古い田舎の邸の撞球室で、二人の男が立ち話をしていた。気合の入らなかった玉突きは終って、二人はひらかれた窓ぎわに腰をおろし、窓の下からひろがっている庭園を眺めながら、けだるそうに話しあった。 ﹁君ももう、いよいよだな、ジェム﹂とうとう、一人が言った。﹁今度は六週間あくびしながら蜜月をすごして、客を招いた男を――いや、女をというつもりだったが――さぞかし呪うだろうな﹂ ジェム・ベンスンは椅子に腰かけたまま長い手足をのばして、なにやらぶつぶつ異議をとなえた。 ﹁てんで理解できないね﹂ウィルフレッド・カーは、あくびしてつづけた。﹁僕の性には合わないな。僕なんざ、一人でいたって二人でいたって、生活に必要なお金をついぞ持ったことがない。もし君かクリーサス︵大冨豪の代名詞︶くらい金持だったら、見方も違っていたかもしれないが﹂ その言葉の終りの方には、彼のいとこが返事をさし控えるような或る意味があった。いとこは窓の外をみつめたままで、ゆっくり葉巻をふかしつづけた。 ﹁クリーサスみたいに――また、君みたいに金持ではないけれども﹂ミスタ・カーは目をほそめて窺うように見ながら、また話しだした。﹁僕は僕なりに、自分のカヌーに乗って“時”の流れを漕ぎくだりながら、友だちの家の側柱にカヌーをつないでは、中へはいって食事の御相伴にあずかって暮しているよ﹂ ﹁まったくヴェネチヤふうだね﹂まだ窓の外を眺めながら、ジェム・ベンスンは言った。﹁君には、まんざらでもないことだろうな、ウィルフレッド。カヌーをつなぐ側柱があり、食事があり――そして、友だちがあるというのは﹂ 今度はミスタ・カーが、ぶつぶつ言った。﹁しかし真面目に言ってだよ、ジェム﹂彼は、ゆっくり言った。﹁君は幸せなやつだよ、とても幸せなやつだ。オリーヴよりもいい娘がこの世にいるのなら、一遍お目にかかってみたいもんだ﹂ ﹁うん﹂もう一人の方は、静かに言った。 ﹁彼女はたぐい稀な娘だよ﹂カーは窓の外をみつめながら、つづけた。﹁あれほど善良で、優しい娘はいないね。彼女は君を、ありとあらゆる美徳をかねそなえた男だと思ってるよ﹂ 彼はあけっぴろげに、いかにも愉しそうに笑ったが、相手は調子にのってこなかった。 ﹁とはいうものの、善悪のけじめははっきりつける娘だ﹂カーはもの思いにふけるようにつづけた。﹁ねえ君、もしも彼女がだよ、君がそういう人間でないと知ったら――﹂ ﹁そういう人間でないと?﹂ベンスンは、あらあらしく向きなおって、﹁そういう人間でないとは、なんだ?﹂ ﹁君という人間の、すべてがだよ﹂いとこは言葉とうらはらに、にやりと笑ってやり返した。﹁きっと彼女は、君を捨てるだろうと思うな﹂ ﹁なにかほかの話をしたまえ﹂ベンスンはゆっくり言った。﹁君の冗談は、いつも趣味がいいとはいえないよ﹂ ウィルフレッド・カーは立ちあがって、キュー台からキュー︵玉突き棒︶をとり、玉突き台の上にかがみ込んで、会心の玉を一つ二つ突いてから、﹁いま話せるほかの話題といえば、僕自身の経済状態のことしかないんだがね﹂と、玉突き台をまわりながら言った。 ﹁なにかほかの話をしたまえ﹂ベンスンは、ぶっきらぼうに繰り返した。 ﹁それに、いま言った二つの話題には、つながりがあるんだよ﹂カーは言って、キューの尻をすとんと床へ落し、玉突き台に浅く腰かけて、じっといとこをみつめた。 長い沈黙があった。ベンスンは葉巻の吸いさしを窓の外へほうり出し、椅子の背にもたれかかって目をとじた。 ﹁聞いているのかい?﹂とうとう、カーが訊いた。 ベンスンは目をあけ、窓の方に頷いてみせてから、﹁僕が葉巻をほうり出したのを見たかい?