書籍「ゲームの歴史」について(5)
2023年2月27日
2023年2月28日
![](http://www.highriskrevolution.com/wp/gamelife/wp-content/uploads/sites/3/2023/02/スクリーンショット_20230227_151414.png)
このテキストは岩崎夏海・稲田豊史両氏による﹃ゲームの歴史﹄の1、2、3の中で、ゲームの歴史的に見て問題があり、かつ僕が指摘できるところについて記述していくテキストだ。
該当の本は、ハッキング・箱庭・オープンワールド・疑似3D・2Dなどの通常のゲーム&コンピュータ用語に筆者の独自解釈が含まれていて、それを筆者の都合に応じて定義をいじりながら論を展開するために、極めて独特の内容になっている。
例えば3D描画で背景をテクスチャで埋めると3D+2Dの疑似3Dになると言われたら、普通のゲーム屋なら目を白黒させるだろう。ただ、それは筆者の主張なので﹁自分はそこは批判はしないが、筆者の見方には全く同意できない﹂とだけ書いておく。
なお、該当の本の引用部は読みやすさを考慮してスクリーンショットからonenoteのOCRで文字の書きだしをしたものを僕が修正したものになっている。なので校正ミスで本文と若干ずれたり、誤植がある場合があるかも知れないが、そこは指摘いただければ謹んで修正させていただく。
シリーズは以下のリンクを読んでいただきたい。
●﹃ちょっとは正しいゲームの歴史﹄を国会図書館に納本しました
●ゲームレジェンド新刊﹃ちょっとは正しいゲームの歴史﹄できました
●書籍﹁ゲームの歴史﹂について(12/終)
●書籍﹁ゲームの歴史﹂について(11)
●書籍﹁ゲームの歴史﹂について(10)
●書籍﹁ゲームの歴史﹂について(9)
●書籍﹁ゲームの歴史﹂について(8)
●書籍﹁ゲームの歴史﹂について(7)
●書籍﹁ゲームの歴史﹂について(6)
●サンクリの新刊
また、このテキストの引用元になった本は2023/2/6 に購入したkindle版である。
![](http://www.highriskrevolution.com/wp/gamelife/wp-content/uploads/sites/3/2023/02/スクリーンショット_20230213_221427.png)
第6章 ファミコンの誕生と『スーパーマリオ革命』
山内の﹁朝令暮改﹂がよく表れているエピソードがあります。かつて、アップルコンピュータが1977年に﹁Apple II﹂という家庭用パソコンを発売した際、サードパーティーによるソフトの販売をアップルが許諾制にしていたことを、山内は激しく批判していました。 山内の言い分はこうでした。﹁パソコンに対応したソフトを作るのは、書店に置く本を第三者である出版社が作り、店頭に置くようなもの。アタリ社のように、自由に作らせるべきだ﹂ しかし、先ほど説明したように、山内はファミコンビジネスにおいて、これと180度逆のことをやりました。ソフトの販売を完全許諾制・ロイヤリティ制にしたのです。 その理由は、第三者に自由にソフトを作らせていたアタリ社のアタリにクソゲーが多く、﹃E.T.﹄を引き金にしたアタリショックが起こったから。山内はこの状況を見て、考えをころっと変えたのです。 他にも、以前は﹁ゲームに著作権はない﹂と言い切っていたのに、後になって積極的に著作権を訴える側に回ったりもしました。 岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p161) 講談社.Kindle版. ここは最初から最後までほぼ間違った、そして、あらゆる意味で問題だらけの文章だ。 以下にその理由を書いていく。 第一にApple IIのソフトは許諾制ではない。というか、今までソフトを作るときに許諾が必要だったパソコンは存在しない。せいぜいがクリエイターIDが必要なので申請しなければならないOSがあった程度だ。 しかもApple IIはとてもオープンなハードで拡張コネクタの仕様まで含めて全て公開されていて、さらに基本のモニタープログラム︵ウォズニアクによって書かれている︶のソースも全て公開されている、 だからハードもソフトも自由に作ることが出来たし、もちろん売るのも自由で全く許諾などいらない。 