霧に包まれた上海の街、十米も先はわからない様なモヤ、灰色の雲の中をフハリフハリと行く人、その時、街の心臓にパツト灯がつく、白いロココ風の馬車が二馬路の角を通る、白い馬車白い二頭の俊足を持つた馬、白いビロードの服をつけた馭者、乗つて居る人は老人と華かな飾りをつけた若い弱々しい、紫色の娘、彼氏はその時刻に二馬路から三馬路にかけて歩道を散歩して居れば必ずその白い馬車を必ず定きまつて見かけた。そうしてその白い馬車が彼氏の心の中で生活し生長した。でどうかしてその白い馬車を見かけない日、彼氏は一種の憂鬱と不安におそはれた。 ○ ガーバードウヂヤウ。ひしめく群集 ブロンズの大きな鷲の影から真珠の玉ヒユー。 紫、黄、赤。光りをふくんだ奇麗な玉。 アメリカ独立祭。夜を徹しての花火。 ○ マリー、ロード、から右に折れてすぐに灰色の高い塀を持つた邸宅がある、チヨロチヨロと上からたれ下つてゐる姫蔦、レデイハミルトンの細巻に火をつけて塀に添つてトボトボと歩く、一本が喫ひ尽くされた頃門前に出る、いつでも鉄の扉がしまつてゐる、厳格な感じにしまつてゐる、いつかその厳い門が開いた、パツト中から急に咲いた花の様に三人の娘が出てくる、赤、紫、黄、巧みなシヨウフアーによつて運転されるカデラツクの中に三人の娘は入る、車は音も無しに動き始める、華かさが急に消える。 ○ アングロチエイニイズ、システムのゼスフイルド公園 ローングラスの上に静かに立つた水兵服の少女 ホツプの頭、黄色のハンカチーフが目立つ ヂツト見たら逃げ出してしまつた。 ○ 朝ぽかりと目がさめる、あくびをして、手をのばしてそしてそれが彼氏のもう習慣になつてゐる仕事の一つとして、ドアの下から出てゐる申報をひろふ、先づ目を通すのは着船、エムプレスが入港してゐたら大変、顔と足を洗ひ急いで服をつける、あはてゝ飛び出す、彼氏の目指すところはウエセーモデー、立派なスタイルを持つたエムプレスの雄姿、明い太陽を受けて人々は動く。石炭、食料、エナメルの靴をはいて意気に頭をわけた顔の色の美しい支那ボーイが番号を大きな朗かな声で歌ふ。253、352 青いブルーズ、黄いズボン、黒い靴下、白い靴、そうして頭に赤いトルコの帽子、黒いピカピカ光る顔を桃色の唇で微笑ませ鼻歌を口づさみながら船の横腹にペンキのハケを動かす印度の少年見習水夫。ガラガラ、ガラ、起重機の力。彼氏はポケツトに手を入れたまゝ右往左往する。 ピンク色の人絹のワイシヤツ、紫色のネクタイ、繭紬のビヂヤマ、支那の商人が売れても売れなくとも一向自分には関係のない様な顔をして突立つてゐる。 やがて夕方にもなれば赤いヂヤンク船も帰つてくるであらう、そして彼氏は彼氏の空腹に始めて気づく。 ○ かさを持つた月夜の晩二頭立ての黒い馬車が二つ城外を馳る、堀の水を越えて見える城壁、対岸に並ぶ白い低い壁の民家、一本の長い道、静寂の中に、馬車の影だけが二つ動いて行く﹁おい君まだかい﹂ しばらくたつて、向ふの馬車から﹁未だです﹂ 又馬車の影だけが動いて行く、﹁おい﹂こつちの馬車から、﹁未だです﹂あつちの馬車から、夜の二時、青白い月明、前チヤ明ンメンに急ぐ二頭の馬車、夢の道をかける二つの馬車の影。 ○ カルトンの夜光時計が、P、M、Q。テント張りのイサコ・サーカス。 曲芸、奇術、体操、槍使ひ、立派な髭を持つたライオン使ひ、象の曲芸、その中を道化が出たり入つたりする。バラバラと雨がくる。 鳥打帽を伊達にかぶつた若い男、派手な支那服の女、見物人は腰を上げる。救ひを求める様に引きとめる為めの楽隊がより一層高音に奏される。 