﹁真の犬は、マダム、大元を辿ると
ゴールデン・ジャッカル、Canis aureus だったのです……
彼は愛し愛されねばなりません。
さもなければ死んでしまいます。﹂
﹁ロシア犬、生きたまま月に到着﹂ドラッグストアの店先に山積みになった新聞にヘッドラインが踊っていた。それに目を通そうと、レザージャケットの男が足を止めた。
街路の反対側では裁判所の芝生が寒々と霜で覆われ、茶色の斑がある白犬が暖をとろうとでもするかのように、キッチンスツールの上に両の前脚を乗せていた。だが、旗を下ろすのに熱中している四人の婦人は気にも留めなかった。
ハリヤードを買ったのはペルシャ子羊のコートを着たマーサ・ストーナリー。真っ赤なマスカラを塗ったモニカ・フリントとブラウン・フォックスを纏ったポーラ・ハートが旗をつかみ、濡れたセメントに触れないように気をつけながら折り畳んだ。郵便屋とレザージャケットの男が歩道に立ち止まって様子を眺めた。
マーサは鼻眼鏡の下でぞっとする顔を膨らませ、ハリヤードのフックの一つに金属の輪を止めた。それにはテープとワイヤーで犬の右脚が結んであった。
﹁引き上げるわよ、みんな。﹂
マーサが旗を押さえている間に、モニカ、ポーラ、そしてヌートリアの毛皮を着たアビゲイル・サイラックスは声を揃えた。犬は前脚をばたばたさせ狂ったように吠えた。なんとかしてよじり上ろうと身を悶えさせつつ、犬は鐘のような吠え声をあげ始めた。女たちは疲れてぶうぶう言っていた。芝生の先から人が集まり始め、裁判所の窓にいくつもの青ざめた顔が動くのが見えた。
マーサは言った﹁二ブロックというもの、やめろやめろと大騒ぎね。﹂
旗竿のそばに引き寄せたキッチンスツールに乗って、胸の高さまである棚ごしに、小さな群衆と向き合った。車がとまり、四方八方から人が集まってきた。盛り上がった灰色の髪の毛を手で軽く押さえ、薄い唇をオウムの嘴のように尖らせた。
﹁アメリカの仲間たち!﹂吠え声に負けずに彼女は叫んだ﹁我々の指導者は腰抜けです。我々全員がロシア人に寝首を掻かれる前に、我々人民が行動すべき時がやってきました! ここに我々、愛犬婦人連盟はロシアの犯罪行為に断固抗議するものです。即ち信ずべき、愛すべき犬を月へと追いやり、孤独のうちに飢えさせ、凍えさせ、窒息させ、死なせることに! 我々の頭上で絶叫するこの犬は、犬と人との間に結ばれた信義をロシア人たちが破ったことを世界に向けて告発しているのです。﹂
﹁とんでもない!﹂とレザージャケットの男が近づいてきた。
﹁マーサ﹂アビゲイルが叫んだ﹁そいつはあれを下ろすつもりよ!﹂
モニカは男の腕をつかんだ。ポーラは顔をピシャリとやって引っ掻いた。﹁このケダモノ、腰抜け野郎!﹂と金切り声。
マーサがスツールから飛び降りて男を蹴り飛ばした。男は腹を押さえながら退いた。
﹁やめるんだ、ご婦人方﹂息を詰めながらこういった﹁後生だから――﹂
﹁おいおい、これは国有財産だぞ﹂群衆をかき分けながら太った男がいった。ワイシャツ丸出しで袖をピンクのバンドで留めている。﹁いったい何事だこれは? 犬を下ろせ、誰か!﹂
﹁駄目!﹂マーサが噛み付いた。ハリヤードの固定具の前に立ちはだかって、旗を広げると自分の周りに巻き付けた。顔に灰色の髪が散った。
﹁あんたがそんなに大物で勇敢なら、ロシアの犬を地上に戻しなさいよ﹂彼女はデブ男に冷たく言い放った。
﹁だから、耳を貸すんだ、ご婦人﹂と太った男。﹃クラリオン﹄紙のカメラマンが広場を横切って駆け寄ってきた。
灰色のビジネススーツに身を固めたジョージ・ストーナリーは不安げにのっぽの体を屈めていた。
