書籍「ゲームの歴史」について(4)
2023年2月23日
このテキストは岩崎夏海・稲田豊史両氏による﹃ゲームの歴史﹄の1、2、3の中で、ゲームの歴史的に見て問題があり、かつ僕が指摘できるところについて記述していくテキストだ。
該当の本は、ハッキング・箱庭・オープンワールド・疑似3D・2Dなどの通常のゲーム&コンピュータ用語に筆者の独自解釈が含まれていて、それを筆者の都合に応じて定義をいじりながら論を展開するために、極めて独特の内容になっている。
例えば3D描画で背景をテクスチャで埋めると3D+2Dの疑似3Dになると言われたら、普通のゲーム屋なら目を白黒させるだろう。ただ、それは筆者の主張なので﹁自分はそこは批判はしないが、筆者の見方には全く同意できない﹂とだけ書いておく。
なお、該当の本の引用部は読みやすさを考慮してスクリーンショットからonenoteのOCRで文字の書きだしをしたものを僕が修正したものになっている。なので校正ミスで本文と若干ずれたり、誤植がある場合があるかも知れないが、そこは指摘いただければ謹んで修正させていただく。
●﹃ちょっとは正しいゲームの歴史﹄を国会図書館に納本しました
●ゲームレジェンド新刊﹃ちょっとは正しいゲームの歴史﹄できました
●書籍﹁ゲームの歴史﹂について(12/終)
●書籍﹁ゲームの歴史﹂について(11)
●書籍﹁ゲームの歴史﹂について(10)
●書籍﹁ゲームの歴史﹂について(9)
●書籍﹁ゲームの歴史﹂について(8)
●書籍﹁ゲームの歴史﹂について(7)
●書籍﹁ゲームの歴史﹂について(6)
●サンクリの新刊
シリーズは以下のリンクを読んでいただきたい。
また、このテキストの引用元になった本は2023/2/6 に購入したkindle版である。
特別編
﹃E.T.﹄で大失敗したアタリ社の惨状を見て、多くの人は﹁家庭用テレビゲームのビジネスは難しい。まだ早いのではないか?﹂と考えました。 しかし任天堂の山内は、逆にこう考えます。 ﹁アタリ社がテレビゲーム市場にいなくなったら、その場所が空くじゃないか!﹂ その空いた場所に座るのは、他でもない、山内が率いる任天堂というわけです。 岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p132) 講談社.Kindle版. 前回の文末で﹁あと、カバーに使った画像はいくら調べても山内社長がそのようなことをいった、もしくはそれに近い指示をしたというようなソースが全く見つからなかった箇所だ﹂と書いた箇所だ。 これについて、前回は長すぎてウンザリしていたのもあり、取り上げなかったのだけど、どうしてこれのソースがないと筆者に向かって質問を発したのかについて理由を説明すると同時に、おかしいところを書いていきたい。 まず、このテキストの事実に照らしておかしいところを指摘しておきたい。 任天堂がファミコンを発売する前に、1981年にエポック社が﹁カセットビジョン﹂を発売しており、83年の秋時点で40万台前後を売っており、カセット型ゲームマシンとして一定の地位を築いている。 次に1982年にトミーの﹃ぴゅう太﹄、タカラ=SORDの﹃M5﹄といった、ROMカセットによってゲームやアプリが提供されるホームコンピュータが供給されるようになっている︵﹃ぴゅう太﹄は商売としては成功したとは言い難いが、﹃M5﹄は間違いなく一定の地位を築いている︶。 こういった市場の状況で﹁多くの人が家庭用テレビゲームビジネスはまだ早いのではないか?﹂などと考えるかと質問するなら、その答えはノーだ。 むしろ、カートリッジ型ゲームマシンの時代は終わって、次の世代としてゲームと実用を総合したホームコンピュータがやってくると思われていたのが当時だ。 だから﹁ファミコンとその時代﹂でも、当時はビデオゲーム機ではなくホームコンピュータがゲームと実用を担うと考えられていたので、ファミコンもちゃんとホームコンピュータですよという風に肩を並べるため別売のキーボードとBASICをアナウンスしたと書かれている。 