だから回路図や基本プログラム部分を公開するハードは﹁和製Apple II﹂などと雑誌で呼ばれたりした。 だいたいコンピュータの最大の強みはプログラム出来ること=新しいアプリを作れることだ。そしてそれを売ることを防げるかと言うと防げるわけもない。 つまり許諾が必要だという基本が間違った内容だ。 そしてこれはずっとPCの世界ではごく当たり前のことで、当時、ホビーパソコンなどがオモチャの世界に近づいていて任天堂でも調査している時に、山内社長がそれについて知らないわけがなく、激しく批判している可能性があるはずもない︵﹁ファミコンとその時代﹂でホームコンピュータについて調査している一節がある︶。 この一文だけでも問題外で﹁山内社長の発言のソースはどこにあるんですか?﹂と厳しく問い正したくなるが、加えてこれが語られた時期を考えると、さらにおかしなことになる。 まず、この文章で︽他にも、以前は﹁ゲームに著作権はない﹂と言い切っていた︾と書かれているが、自分が調べた限りでは山内社長が語った﹁遊び方にパテントはない﹂以外で、似た言葉は発見できなかった。 だから、これは有名な﹁遊び方にパテント︵特許︶はない﹂の間違いだろう。 もちろん筆者が﹁ゲームに著作権はない﹂と言っていたソースを下されば、謹んで修正したい ﹁ゲームの歴史﹂と銘打つ本で、故人の有名なセリフについて、このような間違いをするとは随分失礼な話だと思うが、では、これをいつ言ったのかと言うと1979年。 インベーダーブームの後半で、任天堂もインベーダークローンを作っていた時に社長が言った言葉だ。 つまり1979年に﹁遊び方にパテントはない﹂といい、さらに1980-84年のどこかで山内社長はAppleを激しく非難したことになる。 ここで1977-79はありえないのかというと、ありえない。 アタリをひいて語っているのだから、1979年以降、もっと書けば1980年の方が正しいだろう。 なぜなら史上初のコンソールゲームマシンのサードパーティ、アクティビジョンはアタリ向けで1979/10に現れるのだ。たったの2ヶ月で山内社長が何かを言う可能性はとても低いのは明らかだ。 しかも﹁アタリ社のように自由に﹂もデタラメだ。 なぜなら、アクティビジョンが活動を始めるや否やアタリはアクティビジョンを訴えるからだ。秘密保持契約などに違反したというわけだ。そしてアクティビジョンはライセンス料を払うことでアタリと和解する。つまり﹁アタリのように自由に﹂という話もまるでデタラメなわけだ。 加えて、ここにさらに問題がある。アタリとアクティビジョンの最終的な和解は1982年。 つまり1980-81は﹁サードパーティがOKなのか?﹂は曖昧だったのだ。 となると、山内社長がこれを言ったのは、1982-83年ファミコン発売までの1年とちょっとしかないことになる。なぜなら筆者の理屈によれば﹁山内社長は朝令暮改でファミコンでコロっという事を変える﹂のだ。 そして筆者はサードパーティが最初から準備されていたと想定しているのだから、遅くともファミコンの発売時にはそういう考えになっているはずだ︵開発の段階からじゃないの? というロジックは一応忘れておく︶。 ところで山内社長は1983年のファミコンが発売される寸前に、ファミコンについての講演をしている。 その大意を簡単に述べれば﹁ファミコンはアーケードゲームを作っているメンバーがソフトを提供していくから売れる﹂。サードパーティの話も許諾の話も一言も出てこない。 今ではゲーム史の常識だが、ファミコンではもともと任天堂はサードパーティを想定しておらず、サードパーティは前回書いた通り、想定外の出来事で、法律的な防御がなかったこともあり、なし崩し的に認めざるを得なかった。 だから、サードパーティについていいだの悪いだのを山内社長が語ること自体が、まず考えられない。 結論としては、山内社長が何か他人がソフトを供給することをプラットフォームが許さないというのを非難する形で Apple IIについて喋るタイミングは1982-83の1年ほどしかなく、しかも83年の講演から考えれば、ファミコンの開発が始まっている82年にそんなことを言ったとはとても思えない。 つまり、この文章はデタラメであろうと僕は考える。 ところで、もしこれが筆者が勝手に作ったとするなら、筆者は故人である山内社長に捏造したデタラメで間違ったセリフを言わせたことになり、二重三重に失礼だし問題だ。 もちろん筆者は事実を重視する方なのだから、そんなことはないだろう。 いつ、どこで山内社長がこのような事を言ったのか、そのソースが間違っているかそれとも捏造なのは、まず絶対に間違いないだろうが、ぜひそのソースを示してもらいたく思っている。第7章﹁ドラゴンクエスト﹂という新しい風