﹁なるたけ早く来たんです﹂書類が散乱する傷だらけの木机の向かいに座るブリーン保安官にこう言った。﹁うちの倉庫の一つを調べていたので。﹂
﹁保釈なら二分間でできるぞ。ホールのすぐ向こうだ。﹂下顎を掻きながら保安官は言った。﹁あの女は自分からは保釈を言い出さないだろうな。あんた達はあたしを自分たちのスプートニクに閉じ込めるべきだったとか抜かしてる。﹂
﹁で、今どこに?﹂
﹁スプートニクの中。﹂
机の電話が鳴り、保安官はガミガミ声で答えた﹁ああ畜生、四十三号線、ロイ農場のちょっと先だと? わかった。今朝こっちの芝地で起きたことは耳に入ってるだろう?﹂
電話から興奮したゴロゴロ声が届いた。保安官の赤らんだ眉は信じられないとでも言うかのように上がり、大きな顎は力なく落ちた。彼は受話器を戻した。
﹁市のお役人からだ。﹂彼はストーナリーに語った。﹁市を出たすぐの所の木に犬がぶら下げられているという苦情だ。後脚一本でな。だが、町中あらゆるところで同じことが起きてるんだぜ――犬がぶら下がっているんだ。木に、窓に、外の物干し竿に――駐車中の車も全部やられた。あんたのカミさんは何かをおっぱじめたんだよ!﹂
﹁女房は何をしでかしたんですか?﹂悲痛な声でストーナリーが訊いた。
保安官は彼に告げた。﹁犬を痛めつけてる現場で、ついでにデブった代議士を蹴り飛ばしたのさ。結局の所、留置場には入ってもらうことになるな。あんたのカミさんがいうには、自分は犬のナントカ連盟の総裁様だとよ。﹂
﹁愛犬婦人連盟です。﹂と痩男が修正した。﹁会合を開いたりなんだりで。ロシア人たちがスプートニク二号を打ち上げたときに始めたんです。﹂
﹁わかった。あのご婦人方の誰一人としてこの国にいなきゃいいと願うよ。﹂保安官はこう言って立ち上がった。﹁ストーナリーさん、あんたは保釈にいってこい。俺は代議士を送ってくるから。﹂
夫を従えて旗竿の脇を通り過ぎる時、マーサ・ストーナリーは得意満面だった。
﹁全米の犬がロシアの犯罪に抗議して叫ぶでしょう﹂と彼女。﹁私は炎となって燃えてるの、ジョージ、この炎はクレムリンまで焼き尽くすでしょうね。私のようなか弱い女性が……﹂
彼女は新車で買った自分のステーションワゴンを運転して帰るんだといって聞かなかった。
その日の夕方、帰宅しようとしたジョージ・ストーナリーが車を走らせている間、サイレンを鳴らしたパトカーが三台追い越していった。ユークリッド・アヴェニューにある漆喰作りの農場風の家の外に、入り口を塞ぐ形で車が数台駐めてあり、芝地の上に人だかりがしていた。ストーナリーはカーブの所のオークの木陰に車を駐めて外に出た。
マーサはリヴィングルームの見晴らし窓に立ち、網戸のついたサイドパネルから群衆に向けて熱弁を振るっていた。窓の真ん中には飼い犬のスパニエル、フィッファーロが大きな金メッキのフロアランプから後脚でぶら下げられて身悶えし、悲しくキャンキャン鳴いていた。マーサはハリスツイードのスーツを着てダイヤモンドのブローチを下げていた。
﹁……道義的圧力を加えれば、ロシア人たちは抵抗できません。﹂人だかりの中にまぎれたストーナリーは妻が叫ぶのを聞いた。﹁男たちはおしゃべりするだけ、しかし愛犬婦人連盟は行動を恐れません。愛しい小犬を月に送ってハートブレークのうちに死なすなんて!﹂
窓のそばにいる数人の若者が白いメモ帳に走り書きした。
﹁メンバーは何人ですか? ストーナリー夫人。﹂一人が聞いた。
﹁犬婦連は貴男が思っているより大きな組織ですわ。ロシア人どものスパイや裏切り者に尻尾をつかまれている以上に!﹂
ストーナリーはカニ歩きで玄関のドアに到達しようとした。
