さいの神を祭まつる入用とするなり。︵さいの神のまつり下にしるす︶又去年むこよめをむかへたる家の門かどに、未みめ明いよりわらべども大勢あつまり、かの斗棒をもつて門戸を敲たゝき、よめをだせむこをだせと同音によばゝりたゝく。これを里俗の祝いは事ひごととすればいかる家なく、小どもを入れて物などくはするもあり、かゝる俗ぞく習しふ他国にもあまたあるべし。 ○さて此事たあいもなき小どものたはむれとのみおもひすぐししに、醒せい斎さい京伝翁が骨こつ董とう集しふを読よみて本ほん拠きよある事を発はつ明めいせり。骨こつ董とう集しふ上編下、粥かゆの木の条くだりに、○粥かゆ杖づゑ○祝いは木ひぎ○ほいたけ棒ぼうといふ物、前にいひし斗とぼ棒うに同じ。京伝翁の説せつに、粥かゆの木とは正月十五日粥を烹にたる薪たきゞを杖つゑとし、子もたぬ女のしりをうてば男子をはらむといふ祝ひ事なりとて、○枕まくらの草さう紙し○狭さご衣ろも○弁べん内のな侍いしの日に記きその外くさ〳〵の書しよを引ひきて、上代の宮きう裏り近きん古この市しち中ゆう粥かゆ杖つゑの事を挙あげて、考かう証しやう甚はなはだ詳つまびらかなり。今我が郡にいふ斗とぼ棒うは則すなはちいにしへの粥かゆ杖つゑの遺ゐふ風うなる事を発はつ明めいせり、我国にも祝いは木ひぎあるひは御おい祝はひ棒ぼうといふ所もあり。これ七八百年前より正月十五日にする事、京伝翁が引れたる書しよにてしらるゝなり。その引いん書しよの中なかにも明人の作﹁日本風土記﹂にあるはもつとも我国のによく似たり、此書しよは今より三百年ばかりいぜんの日本の風俗を明人が聞きゝつたへて書たるものなれば、今我国にて小こど童ものたはむれにするも三百年ばかりさきの風俗遠ゑん境きやうにもうつりのこりたるなるべし。京伝翁が引たる日本風土記︵巻の二時令の部とあり、漢文のまゝを引たれどこゝにはかなをまじふ︶に﹁但たゞ街がい道だう郷きや村うぞんの児ぢど童う年十五八九已上に及およぶ者もの、各おの〳〵柳の枝を取り皮を去さり木ぼく刀たうに彫きざ成みなし、皮を以復また外ほか刀たう上しやうに纏まとひ用ひに火て焼やき黒くろめ皮を去さり以もつて黒白の花もやうを分わかつ、名づけて荷こ花ば蘭ら蜜みといふ。再ふたゝび荊けい棘きよくの条えだを取とり香かう花くわ神しん前ぜんに挿さしはさみ供くうず。次に集あつまる各わら童べども手に木刀を執とり途みちに隊たい閙だうし﹇#﹁隊閙﹂の左に﹁ムレサワギ﹂の注記﹈、凡すべて有こん婚れいして无こな子きの婦をんな木刀を将もつて遍へん身しん打これ之をうち口に荷こ花ば蘭ら蜜みと舎となふ。かならず此婦をんな当この年とし孕はらみ男を生うむ﹂我国にて児こど童も等らが人の門かどを斗とぼ棒うにてたゝき、娵よめをだせ聟むこをだせとのゝしりさわぐは、右の風土記の俗ぞく習しふの遺ゐ事じなるべし。 百もゝ樹き案に、件くだんの風土記に再ふたゝび荊けい棘きよくの条えだを取り香つね花にいのる神前に挿さしはさむといひしは、餅もち花ばなを神かみ棚たなへ供くうずる事を聞て粥かゆ杖つゑの事と混こん錯さくして記したるなるべし。然しかりとすれば餅もち花はなも古き祝しゆ事くじなり。○ 斎さいの神の祭まつり
吾わが国くに正月十五日に斎さいの神のまつりといふは所いは謂ゆる左さぎ義ちや長うなり。唐もろ土こしに爆ばく竹ちくといふ唐たう人ひと除ぢよ夜やの詩しに、竹たけ爆たふる千門の※ひゞき﹇#﹁口+向﹂、U+54CD、242-4﹈燈ともしび燃もゆる万戸明あきらかなりの句あれば、爆ばく竹ちくは大晦日にする事なり。吾朝にては正月十五日、 清涼殿の御庭にて青竹を焼き正月の書かき始ぞめを此火に焼て天に奉るの義ぎとす。十八日にも又竹をかざり扇を結びつけ同じ御庭にて燃もやし玉ふを祝事とせさせ玉ふ。民みん間かんにもこれを学まなびて正月十五日正月にかざりたるものをあつめて燃もやす、これ左さぎ義ちや長うとて昔よりする事なり。これを斎さいの神祭まつりといふも古き事なり。爆ばく竹ちく左さぎ義ちや長うの故ふる事こと俳はい諧かいの季きよ寄せ年とし浪なみ草ぐさに諸書を引てくはしくいへり。 ○吾が郡ぐん中ちゆうにて小を千ぢ谷やといふ所は人じん家か千戸にあまる饒よき地とちなり、それゆゑに斎さいの神の︵斎あるひは幸とも︶まつりも盛せい大だいなり。これをまつるにその町々におの〳〵毎年さだめの場所ありてその所の雪をふみかため、さしわたし三間ばかりに周めぐらしたる高さ六七尺の円まろき壇を雪にて作り、これに二ふた処ところの上り階だんを作る、これも雪にてする、里りぞ俗く呼よんで城しろといふ。さて壇だんの中まん央なかに杉のなま木をたてゝ柱はしらとし、正月かざりたるものなにくれとなくこの柱はしらにむすびつけ又は積つみあげて、七し五め三をもつて上よりむすびめぐらして蓑みののごとくになし、︵かやをまじへ入れてかたちをつくる︶此頂いたゞきに大だい根こん注し連めといふものゝ左右に開たる扇をつけて飛ひて鳥うの状かたちを作りつける。壇だんの上には席せきをまうけて神み酒きをそなへ、此町の長たるもの礼服をつけて拝はいをなし、所繁昌の幸福をいのる。此事をはればきよめたる火を四よす隅みより移うつす、油あぶ滓らかすなど火のうつり易やすきやうになしおくゆゑ々たん〳〵熾し々ゝと然もえあがる、︵此火にて餅をやきてくらふ、病をのぞくといふ世にふるくありし事なり︶是これ則すなはち爆ばく竹ちく左さぎ義ちや長うなり。他国にてもする事なり。或ある人ひとの話はなしに、此事百余年前までは江戸にもありしが、火くわ災さいをはゞかるために禁きん下くだりてやみたりとぞ。 ○さて又おんべといふ物を作りてこの左義長に翳かざして火をうつらせ焼やくを祝しゆ事くじとす、おんべは御ン幣へいの訛くわ言げん﹇#﹁訛言﹂の左に﹁ナマリ﹂の注記﹈なり。その作りやうは白紙と色かみとを数百枚つきあはせたるを細き幣へい束そくのやうにきりさげ、すゑに扇の地紙の形をきりのこす、これを数すせ千んあつめて青竹にくゝしくだす。大小長短は作る家の意にまかせ、大なるを以て人に誇ほこる。棹さをの末にひらき扇四ツをよせて扇には家の紋などいろどりゑがく、いろ紙にて作るものゆゑ甚だ美みご事となり。これを作りてまづおのれ〳〵が門かどへ建たておく事五月の幟のぼりのあつかひなり。十五日にいたりてかの場所へもちゆき、左義長にかざして焼やき捨すつるを祝ひとし慰なぐさみとす。観みる人群ぐんをなすは勿もち論ろん、事をはりてはこゝかしこにて喜よろ酒こびざけの宴えんをひらく。これみな 国こく君くん盛せい徳とくの余よた沢くなり。他所にも左義長あれどもまづは小を千ぢ谷やを盛せい大だいとす。百もゝ樹き曰いはく、余よ京水をしたがへて越後に遊びし時、此小を千ぢ谷やの人岩いは淵ぶち氏︵牧之老人の親族なり︶の家にをとゞめたる事十四日、︵八月なり︶あるじの嗣むす子こ廿四五許ばかり、号がうを岩がん居きよといふ、書しよをよくす。余よに遇ぐうせしこと甚はなはだ篤あつし。小を千ぢ谷やは北ほく越ゑつの一いつ市しく会わい、商しや家うか鱗りん次じとして百物備そなはらざることなし。海うみを去さる事僅わづかに七里ゆゑに魚ぎよ類るゐに乏とぼしからず。余よ塩しほ沢ざはにありしは四十余日、其地海に遠くして夏は海魚に乏とぼしく、江戸者の口に魚ぎよ肉にくの上のぼらざりし事四十余日、小を千ぢ谷やにいたりてはじめて生なま鯛たひを喰しよくせしに美び味みなりし事いふべからず。又の時じせ節つにて、小を千ぢ谷やの前ぜん川せんは海に朝てうするの大河なれば今捕とりしをすぐに庖はう丁ちやうす。味あぢはひ江戸にまされり。一日をてんぷらといふ物にしていだせり。余よ岩がん居きよにむかひ、これは此地にては名を何なにとよぶぞと問とひしに、岩居これはテンプラといふなり、我としごろ此物の名めい義ぎ暁さとしがたく、古こら老うにたづねたれどもしる人さらになし、先生の説せつをきかんといふ。余よ答こたへてまづ食しよく終をはりてテンプラの来らい由ゆを語かたるべしといひつゝのてんぷらを飽あくまでに喰しよくせり。
○ てんぷらの説せつ ○ 煉ねり羊やう羹かんの起きげ原ん
岩がん居きよに語かたりて曰いはく、今をさる事五十余年前ぜん天明の初しよ年大阪にて家かぼ僕く四五人もつかふほどの次男年とし廿七八ばかり利助といふもの、その身よりとしの二ツもうへの哥げい妓しやをつれて出しつ奔ほんし、江戸に下り余が家の︵京橋南街第一※﹇#﹁衙﹂の﹁吾﹂に代えて﹁共﹂、U+8856、246-12﹈︶対むかひの裏うら屋やに住しに、一ある日ひ事の序ついでによりて余が家に来りしより常に出でい入りして家かぼ僕くのやうに使つかひなどさせけるに、花くわ柳りうに身を果はたしたるものゆゑはなしもおもしろく才もありてよく用を弁べんずるゆゑ、をしき人に銭ぜにがなしとて亡ばう兄けいもたはむれいはれき。ある日利助いふやう、江戸には胡ごま麻あ揚げの辻つじ売うり多し、大阪にてはつけあげといふ魚ぎよ肉にくのつけあげはうまきものなり、江戸にはいまだ魚のつけあげを夜みせにうる人なし、われこれをうらんとおもふはいかん。亡ばう兄けい︵京伝︶いはく、それはよきおもひつきなりまづこゝろむべしとて俄にはかに調てうじさせしに、いかにも美び味みなり。利助いはく、これを夜みせの辻にうらんにその行あん灯どんに魚のごまあげとしるさんもなにとやらまはりどほし、なにとか名をつけて玉はれと乞こひければ、亡ばう兄けいしばらくしあんして筆をとり天てん麩ふ羅らとかきてみせければ、利助不ふし審んのをなし天てん麩ふ羅らとはいかなる所いは謂れにかといふ。亡兄うちゑみつゝ足そ下こは今天てん竺ぢく浪らう人にんなり、ぶらりと江戸へきたりて売うり創はじむる物ゆゑに天ふらなり、是これに麩ふ羅らといふ字を下くだしたるは麩ふは小麦の粉にてつくる、羅らはうすものとよむ字なり。小麦の粉のうすものをかけたといふなりと戯たは言むれごと云れければ、利助も洒しや落れたる男ゆゑ、天竺浪人のぶらつきゆゑ天ふらはおもしろしと大によろこび、やがて此店みせをいたす時あんどんを持きたりて字をこひしゆゑ、余よがをさなき時天麩羅と大たい書しよして与へしに此てんぷら一ツ四銭にて毎夜うりきるゝ程なり。さて一月もたゝざるうちに近きん辺べん所々にてんぷらの夜みせいで、今は天麩羅の名油のごとく世上に伝し染みわたり、此小を千ぢ谷やまでもてんぷらの名をよぶ事一奇事といふべし。されども京伝翁が名づけ親にて利助が売はじめたりとはいかなる碩せき学がく鴻かう儒じゆの大先生もしるべからず。てんぷらの講こう釈しやくするは天下に我一人なりとたはむれければ、岩がん居きよも手てをうちて笑ひけり。 ○先年此てんぷらの話はなしを友人静せい廬ろ翁に語りしに︵翁は和漢の博達時鳴の聞人なり︶翁曰、事じぶ物つか紺んし珠ゆ︵明人黄一正作廿四巻︶夷いし食よくの部にてんぷらに似たる名ありきといはれしゆゑ、其書しよを借かりえてよみしに、○塔たふ不ふ剌らとありて注ちゆうに○葱ねぎ○椒さんしよ○油○醤ひしほを熬いりつけ、後あとより鴨あひる或は○鵞がをいれ、慢ぬる火ひにて養しあ熟げるとあり。蟹かにをあぶらげにするも見えたり。 ○さて天麩羅の播はん布ふ﹇#﹁播布﹂の左に﹁ヒロマル﹂の注記﹈に類るゐせる事あり、因ちなみに記す。○橘きつ菴あん漫まん筆ひつに︵享和元年京の田仲宣作︶﹁京師下河原に佐野屋嘉兵衛といふもの、享保年中長崎より上京して初て大碗十二の食しつ卓ほくを料理して弘めける。是京師浪おほ花ざかに食しつ卓ほく料理の初とかや。嘉兵衛娘はんといへるもの老らう婆ばとなりて近頃まで存命せり、則今の佐野屋祖なり。大坂にてかれこれ食卓料理あまた弘りたれど野の堂ど町の貴きと徳くさ斎いほど久しくつゞきたるはなし﹂岩がん居きよがてんぷらをふるまひたる夜その友蓉よう岳がく来り、︵桜屋といふ菓子や︶余が酒をこのまざるを聞て家かせ製いなりとて煉ねり羊やう羹かんを恵めぐみぬ、味あぢはひ江戸に同じ。余よ越後にねりやうかんを賞味して大に感かん嘆たんし、岩居に謂いひて曰いはく、此ねりやうかんも近年のものなり、常のやうかんにくらぶれば味あぢはひまされり。吾わがをさなきころは常のやうかんすらいやしきものゝ口には入らざりしに、江戸をさる事遠き此地にも出でき来あ逢ひのねりやうかんあるは実じつに大平の徳とく化くわなりといひしに、蓉よう岳がくも書画をよくし文ぶん事じもありて好かう事ずものなればこれをきゝてひざをすゝめ、菓子は吾が家かさ産んなり、ねりやうかんを近来のものといふ由ゆら来いを示しめし玉へといふ。余よかたりていはく、○寛政のはじめ江戸日本橋通一町目よこ町字あざなを式しき部ぶこ小う路ぢといふ所に喜太郎とて夫婦に丁でつ稚ちひとりをつかひ菓子屋とは見えぬ※かう子しづ造くり﹇#﹁竹かんむり/隔﹂、U+25D29、249-2﹈にかんばんもかけず、此喜太郎いぜんは 貴きち重ようの御菓子を調てう進しんする家の菓子杜とう氏じなるよし。奉公をやめてこゝに住し、極こく製せいの菓子ばかりをせいして茶人又は富家のみへあきなひけり。さて此者が工風とてはじめて煉ねり羊やう羹かんと名づけてうりけるに︵羊やう羹かん本字は羊やう肝かんなる事芸げい苑ゑん日につ鈔せうにいへり︶喜太郎がねりやうかんとて人々めづらしがりてもてはやしぬ。しかれども一人一手にてせいするゆゑ、けふはうりきらしたりとてつかひの重箱空むなしくかへる事度々なり、これ余よが目もく前ぜんしたる所なり。かくて一二年の間に菓子や二軒にて喜太郎をまねてねりやうかんをせいし、それもめづらしかりしに今は江戸の菓子やはさらなり、迫々弘り此小を千ぢ谷やにもあれば此国に市しく会わいをなす所にはかならずあるべく又諸国にもあるべしといひければ、蓉よう岳がくわらつて小をぐ倉らか羹んもあり八重なりかんもあり、あすはまゐらすべしといへり。これらの事雪譜の名には似に気げなき弁べんなれど本文小を千ぢ谷やのはなしにおもひいだしたれば人の話わへ柄いに記しるせり。なほ近きん古こ食しよ類くるゐの起きげ原んさま〴〵あれど余よが食しよ物くもつ沿えん革かく考かう﹇#﹁沿革考﹂の左に﹁ウツリカハリ﹂の注記﹈に上古より挙あげてしるしたればこゝにはもらせり。○ 雪せつ中ちゆうの狼おほかみ