﹂ ﹁出ていけというなら、まともな出口から出て行くよ。君のためを思ってね﹂相手は平気のへっちゃらで、しっぺい返しをした。﹁もし僕が窓から出て行ったりしたら、あれやこれやとうるさく質問されるぜ。それに、僕がどんなお喋り屋なのか知ってるだろ﹂ ﹁僕個人のことを喋らないかぎり﹂相手はいかにも苦しげに、ぐっと怺えてやり返した。﹁声が嗄れてつぶれるまで、喋りまくったっていいよ﹂ ﹁僕は、にっちもさっちもゆかないんだ﹂ゆっくり、カーは言った。﹁そりゃあもう、ひどいんだよ。さ来週のきょうまでに千五百ポンドつくらないと、食べるものも住むところもなくなっちまうかもしれないんだ﹂ ﹁そうなったって、かくべつ変りがあるわけじゃないんだろ?﹂ベンスンが訊いた。 ﹁いや、格が違ってくるんでね﹂相手は言いかえした。﹁住所も、柄がわるくなってくるし。真剣なんだ、ジェム、千五百ポンド貸してくれないか?﹂ ﹁だめだよ﹂相手はあっさり言った。 カーは真っ蒼になり、﹁それが僕の身を破滅から救ってくれるんだよ﹂と、陰にこもって言った。 ﹁僕は君をずっと助けてきたが、もう飽き飽きした﹂ベンスンはふり向いて、彼をみつめて言った。﹁それが、なんの役にも立たなかったからさ。にっちもさっちもゆかないのなら、自力でなんとか脱け出してみるんだな。いい気になって、署名入りの無心の手紙を方々へ出したりするんじゃないよ﹂ ﹁それがばかげていることは、僕も認める﹂カーは、いやに落着いて言った。﹁もう金輪際、そんなことはしないよ。ところで僕は、売れるものを持ってるんだがね。いや、そう嘲笑うことはないぜ。僕のものじゃないんだから﹂ ﹁じゃ、誰のものだ?﹂相手は訊いた。 ﹁君のさ﹂ ベンスンは椅子から立ちあがり、彼の方へ横ぎって行って、﹁なんだ、それは?﹂と、そっと訊いた。﹁脅迫するのか?﹂ ﹁どう呼ぼうと、それは君の勝手さ﹂カーは言った。﹁僕は、売りものの手紙を持ってるんだ、値段は千五百ポンド。それから、オリーヴを君から奪いとりたいばっかりに、こちらの言い値どおりに買いとろうという男を知ってるよ。だが、先に君に提供してあげようというわけだ﹂ ﹁僕の署名のある手紙を持ってるのなら、渡してくれたっていいじゃないか﹂ベンスンは、非常にゆっくり言った。 ﹁手紙は僕のものだぜ﹂カーは屈託なげに言った。﹁君が書いて送った相手の御婦人から、もらったんだよ。いやはや全く、どうにもいい趣味とはいいかねる代物だね﹂ 突然いとこは手をのばし、彼の胸ぐらをつかみ、頭を玉突き台へ押しつけて、 ﹁よこすんだ、手紙を﹂と顔をいとこの顔にくっつけるようにして、小声で言った。 ﹁ここにはないよ﹂カーは、もがきながら言った。﹁僕は阿呆じゃないぞ。放せったら。放さないと、売り値をつりあげるぞ﹂ 相手はあきらかに彼の頭を玉突き台に叩きつけるつもりで、力の強い両手で首を引き起した。が突然、郵便物を持った女中が仰天した表情で部屋に入ってきたので、手の力を抜いた。カーも、あわててからだを起した。 ﹁ざっと、こういうふうにやっつけたものさ﹂ベンスンは郵便物を受けとりながら、女中の前をとりつくろって言った。 ﹁じゃ、その男に金を出させることは間違いなしだね﹂カーが、穏やかに言った。 ﹁その手紙を渡してくれないか?﹂女中が部屋から出ると、ベンスンは思い出させるように言った。 ﹁さっき言った買い値でなら、イエスだ﹂カーは言った。﹁だが、はっきり言っとくぞ。もし二度とその不細工な手を僕のからだにかけたら、売り値を倍にするからな。さあ、時間をやるから、その間にとっくり考えてみるんだな﹂ 彼は箱から葉巻を一本とり、注意ぶかく火をつけながら部屋から出て行った。