青空文庫について (1999.04.15)
山形浩生
青空文庫はしょぼい、という話を書いた。その後、これって不当な言いぐさかな、と思ったり、いや不当じゃないぞ、と思ったり、いろいろ考えてみた。でもって、いま時点での考え。やっぱりしょぼいというのは正当だと思う。そのしょぼさの原因は、あそこに書いた、単純に時代的に古いものばっかという以外に、少なくとも2つあって、一つは、青空文庫自身がまだ充分に考えていないところがあるという点で、そしてもう一つは、いまの日本の文化状況︵わおぅ、大きく出やがったな︶という点だ。
註記: この部分は、青空文庫が使用条件を整理してくれたおかげであてはまらない部分が多くなっていて、いまでは歴史的な意義のほうが強いことには留意してほしい。
青空文庫が、新潮社とちょっとトラブった一件がある。新潮社が、夏目漱石のテキストデータを提供してくれて、それを青空文庫で公開したんだって。そうしたら別の出版社が﹁このデータで本を出したいんだけど﹂と青空文庫に言ってきたんだけれど、新潮社は﹁それはちょいと、そんな交渉いちいちしたくないし勝手に使われるのもおもしろくない﹂といってデータを引っ込めたそうな。
この一件でわかること。青空文庫のテキストは、公開されてる、自由に使えるとはいいつつも、実は受け取る側としてはなにができるのやらよくわからないのだ。読むのはいいみたいだ。私的な利用もいいみたいだ。でも出版するのは、どうもいけないみたいだな。プリントアウトしてそこらじゅうにばらまくのは? LaTeX 文書に変換して自分のサーバに置くのはどうだろう。ここでいう﹁いい﹂﹁わるい﹂というのは、だまって断りなしにやっても、という意味だよ。別途相談、というのは、基本はだめだってことだ。
しかも、いろんな経過報告とかの文を読むと、せっかく著作権という足かせから解放された文なのに、こんどはかれらは﹁入力者の権利﹂﹁校正者の権利﹂なんていうことを言い始めている。そういう権利にとらわれず自由に使える文が目的じゃなかったの? 自分で手かせを増やしてどうすんの? 青空目指していっぱい屋根つくってるじゃないか。まったく、さっさと優れた OCR ができて入力なんか自動化できるようになんないものか。
そしてそれがしょぼい印象をつくってる。つくる側への﹁配慮﹂が多すぎるのね。ぼくは権利ってまちがった考え方だと思うので︵ねえニーチェちゃん︶、あんまりそんなものにとらわれてる人を見ると、なんかヘコヘコしてて惨めったらしいような印象を持っちゃう。それとつくる側の権利しか考えてないでしょう。ユーザ側としてはそんなの楽屋の舞台裏だからどうでもいいのよ。
フリーソフトの世界では、そのソースコードをつかってなにができるか、というのがライセンスをめぐる議論の焦点になっている。それがいちばん大事なところだ。見せるけど使うなよ、というライセンスとか、見せるし使ってもいいけど金儲けしたら上前はねるぞ、というのだってあるし。青空文庫のテキストは、その大事なことがぜんぜん考えられていないのだ。
そして、校正者だの入力者だのいろんな権利に配慮しているようなことはいろいろ書いているんだけれど、でも実は配慮してない。新潮社の一件では、相手の出版社がバカ正直だったから、まあそれですんだ。でももしどこかの出版社が、断りなしにデータを使って出版しちゃったら? ﹁いや、あたしゃ自分のとこで入力しましたんで、へえ﹂と言われると、たぶん反論するのはむずかしかろう。そこの出版社があたまよくて、ちょっと独自の誤植を追加しておくかなんかすれば、もう手も足もでないんじゃない? ﹁ほら、誤植箇所がちがうでしょ。別物なんですよ﹂と言われればおしまいではないの。つまりいまの状況というのは、使う側の良心に頼っている。青空文庫は各方面の権利を重視しているみたいなかっこうはとっているけれど︵そして確かに著作権については妙に細かいけれど︶、実はそれを保護する具体的な手段は持っていない。志はともかく、それじゃ意味ないではないの。
プロジェクトグーテンベルグ︵PG︶は、そこまでちゃんと考えている。まず、かれらの提供している電子テキストには必ず法的な権利を明記したヘッダがついていて、なにをしてよくて、なにができないかについては明記してある。﹁プロジェクト名なんかを消せばなんでもあり。でもうちのプロジェクト名をつけるときは、きちんとしたテキストが入手できることだけは保証してあげてね。あと儲けたら上前はねるよ﹂。さらに、入力ミスのためになんらかの損害が生じても訴えちゃダメだよ、賠償しないよ、という条項があるのはアメリカちっくだなあ。かれらの場合、入力者はテキストに﹁おれが入力校正した﹂というのを書ける。それだけだ。ただし、PGの名前をつけて出版されるときには、自分の名前もちゃんと出る。