﹁鍵がかかってる﹂記者の一人が告げた。﹁ぶち開ける許可を貰いにお巡りが戻ってった。おい、あんたはストーナリーじゃないか!﹂
﹁ああ、﹂痩男は顔を赤くして答えた。フラッシュが焚かれ、腕を上げて顔を隠そうとしたが後の祭りだった。
﹁ストーナリーさん、何か一言くださいよ、お巡りが帰ってこない内に﹂記者たちは叫びをあげた。
ストーナリーは後じさりして、手を振った。﹁勘弁だ、勘弁してくれ﹂と。
﹁奥さん、イカれてるんですか? いつ気づきました?﹂と一人の記者。
﹁勘弁してくれ﹂とストーナリー。﹁ああ、動転しているんだ。先週一番上の息子がカリフォルニア州の重罪刑務所に入ったんでね。それで取り乱しているんだ。﹂
﹁殺しですか?﹂と同じ記者。
﹁いや、とんでもない……ただの強盗だ……このことはオフレコで、頼む。﹂
誰かが叫んだ﹁お巡りが帰ってきたぞ!﹂
二人の警官が芝地を横切ってやってきた。一人が書類を振っている。﹁家宅捜索の許可証だ、ストーナリー夫人﹂彼は名前を呼ぶと大声で令状を読み上げた。
﹁犬婦連は官憲の横暴に対しいささかも怯むことがありません﹂マーサは鋭く叫んだ。フィッファーロはますます悶え、悲しく鳴き立てた。
二人目の警官が五キロハンマーで鍵を叩き壊した。記者たちはストーナリーをつれて家になだれ込んだ。警官の一人がフィファーロの紐を外して腕に抱いた。スパニエルはクンクン鳴きながら警官の顔をなめまくろうとし、彼は頭をのけぞらせてそれを避けなければならなかった。フラッシュが焚かれる間、マーサは心ここにあらずの態で睨みつけていた。
ストーナリーは静かにもう一人の警官の袖を引いた。
﹁一緒に行ってもかまいませんか? お巡りさん。あれの夫です。保釈をお願いしなければならないでしょうから。﹂
﹁逮捕なんてしませんぜ。﹂警官は言った。﹁ブタ箱に空きがなくてね。二時からこのかた、犬ばかり逮捕してますわ。﹂
ベルボーイは角氷の入った銀のバケットを置き、二十五セント銀貨をポケットに入れて出て行った。その横に骨と皮ばかりの秘書がウィスキーボトルを置いて、靴を脱いでベッドに大の字になっている太った副官の方を向いた。
﹁ボブ知事は少し遅れるようですよ、サム﹂秘書は言った。﹁先に始めていましょうか。﹂
﹁クソ、そうしよう。一杯やらなきゃやってられんよ、デイヴ﹂つま先をピクピク動かしながらカエルのような声で副官が言った。ボブはしばらくあのストーナリーのご婦人の前で行儀よくしてなきゃならない。﹂クックッと含み笑いをして腹をペチャペチャ叩いた。
秘書はコップ二つの包みを外すと、カラカラと氷を入れた。ウサギのようなご面相の彼は透明なプラスチック枠の眼鏡をかけて、ウサギめいた怖ず怖ずとした表情になった。
﹁笑い事じゃありません、サム﹂と彼。﹁まるで中世の舞踏狂ですよ、ご存知ですか?﹂
﹁いや。そいつらも犬を後脚で吊るしたのか?﹂
﹁いいえ、踊っただけです。ですが、それは人心を捕らえましてね。こいつらみたいに。ああ神様、サム、もう州全体に広がっています。犬婦連の女らは夜になると徒党を組んで走り回り、歌い歩き、捕まえることのできた犬を片端から吊るしているんです。サム、私はそれが怖くて。﹂
彼はウィスキーを二つのグラスに注いだ。副官は吹き出すと、ギシギシいうベッドの上に起き上がって垂れた顎を掻いた。
﹁君は、連中が俺たちのような哀れなる豚野郎を吊るし出すとでも思っているのか?﹂と聞いた。﹁クソ、州兵を呼び出せ。夜間外出禁止令で締め上げてやる。﹂グラスに手を着けた。
﹁ええそうですね。そしてロシア人たちは貴男の部下が老女を銃剣で突き刺す写真をでっち上げると。﹂秘書が言った。﹁おまけにボブ知事は犬捕りにさえ再選されない。﹂