それに社長が訊くで﹁任天堂はカセット式のゲームマシンでは最後発だった﹂と上村先生が述懐しているのだが、読んでいないのだろうか? いったい﹁多くの人が考えた﹂とは、どこからやってきたソースだろうか。 と、歴史的な流れに即したとき、おかしいところを指摘したところで、さらに疑問がある。 山内社長が考えた、としている内容だ。 本書には、このように、あたかも誰かがその時思っただの言っただのと断言するところが多数あり、僕は﹁似たようなことを言っているソースがあるのか﹂と探し回って発見できないことを繰り返しているのだが、作者は、自分のノートで以下のように述べている。 ぼくは、この﹃ゲームの歴史﹄を書くにあたって、足かけ6年もの時間をかけた。その間、参考資料として数えきれないくらいのゲーム関連書籍や記事を読んだ。 ゲームの歴史を書くとはどういうことか?(文脈くんより) ただし、かといってぼくの妄想を書き連ねた﹁フィクション﹂にするつもりはなかった。﹁歴史﹂と銘打つ以上、事実を無視したり、憶測を暴走させるようなことはしてはならない。事実はきっちりと踏まえながら、しかし隠された相関関係が解き明かされ、現実にある﹁ゲーム﹂への理解が進むものにしようと思った。 ゲームの歴史を書くとはどういうことか?(文脈くんより) どちらも無料だったものが、あくる日の朝に突然有料になっていたノートだが、僕はクリップをしており、引用させていただいた。 こうまで書いているのだから、引用した部分は﹁妄想﹂でもなく﹁フィクション﹂でもなく﹁憶測を暴走させたわけ﹂でもなく、﹁事実はきっちりと踏まえて﹂、山内社長がこう言った、もしくは指示したとする何らかのソースがあるのだろう? という話になる。 なので﹁このテキストを、山内社長が似たようなことを語ったソースがある﹂と仮定する。 これだけ事実に立脚していると断言している作者だ。ないなんてことはないだろう。 では、これをいつ山内社長が言ったとすると合理的なのか? 山内社長が語ったりあるいは指示される範囲は、1982年後半-85年のどこか以外ありえない。 なぜならファミコンは様々な証言から81年の末に上村先生が山内社長から作れと言われ、82年初頭からリコーと共同でチップの開発が始まり、82年6月にファミコン本体の開発が始まり、83年7月に発売という流れで、そして1985年に任天堂は本格的にアメリカ進出を開始する。 だからこの時期しかありえないわけだ。 これは様々な著作、さらにハドソンがファミリーBASICを請け負った時の話などから動かしようのない事実だ。 では、それぞれの時期について仔細に検討してみる。 1982年は問題外。アタリはまだ絶好調で、いわゆるアタリショックが起こっていないからだ。 1983年はアメリカでは、いわゆるアタリショックが進行している真っ最中。どこまでクラッシュするのかもわからない状況だ。 そこでこんなことをいったのか? と言われたら、んなわけないだろうと思うが、さらに仔細に検討してみよう。 日本では1982年末の年末商戦の主力商品と期待されていたLSIゲーム、任天堂ならばゲーム&ウオッチが思いもかけず売り上げが伸びず、そしたファミコンは開発している真っ最中で、しかも次の商品は﹁ホームコンピュータだ﹂と目されていた時代だ。 上村先生の証言 そうです。あと、マスコミ向けにファミコンを発表したときも新聞などの反応がとても冷たかったんです。どこにもキーボードが付いていなかったので・・・。 社長が訊く﹁スーパーマリオ25周年﹂ (nintendo.co.jp) こんな状態なので任天堂は1983年初頭にBASICを載せる決定をしたりと、まだ随分仕様がふらついている時期で、発売前にこんなことを言うはずもない。 そして1983年7月にファミコンが発売されてからあとは、ずっと供給で苦戦し、また思ったより売り上げも伸びず一時かなりの安売りまでされるようになる︵﹁ファミコンとその時代﹂に7000円まで下がったと赤裸々に書かれている︶。 