いとこはドアが後手にしめられるまで待ってから窓ぎわへ行き、あまりにも激しいために声にもならない憤怒の発作にかられて、どかっと椅子に腰をおろした。 庭園から流れてくる空気は、刈りたての草の匂いをたっぷりふくんで、すがすがしく、甘かった。今それに、葉巻の香ばしいかおりもまざりあった。窓の外を眺めている彼の目に、ゆっくり通りすぎるいとこの姿が映った。彼は立ちあがってドアまで行ったが、考えなおしたのか窓ぎわへ引返して、月の光の下へゆっくり歩いて行くいとこの姿を見まもった。それから、また立ちあがった。そして、しばらくの間、部屋の中は空っぽになっていた。 しばらくたって、ミセス・ベンスンが就寝前に息子におやすみなさいを言うために立ち寄ったときも、まだ部屋の中は空っぽだった。彼女はゆっくり玉突き台をまわり、窓ぎわに立ちどまって、ぼんやり考えながら外をみつめた。と、家の方へ大股でのっしのっしと歩いてくる息子の姿がみえた。彼は、窓を見あげた。 ﹁おやすみなさい﹂彼女は言った。 ﹁おやすみなさい﹂ベンスンは太い低バ音スの声で言った。 ﹁ウィルフレッドは、どこ?﹂ ﹁ああ、行っちゃいましたよ﹂ベンスンは言った。 ﹁行っちゃったんですって?﹂ ﹁僕たちは、ちょっと話合いをしていました。また彼が、金がいるって言いだしたんです。僕は、率直な意見を言ってやりましたよ。もう二度と、うちへはこないだろうと思います﹂ ﹁かわいそうなウィルフレッド!﹂ミセス・ベンスンは溜息をもらして、﹁あの子はいつもなんだかんだと困ってたわねえ。おまえ、あんまり辛く当りゃしなかっただろうね﹂ ﹁彼にふさわしいように、あしらってやりましたよ﹂息子は断乎として言った。﹁おやすみなさい﹂
とっくの昔から使われなくなっていた井戸は、古い庭園のその片隅にやたらとはびこって、びっしり密生している下生えに、ほとんど隠れてみえなかった。井戸は、縮んで半分の大きさしかなくなった蓋で一部分を覆われ、その上には、風が強く吹くと松籟の音に和してぎいぎい軋る錆びた捲上げ機があった。白昼の日光も井戸の中にはとどかず、周囲の地面は、庭のほかの場所が熱さのためにひび割れるときでさえ、じめじめしていて、いつも緑色であった。 香ばしい夏の夕べの静けさの中を散歩していた二人は、井戸の方向へ迷いこんできた。 ﹁こんな荒れたところを通ったって、つまらないよ、オリーヴ﹂ベンスンが松林のはずれに立ちどまり、かなたのうす暗がりを少し不愛想に見ながら言った。 ﹁ここはお庭のいちばんすてきなところよ﹂娘は元気よく言った。﹁あたしの好きな場所だってこと、御存知のくせに﹂ ﹁君が井戸の笠石に腰かけるのが好きなことは、よく知ってるよ﹂男は、ゆっくり言った。﹁あすこへは、腰かけてもらいたくないんだ。いつか、背をのけぞらして、落ちこんじゃうよ﹂ ﹁そして、“真実”とお近づきになるのね﹂オリーヴは、はしゃいで言った。﹁さあ、いらっしゃいよ﹂ 彼女はジェムをおいて駈けだし、駈けながら蕨わらびをぱりぱり踏みくだいて、松林の中へ姿を消した。彼女の連れは、ゆっくりあとから歩いて行き、うす暗がりから抜け出して、彼女がまわりにはびこった草や蕁いら麻くさの中に両脚を隠して、井戸の端にすんなり腰かけているのを見た。彼女は手まねで連れを呼び寄せ、となりに腰かけさせ、力強い腕が腰にまわされるのを感じると、優しくほほえんだ。 ﹁あたし、ここが好きなのよ﹂長い沈黙をやぶって、彼女が言った。﹁すごく気味わるくて――すごく神秘的ですもの。ねえ、あたし一人だけでも、ここに腰かけていられると思うわ、ジェム。