ただ、カプコンにしてもコナミにしてもナムコにしても、あるいは﹃スペースインベーダー﹄のタイトーにしても、ファミコン以前からアーケードゲームを手がけていた会社です。つまりこの時期までのファミコンソフト市場は、基本的に﹁アーケードのゲームメーカーがファミコンに参入する﹂という構造で形成されていました。 しかし、そこにくさびを打ち込んだ会社がありました。エニックス(現スクウェア・エニックス)です。 岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p165) 講談社.Kindle版. サードパーティの参入順をソフトの発売で並べてみる。 ハドソン(PC︶、ナムコ、ジャレコ、タイトー、コナミ、デービーソフト(PC)、アイレム、エニックス。 エニックスが参入する1985年7月までの7社のうちの2社がアーケードではない。しかもアイレムはエニックスと同日参入なので実質的には6社。︵85/11と書き間違っていたのを修正+アイレムについて追記︶。基本的に、という言葉がついているので間違いとする気はないが、ずいぶんと雑な表現だとは思う。 また﹁くさびを打ち込んだ会社﹂と書いているが、例えばハドソンはこの段階で既に大ヒットソフトハウスで、押しも押されない人気を誇っていたわけで、この表現はどうなんだとも思う。 筆者の﹁史観﹂ではあるが、恐ろしくバランスが悪いのも事実だと思う。 事実上日本の史上初のパソコンソフトハウス、ハドソンは、ファミコン史上初のサードパーティで、史上初の生産委託契約︵OEM契約)を交わした会社で、かつまたファミリーBASICを製作し、﹃ロードランナー﹄で100万本越えを達成し、任天堂の﹃四人打ち麻雀﹄を制作して︵任天堂が持っていったが正しいが︶、史上初のビデオゲームの全国大会を行い、多分史上初のプロゲーマーである高橋名人を生み出した、ファミコン史上で特筆するに値する足跡を残したアーケードメーカーではない会社だが、全く触れずに﹁くさびを打ち込んだ﹂とエニックスについて書くのはどうなんだとは思う。 筆者がドラクエ好きなのは構わないし、それは史観の範囲ではあるだろうが、出来ている史観のバランスの悪さと知識の不足、さらに先人たちの成し遂げてきたことに対する敬意の無さは、読んでいて大変に気になるのは事実だ。 そんなふうに同作は大ヒットを記録し、以降は﹃ファミスタ﹄という愛称で、ナムコの看板シリーズになりました。こうしてナムコは、アーケードとファミコン両方の市場で、他メーカーからは一歩抜きん出た存在として、サードパーティー全体をリードしていくことになるのです。 岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p165) 講談社.Kindle版. ここはナムコの﹃ファミスタ﹄を取り上げたところだ。 確かにナムコのファミスタは﹃ベースボール﹄を大幅に改良した作品と言えるだろう。そして大ヒットを飛ばして看板シリーズになって、結果的に﹁ファミリーシリーズ﹂を作り出し、毎年データの変わった新しい野球が登場するという、コンソールの一つの流れを作ったのも間違いない。 そして﹃ベースボール﹄は筆者は知らないのだろうがアーケードのセガ発売・アルファ電子開発の﹃チャンピオンベースボール﹄の影響を受けているのは明らかだが。筆者は恐ろしいほどアーケードとPCに対する知識が貧弱なのは間違いない。 だが、これで抜きんでたと言われると﹃ゼビウス﹄どうした、﹃ドルアーガの塔﹄どうした? という疑問が出てしまうのは間違いない。 