初しよ編へんにもしるしたるごとく、我国の獣けもの冬にいたれば山を踰こえて雪浅あさき国へさる、これ雪ふかくして食しよくにとぼしきゆゑなり。春にいたればもとの棲すみかへかへる。されども雪いまだきえざるゆゑ食しよくにたらず、をりふしは夜中人じん家かにちかより犬などとり、又人にかゝる事もあり、これ山さん村そんの事なり。里には人多きゆゑおそれてきたらざるにや。雪中に穴けつ居きよするは熊くまのみなり。熊は手に山やま蟻ありをすりつけ、これをなめて穴けつ居きよの食しよくとするよしいひつたふ。○こゝに我わが郡ぐん中ちゆうの山さん村そんに︵不ふし祥やうのことなれば地名人名をはぶく︶まづしき農のう夫ふありけり、老母と妻と十三の女子七ツの男子あり。此農夫性せい質しつ篤とく実じつにしてよく母につかふ。ひとゝせ二月のはじめ、用ありて二里ばかりの所へいたらんとす、みな山やま道みちなり。母いはく、山なかなれば用心なり、筒つゝをもてといふ、実げにもとて鉄てつ炮はうをもちゆきけり。これは農のう業げふのかたはら猟れふをもなすゆゑに国こく許きよの筒つゝなり。かくてはからず時をうつし日も暮くれかゝる皈かへりみち、やがて吾が村へ入らんとする雪の山蔭かげに狼おほかみ物を喰くらふを見つけ、矢やご頃ろにねらひより火ひぶ蓋たをきりしにあやまたずうちおとしぬ。ちかよりみればくらひゐたるは人の足あしなり。農夫大におどろき、さては村ちかくきつるならんと我わが家やをきづかひ狼おほかみはそのまゝにしてはせかへりしに、家のまへの雪の白きに血ちのくれなゐをそめけり。みるよります〳〵おどろきはせいりければ狼二疋逃にげさりけり、あたりをみれば母はゐろりのまへにこゝかしこくひちらされ、片かた足あしはくひとられてしゝゐたり。妻つまは※まど﹇#﹁窗−穴かんむり﹂、U+56F1、252-14﹈のもとに喰くひ伏ふせられあけにそみ、そのかたはらにはちゞみの糸などふみちらしたるさまなり。七ツの男の子は庭にはにありてかばね半なかば喰くはれたり。妻つまはすこしいきありて夫をつとをみるよりおきあがらんとしてちからおよばず、狼おほかみがといひしばかりにてたふれしゝけり。農のう夫ふはゆめともうつゝともわきまへず鉄てつ炮はうもちて立あがりしが、さるにても娘むすめはとてなきごゑによびければ、床ゆかの下よりはひいで親にすがりつきこゑをあげてなく、おやもむすめをいだきてなきけり。山さん家かは住ぢゆ居うきよもこゝかしこはなれあるものゆゑ、これらの事をしるものもなかりけり。農のう夫ふは時の間まに六十の母、三十の妻、七ツの子を狼の牙きばにころされ、歯はがみをなして口をしがり、親子ふたり、くりこといひつゝ声をあげてなきゐたり。村のものやう〳〵にきゝつけきたり此体ていをみておどろきさけびければ、おひ〳〵あつまりきたり娘にやうすをたづねければ、※まど﹇#﹁窗−穴かんむり﹂、U+56F1、253-8﹈をやぶりて狼三疋はせいりしが、わしは竈かまどに火をたきてゐたりしゆゑすぐに床ゆかの下へにげ入り、ばゞさまと母さまとお弟とがなくこゑをきゝて念ねん仏ぶつ申てゐたりといふ。かくて此ありさまをいふべき所へつげしらせ、次の日の夕ぐれ棺くわん一ツに妻つまと童わらべををさめ、母の棺くわんと二ツ野の辺べおくりをなしけるに涙なみだそゝがざるものはなかりけるとぞ。おもふにはゝが筒つゝをもてといひしゆゑ、母の片かた足あしを雪の山蔭かげにくらひゐたる狼おほかみをうちおとして母の敵かたきはとりたれど、二疋をもらししはいかに口くち惜をしかりけん。これよりのち此農のう夫ふ家を棄すて、娘むすめをつれて順じゆ礼んれいにいでけり。ちかき事なれば人のよくしれるはなしなり。 百もゝ樹き曰、日本の狼は幻ばけ化る事をきかず、唐もろ土こしの狼はばけること老狐にことならず。宋そう人ひと李りは等うとうが太平広記畜ちく獣じうの部に︵四百四十二巻︶狼おほかみ美びじ人んに幻化﹇#﹁幻化﹂の左に﹁バケ﹂の注記﹈して少わか年いひとと通じ、あるひは人の母にばけて年七十になりてはじめてばけをあらはして逃にげさり、又は人の父を喰くひ殺ころしてその父にばけて年を歴へたるに、一日その子山に入りて桑くはを採とるに、狼おほかみきたりて人の如く立其その裾すそを銜くはへたるゆゑ斧をのにて狼の額ひたひを斫きり、狼にげ去さりしゆゑ家にかへりしに、父の額ひたひに傷きずの痕あとあるを視みて狼なることをさとり、これを殺ころすに果はたして老おい狼たるおほかみなり。親をころしたるゆゑ自みづから県けんにいたりて事の由よしをつげたる事など○広くわ異うい記○宣せん室しつ志しを引てしるせり。悍かん悪あくの事に狼の字をいふもの○残ざん忍にんなるを豺さい狼らうの心といひ○声のおそろしきを狼らう声せいといひ○毒どくの甚はなはだしきを狼らう毒どくといひ○事の猥みだりなるを狼らう々〳〵○反はん相さう﹇#﹁反相﹂の左に﹁ムホン﹂の注記﹈ある人を狼らう顧こ○義ぎ无なきを中山狼○恣ほしいまゝに食くふを狼らう○病やまひ烈はげしきを狼らう疾しつといひ○狼ろう藉ぜき○狼らう戻れい○狼らう狽ばいなど、皆彼かれに譬たとへて是をいふなり。︵文海披沙︶されば獣じう中ぢゆう最もつとも可にく悪むべきは狼おほかみなり。余よ竊ひそかに以おも為へらく、狼は狼にして狼なれども、人にして狼なるはよく狼をかくすゆゑ、狼なるをみせず。これが為ために狼らう毒どくをうくる人あり。人の狼なるは狼の狼なるよりも可おそ惧るべく可にく悪むべし。篤とく実じつを外げめ面んとし、奸かん慾よくを内ない心しんとするを狼おほ者かみものといひ、娵よめを悍いび戻るを狼おほ老かみ婆ばゝといふ。巧たくみに狼らう心しんをかくすとも識しき者しやの心しん眼がんは明めい鏡きやうなり。おほかみ〳〵惧おそれざらんや恥はぢざらんや。
北越雪譜中巻 終
[#改丁]
北越雪譜二編 巻三
越後塩沢 鈴木牧之 編選
江戸 京山人百樹 増修
百もゝ樹き曰いはく、余よ越遊して塩沢に在し時、牧之老人に伴ともなはれて雲洞庵にいたり、︵塩沢より一里ばかり︶庵あん主しゆにも対たい話わなし、かの火車おとしの袈け裟さといふ物その外の宝物古こも文んじ書よの類るゐをも一覧らんせり。いかにも大寺にて祈祷の二字を大たい書しよしたる竪たて額がくは 順徳院の震しん筆ひつなりとぞ。︵佐渡へ遷幸のときの震筆なるべし︶門前に直なほ江え山城守の制せい札さつあり、放はう火くわ私しば伐つを禁きんずるの文なり。庭てい中ちゆう池のほとりに智勇の良将宇佐美駿河守刃じん死しの古こふ墳ん在ありしを、先年牧之老人施せし主ゆとして新あらたに墓ぼ碑ひを建たてたり。不ふき朽うの善ぜん行ぎやうといふべし。︵本文に火車といふは所いは謂ゆる夜やし叉やなるべし、夜叉の怪は唐土の書にもあまた散見せり。︶
○ 鳥とり追おひ櫓やぐら
農のう家か市しち中ゆう正月の行ぎや事うじに鳥とり追おひといふ事あり。此事諸国にもあれば、其なす処其国によりてさま〴〵なる事は諸しよ書〳〵に散さん見けんせり。江戸の鳥とり追おひといふは非ひに人んの婦ふぢ女よ音おん曲きよくするを女太夫とて木もめ綿んの衣いふ服くをうつくしく着きなし、顔かほを粧よそほひ、編あみ笠がさをかむり、三さみ弦せんに胡こき弓うなどをあはせ、賀めで唱たきうたをおもしろくうたひ、門かど々〳〵に立て銭を乞こふ。此事元日よりはじめ、松の内をかぎりとす、松すぎてもありく所もありとぞ。我越後には小正月の︵小正月とは正月十五日以下をいふ︶はじめ鳥とり追おひ櫓やぐらとて去きよ年ねんより取とり除のけおきたる山なす雪の上に、雪を以て高さ八九尺あるひは一丈余にも、高さに応おうじて末すゑを広ひろく雪にて櫓やぐらを築つき立たて、これに登のぼるべき階だんをも雪にて作り、頂いたゞきを平たひ坦らになし松竹を四隅すみに立、しめを張はりわたす︵広さは心にまかす︶内には居るべきやうにむしろをしきならべ、小こど童も等らこゝにありて物を喰くひなどして遊あそび、鳥とり追おひ哥うたをうたふ。その一ツに﹁あのと鳥りや、ど何こ所からお追つてき来た、し信な濃ぬのく国にからおつてきた。なにをも持つておつてきた、し柴ばをぬ束くべておつてきた、し芝ばのと鳥りもか河ば辺のとりも、た可ち立やがれほい〳〵引﹂お己ら等がう裏らのさ早な苗へ田だのとりは、おつても〳〵す雀ゞめた可ち立やがれほい〳〵引﹂あるひはかの掘ほり揚あげ︵雪をすてゝ山をなす所︶の上に雪を以て四しか方くなる堂だうを作りたて、雪にて物をおくべき棚たなをもつくり、むしろをしきつらね、なべ・やくわん・ぜん・わん抔など此雪の棚におき、物を煮にた焼きし、濁にご酒りざけなどのみ、小こど童も大勢雪の堂に︵いきんだうと云︶遊あそび、同どう音おんに鳥追哥をうたひ、終いち日にちこゝにゆきゝして遊びくらす。これ暖だん国こくにはなき正月あそびなり。此鳥とり追おひ櫓やぐら宿しゆ内くないにいくつとなく作つくり党とうをなしてあそぶ。○ 雪霜
前まへにもしば〳〵いへるごとく、北国中にして越後は第一の雪国なり。その中にも魚うを沼ぬま・古こ志し・頸くび城きの三さん郡ぐんを大雪とす。毎年一丈以上の雪中に冬をなせども寒かん気きは江戸にさまでかはるなしと、江戸に寒中せし人いへり。五ござ雑つ組そにいへる霜は露つゆのむすぶ所にして陰いんなり、雪は雲のなす所にして陽やうなりとはむべなり。かゝる雪中なれども夏の儲まうけに蒔まきたる野やさ菜いのるゐも雪の下に萌もえいでゝ、その用をなすおそきとはやきのたがひはあれども暖だん国こくにかはるなし。その遅おそきとは三月にはじめて梅の花を見、五月の瓜うり・茄な子すを初はつ物ものとす。山中にいたりては山桜のさかり四月のすゑ五月にいたる所もあるなり。○ 地ぢご獄くだ谷にの火ひ
此この書しよの前編上の巻まき雪中の火といふ条くだりに、六日町の︵魚沼郡︶西の山手に地ちち中ゆうより火の燃もゆる事をしるせしが、地獄谷の火のをもらせしゆゑこゝにしるす。○およそ我わが越後に名高く七なゝ不ふ思し議ぎにかぞへいふ蒲かん原ばら郡ごほり如によ法ほふ寺じむ村ら百姓荘さう右エ門︵七兵衛孫六が家にも地火あり︶が家にある地中より燃もゆる火は、普あまねく人の知る所なれども、其火よりも盛せい大だいなるは魚沼郡のうち、かの小を千ぢ谷やの在ざい地獄谷の火なり。唐もろ土こしに是これを火くわ井せいといふ。近きん来らい此地獄谷に家を作り、地ちく火わを以て湯ゆを※わか﹇#﹁火+覃﹂、U+71C2、259-8﹈し、客きやくを待まちて浴よくさしむ、夏秋のはじめまでは遊いう客かく多し。此火井他国にはきかず、たゞ越後に多し。先年蒲原郡の内或ある家いへにて井を掘ほりしに、其夜医い師し来りて井を掘しを聞きゝ、家に皈かへる時挑てう灯ちんを井の中へ入れそのあかしにて井を見て立さりしに、井中より俄にはかに火をいだし火くわ勢せいさかんに燃もえあがりければ近きん隣りんのものども火くわ事じなりとしてはせつけ、井中より火のもゆるを見て此井を掘しゆゑ此火ありとて村のものども口々に主人を罵のゝしり恨うらみければ、主人も此火をおそれて埋うづめけるとぞ。此地火一に陰いん火くわといふ。かの如によ法ほふ寺じむ村らの陰火も微すこ風しのかぜの気きいづるに発つけ燭ぎの火をかざせば風ふう気き手てに応おうじて燃もゆる、陽やう火くわを得えざれば燃もえず。寛くわ文んぶんのむかし荘さう右エ門が︵如法寺村︶庭にはにてをつかひたる時より燃もえはじめしとぞ。前にいふ井中の火も医いし者やが挑てう灯ちんを井の中へさげしゆゑその陽火にてもえいだしたるなるべし。 ●さて又頸くび城きご郡ほりの海うみ辺べに能のう生しや宿うしゆくといふは北ほく陸ろく道だうの官くわ路んろなり、此宿より山手に入る二里ばかりに間ませ瀬く口ちといふ村あり、こゝの農のう家かに地火をいだす如によ法ほふ寺じ村の地火に同じとぞ。此ほとり用水に乏とぼしき所にては、旱ひでりのをりは山に就ついて井を横よこに掘ほりて水を得うるあり、ある時井を掘て横にいたりし時穴あなの闇くらきをてらすために炬たいまつを用ひけるに、陽やう火くわを得えて陰いん火くわ忽たちまち然もえあがり、人是これが為ために焼やけ死ししけるとぞ。是これ等らのどもをおもひはかるに、越後のうちには地火をいだす火くわ脉みやくの地多おほく、いまだ陽火を得えずして発はつせざるも多かるべし。 百もゝ樹き曰いはく、余よ小を千ぢ谷やにありし時岩がん居きよ余よに地ぢご獄くだ谷にの火を見せんとて、社しや友いう五人を伴ともなひ用よう意いの酒しゆ食しよくを奚しも奴べ二人に荷になはしめ、余よ与と京水と同どう行かう十人小千谷をはなれて西の方●新しん保ほ村●薮やぶ川かは新しん田でんなどいふ村々を歴へて一いち宮のみやといふ村にいたる、山やま間あひの篆あぜ畦みち曲まが節り〳〵て茲こゝに抵いたる行みち程のり一里半可ばかりなり。是この日ひはことに快くわ晴いせいして村そん落らくの秋しう景けい百ひや逞くてい目を奪うばふ。さて平ひら山やま一ツを踰こえて坡さかあり、則すなはち地獄谷へいたるの径みちなり。坡さかの上より目を下くだせば一ツの茅ばう屋をくあり、是これ本ほん文もんにいへる混ゆ堂やなり。人々坡さかの半なかばにいたりし時、茅ばう屋をくの楼ろう上しやうに四五人の美び婦ふあらはれ、おの〳〵檻てすりによりて、遙はるかにこの人々を指ゆびさすもあり、あるひは笑わらひ、あるひは名をよび、あるひは手をうちたゝき、あるひは手をあげてまねく。四しめ面ん皆みな山にて老らう樹じゆ欝うつ然ぜんとして翳おほ塞ひふさぐの中なかに個この美びじ人んを見ること愕びつ然くりし、是狸たぬきにあらずんばかならず狐ならんといひければ、岩がん居きよ友ともだちと相あひ顧かへりみ、手てを拍うつて笑わらふ。これは小千谷の下た町といふ所の酒しゆ楼ろうに居をる酌しや採くとりの哥げい妓しやどもなり、岩がん居きよ朋はう友いうと計はかりて竊ひそかに此こゝに招まねきおきて余よに興きやうさせん為ためとぞ。渠かれは狐にあらずして岩がん居きよに魅ばかされたるなり。已すでに地獄谷にくだり皆みな楼ろうにのぼれり。岩居は余よと京水とを伴ともなひてかの火を視みせしむ。 ●そも〳〵茲この谷たには山桜多かりしゆゑ桜谷とよびけるを、地火あるをもつて四方四五十歩ほ︵六尺を歩といふ︶をひらきて平たひ坦らの地となし、地火を借かりて浴よく室しつとなし、人の遊ぶ所とせしとぞ。桜谷とよびたる処地火のために地ぢご獄くとよばるゝこと、花はさぞかし薀くち憤をしかるべし。 ●さてその火を視みるに、一ツの浅き井を作りたるその井いち中ゆうより火の燃もゆる事常の湯屋の火よりも盛さかんなり。上に釜かまあり一間四方の湯ゆぶ槽ねあり、細ほそき筧かけひありて后うしろの山の清水を引き湯ゆぶ槽ねにおとす。湯は槽ふねの四方に溢あぶれおつ、こゝをもつて此湯ゆ温ぬるからず熱あつからず、天工こうの地ち火くわ尽つくる時なければ人じん作さくの湯も尽つくる期ごなし、見るにも清せい潔けつなる事いふべからず。此混ゆ堂やに続つゞきて厨だい処どころあり、にも穴ありて地火を引て物を烹にること薪たきゞに同じ。次に中の間まあり、床ゆかの下より竹たけを出し、口には一寸ばかり銅あかゞねを鉗はめて火を出いださしむ。上より自じざ在いをさげ、此火に酒の燗かんをなしあるひは茶ちやを煎せんじ、夜は燈とも火しびとす。さて熟つら〳〵此火を視るに、をはなるゝこと一寸ばかりの上に燃もゆる、扇にあふげば陽やう火くわのごとくに消きゆる。の口に手をあてゝこゝろむるに少しく風をうくるのみ。発つけ燭ぎの火を翳かざせば忽こつ然ぜんとしてもゆることはじめの如し。主あるじの翁おきなが曰、この火夜は昼ひるよりも燥はげ烈しく、人の顔かほ青あをくみゆるといへり。翁が妻つま水のうちよりもゆる火を見せ申さんとて、混ゆ堂やのうしろに僅わづかの山田ある所にいたり、田の水の中に少し湧わくところあるにつけぎの火をかざししに、水中の火蝋らふ燭そくのもゆるが如し。老らう婆ばがいはく、此火のやうにもゆる処ほかにもあり、夜にいればこと〴〵く火をもやすゆゑ獣けものきたらずといへり。余よが江戸の目には視みる所こと〴〵く奇きめ妙うなり。唐もろ土こしには此火を火くわ井せいとて、博はく物ぶつ志し或あるひは瑯らう※やた代いす酔ゐ﹇#﹁王+耶﹂、U+7458、262-7﹈に見えたる雲うん台たい山さんの火井も此地獄谷の火のごとくなれども、事の洪こう大だいなるは此谷の火に勝まさらず。唐もろ土こしと日本とをおつからめて火井の最さい第一といふべし、是を見たる事越遊の一奇きく観わんなり。唐土に火井の在ある所北の蜀しよ地くちに属しよくす、日の本の火井も北の越後に在り、自しぜ然んの地ちせ勢いによるやらん。 ●さて一人の哥げい妓しや梯はし上ごのうへにいでゝしきりに岩がん居きよを呼よぶ、よばれて楼ろうにのぼれり。余よは京水とゝもに此湯ゆに浴よくす、楼ろう上しやうには早はやく三さみ弦せんをひゞかせり。浴ゆあみしをはりて楼にのぼれば、既すでに杯はい盤ばん狼らう藉ぜきたり。嬋うつ娟くし哥きげ妓いしや袖をつらね、素そし手ゆ弄いと糸をろうし朱しゆ唇しん謡きよ曲くをうたふ迦かり陵やう頻びん伽がの声こゑ、外げめ面んに如よぼ※さつ﹇#﹁くさかんむり/廾﹂、U+26B07、262-13﹈の色いろ興きやうを添そゆれば、地ぢご獄くだ谷に遽たち然まち極ごく楽らく世せか界いとなれり。此妓ぎどもを養やしなふ主ある人じもこゝに来きたり居ゐて、従したがへたる料理人に具ぐしたる魚ぎよ菜さいを調てい味みさせてさらに宴えんを開ひらく。是この主ある人じ俗ぞく中ちゆうに雅がを挾さしはさんで恒つねに文ぶん人じんを推した慕ふゆゑに、是この日もこゝに来きたりて余よに面めん識しきするを岩がん居きよに約やくせしとぞ。此人※そつは﹇#﹁齒+巴﹂、U+4D95、263-1﹈なるゆゑ自みづから双そつ坡はろ楼うと家いへ号なす、その滑こつ稽けい此一をもつて知るべし。飄へう逸いつ洒しや落らくにしてよく人に愛あいせらる、家の前後に坡さかありとぞ、双そつ坡はの字じ下くだし得えて妙なり。双そつ坡はろ楼う扇あふぎをいだして余よに句くを乞こふ、妓も持もちたる扇を出いだす。京水画をなし、余即そく興きやうを書しよす。これを見て岩がん居きよをはじめおの〳〵壁かべに句くを題だいし、更さらに風ふう雅がの興きやうをもなしけり。 ●かくてやゝ日も傾かたふきければ帰き路ろを促うながしけるに、哥げい妓しやどもは草わら鞋じにて来きたりしとてそれはわしがのなり、これはあれはとはきすてたるを争あらそふてはきいづる、みな酔すゐ興きやうなれば噪おほ閙さはぎして途みちを行ゆく。細こな流がれある所にいたれば紅べ唇に粉おし面ろいの哥げい妓しや紅あか※きゆもじ﹇#﹁ころもへん+昆﹂、U+88E9、263-7﹈をて渉わたる、花くわ姿し柳りう腰えうの美びじ人ん等らわらじをはいて水をわたるなど余よが江戸の目には最いと珍めづらしく興きやうあり。酔すゐ客かくぢんくをうたへば酔すゐ妓ぎ歩ある々きながら躍をどる。古ふる縄なはを蛇へびとし駭おどせば、おどされたる妓ぎ愕びつくりして片かた足あし泥どろ田たへふみいれしを衆みな人〳〵然おほわらひす。此途みちは凡すべて農のう業げふの通つう路ろなれば憇いこふべき茶ちや店みせもなく、半はん途とに至いたりて古き社やしろに入りてやすらふ。一ひと妓りのぎ社の后うしろに入りて立かへり石の水てう盤づばちの涸かれたる水を僅わづかに掬すくひ、手てを洗あらひしは私たれに去さりしならん。そのまゝ樹きの下もとに立せ玉ふ石いし地のぢ蔵ぞう※ぼさつ﹇#﹁くさかんむり/廾﹂、U+26B07、263-12﹈の前まへに並ならびたちながら、懐くわ中いちゆうより鏡かゞみを出いだして鉛おし粉ろいのところはげたるをつくろひ、唇くち紅べになどさして粧よそほひをなす、これらの粧しや具うぐをかりに石せき仏ぶつの頭かしらに置おく。外げめ面んに女よぼ※さつ﹇#﹁くさかんむり/廾﹂、U+26B07、263-13﹈内ない心しん如によ夜やし叉やのいましめもあれば、※ぼさつ﹇#﹁くさかんむり/廾﹂、U+26B07、263-14﹈はなにとやおもひ玉ふらんともつたいなし。日ひも已すでに下なゝなればおの〳〵あしをすゝめて小を千ぢ谷やへかへりき。︵此紀行別に一本あり、吾が北越旅談にをさむ。︶○ 越後の人物
板はん額がく女ぢよは加か治ぢ明神山の城主長をさの太郎祐すけ森もりが室しつ、古志郡の産さんなり。又三歳の小児も知れる酒しゆ顛てん童どう子じは蒲原郡沙すな子ごつ塚か村の産さん、今猶屋やし敷きあ跡とあり。始はじめは雲うん上しや山うざん国こく上じや寺うじの行ぎや法うほ印ふいんの弟で子しなり。玄げん翁をう和尚は伊いや夜ひこ彦さ山んの麓ふもと箭やは矧ぎ村の産さんなり。近ちか世きよにいたりて徳とく僧そう高かう儒じゆ和哥書画の人なきにしもあらざれども、遠く四方に雷らい名めいせるはすくなし。︵画人呉俊明のち江戸にいでしゆゑ名をなせり︶近年相すま撲ふに越こし海のうみ・鷲わしヶがは浜まは新にひ潟がたの産さん、九くも紋んり竜ゆうは高田今町の産、関せき戸のとは次しだ第いは浜まの産さん也。常たゞ人びとにて力りき士しの聞きこえありしは頸くび城き郡の中野善右エ門、立石村の長兵衛、蒲原郡三条の三五右エ門、是これ等ら無ぶさ双うの大力にて人の知る所なり。又鎧よろ潟ひがたに近き横よこ戸と村の長徳寺、谷たに根ね村の行光寺も怪くわ力いりよくのきこえたかし。此人々はいづれも独ひとりして鐘つりがねを軽かろく掛かけはづしするほどの力は有し人々なり。又孝子にはむかしは村上小次郎、新し発ば田たの菊きく女、頸くび城き郡の僧そう知良、近くは三嶋郡村田村の百ゆ合り女︵百姓伊兵衛がむすめ︶新し発ば田た荒あら川かは村門左エ門︵百姓丑之介がせがれ︶塚つか原はらの豆とう腐ふう売り春松︵鎌介がせがれ︶蒲原郡釈しや迦かつ塚か村百姓新六、いづれも孝かう子しの名一国に高かりき。今存そん在ざいするもありとかや。 百もゝ樹き曰いはく、余よ越後にいたらば板はん額がくあるひは酒しゆ顛てん童どう子しの旧きう跡せきをもたづね、新にひ潟がたをも一覧なし、名の聞えたる神仏をもをがみたてまつり、寺てら泊どまりにのこる 順じゆ徳んと帝くていの鳳おん跡あと、義よし経つね、夢むそ※うこ国く師し﹇#﹁窗−穴かんむり﹂、U+56F1、266-14﹈、法はう然ねん上人、日蓮上人、為ため兼かね卿きやう、遊女初はつ君きみ等とうの古こせ跡きもたづねばやとおもひしに、越後に入りてのち気きう運ん順じゆんを失うしなひ、年とし稍やゝ倹けんして穀こくの価ねだん日々に躍あがり、人じん気き穏おだやかならず。心こゝろ帰かへ家りたきにありて風ふう雅がをうしなひ、古こせ跡きをも空むなしく過よぎり、惟たゞ平なみ々〳〵たる旅りよ人じんとなりて、きゝおよびたる文ぶん雅がの人をも剌たづ問ねざりしは今に遺ゐか憾んなり。嗟あ乎ゝ年としの倹けんせしをいかんせん。○ 無むほ縫うた塔ふ
蒲かん原ばら郡ごほり村松より東一里来らい迎かう村に寺あり、永えい谷こく寺じといふ曹さう洞どう宗しうなり。此寺の近くに川あり、早はや出でが川はといふ。寺より八町ばかり下に観くわ音んお堂んだうあり、その下を流るゝ所を東とう光くわうが淵ふちといふ。永谷寺へ入じゆ院ゐんの住じゆ職うしよくあれば此淵ふちへ血けち脉みやくを投なげ入るゝ事先せん例れいなり。さて此永谷寺の住職遷せん化げの前ぜん年ねん、此淵ふちより墓はかの石になるべき円まるき自じね然んせ石きを一ツ岸きしに出いだす、是これを無ふほ縫うた塔ふと名づけつたふ。此石出いづればその翌よく年ねんには必かならず住じゆ職うしよく病びや死うしする事むかしより今にいたりて一度も違ちがひたる事なし。此墓はか石いし大小によりて住職の心に応おうぜず淵ふちへかへせば、その夜よ淵逆げき浪らうして住職のこのむ石を淵に出したる事度々あり。先年凡ぼん僧そうこゝに住職し此石を見て死しを惧おそれ出しゆ奔つほんせしに翌よく年他たこ国くにありて病死せしとぞ。おもふに此淵にありて天てん然ねんの死しを示しめすなるべし。友いう人じん北ほく洋やう主人︵蒲原郡見附の旧家、文をこのみ書をよくす︶件くだんの寺を覧みたる話はなしに、本堂間まぐ口ち十間、右に庫く裏り、左に八間けんに五間の禅ぜん堂だうあり、本堂にいたる阪さかの左りに鐘しゆ楼ろうあり、禅堂のうしろに蓮れん池ちあり。上に坂あり、登りて住じゆ職うしよくの墓所あり。かの淵ふちより出いだしたる円まる石いしを人じん作さくの石の台だいの脚あしあるにのせて墓はかとす。中まん央なかなるを開かい山さんとし、左右に次しだ第いして廿三基きあり。大なるは径わたり一尺二三寸ばかり、八九寸六七寸なるもあり、大小は和尚の徳に応おうずといひつたふとぞ。台の高さはいづれも一尺ばかりなりと語られき。かの淵ふちにありといふは、むかし永光寺のほとりに貴きに人ん何なに某がし住玉ひしに、その内ない室しつ色しき情じやうの妬ねたみにて夫をつとをうらみ、東光が淵に身を沈しづめ、冤ゑん魂こん悪あく竜りゆうとなりて人をなやまししを、永光寺の開山︵名をきゝもらせり︶血けち脉みやくをかの淵ふちにしづめて化け度どし玉ひしゆゑ悪竜得とく脱だつなし、その礼とてかの墓はか石いしを淵ふちにいだして死し期きを示しめす。是こゝ以をもつて今にいたりても入じゆ院ゐんの時は淵に血脉を沈しづむと寺じせ説つにつたふとぞ。 ○さてまた我が隣りん国ごく信濃にも無むほ縫うた塔ふの事あり。近江の石亭が雲うん根こん志しにいはく︵前編異之部︶信濃国高井郡渋しぶ湯ゆ村横井温泉寺の前に星河とて幅はゞ三町ばかりの大河あり、温泉寺の住僧遷せん化げの前年に、此河中へ何いづ方かたよりともなく、高さ二尺ばかりなる自じね然んせ石きの方かくにしてうつくしき石塔一ツ流れきたる、実まことに彫てう刻こくせるごとくにて天てん然ねんの物なり。此石出いづると土どみ民んども温泉寺へしらせる事なり、きはめて翌よく年住僧遷せん化げなり、則しるしに此石を立る。九代以前より始りしが代々九代の石塔、同石同様にて少しも違たがはず並ならびあり。或ある年としの住僧此塔の出たる時天を拝していのる、我法ほつ華け千部読どく経きやうの願ぐわんあり、今一年にして満みてり、何とぞ命を今一年延のばし玉へと念じて、かの塔を川中の淵ふちに投なげこみたり。何事もなく一年すぎて千部読どく経きやうのすみし月に件くだんの石又川中にあらはるゝ、其翌年はたして遷せん化げなりと。その次の住僧塔のいでたる時何のねがひもなく淵ふちへなげこみたり、幾度なげしづめても其夜そのよにいでたり、翌年病死ありしとぞ。此辺にて是を無むは帽うた塔ふと名づく。︵以上一条の全文︶越後に永光寺、信濃に温泉寺、事の相あひ似にたる一奇きく怪わいといふべし。 ○百もゝ樹き曰、牧之老人が此草した稿がきを視みて無むほ縫うた塔ふの縫ほうの字じ義ぎ通つうじがたく誤ご字じにやとて郵ひき示やくたよりして問とひければ、無むほ縫うた塔ふと書かき伝つたへたるよしいひこしぬ。雲うん根こん志しには無むは帽うた塔ふとあり、無むは帽うの字じも又通つうじがたし。おそらくは無むば望うた塔ふにやあらん。住僧の心には死しぬがいやさに無のぞ望みな塔きたふなるべし。こゝに無むけ稽いの一いつ笑せうを記しるして博はく識しきの確かく拠きよを竢まつ。○ 北ほく高かう和わせ尚う
魚沼郡|雲うん洞どう村むら雲洞庵は越後国四大寺の一なり。四大寺とは滝谷の慈じく光わう寺じ、︵村松にあり︶村上の耕かう雲うん寺じ、伊や弥ひ彦この指しげ月つ寺じ、雲洞村の雲洞庵なり。十三世通つう天てん和わせ尚うは、 霜さう台たい君くんの︵謙けん信しんの事︶親しん藉せきにて、高かう徳とくの聞えは今も口うは碑さにのこれり。 景かげ勝かつ君くんも此寺に物もの学まなび玉ひしとぞ。一国の大寺なれば古こも文んじ書よ宝物等も多し、その中に火くわ車しや落おとしの袈け裟さといふあり、香かう染そめの麻あさと見ゆるに血ちの痕あとのこれり。是を火車落とて宝物とする由ゆら来いは、むかし天正の頃雲洞庵十世北高和尚といひしは学がく徳とく全ぜん備びの尊者にておはせり。其頃此寺にちかき三郎丸村の農のう家かに死しば亡うのものありしに、時しも冬の雪ふりつゞき雪ふゞ吹きもやまざりければ、三四日は晴はれをまちて葬さう式しきをのばしけるに晴はれざりければ、強しひていとなみをなし、旦だん那なで寺らなれば北高和尚をむかへて棺くわんをいだし、親しん族ぞくはさら也人々蓑みの笠かさに雪をしのぎて送おくりゆく。その雪ゆき途みちもやゝ半にいたりし時猛まう風ふう俄にはかにおこり、黒こく雲うん空そらに布しき満みちて闇あん夜やのごとく、いづくともなく火の玉飛来り棺くわんの上に覆おほひかゝりし。火の中に尾はふたまたなる稀け有うの大猫ねこ牙きばをならし鼻はなをふき棺くわんを目がけてとらんとす。人々これを見て棺を捨すて、こけつまろびつ逃にげまどふ。北高和尚はすこしも惧おそるゝいろなく口に咒じゆ文もんを唱となへ大たい声せい一いつ喝かつし、鉄てつ如によ意いを挙あげて飛つく大猫の頭かしらをうち玉ひしに、かしらや破やぶれけん血ほどはしりて衣ころもをけがし、妖えう怪くわいは立たち地どころに逃にげ去さりければ、風もやみ雪もはれて事なく葬式をいとなみけりと寺の旧記にのこれり。此時めしたるを火車おとしの法ころ衣もとて今につたふ。百もゝ樹き曰いはく、余よ越遊して塩沢に在し時、牧之老人に伴ともなはれて雲洞庵にいたり、︵塩沢より一里ばかり︶庵あん主しゆにも対たい話わなし、かの火車おとしの袈け裟さといふ物その外の宝物古こも文んじ書よの類るゐをも一覧らんせり。いかにも大寺にて祈祷の二字を大たい書しよしたる竪たて額がくは 順徳院の震しん筆ひつなりとぞ。︵佐渡へ遷幸のときの震筆なるべし︶門前に直なほ江え山城守の制せい札さつあり、放はう火くわ私しば伐つを禁きんずるの文なり。庭てい中ちゆう池のほとりに智勇の良将宇佐美駿河守刃じん死しの古こふ墳ん在ありしを、先年牧之老人施せし主ゆとして新あらたに墓ぼ碑ひを建たてたり。不ふき朽うの善ぜん行ぎやうといふべし。︵本文に火車といふは所いは謂ゆる夜やし叉やなるべし、夜叉の怪は唐土の書にもあまた散見せり。︶
