米国に遅れること丸5年。ようやく米アマゾン・ドット・コムの電子書籍端末﹁Kindle︵キンドル︶﹂が日本に上陸する。25日には日本向けの電子書店﹁キンドルストア﹂もオープンした。品ぞろえや書籍価格は既存の電子書店と横並びで、国内出版業界の﹁商慣習﹂に配慮した格好。しかし競争環境は激変した。キンドルがもたらした衝撃とは何か。今後、何が起きるのか。
「端末市場に参入はしたが、我々は端末そのもので利益を出そうとは思っていない。あくまで我々は物品やコンテンツの小売り販売で収益を出す会社だ」。24日、日本でキンドル端末の予約販売を始めた米アマゾンのジェフ・ベゾス最高経営責任者(CEO)はこう語った。
その言葉通り、キンドル端末の価格競争力は強く、特に市場争奪戦が激しさを増す小型タブレットで際立つ。7インチの高精細カラー液晶を搭載した﹁キンドル・ファイアHD﹂は1万5800円。米グーグルが先月に発売し、低価格で話題を呼んだ小型タブレット﹁Nexus7﹂の1万9800円を下回る。24日は、米アップルも小型タブレット﹁iPadmini﹂を発表。こちらは2万8800円からと、価格面ではキンドルを前にかすむ。
日本でも始まったタブレットの"異種格闘技戦"。小売りサービス業であるアマゾンにとって、端末販売はあくまで顧客を誘導する手段であり、目的ではない。主戦場はキンドルストア。だからこそ、商品の﹁品ぞろえ﹂や﹁価格﹂にこだわってきた。
25日、キンドルストアのオープンで詳細が明らかに
2007年11月、北米でキンドルを始めたアマゾンは開始時に約9万点をそろえ、その後1年半で20万点まで増やした。今や英語タイトルの「キンドル版」は140万点以上。そのほとんどが紙の書籍価格から3~4割ほど安い「9.99~12.99ドル(ハードカバー)」と高い訴求力を保つ。
米国でキンドルが発売されてから丸5年。準備に相当な時間をかけただけにキンドルを待ち望んだ日本の消費者からの期待感も膨らむ。25日、端末の出荷に先駆け、日本向けキンドルストアがオープン。ついに、日本版キンドルの全貌が明らかとなった。ところが……。
「最低でも10万タイトルはそろえると思っていたのですが5万とは。価格もほぼ横並び。意外でした」。国内で電子書籍事業を展開する大手企業の幹部はキンドルストアの印象をこう話す。
有料の一般書籍は約2万5000点
今回、講談社、集英社、小学館のいわゆる"ビッグ3"はじめ、国内のほとんどの主要出版社が日本版キンドルに参加した。だがすでに各社は既存の多くの電子書店でも電子版を販売している。
アマゾンが用意した開始時の日本語タイトル数は約5万点。うちコミックが約1万5000点、「青空文庫」などの無料作品が約1万点を占め、有料の「一般書籍」に限れば約2万5000点となる。既存の電子書店と比較しても、「凡庸」と言わざるを得ない。
ソニーが電子書籍端末「リーダー」向けに運営する電子書店「リーダーストア」は約6万8000点、楽天コボ向けの「コボストア」は約6万5000点、紀伊國屋書店がスマートフォン(高機能携帯電話=スマホ)やタブレット向けに配信する「ブックウェブ」は約5万9000点。コミックや無料作品を差し引いた数でもキンドルを上回る。「ベストセラー」はどうか。
ランキング上位30位中、キンドル版は2作品
アマゾンは「オリコン週間"本"ランキングのBOOK(総合)、文庫、コミック、各部門の上位の多くのタイトルをカバーします」としている。そこで、同ランキングの「BOOK(総合)」の最新版(10月8~14日)と照らしてみると、上位30位のうちキンドル版が存在するのは、2作品(25日時点)だった。
一方、リーダーストアやコボストア、ブックウェブは、いずれも同ランキング30位中、14位の﹁聞く力︵阿川佐和子著、文藝春秋刊︶﹂の1作品のみ。キンドルは同著に加え4位の﹁人生がときめく片づけの魔法2︵近藤麻理恵著、サンマ-ク出版︶﹂がある。これは、キンドルがオープン時に用意した﹁先行・独占タイトル﹂68作品の1つだ。とはいえ、差は﹁1﹂。現状、﹁横並び﹂であることに違いはない。
国内の出版業界全体が抱える﹁電子化の遅れ﹂という課題、そして国内出版勢の﹁平等政策﹂を前に、アマゾンは品ぞろえで突き抜けることができなかった。
今年7月、楽天が主催したコボの発売記念パーティーに参加した大手出版グループ、角川グループホールディングスの角川歴彦会長はこう語っていた。﹁﹃ブックウォーカー︵角川直販の電子書店︶﹄もコボもどこも、電子化できたタイトルを平等に卸している。それはアマゾンが来ても一緒です﹂