あくまで筆者の史観だということは前提にして、﹃ゼビウス﹄は言うまでもなくファミコンブームに火をつけた作品といって間違いないし、﹃ドルアーガの塔﹄は日本に攻略本ブームを引き起こしたゲームで、いわゆる裏技やさらに﹁裏面﹂といったギミックをブームにする決定的な役割を果たしたゲーム︵裏技は﹃ゼビウス﹄も大きく貢献している︶で、その意味では﹃スーパーマリオ﹄すら、ある種﹃ゼビウス﹄・﹃ドルアーガ﹄の後追いと言えなくもないソフトだ。 しかも﹃ドルアーガの塔﹄は裏技&攻略本ブームを起こしただけではなく、この当時、なじみの薄かったファンタジーの認知を一般層に広げると同時にパソコンのアクションRPGに強く影響を与えている、すなわち﹃ゼルダの伝説﹄が影響を受けていないわけがない、日本のアクションRPGやアクションアドベンチャのご先祖さまだ。 これについて一切触れずに上引用部のように書くのは、僕は筆者の史観は偏り過ぎてではないか、と強く異議を唱えたい。 ここで、堀井が生粋のプログラマーではなかったことが、逆に重要です。﹁プログラマーではないが、プログラムのことは分かる﹂スティーブ・ジョブズも宮本茂もこのタイプです。 ︵中略︶ ジョブズ・宮本・堀井の3人は、3人とも目分のいる業界にどっぷり浸かっている人間ではありませんでした。ジョブズはコンピューターオタクではなかったからこそ、コンピューター業界に革命的な製品をもたらすことができました。宮本はハード技術者ではなかったからこそ、今までにないゲームを発想することができました。 堀井も、プログラムを書けない、でもゲームは大好きというライターだったからこそ、﹁そのゲームデザインは技術的に難しい﹂などと最初から諦めることなく、自由な発想でアイデアを出していけました。 岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p169) 講談社.Kindle版. 堀井と書かれているのは堀井雄二氏。 確かに堀井雄二氏は生粋のプログラマであったかというと、そうではなかっただろう。だが﹁プログラムを書けない﹂からは、ほど遠い。 堀井さんのデビュー作、この本にも書かれているエニックスのコンテストへの応募作﹃ラブマッチテニス﹄は、堀井さんが全部プログラムを書いている。 有名な﹃ポートピア殺人事件﹄のオリジナルのPC-6001版も堀井さんがプログラムを書いている。 また1985年に発売された﹃軽井沢誘拐案内﹄も堀井さんがプログラムを書いている。 しかも﹃ラブマッチテニス﹄、﹃ポートピア﹄では、Z80でのアセンブラのプログラムも書いている︵﹃軽井沢﹄についてもアセンブラが使われているのは間違いないだろう︶。 つまり堀井さんは1980年代前半のPCの商業作品のプログラマとして通用する実力の持ち主であり、間違ってもプログラムを書けない人間ではない。 以下は、その時のプログラミングの思い出を語ったCEDECでの講演のリンクだ。ドラクエ堀井氏、プログラミングの思い出をCEDEC 2016で語る ドラゴンクエストのゲームデザイナーである堀井雄二氏は、27歳のときに購入したパソコン「PC-6001」でプログラミングを始める。デビュー作「ラブマッチテニス」では16進数でマシン語のプログラムを書いたという。xtech.nikkei.com
ジョブズや宮本さんがプログラムは出来なかった﹁だから自由な発想ができた﹂というのに合わせて堀井さんをプログラムを書けない人にしたのだろうが、正直、自分の主張に合わせて堀井さんをプログラムを出来ない人にするなど、失礼極まりなく、また事実を捻じ曲げすぎもいいところだろう。 また仮に知らずに書いていたのなら、堀井さんについて最低限の調査もせずに﹃ドラクエ﹄と堀井さんの話を書いていることになり、やはり話にならない。本当に全然調査していると思えず、情けない気持ちになってくる。 ところで僕はジョブズはプログラムが出来ただろうと思っているけれど、プログラムについての話がさっぱり伝わっていないので、そこについては保留としておくが、ジョブズは回路図が読めたのは間違いない。だからアタリでブロック崩しのチームに入っているし、自分ではパーツが減らせないことが分かっていたのでウォズに頼むという話になるのだ。言い換えるなら、明らかにドップリコンピュータマニアなのだ。こういうあたり、筆者は本当にちゃんと何かを調べて書いたのか? とすら思えてくるほど雑だ。 自分の中の勝手なジョブズ・山内社長・横井軍平氏・宮本茂像で物事を語るのは止めていただきたいと思ってしまう。第8章 RPGの時代