○ 年ねん賀がの哥うた
余よ六十一還くわ暦んれきの時年賀の書しよ画ぐわを集あつむ。吾わが国くにはさらなり、諸国の文ぶん人じん三都との名めい家か妓きぢ女よ俳はい優いう﹇#﹁俳優﹂の左に﹁ヤクシヤ﹂の注記﹈来らい舶はく清せい人ひとの一絶ぜつをも得えたり。みな牧之に贈おくるといふをしるしたるなり、人より人にもとめて千余幅におよべり、帖でふとなして蔵す。ひとゝせ是を風入れするため舗みせにつゞきたる坐ざしきの障しや子うじをひらき、年賀の帖を披ひらき並ならべおきたる所へ友いう人じん来り、年賀の作さく意い書画の評ひやうなどかたりゐたるをりしも、順じゆ礼んれいの夫ふう婦ふ軒のき下したに︵我が里言には廊下といふ︶立たちけり。吾が家常に草わら鞋んづをつくらせおきてかゝる者ものに施ほどこすゆゑ、それをも銭をもあたへしに、此順礼の翁おきな立さらでとりみだしたる年賀の帖を心あるさまに見いれたるが云いふやう、およばずながらわれらも順礼の腰をれを申さん、たんざく玉はれといふ。乞こつ食じきのやうなるすがたには似に気げなきことばのおぼつかなしと思ひながら、短たん尺ざくすゞりばこいだしければ、
としるしたるふでのはこびも拙つたなからず。年賀にはひとふしかはりたる趣しゆ向かうといひ、順じゆ礼んれいに五放舎と戯たはふれたる名もおもしろく、友人と倶ともにおどろき感かんじ、宿やどを施せぎ行やうせん、ゆる〳〵ものがたりせんなど、友人もさま〴〵にすゝめたれど、杖つゑをとゞめずして立さりけり。国は西国とばかりいへり、いかなるものにてやありけん。
○ 逃にご入ろむ村らの不ふ思し議ぎ
小を千ぢ谷やより一里あまりの山やま手てに逃にご入ろむ村らといふあり、︵にげ入りを里俗にごろとよぶ︶此村に大塚つか小塚とよびて大小二ツの古こふ墳ん双ならびあり。所の伝つたへに大なるを時しへ平いの塚とし、小なるを時平の夫ふじ人んの塚といふ。時平大臣夫婦の塚此地に在あるべき由いは縁れなきことは論におよばざる俗ぞく説せつなり。しかれども爰こゝに一ツの不思議あり、そのふしぎをおもへば、むかし時平にゆかりの人越後に流ながされなどして此地に終をはりたるにやあらん。その不思議といふは、昔より此逃入村の人手てな習らひをすれば天満宮の祟たゝりありとて一村の人皆無むひ筆つなり。他たき郷やうに身みを寄よせて手習すれば祟たゝりなし。しかれども村にかへれば日を追おひて字じを忘わすれ、終つひには無筆となる。このゆゑに文も字じの用ある時は他の村の者にたのみて書しよ用ようを弁べんず。又此村の子どもなど江戸土みや産げとて錦絵をもらひたる中に、天満宮の絵あればかならず神の祟たゝりの兆しるしありし事度々なりしとぞ。さればかの大塚小塚を時平大臣夫婦の古こふ墳んなりと古くいひつたふるも何か由ゆえ縁んある事なるべし。菅くわ家んけの筑つく紫しにて薨こうじ玉ひたるは延えん喜ぎ三年二月廿五日なり、今を去る事︵百樹曰、こゝに今といひしは牧之老人が此したがきしたる文政三年をいふなり︶九百十五年前なり。今にいたりても神しんの明々たる事おそるべし尊たうとむべし。 さて又これにるゐする事あり、南なんが東とう遊いう記きを見るに、南東遊して津つが軽るに居たる時、六七日も風雨つゞきしうち、所の役人丹後の人や居をると旅やど店やご毎とにきびしくたづねしゆゑ、南あるじにそのゆゑを問ひければ、あるじいふやう、当国岩いは城きは人のしりたる安寿姫対王丸の生国なり、さればむかしの人此御ふたりを岩城山の神にまつりて社やしろ今に在り。此兄弟丹後にさまよひ三庄太夫が為に悃くる苦しみたるゆゑに丹後の人をいみきらひ、丹後の人此国に入ればかならず大風雨有て日をわたる事むかしよりの事なり。丹後の人此国の堺さかひをいづれば風雨たちまちやむゆゑに、丹後の人や居ると捜さがすなりといへりと。南なん子けいし此事に遇あひたりとて記せり。右にいふ兄弟の父岩いは城きは判んぐ官わん正まさ氏うぢ在ざい京きやうの時讒ざんにあひて家の亡びたるは永保年中の事なり、今をさる事およそ七百五十余年也。兄弟の怨ゑん魂こん今に消せう滅めつせざる事人じん知ちを以論ずべからず。︵百樹曰、安寿は対王が妻なるよし塩尻廿二巻にいへり、猶考︶西遊記︵前編︶景かげ清きよが塚つかは日向にあり、世の知る処なり。其母の塚は肥後国求く麻まの人吉の城下より五六里ほど東、切きり幡ばた村むらにまつる。此所に景清が娘の墳つかもあり、一村の氏神にまつる、此村かならず盲まう人じんを忌いむ、盲人他処より入れば必祟たゝりあり、景清後のちに盲人になりしゆゑ、母の盲めく人らを嫌ふと所の人のいへりと記しるせり。これらの逃にご入ろむ村らの不ふ思し議ぎに類せり。しかれども件くだんの二ツは社やしろありて丹後の人を忌いみ、墓はかありて盲めく人らをきらふなり、逃にご入ろむ村らは墳つかあるゆゑに天満宮の神しん此地を忌いみ玉ふならん。こゝをもつて考かんがふるに、かの古こふ墳んはいよ〳〵時平が血けち脉みやくの人なるべし。 百もゝ樹き曰いはく、余よ越ゑつ遊いうして小を千ぢ谷やに在りし時、所の人逃にご入ろ村の事を語かたりて、かの古墳を見玉へ案内すべしといひしかど、菅神のいみ玉ふ所へ文ぶん墨ぼくの者強しひてゆくべきにもあらねば、話はなしをきゝしのみにてゆかざりき。さて 天神様といへば三歳の小児も尊び、時平ときけば此 御神を讒ざん言げんしたる悪人なりとて、其悪千古に上下して哥か舞ぶ妓き狂言にも作りなし、婦女子も普あまねく知る所なれど、童どう稚ち女ぢよ子しはその実じつ跡せきをしれるが稀まれなり。さればかゝるはかなき冊さう子しに此 御神の事を記しるすはいともかしこけれど、逃にご入ろむ村らの因ちなみによりてこゝに書かき載のす。 ○謹つゝしんで案あんずるに、菅すが原はらの本姓は土は師じなりしが、土は師じの古ふる人ひとといひしが、 光くわ仁うに帝んていの御時、大和国菅すが原はらといふ所に住すみたるゆゑに土師の姓を菅原に改らる。菅神御名は道みち真ざね、字あざなは三、童名を阿あ呼こと申たてまつる。︵阿呼の御名に余が考あれども、文長ければこゝにはぶく︶ 仁にん明みや帝うていに仕へ玉ひたる文もん章しや博うは士かせ参さん議ぎ是これ善よし卿きやうの第三の御子、承じや和うわ十二年に生うまれ玉へり。七歳の時紅こう梅ばいを御覧じて﹁梅の花紅べ脂にのいろにぞ似たる哉阿あ古こが顔にもぬるべかりけり﹂十一の春︵斉衡二年︶父君より月げつ下かの梅うめといふ詩しの題だいを玉ひたる時即そく坐ざに﹁月ノ輝カヽヤクハ如シ二晴ハル、雪ノ一梅花ハ似タリ二照ル星ニ一可シレ憐ム金鏡転シテ庭上玉房馨カンバシ﹂御祖父︵清公︶御父︵是善卿︶の学業を受うけ嗣つぎ玉ひて文ぶん芸げいはさらなり、武事にも疎うとからずまし〳〵けり。 ○清和天皇の貞観元年御年十五にて御元服、同四年文もん章じや生うせいに挙あげられ、下野の権ごん掾のじやうにならせらる。同十四年御年廿八御母伴とも氏うぢ身まかり玉ひ、 陽やう成ぜい天てん皇わうの元ぐわ慶んぎやう四年八月晦日御父是ぜぜ善んき卿やうも身まかり玉へり。︵御年六十九︶此時 菅神は御年四十一なり。 ○寛くわ平んびやう四年御年四十八類るゐ聚じゆ国こく史し二百巻を撰えらみ玉ふ。和哥は菅家御集一巻、詩文は菅家文草十二巻同後草一巻︵後草は筑紫にての御作なり︶今も世に伝ふ。大納言公きん任とう卿きやうが朗らう詠えい集しふに入れられたる菅家の詩に﹁送ルハレ春ヲ不レ用ヒレ動スコトヲ二舟車ヲ一唯別ル三残鴬ト与トニ二落花一若モシ使シテ二韶光ヲ一知ラシメバ二我ガ意ヲ一今※﹇#﹁雨かんむり/月﹂、U+2B55F、277-5﹈旅宿在ン二詩家ニ一﹂此御作は 延喜帝いまだ東とう宮ぐうたりし時令れい旨しありて一ひと時ゝきの間に十首の詩を作り玉ひたる其一ツなり。 ○さて御若年より数すか階いを歴へ給ひて後、寛くわ平んびやう九年御年五十三権大納言右□将を兼かねらる。此時時しへ平い大納言に任にんぜられ左□将を兼、 菅神と並び立て執しつ政せいたり。此時大臣の官なかりしゆゑ、大納言にて執政たり。此年七月三日 宇うだ多て帝い御みく位らゐを太子敦あつ仁ひと親王へ譲ゆづり玉ひ朱すじ雀やく院へ入らせ玉ひ、亭てい子じ院と申奉り、御法ほつ体たいありては 寛くわ平んび法やう皇ほふわうとぞ申奉る。 敦あつ仁ひと親王を 醍だい醐ご天皇とも後のちよりは延喜帝とも申奉る。︵御年十三︶年号を昌しや泰うたいと改元す。同二年時平公左□臣、 菅神右□臣相あひ倶ともに 帝みかどを補ほ佐さし奉らる、時に時平公二十七、 菅神五十四。両公左右の□臣たれども才さい徳とく年ねん齢れい双さう璧へきをなさず、故に心齟そ齬ごして相和くわせず。是これ 菅神の讒ざん毒どくを得え玉ふの張ちや本うぼんなり。 ○そも〳〵時平公は大職冠九代の孫そん照せう宣ぜん公の嫡ちや男くなんにて、代々□臣の家いへ柄がらなり。しかのみならず延喜帝の皇きさ后きの兄あになり。このゆゑに若年にして□臣の貴きち重やうに職しよくししなり。此人の乱らん行ぎやうの一ツを言いはば、叔を父ぢたる大納言国くに経つね卿きやうは年とし老おい、叔を母ばたる北の方は年若く業なり平ひらの孫まご女むすめにて絶ぜつ世せいの美びじ人んなり。時平是に恋れん々〳〵す、夫ふじ人んもまた夫をつとの老おいたるを嫌きらふの心あり。時平或ある日ひ国くに経つねの許もとに宴えんし、酔すゐ興きやうにまぎらして夫ふじ人んを貰もらはんといひしを、国経も酔ゑひたれば戯たは言ぶれごととおもひてゆるしけり。さて国経が酔ゑひ臥ふしたるを見みて叔を母ばを車にいだき入れて立かへり、此腹はらに生れたるを中納言敦あつ忠たゞといふ、時平の不ふだ道う此一を以て其その余よを知しるべし。かゝる不道の人なれば、 寛平法皇の︵帝の御父︶御心には時平の任にんを除のぞき 菅神御一人に国政をまかせ玉はんとのおぼしめしありしに、延喜元年正月三日、帝みかど亭てい子じゐ院んへ朝てう覲きんのをりから御内心を示しめし玉ひしに 帝もこれにしたがひ玉ひ、其日 菅神を亭子院にめして事のよしを内ない勅ちよくありしに 菅神固かたく辞じしたまひしに許ゆるし玉はざりけり。︵同月七日従二位にすゝみ玉へり︶此密みつ事じいかにしてか時平公の聞きゝにふれしかば、事に先さきんじて 帝に讒ざんするやうは、君の御弟斉とき世よ親王は道みち真ざねの女むすめを室しつ適てき﹇#﹁室適﹂の左に﹁オクサマ﹂の注記﹈して寵ちよ遇うぐう厚あつし。是こゝ以をもつて君を廃はいして親王を立、国こく柄へいを一人の手に握にぎらんとの密みつ謀ぼうあり 法ほふ皇わうも是に応おうじ玉ふの風ふう説せつありと言ことばを巧たくみに讒ざんしけり。時に 延喜帝御年十七なり。 皇きさ后きは時平公の妹なれば内外より讒ざん毒どくを流して若わか帝みかどの御心を動うごかし奉りたるなり。 ○さて時平が毒どく奏そうはやく中あたりて、同月廿五日左さが降うの宣せん旨じ下りて右□臣の職しよくを削けづり、従二位はもとのごとく太だざ宰いご権んの帥そつとし︵文官︶筑つく紫しへ左させ遷んに定め玉へり。 寛くわ平んびやう法皇此事を聞きこしめして大におどろかせ給ひ、御みく車るまにもめし玉はず俄に御沓くつをすゝめ玉ひて清涼殿に立せ玉ひ、斯かくと申せとおほせありしかども左右の諸陣警けい固ごして事を通ぜず、是も時平が讒ざんに一味する菅根の朝臣がはからひとかや。 法皇は草むし坐ろにざし玉ひ終日庭に上はに御ましまし晩くれにいたりてむなしく本院へ還□かへらせ玉へり。 ○菅神に御子二十三人おはせり。御男子四人は四方へ流ながされ玉ふ、是も時平が毒どく舌ぜつによれり。姫ひめたちは都にとゞまり幼をさなきはふたり筑紫へしたがへ給へり。年とし頃ごろ愛めで玉ひたる梅にさへ別れををしみたまひて﹁東こ風ち吹ふかば匂ひをこせよ梅の花主あるじなしとて春な忘わすれぞ﹂此梅つくしへ飛とびたる事は挙よの世ひとの知る処なり。又桜を﹁桜花主ぬしを忘わすれぬものならば吹こん風にことつてはせよ﹂ ○斯かくて延喜元年辛酉二月朔日京の高辻の御舘をいで玉ひて、津の国須す磨まの浦に日を移うつしつくしへ抵いたりたまへり。︵やかたをいで玉ひてよりつくしへいたり給ひしまでの事どもを、菅神の筆記せさせ給ひたるを須麻の日記とて今も世にのこれり、一説に偽書といふ。︶ ○筑つく紫し太だざ宰い府ふにて﹁離レテレ家ヲ三四月 落涙百千行 万事ハ皆如シレ夢ノ 時々仰アヲク二彼ヒサ蒼ウヲ一﹂御哥に﹁夕ざれば野にも山にも立烟りなげきよりこそもえまさりけれ﹂又雨の日に﹁雨の朝あしたかくるゝ人もなければやきてしぬれ衣きぬひるよしもなき﹂︵ぬれぎぬとは無むじ実つのつみにかゝるをいふなり︶ ○つくしにいたり玉ひては不ふし出つも門んか行うといふ詩しを作り玉ひて、寸すん歩ほも門もん外のそとへいで玉はず。是朝てう廷ていを尊たうとみ恐おそれ、御身の謫てき官くわん﹇#﹁謫官﹂の左に﹁ナガサレモノ﹂の注記﹈たるをつゝしみたもふゆゑなり。