キンドル上陸で大型の電子書店が1つ増えた。でも特別扱いはしない。角川グループだけでなく、ほとんどの出版社が同じ考えだ。だから現状、品ぞろえで大差がつくことはない。では、キンドルは書籍価格で差をつけることができたのだろうか。
キンドル版価格、既存書店とほぼ横並び
キンドル独占の﹁人生がときめく片づけの魔法2﹂のキンドル版価格は1000円と、紙の書籍の32%オフ。だが﹁聞く力﹂のキンドル版は紙と同じ840円で、ほかの電子書店も840円均一。さらに調べた結果、ほとんどのキンドル版の価格が既存の電子書店と﹁ほぼ﹂横並びであることが分かった。
アマゾンのベゾスCEOは日本で、出版社が販売主体となり価格を決める﹁代理店モデル﹂と、アマゾン側が小売店として価格を決める﹁卸売りモデル﹂、2種類の契約形態に対応したことを明かしている。代理店モデルを選択したのは、講談社、集英社、小学館、文藝春秋、光文社などの大手出版で少数派。各社はきっちり、ほかの電子書店と同一価格でそろえてきた。
たとえば講談社の小説﹁新世界より 上︵貴志祐介著︶のキンドル版は紙の17%引きとなる630円だが、ブックウェブもリーダーストアも630円。コミックも同様で、小学館の﹁マギ︵大高忍著︶﹂のキンドル版は全巻、紙と同額の420円。扱いがあるほかの電子書店と同じだった。
一方、注目すべきはアマゾンが値付けできる卸売りモデルだ。角川グループ、新潮社、ダイヤモンド社、NHK出版、幻冬舎、PHP研究所、朝日新聞出版といった多くの出版社が選択した。日本には、著作物の小売り価格を維持する﹁著作物再販適用除外制度︵再販制︶﹂があるが、電子書籍には適用されない。アマゾンが﹁価格破壊﹂を仕掛けることも可能なのだが……。
若干安い卸売りモデル、差額は消費税
たとえば角川文庫の﹁天地明察︵冲方丁著︶﹂キンドル版は、上下巻とも紙から7%引きの540円。リーダーストアや角川直営のブックウォーカーは567円で販売しており、キンドル版が若干安い。同様に、ベストセラーとなったPHP研究所の﹁現実を視よ︵柳井正著︶﹂キンドル版は1067円だが、ブックウェブやリーダーストアでは1120円だ。
ただ、これらの差額はきっちり5%。つまり消費税分の違いでしかない。卸売りモデルの販売主体はアマゾン。本社もサーバーも米国にあり、国内法である消費税は適用されないという考え方だ。消費税の扱いについて議論はあるが、その考察は別の機会に譲るとして、卸売りモデルでも、アマゾンがほかの電子書店と事実上、同一価格を設定していることは興味深い。
卸売りモデルで契約した、ある大手出版の担当者はこう打ち明ける。﹁うちは、消費税の扱いを除けば、どこの電子書店で買っても同じ価格。基本的にキンドル版の価格がほかの電子書店を下回ることはあり得ない。そんなことがあったら、どの出版社も引き上げると思いますよ﹂
キンドル開始時は日本の商慣習を崩せなかったアマゾン
アマゾンは、圧倒的な販売量と価格破壊による新市場の拡大を実現してきた。だからこそ、国内出版勢にも卸売りモデルの契約を迫った。すべてが代理店モデルとなり、品ぞろえと価格が横並びになれば、自らの経営努力でコンテンツの魅力を打ち出すことができない。需要に応じた柔軟な値付けやセールなどのプロモーションをアマゾン側の判断で行える卸売りモデルが基本路線だ。
ところが国内出版勢は、長年維持してきた再販制をベースとする﹁商慣習﹂が崩れてしまうことをおそれた。国内の既存電子書店はというと、どこも日本の商慣習を﹁理解﹂し、事実上、出版社の希望小売価格を受け入れているのが実態だ。しかし、再販制のない米国のアマゾンと卸売りモデルで契約すれば、何が起きるかわからない。﹁米国流﹂に相容れず、契約書のサインを拒んできた国内出版勢とアマゾンとの交渉は、長引いた。
だが、およそ2年の本格交渉を経て両者は歩み寄った。最後はアマゾンが日本の商慣習を理解し、﹁配慮﹂した格好でのスタートになったということだ。キンドルストアの価格が、それを如実に物語っている。しかし、だからといってキンドル上陸に意味がなかったと考えるのは早計だ。
アマゾン・キンドルの衝撃は、あらゆる競争を加速させる。その1つが電子書店間の競争激化。今後を考えれば、電子書籍でも同一価格という商慣習が崩れる可能性も十分にある。すでに楽天コボを展開する楽天は、価格破壊に片足を入れているといってよいかもしれない。
