男の子は公園の木々が途切れた場所に立っていました。その先にはなめらかな芝生が、坂のふもとの大きなお屋敷まで、すべり込むように緩やかに広がっていました。
男の子が着ているのは、ニッカーボッカー*1と大きく裂けてボタンがとれたシャツだけでした。そのため男の子のはだけた足と首と胸は、月の光を受けて銀色に輝いていました。
昼間は、男の子の髪の毛はぼさぼさでもじゃもじゃの金髪でしたが、今は頭上にぼんやりと浮かぶ黒雲のようでした。それに比べて顔はひどく白く、まるで死んでいるようでした。
男の子は露に濡れて輝く薔薇と百合の大きな花束を腕の中に抱えていました。
それらは公園の花壇から盗んだもので、その冷たい花びらが男の子の頬を叩き、痛いほどの香りが鼻孔を満たしていました。
暗がりの中で薔薇のとげが両腕をあちこち引っかき、男の子はひどい痛みをかんじました。けれどもこの鋭い痛みの愛撫は、男の子を外套のように包み込んでいる夜の不思議をいっそう深める役にしか立ちませんでした。
男の子の背後の黒い木々は夢を見、頭上の空の無数の星たちはふるふると震えたり震え止んだりしていました。
けれどもそんなことは、男の子にとってどうでもいいことでした。なぜなら、膝丈ほどに伸びた芝生のはるか向こうの、霧の織物に包まれたぼんやりした輝きは、男の子の熱心に見つめる目に妖精の豪華な宮殿と映っていたからです。
赤や、オレンジや、黄金色の妖精の明かりが百もの窓から楽しげに漏れているのを見て、男の子は驚きでいっぱいになりました。眠りの中で長い間求め続けてきた宝石のきらめきを、ぱっちりと目覚めている目で見ることがあるなんて。
男の子はただただ見つめていました。そのうちにみはり過ぎて目に涙がたまり、闇の中で魔法の光が踊り出しました。
夜の鳥の鳴き声も、ウサギが草むらを素早く走り抜ける音も、遠くから途切れとぎれに流れてくる音楽の旋律も、男の子の耳にはもう届いていませんでした。
男の子の腕の中の花々はその音楽につれて揺れ、男の子の胸は夜の深い鼓動につれて波打っているかのようでした。
男の子はあんまりうっとりしていたので、女の子がやって来たことに気がつきませんでした。女の子はすぐそばまで来て男の子をじっくりと眺め、それから月明かりの中で優しく呼びかけました。
﹁ねえ! あなた!﹂
その声に男の子はくるりと振り返り、驚いた目で女の子を眺めました。見ると、女の子は白いドレスを着て、小さな顔を興奮させていました。
﹁きみは妖精なの?﹂
そう尋ねた男の子の声は、夜の霧のせいでかすれたように聞こえました。
﹁ちがうわ。﹂
女の子は言いました。
﹁わたしは女の子よ。あなたは森の子ね?*2﹂
男の子は口をつぐんだまま、困り果てて女の子を眺めました。こんなにもいきなり夜の闇から飛び出してきた、ちっちゃくって白くって優しい声をしたこれは、なんなのかしら?