御句に﹁都府楼ハ纔ワズカニ看ミ二瓦ノ色ヲ一 観音寺ハ只タヾ聴ク二鐘ノ声ヲ一﹂ ○菅神延喜元年二月朔日都を出玉ひて筑紫へいたり玉ひしは八月なり。是より前の御詩文を菅家文草といひ︵十二巻︶左遷より後のを菅家後草とて︵一巻︶今も世につたふ。後草に九月十三夜の題だいにて﹁去年今夜侍ジシキ二清涼ニ一 秋思ノ詩篇独リ断ツレ膓ハラワタヲ 恩賜ノ御衣今在コレヽニ此アリ 捧サヽ持ゲモチテ毎日拝ス二余香ヲ一﹂此御作に注ちゆうあり、その趣おもむきは、○去年とは昌しや泰うたい三年なり︵延喜元年の一年まへ︶其年の九月十三夜、 清涼殿に侍じか候うありし時、秋思といふ題だいを玉はりしに、詩しの意こゝろにことよせて諫いさめたてまつりしに、其いさめを容いれ玉ひよろこばせ給ひて御衣を賜ひたるを、此配はい所しよにもちくだりて毎日御衣にのこりたる余よか香うを拝はいすと、 帝みかどをしたひ御恩を忘れ玉はざる御心の誠まことを作り玉ひたるなり。此一詩をもつても無むじ実つの流るざ罪いに所しよして露ばかりも帝を恨うらみ玉はざりしを知るべし。朝てう廷ていを怨うらみ給ひて魔まだ道うに入り、雷かみ公なりになり玉ひたりといふ妄まう説せつは次に弁べんずべし。 ○高辻の御庭の桜枯かれたりときゝ玉ひて﹁梅は飛桜はかるゝ世の中に松ばかりこそつれなかりけれ﹂ ○さて太宰府に謫てき居きよし給ふ事三みと年せにして延喜三年正月の頃より 御心例れいならず、二月廿五日太宰府に薨こうじ玉へり、御年五十九。御墓はかは府にちかき四ツ辻といふ所に定め、 御棺くわんをいだしけるに途とち中うにとゞまりてうごかず、則すなはちその所に葬り奉る、今の 神しん是なり。 ○延喜五年八月十九日同所安楽寺に始はじめて 菅神の神殿を建らる。味あぢ酒さけの安やす行ゆきといふ人是をうけたまはる。同九年神殿成る。是よりさき四人の御子配はい流るをゆるされ玉ひ、おの〳〵故もとの位にかへされ玉ふ。 ○神かん去さり玉ひしのち水すゐ旱かん風ふう雷らいの天変へんしば〳〵ありて人の心安からず。是ぞ 菅公の祟たゝりなるらんなど風説しけるとかや。 ○菅神薨こう去きよより七年にあたりて延喜九年四月、左□臣藤原時平公薨こうず、歳三十九。又一男八条の大将保やす忠たゞ、その弟中納言敦あつ忠たゞおよび時平の女むすめ、︵延喜帝の女御なり︶孫の東宮までも相つゞきて薨こうぜらる。又時平の讒ざん毒どくに荷かた担んしたる菅すが根ねの朝臣は延喜八年十月死す。これらの事どもをも 菅神の祟なりと世に流る布ふせしは 菅公の冤ゑん謫てき﹇#﹁冤謫﹂の左に﹁ムジツノナガサレ﹂の注記﹈を世の人哀あはれみ戚なげきたるゆゑとかや。 ○延長元年三月保やす明あきら太子薨こう去きよ。︵時平の孫、まへに東宮といひし是也。︶ ○同年四月廿日贈位正二位本官の右□臣に復かへし玉ふ。︵神さり給ひしより二十年。︶ ○一条院の御時正暦四年五月廿一日 菅神に正一位左□臣を贈おくらる。︵菅神百年御忌にあたる。︶ ○同年閏十月十九日大政□臣を贈おくらる。しかれば此 御神の御位は正一位大政□臣としるべし。後こう年ねん屡しば〳〵神しんの赫かく々〳〵たる徴しるしありしによりて、 天満宮、或 自在天神の贈さう称しようあり。 ○そも〳〵 醍だい醐ご天皇は︵在位卅二年︶百廿代の御皇くわ統うとうの中にも殊に御徳とく達たつたりしゆゑ、延喜の聖せい代だいと称し、御在位の久かりしゆゑ 延喜帝とも申奉る。 御若冠の時とは申ながら、賢けん者しやの聞きこえある重臣の 菅公を時平大おと臣ゞが一時の讒ざん口こうを信じ玉ひて其実否をも糺たゞし玉はず、卒そつ尓じに菅公を左させ遷んありしは 御一代の失しつ徳とくとやいふべき。しかるを 菅神の恨うらみ玉はざりしは配所の詩哥にてもしらる、 菅神はうらみ玉はずとも賢けん徳とく忠臣の冤ゑん謫てきを天のいきどほりて水すゐ旱かん風ふう雷らいの異いへ変ん、讒ざん者しや奸かん人じんの死しば亡うありしならん。俗ぞく子しは是を 菅神の怨おんとするは是又 菅神の賢けん行かうに瑾きずつけるなり。しかれども竊ひそかに謂おもへらく、賢けん者しやは旧きう悪あくをおもはずといふも事にこそよれ、冤ゑん謫てき懆さう愁しうのあまり讒ざん言げんの首しゆ唱しやうたる時しへ平いの大おと臣ゞを肚とち中ゆう﹇#﹁肚中﹂の左に﹁ハラノナカ﹂の注記﹈に深く恨み玉ひしもしるべからず。本編にいふ逃にご入りむ村らを神の忌いみ玉ふも其徴しるしとするの一ツなるべし。 ○神去り玉ひしより廿八年の後延長八年六月二十六日、大雷清涼殿に隕おちて藤原清きよ貫つら︵大納言︶平たひ稀らの世まれよ︵右中弁︶其外侍じか候うの人々雷火に即そく死しす、 延喜帝常じや寧うね殿いでんに渡御ありて雷火を避さけたまふ。是をも 菅神の祟たゝりとするはいよ〳〵非ひせ説つなりと、安あん斎さい先生︵伊勢平蔵︶の菅くわ像んざ弁うべんにもいへり。 ○太宰府より一里西に天拝はい山さんあり。 菅神この山にのぼりて朝てう廷ていを怨うらむ告かう文ぶんを天に捧さゝげて祈いのり、雷神となり玉ひしといふは、賢けん徳とくの御心をしらざる俗ぞく子しの妄まう説せつを今に伝つたへたるなり。和漢三才図づ会ゑにも実まことしやかに記しるしたるは、不ふし出つも門んか行うの御作に心を深ふかめざるにやあらん。 ○法性坊尊そん意い叡えい山ざんに在し時 菅神の幽いう来り我冤むし謫つのながされの夙ふるを償むくはんとす、願くは師の道力をもつて拒こばむことなかれ。尊意曰、卒そつ土とは皆王民なり、我もし 皇みかどの詔みことのりをうけ玉はらば避さくるに所なし。菅神色はづるいろあり、適たま〳〵柘さく榴ろを薦すゝむ、 菅神哺たべかけを吐はきて焔ほのふをなし玉ひしといふ故ふる事ことは、元げん亨かう釈しや書くしよの妄まう説せつに起おこる。︵此書は今天保十年より五百廿年前元亨二年東福寺の虎関和尚の作なり︶かゝる奇怪の事を記すは仏者の筆ふで癖くせなりと、安あん斎さい先生もいへり。 ○白太夫といふは伊勢渡わた会らひの神しん職しよく 菅神文ぶん墨ぼくに於格外の懇こん友いうなり、ゆゑに北野に祀まつりて今も社あり。︵此御神の事を作りたる俗曲に梅王松王桜丸の名はかの梅は飛の御哥によりてまうけたる名なり。︶ ○北野の御社の始はじめは天てん慶きやう五年六月九日より勅ちよ命くめいによりて建たて創はじむ。其起りは西の京七条に住すみたる文あや子こといふ女に神託たくありしによりてなり。︵北野縁起につまびらかなり。︶ ○世に渡とた唐うの天神といひて唐たう服ふくに梅花一いつ枝しを持玉ふを画く。故ふる事ことは、仏ぶつ鑑かん禅ぜん師じ︵聖一国師とおくり名す、東福寺の開山国師号の始祖︶博はか多たに住玉ひたる跡あとの地中より掘いだしたる石に 菅神の唐もろ土こしへ渡り玉ひて経きん山ざん寺じの無むじ準ゆん禅ぜん師じに︵聖一国師の師なり︶法を受うけ玉ひて日ひの本もとへ帰かへり玉ひたりと、件くだんの石に彫ほりつけありしと古こし書よに見えたるを拠よりところとして、渡とた唐うの 神しん影えいを画き伝つたへたるなり。此事固もとより妄まう説せつなりと安斎先生の菅くわ像んざ弁うべんにいへり。︵菅家聖伝暦といふ書の附録に、沙門師嵩が菅神渡唐記あり、其説孟浪に属す。︶ ○菅神左させ遷んの実じつ跡せきを載のせたるは、○日本紀きり略やく︵抄録に巻序を失意せり︶○扶ふさ桑うり略やく記き︵巻卅三︶〇日本史し︵百卅三︶の列れつ伝でん︵五十九︶〇菅家御伝記︵神かみ統のみすゑ菅原陳のぶ経つね朝臣御作正史によられたれば証とすべし︶其その余よ虚きよ実じつ混こん合がふ﹇#﹁混合﹂の左に﹁マジリ﹂の注記﹈したる古今の書しよ籍じやく枚まい挙きよ﹇#﹁枚挙﹂の左に﹁アゲツクス﹂の注記﹈すべからず。 ○本朝文ぶん粋すゐに挙あげたる大江匡まさ衡ひらの文に﹁天満自在天神或は塩二梅てん於かを天あん下ばいして一輔いち導にん一をほ人だうし一︵帝の御こと︶或日てん二しや月うに於じつ天げつ上して一照二臨まん万みん民をせうりんす一就レ中なかんづく文ぶん道だう之のた大い祖そ風ふう月げつ之のほ本んし主ゆ也なり﹂云云。大江家けは 菅原家と倶ともに 朝てう廷ていに累だい世〳〵する儒じゆ臣しんなり。しかるに 菅神を崇あが称めたゝへたる事件くだんの文の如し。是こゝ以をもつて凡すべて文道に関あづかる者此 御神を崇あがめざらんや、信ぜざらんや。 ○およそ 菅神を祀まつる社やしろにはおほかたは雷らい除よけの護まも府りといふ物あり。此 御神雷の浮うき名なをうけ玉ひたるゆゑ、 神しん雷らいを忌いみ玉ふゆゑに此まもりかならず験しるしあるべし。 ○さて如くだ件んのごとく条でう説せつするは、本編にいへる逃にご入ろむ村らの 神しんの事に因ちなみて実じつ跡せきの書どもを摘てき要えうして御神の略りや伝くでんを児こど曹もに示しめすなり。固もとより不ふが学くのすさみなれば要えう跡せきの漏もれたるも説せつの誤あや謬まりたるもあるべし。あなかしこ謹つゝしんで附ふ記きす。 ○再ふたゝび按あんずるに、孔子の聖せいなるもそのは生いける時よりも照せう然ぜんとして、その墓はか十里荊けい棘きよく﹇#﹁荊棘﹂の左に﹁ムバラ﹂の注記﹈を生ぜず、鳥も巣すをむすばず。関くわ羽んうの賢けんなるも死ししては神となりて祈いのるに応おうず。是これ則すなはち生いきては形かたちを以て運めぐり、死しゝては神たましひを以て運めぐるゆゑなりとかや。︵文海披沙の説︶菅神も此論ろんに近し。逃にご入ろむ村らの事を以ても千年にちかき神しんの赫かく々〳〵たること仰あふぐべし敬うやまふべし。盖けだし冥めい々〳〵には年月を置おかずときけば百年も猶なほ一日の如くなるべし。︵菅公の神にるゐする事和漢に多し、さのみはとこゝにもらせり。︶○ 田たし代ろの七ツ釜かま
魚沼郡の官くわ駅んえき十日町の南七里計ばかり、妻つま在りの庄しやうの山中︵此へんすべて上つまりといふ︶に田たし代ろといふ村あり。村を去さる事七八町に七ツ釜といふ所あり、︵里俗滝つぼを釜といふ︶滝七段だんあるゆゑに七ツ釜とよびきたれり。銚てう子しの口不ふど動うた滝きなどいふも七ツ釜の内にて、妙めう景けい奇きじ状やう筆ふでをもつて云いふべからず。第七番目の釜の地ちけ景いを爰こゝに図づするをみて其大たい概がいをしるべし。此所の絶ぜつ壁へきを竪たて御おが号う横よこ御おが号うといふ、里りぞ俗く伊勢より御おん師しの持きたるおはらひ箱をおがうさまといふ、此絶ぜつ壁へきの石かの箱の状かたちに似にたるをもつて斯かくいふなり。その似にたりといふは此ぜつへきの石どもの落おちてあるを視れば、厚あつさ六七寸計ばかりにして平ひらみあり、長さは三四尺ばかり、長短はひとしからず、石いし工やの作りなしたるが如し。此石数百万を竪たてに積つみ重かさねて、此数十丈の絶ぜつ壁へきをなす也。頂いたゞきは山につゞきて老らう樹じゆ欝うつ然ぜんたり、是右の方の竪たて御おがうなり。左りは此石の寸尺にたがはざる石を横に積つみかさねて数十丈をなす事右に同じ。そのさま人ありて行ぎや儀うぎよくつみあげたるごとく寸分の斜ゆがみなし、天てん然ねんの奇きこ工う奇々妙々不ふ可か思し議ぎなり。此石の落たるを此田たし代ろむ村らの者ものさま〴〵の物に用ふ、片へん石せきにても他所に用ふれば祟たゝりありし事度々なりとぞ。余よ文政三年辰七月二日此七ツ釜の奇きけ景いを尋たづねて目もく撃げき﹇#﹁目撃﹂の左に﹁ミタトコロ﹂の注記﹈したるを記す。天の茫ばう々たる他国にも是に似たる所あるべし、姑しばらくその類るゐを示しめす。○百もゝ樹き曰、余よ仕つかへに在し時同藩の文学関先生の話はなしに、 君くん侯こう封ほう内ないの︵丹波笹山︶山に天てん然ねんに磨ひきうすの状かたちしたる石をつみあげて柱はしらのやうなるを並ならべて絶ぜつ壁へきをなし、満まん山ざん此石ありとかたられき。又西国の山に人の作りたるやうなる磨ひきうすの状かたちの石を産する所ありと春しゆ暉んきが随ずゐ筆ひつにて見たる事ありき、今その所をおもひいださず。 ○又尾張の名古屋の人吉田重房が著あらはしたる筑つく紫しき記か行う巻の九に、但たじ馬まの国くに多たけ気こほ郡り納なや屋む村らより川船にて但馬の温いで泉ゆに抵いたる途み中ちを記しるしたる条くだりに曰いはく、○猶舟にのりて行ゆく。右の方に愛あた宕ごさ山ん、宮みや島しま村、野のか上み村、石いし山やま︵地名︶など追おひ続つゞきてあり。此石山の川岸に臨さしかゝれる所に奇めづらしき石あり、其形かたち磨ひき磐うすの如く、上下平たひらかにして周めぐりは三角四角五角八角等にして、石いし工やの切立し如く、色は青黒し。是を掘出したる跡あともありて洞ほらのごとし。天下の広ひろきには珍ちん奇きなる事おほきものなりけり云云。是も奇きせ石きの一類るゐなれば筆の次ついでにしるしつ。
北越雪譜二編巻之三 終
[#改丁]
北越雪譜二編 巻之四
越後 鈴木牧之 編選
江戸 京山人百樹 増修
百もゝ樹き曰、唐もろ土こしにも弘こう智ちに似にたる事あり。唐の世の僧義ぎそ存ん没ぼつしてのち尸しかばねを函はこ中のなかに置おき、毎月其徒でしこれをいだし爪つめ髪かみの長のびたるを剪はさ薙みきるを常つねとす。百余年を経へても廃はいせざりしが、後のち国くにのみだれたるに因よりてこれを火くわ葬さうせしとぞ。又宋そう人ひと彭はう乗じやうが作さく墨ぼく客かく揮きさ犀いに鄂がく州しうの僧そう无む夢むも尸しかばねを不うづ埋めず、爪つめ髪かみの長のびたる義ぎぞ存んに同じかりしが、婦人の手に摸なでられしより爪髪のびざりしとぞ。事は五ござ雑つ組そに記しるして枯こが骸いの確かく論ろんあれども、釈しや氏くしを詰なじるに似にたる説せつなればこゝに贅ぜいせず。︵○高僧伝に義存がありしかと覚しが、さのみはとて詳究せず。︶