坂口は、﹃ドラクエ﹄の世界観が好きではなかったと言います。 独特のユーモアを基調とするセリフや、深刻さよりものどかさが支配的な雰囲気は、自分たちには合わない、物足りないと感じていたのです。 彼らが求めていたのは、もっとシリアス(真面目)なファンタジーでした。世界が滅ぶかどうかという深刻さ、とでも言いましょうか、もっと”眉間にシワが寄った″ような物語が望みだったのです。 岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p186) 講談社.Kindle版. ソースを発見できなかったので、間違いと指摘する気はないが、恐ろしく気になったポイント。 例によって例のごとくの、ソース不明だ。 様々なインタビューを調べたのだけど﹁ドラクエのライバルになれたらいいな﹂、﹁︵コンソールとして︶ドラクエを研究した﹂、﹁ドラクエと違うゲームを作ろうと思った﹂、﹁ドラクエを越えたかった﹂というような表現は出てくるが、上記のような表現は全く見つけられなかった︵下は1例︶。ニコニコ動画(Re:仮)sp.ch.nicovideo.jp
エンタメ異人伝 Vol.4 坂口博信 |ゲーム考古学坂口博信 知られざる少年時代 黒川ーーまず、ご出身のお話からうかがっていきたいと思います。ご出身は茨城ですね? 坂口 そうですね、茨城の日立市。両親は九州の出身です。おふくろは鹿児島県の知覧︵ちらん︶町っていう特攻隊基地があったところ。親父は熊本県の人吉市です。漫画家の井上雄彦さんが人吉の隣町の八代︵やつしろ︶市出身で、後の仕事でちょっと役に立ちました。やっぱり隣町っていうと、それだけで親近感がわくようなところがありますからね。両親が茨城にいたのは親父が日立製作所に勤めていたからです。その関係で僕も茨城で生まれ育ったという感じですね。 ――日立という町は坂口さんにとってどんな場note.com
【『FFVI』25周年】『FF』が成長できたのは、『ドラゴンクエスト』へのライバル心があったから。坂口博信氏、北瀬佳範氏ら開発スタッフに当時の思い出を聞く | ゲーム・エンタメ最新情報のファミ通.com1994年4月に発売された『ファイナルファンタジーVI』。発売から25年経ったいまでも我々を魅了してやまない同作に携わった、レジェンドクリエイターたちに開発秘話を語ってもらった。www.famitsu.com
筆者には﹁この坂口さんのドラクエに対する考えとFFに対する考えを知ったソース﹂をぜひ提示していただきたい。 ところで本人に聞いたら? という意見もあったが、こういうのは本人に聞いても過去の事は上書きされていたり、何度も聞かれて答える内容が変遷していたりするので、聞いても﹁まあ無駄なこと﹂の一つだ。 むしろ言ったかどうかは、まず過去の記事を確認するべきなのだ。 実はこのシステムは、﹁戦略シミュレーションゲーム﹂という名称で以前から存在していたものです。任天堂も1988年にロムカートリッジで﹃ファミコンウォーズ﹄という作品を発売し、大きなヒットを記録していたので、日本のゲーム好きの間でも、すでにそれなりに認知されていました。 ただ、それまでの戦略シミュレーションゲームでは、ユニットが戦車や戦闘機といった兵器もしくは無個性の兵士たちだったので、戦闘力や移動距離などに違いはあっても、個性と呼べるものは存在していませんでした。 しかし﹃ファイアーエムブレム﹄では、ユニットごとに個性のあるキャラクターを設定しました。名前を決め、それらを綺麗なイラストに起こし、彼らの想いをセリフとしてしゃべらせ、それぞれに﹁なせその戦いに参加しているのか﹂といったバックグラウンドストーリーを背負わせたのです。 岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p190) 講談社.Kindle版. まずいわゆるSRPG︵シミュレーションRPG)を決定的な形でプレゼンテーションして形として確立したのが﹃ファイアーエムブレム﹄であることには論を待たないが、それ以外は問題だらけのテキストだ。 ﹁戦略シミュレーションゲーム﹂の初期の大ヒットと言えば、普通は1985年にリリースされたシステムソフトの﹃大戦略﹄シリーズを挙げるだろう。これが出てこないって、正直ありえない。 ﹃大戦略﹄は確かに武器や兵士など別に1個ずつ個性があるわけではないが﹁戦略シミュレーション﹂はこれだけではない。 有名なところでは光栄の﹃信長の野望﹄シリーズと﹃三国志﹄シリーズがあり、これは言うまでもなく個性あふれる武将が登場する。しかも光栄の作品はファミコンにも移植されていてプレイ可能だ。 ﹁個性のあるキャラクタ﹂が存在する戦略シミュレーションがあり、なおかつシミュレーションの先駆者としての知名度でいえば﹃大戦略﹄の方が遥かに上だと思うのだが、そういう作品を無視して﹃ファミコンウォーズ﹄だけが出てくるのは正直信じられない。 ﹃ファイアーエムブレム﹄はファンタジーだから…とすると﹃ファミコンウォーズ﹄も違うだろってことになるが、ファンタジーやSFで個性があるというと、バトルがアクションゲームだがファミコンディスクシステムで﹃SDガンダムワールド ガチャポン戦士 スクランブルウォーズ﹄(1987)、﹃半熟英雄﹄(1988)と2作出てくる。 さらにSFでストーリー要素の強い﹃シュヴァルツシルト﹄(1988)、リアルタイムの個性があるキャラクタが多数バトルをする呉ソフトの﹃シルバーゴースト﹄、それを洗練させた﹃ファーストクイーン﹄︵どちらも1988︶。ほとんど﹃ファイアーエムブレム﹄とシステムが同じと言っていいPCエンジンの﹃飛装騎兵カイザード﹄(1990/2)がある、という具合だ。 以下は、プロジェクトeggでプレイ可能な﹃カイザード﹄。デモの動画を見るだけで﹁なるほど﹂となること請け合いだ。ザナドゥ(X1)配信中 | プロジェクトEGGPC-9801、PC-8801、X68000、MSX、X1…1980年代の懐かしのレトロゲーム達をWindowsで復刻!懐かしの名作が勢揃い。あの頃の気分に浸って楽しもう!ゲーム動画も配信中!www.amusement-center.com
つまり、当時はRPGとSLGの融合はまさに行われている最中で、様々なかなり出来のいい作品がある中で、しかもほとんど同じようなシステムを持つゲームもある中で、任天堂が出したこと・ゲームが優れていたことなどいくつかの理由が重なって﹃ファイアーエムブレム﹄が決定版となったのだ。 先駆者・同時代の他作品を無視して、引用部のように書くのには、僕はおおいに疑問がある。 正直、筆者はあまりにゲームタイトルに対して無知すぎないだろうか。 出てくるゲームのほとんどがファミコンで、しかもメーカーすら偏っていて、それより前のヒット作すら出てこないザマでは、前書きに書いた以下の一節に反しすぎではないのか。 その中には、モニターにつなげる﹁据置き型ゲーム機(テレビゲーム)﹂や、モニターと一体となって独立して持ち運べる﹁携帯型ゲーム機﹂だけでなく、パソコンでプレイする﹁PCゲーム﹂、携帯電話で遊ぶ﹁ケータイゲーム﹂、ゲームセンターに置いてある﹁アーケードゲーム﹂も含まれると考えてください。 それらのゲームが、いつ、どのようにして生み出され、それによってゲームを取リ巻く世界がどう変わったのかを、全3巻に凝縮して綴ったのが、この本です。 岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1 講談社.Kindle版. 少なくともPCゲームとアーケードゲームは事実上﹁何も書かれていない﹂といって間違いではなく、海外ゲームは﹁ウィザードリィ﹂と﹁ウルティマ﹂以外影も形もなし︵2巻以降で﹃GTA﹄と﹃HALO﹄が出てくるが︶。ファミコンソフトですら極端に偏っていて、タイトル名が出てくるのは任天堂・スクウェア・ナムコ程度で、あとはセガからチョロチョロでは、どこにそんなことが書かれていると批判されても仕方ないだろう。 筆者は﹁ゲームの歴史﹂を何だと思っているのか? 筆者が知っているゲームについて間違いだらけの知識を開陳すれば出来上がるものではないだろう。 1980年代後半のファミコンブームでは、有力なタイトルの続編に人気が集中し、発売日に手に入らないことが多々ありました。