これに追い打ちをかけるように、期待をかけていた83年末にはチップの熱問題で出荷停止&回収。 この状況で、引用した山内社長のセリフが出てくるわけもないだろう。 1984年はというと秋ごろには100万台を超え︵これがいつ超えたかは極めてあいまい︶、ようやくビジネスが軌道に乗り出すが、今度は予定していないサードーパーティの登場で社内はドタバタだ︵全く想定していない上に、それが2社も現れて、ドタバタになっているのである︶。 そして上村先生の著書によると、84年9月頃からようやくアメリカに進出するという案が検討され始めているという話だ。 だから山内社長が仮に引用したようなセリフを言ったとしたら、1984年9月-12月ぐらいしかありえないことになる。 しかも、まだおかしいところがある。 1985年1月のCESに出品したときは、最終的なNESの形と全く違うキーボードまでついたホームコンピュータ形式で出品されているのだ。 つまり﹁アタリの市場に入ろう﹂というよりは、当時のアメリカで主流になっていたホームコンピュータの形の方が望ましいのではないかと判断して出品しているわけだ。 そして、この時の反応を受けて、慎重に受けやすいようにハードの形を変えるなどの手間をかけたのち、展開を開始しており、しかも85年はパイロット販売で売った台数はたったの5万台。 とても山内社長がこんな威勢のいいセリフを言ったとは僕は思えない。 なので、筆者には、ぜひ、これのソースを示していただきたいと思っている。 ﹁いったい、いつの、どこからやってきたソースなんですか?﹂第6章 ファミコンの誕生と﹃スーパーマリオ革命﹄
ファミコンの集大成﹃スーパーマリオブラザーズ﹄
︵前略︶ しかし、やはり本体の作りに無理があったのか故障も多く、また利益率も低かったので、発売から2年が経過すると、やがて﹁新しいハードを出したい﹂という意見が任天堂社内から出てきます。 ︵中略︶ 当時のロムカートリッジの問題は、容量の小ささーーすなわち入れられるデータの少なさでした。 岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p140) 講談社.Kindle版. 発売から2年と言うと、85年7月頃の話になる。 ﹁本体の作りに無理があったのか故障も多く、利益率も低かった﹂から新ハードを作りたいという意見が出てきて、作ったのがファミコンを拡張するディスクシステムでは、本体の故障率が改善するわけもないので、全く問題の解決になっていない。 どうなっているんだと思うが、こんな程度の矛盾は筆者の標準なので、指摘だけして先に進む。 ディスクシステムを作った理由は﹁容量だ﹂という話なのだけど、実は任天堂はROMの容量だけを問題にしていない。 では何が他の理由なのか? ここで僕が最もファミコン開発の記事を書くときのメインの参考資料にしている日経XTECHを引くと、このように書いてある。 ディスクシステム開発のきっかけとなったのは、ソフト・メーカのハドソンが任天堂に持ち込んだICカード構想である。ファミコンを発売して約2年が経過し、300万台以上を出荷したころ、任天堂は一つの壁にぶつかっていた。5000円もするマスクROMのソフトを今後も5本、10本と子供が買ってくれるのか。パズルのような手軽なソフトを安価に供給しなければネタ切れになってそっぽを向かれるのではないか。こうした強迫観念が頭をかすめたという。 スーファミに引き継がれたROMカートリッジ | 日経クロステック︵xTECH︶ (nikkei.com) ここにハドソンが書き換え可能なICカードを売り込んでくる。 ハドソンはこのICカードを書き換えることで、お手軽にゲームを書き換えるビジネスを展開しようと、ダミーのデタラメなハードをマイコンショーで展示して売り込んでいた時期で、当時サードパーティとして懇意にしていた任天堂に持ち込んでもなんの不思議もない。 というか、このあとPCエンジンのチップも持ち込んでいるし、普通に考えて最初に持ち込むところの1つだ。 