○按あんずるに、蛾眉山は唐土の北に在ある峻じゆ岳んがくにて、富士にもくらぶべき高山なり。絶ぜつ頂てうの峯みね双なら立びたちて八字をなすゆゑ、蛾がび眉さ山んといふなり。此山の標みち準しるべ、日ひの本もとの北海へながれきたりたる其水すゐ路ろを詳しや究うきゆう﹇#﹁詳究﹂の左に﹁ツマヒラカニキハムル﹂の注記﹈せんとて﹁唐もろ土こし歴れき代だい州しう郡ぐん沿えん革かく地ち図づ﹂に拠よりて清いま国のからの道みち程のり図づち中ゆうを﹇#﹁﹂の左に﹁アラタムル﹂の注記﹈するに、蛾眉山は清いま朝のからの都みやこを距へだつこと日本道四百里許ばかりの北に在り、此山に遠からずして一ひと条すぢの大河東に流ながる。蛾眉山の麓ふもとの河々皆此大河に入る。此大河瀘ろじ州うを流れ三峡けふのふもとを過すぎ、江こう漢かんに至いたり荊けい州じうに入り、○洞とう庭てい湖こ○赤せき壁へき○潯じん陽やう江こう○楊やう子しこ江うの四大江こうに通つうじて江こう南なんを流なが湎れめぐりて東海に入る。是この水すゐ路ろ日本道五百里ばかりなり。さて件くだんの標みち準しるべ洪こう水ずゐにてや水に入りけん、○洞とう庭てい○赤せき壁へき○潯じん陽やう○楊やう子しの海の如き四大だい江こうを蕩たう漾やう周しう流りう﹇#﹁蕩漾周流﹂の左に﹁ナガレシダイメグリナガレ﹂の注記﹈して朽くち沈しづまず。滔たう々〳〵たる水すゐ路ろ五百余よ里りを流ながれて東海に入り、巨こた濤う﹇#﹁巨濤﹂の左に﹁オホナミ﹂の注記﹈に千倒たうし風波に万顛てんすれども断だん折せつ﹇#﹁断折﹂の左に﹁ヲレル﹂の注記﹈砕さい粉ふん﹇#﹁砕粉﹂の左に﹁クダケル﹂の注記﹈せず、直ちよ身くしん﹇#﹁直身﹂の左に﹁ソノミ﹂の注記﹈挺てい然ぜん﹇#﹁挺然﹂の左に﹁ソノマヽ﹂の注記﹈として我国の洋おき中なかに漂たゞよひ、北海の地方に近ちかより、椎しひ谷やの貧ひん民みんに拾ひろはれて始はじめて水を辞はなれ、既すでに一燼じんの薪となるべきを、幸に字じを識しる者に遇あひひて死しく灰わいをのがれ、韻ゐん客かくの為ために題だい詠えいの美びげ言んをうけたるのみならず、竟つひには 椎しひ谷やこ侯うの愛あいを奉ほうじて身を宝ほう庫こに安んじ、万ばん古こふ不き朽うの洪こう福ふくを保たもつ奇妙不ふ思し議ぎの天幸なれば、実じつに稀きせ世いの珍ちん物ぶつなり。 按ずるに、蛾がが蛾どう同ゐ韻ん︵五何反︶なれば相あひ通つうじて往わう々〳〵書しよ見けんす。橋きやうを※きやう﹇#﹁木/喬﹂、305-9﹈に作る頗すこぶる異ゐて体いなり。依よつて明みん人ひと黄くわ元うげ立んりつが字じか考うせ正い誤ご、清せい人ひと顧こえ炎ん武ぶが亭てい林りん遺ゐし書よち中ゆうに在ある金石文字記あるひは碑ひぶ文んて摘き奇き︵藤花亭十種之一︶あるひは楊やう霖りん竹ちく菴あんが古今釈しや疑くぎ中の字じて体いの部ぶなど通つう巻くわん一遍へん捜さう索さく﹇#﹁捜索﹂の左に﹁サガス﹂の注記﹈したれども※きやう﹇#﹁木/喬﹂、305-11﹈の字なし。蛾がび眉さ山んのある蜀しよくの地ちは都を去さる事遠とほき僻へき境きやうなり。推すゐ量りやうするに、田ゐな舎かの標みち準しるべなれば学がく者しやの書かきしにもあるべからず、俗ぞく子しの筆なるべし。されば我わが今の俗ぞく竹を※﹇#﹁にんべん+竹のつくり﹂、305-13﹈とに誤あやまるの類るゐか、猶なほ博はく識しきの説せつを俟まつ。
○偖さて同行十二人、まづ草に坐ざして憇いこふ時、已すでに下なゝなり。はじめ案内者のいひしは登り二里の険けん道だうなれば、一日に往ゆき来ゝすることあたはず、絶ぜつ頂てうに小屋在、こゝにのぼる人必その小屋に一宿する事なりといへり。今その小屋をみれば木の枝えだ、山さゝ、枯かれ草くさなど取りあつめ、ふぢかつらにて匍は匐ひ入るばかりに作りたるは、野のひ非に人んのをるべきさまなり。こゝを今夜のやどりにさだめたるもはかなしとて、みな〳〵笑ふ。僕ぼくどもは枯かれ枝えだをひろひ石をあつめて仮かりにをなし、もたせたる食物を調てうぜんとし、あるひは水をたづねて茶を烹にれば、上戸は酒の燗かんをいそぐもをかし。さて眺みわ望たせば越後はさら也、浅あさ間まの烟けふりをはじめ、信濃の連山みな眼がん下かに波はた濤うす。千ちく隈ま川は白き糸をひき、佐渡は青き盆ぼん石せきをおく。能登の洲すさ崎きは蛾が眉びをなし、越前の遠山は青せい黛たいをのこせり。こゝに眼めを拭ぬぐひて扶ふさ桑う第一の富士を視みいだせり、そのさま雪の一ひと握にぎりを置おくが如し。人々手を拍うち、奇なりと呼よび妙なりと称しよ讃うさんす。千勝しよう万景けい応おう接せふするに遑いとまあらず。雲くも脚あし下もとに起おこるかとみれば、忽たちまち晴はれて日ひの光ひかり眼めを射ゐる、身は天外に在が如し。是この絶頂は周めぐり一里といふ。莽まう々〳〵﹇#﹁莽々﹂の左に﹁ノヒロキ﹂の注記﹈たる平へい蕪ぶ高たか低ひくの所を不み見ず、山の名によぶ苗なへ場ばといふ所こゝかしこにあり。そのさま人のつくりたる田の如き中に、人の植うゑたるやうに苗に似にたる草生おひたり、苗なは代しろを半なかばとりのこしたるやうなる所もあり。これを奇なりとおもふに、此田の中に蛙かへる螽いなごもありて常の田にかはる事なし、又いかなる日てりにも田てん水すゐ枯かれずとぞ。二里の巓いたゞきに此奇きせ跡きを観みること甚不ふ思し議ぎの山れいざんなり。案内者いはく、御花はな圃はたけより︵まへにいひたる所︶別に径みちありて竜りう岩がん窟くつといふ所あり、窟いはやの内に一ひと条すぢの清水ながれそのほとりに古銭多く、鰐わに口くち二ツ掛りありて神を祀まつる。むかしより如かく斯のごとしといひつたふ。このみち今は草木に塞ふさがれてもとめがたしといへり。絶ぜつ頂てうにも石に刻こくして苗なへ場ばだ大いご権んげ現んとあり、案内者は此石人作にあらず、天然の物といへり。俗伝なるべし。こゝかしこ見めぐるうち日すでにくれて小屋に入り、内には挑てう燈ちんをさげてあかりとし、外には火を焼てふたゝび食をとゝのへ、ものくひて酒を酌くむ。六日の月皎かう々〳〵とてらして空そらもちかきやうにて、桂かつらの枝えだもをるべきこゝちしつ。人々詩しを賦ふし哥をよみ、俳句の吟ぎん興きやうもありてやゝ時をうつしたるに、寒気次第に烈はげしく、用意の綿入にもしのぎかねて終よも夜すがら焼火にあたりて夢ゆめもむすばず、しのゝめのそらまちわびしに、はれわたりたればいざや御来らい迎かうを拝をがみたまへと案内がいふにまかせ、拝をが所むところにいたり日の昇のぼるを拝はいし、したくとゝのへて山をくだれり。︵別に紀行あり、こゝには其略をいふのみ。︶ ○百もゝ樹き曰いはく、余よ越ゑつ遊いうしたる時、牧ぼく之し老人に此山の地勢を委しくきゝ真しん景けいの図づをも視みたるに、巓いたゞきの平たひ坦らなる苗なへ場ばの奇き異ゐ、竜りう岩がん窟くつの古こせ跡きなど水にも自在の山なれば、おそらくは上古人ありて此山をひらき、絶ぜつ頂てうを平たひ坦らになし、馬の背せの天てん険けんをたのみてこゝに住居し耕かう作さくをもしたるが、亡ほろびてのち其魂れいこんこゝにとゞまりて苗なへ場ばの奇き異ゐをもなすにやと思おもへり。国こく史しを捜さう究きう﹇#﹁捜究﹂の左に﹁サガシキハム﹂の注記﹈せば其徴しるしする端はしをも得うべくや、博はく達たつの説せつを聞きかん。
○ 異いじ獣う
魚沼郡堀ほり内のうちより十日町へ越る所七里あまり、村々はあれども山中の間かん道だうなり。さてある年の夏のはじめ、十日町のちゞみ問屋ほりの内の問屋へ白縮ちゞみなにほどいそぎおくるべしといひこしけるゆゑ、その日の昼ひるすぐる頃竹助といふ剛がう夫ふをえらみ、荷物をおはせていだしたてけり。かくて途みちも梢や々ゝ半にいたるころ、日ざしは七ツにちかし、竹助しばしとてみちのかたはらの石に腰こしかけ焼やき飯めしをくひゐたるに、谷たに間あひの根ねさ笹ゝをおしわけて来きたる者あり、ちかくよりたるを見れば猿さるに似にて猿にもあらず。頭かしらの毛け長く脊せにたれたるが半なかばはしろし、丈たけは常つね並なみの人よりたかく、顔かほは猿に似て赤からず、眼まなこ大にして光りあり。竹助は心剛がうなる者ゆゑ用心にさしたる山刀を提ひつさげ、よらば斬きらんと身みがまへけるに、此ものはさる気けし色きもなく、竹助が石の上におきたる焼やき飯めしに指ゆびさしくれよと乞こふさまなり。竹助こゝろえて投なげ与あたへければうれしげにくひけり、是にて竹助心をゆるし又もあたへければ、ちかくよりてくひけり。竹助いふやう、我はほりの内より十日町へゆくものなり、あすはこゝをかへるべし、又やきめしをとらすべし、いそぎのつかひなればゆくぞとて、おろしおきたる荷物をせおはんとせしに、かのもの荷物をとりてかる〴〵とかたにかけさきに立てゆく。竹助さてはやきめしの礼にわれをたすくるならんとあとにつきてゆくに、かのものはかたにものなきがごとし。竹助は嶮けん岨その道もこれがためにやすく、およそ一里半あまりの山みちをこえて池いけ谷だに村むらちかくにいたりし時、荷物をばおろし山へかけのぼる、そのはやき事風の如くなりしと、竹助が十日町の問屋にてくはしく語かたりしとて今にいひつたふ。是今より四五十年以前の事なり、その頃は山かせぎするものをり〳〵は此異いじ獣うを見たるものもありしとぞ。 ○前にいふ池谷村の者の話はなしに、我れ十四五の時村うちの娘に機はたの上手ありて問屋より名をさしてちゞみをあつらへられ、いまだ雪のきえのこりたる※まど﹇#﹁窗−穴かんむり﹂、U+56F1、290-11﹈のもとに機はたを織おりてゐたるに、※まど﹇#﹁窗−穴かんむり﹂、U+56F1、290-11﹈の外そとに立たちたるをみれば猿のやうにて顔かほ赤からず、かしらの毛長くたれて人よりは大なるがさしのぞきけり。此時家内の者はみな山かせぎにいでゝむすめ独ひとりなればことさらに惧おそれおどろき、逃にげんとすれど機はたにかゝりたれば腰こしにまきつけたる物ありて心にまかせず、とかくするうちかのもの立さりけり。やがてかまどのもとに立しきりに飯めし櫃びつに指ゆびさして欲ほしきさまなり、娘此異いじ獣うの事をかねて聞きゝたるゆゑ、飯を握にぎりて二ツ三ツあたへければうれしげに持さりけり。そのゝち家に人なき時はをり〳〵来りて飯を乞こふゆゑ、後には馴なれておそろしともおもはずくはせけり。 ○さて此娘、 尊用なりとて急いそぎのちゞみをおりかけしに、折をりふし月ぐわ水つすゐになりて 御機はた屋やに入る事ならず。︵御機屋の事初編に委しく記せり︶手を停とゞめ居をれば日限に後おくる、娘はさらなり、双ふた親おやも此事を患うれひ歎なげきけり。月やくより三日にあたる日の夕ぐれ、家内のもの農のう業よりかへらざるをしりしにや、かのもの久しぶりにてきたれり。娘、人にものいふごとく月やくのうれひをかたりつゝ粟飯をにぎりてあたへければ、れいのごとくすぐに立さらず、しばしものおもふさましてやがてたちさりけり。さて娘は此夜より月やくはたととまりしゆゑ、不ふ思し議ぎとおもひながら身をきよめて御機はたを織おり果はて、その父問屋へ持もち去さり、往ゆき着つきしとおもふ頃娘時ならず俄にはかに紅つき潮やくになりしゆゑ、さては我が歎なげきしを聞きゝてかのもの我を助たすけしならんと、聞く人々も不思議のおもひをなしけりと語かたれり。そのころは山中にてたまさかに見たるものもあり、一人にても連つれある時は形かたちを見せずとぞ。又高田の藩はん士し材用にて樵きこ夫りをしたがへ、黒くろ姫ひめ山に入り小屋を作りて山に日をうつせし時、猿に似にて猿にもあらざる物、夜中小屋に入りて焼たき火びにあたれり。たけは六尺ばかり、赤あか髪きかみ、裸はだ身かみ、通みう身ち灰はい色いろにて、毛けの脱ぬけたるに似にたり、腰こしより下に枯かれ草をまとふ。此物よく人のいふことにしたがひて、のちにはよく人に馴なれしと高田の人のかたりき。按あんずるに和わか漢ん三才図づ会ゑ寓ぐう類るゐの部ぶに、飛ひ騨だ美み濃のあるひは西国の深しん山ざんにも如くだ件んのごとき異いじ獣うある事をしるせり。さればいづれの深山にもあるものなるべし。○ 火くわ浣くわ布んふ
宝暦年中平賀鳩きう渓けい︵源内︶火浣布を創はじめて製せいし、火くわ浣くわ布んふ考かうを著あらはし、和漢の古書を引、本朝未み曾そ有うの奇きこ工うに誇ほこれり。没ぼつしてのち其その術じゆつつたはらず、好かう事づ家かの憾かん事じとす。しかるに我国甞かつて火くわ浣くわ布んふを作つくるの石いしを産さんす、その在ある所は、○金きん城じやう山○巻まき機はた山○苗なへ場ば山○八はつ海かい山さんその外にもあり。その石軟やは弱らかにして爪つめをもつても犯おかすべきほどの軟やはらなる石なり。いろは青く黒し、これをくだけば石いし綿わたを出いだす。此石を得えて試こゝろみしに、石中に在ある石いし綿わたといふものは、木もめ綿んわたを細ほそく紬つむぎたるを二三分ほどにちぎりたるやうなるものなり。是これを紡はう績せき﹇#﹁紡績﹂の左に﹁イトニスル﹂の注記﹈するに秘ひじ術ゆつありて火浣布を造つくるなり、其秘術を得えば小女子も火浣布を織るべし。 ○さて我わが駅えき中ちゆうに稲荷屋喜右エ門といふもの、石綿を紡はう績せきする事に千せん思し万慮りよを費つひやし、竟つひに自みづからその術を得て火浣布を織いだせり。又其頃我が近きん村そん大沢村の医師黒田玄げん鶴くわくも同じく火浣布を織る術を得えたり。各おの々〳〵秘ひしてその術を人に伝へざるに、おなじ時おなじ村つゞきにておなじ火浣布の奇きこ工うを得えたるも一奇事なり、是文政四五年の間の事なりき。此両人の説せつをきゝしに力ちからをつくせば一丈以上なるをも織おりうべし、しかれども其機きこ工う容よう易いならずといへり。平賀源内は織こと五六尺に過すぎずと火くわ浣くわ布んふ考かうにいへり。また玄鶴が源内にまさりたる事は、玄鶴は火浣布の外に火くは浣くわ紙んし火くは浣くわ墨んぼくの二種しゆを造つくれり。火浣墨を以て火浣紙に物をかき、烈れつ火くわにやけて火となりしをしづかにとりいだし、火くわ気きさむれば紙も字ももとのごとし。しかれども其実用をいへば、火浣布も火浣紙も火くわ災さいの供そなへには憑たのみがたし、いかんとなれば、火に遇あへば倶ともに火となり人ありて火中よりいださゞれば火と倶ともに砕くだけて形かたちをうしなふ、たゞ灰はいとならざるのみなり。翫ぐわ具んぐには用うる所さま〴〵あるべし。源内死して奇術絶たえたりしに件くだんの両人いでゝ火浣布の機きじ術ゆつ再ふたゝび世にいでしに、嗚あ呼ゝ可をし惜むべし、此両人も術をつたへずして没ぼつしたれば火浣布ふたゝび世に絶たえたり。かの源内は江戸の饒げう地ちに火浣布を織おりしゆゑ其聞きこえ高く、この両人は越後の辟へき境きやうに火浣布をおりしゆゑ其名低ひくし、ゆゑにこゝにしるして好事家の一話に供きようす。○ 弘こう智ちは法ふい印ん
