1月7日に襲撃・大量殺人事件が起きたフランスの週刊風刺マンガ紙︵日本でイメージする﹁新聞﹂では必ずしもない︶﹁週刊シャルリ︵シャルリ・エブド︶﹂の発行部数は、約3万だという。事件の夜にパリのレピュブリック︵共和国︶広場に集まった群衆は3万5000。この数字の不均衡と、にも関わらずのおそろいの﹃Je suis Charlie 私はシャルリ﹄という黒地に白抜きのプラカードには、なにか不気味さが漂う。
シュルリ・エブドの出発点は週刊﹁ハラキリ﹂
﹁真実を探究したジャーナリストが凶弾に倒れた﹂というが、この週刊新聞は事実を直接報道するのではなく、掲載するのはそれをネタにした辛口の風刺だ。風刺にはよりシャープな真実を見る目が必要だ、と言われれば話がズレていないかと思いつつも反論はしにくいが、しかし巷間に報道される内容から受けるこの事件のイメージが必ずしも精確とは言えないことだけは確かだ。いやもっと言えばあくまで事後︵死後︶になってから犠牲者を﹁言論の自由の英雄﹂と賞賛するのは、たぶんにフィクショナルというか、ほんの数日の差とはいえ﹁現代の価値観で歴史を判断する﹂歴史歪曲の典型の構図がここにはある。
死者に鞭打つのなら気が引けもするが、しかし以上はその死者たちを直接云々する議論ではない。その死者たちに事後、死後に、本人たちの意志に関わらず勝手に付与されたイメージであることは、やはり指摘すべきだし、そこで﹁傷つく﹂のは死者ではなく、その死を利用する者たちであって、果たして彼らの︵欺瞞の︶感情論が配慮に値するのかは大いに疑問だ。それに真実を追究するジャーナリスト、いや過激な風刺マンガ紙のアナーキーな漫画家やエッセイスト、編集者たちの追悼なら、﹁死者への哀悼﹂で遠慮するのはむしろ裏切りですらあろう。
発行部数3万でもそれなりにフランス社会で存在感があった﹁週刊シャルリ﹂の元の名前は﹁ハラキリ﹂で、左派系の同紙は果敢で過激な表現で、しばしば物議を醸して来た。シャルル・ド・ゴール大統領の国葬の際のどきついまでに辛辣なド・ゴール揶揄つまりはフランスのナショナリズムへの挑発で、発禁処分を受けたこともある。しかし反発覚悟のアナーキーな表現が﹁カミカゼ﹂はさすがにまずいから﹁ハラキリ﹂なのか、揶揄し風刺する対象にユーモアのつもりで﹁ハラキリ﹂を迫っていたのかも知れないが、率直に言うと日本人にはあまりいい気がしない。その意図自体には差別的な狙いがないと言われても、在仏のフランス人であれば自分たちが﹁ハラキリ﹂民族としてフランス人から揶揄され差別されるリスクを、無意識か直感・本能的にでも考えてしまう。
風刺に命がけだった
よくも悪くも﹁週刊シャルリ﹂は、そういう配慮を誰に対してもしないことを売りにしてもいた。2006年にイスラム諸国から猛抗議を浴びた、デンマークの新聞による預言者ムハンマドを題材にした漫画を転載したときも、その後もムハンマドを揶揄することを狙った風刺画を何度も掲載し続けたのも、彼らの理屈は﹁我々はローマ法王も同じように揶揄しているから、平等であって、差別ではない﹂だ。
言論が配慮に屈して妥協すべきではないのはその通りだし、彼らの論理は一方的に自己中心的な﹁言論の自由﹂の主張だがもっと異文化への配慮があるべきだった、と言う非難も正しいとは言い難いが、しかし﹁週刊シャルリ﹂の言い分にはそれでも、無自覚に大きな欠陥がある。彼らの論理にはなにかが、決定的に抜け落ちている。
自分の属する文化圏や社会の権威をただ批判するどころか、揶揄し笑いものにするところまでやるのは命がけだ。抗議文や脅迫よりも実はよほど深刻な、社の命運を左右するリスクを覚悟しなければならない。つまり﹁売れない﹂ことである。と同時に、自分が属し良く知っている文化なのだから、適確な風刺でシャープな表現を自信を持ってやれるし、読者を怒らせるギリギリの一線で笑いに転じる風刺マンガのダイナミズムの本質に迫るさじ加減でも、確信犯のやり過ぎでも、アーティストの直感を信じることが出来る。当然、個々の作品クオリティもだいたいにおいて高くなるだろうし、﹁これで怒るなら怒る方がバカだ﹂と胸を張れる場合も少なくなかっただろう。