これは、ロムカートリッジを作る際に必要不可欠な半導体という物質が不足がちだったということもありますが、それ以上にアタリショックを恐れた任天堂の、﹁作りすぎで余らせることが怖い﹂という思惑が大きく作用していたと思います。 第6章で述べたように、ソフトの開発は任天堂の許諾制、工場での製造は任天堂に委託、流通も任天堂の統制下にありましたので、市場に出回る数をコントロールすることができました。そのため、少なめに作ることが普通になっていたのです。 しかも、そのことが市場の枯渇感を煽って、結果としてプームを加速させる・・・・という効果もありました。そのこともあってか、この状況が改善されることは長らくありませんでした。 岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p195) 講談社.Kindle版. まず最初の一文はただの憶測でしかないが、次の節の﹁第6章で述べたように﹂の部分、つまり任天堂のライセンス・生産管理・流通管理が全て間違っているので、言うまでもなく間違っていることになる。 そして﹁しかも、そのことが…﹂からあとは、間違った内容を受けて書いているので間違っている。 つまり最初から最後まで全部間違っている文章だ。 以下に、6章で述べた間違いについて、再度、指摘しておく。詳しい内容は︵4︶を読んでいただきたい。 ●任天堂のビジネスモデルはロイヤリティではない。ROMカートリッジの生産を委託するOEM生産。 ︵﹁ファミコンとその時代﹂に用語を合わせている︶ ●初期のサードパーティのアーケードメーカーはROMもカートリッジも自社生産。 ●OEM生産する場合も、本数は任天堂は管理しない。納品スケジュールを管理するだけ。 ︵ただし﹁多すぎませんか﹂、﹁少なすぎませんか?﹂というような話はあった︶。 ●流通は初心会流通で、任天堂の管理下にはない。 ●つまり市場に出回る数を任天堂は工場の生産量とスケジュール以外ではコントロールできない。 というわけで、この文章は最初から最後まで間違っているわけだ。 再度書くが、筆者はファミコン時代の任天堂のビジネスモデルも任天堂が何をやっていたのかも全く理解しないまま、しかもいくつかの参考書籍と﹁社長が訊く﹂を読めば分かる程度の調査すらせず書いているので、このような文章を書くことになっているのだ。 全くの絵空事は歴史ではないし史観の範囲にもない。 虚心坦懐に最初からゲームの歴史を丁寧に勉強し直していただきたい。次に続く話
気になるところは本当はまだまだあり、指摘するとキリなく出てくるのだけど、本当に酷い所だけを挙げて、ようやく1巻の最後までやってきた。 次からは2巻になるわけだが、ここまで批判をしてきたところで、この本についての忌憚ない意見を書いておきたい。 ●﹁社長が訊く﹂、﹁ファミコンとその時代﹂といった第一級の本人たちの史料を明らかに読んでいない。 読んでいれば、サードパーティについてデタラメを書くなんてことはありえない。そして、これは簡単に見つかる史料だ。言い換えると、筆者は全然資料をちゃんと調べていない。 ●挙げられた主要参考資料を読んでいると思えない。 ﹁ドラゴンクエストへの道﹂をちゃんと読んでいれば堀井さんがプログラムを書けるのはわかるはずだし、﹁イノベーターズ﹂を読んでいれば﹁初期のビデオゲームにはCPUがない﹂のは普通にわかるはずだ。とても参考資料をちゃんと読んだとは思えない。 ●事実に関して間違いだらけ。 研究所が原爆研究をしていたから始まり、初期ビデオゲームはTTLで組まれているのでソフトがないのにあると書く・パックマンがATARI VCSを救った・ETにアタリが飛びついた文章が論理破綻している︵だいたいETはワーナーから来ているという事実を間違っているのだが︶・アメリカの商習慣を知らず、返品についてデタラメを書く・ゼビウスの出来た過程が違う・ファミコンのサードパーティが最初から予定していたと思われている・プラスチックの伝説をまた書く・コントローラが2つの理由を間違う・拡張端子の由来をわかっていない・ファミコンのビジネスモデルがおかしい・初心会と任天堂の関係と任天堂とサードパーティの関係がおかしい・堀井さんがプログラムを書けないことになっているなど、枚挙にいとまがない。 