弘智法印は児玉氏下総国山やま桑くは村むらの人なり。高野山にありて蜜みつ教きやうを学び、後のち生国に皈かへり大浦の蓮花寺に住し、行あん脚ぎやして越後に来り、三嶋郡野のづ積みむ村ら︵里言のぞみ︶海雲山西生寺の東、岩坂といふ所に錫しやくをとゞめて草庵をむすびしに、貞治二年癸卯十月二日此庵に寂じやくせり。辞じせ世いとて口こう碑ひにつたふる哥に﹁岩坂の主ぬしを誰たれぞと人ひと問とはば墨すみ絵ゑに書かきし松風の音﹂遺ゐげ言んなりとて死なき骸からを不うづ埋めず、今天保九をさる事四百七十七年にいたりて枯こが骸い生いけるが如し。是を越後廿四奇の一に数かぞふ。此事雑ざつ書しよに散さん見けんすれども図づをのせたるものなし、ゆゑに図をこゝにいだす。此図は余よ先年下しも越後にあそびし時目もく撃げきしたる所なり。見る所たゞ面部ぶのみ、手足は見えず。寺法なりとて近く観みる事をゆるさず、閉めを眼とぢ皺しわありて眠ねふりたるが如し。頭づき巾ん法ころ衣もはむかしのまゝにはあらざるなるべし。是、他国には聞ざる越後の一奇きせ跡きなり。百もゝ樹き曰、唐もろ土こしにも弘こう智ちに似にたる事あり。唐の世の僧義ぎそ存ん没ぼつしてのち尸しかばねを函はこ中のなかに置おき、毎月其徒でしこれをいだし爪つめ髪かみの長のびたるを剪はさ薙みきるを常つねとす。百余年を経へても廃はいせざりしが、後のち国くにのみだれたるに因よりてこれを火くわ葬さうせしとぞ。又宋そう人ひと彭はう乗じやうが作さく墨ぼく客かく揮きさ犀いに鄂がく州しうの僧そう无む夢むも尸しかばねを不うづ埋めず、爪つめ髪かみの長のびたる義ぎぞ存んに同じかりしが、婦人の手に摸なでられしより爪髪のびざりしとぞ。事は五ござ雑つ組そに記しるして枯こが骸いの確かく論ろんあれども、釈しや氏くしを詰なじるに似にたる説せつなればこゝに贅ぜいせず。︵○高僧伝に義存がありしかと覚しが、さのみはとて詳究せず。︶
○ 土どち中ゆうの舟ふね
蒲原郡五泉の在ざい一里ばかりに下しも新しん田でんといふ村あり。或年此村の者どもありて阿加川の岸きしを掘ほりしに、土どち中ゆうより長さ三間ばかりの船を掘いだせり。全ぜん体たい少しも腐くさらず、形かたち今の船に異ことなるのみならず、金かな具ぐを用うべき処みな鯨くぢらの髭ひげを用ひて寸すん鉄でつをもほどこしたる処なし。木もまた何の木なるを弁べんずる者なく、おそらくは異いこ国くの船ならんといへりとぞ。余よ下しも越後に遊びし時、杉田村小野佐五右エ門が家にてかの船の木にて作りたる硯箱を見しに、木もく質しつ漢かん産さんともおもはれき。上古漂流の夷いせ船んにやあらん。○ 白しろ烏からす
前にもいへる如く雪譜と題だいするものに他事をいふは哥にいふ落らく題だいなれど、雪はまた末にいふべし、姑しばらくおもひいだすにまかす。 ○天保三年辰四月、我が住すむ塩沢の中なか町まちに鍵屋某が家のほとりに喬たか木ききあり。此樹きに烏からす巣すをむすび、雛ひな梢や々ゝ頭かしらをいだすころ、巣のうちに白き頭かしらの鳥を見る。主人怪あやしみ人をして是を捕とらへしめしに、全ぜん身しんは烏からすにして白く、觜くちばし眼まなこ足あしは赤き烏からすの雛ひななり、人々奇きとして集あつまり観みる。主人俄にはかに籠を作らせ心を尽つくして養やしなひ、やゝ長じて鳴なく音こゑも烏からすに異ことならず、我が近きん隣りんなれば朝夕これを観みたり。奇鳥なれば乞こふ人も多く、江戸へ出いだして観みせ物ものにせんなどいひしも有しが、主人をしみてゆるさず。かくて其冬雪中にいたり、山の鼬いたち狐など餌ゑに乏とぼしく人家にきたりて食をぬすむ事雪中の常なれば、此ものゝ所しわ為ざにや、籠かごはやぶれて白しろ烏からすは羽はねばかり椽ゑんの下にありしときゝし。初編に白しろ熊くまの事を載のせたるゆゑ、白しろ烏からすもまたこゝに記しるしぬ。○ 両りや頭うとうの蛇へび
文政十年亥の八月廿日隣駅六日町の在ざい、余よか川は村の農人太左エ門の軒のき端ばに、両頭の蛇いでたるを捕とらふ。長さ一尺にたらず、その頭かしら二ツ並ならびて枝をなすのみ。いろもかたちも常の蛇にかはらず。あるにまかせて古き箱にいれ、餌ゑもいれおきしに、二三日すぎていつ逃にげゆきしやあたりをたづねしかどをらざりしとぞ。○ 浮うき嶋しま
小を千ぢ谷やより西一里に芳よし谷たに村といふあり、こゝに郡こほ殿りとのの池いけとて四方二三町斗の池ありて浮うき嶋しま十三あり。晴天風なき時日出いづれば十三の小嶋おの〳〵離りさ散んして池中に遊ぶが如し、日入れば池の正まん中なかにあつまりて一ツの嶋となる。此池に種々の奇き異ゐあれども文ぶん多おほければしるさず。羽州の浮嶋はものにも記しるして人の知る処なれど、此うきしまはしる人まれなり。○ 石いし打うち明神
小千谷の内農人某なにがしの地面に小社あり石打明神といふ。昔より祀まつる処ところ也、その縁ゑん起ぎは聞きゝもらせり。贅い肉ぼあるもの此神をいのり、小石をもつていぼを撫なで、社の椽えんの下の※かう子し﹇#﹁竹かんむり/隔﹂、U+25D29、300-3﹈の内へ投なげいれおくに、日あらずしていぼのおつる事奇妙なり。さてなげいれたる小石、いかなる形なりともいつとなく人の円まるめたるごとく円まる石きいしとなるも又奇妙ふしぎなり。されば社のえんの下に大小の円まる石いし満みちみちたり。 ○百樹曰、余よも小千谷に遊びし時、此石を視みて話はな柄しのたねに一ツ持もち帰かへらんとせしに、所の人のいふやう、此神是この石いしを惜をしみ玉ふといひつたふときゝて取たるをもとの処へかへし、つら〳〵視みたるに数万の石人の磨すりなしたる玉のごとし。凡すべて神じん妙めうは肉にく知ちを以て測はかるべからず。○ 美びじ人ん
百樹曰、小を千ぢ谷やの因ちなみにいふ、余よ小千谷の岩がん居きよが家に旅宿せし時︵天保七年八月︶或ある日ひ筆ふでを採とるに倦うみ、山水の秋しう景けいを観みばやとて独ひとり歩たちいで、小千谷の前に流るゝ川に臨のぞ岡むをかにのぼり、用意したる書しよをかく。毛まう氈せんを老らう樹じゆの下もとにしき烟たばこくゆらせつゝ眺みわ望たせば、引舟は浪に遡さかのぼりてうごかざるが如く、下くだる舟は流ながれに順したがふて飛とぶに似にたり。行かう雁がん字をならべ帰きせ樵う画をひらく。群ぐん木ぼくは少すこしく霜を染そめて紅あか々く、連れん山ざんは僅わづかに雪を載のせて白しろ々し。寒かん国こくの秋しう景けい江戸の眼を新あらたになし、おもはず一いち絶ぜつを得えなどしてしばしながめゐたるをりしも、十六七の娘三人おの〳〵柴しば籠かごをせおひ山をのぼりてこゝにやすらひ、なにやらんものいひかはしてわらふをきく。余よは山水に目を奪うばはれたるに﹁火をかしなされ﹂とて烟きせ管るさしよせたる顔かほを見れば、蓬みだ髪れがみ素すが面ほにて天うま質れつきの艶えん色しよく花ともいふべく玉にも比ひすべし。百つぎ結〳〵の鶉つゞ衣れ此趙てう璧へきを羅つゝむ。余よ愕びつ然くりし山水を棄すてて此娘を視るに一おじ揖ぎして去さり、樹きの下もとの草に坐ざしてあしをなげだし、きせるの火をうつしてむすめ三人ひとしく吹たば烟このむ。双ふた無りの塩あくぢよ独ひとりの西せい施しと語かたるは蒹けん葭が玉ぎよ樹くじゆによるが如く、皓しろ歯きは燦ひか爛〳〵としてわらふは白はく芙ふよ蓉うの水をいでゝ微びふ風うに揺うごくがごとし。嗟あ乎ゝ惜をしむべし、かゝる美びじ人んも是この辺へん鄙ひに生うまれ、昏こん庸よう頑ぐわ夫んふ﹇#﹁昏庸頑夫﹂の左に﹁バカナヤラウ﹂の注記﹈の妻となり、巧こう妻さい常つねに拙せつ夫ふに伴ともなはれて眠ねふり、荊けい棘きよくと倶ともに腐くさらん事憐あはれむに堪たえたり。若もし江戸にいださば朱しゆ門もん﹇#﹁朱門﹂の左に﹁オヤシキ﹂の注記﹈に解かい語ご﹇#﹁解語﹂の左に﹁モノイフ﹂の注記﹈の花を開さかせ、あるひは又青せい楼ろう﹇#﹁青楼﹂の左に﹁ヨシハラ﹂の注記﹈に揺えう泉せん樹じゆ﹇#﹁揺泉樹﹂の左に﹁カネノナルキ﹂の注記﹈の栄さかえをなし、此隣りん国ごく出羽に生うまれたる小野の小町が如く美びじ人んの名をもなすべきに、此美人を此僻へき地ちに出いだすは天てん公こう事を解げさゞるに似たりと独ひとり歎たん息そくしつゝ言ものいはんとししに、娘は去い来ざとてふたゝび柴籠をせおひうちつれて立さりけり。目みお送くりて顧おもへらく、越後には美びじ人ん多しと人の口く実ちにいふもうべなり、是無ほか他でなし、水によるゆゑなり。されば織おり物ものの清白なる越後の白しろ縮ちゞみに勝まされるはなし、ことさら此辺は白しろ縮ちゞみを産さんする所なり、以て其水の至しせ清いなるをしるべし。江こう河が潔けつ清せいなれば女に佳かれ麗い多しと謝しや肇てうがいひしも理ことはりなりとおもひつゝ旅りよ宿しゆくに帰かへり、云しか々〴〵の事にて美びじ人んを視みたりと岩がん居きよに語りければ、岩居いふやう、渠かれは人の知る美女なり、先せん生せいを他国の人と眼みて解とり欺あざむきてたばこの火を借かりたるならん、可にく憎むべ々し/々\﹁否いや々〳〵にくむべからず、吾われたばこの火を借かして美人にえん︵烟縁︶をむすびし﹂と戯たは言ふれければ、岩居手てを拍て大に笑ひ、先生誤あやまてり、かれは屠ゑ者たの娘なりと聞きゝて再ふたゝび愕がく然ぜん﹇#﹁愕然﹂の左に﹁ビツクリ﹂の注記﹈たり。糞ふん壌じやう妖えう花くわを出すとはかゝる事にぞいひしなるべし。 ○再ふたゝび按あんずるに、小野の小町は羽うし州うの郡ぐん司じ小野の良よし実ざねの女むすめなり、楊やう貴き妃ひは蜀しよ州くしうの司し戸こ元玉が女むすめなり、和漢倶ともに北国の田舎娘世に美人の名をつたふ。北方に佳かじ人んありといひしも、北は陰いん位ゐなれば女に美びれ麗いを出すにやあらん。二代目の高尾は︵万治︶野州に生うまれ、初代の薄うす雲ぐもは信州に産さんして、ともに北ほく廓かくに名をなせり。されば越後に件くだんの美人を見しも北国なればなるべし。○ 蛾がび眉さん山かの下はし橋ばし柱ら
文政八年乙酉十二月、苅かり羽はこ郡ほり︵越後︶椎しひ谷やの漁ぎよ人じん︵椎谷は堀侯の御封内なり︶ある日椎谷の海上に漁すなどりして一木の流れ漂たゞよふを見て薪にせばやとて拾ひろひ取て家にかへり、水を乾かわかさんとて庇ひさしに立寄おきしを、椎谷の好事家通りかゝり、是を見てたゞならぬ木とおもひ熟よく視〳〵みるに、蛾がび眉さん山かの下は※し﹇#﹁木/喬﹂、302-12﹈といふ五大字刻しありしをもつてかの国の物とおもひ、漁ぎよ人じんには薪たきゞを与あたへて乞こひうけけるとぞ。さて余よが旧きう友いう観くわ励んれい上人は︵椎谷ざい田沢村浄土宗祐光寺︶強きや学うがくの聞きこえあり、甞かつて好かう事ずの癖へきあるを以てかの橋はし柱ばしらの文字を双さう鈎こう刊かん刻こく﹇#﹁双鈎刊刻﹂の左に﹁カゴジホル﹂の注記﹈して同どう好こうにおくり且橋はし柱ばしらに題だいする吟ぎん詠えいをこひ、是も又梓あづさにして世に布しかんとせられしが、故ゆゑありていまだ不はた果さず。かの橋柱は後のちに御ごり領やう主しゆの御ごぞ蔵うとなりしとぞ。椎しひ谷やは余よが同どう国こくなれども幾里を隔へだてたれば其真しん物ぶつを不み見ず、今に遺ゐか憾んとす。姑しばらく伝でん写しやの図づを以てこゝに載のせつ。︵○百樹曰、牧之翁が此草稿にのせたる図を見るに少しくおもふ所有しゆゑ、其実説を詳究せし事左の如し。︶ 百もゝ樹き曰、了れう阿あ上人が和哥の友相場氏は 椎しひ谷やこ侯うの殿との人びとときゝて、上人の紹せう介かいをもつて相場氏に対面して件くだんの橋はし柱ばしらの事を尋たづねしに、余よに謂いはれしは、橋柱にはあらず標みち準しるべなりとて、俗に書しよ翰かんといふ物に作りたるを出して其その図づを示さる。余が友の画人千ちは春る子が真しん物ぶつを傍かたはらにおきて縮しゆ図くづなし、蛾がび眉さん山かの下は※し﹇#﹁木/喬﹂、303-8﹈といふ五字は相場氏みづから心を深ふかめてうつされしとぞ。︵下に図するこれなり︶彫きざみたる人の頭かしらを左りに顧むかせ、その下しもに五字を彫ほりつけしは、是より左り蛾がび眉さん山かの下は橋しなりと人にをしゆる標みち準しるべなりとかたられき。是にて義ぎ理り渙くわ然んぜん﹇#﹁渙然﹂の左に﹁ワカル﹂の注記﹈たり。今俗に指ゆびさすをゑがきてそのしたにをしゆる所を記しるしたるを間まゝみる事あり、和漢の俗情おなじ事なり。 ○さて此標へう準じゆんを得えたる実じつ事じをきゝしに、北海はいづれの所も冬にいたれば常に北風烈はげしく礒いそへ物をうちよする、椎しひ谷やはたきものにとぼしき所ゆゑ貧ひん民みん拾ひ取りて薪たきゞとなす事常なり。しかるに文政八酉の十二月、例れいの如く薪を拾ひに出しに、物ありて柱はしらのごとく浪に漂たゞよふをみれば人の頭かしらとみゆる物にて甚兇きや悪うあくなり。貧ひん民みん等ら惧おそれてたちさり、ものゝかげより見居たるに、此もの竟つひに礒いそにうちあげられしを見て人々立よりみたるに、文字はあれども読よむ者ものなく、是は何ものならんとさま〴〵評ひやうし居ゐたるをりしも、こゝに近ちかき西さい禅ぜん院ゐんの童どう僧そう通とほりかゝり、唐たう詩しせ選んにておぼえたる蛾がび眉さ山んの文字を読よみ、これは唐か土らの物なりときゝて貧ひん民みん拾ひろひて持かへり、さすがに唐か土らの物ときゝて薪たきゞにもせざりしに、此事閧こう伝でん﹇#﹁閧伝﹂の左に﹁マチノウハサ﹂の注記﹈して竟つひに主しゆ君くんの蔵ざうとなりしと語かたられき。○按あんずるに、蛾眉山は唐土の北に在ある峻じゆ岳んがくにて、富士にもくらぶべき高山なり。絶ぜつ頂てうの峯みね双なら立びたちて八字をなすゆゑ、蛾がび眉さ山んといふなり。此山の標みち準しるべ、日ひの本もとの北海へながれきたりたる其水すゐ路ろを詳しや究うきゆう﹇#﹁詳究﹂の左に﹁ツマヒラカニキハムル﹂の注記﹈せんとて﹁唐もろ土こし歴れき代だい州しう郡ぐん沿えん革かく地ち図づ﹂に拠よりて清いま国のからの道みち程のり図づち中ゆうを﹇#﹁﹂の左に﹁アラタムル﹂の注記﹈するに、蛾眉山は清いま朝のからの都みやこを距へだつこと日本道四百里許ばかりの北に在り、此山に遠からずして一ひと条すぢの大河東に流ながる。蛾眉山の麓ふもとの河々皆此大河に入る。