藪や林の向うに、ありとあらゆる怖ろしいものが隠れていて、あたしに襲いかかろうと待伏せしてるの、それを想像するのよ。ああー!﹂ ﹁僕にうちへ連れ帰ってもらった方がいいよ﹂連れは優しく言った。﹁井戸は不衛生なことがあるんだ、殊に暑いお天気のときにはね。さあ、ほかへ行こうよ﹂ 娘は強情に首をふって、一層しっかり腰を落着けた。 ﹁ゆっくり葉巻をお吸いなさいな﹂オリーヴは、もの柔かに言った。﹁ここで落着いて、静かにお話したいの。ウィルフレッドから、なにか便りがあって?﹂ ﹁ぜんぜんないよ﹂ ﹁まったく劇的な失踪じゃなくって?﹂彼女はつづけた。﹁でも、そのうちにまた困りだして、いつものおなじ調子で、あなたに手紙を送ってくるわよね。﹃親愛なるジェムよ、僕を救い出してくれたまえ﹄って﹂ ジェム・ベンスンは香ばしい煙を空中にふうっと吐き出してから、葉巻を歯にくわえたまま、上着の袖に落ちた灰をはらいのけた。 ﹁あの人って、あなたなしにどうなったのかしらねえ﹂娘は彼の腕を、愛情こまやかに押しながら言った。﹁もうとっくに、おちぶれてるんでしょうね。あたしたち結婚したらね、ジェム、あたしはいとこ同志の関係を利用して、あの人にうんとお説教したげるわ。たいへん我儘なんだけど、あの人には、いいところもあるのよ。かわいそうなひと﹂ ﹁いいところってのは、ぜんぜん見たことないな﹂ベンスンは、びっくりするような苦々しさをこめて言った。﹁分るもんか、僕は見たことないよ﹂ ﹁あの人って、ほかの誰の敵でもなく、自分自身の敵なのよ﹂連れの激しい感情の発作にびっくりして、娘は言った。 ﹁あいつのことを、君はろくに知っちゃいないんだ﹂相手はそっけなく言った。﹁あいつは脅迫するのを恥とも思わないし、自分が得するためになら、友だちの一生を破滅させるのも恥と思わないんだよ。浮浪者で、人間の屑で、大嘘つきだ!﹂ 娘はまじめになって、おずおずと彼を見あげ、ひとことも言わないで彼の腕をとり、そうして二人は、黄昏が深まって夜となり、木の枝々の間から月光がもれ落ちて、二人を銀色の網でとりかこむまで、口をきかずに腰かけていた。 ﹁なんだったの、あれ?﹂彼女は息をきらせて叫んだ。 ﹁なにがどうしたって?﹂ベンスンは跳びあがって、すばやく彼女の腕をつかみながら訊いた。 彼女はほっと息をついて、笑おうとした。 ﹁いやな方ね、あなたって﹂ 彼は手の力をゆるめた。 ﹁いったい、どうしたんだい?﹂彼は優しく訊いた。﹁なにが君をびっくりさせたの?﹂ ﹁あたし、仰天したのよ﹂彼女は両手をそっと彼の肩にかけながら、言った。﹁さっき自分が叫んだ言葉が、まだ耳の中でがんがん鳴ってるわ。だけど、あたしたちの後ろで、誰かが﹃ジェム、救い出しておくれよ﹄って、ささやいたような気がしたんですもの﹂ ﹁そんな気がしただけさ﹂ベンスンはくりかえしたが、声が顫えていた。﹁だけど、そういう気の迷いは、君のためによろしくないね。君は――怯えたんだよ――暗やみと、この林の陰気さに。さあ、連れてってあげるから、家へ帰ろう﹂ ﹁いいえ、あたし怯えちゃいないわ﹂娘は腰かけなおしながら、言った。﹁あなたが一緒にいてくださったら、どんなことにも、ほんとに怯えやしないわよ、ジェム。あんなばかげたことを言って、あたし自分で驚いてるの﹂ 男はそれに答えずに立ちあがり、たくましい黒い姿となって、彼女がくるのを待ちかねるかのように、井戸から一、二フィート離れた。 ﹁ここへきて、お掛けなさいな﹂オリーヴは小さな白い手で、煉瓦積みをかるく叩きながら呼んだ。