過ぎ去つた詩を回顧するのは、灰の中に宝玉を拾ふやうなものだ。併し幾たびとなく変遷して来たその中に、我々の胸に忘れ難い感銘を遺したものが尠くない﹇#﹁尠くない﹂は底本では﹁勘くない﹂﹈。時とすると二三人の人の集つたところに興味ある批評を聴くことがある。僕は斯ういふ人達が各愛読の詩集の一つや二つ必ず持つて居たことを懐しく感ずるのである。 今では古く出た詩集は、次第に世間から影を失つてゆく。明治の詩といふものもさう新しいものではなくなつた。梅花道人の﹃梅花詩集﹄をどうかして手に入れたいと思つて古本を漁つたけれども無い。心当りの文壇の人にも聴いたが矢張駄目であつた。詩集は小説なぞと異つて僅かしか部数を刷らないから古い物は殊更影を絶つてしまふのである。若し然ういふのが手に入れば大分渋いものだ。﹃蓬莱曲﹄は透谷全集には入つて居るが、併し初版の原本は却なか々〳〵見つからない。 因襲を破つて新しい道に就くといふことは過去に於ても屡繰返されて居る。兎に角今日は新しい或物を生まうとする時代である。この時代が来るまでにどれほどの種子が播かれたであらうか。僕が初めて詩を書きだした時分は、既に新体詩の歴史は余程進歩して居る時であつた。今振返つて其以前のことを見るとさま〴〵な﹇#﹁さま〴〵な﹂は底本では﹁さまざまな﹂﹈詩集が出て居る。さま〴〵な論議が行はれて居る。鴎外先生や石橋忍月氏の幽玄に関する争論なぞは、今でも興味を感ぜざるを得ない。国民之友や文学界同人の詩作は措て、僕等の少年の頃愛誦した﹃抒情詩﹄や﹃風月万象﹄﹃山高水長﹄といふ風な物が、続いて頭の中に呼び起される。 何の詩集に入つて居たか覚えぬが、独歩氏の﹃祈り﹄と云ふ一篇はヒドク僕を動かしたものだ。独歩氏の作には敬愛すべきシンプリシチーが有る。たとへ其声は深くはなくとも純一な、ウソでないところがある。﹃山林に自由存す﹄から見ると﹃鎌倉懐古﹄の方は形式も詩想も円熟して居た。併し氏の善いところは矢張破格と単純とにあつた。詩壇の人ではなかつたが、与謝野氏の匠気に富んだ作なぞから見れば、たしかに善い気持がする。 それから雨江、羽衣、桂月諸氏の擬古的な詩は、教科書の中で読まるべきものであつた。実際僕は又其れを学んだ。教科書で学んだことを云へば、其頃大和田建樹氏の作も多かつた。氏が二十六七年に出された﹃欧米名家詩集﹄を此頃古本で買つたが、この二十年前の珍本には、僕等が尊敬するブレヱクは、ロングフヱローと肩を並べてをつた。 ある日、僕が田舎の本屋へ行くと、そこの主人が、頻に善い本だと云つて、東京から著いたばかりの一冊の書物を差出した。其時僕は小学校の生徒で、鞄を懸けて居た。主人が云ふには近頃死んた﹇#﹁死んた﹂はママ﹈有名な詩人の遺稿で、又この本を拵へた人は、その友人の豪い文学者ばかりだとのことだ。僕はそれを聞くうちに、死んだ人と云ふので先づ半分厭になつた。何故厭になつたか知らないが、生きてる人の方が豪く思へたのである。それで、僕は尚繰拡げて、興を殺そがれるまではながめて居た。表紙に芒と骸骨とが描いてある。中を見ると圏点沢山の文章がある。それを買ふことにきめたのは、本屋があまり褒めるので断わるのもバツが悪いからであつた。 透谷全集を手にしたのは此時が初めである。今にして思ふとこの陰気な、子供心を圧迫する書物が、どれだけ今日の僕を慰めて居るか知れない。 透谷氏の詩は是を﹃藤村詩集﹄なぞに較べると大きな瑕がある。