ムハンマドの風刺は出来が悪い
異文化を揶揄するときはまったく違う。よく知らない、自分の所属するのでない文化やその権威を揶揄する際に適確な風刺に到達するのは、本来ならより難しい。無知ゆえの見当違いで風刺がスベるリスクが常にあり、だからこそ当然ながらより慎重さと作品のクオリティを高める努力が要求される。だが実際には、今回の事件で﹁週刊シャルリ﹂がこれまで掲載して来たムハンマドの漫画などが報道やネットに流れたが、率直に言って風刺としてはかなり出来は悪いというか揶揄として成立しておらず、ちっとも笑えない。はっきり言えば自己満足の笑いでハタ目にはスベりまくっている。にも関わらずこれを笑うフランス大衆が多いとしたら、痛烈な風刺が怒るスレスレで笑いに転じるのではなく、最初から差別対象をバカにすることそれ自体が楽しいからだ。
﹁ハラキリ﹂が笑える題名に見えてしまう文脈も同様のものだ。そこに無自覚な人種差別があることを、否定するのは難しい。
出来の悪い風刺、失敗したギャグだけなら、つまらないだけですぐ忘れられる。だがイスラム教徒への差別意識、アラブ系移民の増加を脅威とみなす排外主義の素地がある社会では、出来の悪い風刺の方がむしろ売れるのは、イスラムに関する知識がなく興味もない読者が楽しめるからではないのか? その差別を受ける側から見れば、そこまで安易で怠惰なやり方で自分たちがバカにされながら、抗議したところで自分たちが﹁言論の自由が分かっていない﹂と相手方のルール、その実差別するマジョリティの傲慢な圧力で握りつぶされるだけだと、すでに痛いほど分かっているマイノリティがいる構図を、﹁週刊シャルリ﹂が無視してしまって来たことは否めない。しかしこれは、ただ﹁週刊シャルリ﹂だけを責めればいいことでもない。なんといってもムハンマドの出来が悪い︵その実、風刺になっていない悪口、子どもの落書きレベルの︶風刺画ならば喜んで買う読者が多いなら、そこに従わざるを得ないのが資本主義だ。
これは﹁言論の自由﹂を守る﹁戦い﹂なのか
﹁週刊シャルリ﹂が物議を醸したデンマークの風刺画をフランスで初めて掲載した号は話題性から当然売り上げが伸びただろうし、ならばその路線は﹁売れる路線﹂として経営上重宝される。ではいったいイスラムを揶揄した漫画を掲載した号の﹁週刊シャルリ﹂が平均発行部数と比べてどれだけの売り上げをあげていたのか、調べてみようと思う﹁真実を追及するジャーナリスト﹂の登場は、残念ながら今現在のフランスには期待できまい。
いったいこれは、本当に﹁言論の自由﹂を守る﹁戦い﹂なのだろうか?その自由は誰の自由で、誰から、なにからの自由なのだろう?言論の自由とはまずなによりも、政府、国家権力、それを支持する社会のマジョリティの抑圧からの自由のはずだ。
﹁週刊シャルリ﹂社だけで12名、容疑者の立て篭りで人質4名、その容疑者2名で合計18名の死者よりも﹁言論の自由が攻撃された﹂で発行部数3万、売り上げや読者数よりも物議を醸すことで有名、というか近年は過激というより悪趣味で悪名高かったはずの同紙について、フランス中で突然誰もが﹁私はシャルリ﹂を名乗り出しているのは、むしろその逆の全体主義の欺瞞と、その欺瞞を隠蔽するための抑圧に思える。