まず、とっても潔いよね、これは。基本的には、もう好きにしてよい、という方針だ。本にしても、出版して儲けても、配っても、風呂にいれても鼻をかんでもかまわない。入力者に相談しなくたっていい。PGにあいさつしなくてもいい。
ただし、PGの名前を使うときには、それなりの作法は守ってもらうよ、という話なんだけれど、その場合でもかれらがいちばん気にしているのは、きちんとしたテキストファイルが読者に提供されることなんだ。えらいなあ。PGの名前をつけてこれを出すなら、欠陥があったらかならずちゃんとしたものと交換することだけは保証しなさい。あと、ファイルをフォーマット以外で変えたりしちゃだめで、この規定︵入力者やファイル作成者の名前も入っている︶もちゃんとつけておくこと。そしていちばん最後になってやっと、儲けたら︵商標の使用料として︶上前はねる︵でも儲からなければなにもいらない︶というのがきてる。そしてこの場合にも、この作法さえ守れば、別に事前にPGの許可とったりなんてことは、まるでしなくていいんだ。
でもこれは考えてみると、不思議なやりくちだ。こんなことなら、﹁じゃあPGの名前なんか使わないほうがいいや﹂とだれでも考えそうなもの。でも、﹁これはPGからきた電子テキストです﹂と表示しておくことで生じる付加価値ってのも、あるのかな? PGだから正確にちがいない、というのとか? 実際にあがりの一部を送ってきたところってあるのかな? これはきいてみたいところだ。が、これは余談。
もちろん、やってみてはじめてそういう問題がわかる、というのはある。それは結構だし、だから新潮社との一件でそこらへんを考えるのかな、と思ったけれど、どうもいまだにそっちのほうに考えがいってないみたい。不安だな。またなんか起きるよ、必ず。
付記: ……というようなことを書いたら、きちんと受け止めてくれたようで、1999.07 くらいにいっしょうけんめいいろんな基準をつくって、いまは商業利用も含めて扱い自由、という非常にしばりの少ない条件を整備してある。えらいね。
たとえばぼくは、大見得切った手前、いまデカルトくんの文章を訳しているんだけれど、デカルトくんの文はいまだにいろんな人に直接影響力を持っている。われ思う、故にわれあり。みんなまあ﹁方法序説﹂を読んだわけじゃない︵だろう︶。でも中学生ぐらいのときに、まともな子なら一度くらいは自分の存在の根拠とか、そういうことに思いをはせるはずだ。そこで必ずデカルトの思考プロセスを、大なり小なりなぞることになるんだ。﹁ぼくは別にとくに頭がいいわけじゃないし、ふつうに考えられることをふつうにつきつめて考えてみただけだけど、考えるというのはどうやってやればいいんだろうか﹂という話から入って、ものを考えるプロセスをいろいろやってくんだけれど、それはまさに現代的なものの考え方で、いまなお、この日本にあっても、日々繰り返されている思考だ。
あるいはいま、アダム・スミスくんを読んでみると、まあちょっと古びてはいるけれど、でもいまも十分そのまま通用する。このまま経済学の教科書に使っても、まあいいかもしれない。これを高校生に読ませたって、フンフンと言ってわかるはずだ。マルクスくんだってそうだ。共産党の連中がいっしょうけんめい小難しくしちゃってくれてるけど、﹁資本論﹂にせよ﹁共産主義者宣言﹂にせよ、まあ読んでいまに通用するだろう。そして、それがなんらかのかたちで、いまのぼくたちのものの考え方に直結しているな、というのはわかる。ファラデーくんの﹁ろうそくの科学﹂は、いまそのまま小中学生の夏休み自由研究にできるだろう。そこにはある科学的な手続きのベースがあるし、それはいまの世界を動かす考え方にも直結している。
つまり、こいつらをいま日本で読むことには、ちゃんと現代的な意義があるし、そこで読んだことは直接いまに役にたつわけ。だから、こいつらを日本語の電子テキストにして配りまくるのは、とってもだいじなことなんだ。
支那やインドでもいい。孔子くん︵と書くのは支那語的に正しくないはずだけど、まあいいや︶や老荘思想を見れば、これまた現代のある種の思考に直接影響しているのは明らかだ。ゴータマくんとかのいろんな物言いもそうだ。毛沢東くんは、うーんどうだろう。かれの書き物って、戦術的なはなしと戦略的なはなしが必ずしもきれいにわかれてないでしょ? だからそこらへんがよくわからんのだ。が、まあ見込みはある。