パツと、美しい色電気と共に黒い燕尾服の可愛い少年とドガの踊り子の様に桃色の舞踊服をつけた軽い少女が現れる。 手をつないで軽く軽く踊る、どこかの隅から花束が贈られる、可愛い愛嬌でそれを受とめ、アンコール、アンコール。雨は未だやまない。帰らうとする客が多い、ヂツと見惚れて居るのは彼氏、そこへ白い馬、立髪に奇麗な飾りをつけて調馬師と共に現れる。見物人のザワめきがとまる。一回のギヤロツプがすむと白馬は二本の前足を揃へておじぎする、立ち上つて又くるくるくる、ギヤロツプがすむと前足を揃へておじぎする。 帰りには星がキラキラ。 ○ フランス公園、灰色と緑で一杯の公園、サルビヤが美しく咲いて赤い。長い長い散歩道其街路樹が一点に会する、アマルつれられた白い赤坊、乳母車の中でうたゝね、手から絵本が落こちそう、僕は芝生の上に寝ころぶ絵具箱を枕に、水兵服の少年桃色のドレスを着た少女一人二人三人集つて来た。東トン洋ヤニ人ー絵具箱をひらけとせがむ。コバルトブリユー、コバルトブリユー、ネープルスエロー、モノクロームチント、ピクチヤーを描けと又せがむ。描く。この木はもつと大きいと云ふ。描く。この教会はもつと白く。描く。存外美しい絵が出来上つた、すつかりうれしくなつてしまつてさつきから馬鹿に僕に話しかける少年を抱き上げてやつたら僕も僕もとせがむ、皆んなに一度づゝ抱擁する。オウ大変桃色服の女の子がプルシアンブリユーに染まりブロンドの少年がバーミリオン。﹁おゝ可愛い可愛い異国の子供達よ﹂彼氏は彼氏の国に残して来た彼氏の影を思ひ出した。 ○ 普通の競馬。女騎手の競馬。 赤いモーニングに黄い乗馬ズボン、黒山高、長い靴、それが競馬見物の婦人の流行服、手には必ず愛馬を刻した白い細身のステツキを持つ。 競犬。競犬。 まばゆいアーク燈の下、飛び出す兎、それを追つかける慓悍な犬。チツキの番号は3345。 ハイアライ。ハイアライ。 ○ 雑草の繁つた森の中、月はさえ、はるかの梟は剽軽な目をみひらいて、ホウ、ホウホウ、乗馬服の紳士と貴婦人、パカパカパカと馳けて居る。彼と彼女。不思議な事に二人一緒に指には紫の煙、それはチエスターフイルド。三馬路の四辻にはられたそれはトルコ巻き煙草の奇麗なポスター。 ○ 午後四時上海北停車場を出発する火車、僕の向ひに腰かけたクラシツクなドンスの服を着た中年の紳士、手に小枝をもつてゐる、そして名の知らない小鳥がとまつてゐる、あたりの人もその人も別に気にとめてゐない、そうそうそれからその小鳥の頭には可愛らしい小さなリボンがむすんである。︵火車の窓の風景は次から次と変化する。︶ガランガラン、ドラが鳴つて江ニヤ湾ンワン、江ニヤ湾ンワン、紳士は降りた、小鳥は羽根をのばして青空に飛んだ、ピー、ピー、口呼の音、小鳥は又紳士の小枝にかへつて来た、紳士は無言のまゝまた汽車にのり僕の前に腰をかける。 ○ 薄水色のドンスの支那服、襟を高く仕立てゝ首飾りのボタンに白珊瑚を使ひ耳輪の金が美しくキラキラする、痩ぎすの少女、名を雅琴嬢。 漆しつ黒こくに奇麗にくしけづつた頭に黄色い絹を堅くむすび桃と白の蘇州縮ちり緬めんの服をつけた淋しい玉蘭嬢。 黒い黒いフランス襦しゆ子すの支那服を長く身につけ、ヒスイの入歯をチラチラのぞくその桃白の下衣にその豊富なあでやかさを包む花麗春嬢。 三人の美しき歌妓。 彼は大羅天のあはい光の中の色美しきトルコ絨じゆ氈うたんの上に見た。 ○ チヨコレート屋の店先。 にぶい午後の光の中に昼寝する尾の長い目の青いペルシヤ猫。こんなに暖かい空なのに何に驚いてかブルブルと身ぶるいして、くらいくらい奥にすうと影の如くに消えた。 ︵﹁セレクト﹂昭和五年八月︶