実際、筆者自身がフェイスブックに英文でこの事件の報道のあり方や、事件に対するフランス社会の反応への疑問を呈し、事件の加害者が﹁イスラム国﹂や﹁テロ組織﹂ではなくフランス自身が差別して来た人たちであり、事件が起きた理由はより根深くフランス社会自体に原因がある、フランスが未だに人種差別を棄て切れず、植民地主義から脱皮できていない国であることではないか、と指摘する投稿をしたところ、﹁哀悼の意を表しないとはなにごとか﹂という分かり易過ぎる言論の自由の無視抑圧や、﹁外国人がなにを生意気な﹂と言わんばかりのコメントが相次いだ。
小学生時代にParisで育った経験から
﹁外国人が﹂なんてそれこそ人種差別だろうという神学論争以前に、筆者にとってこの反論はあまりに簡単だ。自身そのフランスで、当時は中国人やヴェトナム人と混同される日本人の子どもとして育っている。幸いしっかりした小学校で、直接差別の暴力に遭うことがないよう教師が賢明に動いてくれていたが、それでもフランスの白人マジョリティの社会にはその彼らにとっては無自覚でも、確かに人種差別があることは分かっている。それは今でも︵彼らがいかに﹁ミッテラン時代でフランスは変わった﹂と言おうが︶そんなに変わってはいない。しかも僕の場合、これはさすがにその年代では珍しいだろうが、小学生の当時からアルジェリア系やモロッコ系などのアラブ人︵旧植民地なのでフランス国籍はある人が多い︶、当時はジプシーと呼ばれていたロマの人々が住む地域に迷い込んだりして、自分の目で現実の一端は見てもいる。
だから﹁﹃Je suis Charlie﹄を名乗るあなた達より私の方が、フランスが今でも差別と植民地主義がある社会であることならよく知っている。あなた方こそ差別される側のことをなにも知らず、その視点を無視しているではないか﹂と、呆気なく言い切れてしまうのだ。
ところがそう言われたフランス人はおしなべて﹁差別に遭って傷ついたお前の気持ちは分かるが、今はフランス人は傷ついているのだ﹂と言い返して自身の根深い差別意識と、自己保身の攻撃性の自己投影が始まるのだから、こうなるとフランス社会が深刻におかしくなっていることに気づかざるを得ない。
9.11.テロも風刺したのがフランス
2011年に9.11事件に衝撃を受けたアメリカが、世界貿易センターの3000余名︵当時は5000と推計されていた︶の死者やハイジャックされた飛行機で亡くなった犠牲者を﹁ヒーロー﹂と呼んでいたことに醒めた目を向け、アメリカが中近東でやって来たことを批判して冷静さを訴え、﹁テロとの戦争﹂に反対し、なかにはアメリカ人の感情論を揶揄すらしていた者もいたのは、フランスだった。数で比較するものでもないが、とはいえ今回の事件の死者は関連性を疑われる︵というか警察がしきりにそう示唆している︶銃撃や立て篭りを含めても、20余名でしかない。
いやアメリカと比較するまでもない。容疑者がアルジェリア系であったというだけで、否応なしにフランスがアルジェリアを植民地支配していたことは当然思い出される。その独立運動を凄惨な暴力で弾圧し、暴虐な戦争になったことは、第二次大戦後のフランス現代史で最大の汚点だ。しかも先述の通りアルジェリア系のフランス人がどれだけこの社会のなかで片隅に追いやられて来たのか、近年の経済不振で真っ先に首を切られるのもその人たちであり、もう20年近く差別主義の極右の伸張が危惧されるフランスの現実を指摘されたとたん、﹁死者を尊重しろ、黙れ﹂というのでは、明らかに言論の自由に反する。
10年前のフランスであれば、必ず即座に上記のような指摘をする知識人や芸術家がいたはずだ。言論の自由とはまさに、こういう時のためにこそある権利でもある。だが今回の事件では大勢のフランス人が、かつてなら﹁およそフランス人らしくない﹂と言われそうなお揃いの﹁Je suis Charlie﹂で﹁連帯﹂を声高に言い張る一方で、辛うじて聴こえる良心的な発言もせいぜいがフランスに住むイスラム教徒︵推計で8%︶との対立と社会の分断を危惧するだけで、これまでも差別され、事件後にはすでにモスクへの銃撃が起きているムスリムのフランス人︵アラブ系でも、同国の国籍保有者だ︶の人権を語る声は聞かれない。