昔々もその昔、妹が赤十字病院にはいっていた時分、外来の見舞客には特別の食堂があり、切符で注文すれば同じ値段で洋食か和食があり、こっちのほうがおいしかったのを思い出す。 フランスの病院では食事などできる制度は全くない。大学病院の訪問時間は、病人の世話がやけず、一ばん医者や看護婦の邪魔にならない正午から午後三時までに限られる。もっとも産科では昼間働いていて、そんな暇のないあわれな亭主にだけ六時半から一時間訪問を許すことになったのは、ごく近年のことで、これを公立病院の﹁人道化﹂と呼んだ。 入院料は恐ろしく値上げされて、よいホテル並だが、食事はいかにもまずい。外科と並んで入院料の一番高い産科では、栄養補給のためだろう、ビフテキの一コースがエキストラにつくといっても、チャップリンの映画にあった靴底の皮よりは、だいぶましと思われる程度だ。 パリにある一私立外科病院では、食物もぜいたくで、食事も立派なレストランのように、ア・ラ・カルトの一品よりができるときいていたが、ここでは一日の入院料が七、八千円する。リオンでも、私立のサント・マルグリット産科院では、同じ待遇だという。費用は同種の病院より高くはないのに、料理人の腕がさえている。赤ちゃんブームの昨今、半年も前からちゃんと予約しておかないと室へやはとれず、いつでも引き受ける大学病院へころがり込むことになる。私立では訪問時間に文句がつかず、医学生の手習草紙にもされないからうれしい。 * 私は病気の問屋であり、一年に十一カ月はくすりびんに親しんだ学生時代でも、病院のご厄介になるほどのことは一度もなかった。しかし外国の病院は、戦後の名薬がまだ出現しない時代に、印イン度ドとトルコで経験したことがある。 孟ボン買ベイ市のは英国系で、ジェネラル・ホスピタルと呼んだ。印度パーシー族の大病院もあり、英語も充分に通用はしたのだが、何を食わされるのかもわからず、どうも信用がおけなかった。入院前にみてもらったのも軍医で、診察料はと尋ねたらば、いきなり月収はいくらありますかときく。英国では現今の保障制度になる前、金持にたくさん払わせ、貧乏人からはあまり金をとらないジェントルマン式であったのだ。ジャクソン大佐院長は、毎朝顔を合わせるとただ一言﹁ハウ・アー・ユー?﹂としかあいさつしない。 アメーバ赤痢で血便が一日に三十回もあったときで、灌かん腸ちょうと牛乳責めが日課だった。いくら牛乳のすきな私でも、一昼夜に大茶碗で八回ものまされるのは大閉口した。冷たいの暖めたの、コーヒーや茶をまぜたのがある。甘かったりさとうを抜いたり︵辛いのはなかった︶、いや応なしにのまされると、胸がむかむかしてきた。その牛乳も、フランスのようなうまいのではない。土人が下宿に売りにくるバターを見ても、白い脂のかたまりに黄色い粉をまぜ、へらでかきまぜ、ねっていたようなお国柄だ。まさか大蛇や虎のあぶらでもあるまいが眉唾ものだった。 特等室︵大日本帝国の栄誉のために下級のサラリーマンでもこんなところに入れられた時代だった︶付英国人看護婦は病院きっての美形という評判で、こっちの病人よりはそっちの見舞客のほうが多かったらしい。しかし牛乳にかてて加えて、ひどくにがい薬をのませるのでツラを見るのもいやだった。牛乳は分量が多いし、そうはいかないが、良薬だけは彼女の後姿を見るやいなや、すぐベッドのそばの壁にぶっかけて捨ててしまい、次のミルク・タイムには熱帯のこととて、すっかり乾いてしまうので大助かりだった。この悪事はとうとう大佐殿には知れずにすみ、美人は私の退院をまたず、一陸軍士官のお目にかない、手に手を携えてヒマラヤの山の奥へハネムーンの旅に上ってしまった。 次はトルコの番になる。