﹁人は、あなたが連れを好いていないって思うわよ﹂ 彼はのろのろと呼びかけに従って、彼女のそばに腰をかけ、ひと息ごとに顔が赤く照らしだされるほど、強く葉巻を吸いつづけた。彼は鋼鉄みたいに硬く強こわ張ばった片方の腕を彼女の腰へまわし、もう一方の手を、その先の煉瓦積みの上にのせた。 ﹁寒くないの?﹂彼女がちょっと身動きしたので、彼は優しく訊いた。 ﹁けっこう暖かいわ﹂彼女は身顫いしていた。﹁今ごろの時候で、寒いはずはないんだけど、井戸の奥から、冷たい湿った空気が昇ってくるのよ﹂ こう言ったとき、井戸の底から、かすかにぱちゃんと水のはねる音がして、彼女は今夜二度目の低い狼狽の叫び声をあげて、井戸から跳びはなれた。 ﹁今度はなんだい?﹂彼は怖れにみちた声で訊いた。彼はオリーヴとならんで立ち、彼女の驚きの原因となったものが、今にもぬっと出てきはしないかと恐がっているかのように、じっと井戸をみつめた。 ﹁ああ、腕環なのよ﹂彼女は悲しくなって、泣き出した。﹁死んだお母さまの腕環が。あれを井戸の中へ、落っことしちゃったの﹂ ﹁君の腕環!﹂ベンスンが、のろのろと繰り返した。﹁君の腕環か! あの、ダイアモンドのかい?﹂ ﹁あたしのお母さまのだった方よ﹂オリーヴは言った。﹁ああ、そうね、きっととりもどせるわ。井戸水をぜんぶ、汲みあげてしまわなくちゃ﹂ ﹁君の腕環なのか!﹂ベンスンは、うつけたように繰り返した。 ﹁ジェム﹂彼女は怯えた口調で言った。﹁優しいジェム、どうなさったの?﹂ 訊いたのは、オリーヴの愛している男がつっ立ったまま、恐怖に怯えて彼女をみつめているからだった。男の顔の紙のような白さは、ぜんぜん、顔を照らしている月の光のせいではなかった。彼女は恐くなり、井戸の縁まであとずさりした。彼は娘の恐れに気づき、必死になって平静をとりもどして彼女の手をとり、 ﹁かわいそうなお嬢さん﹂と、呟くように言った。﹁君は僕を顫えあがらせたんだよ。君が叫んだとき、僕はなにも見ていなかったので、てっきり君が僕の腕から滑り落ちて、下へ――下へと――﹂ 声がとぎれ、娘は彼の腕の間へとびこんで、痙攣しながらひしとしがみついた。 ﹁さあ、さあ﹂ベンスンは、いつくしむように言った、﹁泣かないで、泣いちゃいけないよ﹂ ﹁あすになったら﹂オリーヴは泣き笑いしながら言った。﹁釣針と糸を持って、二人で井戸まできて、腕環を釣りあげましょうね。新しい遊びになるわ、きっと﹂ ﹁だめだよ、ほかの方法でやってみなくちゃいけないよ﹂ベンスンは言った。﹁かならず、とりもどしてあげるからね﹂ ﹁どうやってするの?﹂娘は訊いた。 ﹁待ってらっしゃい﹂ベンスンは言った。﹁少なくとも、あすの朝までには、とりもどしてあげるよ。そのときまで、腕環をなくしたことを、誰にも言わないと約束するんだ。さあ、約束したまえ﹂ ﹁約束するわ﹂オリーヴは不審げに言った。﹁だけど、なぜ言っちゃいけないの?﹂ ﹁一つには、あれがたいへん高価な品物だからだよ。それから――あすこには――いや、理由はいろいろとあるんだ。一つには、あれを君のためにとりもどすのは、僕の義務なんだからね﹂ ﹁あれをとりに、井戸の中へ飛びこんでくださるの?﹂彼女は茶目っ気たっぷりに訊いた。﹁聞いてごらんなさいな﹂ 彼女はかがみ込んで小石を拾い、井戸の中へ投げこんだ。 ﹁小石が今どこにあるのか、想像してごらんなさいよ﹂彼女は暗黒の中を覗きこんで言った。﹁桶の中の鼠みたいに、ぬるぬるする壁へしがみつこうとしながら、ぐるぐる回ってるの。水が口の中へはいってきて、頭のてっぺんに、ちっぽけな空がみえるだけなの﹂ ﹁うちへ帰った方がいいよ﹂ベンスンが落着きはらって言った。