﹁実をいうとね、﹂
女の子は言いました。
﹁わたしは妖精を探しにきたのよ。森の中に妖精の輪があったの。*3よろしければ一緒に行きましょうよ、森の子さん。﹂
男の子は黙ってうなずきました。女の子としゃべるのがこわかったのです。そして、胸に花束を抱きしめたまま、女の子に寄り添って森の中を歩き出しました。
﹁わたしが来たとき、あなた何を見ていたの?﹂
女の子が尋ねました。
﹁宮殿――妖精の宮殿。﹂
男の子はもごもごと言いました。
﹁宮殿ですって?﹂
女の子は言いました。
﹁あら、宮殿なんかじゃないわよ。わたし、あそこに住んでいるのよ。﹂
男の子はあらためて畏敬の念で女の子を眺めました。この子が妖精だったらどうしよう……。けれども、女の子はかたわらを歩く男の子が靴音を立てないことに気づいてしまいました。
﹁足の裏は痛くないの? 森の子さん。﹂
女の子は尋ねましたが、男の子は何も答えませんでした。
それから二人はしばらく黙り込みました。女の子は歩きながら辺りを熱心に見回し、男の子はそんな彼女の顔を眺めました。
間もなく二人は広い溜め池にたどり着きました。
そこでは噴水が小さな音を立て、物陰にかくれた魚にあぶくを投げかけていました。
﹁あなた泳げる?﹂
女の子は男の子に尋ねました。
男の子はかぶりを振りました。
﹁それは残念。﹂
女の子は言いました。
﹁水浴びして遊べるのに。暗いときのほうがずうっと楽しいのよ、ここはちょっと深いけれどね。妖精の輪のところへ行きましょうか。﹂
妖精の輪のある空き地では、月が奇妙な影を投げかけていました。空き地のふちに立って熱心に耳を澄ます二人には、森が百もの声で語りかけてくるように思えました。
﹁よろしければ手を握っていただけないかしら。﹂
女の子が囁き声で言いました。
男の子は白い裸足の足元に花束を落とし、暗闇の中で女の子の手を探りました。その男の子の手の中に、すぐさまぬくもりのあるものがすべり込んできました。それは興奮のために少し震えていました。
﹁恐いんじゃないわよ。﹂
女の子は言い、そして二人は待ちました。
* * * * *
白樺の木々の間から、一人の男がとつぜん飛び出しました。男は背中にナップサックを背負い、髪は浮浪者のように長く伸ばしていました。
男に目を向けられて、女の子はもう少しで叫び声をあげそうになり、男の子とつないでいる手を震わせました。男の子は思わずその手をきつく握りしめました。
﹁なにが欲しいの?﹂
男の子がかすれ声でもごもご言いました。
男は子供たちに負けず劣らず驚いていました。
﹁いったいここでなにをしているんだね?﹂
男は大きな声で言いました。
男の声が穏やかで安心できるものだったので、女の子がすぐさま答えました。
﹁わたしは妖精を探しにきたの。﹂
﹁ああ、なるほどね。﹂
男は言いました。
﹁そしてきみは、﹂
男は男の子のほうに目を向けました。
﹁きみも妖精探しかね? おやおや、花を摘んでしまったね。売っぱらおうってのかい?﹂
男の子はかぶりを振りました。
﹁ぼくの妹に、﹂
男の子は言いかけて不意に口をつぐみました。
﹁きみの妹は花が好きなのかね?﹂
﹁はい。妹は死んでいるので。﹂
男は真面目くさった顔で男の子を眺めました。
﹁そいつは名句だな。﹂
男は言いました。
﹁名句には魔力があるのだよ。死者が花を好むと誰がきみに教えたのかね?﹂
﹁死んだ人はいつもお花を持っているもの。﹂
男の子は言い、自分の気取った考えを恥じて顔を赤らめました。
﹁それで、あなたはーっ、なにをーっ、探しているのですか?﹂
女の子が遮りました。
男はしかめっ面をするふりをし、まるで立ち聞きをおそれるかのように空き地をさっと見回しました。
﹁夢だよ。﹂
男はそっけなく言いました。
女の子はその答えについてしばらくじっと考え込みました。
﹁そのナップサックはなあに?﹂
女の子は切り出しました。
﹁うむ。﹂
男は言いました。
﹁そいつが詰まっているのさ。﹂
