書籍「ゲームの歴史」について(7)
2023年3月11日
![](http://www.highriskrevolution.com/wp/gamelife/wp-content/uploads/sites/3/2023/03/スクリーンショット-2023-03-11-115851.png)
このテキストは岩崎夏海・稲田豊史両氏による﹃ゲームの歴史﹄の1、2、3の中で、ゲームの歴史的に見て問題があり、かつ僕が指摘できるところについて記述していくテキストだ。
︵7︶は2巻の第10章を扱ったものになる。
該当の本は、ハッキング・箱庭・オープンワールド・疑似3D・2Dなどの通常のゲーム&コンピュータ用語に筆者の独自解釈が含まれていて、それを筆者の都合に応じて定義をいじりながら論を展開するために、極めて独特の内容になっている。
例えば3D描画で背景をテクスチャで埋めると3D+2Dの疑似3Dになると言われたら、普通のゲーム屋なら目を白黒させるだろう。ただ、それは筆者の主張なので﹁自分はそこは批判はしないが、筆者の見方には全く同意できない﹂とだけ書いておく。
該当の本の引用部は読みやすさを考慮してスクリーンショットからonenoteのOCRで文字の書きだしをしたものを僕が修正したものになっている。なので校正ミスで本文と若干ずれたり、誤植がある場合があるかも知れないが、そこは指摘いただければ謹んで修正させていただく。
シリーズは以下のリンクを読んでいただきたい。
●﹃ちょっとは正しいゲームの歴史﹄を国会図書館に納本しました
●ゲームレジェンド新刊﹃ちょっとは正しいゲームの歴史﹄できました
●書籍﹁ゲームの歴史﹂について(12/終)
●書籍﹁ゲームの歴史﹂について(11)
●書籍﹁ゲームの歴史﹂について(10)
●書籍﹁ゲームの歴史﹂について(9)
●書籍﹁ゲームの歴史﹂について(8)
●書籍﹁ゲームの歴史﹂について(7)
●書籍﹁ゲームの歴史﹂について(6)
●サンクリの新刊
また、このテキストの引用元になった本は2023/2/6 に購入したkindle版である。
![](http://www.highriskrevolution.com/wp/gamelife/wp-content/uploads/sites/3/2023/02/スクリーンショット_20230213_221427.png)
第10章 セガの失敗と『テトリス』の快感
ただ、コンピューターゲームビジネスの経験がないCSKが、ゲーム事業をフルスクラッチでやるのは、あまりにも手間がかかりすぎます。そんなとき、当時すでに家庭用ゲーム事業に着手して﹁SG-1000﹂という家庭用の据え置き型ゲーム機を発売(発売日はファミコンと同日の1983年7月15日)していたセガが、CSKに助けを求めてきます。当時セガは経営が苦しく、SG-1000の販売も低迷していました。 そこで大川は、セガを会社ごと買い、ゲーム事業に乗り出したわけです。 岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史2(p29) 講談社.Kindle版. 引用部はどこからやってきた話なのかは全くわからないが、例えば日経新聞の当時を知る人の回想では﹁当時のセガは米ガルフ・アンド・ウエスタン・インダストリーズが傘下の映画会社パラマウントを通じて株式を保有していた。しかし1983年に創業者が逝去。新社長のマーチン・デイビス氏はグループ再編に乗り出し、セガは売却候補に上がった。それを知った当時のセガの社長の中山氏が先回りして、︵自分達にとって都合の良い︶売却先を探した。それがCSKだった。そしてCSKの大川さんが即決した﹂という話が紹介されている。 そして、全くこの引用部のソースは分からない。中村俊一氏・アミューズキャピタル社長(8)即決だったセガ買収 アミューズキャピタル社長 裏書きゲーム興亡史 - 日本経済新聞 コンピューターサービス(後のCSK、現SCSK)によるセガ・エンタープライゼス買収は突然決まった。当時のセガは米ガルフ・アンド・ウエスタン・インダストリーズ(G&W)が傘下の映画会社パラマウントを通じて株式を保有していました。しかし、1983年にG&Wの創業者が逝去。新社長のマーチン・デイビス氏はグループ再編に乗り出し、セガは売却候補に挙がりました。セガ社長の中山隼雄さんは親会www.nikkei.com