これはBeeカードと呼ばれる仕様ではあちこちがPCエンジンのHuカードに引き継がれるのだけど、それはともかく、任天堂が最も重視したのはカートリッジの価格だったと、この記事では伝えている。 確かにその理由はわかる。 当時は5000円というとかなりお高い値段で、主力ターゲットユーザーだった小中学生にとってテレビゲームはお年玉・クリスマス・誕生日ぐらいしか買ってもらえるものではなかった。 これはゲーム業界の人間の共通の認識だったと思う。 だからマル勝ファミコンのSさんはゲームの値段と雑誌の値段をものすごく気にしていたし、僕が1987年に初めてハドソンの中本さんと会った時、中本さんは僕に﹁子供がお年玉やクリスマスで使える金を考えると5000円を守りたいんだべさ﹂と言っていた。 これらは任天堂が価格を重視した理由ともとても一致する。 そして、XTECHによると、この時のハドソンのカードの売りは﹁簡単にICカードの中身が書き換えられて、安くソフトが売れる﹂だったので、これからヒントを得た任天堂はカードの書き換えで安くソフトを提供できるなら子供が沢山買えるし、様々なソフトを出すことが出来るというので、調査を始める。 だけど、ICカードは高すぎるということで頓挫する。 それでもっと安いのじゃないとダメだという事で、探して見つけたのがクイックディスクだったわけだ。 つまり書き換えできるメディアでファミコンに実装出来るぐらい低コストなものを探して見つけたら、それが当時のROMより容量があったという流れなのだ。 ただし価格の問題で磁気メディアに狙いを定めたところで、磁気メディアは当時のROMより容量があるのは当時は当たり前だったので、スタッフは容量が大きいのは想定していただろうが、なんにしてもROMの値段を問題視していたとき、ハドソンのカードを見て、書き換えなら安く出来ると考え、書き換え出来るメディアを探した結果、クイックディスクに行きついた、という話だ。 任天堂は一言もしゃべっていないが、QDの採用例としてシャープのMZ-1500(1984発売)があり、任天堂とシャープの関係を考えれば、事情を聞いていないわけはないと思っているが、これについての証言は残念ながらどこにもない。 ところで、これについては上村先生自身がいくつか別のことを喋っている。 まず、御本尊の任天堂のホームページでは﹁容量が限界に来ていた。だからディスクを考えた。価格の問題などを考慮した結果、クイックディスクになった﹂とこういう話だ。ご指定のページが見つかりませんでした。|任天堂
www.nintendo.co.jp
また﹁ファミコンとその時代﹂では、書き換えの部分を大きく取り上げ﹁書き換えられることによってゲームの低価格化と、さらにユーザーの選別を強化して、ダメなゲームを除外すると考えた﹂となっている。
では、どれを正しいと思っているのかと言うと、実は僕はこれまたXTECHが一番事実に近いと思っている︵どうしてXTECHを重視するかは最後にオマケでつけておいた︶。
そして、XTECHの記事を中心において、総合した結果、以下の流れだと推測している。
●任天堂は、当時、5000円は子供にとって非常に高額なこともあり、カートリッジの価格の問題を強く意識していた。またソフトの出来のバラツキも問題視していた。
これは85年の7月以降の話で、ファミコンブームの一つのピークに到達して、大量のソフトが供給されており、それを不安視するのも理解できる。
●ハドソンのICカードを見て、書き換えにして安くすれば子供も買いやすくなり、なおかつ出来の悪いソフトは書き換えられないので、結果的に淘汰出来ると考えた。
●でもICカードが高すぎるという問題があり、ならば磁気記憶媒体にしようと考えた。
当然、ここで容量も多く、制限が減ると考える。
●5インチも3.5インチも価格が問題外。
当時、3.5インチは登場したところ。あとシャープが3インチを推していたのも影響した可能性がある。
●QDが見つかる。
容量が3倍あり、安い。細かいデメリットを十分に克服できると考えた。
ではなぜ容量の話が一般には語られているのか?