﹁君は病的で、怖ろしい空想をかきたててるんだ﹂ 娘は向きなおって彼の腕をとり、ゆっくり家の方へ歩いていった。ポーチに腰かけていたミセス・ベンスンが立ちあがって、二人を迎え、 ﹁こんなに遅くまで、このひとを連れ出しちゃいけませんよ﹂と、叱るように言った。﹁いったい、どこにいたの?﹂ ﹁井戸の上に腰かけて﹂にっこり笑いながら、オリーヴが言った。﹁あたしたちの将来のことを、お話してたんですのよ﹂ ﹁あすこは健康的でないと思います﹂ミセス・ベンスンは、きっぱり言った。﹁井戸は、ほんとに埋めてしまわなければなりませんよ、ジェム﹂ ﹁ほんとにそうですね﹂ゆっくりと、息子が言った。﹁早く埋めとけばよかったのに、まずかったな﹂ 母親がオリーヴを連れて家の中へはいると、彼は両手をぐんにゃり垂らして椅子に腰をおろし、考えにふけった。しばらくたってから立ちあがり、スポーツ用品をしまってある部屋へあがって、海釣用の糸と針を何本か選びだし、また階段をそっと忍び足で降りた。彼は井戸の方へ公園をすたすた横切って行き、松林の影に入る前に、ふり返って家の窓に灯がついているのを見た。それから、釣糸の用意をして、井戸の上に腰をかけて、そろそろと底の方へ垂らしていった。 彼は唇をきゅっと噛みしめて腰かけ、ときどき、林の中からなにかがこちらを窺っているのがみえるとでもいうように、ぎくっとしてあたりを見まわした。じりじりと釣糸を底までおろして、やっと少し引いてみると、井戸の壁になにかがぶつかる微かなちりんちりんという金属性の音が聞えた。 彼はほっとひと息つき﹇#﹁ひと息つき﹂は底本では﹁ひき息つき﹂﹈、恐怖も忘れ去って、高価な荷を落っことさないように、一インチ一インチと糸をたぐりあげた。糸をそろそろと引きあげているうちに、釣針にひっかかった獲物がみえたので、彼は慎重な手つきで、最後の一、二フィートを手繰りあげた。が、見ると、腕環でなくて、鍵束を釣りあげたのだった。 彼はかすかな叫び声をあげて、針から鍵束を底の水へ揺さぶり落し、地面に立ってはあはあ息をきらせた。夜のしじまを破るもの音は、まったくなかった。彼はそこいらを二、三歩づつ往復して、たくましい筋肉をほぐしてから、また井戸へまいもどって、釣り仕事にとりかかった。 糸を一時間以上も垂らしていたのに、なにひとつ釣ることができなかった。彼は熱中のあまり恐怖も忘れて、目を井戸の底にじっと据えたまま、ゆっくりと注意ぶかく釣りつづけた。二度、釣針がなにかに縺れて、外すのにえらい苦労をした。が、三度目に引っ掛かったときは、あれこれやってみたものの遂に外すことができなかった。それで彼は、釣糸を井戸の中へ落し、そして頭をうなだれて家の方へ歩いて行った。 まず彼は、裏手にある馬小屋へ行ってから、自分の部屋へ引揚げ、しばらくそわそわと歩きまわっていた。それから、服も脱がずに、ベッドへがばっと倒れ伏して、やすらぎのない眠りにおちた。
彼はほかの者が目をさますよりもずっと早く起きあがって、こそこそと忍び足で階下へおりた。あらゆる隙間から日光が射しこんで、暗くした部屋のならびに、長い光の縞を斜めに投げかけていた。食堂を覗きこむと、おろしたブラインドから暗い黄色い光が漂っていて、ひんやりと気のめいるような気がした。彼は食堂の外見は、父が家の中で死んだときと変っていないのを思い出した。今もあのときのように、すべてが死人じみて、非現実的なような感じがした。前の晩に腰かけていた人間が立って残して行ったままの椅子は、なにか秘密めいた想念のやりとりに耽っているみたいだった。