次にSG-1000は当初の販売予定は5万台だったのがファミコンが生産に苦しんだのもあって、実に16万台を販売し、マークⅢを開発する理由の一つになっている。 加えて書くと、1983年の業界新聞によると売り上げは82年と比べると後退しているが︵82年が660%の売り上げを叩き出していて、数字がムチャすぎるのだ︶織り込み済みの範囲で、経営が苦しいというような記事を発見することも出来なかった。 ﹁経営が苦しかった﹂、﹁SG-1000の売り上げが低迷した﹂とはどこのソースだろうか? そこで同社は、ゲームセンターと家庭用テレビゲームを両方とも推し進める﹁2面作戦﹂を展開するとともに、なんとハードとソフトの両方を開発するという、もうひとつの﹁2面作戦﹂も同時に展開。実に﹁4面作戦﹂とも言うべき施策を推し進めていったのです。さらには、後に携帯ゲームのハードとソフトも開発したため、最終的には﹁6面﹂にまで戦線が拡大しました。 これは、かなりびっくりです。ナムコやコナミやタイトーはもちろん、任天堂やその後にプレイステーションで天下を取るソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)ですら、そんなことはしていないのですから。 岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史2(p29) 講談社.Kindle版. 指摘することすら情けなくなってくるが、任天堂はファミコンを開発し、ソフトを自社で供給しているのだから﹁2面作戦﹂だ。そして1985年のVSシステムまでアーケードも供給していたので﹁4面作戦﹂だ。 86年以降はアーケードから撤退するが、ディスクシステムを供給しているのだから3面作戦。ゲームボーイを開発し、ソフトも供給しているのだから﹁5面作戦﹂だ。 91年以降は、ファミコン・SFC・ゲームボーイにソフトを供給し、ハードもやっているのだから、ディスクシステムまで含めると、なんと﹁7面作戦﹂だ。 例えば、SCEはPSPを供給しながら、PS2を供給している。たちまちソフト込みで﹁4面作戦﹂だ。 書くのもバカらしいが、プラットフォーマーはハードを開発し、ソフトを供給するのだから自動的に2面作戦以上なのだ。 また、例えばコナミなんかは、アーケードにハードとソフトで2面、さらにMSXとファミコンとX68KとPC88とPCエンジンとメガドライブにソフトを供給していたのだから﹁8面作戦﹂を実行していたことになる。 つまりマルチプラットフォームにゲームを供給しているメーカーならそれぐらいの面数には簡単になるし、プラットフォーマーとしてハードを提供すれば、筆者のいう﹁N面作戦﹂に簡単になるのだ。 よくこれだけバカらしいことに﹁かなりびっくり﹂出来ると思う。 事実について何かを書く時には、少しは資料を集め、他の会社ではどうなのか程度は考えてから書かれた方がよろしいかと思う。 しかし、アーケードの好調とは対照的に、セガの家庭用ゲーム機事業は相変わらす苦戦していました。 据え置き型ゲーム機では、1983年7月のSG-1000、1985年10月のセガ・マークⅢ、1988年10月のメガドライブ。携帯型ゲーム機では1990年10月のゲームギアが、いすれも苦戦。 メガドライブでは、その後のセガのコーポレートキャラクターとなる青いハリネズミを主人公にしたアクションゲーム﹃ソニック・ザ・ヘッジホッグ﹄が高い評価を得ましたし、北米では一定の普及を達成しましたが、国内でファミコンの牙城を崩すには至りませんでした。 岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史2(p32) 講談社.Kindle版. 最初に指摘した通り、SG-1000はセガの想定より遥かに売れ、マークⅢ開発の原動力になった。 