一般に話をする上で、価格に意識があった︵流通問題︶話とハドソンの話はとてもやりにくい。
流通問題で﹁値段を安くして書き換え可能にすれば、クソゲーは結果的に減ると考えました﹂なんて、ある種サードパーティに喧嘩を売るような話はやりにくい︵淘汰されると考えたというのは﹁ファミコンとその時代﹂に本当に書いてあり、またサードパーティが文句を言う施策だと思ったとも書いてある︶。
それに﹁ハドソンのICカード見て検討を始めた﹂って、端的に書けば企画の横取りだ。間違ってもいただける話ではない。
だから当たり障りがない容量の話がメインになるのはとても納得が行くし、事実、当時としては容量が大きかったし、登場するときは容量と書き換えが柱だったのだから、広報的にもそれが中心になる、というわけだ。
もちろん上記は推測だが補強証拠はある。
上村先生の﹁ファミコンとその時代﹂では、ディスクシステムについては容量の話はほとんど触れられておらず、むしろ流通対策であったという話の方が強調されているのだ。
だから、僕はこれは正しい推測だろうと思っているのである。
というわけで、引用部の前半部は意味不明の矛盾したテキストになっていて、後半部は少なくとも上村先生の﹁ファミコンとその時代﹂と日経XTECHを読めば、単純に容量だけではなかったのではないかと判断できるのはあきらかなのだから、筆者はまるでちゃんと調査していませんよねというお話であった。
でも、16×16ドットで上半身と下半身をそれぞれ作り、2つをくっつけて同時に動かしたら、どうなるでしょう。そう、16×32ドット、つまり2倍の大きさのキャラが動いているように見えるのです。
当時、﹃スーパーマリオ﹄をプレイした子どもたちがまず驚いたのは、このキャラクターの”大きさ″でした。
ゲームスタート直後、マリオがブロックを叩くと出てくる﹁スーパーキノコ﹂を取ると、マリオが2倍の大きさの﹁スーパーマリオ﹂になります。当時、小さなキャラクターをチマチマ動かすことに目が慣れていた子どもたちは、それたけでもう興奮したのです。
﹁うわ、でかい!﹂
岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p145) 講談社.Kindle版.
これは﹁驚くべき工夫の嵐﹂に書かれている一節だが、指摘する僕としては﹁こんなことを指摘しなければならないのか﹂と情けなくなってくる文章だ。
﹃スーパーマリオ﹄以前に、縦に2つスプライトを繋いでキャラクタを大きくしているファミコンゲームで16×16以上で、人が動くゲームを以下に並べていく。
﹃テニス﹄、﹃ゴルフ﹄、﹃アーバンチャンピオン﹄、﹃イー・アール・カンフー﹄、﹃スパルタンX﹄、﹃レッキングクルー﹄、﹃ハイパーオリンピック﹄、﹃エレベーターアクション﹄、﹃フロントライン﹄、﹃ピンボール︵ボーナスステージ︶﹄などがある︵人でないので数えていないものもある+見落としがある可能性もある︶。
これらのなかには縦24ドット、縦32ドットなどが混在しているが、いずれにしても16×32は、人の形をしたものが動くゲームでは、全く当たり前のサイズで大きさに驚くようなことはありえない。
さらに、もう一つ重要なことを書いておくと﹃レッキングクルー﹄と﹃ピンボール﹄で大きなマリオは既に登場している。
どちらも見ただけで﹁でっかいマリオ﹂であり、全く筆者の調査のしなさ加減には呆れてしまう。
驚くとしたら、それはキノコを取って大きくなる演出が優れていたのであって、当時の作り手だけでなく、プレイヤーまでもバカにしたセリフだと思う。
この文章を読んで、本当に情けない気持ちになったので、こんな情けない文章を二度と書かないように筆者には猛省を促したい。
まず、﹁ハードで利益を得なくても、ソフトで稼けばビジネスになる﹂という考え方は、ファミコンから生まれました。
それまでのゲーム産業は、基本的に﹁ハード商売﹂です。できるだけたくさん高額のハードを売って、その利益を頼みにしていました。
アタリ社がその代表格です。
岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p145) 講談社.Kindle版.