グラスを飲み干した副官はプッと氷を戻して、その唇から息を漏らした。
﹁それだ! そうしなきゃならん。﹂彼はブーブー言った。﹁デイヴ、ボブはそのストーナリーのババアの首根っこを押さえてるじゃないか。楽勝で言うことを聞かせられるぞ。カリフォルニア州のムショに入っている息子の件だけで十分だ。ブラウンならボブの言い成りになってそいつを出所させるだろうし、さもなきゃブン屋に書き立ててもらってもいい。どっちでもかまわん。﹂
﹁はいはい、﹂ウィスキーを舐めつつ秘書が言った。﹁ボブが来たらわかるでしょう。一方、私どもは昨日の段階で三万三千七百二十六頭の犬を保護しています。家に匿われている犬の数は神のみぞ知るです。これにかかるコストは一日あたり百六十万ドルに達しており――﹂
ノックの音に彼は言葉を飲み込んだ。せっかちにもう一つのグラスの包みを開け、氷をぶち込むとバーボンを注いだ。副官は足を運んでドアを開けた。知事は肉付きのよい赤ら顔の男で、グレーのスポーツコートを着ており、部屋に入るとベッドの縁にドスンと腰を下ろした。彼は口を開く前に秘書から渡されたバーボンを一気に半分あおった。
﹁煙を吹くのはやめろ、君たち。﹂と漸くのことで言った。﹁あの女からその手のほら話をさんざん聞かされた。新聞記者にしたのと同じ話だ。あたしたちは月に行くか、さもなければロシア人を月に行かせることができる。そしてあの哀れな、親愛なる、可愛い、信頼できる、柔和な小犬を地球に帰還させるんだって。﹂
﹁あの女のガキをシャバに出すのは?﹂と副官。
﹁あいつは私の目に唾を吐きかけたよ、サム。連中が縛り上げた犬と同じように、あの女には殉教者になる覚悟があるだけなんだと。それどころか、あいつのもう一人の息子はキューバで黒人女と罪作りな生活をしていると言い抜けて、新聞ネタに出せるものなら出してみろってさ。﹂
﹁見かけ通りのタフな女だな。﹂
﹁見かけ以上だ。﹂知事はうめいた。﹁青い花崗岩みたいだ。私は自分が三年生に戻ったような気がしたよ。﹂空になったグラスを秘書に渡した。
﹁結局どうしたんですか?﹂秘書が尋ねた。
﹁いったい私に何ができた? 犬婦連の票は欲しい。大勢力には違いないからな。私は尻尾を巻いて一声ワンと吠えて、一つアイデアがありますと言ったんだ。﹂
﹁それで、そのアイデアというのを思いつけというわけですね。﹂空のグラスを持ったまま秘書が言った。
﹁いや、帰り道の間に自分で思いついた。﹂と知事。﹁今日の午後、ワシントンに飛ぼうと思う。﹂
﹁軍を出すのはやめてくれ、頼むから﹂副官が拝んだ。
﹁いや、ロシア大使館に行ってぶちまけてやる。奴らの黒い心臓に呪いあれ。あいつらのせいでこんなことになって。さっさともう一杯寄越せ!﹂
﹁せいぜい気をつけておたくのロバを見失わないようにするんだな﹂副官は言った。﹁ロシア人ってのは利口な連中だから。﹂
﹁それに違いない﹂新しいグラスに手を伸ばしながら知事は言った。﹁あいつらは……地獄のように……そうに決まっている!﹂
折り畳み椅子は全部塞がった。ホールの通路にも壁際にも立ち見の女たちがいた。演台に立つマーサ・ストーナリーは青いニットのウールと真珠のネックレスを纏っていた。彼女の背後には半円形に椅子が並び、襲撃隊のリーダーと委員会の女議長が座ってスカートを伸ばしていた。オルガン席についているのはタヴグレーの服を着たモニカ・フリントだ。
マーサは小槌を鳴らし、それがあまりに強烈だったので、真珠がガチャガチャ鳴った。
﹁皆さん、聖歌を歌いますのでご起立願います。﹂すると会場は静まり、彼女はモニカに頷いた。オルガンが鳴り始めた。
﹁私は自分の犬をスプートニクには乗せなかった、これからも月で迷うなんてさせないわ……﹂聖歌が雷鳴のように轟いた。