それは醇化されずに未成品の儘で終つたことである。併しこの醇化されずに終つたと云ふことは、さまでに氏の価値を蔽ひはしない。おそらくは明治の詩を通じて、この断片的な詩篇に勝るものは必ず然う沢山はあるまい。種子と云へば最も善い種子、腐ることのない種子である。 ﹃蓬莱曲﹄は氏の苦心を最も示したものであつた。しかし作の出来栄はあまり善いとは思はない。布図用語等は贅牙な点がいくらもある。又ずゐぶん混乱して居る。しかも此混乱は幻想と情熱とから来て居るので、其他の技巧に就ては考へる遑が無かつたのであらう。一体氏の作は初めから劇詩的傾向を帯びて居る。これを解釈すれば、自分の感ずる世界を、普通抒情詩としてとゞめておかずに、多少演繹的に、思想として表はしたかつたので、氏はたしかに抒情詩人の限度を越えて居る。それ以上に深いものを感じて居る。この点はあくまで透谷氏の長所である。勿論今日であるなら抒情詩と云ふものもさう甘いものではない。透谷氏の感じて居たやうな世界は、たしかな、至醇な言語の上に表現することが出来るのである。併しあの時分は、詩は抒べたり語つたりする外には能がなかつた。抒べるならば大に抒べたいといふ透谷氏の態度は当然と云はなければならぬ。その要求が自然、劇詩的傾向をつくつた。﹃髑髏の舞﹄でも﹃楚囚の詩﹄でも﹃みゝづのうた﹄でも皆然うである。 詩形の如きは別として、氏には無形の郷愁がある。我々はこゝを看ておかなければならない。絶えず何者かに脅かされ、何者かを掴まうとする苦痛があつた。その声が情熱となつて心から溢れて出る。詩は皆その片われである。かういふ﹇#﹁かういふ﹂は底本では﹁かうふ﹂﹈ところから見ると氏の情緒は同じ情緒でも極度に緊張したものだ。緊張して生命に掴み蒐らうとしたものだ。たゞ氏の生命観は稍ハムレツトに類して抽象的であつた。併しそんなことは彼是云ふ必要がない。現代の詩は却つてこの事から新しく学んだ方が可いのである。 然ういふ風に氏の断片はたとへ不純な点はありながらも或深いところがあつた。僕は仮にも明治の詩を云ふなら﹃藤村詩集﹄と共に是非数へ挙げなければならんと思ふ。殊に僕にとつてはこの二つの詩集は同じ様な重さを感ぜしめて居るのである。 藤村氏の詩のことは云ふも及ばぬ。我々は誰も皆導かれた。非常に温かく、優しい鬱メラ憂ンコリーを味はつた。暗誦する詩は今も決して尠くない。﹃若菜集﹄や﹃落梅集﹄に就ては、詩壇全体がいろ〳〵の記憶を語るとも尽きないであらう。常盤樹、寂寥、おえふと数へて来ると糸のやうに綿々と其れを読んだ時の気持が胸に浮ぶ。又傘のうちといふ詩は非常にメロデアスなものであつた。 氏の作風は感傷的であつたが、あくまでも自然な感じを離れなかつた。そして悉く皆親しみ易い情緒の記号である。善い意味に普遍的で、国民として云へば、初めて新しい国民の詩を得たのである。かう云ふ我々が我儘に自由に信ずる詩に行けるのも、一つにはこの丈夫な土台があるからである。勿論民衆と詩との関係は誰の頭にもあるであらう。必要な問題であらう。併しそれは、藤村詩集一巻を提供しておけば、我々は少しも心配は要らないのだ。 ﹃行く春﹄が出て日本初めて詩ありと云はれたのは泣菫氏であつた。時代は何時もこの言葉を繰返す。別の人に向つて別々の人の口から光栄ある言葉を浴せかけて居る。その時代の最もすぐれた鑑賞家から、又民衆から所謂﹁異議の無い光栄﹂を受けるのだ。然るにそれが何故滅ぶのであらうか。