子供たちは興味津々でナップサックを眺めました。女の子の指がナップサックの紐をほどきたくてうずうずしました。
﹁それはどんなかんじのもの?﹂
女の子が尋ねました。
男は小さな笑い声をたてました。
﹁きみの夢にも、そっちのぼくの夢にもとてもよく似ている、とぼくは思うね。きみが大きくなり、立派な娘さんになったとき、本当の夢というのはたった一つだけ、分別のある者のためだけにあるのだということを知るだろうよ。けれど、ぼくの困り事を聞きたがるのはもうよしてくれ。きみには分かりっこないことさ!﹂
男はポケットに手をつっ込んでフラジオレット*4を引っ張り出し、唇に当てました。
﹁お聞き!﹂
男は言いました。
女の子は、笛の筒から小さなメロディーが飛び出すのが見えるようにおもいました。それは本当の妖精のように妖精の輪のまわりをくるくる踊り、そこに木霊も加わって、木々の間を軽やかに跳ねまわるのでした。
男の子はぽかんと口を開け、なんにも言いませんでした。
とうとう妖精がよろめき出し、木霊がすっかり息を切らしたので、男はフラジオレットを唇から離しました。
﹁やれやれだ。﹂
男は微笑みながら言いました。
﹁ありがとうございました。﹂
女の子はお行儀良く言いました。
﹁とっても素敵でしたわ。ちょっと、あなた!﹂
女の子は男の子の手を振りほどきました。
﹁手が痛いじゃない!﹂
男の子は目をおかしな風に光らせ、うろたえて両手を振りました。
﹁月明かりの中ではみんな死んじゃうんだ!﹂
男の子は叫びました。
﹁草がすっかり濡れているのはそのせいなんだ。﹂
女の子は驚いて男の子のほうに向き直りました。
﹁まあ、あなた、声が治ったのね。﹂
﹁そういうことなら、﹂
男はフラジオレットをポケットに戻しながら真面目くさって言いました。
﹁ナップサックの中身をきみらに見せてあげてもいいだろう。﹂
男がナップサックの紐を解くのを、女の子は熱心にのぞき込みました。けれど中身を見ると、がっかりした声をあげました。
﹁絵だあ!﹂
女の子は言いました。
﹁絵だ。﹂
男は淡々とくり返しました――。
﹁夢の絵さ。きみがこれをどう見るかは知らないがね。おそらく月は一番良く見えるように尽くしてくれるだろうが。﹂
女の子は絵を丁寧に眺めては、男の子に一枚一枚手渡していきました。
やがて女の子は気がつきました。
﹁まあ、あなた!﹂
女の子は叫びました。
﹁その涙で絵をだめにしてしまうじゃないの。﹂
﹁ごめんなさい。﹂
男の子はかすれ声で言いました。
﹁止まらないの。﹂
﹁分かっている。﹂
男は素早く言いました。
﹁気にしなくていい。きみは前にもこれらの絵を見たことがあるんだね。﹂
﹁ぜんぶ知ってる。﹂
男の子は言いました。
﹁見たことはないけど。﹂
男は眉をひそめました。
﹁悪魔じみてるな。﹂
男は呟きました。
﹁子供が話す言葉ってのは。﹂
男は、男の子の涙を困ったように眺めている女の子のほうに不意に向き直りました。
﹁ベッドに入っておねんねする時間だよ。﹂
男は言いました。
﹁今夜は妖精は出てこないよ。妖精には寒すぎるからね。﹂
女の子はあくびをしました。
﹁妖精が出てくるまでずうっと待っていたりしたら、戻ったとき叱られちゃうわね。かまわなくてよ。﹂
﹁月が弱まったよ。﹂
不意に男の子が言いました。
﹁もうどんな影もできないよ。﹂
﹁森の外まで送っていこう。﹂
男は言いました。
﹁そこでおやすみだ。﹂
男はナップサックに絵をしまい、それから三人はざわめく森の中を黙って歩いていきました。
森の切れ目に来ると、女の子は立ち止まりました。
﹁森の子さん。﹂
女の子は男の子に言いました。
﹁あなたはここから先に来てはいけないわ。お望みなら、わたしにキスしてもよろしくてよ。﹂
男の子はじっと動かずに、決まり悪そうに女の子を見つめました。
﹁あなたっておばかさんよね。﹂
そう言うと女の子はついと頭を反らせ、誇り高く大またで霧の中を歩き去っていきました。
﹁どうしてキスしてやらなかったんだね?﹂
男は尋ねました。