マーサの腕が胸を横切ると、群衆は再び席に着いた。
﹁休会の前に最高にスリリングな連絡があります。﹂と彼女﹁ですが、まず委員会報告から。ポーラ・ハート、どうぞ。﹂彼女は演台を譲った。
報告はすべて上々だった。州の新聞が犬婦連に割く紙面は、ロシアの月探査船の件より四倍も広かった。テレビにもラジオにも登場した。﹁ライフ﹂の取材陣が来訪予定である。
そろそろやり方を変えた方がよかった。もう自警襲撃隊は帽子の留め針を持ち歩くべきではなかった。二人の警官が失明し、警察はそのことに腹を立てていた。そのかわり、男物の靴下に石鹸を詰め込んで棒にしよう。もっと巻き結びの練習をする必要があった。あまりにしばしば、興奮した襲撃隊の婦人たちは半分しか犬の脚に縄を結べず、暴れた犬に逃げられることがあった。
演台に戻ったマーサは誉れの名前を読み上げた。犬に噛まれた者や警官に侮辱された者たちだ。ヒロインは拍手喝采を浴びながら一人一人前に出て﹁ブリーディング・ハート﹂勲章の引換証を受け取った。この勲章は後日、委員会が意匠に合意し、製作に移り次第手渡されることになっていたのだ。マーサは一人一人に握手した。中には包帯を巻いた手もあって、数滴の涙を落とした。
﹁さて、犬婦連の同志の皆さん、﹂と彼女は言った﹁驚くべき連絡があります。明日の朝、ワシントンからの客人とのアポイントメントを得ました!﹂
ため息のような囁きがホールに流れた。
﹁いえいえ、アイゼンハワーではありません。﹂と蔑むようにマーサは言った。﹁チェルカソフ氏なるロシア大使館員です。﹂
熱狂的な拍手。女たちは啜り泣き互いに抱き合った。
﹁彼らは和平を求めています﹂マーサは騒然とする群衆に凛々と響く声を投じた。﹁我々の勝利です、みんな! 直ちに出撃し、最後の犬を吊るし終えるまで帰投してはなりません! アメリカ犬婦連の大軍に歯向かうことの意味を思い知らせてやるのです!﹂
州警察の部隊がユークリッド・アヴェニュー二千二百番地から記者と野次馬たちを追い払った。午前十時、州の車が現れ、オークの木陰に駐車した。降りてきたのはチェルカソフ氏と二人のタス通信の記者たちだ。
チェルカソフ氏は散切り頭の頑健な男で、青いスーツを着ていた。顴骨の目立つ大きな顔、獅子鼻、奥に引っ込んだ両眼、これらは注意深くまた冷淡な表情を作っていた。豚革のブリーフケースを手に提げ、ストーナリー家の玄関ドアに向かった。
彼はドアマットまで進むと呼鈴を押した。足元のドアマットがブンブンうなって悶えるので、彼は慌てて後ろに下がった。ドアを開けたマーサ・ストーナリーは女帝さながらにマルーンのシルクに十センチのカメオ彫り、灰色の髪を豊かに結っていた。
﹁ドアマットに驚かないでください、チェルカソフさん――貴男はチェルカソフさんですわね?﹂甘い声で聞いた。
彼は頷き、目を彼女からドアマットに落とした。
﹁貴男の体重がかかると、何かの仕掛けで小さなブラシが回って靴をきれいにするんです。﹂彼女は説明した。﹁きっとロシアにはこういったものがないのでしょう。ですが、どうぞ、お入りになってお座りくださいな。﹂
三人の男は慎重にドアマットの上を歩き、中に入った。オークの壁板のリヴィングルームには、ブラック・ウールを纏ったポーラ・ハート、白の翠玉と緑のジャージーに真珠を纏ったモニカ・フリントが待っていた。マーサとチェルカソフ氏は互いに挨拶を交わし、男たちはぎこちなく頭を下げた。次いでマーサは側近たちに脇を固めさせ、見晴らし窓に面したグレーのソファに腰を下ろした。男たちは一人ずつ椅子に座り、居心地悪そうに磨かれた黒靴を毛足の長いグレーの絨毯に擦りつけていた。