何故もつと異議の無い光栄、あらゆる賞讃、堂々たる文章を批評家が書かぬのであらうか。﹁ウオルズウオースを読む者は今は老人ばかりになつた。﹂とヱドモンド・ゴツス氏は書いて居る。曽て愛読者の僕が氏のために、同じ様に悲しむのは、あながち迷妄に陥つたからではない。尊敬する多くの詩はこの様にして痕をとゞめて行く。今一つ一つ挙げることは僕にとつて、尠からぬ苦痛である。 与謝野氏と酔茗氏とは何いづれも詩社を作つて居られた。その﹃明星﹄や﹃文庫﹄や﹃詩人﹄と云ふ様な雑誌からは沢山の詩人が出た。月郊、花外、白星、林外、露葉の諸氏も引続いていろ〳〵の詩集を出された。花外氏の詩はその中で最も正直な物であつた。 ﹃春鳥集﹄が出たのは三十八年である。その頃僕は読売で、比興詩論を読んだ。片山孤村氏の独逸の象徴論なども読んだ。世間は朦朧とか難解とか云つて、頻に新しい詩を攻撃してをつた。有明氏はその序文で、近代の幽致を寓するために晦渋の謗を受けるのは止むを得ないと云ふ意味のことを書かれた。 ﹃春鳥集﹄は実に進歩した詩集である。明治の詩は茲で初めて新しい発達を遂げたと云うていいのである。朦朧難解なぞいふ批評は勿論云ふに足りない。それからあの時分の青年は、やはり此詩集と前後して出た﹃海潮音﹄を忘れることが出来ぬ。﹃海潮音﹄は上田先生の訳詩集であるが、この詩集が我々に与へた感化は莫大なものであつた。その後に散文の自然主義が起つて、詩の方でも其れが動機になり、根本から自由の詩を作らうとしだした。併しそれは主として外形の方に成功した。有明氏の詩はその後に﹃有明集﹄が出て、一方からは、手厳しい抗議をする者が出た。併しあの抗議は今から見ればかなり愧かしいものである。氏の詩を正まと面もに理解して居なかつたものである。一体今でも然うであるがジヨーナリスチツクな観方はごく悪い。わけても或運動を起して浅薄な考で他人を批議するやうなことは避けなければならぬ。 ロセツチの感化は﹃独絃哀歌﹄に最もよく窺はれた。僕は今でも聖菜園や十四行の小ソン曲ネツトをよく記憶する。異国情調が極端に満ちたもので又若々しさが溢れて居た。併しその若々しさは泣菫氏に見る花やかなところが無く、却つてジミで隠逸の風があつた。僕は是れを非常によく感じて居た。何とか云ふ美術雑誌や金港堂の婦人界なぞに出て居る頃は、僕は一面には泣菫氏の作を愛読しながら、奥床しい氏の作が頻りに気にかゝつた。今思へばこの特徴が自然と大きくなつて氏を象徴の域まで押し上げたのである。尤も氏の象徴には多少の問題が残つて居る。それは主として霊ソールの不明である。完全な象徴は必ずこのソールが無ければならないと思ふ。併しこの頃になつて僕は氏の﹃食後の序﹄を愛読した。さうしてつく〴〵氏の象徴が今後に初めて目ざましいものになるだらうと感じた。 僕はしかし﹃春鳥集﹄に就てかう信じて居る、恐らくは明治の詩中﹃藤村詩集﹄に次いで価値あるものは此詩集であると。 其後詩壇はさま〴〵に変化した。泡鳴氏のホイツトマン流の詩は殊に注目を牽いた。のみならず氏は論議の上で非常に卓越した意見を発表してをられた。併し其以前に遡つて見ると氏の作品は非常に古くから出て居る。実は僕が氏の﹃露じも﹄に接したのは、まだ十三四の小僧の時であつた。その時分のことを今よく記憶をする。黄ろい表紙の小形のかなり厚い詩集であつた。