﹁あの子の唇でやけどするもの。﹂
男の子は言いました。
男と男の子は、公園をゆっくりと横切っていきました。
﹁さあ、きみ。﹂
男は言いました。
﹁文明はベッドに入っておねんねしたよ。きみの運命の足音に耳を傾けるときが来たのだ。﹂
﹁ぼくはただの貧乏な男の子なんだよ。﹂
男の子は無邪気に答えました。
﹁どんな運命もないとおもうけど。﹂
﹁逆説家だな。﹂
男は言いました。
﹁老人の偽善を隠すことは、結果として青春の純真さを隠すことにもなる。でもぼくさすらう。今夜、きみは名句を作ったね。﹂
﹁名句ってなに?﹂
﹁夢とはなんだ? 薔薇とはなんだ? つまり、月とはなんだ? きみ、ぼくはきみを月の子だとおもっているよ。きみは彼女の淡き花を腕に抱く。彼女の白き光線はきみの四肢を愛撫し、きみは大地の子のそれよりも彼女の冷たいキスを好む。まことに結構だ。しかし、とりわけきみは沈黙という彼女の偉大な音楽を持っている。とりわけ彼女の涙を持っている。ぼくが笛を奏でたとき、きみは母上の声を思い出したんだ。ぼくの絵を見たとき、母上が子守歌代わりに聞かせた物語を思い出したんだ。それで、きみが母上の息子で、ぼくの弟だと分かったんだよ。﹂
﹁月はいつもぼくの友達だった。﹂
男の子は言いました。
﹁でも、お母さんだったなんて知らなかったよ。﹂
﹁きみの妹はおそらく知っているだろう。幸せな死者は彼女を見つけては喜ぶ。なぜなら、彼女は彼らの母だからだ。それが彼らが白い花をたいそう好む理由なのさ。﹂
﹁ぼくたちにはお家にお母さんがいるんだね。お母さんはぼくたちのために一生懸命働いているんだね。﹂
﹁だが、きみの人生を美しくしてくださる母上は、今は雲の間にお隠れになっている。きみの人生の美しさは、きみの時代の基準になるのだ。﹂
男の子がこれらのことを考えている間に、二人は公園の門までやって来ました。二人は足音を忍ばせて静まり返った公園の門番小屋の前をすり抜け、本道へ出ました。
物陰で一人の男が待ちかまえていました。男は男の子の連れを見ると、勢いよく飛び出してその腕を引っつかみました。
﹁そうら、捕まえたぞ。﹂
待ちかまえていた男は言いました。
﹁もう二度とやすやすと逃げられるとおもうなよ。﹂
月の息子は軽い奇妙な笑い声を立てました。
﹁なんだ、テイラーか!﹂
月の息子は愉快げに言いました。
﹁だがな、テイラー、あんたは大きな過ちを犯しているぜ。﹂
﹁そうかもなあ。﹂
看守は言い、大笑いしました。
﹁ここにいるこの子はね、テイラーよ。このぼくよりもはるかに気が狂っていると請け合うぜ。﹂
テイラーは思いやり深い目で男の子を眺めました。
﹁ベッドに入る時間だよ、ぼうや。﹂
テイラーは言いました。
﹁テイラーよ、﹂
月の息子は真顔で言いました。
﹁この子は三つも名句を作ったんだぜ。あんたがこの子を監禁したりしなけりゃ、この子はきっと詩人になる。この子はきっと、あんたたちの尊い正気の世界を、この子の母上、月の炎で燃え上がらせるだろう。あんたたちの宮殿はおしまいだぞ、テイラー、あんたたちの王国は塵と化すんだ。警告しておくぞ。﹂
﹁そのとおりでさあ、だんな。さ、おれと一緒に来るんだよ。﹂
﹁少年よ。﹂
月の息子は高貴な物腰をたたえて言いました。
﹁きみは自由を守りたまえ。神の慈悲により、すべての人間は愚かさという権威のとりこなんだ。ぼくたちはいずれ、月の光のもとでまた会えるだろう。﹂
夢を見るような目で、男の子は連れの旅立ちを見守りました。
道を進むにしたがい、男の姿はだんだん見えなくなっていきました。そのとき、奇跡のようなことが起こりました。道ばたの木々の間から月光が差し込み、男を照らし出したのです。
しばらくの間、それは後光のように男の頭に落ち、夢の詰まったナップサックに触れて光輪のように輝かせました。
それから、夜の暗黒の中にすべてが消え失せていきました。
男の子が家路に着こうと向きを変えると、頬に冷たい風をかんじました。それは夜明けの最初の吐息でした。