9.11やアメリカのイラク攻撃が起こった時に、ブッシュ大統領︵当時︶相手に外交的大立ち回りを演じたド・ヴィルパン元首相ですら、ル・モンド紙に﹁戦争への誘惑に乗ってはならない﹂と警告する文章を寄稿したのがせいいっぱいで、それでも重要なこの警告の言葉その通りに、社会党政権であるはずのフランソワ・オランド率いる政府の対応はすでに右派政権よりもアグレッシヴな﹁テロとの戦争﹂の様相を呈し、パリは迷彩服に小銃姿すら目につく厳戒態勢にある。
﹁表現の自由﹂を口にするが、﹁なにに対する﹂ないし﹁誰の、なにからの自由﹂なのか
案の定、まさかそこまで、とは思いつつも想定はしていた通りに、事件は警察が容疑者を殺害することで一応の幕を閉じた。人質となった4名は遺体で発見され、捜査当局は容疑者たちに拉致された直後に殺されていた、と主張する。
あくまで捜査当局によれば…はっきり言えばすべてひっくるめて﹁死人に口なし﹂である。
事件当初から犯人グループが﹁アッラー・アル・アクバル﹂や﹁預言者の復讐﹂を叫んだと、よく読めば未確認の目撃情報として報じられていた。主犯と目されるサイード・クアシ︵34︶、シェリフ・クアシ︵32︶の兄弟が、いわゆる﹁イスラム国﹂に参加しようとして逮捕されたりした前科があったりすることもしきりに強調され、事件は﹁イスラムのテロリスト﹂の犯行として最初から強烈にメディアを通して刷り込まれた。それを受けて犠牲者の哀悼に集まったと称する人たちは﹁表現の自由﹂を口にするが、﹁なにに対する﹂ないし﹁誰の、なにからの自由﹂なのかは誰もが口を閉ざす、その言及を避けていることそれ自体が、このスローガンが真実を隠す欺瞞でしかないことを強く示唆する。
良心的であろうとする︵あるいは社会に対してそう振る舞おうとする︶人たちが先走って、すべてのイスラム教徒が悪なのではなく、あくまで一部の過激派が悪いのだということを忘れてはいけない、と警鐘を発するつもりで言うことが、かえってこの状況を覆う欺瞞を無自覚に、しかしハタ目にはえらく分かり易く、浮かび上がらせている。
これはテロというより集団殺人事件だ
死人に口なし、本人たちが証言も否定も出来ず裁判もないのだから、捜査当局と報道は結託して彼らがイエメンのアルカイーダに訓練を受けていた、資金を提供されていた、﹁週刊シャルリ﹂襲撃の夕方に起きた銃撃・警官射殺事件と、翌日にその容疑者が立て篭った事件も含めて﹁計画的な同時多発テロだった﹂などと強調する︵実際には、犯人どうしが友だちだった以上の情報は現時点ではない︶。外国、異なった文化圏の﹁テロリスト﹂がフランスに戦争を仕掛けているという、国際政治や安全保障レベルの事件の構図がしきりに喧伝されるが、冷静に考えてみればこれはあくまで、フランスの週刊新聞社を、同じフランス市民が襲撃した大量殺人事件だ。
すでにお気づきの読者も多いだろうが、筆者はあえてこの事件を﹁テロ﹂とは呼んでいない。あくまで集団殺人事件だ。2001年以降、集団殺人=テロと呼ぶことが報道の通例となったが、振り返ればその2年前、たとえばアメリカのコロンバイン高校で起きた集団殺人事件を﹁テロ﹂、犯行後自殺した二人の男子生徒を﹁テロリスト﹂と呼ぶ者はいなかったし、このパリでの事件の本質は、このコロンバイン高校事件とそんなには変わらない。この襲撃を命じたと言うアルカイダの声明も、﹁標的の選択は彼らに任せた﹂と正直に告白しているのだ。
フランス人の皆さんには、少し冷静になって、事件を歴史的かつ社会的な文脈で、今メディアで言われ政府が追認しているのとは異なった視点で見てもらいたい-これはあくまで、フランス国内の事件であり、国際政治の権力闘争よりも、フランス国内ゆえに問題で起こったのではないか?