これだけでも苦戦よばわりはおかしいという話になるが、北米で約2000万台を売り﹁セガは勝った﹂と言われたメガドライブを﹁北米では一定の普及を達成した﹂で終わりにするのは、あまりに事実を無視しすぎだ。 筆者は、この章では﹁セガはゲーセンでは大成功したが、マニア向けのゲームばかりを作り、任天堂のように家庭用ゲームの本質を分かっておらず、家庭用ゲームマシンにもアーケードゲームばかりを移植したから、最後には自虐的なCMまで打って、ハードから撤退した﹂というストーリーを真実だとして描いている。 そして、その筆者の脳内にあるストーリーに北米では五分五分かそれ以上だったという話は都合が悪いから﹁一定の﹂などと言葉を濁しているわけだ。 自分の主張のために事実を捻じ曲げるのは、歴史を書く人間のやることではない。 なおこのころの北米の台数は﹁任天堂・セガともにかなり煽りが入っていて信頼性は危ういのだけど、まあセガがやや優勢以上だったのは確かだと思います﹂とセガの奥成さんに言われた。また優勢を裏付ける証拠として、当時セガにいた方から﹁北米で55%のシェアをとったのでボーナスをもらった﹂という証言ももらった。他にもいくつか聞いた話から台数の信頼性は危ういが、北米ではセガがやや優勢であったのは事実と言っていいだろう。 それは、任天堂の看板作品である﹃マリオカート﹄シリーズに、分かりやすく表れています。 ﹃マリオカート﹄では、プレイヤー同士の技量に差があっても、ちゃんと接戦(デッドヒート)になるよう、ゲーム側が自動調整してくれます。先頭車から引き離された後続車は、アイテムを駆使して簡単に先行車に追いつけますし、しかも順位が下の車ほど強力なアイテムが取れるよう、﹁初心者を置き去りにしない﹂ゲームバランスが徹底されているのです。 実力主義であるプロスポーツの世界では、そんなこと絶対にありませんよね。でも、これは家のリビングで、家族や友達とワイワイ盛り上がって楽しむゲームなのです。プロスポーツのように、非情で殺伐とした﹁勝負﹂をしているわけではありません。 任天堂は、そういうゲーム作りを続けてきたからこそ、老若男女に愛され、ゲーム人口を増やすことに成功したのです。 岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史2(p37) 講談社.Kindle版. ﹁後ろの車が速い﹂などいうように人為的にデッドヒートになるシステムを初めて明示的にゲームに投入したのは、自分が知っている限りは1987年にアーケードに登場したナムコの﹃ファイナルラップ﹄で、1992年登場の初代﹃マリオカート﹄の5年前だ。 これより前のマルチプレイヤーのゲームでも入っていたのではないかと疑問を持つゲームはあるが、メーカー側が売りの1つとして投入したのは﹃ファイナルラップ﹄が最初だと思う。 そしてこれは実力の差が大きくなりうるカーレースのようなマルチプレイのゲームのバランスを取るとき、80年代後半以降、ごく当たり前の考え方で、プロスポーツがどうとか、家庭用がどうとかなんて話ではなく、それを入れるべきかから含めて考えるものだ。 そして、この手のバランスは常に微妙な問題を引き起こす。 例えば2位もしくは3位について最後にまくるのが一番有利なプレイだという具合だ。 また仮に隠していても、あっという間にバレる。ユーザーは、この手のバランスの調整にとても敏感であり﹁こうすればご家庭で誰でも楽しめる﹂というほどイージーなら苦労はしない。 誰だって勝つのが一番好きなのだ。 だから筆者が絶賛する﹃マリオカート﹄でも2位割り・5位割り・9位割りなんて言葉とともに﹁どうプレイするのが有利か﹂という話が飛び交うことになる。 ゲームバランスを取る現実の難しさを知らずに、脳天気にこのようなことを書けることそのものが、筆者のゲームに対する無知ぶりを暴露している。 このように、セガは家庭用ゲーム機ビジネスでは絶対に取り込まなければならないゲーマー以外のユーザー(ライトユーザー)を、完全に無視していました。 