﹁マダム・ストーナリー、私が参ったのは月探検犬について弁明するためです。﹂チェルカソフ氏は言った。コントロールのきいた深い声だ。
﹁二つの過ちを掛け合わせても正義にはなりませんわ、チェルカソフさん、﹂マーサは頭をまっすぐあげて言った。﹁なにもヒロシマを持ち出す必要はありません。私どもは既にあの何千頭もの小さな黒白のスパニエルのことを知っています。そればかりか、私は﹃ライフ﹄の写真であなた方が小さな犬の頭を大きな犬の首の横に縫い付けた様子を見ました。﹂
チェルカソフ氏は自分のずんぐりした指を見ると、ブリーフケースの下に隠した。ポーラとモニカは咎めるように頷き、タスの記者の一人がノートを取った。
﹁大いなる価値はより小さい価値に優越すると言えば、それを誤りだとは思われますまい。﹂チェルカソフ氏は言った。﹁月探検犬は私たちに、いち早く人類が安全な宇宙旅行をなしとげるための情報を送ってくるのです。﹂
﹁それで貴男が何者であろうと、最高の価値とは何なのか言えますか? 宇宙旅行は絵空事です。まるで月の光のように!﹂
﹁おっしゃる意味がわかりませんな、マダム。不可能だ、という意味でしたら、次の点を指摘しなければなりません。月探検犬は既に宇宙を旅したのだと。﹂
マーサは膝を両手で叩いた。﹁それですよそれ、いい大人がそんな馬鹿をして、犠牲になるのは哀れな小犬なのだわ。﹂
チェルカソフ氏は真面目に語った。﹁貴女のお国の言葉に不案内なせいで誤解しているならお許しください、マダム。今や人類は宇宙を渡る能力を手にしており、それゆえ人類には地球の全生命を他の惑星に送り届ける義務があると、私たちは信じています。地球は人口過剰になっていますし、絶滅の瀬戸際にまで追い詰められた野生生物においてをやです。私たちは信じているのですよ、他の太陽の周りには地球類似の惑星が存在し、私たちはそこを開墾し住処を築きうるのだと。それを馬鹿げたことだというのには賛成しかねますね。﹂
マーサはのけぞった。
﹁ええ、馬鹿げているわ。誰が行くっての? 自分勝手な男たちはそれに逃げ込むでしょう。そしたら私たちはどこにいればいい? 駄目ね、チェルカソフさん、どこにも行けないわよ!﹂
﹁失礼ですが、マダム﹂タスの男が口を挟んだ。﹁どんな種類の男が逃亡するんですか?﹂
﹁酸っぱい顔の奴らよ。配管やテレビを修理したり、原爆や電気やそんなものを作ったりする奴ら。﹂
﹁ああ、﹂チェルカソフ氏はこう言うとブリーフケースを叩いた。そして、﹁行くのは恐らくロシア人だけでしょうね。マダム。貴女がたは法律を通せましたね。正直に申しますと、私たちは人間を一人月に送った方が良かったのかもしれません。しかし、あなた方のお国がそれをプロパガンダにでっち上げるかもしれず、そこを危惧しましてね。﹂
マーサはオウムのように口を突き出した。﹁送るべきでしたわ、男を!﹂最後の言葉はグチャグチャだった。ポーラとモニカは激しく頷いた。
チェルカソフ氏はブリーフケースを叩いた。﹁月探検犬を飼っていた女性は自分が行きたいとそれはそれは願ったものでした。言ってみれば、月探検犬は飼い主の命を救ったのです。これは貴女にとって価値のないことでしょうか?﹂
マーサは目を見張った。﹁まさか、哀れなか弱い女性を……つ……月に?﹂
﹁ロシアの女性は頑強です。﹂チェルカソフ氏はなだめるように言った。﹁沢山の女性が、科学者の女性ですよ、志願しました。﹂
マーサはまっすぐに座り直ると再びオウムのような口をした。太った頬が白粉の下で紅潮した。
