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愛の旅人

小説「煤煙」
»〈ふたり〉へ森田草平と平塚らいてう―栃木・塩原温泉

 朝出かけた若い男女のふたりが、帰ってこない。栃木県・塩原温泉の老舗(しにせ)旅館「満寿家(ますや)」の主人が異変に気づいたのは、1908(明治41)年3月23日の夕刻だった。

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足湯の湯煙が立ち上り、箒川の川音が響く。100年前のふたりは雪の上をさまよった=栃木県那須塩原市で

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塩原渓谷を流れる箒川に秋の夕日が差し込む=栃木県那須塩原市で

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草平がやっかいになった漱石の家の跡には胸像が立つ=東京都新宿区で

相関図

  

 思いつめた様子のふたりは前夜、この宿に入った。出入りの人力車夫に聞くと、温泉町のはずれで降りて、峠の方へ向かったという。春彼岸とはいえ、山は雪で覆われ、会津に通じる尾頭(おがしら)峠は雪が深く、雪解けまでは通れない。主人はあわてて駐在に知らせた。

 その頃、ふたりはひざまでの雪に悪戦苦闘していた。一面の雪で道に迷い、つまずき、ついに雪の上に座り込んだ。疲れきり、心中を決行する気力も失われた。男は、女が懐に入れてきた短刀を雪の谷底に放り投げた。

 「駐在さんや若い衆が翌日早朝に捜索に出かけて、案外早く見つけたそうです」。今の満寿家の若主人で、当時の主人のひ孫にあたる臼井祥朗(さちお)さん(41)は言う。臼井さんはふたりが自家に泊まった縁もあり、学生時代に事件を調べ、当時を知る古老にも話を聞いた。捜索隊は、途中に立ち寄った炭焼き小屋の番人の話や雪に残る足跡をたどり、雪の中のふたりを見つけた。

 秋の一日、塩原の現地を訪ねた。箒(ほうき)川に寄り添うように並ぶ温泉街から、さらに川沿いにしばらく行くと、事件の碑があった。峠の登り口にあたるところだ。今、尾頭峠下にはトンネルが通り、峠への道は草むしていた。

 男は森田草平、27歳。東京帝国大学を卒業し、夏目漱石の門下生で文学志望。漱石の世話で中学の英語教師になったが、半年で首になっていた。駆け落ち同然で一緒になった郷里の女との間に子もありながら、東京の下宿先の踊りの師匠とも関係があった。

 女は平塚明子(はるこ〈らいてう〉)、22歳。会計検査院高官の三女。日本女子大を卒業した才女だが、良妻賢母教育に反発、神と自我を求めて禅寺で座禅を組む一方、文学にも興味を持っていた。

 ふたりが出会ったのは、女子学生が文学を学ぶ勉強会だった。草平が講師をし、受講生の明子と数カ月で親しくなった。観念的な言葉のやりとりから始まった関係は、愛し合う男女が死へ突き進んでいくイタリアの作家ダヌンチオの小説「死の勝利」に強い影響を受け、死へと急速に傾斜していった。

 東京をたつ前、明子は友人に「恋のため人のために死するものにあらず。自己を貫かんがためなり。自己のシステムを全うせんがためなり」という遺書を残した。草平は事件後、漱石に「恋愛以上のものを求め、人格と人格との接触によって、霊と霊との結合を期待した」と述べ、漱石に「結局、遊びだ」と一蹴(いっしゅう)される。理念先行、肉体が伴わない奇妙な心中行である。

 じれったい男と新しい女。屈託する男とシステムに殉じる女。水と油だが、「死への誘惑」がふたりを塩原の雪原に招きいれた。

スキャンダルをこやしに

 「自然主義の高潮 紳士淑女の情死未遂 情夫は文学士、小説家 情婦は女子大学卒業生」

 新聞各紙はスキャンダルに飛びつき、こんな見出しで書きたてた。

 帰京した森田草平は、師夏目漱石の早稲田の家の門をくぐった。漱石はしおれきった草平をいつもの温顔で迎えた。あれこれと聞かず、部屋を与えて休ませた。東京朝日新聞の小説記者・漱石の懐に入るのが、マスコミの攻勢をしのぐ最良のやり方だった。草平は2週間、漱石の家にかくまわれた。

 これから生きていくには、この体験を小説に書くしかない。草平は決意し、漱石も、社会的な信用をなくした草平にはそれしかないと思った。伝え聞いた平塚明子(はるこ)の母光沢(つや)は、漱石宅を訪れ、スキャンダルの上塗りになるから執筆をやめるよう頼みこんだ。漱石は「ごもっともな次第だが、この男はいま、書くよりほかに生きる道がないのです」と答え、会見は漱石に押し切られる形に終わった。

♪  ♪  ♪

 しばらくして明子は、松本高女に勤める友人のはからいで信州・松本郊外の農家で静養した。ここで、雪の季節になると羽毛が純白になる高山の鳥、雷鳥のことを聞き、ふっくらとしたやさしさのなかにある、たくましさに強い印象を受けた。