その傾向は、移植レベルは高いながらも続編が出るごとに高度化し、初心者お断りの度合いが増していった﹃バーチャファイター﹄シリーズや、グラフィックは大変美しいものの、自在に操るにはそれなりの練習量が必要なレースゲーム﹃セガラリーチャンピオンシップ﹄(1995年2月稼働)などにも、はっきりと表れていました。 これらはいすれもアーケードでは大ヒットで、家庭用でも(セガハード用のソフトとしては)好売り上げでしたが、ハードの売り上げを牽引したとまでは言えません。 岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史2(p39) 講談社.Kindle版. セガの﹃バーチャファイター2﹄は、いわゆるPS1とサターンの次世代戦争のど真ん中、1995年の冬の目玉ゲームで、実に100万本以上を販売したミリオンセラーで、一時的にサターンが台数でPSを突き放す原動力となったソフトだ。 またその前後に発売された﹃バーチャコップ﹄と﹃セガラリー﹄も数十万本を売っていて、1995年の日本における年末商戦の勝者はセガとまで言わた原動力になったソフトだ。 筆者の感想として﹁牽引していない﹂という主張は勝手にすればいいと思うが、客観的に見て市場においてPS1に一時的であろうとシェア的に勝つ理由になったソフト群を﹁ハードの売り上げを牽引したとまでは言えない﹂とは、まともな感覚では書かないだろう。 なお、サターンの最大の問題は日本以外で売れなかったこと、特にアメリカで失敗したことが大きいのだけど、筆者はそこらへんについては一度﹁セガVS任天堂﹂ぐらいから勉強し直していただきたい。 ﹃テトリス﹄は、前期ゲームボーイを象徴する大ヒットゲームですが、実は日本で最初にブレイクしたのはゲームボーイ版ではなく、ゲームボーイが発売される前の1988年12月にゲームセンターにお目見えした、セガによるアーケード版です。 とはいえ、セガはアーケードにゲームを移植しただけで、開発したわけではありません。 岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史2(p48) 講談社.Kindle版. ルーツとなったソビエト版﹃テトリス﹄は、キャラクタディスプレイでブロックの表示は貧弱で、しかもグリーンディスプレイだったので色はついておらず、もちろんサウンドはなくキーボードでプレイするものだ。 つまり、ファミコン版やアーケード版とはゲームのルール以外の見かけやサウンドは別物だ。 またファミコン版は方向キー左右で移動し、下で回転。そしてボタンを押すと、一瞬で一番下までピースが落ちて、途中の経路に当たるものがあったら、そこで貼りつく仕様だ︵PC版のことを書いていたが﹁ちょっと間違ってませんか?﹂と連絡があって、どうやら当時沢山あったらフリーゲームのテトリスクローンと記憶が混ざっているらしく、再調査が必要なのでいったんPCの話は取り下げ︶。 対してアーケード版はボタンで回転し、レバーの下を入れていると、その間だけ落ちる速度が速くなり、ニュートラルに戻すと速度が落ちる︵ただし設定されている落ちる速度よりは下がらない︶。さらに障害物や床についても、しばらく引っ付かずに移動させることが出来る。加えて回転入れというテクニックも存在する。 さらに書くと、アーケード版はずっと連続してプレイしていく中、難度とブロックの速度が変化するゲームだが、ファミコン版は一定毎に面をクリアする形式。 つまり、もともとのソビエト版﹃テトリス﹄とアーケードとファミコン版はパズルの基本ルール以外は操作も何も別物のゲームだ。 そして、ゲームボーイ版はファミコン版の後にも関わらず、ファミコンではなくアーケード版の操作に合わせられている。これでどれだけアーケードで大ヒットしていたのか、そしてどれだけ影響をあたえていたのかがわかろうというものだ。 加えて書くと、現在の﹃テトリス﹄のメカニクス部分は、セガ・アーケード版がベースになっている。 これを﹁移植しただけ﹂と書くのは正直ビックリだ。 