彼はゆっくりと足音を立てずに玄関のドアをあけて、外の香ばしい大気の中へ歩み出た。太陽が、じっとり濡れていた草木の上に輝き、ゆっくり消えてゆく白い靄が、地べたに煙のように波うっていた。しばらく彼は立ちどまって、朝の甘い空気を胸いっぱいに吸いこんでから、ゆっくり馬小屋の方へ歩いて行った。
ポンプのハンドルのぎいぎい軋る音と、赤タイルを敷いた中庭にはねちる水で、ほかにも誰かが起きて仕事しているのが分った。もう二、三歩行くと、筋骨たくましい砂色の髪の毛の男が、激しい自己刑罰みたいなポンプ仕事にはあはあ喘いでいるのがみえた。
﹁ぜんぶ用意できたか、ジョージ?﹂彼は静かに訊いた。
﹁はい、旦那さま﹂男はぱっとからだを起して、額に手をあてながら言った。﹁ボブが中で準備を終るところです。水につかるには、いい朝ですなあ。あの井戸の水は、きっと氷みたいに冷たいに違いありません﹂
﹁できるだけ急ぐんだぞ﹂ベンスンは、いらいらして言った。
﹁はい、かしこまりました﹂ジョージはポンプのてっぺんに掛けておいたちっぽけなタオルで、ごしごし顔をふきながら言った。﹁急げよ、ボブ﹂
その呼びかけにこたえて、馬小屋のドアのところに、頑丈なロープを巻いて腕にかけ、大きな金属製の燭台を持った男があらわれた。
﹁空気をためしてみるためにですよ、旦那さま﹂ジョージが主人の視線を追いながら、言った。﹁井戸の空気は、ときどき汚れてることがありますんで。でも、蝋燭をおろして消えなければ、人間がおりても大丈夫です﹂
主人が頷くと、男はあわててシャツの襟を立て、チョッキに腕をつっこんで、井戸の方へゆっくり歩いて行く主人のあとを追った。
﹁失礼ですが、旦那さま﹂ジョージが彼のそばへ追いすがって、言った。﹁けさは、井戸の上から覗きこむだけではないのですから、私に降りさせてくださるなら、水浴びを愉しみたいんですが﹂
﹁だめだ、だめだ﹂ベンスンは断乎として言った。
﹁旦那さまが井戸へ降りて、もしものことがあってはいけません﹂追いすがった方は、しつこかった。﹁旦那さまが、こんなふうにおなりになったのを見るのは、初めてです。さあ、もし――﹂
﹁よけいなことを言うな﹂主人は、そっけなく言った。
ジョージは黙りこみ、三人は長い濡れた草の間を井戸まで大股で歩いて行った。ボブはロープを地べたに投げ出し、主人から合図されて、燭台を手渡した。
﹁それを吊す紐を持ってきてますよ、旦那さま﹂ボブが、ポケットを探りながら言った。
ベンスンは紐を受けとって、ゆっくり燭台に結びつけた。それから、燭台を井戸の端にのせ、マッチをすって蝋燭に火をつけて、そろそろと下ろしはじめた。
﹁しっかり持っててくださいよ、旦那さま﹂ジョージが主人の腕に手をおいて、すばやく言った。﹁傾けると、すぐ紐が焼け切れてしまいます﹂
まだ喋り終らないうちに、紐は切れて、燭台は底の水の中へ落っこちてしまった。
ベンスンは低い声で罵った。
﹁すぐ、もう一本とってきますよ﹂ジョージが駈けだしながら言った。
﹁いいよ、井戸の中は大丈夫だ﹂ベンスンは言った。
﹁時間はかかりませんよ、旦那さま﹂相手は肩ごしにふり返って言った。
﹁ここではおまえが主人なのか、それとも私なのか?﹂ベンスンは嗄れ声で言った。
ジョージはのろのろ引返してきたが、主人の顔をちらりとみて、口の先まで出かかった抗議をひっこめ、主人が井戸に腰かけて服を脱ぐのを、そばに立って腫れっつらをして見まもった。下男は二人とも、主人が用意をととのえて、すごい顔つきで無言のまま両手をのばして地面に立つのを見まもった。
﹁私にやらせてくださいませんか、旦那さま﹂ジョージは勇気をふるいおこして言った。