此大河瀘ろじ州うを流れ三峡けふのふもとを過すぎ、江こう漢かんに至いたり荊けい州じうに入り、○洞とう庭てい湖こ○赤せき壁へき○潯じん陽やう江こう○楊やう子しこ江うの四大江こうに通つうじて江こう南なんを流なが湎れめぐりて東海に入る。是この水すゐ路ろ日本道五百里ばかりなり。さて件くだんの標みち準しるべ洪こう水ずゐにてや水に入りけん、○洞とう庭てい○赤せき壁へき○潯じん陽やう○楊やう子しの海の如き四大だい江こうを蕩たう漾やう周しう流りう﹇#﹁蕩漾周流﹂の左に﹁ナガレシダイメグリナガレ﹂の注記﹈して朽くち沈しづまず。滔たう々〳〵たる水すゐ路ろ五百余よ里りを流ながれて東海に入り、巨こた濤う﹇#﹁巨濤﹂の左に﹁オホナミ﹂の注記﹈に千倒たうし風波に万顛てんすれども断だん折せつ﹇#﹁断折﹂の左に﹁ヲレル﹂の注記﹈砕さい粉ふん﹇#﹁砕粉﹂の左に﹁クダケル﹂の注記﹈せず、直ちよ身くしん﹇#﹁直身﹂の左に﹁ソノミ﹂の注記﹈挺てい然ぜん﹇#﹁挺然﹂の左に﹁ソノマヽ﹂の注記﹈として我国の洋おき中なかに漂たゞよひ、北海の地方に近ちかより、椎しひ谷やの貧ひん民みんに拾ひろはれて始はじめて水を辞はなれ、既すでに一燼じんの薪となるべきを、幸に字じを識しる者に遇あひひて死しく灰わいをのがれ、韻ゐん客かくの為ために題だい詠えいの美びげ言んをうけたるのみならず、竟つひには 椎しひ谷やこ侯うの愛あいを奉ほうじて身を宝ほう庫こに安んじ、万ばん古こふ不き朽うの洪こう福ふくを保たもつ奇妙不ふ思し議ぎの天幸なれば、実じつに稀きせ世いの珍ちん物ぶつなり。 按ずるに、蛾がが蛾どう同ゐ韻ん︵五何反︶なれば相あひ通つうじて往わう々〳〵書しよ見けんす。橋きやうを※きやう﹇#﹁木/喬﹂、305-9﹈に作る頗すこぶる異ゐて体いなり。依よつて明みん人ひと黄くわ元うげ立んりつが字じか考うせ正い誤ご、清せい人ひと顧こえ炎ん武ぶが亭てい林りん遺ゐし書よち中ゆうに在ある金石文字記あるひは碑ひぶ文んて摘き奇き︵藤花亭十種之一︶あるひは楊やう霖りん竹ちく菴あんが古今釈しや疑くぎ中の字じて体いの部ぶなど通つう巻くわん一遍へん捜さう索さく﹇#﹁捜索﹂の左に﹁サガス﹂の注記﹈したれども※きやう﹇#﹁木/喬﹂、305-11﹈の字なし。蛾がび眉さ山んのある蜀しよくの地ちは都を去さる事遠とほき僻へき境きやうなり。推すゐ量りやうするに、田ゐな舎かの標みち準しるべなれば学がく者しやの書かきしにもあるべからず、俗ぞく子しの筆なるべし。されば我わが今の俗ぞく竹を※﹇#﹁にんべん+竹のつくり﹂、305-13﹈とに誤あやまるの類るゐか、猶なほ博はく識しきの説せつを俟まつ。
○ 苗なへ場ばや山ま
苗場山は越後第一の高山なり、︵魚沼郡にあり︶登り二里といふ。絶ぜつ頂てうに天てん然ねんの苗なへ田たあり、依て昔より山の名に呼よぶなり。峻じゆ岳んがくの巓いたゞきに苗田ある事甚奇なり。余よ其奇跡を尋んとおもふ事年としありしに、文化八年七月偶ふとおもひたちて友人四人︵●嘯斎●斎●扇舎●物九斎︶従じゆ僕ぼく等らに食類其外用意の物をもたせ、同月五日未明にたちいで、其日は三ツ俣またといふ駅えきに宿り、次日暁を侵おかして此山の神職にいたり、おの〳〵祓はらひをなし案内者を傭やとふ。案内は白衣に幣へいを捧さゝげて先にすゝむ。清きよ津つ川を渉わたりやがて麓ふもとにいたれり。巉さん道だうを踏ふみ嶮けん路ろに登るに、掬ぶな樹のき森しん列れつして日を遮さへぎり、山やま篠さゝ生おひ茂しげりて径みちを塞ふさぐ。枯かれたる老樹折れて路みちに横よこたはりたるを踰こゆるは臥竜を踏がごとし。一ひと条すぢの渓たに河かはを渉わたり猶登る事半里許ばかり、右に折れてすゝみ左りに曲まがりてのぼる。奇きぼ木く怪くわ石いせき千せん態たい万状じやう筆を以ていひがたし。已すでに半はん途とにいたれば鳥の声をもきかず、殆ほとんど東西を弁べんじがたく道なきがごとし。案内者はよく知りてさきへすゝみ、山やま篠さゝをおしわけ幣へいをさゝげてみちを示しめす。藤ふぢ蔓かつら笠にまとひ、※しげ竹るたけ﹇#﹁林/取﹂、U+6A37、308-11﹈身を隠かくし、石高くして径みち狭せまく、一歩も平たひ坦らのみちをふまず。やう〳〵午すぐる頃山の半にいたり、僅わづかの平地を得えて用意したる臥ぐわ座ざを木こか蔭げにしきて食をなし、暫しばらく憇やすらひてまたのぼり〳〵て神かぐ楽らが岡をかといふ所にいたれり。これより他木さらになく、俗に唐松といふもの風にたけをのばさゞるが稍こずゑは雪霜にや枯からされけん、低ひくき森をなしてこゝかしこにあり。またのぼり少しくだりて御花はな圃ばたけといふ所、山桜盛さかりにひらき、百合・桔梗・石竹の花などそのさま人の植うゑやしなひしに似にたり。名なをしらざる異いさ草うもあまたあり、案内者に問へば薬草なりといへり。またのぼりゆき〳〵て桟かけ※はしのやう﹇#﹁齒+彦﹂、U+9F74、309-3﹈なる道にあたり、岩にとりつき竹の根を力ちか草らくさとし、一歩に一声を発はつしつゝ気を張り汗あせをながし、千辛しん万苦くしのぼりつくして馬の背せといふ所にいたる。左右は千丈の谷なり、ふむ所僅わづかに二三尺、一ひと脚あしをあやまつ時は身を粉こ砕なになすべし。おの〳〵忙おづ怕〳〵あゆみて竟つひに絶ぜつ頂てうにいたりつきぬ。○偖さて同行十二人、まづ草に坐ざして憇いこふ時、已すでに下なゝなり。はじめ案内者のいひしは登り二里の険けん道だうなれば、一日に往ゆき来ゝすることあたはず、絶ぜつ頂てうに小屋在、こゝにのぼる人必その小屋に一宿する事なりといへり。今その小屋をみれば木の枝えだ、山さゝ、枯かれ草くさなど取りあつめ、ふぢかつらにて匍は匐ひ入るばかりに作りたるは、野のひ非に人んのをるべきさまなり。こゝを今夜のやどりにさだめたるもはかなしとて、みな〳〵笑ふ。僕ぼくどもは枯かれ枝えだをひろひ石をあつめて仮かりにをなし、もたせたる食物を調てうぜんとし、あるひは水をたづねて茶を烹にれば、上戸は酒の燗かんをいそぐもをかし。さて眺みわ望たせば越後はさら也、浅あさ間まの烟けふりをはじめ、信濃の連山みな眼がん下かに波はた濤うす。千ちく隈ま川は白き糸をひき、佐渡は青き盆ぼん石せきをおく。能登の洲すさ崎きは蛾が眉びをなし、越前の遠山は青せい黛たいをのこせり。こゝに眼めを拭ぬぐひて扶ふさ桑う第一の富士を視みいだせり、そのさま雪の一ひと握にぎりを置おくが如し。人々手を拍うち、奇なりと呼よび妙なりと称しよ讃うさんす。千勝しよう万景けい応おう接せふするに遑いとまあらず。雲くも脚あし下もとに起おこるかとみれば、忽たちまち晴はれて日ひの光ひかり眼めを射ゐる、身は天外に在が如し。是この絶頂は周めぐり一里といふ。莽まう々〳〵﹇#﹁莽々﹂の左に﹁ノヒロキ﹂の注記﹈たる平へい蕪ぶ高たか低ひくの所を不み見ず、山の名によぶ苗なへ場ばといふ所こゝかしこにあり。そのさま人のつくりたる田の如き中に、人の植うゑたるやうに苗に似にたる草生おひたり、苗なは代しろを半なかばとりのこしたるやうなる所もあり。これを奇なりとおもふに、此田の中に蛙かへる螽いなごもありて常の田にかはる事なし、又いかなる日てりにも田てん水すゐ枯かれずとぞ。二里の巓いたゞきに此奇きせ跡きを観みること甚不ふ思し議ぎの山れいざんなり。案内者いはく、御花はな圃はたけより︵まへにいひたる所︶別に径みちありて竜りう岩がん窟くつといふ所あり、窟いはやの内に一ひと条すぢの清水ながれそのほとりに古銭多く、鰐わに口くち二ツ掛りありて神を祀まつる。むかしより如かく斯のごとしといひつたふ。このみち今は草木に塞ふさがれてもとめがたしといへり。絶ぜつ頂てうにも石に刻こくして苗なへ場ばだ大いご権んげ現んとあり、案内者は此石人作にあらず、天然の物といへり。俗伝なるべし。こゝかしこ見めぐるうち日すでにくれて小屋に入り、内には挑てう燈ちんをさげてあかりとし、外には火を焼てふたゝび食をとゝのへ、ものくひて酒を酌くむ。六日の月皎かう々〳〵とてらして空そらもちかきやうにて、桂かつらの枝えだもをるべきこゝちしつ。人々詩しを賦ふし哥をよみ、俳句の吟ぎん興きやうもありてやゝ時をうつしたるに、寒気次第に烈はげしく、用意の綿入にもしのぎかねて終よも夜すがら焼火にあたりて夢ゆめもむすばず、しのゝめのそらまちわびしに、はれわたりたればいざや御来らい迎かうを拝をがみたまへと案内がいふにまかせ、拝をが所むところにいたり日の昇のぼるを拝はいし、したくとゝのへて山をくだれり。︵別に紀行あり、こゝには其略をいふのみ。︶ ○百もゝ樹き曰いはく、余よ越ゑつ遊いうしたる時、牧ぼく之し老人に此山の地勢を委しくきゝ真しん景けいの図づをも視みたるに、巓いたゞきの平たひ坦らなる苗なへ場ばの奇き異ゐ、竜りう岩がん窟くつの古こせ跡きなど水にも自在の山なれば、おそらくは上古人ありて此山をひらき、絶ぜつ頂てうを平たひ坦らになし、馬の背せの天てん険けんをたのみてこゝに住居し耕かう作さくをもしたるが、亡ほろびてのち其魂れいこんこゝにとゞまりて苗なへ場ばの奇き異ゐをもなすにやと思おもへり。国こく史しを捜さう究きう﹇#﹁捜究﹂の左に﹁サガシキハム﹂の注記﹈せば其徴しるしする端はしをも得うべくや、博はく達たつの説せつを聞きかん。
○ 三四月の雪
我国冬はさらなり、春になりても二月頃までは雨あめ降ふる事なし、雪のふるゆゑなるべし。春の半なかばにいたれば小雨ふる日あり、此時にいたれば晴天はもとより、雨にも風にも去年より積つも雪りたるゆきしだい〳〵に消きゆるなり。されども家いへ居ゐなどは乾いぬゐに︵北東の間︶あたる方はきゆる事おそし。山々の雪は里さと地ちよりもきゆるおそけれども、春しゆ陽んやうの天てん然ねんにつれて雪ゆき解げに水増まして川々に水すゐ難なんの患うれひある事年々なり。春のすゑにいたれば、人の住すむあたりの雪は自しぜ然んにきゆるをまたずして家いへ毎ごとに雪を取とり捨すつるに、あるひは雪を籠にいれてすつるもあり、あるひは鋸のこぎりにて雪を挽ひき割わりてすてもし、又は日ひむ向きの所へ材ざい木もくのごとくつみかさねておくもあり。かやうにすればきゆることはやきゆゑなり。︵少しの雪は土をかけ又は灰をかくればはやくきゆ︶そも〳〵去年冬のはじめより雪のふらざる日も空そら曇くもりて快こゝろよく晴はれたるそらを見るは稀まれにて、雪に家いへ居ゐを降ふり埋うづめられ手もとさへいとくらし。是に生うまれ是に慣なれて、年々のなれども雪にこもりをるはおのづから朦まう然ぜんとして心たのしからず。しかるに春の半にいたり雪ゆき囲かこひを取とり除のくれば、日光明々としてはじめて人にん間げん世せか界いへいでたるこゝちぞせらる。一ひと年ゝせ夏の頃、江戸より来りたる行あん脚ぎやの俳はい人じんを停とゞめおきしに、謂いふやう、此国の所々にいたり見るに富ふ家かの庭にはには手をつくしたるもあれど、垣かきはいづれも粗そり略やくにて仮かり初そめに作りたるやうなり、いかなるゆゑにやといふ。答こたへていふ、いぶかり給ふもことはりなり、かりそめに作りおくは雪のゆゑなり。いかんとなればいかほどつよく作るとも一丈のうへこす雪におし崩くづさるゝゆゑ、かろくつくりおきて雪のはじめには此垣をとりのくるなりと語りし事ありき。されば三月の末にいたれば我さきにと此垣を作る事なり。さて又雪中は馬ばそ足くもたゝず耕かう作さくもせざれば、馬は空むなしく厩うまやにあそばせおく事凡およそ百日あまり也。︵我国に牛のみつかふ所もあり︶雪きゆるの時にいたれば馬もよくしりてしきりに嘶いなゝき路みちにいでんとする心あり、人も又久しくちゞめたる足をのばさせんとて厩むまやをひきいだせばよろこびてはねあがりなどするを、胴どう縄なはばかりの馬はだかうまに跨またがり雪消の所にはしらす。此馬冬こもりの飼かひやうによりて痩やせると肥こえるありて、やせたるは馬主ぬしの貧まづしさもしるゝものなり。馬のみにあらず、童わらべどもゝ雪のはじめより外そと遊あそびする事ならざりしに、夏のはじめにいたりてやう〳〵冬ふゆ履げた稿わら沓くつをすてゝ草ざう履りせつたになり、凧いかのぼりなどにかけはしるはさもこそとうれしさうなれ。桃桜も此ころをさかりにて雪に世せぐ外わいの花を視みるなり。○ 鶴つる恩おんに報むくゆ
天保七年丙申の春、我が郡ぐん中ちゆう小を千ぢ谷やの縮ちゞみ商人芳よし沢さは屋や東五郎俳はい号がうを二松といふもの、商ひの為ため西国にいたり或ある城下に逗とう留りうの間、旅宿の主あるじがはなしに、此近在の農のう人にんおのれが田地のうちに病やめ鶴るつるありて死しにいたらんとするを見つけ、貯たくはへたる人にん参じんにて鶴の病を養やしなひしに、日あらず病やまひ癒いえて飛去りけり。さて翌年の十月鶴二羽かの農のう人にんが家の庭にはちかく舞まひくだり、稲二茎けいを落おとし一声こゑづゝ鳴なきて飛さりけり。主ある人じ拾ひろひとりて見るにその丈たけ六尺にあまり、穂ほも是につれて長く、穂ほの一枝えだに稲四五百粒あり。主人おもへらく、さては去年の病びや鶴うかく恩おんに報むくはんため異ゐこ国くより咥くはえきたりしならん、何にもあれいとめづらしき稲なりとて領りや主うしゆに奉たてまつりけるに、しばらくとゞめおかれしのちそのまゝ主あるじにたまはり、よくやしなへとおほせによりて苗なへのころにいたり心をつくして植うゑつけけるに、鶴があたへしにかはらずよく生おひいでければ、国くにの守かみへも奉りしとかたれり。東五郎猶その村その人をも尋たづねきけば、鶴を助たすけたる人は東五郎が縮ちゞみを売たる家なれば、すぐさまその家にいたり猶なほ委くはしく聞て、さて国の土みや産げにせん、穀もみを一二粒賜たまはれかしと乞こひければ、あるじ越後は米のよき国ときけばことさらに生おひなんとて、もみ五六十粒与あたへたるを国へ持かへりて事の来よ由しを申て 邦はう君くんに奉りしを、 御城内に植しめ玉ひ、東五郎へ 御褒はう賞しやうなど在しと小千谷の人その頃ころ物がたれり。おもふに余よがごとき賤せん農のうもかゝるめでたき 御み代よに生れたればこそ安あん居きよしてかゝる筆も採とるなれ。されば千年の昌しや平うへいをいのりて鶴の話はなしに筆をとゞめつ。猶雪の奇きだ談ん他た事じの珎ちん説せつこゝに漏もらしたるも最いと多おほければ、生せい産さんの暇いとまふたゝび編へんを嗣つぐべし。
通巻画図
京水 岩瀬百鶴 筆
北越雪譜二編 四巻大尾