﹁国際テロ組織﹂を持ち出す前に犯人をまずきちんと見れば、たとえばサイードとシェリフのクアシ兄弟はアルジェリア系の両親に幼くして死なれ、孤児院で育てられている。関連性があると警察が主張する事件の容疑者や、﹁週刊シャルリ﹂襲撃実行犯の一人で自首した18歳の少年は、いずれも﹁アルカイーダ﹂や﹁イスラム国﹂という固有名詞が有名になるはるか昔から、かつてフランスが暴力的に徹底弾圧した植民地の血統で、フランス社会のなかで差別されるマイノリティとして育って来た。いわゆる﹁イスラム過激派武装組織﹂が登場する以前ならばストリート・ギャングになっていたとしてもおかしくないスレスレの生存、いや実際に彼ら自身、以前にはそんなギャングでもあったのかも知れない。
これは彼らが﹁犯罪者﹂とか﹁犯罪予備軍﹂であると言う意味では決してない。あくまで現実にその程度の数少ない選択肢しか予め社会に与えられていない境遇に置かれていた社会階層があり、そんな彼らの側から見れば、自分たちを差別し抑圧する社会のルールに従う謂れも本来ならないはずなのだ。
自分たちの人権を守らない政府に抵抗する権利︵抵抗権︶は基本的人権
自分たちの人権を守らない政府に抵抗する権利︵抵抗権︶は基本的人権であり、こと実際にその圧制と戦う権利の行使で革命をやったが故に今があるフランスでは、必要があれば武力を用いることもこの権利に含まれる。このフランス国家が本来ならその国民に保証しなければならないはずの人権からしてだけでなく、人間の尊厳、個々人のアイデンティティとプライドの問題からしても当然の自然な感情である怒りと鬱屈した感情を表出する手段が、しかし彼らには直接の暴力行使しかそもそもなかったのではないか。
現実に命がけで反発する理由が彼らの側にはあっても、社会的には﹁不良少年が暴れた犯罪﹂とみなされるのが関の山であれば、﹁イスラム﹂﹁アッラー﹂﹁預言者ムハンマドの復讐﹂は、ストリート・ギャングに較べればまだそれなりの正当性の響きがある大義名分、貧乏人の不良少年が暴れているとは言わせない﹁カッコつけ﹂にはなるはずだ。西洋社会が近年危惧する﹁ホームグロウン・テロリスト﹂の実態は、平等や自由や人権を謳いながらそれを決して実践できていない社会と政治の当然の帰結として出て来る、それ自体は極めて正当な、怒りと不満の表出でしかない。
こういうとフランス人は、イスラム教徒で旧植民地からの移民でも、フランス社会の一員となって成功している者だっているのだから、そんな差別は過去のものだ、と言い張るだろう。だがそれは運良く高等教育を受けられて、フランスの教育制度に順応した者に限られるし、その多くは自身の民族的アイデンティティよりもフランス社会に同化することを︵大なり小なりにせよ︶選んでもいるし選ばざるを得ない。サイードやシャリフたちがそこに入り込めるような余地は、恐らく最初からなかった。
非暴力を唱えることは、あまりに安易な﹁正義﹂の表明に過ぎない現実の文脈無視でやってしまえば、それこそがもっとも過酷な暴力になってしまう。目に見える直接の暴力で殺された﹁週刊シャルリ﹂の編集部や寄稿漫画家らの犠牲を哀悼すること自体はいいが、日々ねちねちと、陰湿に、必ずしも目に見えるわけではないどころか、恐らくマジョリティの側からすれば簡単に無視し続けられる差別の暴力に、彼らが日々の生存を賭けて耐え、しばしば妥協し、苦しみ続けて来た事実を無視するのは、明らかな不均衡であり、人種差別だ。言論の自由を言うのなら、そんな自由をフランス社会が彼らのようなマイノリティに認めて来ていないことも問わなければ、フェアではないし対等でもない。