どこか地方から出版されたものであるが、その中には僕の郷里の風景なぞが読みこまれてあつたので殊の外懐しい気がした。それからしばらくして第二の﹃夕潮﹄が出た。この詩集及び次に出た﹃悲恋悲歌﹄までは、多くはロマンチツクな悲劇的なものであつた。氏の作風は最初の、蜻蛉釣る児の背を越えて秋が来ると云ふ様な軽いのは別として、一体に感興に充ちた力強い韻律で押して行くといふ風があつた。自然氏は八六調を最も得意にされた。八六調を自由に最も善く駆使したと云へば氏の外には無い。韻律のことを云へば氏が近来の放胆なるにも似ず当時は細かいところまで研究して居られた。今でも氏は韻律学者である筈である。劇詩の方では僕が読んだものは﹃海堡技師﹄と﹃脱営兵﹄とであつた。﹃海堡技師﹄には﹁金むく出たか、銀むく出たか﹂と云ふ面白い小唄が入つて居た。口語を長篇に用ゐたのは恐らく初めであらう。併し作として最も勝ぐれたものは﹃闇の盃盤﹄中の詩である。その頃になつて氏の刹那的燃焼とか神秘主義とかゞ実際に表はれて来た。﹃月と猫﹄と題する小詩は曽て氏自身も説明されたことが有る様であるから恐らく自信の作であらう。今其れに就て思つて見ると、この作は暗示の目的を以て書かれて居る。縁側に月の影が映る、その影を猫が捕へやうとして戯むれる、とたしか然ういふ事が歌つてあつた。泡鳴氏は、其れがたゞ其れだけでなく、もつと深い気分で書かれたに違ひない。即ちそこに暗示の目的があるのだ。併しこの暗示はたゞ一つの概念を描いたものである。直ぐその物、その行、その言葉が発散する暗示になつて居ない。たとへば日本画の線、或は色彩その物が漂はす暗示でなく、もつと具体的に語らうとする暗示である。つまり氏はベツクリンあたりの絵の気分に近い。 この意味で氏が作品の上に躓かれたことを思ふのである。僕は世間で批評したやうに軽々しく乱暴だとか何とか云ふのではない。氏の出立点は決して乱暴なものでは無い。それにも拘はらず以上の理由で失敗に帰したことは争はれないと思ふ。それで是を論議の方から見ると、どうしても氏がこの境地に満足して居られない事が感ぜられる。この矛盾は頭と製作との矛盾でないか。その間に大きな溝ギヤツプがあるのではないか。若し憚りなく僕の要求を云はして貰へば、氏は寧ろ神経質な暗示を捨てゝ、散文詩風に、自由に情意の声を表はされた方が勝ぐれた作品が出来るだらうと思ふ。氏は遂にボードレヱル氏やルレヱヌの一派に似ず、気分その物はたとへ同じであつても、寧ろホイツトマンに近いのである。 回顧は尽きやうとはせぬが、記憶に新たなる物を云へば啄木氏の﹃あこがれ﹄がある。二十一歳の詩人で天才だと云はれた。その気分と云ひ境遇と云ひ何となく画界の青木繁氏に似たところがある。併しそれにしては此詩集は、内容を伝ふべき何にも無かつた。惜いことには才情の煥発はあつてもオリジナリチーが見えぬ。それが明らかに見えたのは後年の二冊の歌集である。併しこの歌集は寧ろ氏の痛ましい破壊を示したものであつた。散文的な人生に触れて、それから更に生命にタツチして、深い詩美を発見することがなく中途に彷徨した。故に氏は必ず詩の生命が何であるかを熟知してをられたにちがひない。それにも拘はらずああいふ歌が出来たのは、それを説明すべきものは、我歌は悲しき玩具であると云つたその言葉である。その言葉があの悲しい詩人の本心を表はす反語である。 ﹃文庫﹄から出た人で夜雨氏と清白氏とには良い詩集があつた。そのうちにも清白氏の﹃孔雀船﹄は心持の善い感じを与へた。 