政治学入門

矢部貞治




はしがき



 入門書が要求されているということで、本書ができたのであるが、しかし「政治学入門」とはそもそもどう理解されたらよいものであろうか。それは政治学の方法論を説き、政治学の諸文献を解説したようなものなのであろうか。それとも対立しているいろいろの学説を並べ、著者の主張はなるべく出さないように書いたもののことであろうか。それともまた政治学の全領域を簡単に平易に圧縮したもののことであろうか。
 これらのいろいろの解釈が可能であると思われるが、著者は本書ではそれを、政治現象の基本的な諸問題に一通りの究明を試み、よりくわしい研究への示唆しさを与えるものと解釈した。その結果既に著者が『政治学』(勁草書房)で取扱っている基本的な部分を、多少順序を変えたり、加除したり、わかりやすくして、繰返すような形にならざるを得なかったのである。より詳細な論述や文献については、右の書物について見て頂きたい。
 いずれにしても入門書の最大の使命は、その学問への興味をそそることであろう。従って本書が政治学への興味を、一般の人々に抱かせることに失敗していたら、入門書としての価値はない。著者の恐れるのはそのことである。

一九五一年一月
矢部貞治
[#改丁]



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 国家が、教会とか学校とか組合とかいうような部分社会と異なるのは、
(一)国家は強制的な団体で、人間は生れながら必然に国家に属し、自由に加入脱退できないのに対し、他の団体はそれが任意的である。
(二)他の団体には同時に二つ以上に加入できるが、同時に二つ以上の国家には属することができない。
(三)国家は一定の領土と結合しているが、他の団体は領土とか地域とかの要素と結合せずに存在できるし、また数国家にわたって存在できる。
(四)他の団体の目的は特殊のものに限定されるが、国家の目的は全般的である。
(五)他の団体は一時的な存在だが、国家は永久的存在である。
(六)他の団体は法と権力による強制をなし得ないが、国家はそれをなす。
などという点にあると一般に認められている。しかし先に挙げた多元的国家論などは、そのような差別を認めない。すなわちこの立場に立つ者は、
(一)の点につき、国家でも国籍の離脱や帰化が可能であり、生れながら必然に加入する点は家族なども同じである。
(二)の点では、別種の団体ならなるほど同時に二つ以上に属することができても、しかし同時に二つ以上の教会や組合には属することができない点は、何ら国家と異ならないし、他方では国家でも二重国籍ということもある。
(三)の点でも、地域と結合している団体がある。
(四)については、正に国家が全般的な目的を持つということが誤りなので、国家も社会的な統制規律という特定の一機能を持つにすぎぬ。
(五)についても、生命の短い国家もあるし、カトリック教会のごときはほとんど永久的な存在である。
(六)については、形は異なっても強制や制裁はどの団体にもある。そして個人の立場からいえば、国家の制裁よりも他の団体の制裁の方が苦痛である場合もある。
というように論じて、国家と他の団体との本質的な差別は、ただその機能だけだというのである。
 これらの論点を部分的にみれば、なるほどそういうこともいえないこともないが、しかし多くは特殊の例外的な場合を取り上げて、それをことさらに一般化したという牽強附会けんきょうふかいの感をまぬがれない。かりに国家が統制とか規律とかいう特定の機能に限られるということを認めるとしても、その機能そのものに根本的な特色がある。すなわちそれは、必要あれば物理的強制権力をもって、領土内の一切の団体を服従せしめるところの、最高で一般的な規律統制の機能なのである。このような機能は、国家以外のどんな部分社会も持ってはおらない。
 いわんや国家は単なる政府ではない。単なる政府なら、多元的国家論者のいうような点も、ある程度認めることができるが、国家はあらゆる機能や職業を包括ほうかつし、一切の部分社会の基盤に存在する共同社会であって、これを特殊の部分社会と同列におくことは、決して正しいといえない。だから多元的国家論者として認められているギールケ、メートランド、ポールボンクール、デュルケム、フィギス、ラスキなどの所説を検討してみると、結局はやはり国家が「諸団体の団体」であることを、認めねばならぬことを示している。


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(イ)共同体――表現と本能的全員一致
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(ロ)利益社会――代理と計算的全員一致
 これに反し、テンニースのいう「選択意思せんたくいし」で成り立っている利益社会は、私的な個人が一定の目的または利益のために「作り上げた」社会で、成員はその生活と利益の限られた一部だけでこれに参加しているから、その団体意思は、全成員の意思を平均または総計した上で作らねばならない。すなわちそれは「計算的全員一致」で、同じ全員一致といっても、共同体での「本能的全員一致」とは両極的に異なる。「本能的全員一致」では、反対意思はないし、かりにあっても全員一致への本能的欲求によって圧倒されるのだが、「計算的全員一致」では、一人一人の意思を計算し、一人でも反対があれば、団対意思は成立しないのである。このような利益社会で通常「多数決」が認められても、その前提に必ず自然法説でいう全員の「原始契約」というものがある。すなわち「多数決」でやるということ自身が、あらかじめ「計算的全員一致」で認められねばならない。
 このような社会では、存在しているものは根本では個人個人だけで、成員は生活と利益の一部だけでそれに参加しており、いつでも自由に社会関係を解消しまたは脱退してもよいから、この団体の意思を外に向かってになう者も、一定の目的と利益の限界の中で、成員のために事務を管理し取引を行い、営利をはかるところの、「代理」の原理の上に立っている。成員の行為のため全員が宿命的に責任を負う「表現」という原理は、ここでは問題にならない。だからこの総計的「代理人」は、「命令委託」や「指令」に服し、権限を超えた行為は無効で、それによって成員に損害を与えれば賠償の義務があり、いつでも「罷免ひめん」(リコール)されることができる。
 このような社会には、成員がどうしても共同生活をしなければならぬという本質的な結合関係はないから、いわば潜在的に無政府の社会である。例えば一体的な紐帯じゅうたいというものはなくて、個人的、階級的、宗教的、民族的な分化と対立だけがあるような社会は、このような社会関係に立っているといってよい。そこでこのような社会でそのような分化と対立を統制し、統一秩序を保つのに、どうしても権力行使を前面に出さねばならぬという場合には、そこに専制政という形態が必然となる。社会の成員が無知で素朴で、分化や対立を意識しないようなところでも、治者と被治者との関係が征服から生れたり、階級的な基礎の上で成立している場合には、やはり共同体的な結合関係はないので、専制政の形をとらざるを得ない。
 すなわち専制政というのは、その成員が一体性も共同責任も自覚しない潜在的無政府状態に対して必要なもので、これを人格的な魂の結合関係でできている共同体の原理と混同するのは、根本的に誤りである。共同体で成員が全体に結びつくのは、権力での強制や抑圧によるのではなく、むしろそれによって成員の人格が完成されるような精神的結合なのである。こういうところに権力的な専制が存在する余地はないのである。
(ハ)協成社会――代表と多数決
 
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 使()()()()※(「酉+慍のつくり」、第3水準1-92-88)()()
 
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底本:「政治学入門」講談社学術文庫、講談社
   1977(昭和52)年10月10日第1刷発行
   1993(平成5)年12月20日第21刷発行
初出:「政治学入門」アテネ新書、弘文堂
   1951(昭和26)年5月
※「ユトーピア」と「ユートピア」、「聰明」と「聡明」の混在は、底本通りです。
入力:フクポー
校正:富田晶子
2018年1月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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