ATARI VCSはカセット交換式のハードで、アタリが1980-82年に凄まじい利益を叩き出したのは言うまでもなく、カートリッジを沢山売ったからだ。
さらにATARI VCSのソフトを作って売っていたサードパーティ、例えばアクティビジョンは何でお金を稼いだのか?
カートリッジに決まっている。
では、なぜそれが成り立つ思ったのか?
ATARI VCSがカートリッジを売ることで猛烈に儲けていたからだ。
もう一つ書いておくと、アクティビジョンはアタリを辞めた人たちが作った会社だ。
つまりアタリがカセットで儲けていると知っていたのだ。
つまりカセット交換式にしてカートリッジを売ればビジネスになるのを決定的な形で示したのはアタリでそれを示したハードはATARI VCSだ。
引用部は二重に間違っている文章なのだ。
筆者はアメリカの商習慣だけでなく、ATARI VCSの利益構造も、ブッシュネルは﹁ソフトのカートリッジを売ることでビジネスが成り立つと自信を持っていた﹂という、今でいうプラットフォームの考え方を持っていたということも調べずに書いているのだろうか?
信じがたいレベルの情けない文章で、筆者は猛省していただきたい。
なぜ任天堂は、これまで誰もしていなかった﹁採算度外視で安くばらまく﹂ということができたのでしようか。実は、任天堂はファミコンソフトを開発する各メーカーと、ロイヤリティ契約を結んだということが大きな要素として挙げられます。
ロイヤリティとは、権利を持つ人に支払う対価のこと。任天堂は、ファミコンソフトを開発したいメーカーに対して、以下のような姿勢で臨みました。
﹁私たちは、莫大な開発費をかけてファミコン本体を作った。しかも、赤字すれすれの低価格で販売している。なので、そのファミコンで動くゲームを売って儲けたいなら、ロムカートリッジを1本製造するごとに、決められた金額を私たちに支払ってほしい﹂
このように、﹁ハードではなくソフトで儲ける﹂やリ方は、後にソニーコンピュータエンタティンメント(現ソニー・インタラクティブエンタティンメント)がプレイステーションで模徹し、以降もゲームビジネスの基本として定着していきます。
︵イノベーションのジレンマだのと無駄な語りが入るので略︶
ここで、山内が構築したファミコンピジネスの概要を見ていきましょう。
ファミコンのソフトは、ロイヤリティ契約を結んだ他のメーカー(これを﹁サードパーティー﹂といいます)も発売することができましたが、その際に必す、任天堂による内容の審査を受ける必要がありました。
さらに任天堂は、サードハーティーと工場、そしてゲームショップとの間にも介人する仕組みを作りました。そうすることで、ソフトの製造・流通を管理していたのです。
︵中略︶
また、各ソフトの製造本数は、それを請け負う任天堂が決定権を握っていたため各社は必ずしも希望の本数を販できませんでした。
岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p149) 講談社.Kindle版.