これは推測だが、筆者はせいぜいゲームボーイ版をプレイしたことがあるだけか、それともアーケード版だけをプレイしたのか、それとも﹃テトリス﹄を一度もプレイしたことがないのだろう。 複数バージョンをプレイしたことがあれば間違っても書けない文章だ。 4つの正方形を組み合わせて作られた7種類のブロックは、極限までシンプルでありつつ、とてつもなく機能的で、無限の組み合わせ(ブロック同士の噛み合わせ)がありました。これを超える洗練さを持ったブロックデザインは、未来水劫、登場しないといってもいいでしょう。そんな、奇跡のように高いデザイン性を持っていたのです。 ︵中略︶ ﹃テトリス﹄は、ゲーム史の中でもとりわけ特別な立ち位置にある”お化けソフト”です。というのも、他の名作と呼ばれるゲームが、すでに存在する別のゲームの模倣だったり改善だったりと起源をたどれるものであるのと違い、既存の文脈とは離れた場所からいきなり独創的に現れたゲームだったからです。 岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史2(p49) 講談社.Kindle版. ﹃テトリス﹄のブロックはポリオミノと称される複数の正方形を集めたパズルの有名な形式の1つでテトロミノと表現される。デザインではない。 その歴史は古く古代からあり1900年代前半には既にペントミノ︵後述︶の箱詰めパズルは人気があった。 そして1953年に数学者のソロモン・W・ゴロムがこれにポリオミノという名前をつけて整理し、著名な数学者のマーティン・ガードナーが1960年11月のサイエンティフィック・アメリカンのコラム﹁数学ゲーム﹂でポリオミノの名前を広めたのだ。 ︵以下は﹁ポリオミノ﹂が含まれた数学ゲーム全集の第一巻。どこに含まれるのか聞かれたので付け加えておく)ガードナーの数学パズル・ゲーム (完全版 マーティン・ガードナー数学ゲーム全集1)●完全版 マーティン・ガードナー数学ゲーム全集 パズルと数学の魅力を明晰・平明な筆致で語り,数十万の読者を魅了したガードナーの名コラム﹁数学ゲーム﹂。1956年から1986年までの間に約300本のコラムが﹃サイエンティフィック・アメリカン﹄誌に書き連ねられ,その後のレクリエーション数学に決定的な影響を与え続けるレクリエーション数学の金字塔である。 そのコラムを一堂に収め,近年の進展についてもガードナー自身が付記した決定版シリーズを,パズル界気鋭の 二人が邦訳。 日本語文献情報も追加し,日本の読者の便宜を図った。 レクリエーション数学を語るには必携のシリーズ。全15巻予定。amzn.to
だからテトリス登場時には、名前がついてからですら歴史が30年以上、楽しまれていただけならいつからかはわからないほど古いパズルだったわけだ。 なお、テトリス以前にはペントミノ、5つの正方形で出来たピースを箱詰めするゲームが非常に有名で、この箱詰めの全ての解答をプログラムで出すのは、70年代終わりから80年代初めに流行した時期があって、当時のちょっと腕のいいプログラマならやったことがあるんじゃないかと思うぐらい有名なパズルだった。 これらポリオミノの箱詰めパズルは、昔は﹁プラパズル﹂、今では﹁脳ブロック﹂という名前で市販されており、知育玩具として結構有名なもので、僕は小学校から中学時代に死ぬほどハマっていた。 そして﹃テトリス﹄の作者のアレクセイ・パジトノフはペントミノの箱詰めパズルが好きで、そのパズルをベースに﹃テトリス﹄は発想された。 そしてペントミノでは難易度が高すぎると考え︵多分、テストしたら難しすぎたのだろう︶、正方形を1個減らしたテトロミノ︵ちなみに日本語には表記ゆれがあり、テトロミノ・テトリミノ・テトラミノの3種類がある︶になったのだ。 つまり、この引用部は、単に筆者のパズルと数学に対する無知を表しているだけで、﹃テトリス﹄は箱詰めパズルとして有名だった既存のゲームの改善で、起源をたどれるものだったし、奇跡でもなかったし、デザインでもなかったのだ。 もう一つ書いておくと、筆者はデザインがどうとかといっているが﹃テトリス﹄の本当にすごいところは、箱詰めパズルの発想の転換をして、落ちてくるピースを箱詰めしていく、そして1ラインが埋まると消える着想に至ったところにある。 