﹁いいえ!﹂彼女は切り返した。﹁貴男がどこに話を持っていこうとしているのかわかっています。その手に乗るものですか! 阿婆擦れ女を送れば良かったの! ほんの思いつきで愛する小さな犬を犠牲にするなんて不道徳です。﹂
取り巻きの二人は親分を尊敬のまなざしで見つめた。﹁ほんとう、ただの思いつきで!﹂ポーラが繰り返した。
チェルカソフ氏の指はブリーフケースの上にあてもなく入り組んだ模様を描き、彼は脚を組んだ。
﹁すべての犬が同じように愛するわけではありません、マダム。貴女の犬が貴女を愛しているのがどうしてわかるのですか?﹂
﹁簡単です﹂マーサは言った。﹁私の可愛いフィッファーロですけど――強制収容所に連れ去られてとっても惨めなことだけはわかっています。全部あなた方が悪いんじゃありませんか――チェルカソフさん――私がフィッファーロのことをぽんぽん叩いてやると、フィッファーロは膝の上に飛び乗ってキスして尻尾を振って、それだけで。真の愛情よ!﹂
﹁ああ……おっしゃることは多分わかります。厳しい声をかけたら、愛犬はどうしますか?﹂
﹁仰向けに寝て脚を振ります。哀れで無防備でとっても悲しそうに見えて、私の心は解けてしまって、それで終わりです。貴男も経験なさればわかりますわ。これが愛よ。﹂
モニカは涙を押さえた。タスの記者二人がメモを取った。
﹁私たちの間のわだかまりを解消する方法があると思いますね﹂とチェルカソフ氏。両脚をそろえて少し前屈みになり、膝の間にブリーフケースを挟んだ。
﹁犬の歴史について、どんなことをご存知ですか?﹂彼は聞いた。
﹁そうね、常に人類の最良の友だったとか、野蛮なインディアンが食用にしたとか……あの……あの……﹂
﹁真の犬は、マダム、二万年ほど前に家畜化されました。大元を辿るとゴールデン・ジャッカル C金aのn犬is aureus でして、野生種としても現存しています。その間、従順で忠実な性格を求めて選択的な品種改良が行われ、結果として通常なら仔犬の間にのみ見られる特徴を成犬になっても維持するようになったのです。現代のゴールデン・ジャッカル犬はもはや情動面での独り立ちを伴う秘密の生活を持ちません。彼は愛し愛されねばなりません。さもなければ死んでしまいます。﹂
モニカは鼻を鳴らした。﹁なんて奇麗な名前なのかしら﹂とポーラが呟いた。マーサは警戒しながら頷いた。
﹁ですが、マダム、偽の犬というのもいるのです。シベリアの部族の中には遅れて文明段階に到達したものがありまして、彼らも北方の狼、即ち C狼aのn犬is lupus を家畜化しました。家畜化が何千年も遅れたために、当然ながら、偽の犬においては長期にわたる品種改良の効果がさほど明らかではありません。仔犬の間は愛らしいのですが、成獣になると超然とし、もっぱら主人に対してのみ忠誠を尽くすようになります。極めて忠誠心が強いため、主人のためなら命を惜しみませんが、そんな主人にさえも外面的な愛情をほとんど示さないのです。尻尾を振ったり、膝の間に頭を乗せたりすることも然程しばしばではありません。ポンポン体を叩けるのはほんの小さな子供たちだけです。主人以外には誰でも一種の忍耐強い無関心さを見せるだけで、ひとたび危害を加えられそうになれば、彼は自分を守ろうとします。﹂
﹁なんて恐ろしい動物でしょう、全然犬じゃないわ!﹂マーサが声を立てた。
﹁文化的見地においてはまさにその通りです、マダム。﹂チェルカソフ氏は同意した。ブリーフケースにのしかかるようにして、更に身を乗り出した。﹁然るに、残念ながら彼らも生物学的には犬なのです。ジャッカル由来の犬種のほとんどに狼の血が忍び込んでいるのですよ。高い頬骨、落窪んだ目、そして犬種の性格の中に言わず語らずに現れています。例えばチャウチャウには相当程度狼の血が入っていますね。﹂
