大天井岳から槍ケ岳へ。通称「表銀座」の稜線で、猿と目があった。3000メートル近い標高では珍しい遭遇だ。一瞬の後、腹に子猿をしがみつかせた雌とともにハイマツの茂みに飛び込んだ。
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槍ケ岳から左に北鎌尾根が延びる。風雪の中、松濤明は手前の千丈沢で最期を迎えた=槍ケ岳の北西で、本社ヘリから |
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松濤明の手帳はピッケルとともに大町山岳博物館に保存されている |
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一日の終わりに、霧の中から槍ケ岳が姿を現した。本峰の右は小槍=大天井岳から |
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松濤明と美枝子(松濤26歳、美枝子さん32歳のとき) |
向こうから若い男性が駆け下りてくる。﹁こんちはっ﹂とすれ違ったザックに、岩登り用の白いヘルメットが揺れていた。これもまた、これといった岩場のない表銀座には珍しい。小槍の上でアルペン踊りを踊ってきたのか、これから北鎌の岩稜に挑むのか。
右手の北鎌尾根を見やる。標高3180メートルの槍ケ岳の頂から北に延びる高度差約1600メートルの全容を、晴れた空に惜しげもなく現している。すそから駆け上る濃い緑。沢筋に白く光る雪渓。いくつもの尖峰を連ねる岩の稜線を目で追う先に、灰色の槍の穂先が青空を鋭く突いている。
雪と氷に覆われた北鎌を、陽光のもとで想像するのは難しい。60年近く昔の厳冬、登山家の松濤明を風雪がのみ込んだのはどのあたりだろうか。
サイゴマデ タゝカフモイノチ、友ノ辺ニ スツルモイノチ、共ニユク.
1949︵昭和24︶年1月6日、岳友の有元克己の傍らで、死を覚悟した松濤は手帳にしたためた。26歳だった。
2人は、北鎌尾根から槍ケ岳に登頂後、峻険な穂高の峰々を越えて焼岳まで縦走する計画だった。厳冬期にはキャンプを一つずつ前進させて頂を極める﹁極地法﹂が主流だった当時、北アルプス屈指の難ルートを少人数で一気に駆け抜ける計画は画期的だった。
10歳から登山を始め、谷川岳や穂高・滝谷、南アルプス・北岳などで季節を問わず、初登を含む登攀を重ねてきた松濤にとって、北鎌は厳しくはあっても不可能な計画ではなかった。
だが、挑戦は初手からつまずく。入山直後の48年末は連日、季節はずれの大雨に見舞われた。年が明けると一転、大風雪。進むか退くかの決断を迫られた1月2日夜、星空が見えた。
しかし、好天は運命のいたずらだった。翌日からも風雪は収まらず、2人の体力を奪っていく。1月5日、有元が西の千丈沢側に転落。﹁上リナホス力ナキタメ共ニ千丈ヘ下ル﹂
松濤の手帳はいま、長野県大町市の山岳博物館に、愛用のピッケルや地図とともに保存・展示されている。
我々ガ死ンデ 死ガイハ水ニトケ、ヤガテ海ニ入リ、魚ヲ肥ヤシ、又人ノ身体ヲ作ル 個人ハカリノ姿 グルグルマワル
凍傷の指に握った鉛筆の、強い筆圧がくっきり残る。母親が終生、この手帳を大切に入れておいた札入れも一緒だ。﹁お母さんにとっては、本人のようだったのでしょうね﹂と、学芸員の峯村隆さん︵47︶がつぶやいた。
松濤の死を知らずに、真冬の上高地でただひとり、彼を待ち続けた女性がいた。芳田︵旧姓︶美枝子さん︵77︶。北陸に訪ねた。
約束の靴見せたい一心で
東尋坊と芦原温泉で知られる福井県あわら市。ここで静かな日々を過ごす芳田︵旧姓︶美枝子さんにとって、松濤明との出会いの記憶は今も鮮明だ。
﹁もうね、私、一目で電気ショックに遭ったような﹂
1948︵昭和23︶年9月2日の昼過ぎ。美枝子さんが働く岐阜・新穂高温泉の食堂に、大きなザックを背負った松濤が入ってきた。従業員は盆休みで、18歳の彼女一人きり。前日の雨にぬれた荷を乾かす松濤の筋肉は体操選手のようだった。たまたま共通の知人がいたふたりは、すぐに打ち解けた。