くしくもキンドル上陸の報が流れた24日、ツイッターなどで「コボが勝手に送られてきた」との報告が相次ぎ、ネット上で話題となった。送付されたのはモノクロで省電力の電子ペーパーを搭載する「kobo Touch」。7980円で販売されている。
楽天コボでは電子クーポンによる電子書籍の値引きも
楽天によると﹁楽天カードの上位会員を対象に日頃のご愛顧を感謝する意味で送付した。キンドルとは関係がない﹂。11月には新型端末のリリースも予定されており、在庫処分の側面もあると見られるが、それにしても無料配布は大胆な試みだ。
楽天コボは、今年7月にサービスを開始した際、﹁約3万冊﹂と表示していた蔵書数が実際は1万9164点だった件について、今月中旬、消費者庁から行政指導を受けた。だが8月には3万点を達成し、その後の勢いもすさまじい。三木谷浩史社長はかねて、通販サービスで﹁打倒アマゾン﹂を標榜している。電子書籍でも相当に意識しているはずだ。
コボでは、電子書籍を割り引くプロモーションも進行していた。もともと北米では、紙の書籍だろうが電子書籍だろうが値引き販売が常態化している。有力な手法が﹁クーポン﹂。カナダに本社を置くコボも北米などで数々のサイトや会員に向けて﹁クーポンコード﹂を発行している。ユーザーのあいだでは、このコードが日本語書籍でも適用可能だと話題だ。
クーポンコードは海外のクーポンサイトなどで検索すれば何種類も出てくる。たとえば、その1つ﹁thankyou2012﹂という文字列をクーポンコードの欄に入力するだけで、誰でも何でも35%引きで買えてしまう。実際、27日時点で有効だった。有効期限が切れても、クーポンサイトには次々と新たなコードが登録されるため、それを使えばよい。つまり﹁表示価格﹂に依存しない割引き手法によって、事実上、電子書籍の価格破壊は進んでいるといえる。
電子ペーパー搭載キンドル端末、年内は入手不可
こうした競争に、アマゾンが対抗しないという保証はない。キンドルが日本の電子書籍市場を拡大し、書店として強大な販売力を手に入れれば、自ら進んで価格を引き下げる出版社が現れるかもしれない。その可能性はすでに高まっている。
キンドル端末のインパクトは大きい。格安ながらタブレットとしての魅力も備えるキンドル・ファイアHDを含め、広く普及する見込みは高い。電子ペーパーを搭載した﹁キンドル・ペーパーホワイト﹂は、NTTドコモの3G回線を搭載した機種がわずか1万2980円。電池は8週間も持ち、携帯電話の圏内ならどこでも通信料なしでコンテンツをダウンロードできる。11月19日から出荷予定だが、すでに27日時点で納期は来年1月6日。相当数の注文があることをうかがわせる。
キンドルはサービスとしても洗練されている。キンドル版はキンドル端末のみならず、スマホ、タブレットなどあらゆる端末から購入・閲覧が可能。検索機能やおすすめ本を紹介する機能、読み進める途中で端末を変えても﹁しおり﹂を引き継ぐ機能なども優れている。
たとえ品ぞろえと価格が横並びであっても、こうした端末とサービスの魅力が日本の電子書籍市場を大きくけん引するきっかけになり得る。市場が広がれば、出版社間の競争が加速する。そうなった時、モノをいうのは価格だ。
実際、キンドルではごく一部のタイトル、50点ほどが﹁セール品﹂として売り出されているが、その多くがキンドル版のベストセラー上位に食い込んでいる。現時点では電子書籍の価格破壊に二の足を踏む出版各社も、キンドル市場が拡大すれば新たな領域に踏み込まざるを得なくなるだろう。
「キンドルで目が覚めた」
すでにキンドルは、日本の出版業界の意識改革を促したと指摘する関係者もいる。PHP研究所で電子書籍関連の事業を担う中村由紀人・事業開発本部長は、こう語る。
﹁アマゾンは再販と委託で守られてきた﹃村社会﹄に、いきなり外国のルールを持ち込んできた。もう少し配慮が欲しかったという思いがある半面、おかげで出版業界全体の目が覚めたという思いもある。いつまでも同じことを繰り返すのではなく、我々自身も変わらないといけない。紙の出版市場はますます厳しい状況。リスクをもって進んだ出版社のみが、生き残るのではないでしょうか﹂
現在、横並びの電子書籍の価格については、公取委から何らかの指摘が入る可能性もある。ベゾスCEOはこういった。
﹁物理的なコストがかかっていない電子書籍は当然紙の本より安くなると消費者は期待する。それを前提にどういう流通戦略をとるかは、出版社の経営手腕の見せどころだ﹂。キンドル上陸で、もう﹁パンドラの箱﹂は開いたのだ。そういわんばかりの笑みを浮かべている。
︵電子報道部 井上理︶