﹁チャウチャウ!﹂マーサはまたも唇を尖らせた。﹁大嫌い! 猫と同じくらい嫌いだわ!﹂ポーラは熱狂的な熱心さで首肯した。
﹁しかしながら、貴女の可愛いフィッファーロは、お話にあった通り、恐らくは純粋な Canis aureus の血統で、極めて入念に繁殖されたものでしょう。﹂
﹁間違いありません。血は水よりも濃しですわ。モニカ、私はいつもそういっているでしょう?﹂
モニカは頷いた。目が爛々と輝いていた。チェルカソフ氏は少しずつ椅子の端までにじり寄ってきた。
﹁さて、月探検犬ですが、マダム・ストーナリー、これはライカ種のもので、チャウチャウ以上に狼の血が入った犬種です。もし貴女が彼女を地上で仰向けにさせても、彼女は冷たく無関心な様子で立ち去るだけでしょう。﹂
﹁まさか。本当?﹂
﹁マダム、貴女がご存知の狼の特徴というのは、愛すべきジャッカルの特徴によって薄められたもの、例えばチャウチャウに見るようなものに限られます。ですが、ロシアの犬ときたら! もし貴女が月探検犬に一切れの肉を差し出したら、彼女がどうするかお分かりですか?﹂
﹁いいえ、教えて。﹂
チェルカソフ氏は前屈みになり、奥まった灰色の両眼が大きく開いた。ほとんど囁きにまで声を殺してこう言った。﹁マダム、彼女は貴女の手に噛み付くでしょう。﹂
﹁じゃあ、あれを助けることなんてないわ!﹂マーサは鋭く言った。
チェルカソフ氏は背筋を伸ばしてブリーフケースを叩き始めた。﹁ある意味に於いて、彼女は犬ですらありません。﹂と話を持ちかけた。
﹁そうなのです。彼女は昔ながらの狼のようなものなのです。猫と同じです。犬は愛らしいものですからね!﹂
﹁貴女がたのキャンペーンは道徳的にあまり意味がないと思いませんか?﹂
﹁ええ、もちろん、そうですとも。チェルカソフさん、貴男は私に新しい考え方を教えてくれました……まだ私にはよくわからないけど……﹂
チェルカソフ氏は注意深く一呼吸おいた。ブリーフケースを叩くパターンが変化した。ポーラとモニカは息をのんでマーサを見ていた。
﹁……破壊的な狼の血が、長い間を掛けていったいどんな風に可愛い犬たちに入り込んできたのか、すっかりわかったとは言いません。でも……どうしてそんな混血が! 残忍そのもの! 白状なさい、チェルカソフさん、我々を侵略するためのロシア人の手口なのね? 違う?﹂
チェルカソフ氏は茶黄色の眉を上げた。凍るような光が斜に構えた両眼に映った。
﹁仮にそれが真実だとしても、そのようなことを認めるわけにはいかないことはご理解いただけるでしょう、マダム・ストーナリー﹂と慎重に口を開いた。
﹁真実よ! クレムリンにお帰り遊ばせ、チェルカソフさん。そしてロシア中の狼を月に打ち込みなさい。犬婦連は一切口出しいたしません!﹂
チェルカソフ氏とタスの記者は立ち上がって頭を下げた。マーサも立ち上がり、彼らをドアへと案内した。ドアノブを握って、彼らと顔を見合わせた。
﹁我々の会合は歴史的なものになるでしょう、チェルカソフさん﹂と彼女。﹁私は貴男を強いて、我々の愛する犬を崩壊せんとするあなた方の画策を暴露させてしまいました。犬婦連は即刻、強力なる報復をいたしますからそのおつもりで! 覚醒せるアメリカは一気に動きますわよ。あなた方の破壊的な狼の血から我が国の犬種を守る隔離政策を直ちに立ち上げますからね!﹂
ポーラとモニカは立ち上がり、マーサの手を固く握って彼女の紅潮した顔に寄せた。チェルカソフ氏は再び頭を下げた。マーサはドアを開けた。
﹁ごきげんよう、チェルカソフさん﹂と彼女。﹁間違いなく数日以内に粛清ですわね。﹂
チェルカソフ氏は注意深くドアマットを踏んだ。
完