そもそも民主主義でもっとも尊重される言論と表現の自由とは、なによりも抑圧的な政府からの自由、その政府を支える社会のマジョリティに反対し、その圧力に屈しない表現や言論を保証する自由であり、真実の探求や正しい判断を究極の投企とする際に必要な多様な視点を担保するためのものだ。少なくともヨーロッパの歴史においては、マジョリティの反発に抗って、真実を目指す信念のため自らの命すら賭した者たち︵ソクラテスの弁明やナザレ人イエスに遡り、フランスの国民的英雄ジャンヌ・ダルクもそうだし、たとえば天動説を否定した地動説、地球が球体であること等々もある︶がいて、それを受けて確立された理念が﹁言論と表現の自由﹂のはずだ。
だがフランス革命最大の遺産でもある民主主義の理念そのもの、たとえば言論の自由は、現代のフランスではマジョリティが恣意的に持ち出してはマイノリティを押さえつける植民地主義の道具に成り下がってしまっている。平等の理念は、フランス人のうちマジョリティのやり方に従うことを受け入れる者たちにのみ限定されたそれ、実態は同化の強要にすり替えられてしまった。博愛が言われるのは、マジョリティの側に暴力が向けられた時に限られる。
既に現代のフランスでは、中学校にムスリムの少女がスカーフで髪を隠して登校することが許されていない。イスラム教で女性が髪を隠す教義があるのは女性蔑視の抑圧だからフランスの、民主的な学校では許されないという理屈は一見もっともらしく、左派にこそ強硬に主張する者も多かった。この一件は信教の自由に政教分離が優先されたと解説されがちだが、それ以前に個人が自分の服装を選択したり、自分が受け継ぐ民族的・文化的なアイデンティティをどう表現するのかの自由に、国家が介入すべきではないし、マジョリティがマイノリティを従わせるのならそれは差別だ。
あるいは、その自由の行使が﹁フランスの考える民主主義﹂の枠内でしか許されないのが今のフランスだ、と言うこともできるだろう。植民地主義の同化主義の強要に民主主義の理念が恣意的に悪用されているだけではなく、彼らにしてみれば、本来なら自分たちの人権もまた保証するはずの理念によって自分たちが﹁悪﹂ないし﹁遅れている﹂と処断される点において、これは何重にも差別的で、しかもその差別と戦う理念すら抑圧する側に奪われている。
フランスで行われているブルカ禁止の欺瞞
どっちにしろアフガニスタンの女性の民族衣装でしかなくフランスではそんなに着用者もいないであろうブルカを街頭で着用することも、禁じる議論があった。個々人の服装にまで介入するのはもっとも私的なレベルでの自由の剥奪であるだけでなく、他民族国家アフガニスタン、アラブ人、トルコ、ペルシャ︵イラン︶などなどの多様な民族の混合することを﹁イスラム﹂という宗教だけで十把一絡げにみなす差別であり、しかもブルカ禁止の正当化が﹁武器を隠し持っていたら危ない﹂と言うのだから、こんなことを決めておいて﹁あくまで一部の過激派がフランスの敵であって多くのムスリムは穏健だ﹂という一見政治的に正しいようにも聴こえる主張はその実ただ﹁良いムスリム﹂﹁悪いムスリム﹂をマジョリティの都合で決めつける欺瞞、自分たちの差別隠しの二枚舌で偽装された同化主義、実はムスリム全体を危険視すると同時に、そもそも悪意のない他者に﹁お前には我々への悪意はないと証明しろ﹂と迫って屈服を要求する侮辱にしか、なっていないのではないか?