山行記録によると、出会いはわずか1時間25分。昼食後、松濤は再訪を約して食堂を出た。
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奥飛騨温泉郷の最奥、新穂高温泉の空は、槍ケ岳から西に延びる山並みにさえぎられて狭い。今も静かな山間の温泉地は当時、閉山した鉱山の建物を使って営業を始めたばかりだった。
10月3日、松濤は山岳会の後輩を連れて新穂高温泉を訪れる。錫杖岳と穂高・滝谷の登攀が目的だった。
﹁そのときはね、かれこれ1週間、雨が降り通しで、ピンポンをしたりイワナを焼いて食べたり、楽しかった﹂
8日朝までの滞在で、登攀は1日だけ。ふたりは時に深夜まで話し込んだ。山の話だけでなく戦地での体験や、思いを寄せた女性への気持ちが復員後に冷めたことまで話が及んだ。
﹁でも、女の子にというより、山の仲間にという話し方でした﹂
それでも、飾り気のない松濤の人柄に美枝子さんはあこがれを強めていく。松濤の方はどうだったのだろう。同行した後輩の権平完さん︵75︶を、東京都国分寺市に訪ねた。
﹁錫杖に私を誘ったとき、山の中に少女がいる、夢のようだ、また行きたいって言うんですよ﹂
権平さんは、松濤も美枝子さんが好きなんだという印象を受けたという。
北海道で開かれる冬季国体をめざしてスキーの練習をしているという美枝子さんに、松濤は東京でスキー靴を注文してあげようと約束して去った。
年末、美枝子さんは乗鞍岳の山小屋に移り、働きながらスキーの練習に打ち込む。大みそかの夜、てるてる坊主を作って好天と松濤の無事を祈った。
年が明けて、約束のスキー靴を長野県松本市内で受け取った彼女は、その足で松濤を出迎えようと思い立つ。
﹁スマートな靴でね。それを見せたくて私、しゃにむに登ったんですよ﹂
真っ暗なトンネルや雪崩におびえ、深い雪にあえぎながら2日がかりで上高地にたどり着いたのは1月6日。松濤が北鎌尾根で力尽きた日だった。
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行き違ったと考えた美枝子さんは、新穂高温泉で会えるかもしれないと10日未明に上高地を出発する。深雪に苦しみ、西穂高岳の南の稜線に立ったのは11時間後。尾根を滑り始めて間もなく転倒、滑落した。スキーは外れ、新品の靴は中までぬれた。深夜、ザックもなくして温泉の食堂に倒れ込んだときには、指に凍傷を負っていた。
美枝子さんが越えた上高地からの登路は、夏なら3時間のコースだ。途中の﹁迷い沢﹂であるとき、女性登山者が霧にまかれ仲間を見失った。道を探していると、一人の女が見えた。夢中で追ううちに仲間と合流できた。気づくと女の姿はどこにもなかった……。
﹁山の神が助けたんですよ。女性にやきもちを焼く神様だけど、登山者はおかっぱ頭で、男の子のようだったんですって﹂。古い言い伝えを西穂山荘の若い従業員が教えてくれた。
松濤の消息は、その後も届かない。長野県側に下山したのだろうと考えていた美枝子さんは2月、約8キロ離れたふもとの郵便局ではがきを受け取る。
松濤君はそちらに下りていませんか――捜索中の山岳会からだった。
﹁もう……腰が抜けていました。全然信じられなくて﹂
松濤の死を実感できずにいた彼女にその夏、遺体発見の知らせが届く。
﹁ああ、これで私一人で松濤さんを独占できるなという……。そこに安堵を求めるしかなかったですねえ﹂
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槍の穂先に登る予定だった朝、横なぐりの雨にテントをたたかれた。飛び込んだ槍岳山荘で、主人の穂刈康治さん(58)に北鎌尾根の話を聞いた。
山荘には登山シーズン中、テント泊も含めて1万5000人ほどが宿泊する。一方、北鎌尾根の登山者は数百人ほどとみられるそうだ。「登山中になにかあれば、ヘリを使うしかありません。多くの人があこがれる尾根ですが、完登できるのは体力と技術、よきリーダーにめぐり合えた登山者だけです」
美枝子さんは翌年、松濤と同じ山岳会に入る。北鎌尾根には、松濤の死から10年後の秋に登った。
文・今田幸伸 写真・堀英治