 「塩原事件」(煤煙(ばいえん)事件ともいう)の実録小説が、東京朝日に掲載されるのが決まったのはその年、1908年の11月だった。この吉報を本人に知らせようと、漱石はその日、草平の下宿を2度も訪ねるが、不在だった。「どこを歩いて居るにや、あまりのんきにすると、向後もきっと好い事なき事受け合いに候」という漱石の真情のこもった叱責(しっせき)の手紙が残っている。翌朝、手紙を読んで草平は泣いた。

 朝日掲載は漱石の推薦があったからだが、あのスキャンダルの当人が内情をぶちまける、ということは新聞社も大歓迎だった。翌年正月に連載が始まった小説「煤煙」は注目され、スキャンダルの主が一転、作家の仲間入りを果たした。

♪  ♪  ♪

 明子も負けていない。松田聖子ばりにスキャンダルをこやしに前進していく。信州から帰ると女性の文学仲間らとはかって、女性だけの文芸雑誌「青鞜(せいとう)」を刊行する。「元始、女性は太陽であった」という絶妙なフレーズの宣言は、社会に強烈なインパクトを与えた。この時初めてらいてう(雷鳥)という筆名を使う。明子かららいてうに「羽化」した瞬間だった。事件の3年後、11(明治44)年のことだ。

 その間、ふたりは町中で偶然出会った。じっくり話そうと、近くの旅館に入り、一晩、禅と性欲について語り明かしている。だが、ふたりの歩む道はしだいに離れてゆく。

 草平は朝日新聞の文芸欄の実務担当者になるが、草平を巡り、朝日社内で騒動が起きる。漱石が病気がちだったこともあり、連載小説の作者選定が行きづまった。やむなく草平が再び執筆、塩原事件の後日談のような「自叙伝」を連載する。だがこのスキャンダルの賞味期限はとうに切れていた。社内外から批判が起こり、主筆の池辺三山辞任に至った。実は以前から複雑な社内紛争があり、「自叙伝」がきっかけに表面化したのだが、草平はよくよくお騒がせ男である。

 「先生は計画性のない人でしたね。二十数回引っ越したのに、結局自分の家を持たなかった」。草平の生家跡、岐阜市鷺山(さぎやま)にある草平記念館の館長の森崎憲司さん(68)は苦笑する。本人はまじめなつもりでも、何かちぐはぐな草平は、ジグザグの人生を歩む。

 ドストエフスキーなど西洋の小説を数多く英語から翻訳し、法政大学の教授になった。後に法大で内紛がおこり、草平は一方の旗頭に祭り上げられ、結局辞任する。戦後、共産党に入党し世間を驚かせたが、実質的な活動はせず、結果的に共産党の宣伝になっただけだった。疎開先の長野県飯田のお寺が終焉(しゅうえん)の地だった。

♪  ♪  ♪

 「青鞜」は女性の文芸雑誌から女性解放へ軸足を変え、らいてうも成長、脱皮してゆく。大正、昭和と困難な時代にありながら、ほぼ一貫して女性解放、母性保護を訴え続けた。戦後も平和運動、婦人団体のリーダーとして先頭に立つ。70年の安保改定の時、本人が強く要望し、病身をおして東京・成城の自宅周辺で改定反対のデモをした。翌年85歳で死去。

 らいてうが草平と最後に会ったのは、戦後まもなく、渋谷の芝居小屋だった。「プレイボーイ」という題の翻訳劇を見ていると、観衆のなかに草平の姿を見つけた。声をかけたかったが隣に夫がいたので遠慮した、とらいてうは後に回想している。

文・牧村健一郎 写真・山本壮一郎
(11/11)
〈ふたり〉

 森田草平は1881(明治14)年、岐阜市郊外の小地主に生まれた。四高(金沢)に進むが、郷里の女性との同棲(どうせい)がわかり退学。東京に出て一高、東京帝大英文科を卒業、出生の悩みを夏目漱石に打ちあけ、門下生になる。多くの翻訳のほか、漱石の伝記を著し、「漱石の永遠の弟子」を自称する。「塩原事件」の明子は、漱石の「三四郎」のヒロイン美禰子の造形に影響したとされる。塩原事件を題材にした「煤煙」のほか「吉良家の人々」「細川ガラシヤ夫人」(未完)などの小説がある。

 1886(明治19)年に東京で生まれた平塚らいてうは日本女子大を卒業、塩原事件の後、「青鞜(せいとう)」を刊行した。青鞜は伊藤野枝や尾竹紅吉(一枝)ら「新しい女」が集まり、近代日本女性史に一時期を画した。年下の画家奥村博史と法律によらない結婚をし、「若いつばめ」の言葉を生む。市川房枝らと女性による市民団体・新婦人協会を結成、先輩格の与謝野晶子と母性保護をめぐる論争をするなど、常に第一線にたった。



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