﹁週刊シャルリ﹂が掲載したようなモハンマドの風刺画などに、アルジェリア系やモロッコ系、アラブ系フランス人が怒っている理由は、信仰の対象の預言者が侮辱されたからでは必ずしもなかろう︵そんなに分かり易く敬虔な者が多いとも思えないどころか、道徳を説くのが仕事のイマームなどには嫌われていそうだ︶。マジョリティの側が無自覚に差別に安住した無神経さで、揶揄したつもりでただ下位にみなして馬鹿にしているだけにしか見えない。その差別して来た側が一方的に風刺と称する揶揄の方向が、自分たちの持つ異なる文化に対するフランス社会のマジョリティ側からの蔑視、差別、侮辱になっている。しかも相手がその危険に気づかないほど怠惰で、無神経かつ独善的な自己満足でしかない表現をぶつけて来る、この軽率な無思慮そのものが、相手を対等に見られぬ故の軽視つまりは差別意識を無自覚に自白しているようなものだ。
にもかかわらず、その差別性に抗議し﹁バカにするな﹂と言ったとたん、お前たちは宗教に洗脳された時代遅れの狂信者で民主主義が分かっていないのだ、といっそう罵倒され侮辱される。今はタテマエだけは同じ市民ということになっているが、元は自分たちの侵略支配の被害者でもあり、だからこそ自分たちの正当性を脅かしかねない人たちの存在を、本来ならそのマイノリティも含めたあらゆる人間の平等を謳った理想を倒錯歪曲することで封じこめてしまうシステムを、フランス社会は既にかなり巧妙に作り上げてしまっているし、それはフランスに限ったことでもない。
事件後最初の日曜日である1月11日を、フランス政府は国民が犠牲者を哀悼する日と指定した。つまりこの事件をフランス国民が同じ国民を殺した事件と正確に認識してフランス社会が反省し、壊れてしまった社会を見つめ未来を模索するのではなく、自らが産んだ暴力を外からの攻撃であるかのように偽装する自己欺瞞と排外主義があからさまなのだが、その日にヨーロッパ主要国の各首脳とアメリカのオバマ大統領がパリに集まり、テロと戦うことでの結束を表明することになっている。
彼らはこれを﹁連帯﹂と呼ぶが、実態は自分たちの支配して来た世界の歴史における自身の責任から逃避し、本来国家理念としていることの失敗とまでは言わずとも、それがまだまだ未完・未達成の理想でおよそ実現されていない結果の不平等と不公正ゆえに出て来てしまった、人種差別のなかで暴力の行使以外に自身の存在すら表明する手段が与えられなかった人々を﹁外からの敵﹂だと思い込もうとする、自己欺瞞の共謀にしかなるまい。
各国がそれぞれの国内で、民主主義や平等を実現できないまま、自分たちが酷使する労働力として利用してきた移民労働者階級とその不満を無視し、不公平な現実を糊塗しようとしているだけではない。彼らがあたかも共通の敵のように口裏を合わせる﹁イスラム国﹂ですら、ヨーロッパ︵とアメリカ︶が、自身の理念への裏切りと傲慢で牛耳って来た﹁世界秩序﹂が必然的に産み出した彼ら自身のダークサイドの鏡像、彼ら自身の自己保身、自己逃避と自己投影の恐怖の亡霊が、支配され征服され搾取された側によって具体的な集団になってしまったものであり、西洋の産物である。もはやイラク戦争をやってしまったアメリカだけの責任ではなく、その戦争に反対したはずのフランスだって、アメリカもやらなかった﹁アラブの春﹂潰しにさえ手を染めているではないか。