パリ行きオリエント・エキスプレスの寝台券を買い、乗り込もうとする朝、急に高熱が出、目がくらくらして倒れてしまった。病院を探すと米国系と仏国系とがある。もちろんフランスの大学者に敬意を表して、パスツール病院にした。満員で特等室がただ一つ空いているという。なにも英国人と張り合う必要のない国だが、ないものは仕方がない。それでも入院料は、ホテルの半額ときいて安心したものだ。 エジプト滞在中ホテルの食事が悪かったのだろう。腸の自家中毒だそうで、薬も何もすっかりなじみのフランス物だった。イスタンブールの秋は、実によい陽気で、九月一ぱい病室の窓をあけ放したまま寝ていたが、昼夜温度は二十二度に釘付けされ、晴天がつづき、近くはボスフォラス海峡を往来する諸外国の汽船、遠くは対岸アジヤ大陸のスクータリ市を一いち眸ぼうのうちに収められる。私の室は客間に手を入れたもので、中央にあり、広くもあったので、フランス人連中がよく話にやって来た。そのなかの一人は、田舎で腹をこわし、適当な食物が得られず、紅茶で一週間も我慢したそうだった。﹁茶腹も一時﹂というが、これではひょろひょろしてころがり込んだわけだ。 トルコの病院では牛乳はのませなかったが、くすりの種類とのむ回数はほんとに多かった。 土人の看護人がフランス語で、﹁さあ消防夫だ﹂と叫びながら、大きな灌腸器を持ってとび込んできた。これがあまりよくない男で、私が毎日日記代りにかいていた通信文の切手代をごまかし、手紙を数通握りつぶされたとはしらない家庭では、病気が重くなって、ペンもとれなくなったものと思い違い、びっくりした妻はバルカン諸国のヴィザをとるのに駆け廻り、オリエント・エキスプレスで逆行していざ出発という前日に、近日退院乗船帰国の吉報を受け取ったのだった。 ここでは牛乳でなくミネラル・ウォーター、紅茶、バターをうすくぬった軽焼のパンと変っていき、院長が船医に宛てた長い診断書には、うまいものを食わせるようにとはもちろんかいてなかったのだが、デッキの長椅子に横たわって、口にする病人食は、味のあまりつかない、西洋うどんやピュレーだけで、それこそほんとに味気がなかった。地中海を走るフランス船は、イタリヤ船との競争上、飛びきりのメニューを出すものなのだから、なおさら残念だった。 フランスの家庭では、胃腸を悪くするとよくブイヨン・ド・ポアロー︵ねぎの煮出し︶をのませる。医者も、フランス風の脂こいバターのききすぎた料理は我慢して、湯煮にした。それこそ味もそっけもないイギリス風︵ア・ラングレーズ︶の食事をすすめる。しかし醤油の子である日本人には、おもゆ、おかゆ、それから鯛のさしみとでもありたいところだ。 北極廻りで雲の上ばかり飛び、あっという間に羽田から十八時間でパリの近郊のオルリーにつく戦後の日本人は、ほとんど知るまいが、横浜マルセイユ間一カ月の海路では、日本、フランス、イギリス等どの国の客船でも、﹁ブイヨン・ドンゾール﹂︵十一時の牛肉の煮出し︶をのませた。デッキ・ゴルフに興じて喉がかわいている十一時のアペリチフ時刻になると、食堂のボーイが、大きな盆にすましスープの茶碗をたくさんならべ、クラッカーを添えて持ち廻り、客の取るに任せた。昔フランスの病院では、治る見込がなく邪魔になるだけの病人には、毒を盛ったスープをのませてさっさと片づけたものだという伝説がある。一つのベッドに四人も押し込み、あぶれた病人は室の一隅で、誰か死ぬのを待って、わっと飛びついたという手荒な時代には、ありそうなことでもあった。 ﹁やあブイヨンの時刻ですね﹂と顔を見合せて、微笑する面白味はフランス船でないとわからない。 ︵たきざわ けいいち、随筆家、三九・四︶