任天堂が薄利でファミコンを売ったのは間違いないが、採算度外視ではない。
それはともかく、任天堂が今のビデオゲームにおけるビジネスの基本、生産委託契約を確立したのは間違いない。だが、その過程について筆者が書いていることはほぼ全て間違っていると考えて構わない。
また筆者は用語もおかしい。
任天堂が組み立てたビジネスモデルは﹁︵任天堂に︶ROMの生産を委託するモデル﹂であり、ロイヤリティ契約ではない。ロイヤリティ契約は任天堂が排除していった契約形式だ。
SCEが同じ形式の契約にしたと書いているのだから、そもそもの契約の形を筆者は間違っているのだが、そこらへんまで含めて以下に説明したい。
この記事を読んでいる方なら、ご存じだろうが、そもそもファミコンにおいて任天堂はサードパーティを想定しておらず、全てのソフトを自社で供給するつもりだった。
それがファミリーBASICを作ったハドソンが自社で開発機を製作して、1984年の春に﹃ロードランナー﹄と﹃ナッツ&ミルク﹄を任天堂に持ち込む。これがサードパーティ第一号。
任天堂がハドソンに代わってカートリッジを生産する生産委託契約︵﹁ファミコンとその時代﹂ではOEM契約と表現されているので、若干違和感があるが以下OEM契約と表現する︶で、今に至るビジネス形態だ。
これと並行して、ファミコンが発売されてからあと、ナムコが自社でファミコンを解析して﹃ギャラクシアン﹄を任天堂に持ち込む︵多分、ハドソンより少し後︶。
この交渉は極めてタフなものだったらしいが、最終的な着地点は﹁ROMとカートリッジの生産はナムコで行う。ナムコは<ファミリーコンピュータ>を入れて︵FFマークと書いていたが、FFマークはもっと後︶、カートリッジ1本につき100円︵これには異説がある︶払う﹂というものだった。
つまりナムコのROMカートリッジ生産は一切任天堂に委託されていない。ハドソンとは契約の形が違うわけだ。
そして、この契約、ROMカートリッジ1本につきいくばくかの金を任天堂に払うという形式、すなわち筆者がいう﹁ロイヤリティ契約﹂が﹁ファミコンとその時代﹂で、なくしていったとされる契約だ。
ファミコンのビジネスモデルは﹁任天堂が責任を持って一手にROMを生産する。その代わり生産代金を払ってもらう。そして実際の生産費と払ってもらった金額の差額が任天堂の収益になる﹂であって、間違っても1本当たりいくばくかの金をもらう形式ではない。
だから筆者の使用している用語がおかしいと書いているわけだ。
どうして2種類の契約があるなんてことになったのかについては、社長が訊くで今西元総務部長が語っている︵﹁ファミコンとその時代﹂でも書かれているので、興味がある方はチェックしていただきたい︶。
ええ。当時はライセンスビジネスが確立されていませんでした。
ところが、たくさんの人から評価されるようになって、ファミコンがどんどん売れ出すと、当然いろんなところが﹁ソフトをつくりたい﹂と言ってくるようになるんです。
しかもファミコンソフトの特許があるわけでもないので、われわれとしては﹁ファミリーコンピュータは任天堂の商標です﹂という商標権だけで対応せざるを得なかったんです。
社長が訊く﹁スーパーマリオ25周年﹂ (nintendo.co.jp)
そして、ナムコのあと参入したアーケードメーカーはほぼすべてナムコに横並びの条件だった︵とされている︶。
これをライセンス契約を整えてOEM契約の形を標準にして、今に至るビジネス︵生産委託︶の形として作ったのは1986年になってからだったと、社長が訊くでも﹁ファミコンとその時代﹂でも書かれており、この話はナムコやその他のメーカーの証人の話とも一致している。
そして、契約更新が来たメーカーに対してOEM形式に移行していってもらったわけだ。
ではロイヤリティ契約でナムコが生産しているROMカートリッジの内容を任天堂が審査していたのか?