かつてならおよそフランス人らしからぬ横並びの﹁連帯﹂で、お揃いの﹁Je suis Charlie ︵私はシャルリ︶﹂の標語を掲げ、マジョリティが自らの都合をあたかも唯一の真実であるかのように強要する﹁言論の自由﹂で隠蔽される現実を指摘しなければならないのは、単にその結果、今までもずっとあった不当、不公正が継続され、より強化され、その結果より抑圧されるであろう人たちの人権のためだけではない。フランスのマジョリティにとってこそ、あくまで自分たちが主導権を持ち続け、言論や表現の自由を一方的に恣に濫用して来た結果のダークサイドが暴発した悲劇の本質を見ようとせず、これをあたかも戦争の始まりであるかのように集団で高揚することは、彼ら自身の安全保障の観点から見ても、恐ろしく危険なのだ。
仮にフランス人がこの事件に始まる事態を﹁戦争﹂として戦う気なのであれば、それは決して勝つことのない戦争であり、それが終わるとしたらそれは彼らの社会が最早戦う余力を完全に失うほどに疲弊し、傷つき、無数の分断と断絶を自分たちの内に巣食わせた果てにしかあり得ない。そこから立ち直る力なぞ、ここ数年EUの行き詰まりで不況に苦しんで来たフランス社会が、現時点でとっくに失っているというのに。
自由、平等、博愛を口で言うだけならば簡単だが、200年以上経ってもその理想を実現するにはほど遠い現実が今ここにある。もしかしたらフランスも、ヨーロッパも、その理想を掲げ守り続けようとすること、﹁文明国﹂である責任に、本当は疲れてしまっているのかも知れない。
素晴らしい!私も不気味に思ってました。ドイツ人の夫にそれを言ったら「怒っ」でした。
ここだけの話、僕が仕事上ヨーロッパ人とバトルしなければいけない時に持ち出すのは、この論法です(笑)。こちとらあくまで「監督」ですから。
シャネルとピケティとフランス国旗 | 詩想舎の情報note http://societyzero.wordpress.com/2015/01/12/00-217/
シャネルとピケティ あるいはフランスでのテロ | 詩想舎の情報note http://societyzero.wordpress.com/2015/01/11/00-216/
長いのとちょっと混乱しすぎじゃないですかね。ただ単に例の風刺スタイルが好きじゃないのと、マイノリティよりのスタンスってだけのをこんだけ長くだらだら書けるのはそれはそれで才能かもしれませんが。
ほお、どこが混乱uしてるんでしょうか?あなたが混乱しているのはわかりますが、要旨は極めて簡単で、これは国際テロ事件などではなくフランスの国内問題で起こったことですけど?
あなたにとってこの文章が長い事がいいか悪いかなど、あなたの思考が短絡的であることと同じくらいどうでもいいことです。
自分たちの差別を隠蔽するために「表現の自由」を言ってるんだったら明らかに真実を隠す欺瞞でしょうに。
「一般人でなく言論機関を意図的に襲撃し殺人しているのですから」っていう区分け自体がただの倒錯にしか思えませんが?一般人でも言論の自由はあるし、その自由の行使に伴う責任も当然にあり、たとえば日本国憲法が典型なんですけど、政治的な権利としての言論の自由は、それを「公共の福祉」のために役立てる責任が付記されていますよ。つまりいい加減な差別でしかないことを「風刺」と称しているのなら、それは自動的に「言論の自由」の埒外になるのが、通常のい「言論の自由」の解釈です。なぜなら差別の流布は明らかに「公共の福祉」に反するわけですからね。
フランスが掲げている3つの標語に、博愛?は聞いた事ありませんね。
友愛 fraternité ならあります。
あのお、fraternitéは「兄弟愛」で、この場合「人類皆兄弟」の意味だとみなすのが通常の解釈なんですけど?
> 藤原さんが映画監督だと今日知ったので
あの…この記事の題名にすら書いてありますけど…?