﹁旦那さまには無理です、冷えこみますよ。いや、きっと腸チフスがいますぜ。村で、ひどくはやっていますからね﹂
一瞬ベンスンは、怒ったように彼を見てから、視線を柔らげて、﹁今度だけはだめだよ、ジョージ﹂と、静かに言った。彼はロープの環にした方を手にとり、頭からかぶって脇の下で締めつけてから、井戸の縁に腰かけて片足を内側へ入れた。
﹁どういうふうにやりますか、旦那さま?﹂ジョージがロープを握り、ボブにもそうするように合図しながら言った。
﹁水面まで降りたら、大声で知らせる﹂ベンスンは言った。﹁そしたら、私が肩まで着くように、一遍に三ヤード繰り出すんだ﹂
﹁かしこまりました、旦那さま﹂二人は答えた。
主人はもう一方の足も笠石を越して内側へ入れたが、腰かけたまま動こうとしなかった。彼は男たちに背を向けて、頭をさげて、竪坑の中を見おろしていた。それがあまり長いので、ジョージは不安になってきて、﹁大丈夫ですか、旦那さま?﹂と訊いた。
﹁うん﹂ベンスンは、ゆっくり言った。﹁私がロープを手繰ったらな、ジョージ、すぐ引っ張りあげるんだぞ。さあ、降ろせ﹂
ロープは二人の手の中をむらなく滑って行き、やがて真っ暗な底からうつろな叫び声が聞え、かすかに水のはねる音がして、主人が水面に着いたことが分った。二人はもう三ヤード繰り出してから、手の握り方をゆるめ、耳をすまして待った。
﹁水の中へもぐったんだね﹂ボブが低い声で言った。
もう一人は頷いて、でっかい掌を唾でしめしてから、いっそう強くロープを握りしめた。
たっぷり一分間はすぎて、二人は不安げな視線を交しはじめた。と突然、ぐいっと激しい手ごたえがあり、少し弱い手ごたえがそれにつづいて、ロープはあやうく二人の手からすり抜けそうになった。
﹁引っ張れ!﹂ジョージは叫んで、片足を井戸の外壁に突っぱって、死にものぐるいに引きはじめた。﹁引っ張れ! 引っ張れ! どっかへ閊つかえたのかな、あがってこんぞ。引っ張れえ!﹂
二人の必死の努力の甲斐があって、ロープは一インチづつゆっくり手繰られ、やがてすごい水音が聞えたのと同時に、とても言いあらわせないような恐怖の絶叫が、竪坑の底からわあんと反響してきた。
﹁なんて重いんだ!﹂ボブが喘ぎながら言った。﹁つっかえたかどうか、したんだな。じっとしててくださいよう、旦那さまあ。後生ですから、じっとしててくださいよう﹂
というのは、ぴんと張りつめたロープが、先端で重いものがもがくために、激しく引きつけたからだった。
二人とも文句を言ったり、溜息をもらしたりしながらも、一フィート一フィートと引きあげた。
﹁もう大丈夫ですよ、旦那さま﹂元気よく、ジョージが叫んだ。
彼は井戸に片足を突っぱって、えんやこらさと勇ましく引いた。荷物が、ほとんどてっぺんまで上ってきた。ぐうんとひとつ強く引くと、目と鼻の孔に泥がつまった死人の顔が、井戸の縁へにゅっと覗いた。その後ろに、主人の死人のように蒼ざめた顔があった。が、それに気づいたのは遅すぎた。ジョージが大声で悲鳴をあげて手に握っていたロープを離し、あとじさりしたからだった。不意の出来事のために、彼の助手も動顛して、ロープは手からすり抜けた。ぞっとするような水の音がした。
﹁ばか野郎!﹂ボブは吃るように言って、どうすることもできず井戸のそばへ駈けつけた。
﹁走れ!﹂ジョージが叫んだ。﹁もう一本、ロープをとってくるんだ﹂
彼は助手があらあらしく叫びながら馬小屋の方へ走って行くと、笠石から乗りだすようにして、井戸の底へ熱心に呼びかけた。声が竪坑の奥で反響するだけで、ほかは沈黙があるだけだった。