どれもこれもちょっと調査しただけで、すぐにわかるレベルの間違いで、筆者の調査が全く足りていないのはもちろん、講談社の校正・校閲編集はいったい何をしていたのかと、問いただしたくなるレベルだ︵校正・校閲は資料がなければなんもできんと突っ込まれたので訂正︶。 ●ソースが全く見つからない発言や﹁思った﹂が多々ある。 山内社長が言ったと思えないセリフがあったり、遠藤さんが考えるはずもない事だったり、それとも坂口さんが言ったソースが見つからなかったりといった、ソース不明もしくは明らかにおかしい発言・それとも考えが出てくるシーンが頻出する。 これは特に厳しく指摘したい。山内社長が言ったとされる言葉でいくら探しても見つからないものが複数あり、どこのソースをもとにしたのか、教えていただきたいものだ。 ●選定しているタイトルについて書いていることが雑すぎる。 ﹃スーパーマリオ﹄は素晴らしいゲームだが﹃パックランド﹄の影響を否定できないのを全く無視。 ﹃べースボール﹄が﹃チャンピオンベースボール﹄の影響を受けているのは明らかに無視。 ﹃ドラクエ﹄に影響を与えた日本のPCRPGが完全に無視されているなど、歴史に対する雑さを示している部分は枚挙にいとまがない。 ●そもそもゲームに対して無知としか思えない。 PCゲームに対する無知︵PCゲームで展開されていたRPGを見ずにコンソールのRPGを語ることなどできない︶。シミュレーションについて全く知らないとしか思えない︵﹃大戦略﹄や﹃信長の野望﹄が出てこないなどありえない︶。﹃ドルアーガ﹄とアクションRPGが全く出てこないので﹃ゼルダ﹄がどのようにして現れたのか全く説明できていない。 正直、ファミコンゲームのそれも一部を少しプレイした程度としか思えず、ファミコンゲームのカタログすらちゃんと見ていないとしか思えない。 ●様々な大きなブームが平気で外されている。 ﹃ゼビウス﹄の裏技と﹃ドルアーガ﹄から起こった攻略本ブームはゲーム出版に大きな影響を与え、もちろんゲームそのものにも影響を与えている。 またハドソンの全国キャラバンは大規模な全国ゲーム大会と言う特筆すべきイベントで高橋名人と言う︵多分︶史上初のプロゲーマーを生み出している。 そして1991年にアーケードからやってきた格闘ゲーム﹃ストリートファイターⅡ﹄はスーパーファミコンの売り上げベスト5に入る途方もないブームを生み出した。 そういうことが一切書かれていない、1986年の﹃ドラクエ﹄からあとはずっとRPGブームであるようなゲームの歴史は筆者の史観ではあるのかもしれないが﹁普通はありえない﹂し、さらにストーリーとしても大きなパーツが落ちているとは批判されても仕方ないだろう。 まとめると1巻は﹁参考資料の調査が絶望的なまでに行われておらず、主要参考資料として挙げられている資料すらちゃんと読んでいると思えず、書かれている事実は間違いだらけで、ソースの見つからない情報がやたらとあり、しかもゲームに対して無知としか思えず、ゲームの歴史にあった大きなムーブメントを平気で無視している﹂本だ。 ところで正直な話、こんなテキストを書いていても、全くの不毛だ。 筆者がタイトルを﹁僕の大好きな任天堂とドラクエの極私的なゲーム史﹂ぐらいにしておいてくれれば、目くじらを立てる必要もなく放置しておけたのに、こんなデタラメな本を﹁ゲームの歴史でござい、正史でござい﹂なんて大見得を切ってしまっているから、しょうがなくなく批判をしているだけで、自分的には全く時間の無駄でしかない。 ともかく、筆者は物書きとして、何か歴史を書く時は、まず虚心坦懐に出来うる限り事実を集める・対象についてちゃんと勉強をするというごく当たり前のことをちゃんとしていただきたい。 批判は第二巻に続くのである。 そして、第二巻も同じぐらい間違いだらけなので、頭痛がしてくるだが、始めたからにはとことんやる主義なので、とことんやっていきたいと思っている。
7件のコメント
コメントは現在停止中です。
SRPGの元祖は何かなと考えると「エルスリード」でしょうか?
PCを持っていなかった当時、有料でPCを使って遊べる施設があって通っていました
今考えるといろいろグレーな施設だったのですが、貧乏人がパソコンゲームに触れる切っ掛けにはなっていたのかな?