上田先生の創作は二三篇しか無い。その又二三篇をよく覚えて居る。﹃ちやるめら﹄と﹃踏絵﹄とそれから、あこがれの序の﹃啄きつ木ゝき﹄と云ふ詩である。何れも珍重すべきものである。﹃芸苑﹄と云ふ雑誌には、愛雄、暮潮、辻村鑑諸氏の詩が出て居た。 白秋氏の﹃邪宗門﹄は四十一年に出版された。異エキ国ゾチ趣ツ味クで、色彩の勝つた、気分の豊かな詩集であつた。この詩集のことを思へばその時分の周囲や、我々が作つてゐた雰囲気が何となく胸に浮び上つてくる。氏の作は量に於ても甚だ多かつた。そして製作の技能に一種の熱があつた。それは感情の力とか詩想とか云ふものでなく、製作を動かす上に自然と生じて来る魅力であつた。僕は寧ろ此点に敬服してをつた。若し言語を自由に駆使したことを云へば其れ以前のあらゆる詩人に越えて居る。のみならずその言語は悉く新しい気分で動いて居た。氏は実に、微細に神経をつかふ言語の色カラ彩リス家トである。又この詩集にはロマンチツクな気分が溢れて居る。それは氏の気質を表はした特異なロマンチツクで、たとへばゴブラン織か、波ペル斯シヤの厚い壁掛でも見る様な感じであつた。 氏がこの気質を少しく収めて、反対に抒情の方面に目を向けられたのが最近評判になつて居る﹃思ひ出﹄である。故にこの二つの詩集は一つとして味はつて見る方が興味は深いのである。 ﹃思ひ出﹄はよく纒まつた詩集である。雰囲気で気持よく包まれた詩集である。 四十一年の頃には口語詩が起つて居る。あの時分は詩は旧い因襲に苦んで、どうしてもそれを棄てねばならぬ羽目になつて居た。それで御風氏の﹁自殺か短縮か無意味か﹂や、それ以前の天弦氏の﹁詩歌の根本疑﹂なぞは何れも悲観的ではあつたが、後に来るべき気運を導いた。作品となつた最初のものは御風氏の﹁瘠犬﹂であつた。 詩壇は暗中を模索するやうな状態で、すぐれた作品も出でぬ代り、非常に活気があつた。早稲田詩社は自由詩の中心となつた。併しこの口語の詩集として最初に出たものは柳虹氏の﹃路傍の花﹄である。柳虹氏の作品は雑誌﹃詩人﹄にたび〳〵出て其要求を発表してをられた。又詩集の序文には韻律に就て独自の意見を述べ、フランスの自由詩と関聯する理由なぞが説いてあつた。新しい最初の試みにも拘はらず、この詩集は芸術的気稟を失はなかつた点で大に成功したものである。 詩壇はそれからして現在に続いて居る。﹃明星﹄は廃刊して其他の詩の雑誌も変遷した。自由詩社が起つて月々パンフレツトを出したことがあつた。そのうちの何れかゞ発売禁止された。 詩集には東明氏の﹃夜の舞踏﹄葵村氏の﹃夜の葉﹄夕咲氏の﹃春のゆめ﹄なぞが出て居る。併し最近記憶に新たなることであるから茲には云はない。詩を書く者は次第に多くなつた。従つて世間では詩に対して親しみを持つやうになつて来た。軽い小唄や小曲なぞが盛に出た。 紙数に限りがあるから充分には云ひ尽せない。明治の詩壇を回顧して主な印象だけを書き聯ねて来たが、今一人一人の作品に就て見たならば興味の深い研究が出来る。又自分の記憶の中に浮んで来る中で、余儀なく省略しなければならんものもあつた。是等は読者に対して深く謝すところである。 我々は現在に立つて居る。明日は明日で変化をし一刻も進んで倦まないだらう。詩壇は非常に長い間歩まねばならぬ。
〈「透谷」(『露風詩話』)は本文の一部〉
(文章世界、八巻一号、大2・1・1)
(文章世界、八巻一号、大2・1・1)