この1ラインを埋めるとが例えば﹁同じ色の石が3つ縦か横に並ぶと﹂といった条件になって今の落ち物パズルの標準的なメカニクスになる。 本当にコロンブスの卵といえるアイディアだったが、これによってゲームが無限に続けられるようになり、さらに対戦時に相手に送る攻撃の材料となったのだから、恐ろしく重要な、落ち物パズルと呼ばれるジャンルを成立させた絶対的なアイディアだ。 似た発想のゲームはビデオゲーム初期から複数あったが﹃テトリス﹄の発想には至れなかった。そして﹃テトリス﹄は1ジャンルを作り出したという点で、疑いもなくゲーム史上に燦然と輝くゲームで、正方形のデザインがどうとかこうとか言う暇があったら、これを思いついた作者を絶賛して褒めちぎるべきだ。 それこそ筆者の言う﹁ハッキング精神﹂の発露のはずなのに、筆者はこれがどれだけ大事なアイディアなのか全くわからず、ポリオミノをデザインだとか褒めているのだから、情けなくなってしまう。 筆者は、ビデオゲームだけでなく、コンピュータにも、パズルにも、そして数学にも無知なようだが、それではゲームの歴史を書くにふさわしいとは間違っても言えまい。 高校の教科書ぐらいから勉強し直して、せめて﹁テトロミノはポリオミノの一種で﹃テトリス﹄は落ち物パズルを成り立たせるための決定的なメカニクスを確立したところが偉いのだ﹂程度には理解してから、再度、ゲームの歴史を書かれてはいかがか。次に続く話
この章、なによりうんざりしたことがある。 それは筆者の﹁セガとセガのゲームを遊んでいたプレイヤーに対する色眼鏡ぶり﹂だ。 これが途中に入るのがイヤだったので、あえて最後に引用する形で筆者を批判したい。 セガは、ファミコンやスーパーファミコンが市場を席巻していた1980年代中盤から1990年代前半、つまり﹁任天堂に負けている間﹂は、家庭用ゲーム機市場でまだ気力を保てていました。﹁絶対的チャンピオン﹂の任天堂に対する﹁挑戦者﹂の地位を、ギリギリ確保していたからです。﹁任天堂のゲームがファミリー向きなら、俺たちはクールなゲーマー向け。そもそも目指している先が違う﹂と、かっこつけていられました。 しかし、そのチャンピオンがぼっと出の別の挑戦者(SCE)に、いきなり倒されてしまいました。第11章で述べる、プレイステーションです。 この瞬間、セガの﹁挑戦者﹂としての存在意義は、音を立てて崩れ去りました。任天堂という巨人に楯突くチャレンジャーだったのに、楯突く巨人がいなくなったことで、チャレンジャーとしての居場所まで消えてしまったのです。 以上が、セガサターンの状況です。 岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史2(p44) 講談社.Kindle版. この引用部が1990年代のセガに対する総括になっていて、簡単にまとめれば﹁セガはクールなゲーマー相手にアーケードゲームの移植ばかりをやっていて、家庭用ゲームの本質がわかっていなかったのでソニーと任天堂に勝てませんでした﹂となる。 少なくとも、僕は読んでいて気持ちいい文章ではなかった。はっきり書いて、セガにもソニーにも任天堂にも失礼な文章だと思う。 と、自分のスタンスをはっきりさせたうえで、この文章の問題を書いておく。 まず今回の記事で書いたが、日本ではともかくアメリカおよび複数の地域ではメガドライブの海外版﹁ジェネシス﹂はNES︵海外版ファミコン︶とSNES︵海外版スーパーファミコン︶に対して市場的に優勢であったり、それとも勝ったりしているわけで、そもそも引用部は﹁これ日本だけの話なんだから、海外まで含めたら、会社のビジネスの話として全く筋が通っていないじゃないか﹂と言う話になる︵だいたいビジネスは気力でやるものではない。大学のサークルの話とかと勘違いしているのかと聞きたくなる︶。 さらにSCEの本体はソニーとSMEなわけで、当時から世界的大企業。 間違っても﹁ぽっと出の挑戦者﹂ではない。 