ところが日本の場合だとどうだろう。﹁方丈記﹂はすばらしいとか、﹁枕草子﹂が、諸行無常のなんとか、というのはある。でもそれは思考への影響というより、もっと感性として日本チックねー、というものじゃないか。本居宣長くんの本を読んで、現代にそれが影響していると思えるだろうか。絶対ないね。もちろん、じじいが本居宣長を読んでなんのかのと理屈をこねることはある。﹃現代に生きる宣長﹄とかいう本を書いちゃったりも、できなかないだろう。でもそれは、重箱の隅をつつけば似たとこもあるなあ、という話だ。あるいは安藤昌益くんが書いたものを読んでも、こういう変なことを考えていた人もいたんだなあ、というくらい。それが現代的な意義をもっているだろうか。くやしいけど、いない。いまかれの本を読んで、﹁土活真﹂とかいってなにかエコロジスト的な思想の萌芽を見る、というのはあるだろう。でも、それが現代の︵ぼくのきらいな︶エコロジスト的なお題目に影響を与えているとは絶対にいえない。ホウホウ、昔の田舎者が、なかなか地道にがんばっていたねえ、という感慨しかない。たまたま似たようなことを考えた人もいたんだねえ、くらいの話。
日本の青空文庫に入れるような文章で、いま、デカルトくんやニュートンくんなんかとためをはるような現代的な意義をもった文章って、あるか? ないだろう。一つも。さらに決定的なこと。いま、ふつうの英語圏の人間なら、18世紀のアダム・スミスの文章をそのまままともに読める。ところがおれたちポンニチはだねえ、18世紀の文章はおろか、19世紀の文章だってまともには読めないのよ。電子化されてるとかいう以前の段階で、文化の伝搬が決定的にとぎれちゃってるのだ。
確かにもちっと新しいところにくれば、日本人の文だって現代のものの考え方にインパクトをもってくる。読んだときに、ああ、おれの考えていることとか、世間的に考えられていることと直接関係があるなあと思われることはある。丸山真男くんを読んで﹁おおっ﹂という感じで現代的な刺激はある。ぼくはないけど、吉本隆明ちゃんを読んでそれが根っこにある人ってのもいるはず。湯川秀樹先生や朝永振一郎先生、遠山啓先生、初期の岩波新書なんかに書いてるような人たちの文も、いまのものの考え方と直結してるのはわかる。でも、これが青空文庫に入るのはかなり先だ。
そしてそれ以外にもなんかあるような気がする。たぶんある時期に、小田実ちゃんとかの本を読んでそれなりに影響を受けた人もいるんだろう。でもたぶん、今後あれが復活することはありえない。ところが、たとえばサルトルくんの本とかだと、いまは昔ほどははやっていないけれど、たぶんいずれどこかでどーんと読みなおされて復活するだろう。この差はなんだろう。
いま挙げた大きなポイントは二つある。
●日本の古いものは、ことばがちがうのでそのまま読めないこと
●日本の当時の気分を描いたようなものはあっても、いまに至るものの考え方を決定的に変えたと思えるものがないこと。
ついでに、こういう決定的にものの考え方に影響したと思われる人には男しかいない。なぜかな。ああ、フェミニストどもは、ローラ・ルクセンブルグちゃんはどうだとか、エイダ・ラブレスちゃんはどうだとか、ボーヴォワールちゃんはどうだとかいろんなものをほじくりだしてくるだろう。でも、それはさっき挙げた安藤昌益くんと位置づけとしては似たようなものになっている。これはぼくが、斉藤美奈子ちゃんが﹃紅一点論﹄で鋭く分析したみたいな思考にとらわれているせいかもしれない。男社会の陰謀なのかもしれない。が、これは余談。
さて、ここまで読んでみんな最初の話を忘れちゃってるだろう。これは、なぜ青空文庫はしょぼいか、という話だった。でも、これでなんとなくわかるんじゃないか。安藤昌益くんの全集があるよりも、平家物語全文が入っているよりも、﹃種の起源﹄や﹃方法序説﹄や﹃論語﹄があったほうが、いまのぼくたちにとって効用が高いんじゃないか、ということ。そして、そういうのが含まれず、古い日本の文章を主体にしている青空文庫は、どうしてもローカルな印象がぬぐいされないということ。これは青空文庫の責任じゃないんだけれど、でも事実だ。郷土史家は喜ぶかもしれないけれど、そこまでって感じ。
これは結局は、ぼくたちの文化がやっぱりローカル文化だ、ということでもある。シナ文化のローカル文化だったり、欧州文化のローカル文化だったり。それはとってもくやしいといえばくやしいんだけれど、でも、そこを無視して話は進まない。なんか、そういうことだ。それを脱することができるか? こんなことを考えること自体、いかにローカルな田舎者かというのを物語ってはいるのだけれど。
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