答えはノー。審査している訳もない。
だから社長が訊くで、今西さんが以下のように述懐するわけだ。
それと似たことが起こることをとても心配していたのですが、とうとう、あるメーカーが不良品のカセットを出して、回収騒ぎが起こってしまったんです。
任天堂にたくさんのクレームが寄せられて﹁これは問題や。なんとかせんとあかん﹂と。
そこで、任天堂がカセットを製造して、その品質を保証するというファミコンのライセンシー制度をつくることにしたんです。
完全にできたのは1986年の1月頃だったと思います。
社長が訊く﹁スーパーマリオ25周年﹂ (nintendo.co.jp)
どう見ても、審査などしていないからこの騒ぎになる。
なお、僕はこの今西さんの主張には若干の疑問があるのだけど、それはあくまで推測でしかない+ここで書くべき内容ではないので保留しておく。
次にOEM契約でも任天堂が審査していたのは少なくとも初期はバージョン問題だけだ。
内容に変遷があり、時期によっていろいろ変っているので一概に書くことは出来ない。
そういうところまで含めて筆者の書いていることは雑だ。
バージョン問題を簡単に書くと、生産時期によってハードには微妙な違いがある。そしてサードパーティは、そのすべてのバージョンで動くようにすることが求められていたし、任天堂でチェックがあり﹁ほにゃららで動きません﹂という報告が返ってきていた。
ところがナムコやタイトーといったロイヤリティ契約の自社生産のROMについては、そのチェックも当たり前ながら出来ない。
どうするのかというと、今でいうTRC(Technical Requirements Checklist)のように﹁ベースボールのようなバグを出さないために、以下の処理を入れてください﹂というFAXが、サードパーティに飛んでくる、あとはサードパーティがそれを守ってくれることを信じる、というシステムだった。
だから先ほどの今西さんのような話が出るし、タイトーの伝説的なゲーム﹃たけしの挑戦状﹄で、マイクの処理に問題があるために﹁マイクの挙動がおかしいときはこうしろ﹂とマニュアルに書かれるなんてことになる。
その任天堂から来たバージョン対策のFAXの実物を﹃ハドソン伝説2﹄で紹介しているので、興味があったら見ていただきたい。
ここまでを読んで分かる通り、ROMを独自生産していたロイヤリティ契約のサードパーティと工場の間に任天堂がはいるわけもない。
あえて書くなら、年間に出していいソフトの数の制約がライセンシーにあったが、これも86年のライセンシー制度が整ってからで、それより前は出し放題だ。
なお﹁ゲームショップとの間に介入するシステム﹂は筆者が何について書いているつもりなのか本当にわからなかった。
なぜなら流通は任天堂には有名な初心会があるが、これは任天堂と取引があった問屋の親睦団体でしかなく、これが力を持ったのはファミコンの流通組織として任天堂が使ったからで、一国一城の主の集合体でしかなく、任天堂は管理していない。それにこれは問屋の話だ。
ゲームショップ向けの施策ならば、金のマリオ像で有名な任天堂エンターテイメントがあるが、これの登場は1991年。SFC以降の話でしかない。
正直﹁いったい何のことを書いているんだ?﹂と思ったところだ。
一体、何のことを書いているのか、筆者にはぜひ教えていただきたい。
また生産本数だが、初心会・任天堂・サードパーティの間で話し合いがあったのは事実だが、任天堂は生産本数の管理などしていない。
では任天堂は何をやっていたのか?
工場のキャパシティには限界がある。
だから﹁87年の12月にウルトラクエストを300万本生産したいんですよ﹂と言った時、﹁それをやってほしいなら、マスター納品は87年6月になります﹂だったり、それとも﹁1カ月10万本ずつ30カ月の分納になりますがいいですか?﹂というような調整を行う、要は工場の生産スケジュールの調整が基本だったわけだ。
そして、注文を取るのは初心会の︵それぞれの︶問屋であり、これまた基本的にはその注文に任天堂は介入するわけもない。
ついでに書かせてもらうと、SCEが任天堂のビジネスの形を模倣したのは事実だが、セガもNECホームエレクトロニクスも同じようなビジネス形態だ。
その程度の事も調べずに書いているのか? と思ってしまう。
つまり、筆者はサードパーティがどのようにして登場したのかの歴史も、そして任天堂とサードパーティの関係も、そしてさらに任天堂と初心会…言い換えれば流通との関係もちゃんと理解せず、社長が訊くを読めばわかる程度の基本知識すら持たず、このテキストを書いているのだ。
ファミコンの歴史を書く上で基本の﹁キ﹂のレベルすら出来ていないお粗末な調査で書かれたお粗末な内容であり、猛省をしていただきたい。