横浜線沿線散歩公園探訪
横浜市神奈川区高島台
高島山公園
Visited in May 2002
高島山公園
京浜急行神奈川駅から青木橋を渡り、国道1号を横切って本覚寺から三宝寺脇を通る坂道を上り詰めると、右手に高島山公園がある。現在は高島台という名の住宅地になっているこの丘は、横浜開港期に鉄道用地の埋め立てや瓦斯事業などの数々の功績で知られる高島嘉右衛門が晩年に住まった場所であるという。そこから「高島山」と呼ばれるようになり、この公園の名がある。

高島山公園−「望欣台の碑」
園内には高島嘉右衛門の功績を顕彰する「望欣台の碑」が建っている。もともとは高島邸にあったものを公園内に移設したものだ。「望欣台(ぼうきんだい)」とはわかりにくい言葉だが、園内に設置された案内パネルの解説によれば、「港内の繁栄と事業の功績を望み、欣然として心を癒したことから」の命名であるという。「望欣台の碑」は高さ285cm、幅150cm、1877年(明治10年)の建立で、現在は横浜市地域史跡に指定されている。碑文は高島嘉右衛門の友人荒木誠樹の作で、三宝寺の住職で歌人としても知られる大熊弁玉が筆を取ったものという。
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高島山公園−大熊弁玉歌碑
公園の西の端には「望欣台の碑」の碑文に筆を取った大熊弁玉の歌碑も建立されている。高さ246cm、幅153cmの碑は、これも横浜市地域史跡に指定され、大熊弁玉の功績を顕彰する。

大熊弁玉は1818年(文政元年)、江戸浅草に生まれている。1830年(天保元年)に仏門に入り、1850年(嘉永3年)に三宝寺の21代住職となり、以後神奈川に暮らしている。江戸末期の国学者として知られる橘守部(たちばなのもりべ)などに和歌を学んだという。特に長歌に秀でた弁玉は明治期初めの文明開化の頃のさまざまな新事物を長歌に詠み、歌僧として後世に名を残すことになった。1879年(明治12年)に弁玉の長歌集「由良牟呂集(ゆらむろしゅう)」が門人や弟子たちの手によって編集、出版されたが、その翌年に弁玉は没している。
高島山公園
高島嘉右衛門の顕彰碑の建つ高島山公園だが、意外にもそこからの視界は横浜の港湾方面ではなく北方へ向かって開いている。眼下には東急線反町駅付近の住宅街が広がり、その向こうには小高い丘が見え、眺望は良く、広々とした視界が爽快だ。園内にはわずかに遊具があるが子どもたちの遊ぶ姿はなかった。公園として特筆すべきものはなく、トイレも設置されていないので少々不便だが、神奈川の史跡を訪ねる散策の際に立ち寄ってみるのもよいかもしれない。
高島山公園