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海の駅あしずり 外観""
 西
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ジョン万次郎資料館内
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     0880-82-3155 


ジョン万次郎の生涯
西 暦 年 齢 事 柄
1827 0 土佐国中ノ浜村才前の漁師、父悦介・母汐の次男として生まれる。
9歳の時父死亡、10歳で中浜浦老役、今津太平宅に下働きに出る。
1841 14 正月5日足摺岬でのアジ、サバ、漁中に漂流(10日間)九死に一生を得て、南海の孤島、鳥島に漂着、わずかな溜水と海草、海鳥を食して143日間を生きながらえる。
その後、米国捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助され、ホイットフィールド船長の保護を受ける。
1842 15 漂流仲間とホノルルで別れ、万次郎一人捕鯨船員として太平洋へ乗り出す。
1843 16 捕鯨航海を終え、船長の故郷マサチューセッツ州、フェアヘブンに帰港。
その後、オックスフォード校(初級)、バートレット専門学校(上級)で、英語、数学、測量、航海、操船等の教育を受ける。
1846 19 米国一流の捕鯨船フランクリン号の航海士として乗船し、大西洋から喜望峰をまわり、インド洋、更に太平洋での捕鯨航海へと、文字通り「7つの海」をかけ巡る。ホノルルにも立寄り、仲間と再会する。
1848年7月一等航海士副船長となる。
1850 23 アドベンチャー号を購入し、伝蔵(筆之丞)、五右衛門の3人で母国へ帰る便船、サラボイド号の人となる。
1851 24 沖縄本島(琉球国摩文仁間切小渡浜)に上陸。
1852 25 那覇-翁長-薩摩藩鹿児島-長崎奉行所(白州での尋問全18回に及ぶ)。
その後、土佐藩主山内豊信の命により、吉田東洋から70日の取り調べを受ける。実に1110ヶ月ぶりに母汐と再会がかなう(わずか5日間)。土佐藩の士分に取り立てられ、高知城下の藩校「教授館」の教授となる。この時、後藤象二郎、岩崎弥太郎等が直接指導を受けている。
1853 26 老中首席阿部伊勢守からの召喚状が土佐藩の万次郎に届き、江川太郎左衛門の手附を拝命、ご普請役格としての「幕府直参」となる。この頃、生れ故郷の地名を苗字として「中浜万次郎」を名のる。
1857 30 アメリカ合衆国航海学書の翻訳完成。つづいて英会話書(英米対話捷径)を編集する。
軍艦教授所教授を拝任。捕鯨術教授のため箱館へ出発(箱館奉行所与力次席)。
1860 33 批准使節団の一員として、「咸臨丸」に乗り込む。艦長勝海舟、教授方通弁主務中浜万次郎他総勢96名、後の慶応義塾大学長福沢諭吉(当時26歳)も同行し、共にウェブスターの英語辞書を購入したエピソードは有名である。
1861 34 外国奉行水野筑後守忠徳に同行し、小笠原諸島(父島、母島)の調査と図面造りをする。
1862 35 妻鉄死亡。
1864 37 薩摩藩の開成所教授となり、航海、造船、測量、英語を教授する。
1866 39 土佐藩主山内容堂の命により、後藤象二郎等と藩校「開成館」の設立に寄与する。
また二人は上海に渡り、土佐藩船を購入する。
1869 42 明治政府の命を受け、開成学校(現東京大学)の徴士(二等教授)となり、明治3年には、中博士(教授)となって、最高学府の教壇に立つ。
1870 43 普仏戦争視察の一員として、ヨーロッパ出張。
1871 44 ロンドンから帰って間もなく、軽い脳溢血を起して倒れ、程なく全快するが、以後政治の前面には出ず、波乱万丈の半生に比べて誠に静かな晩年を送る。その間、中浜にも数度帰省し、母(明治12年に86歳で死亡)を見舞った。
1898 71 東京京橋弓町長男中浜東一郎医博(岡山医学校教授)宅で71歳の生涯を終える。




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