しかも1993年にパナソニックが3DOでゲーム業界に殴り込みをかけ、続けてソニーという流れだったので家電業界が大きくなったゲーム業界に参入してきたと話題になっていたのだ。 なお当時の企業サイズでいえば、パナソニックは巨人で、ソニーも大企業。 1993-4年の売り上げは、パナソニックが7兆円ほど、ソニーが3兆8000億円、任天堂が約3600億円、セガが約3000億円なんだから、どれぐらい家電業界の参入のインパクトがあったか想像がつくだろう。 加えて、その挑戦者との戦いも日本市場の話しか見えていないし、経緯を書くなら1995年の冬を過ぎるまではサターンの方がやや優勢だ。 しかも1996年になって任天堂のN64が市場に登場して、三つ巴の市場争いになったうえで、PS1が市場的に勝ったといえるのは97年を過ぎてから。 つまり任天堂は絶対的なチャンピオンではなかったし、セガも一時はトップを走っていたし、ソニーはもちろん﹁ぽっと出の挑戦者﹂なんかじゃなかったし、いきなり倒されてもいないと、事実に照らして、端から端まで間違いだらけの文章だ。 これを日本市場のみの話として、なおかつ﹁歴史を彩る物語だ﹂と筆者が主張するのは勝手だが、事実に照らしてデタラメで、しかも本来なら書くべきタイトルやゲーム内容、さらには参入メーカーも投げ捨て、こんな風に揶揄する文章が書かれている﹁歴史﹂をまともなものだとは思わないし、読んでいて正直、不愉快極まりなかった。 そして、このデタラメだらけの内容のままPS1に進んでいくのである… またPS1が信じがたいほど酷いんだ…筆者が技術のことを何も知らないためにメチャクチャなんだ… ところで書いておきたいが、ここでは取り上げていないデタラメ・間違いが数限りなくある本なので﹁ここで取り上げた内容﹂以外も全く信頼するに足らない。 仮に読む場合は、固有名詞と発売日以外は書いてある内容は全て疑ってかかることを強くお勧めしておきたい。
11件のコメント
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先日本屋で初めて現物を見ました
ご丁寧にハードカバー仕様
Kindle版より¥330高いのはこのせいか
ざっと立ち読んで個人的に一つだけ良い点を発見
それは「PCエンジンについてまるで書いていないこと」
いやゲーム史の本じゃないので書かれてないことは不思議じゃないですが
ゲーム紹介本でPCエンジンがディスられるorハブられるなんて今まで幾冊もありましたが素通りされて安堵した本は初めてですよ
あと、まるでプレステがゲーム機で初めてCDソフトを採用したように受け取れる文章になっているんですけどこれがプレステを持ち上げる為の恣意的なものかそれともまさか本気でそう思っている(その場合当然サターンが後発扱い)のか判断しかねます、この本の場合
3DOとか全くないので、下手をすると筆者がわかってない可能性がありますね。
もちろんメガCDの事も載っていませんw
ソニー パナソニックがぽっと出の挑戦者?
2社ともMSX・ファミコン時代からゲーム出してたよ
パナソニックはアシュギーネって看板キャラ(予定)作ってゲーム出して売り出ししてましたよ
サード時代のソニーのゲームはスタッフロール見ると後のSCEメンバーいましたし
3DOは持ってないから分からんけど 松下もMSXにゲーム関わってた人らが絡んでいても不思議ではないし
ソニーって結構スーファミのハードや周辺機器 開発機に絡んでたし
2社ともMSX界隈では人気のあるハード供給元
作者が知らんっていう理由だけでぽっと出なんだろうな
パナソニックというか3DOは「ゲームの歴史」では出てきません。
穴と嘘しかないような本ですね。
当時ハドソンおよびNECホームエレクトロニクスの間近で仕事をしていた者です。
任天堂との蜜月期を解消、その卓越した技術力で自らゲーム機を設計し、PC-88,PC-98で圧倒的なPCのシェアを持っていたNECの企業力を背景にPCエンジンを展開したハドソンのストーリーは、単行本1冊を費やしても余りあるほどですが、この本で全く触れられていないのは、当時を知る身としては「恥を知れ!」と言いたいくらいです。