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かしこい生き方 江戸しぐさ語り部 越川禮子さん
江戸しぐさは生き方の軸を伝える考え方そのもの

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「江戸しぐさ」が注目されています。現代にも通じる示唆に富んだものですね。

越川

文化・文政の頃の江戸は、人口100万人を越える大都市でした。武士と町方の人口は50:50、町方は下町に住み、その8割が何らかの商売を営んでいた、商人の町。そのため青森や九州など日本全国から、また海外からも多種多様な人達が集まってきました。そうした文化的背景の異なる人たちと――異文化との共生を、江戸しぐさという心構えを通して図っていたのでしょう。もちろん、当時は「共生」という言葉はまだありません。江戸における共生とは、皆が共倒れしないために、良好な人間関係を築くために「互角に向き合える、言い合える、付き合える」ノウハウとも言えます。それが江戸しぐさなんです。

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「江戸しぐさ」という言葉から、作法や型、あるいはマナーを説いたものと思いがちですが、それはごく一部だそうで、誤解している部分もありました。

越川

そこが、一番間違えて捕らえられている点です。江戸の庶民の中から自然に沸き上がってきたマナーやエチケットと思われている方が多いでしょう? でもそんな理想的な世界はなかなかありませんよ(笑)。江戸は徳川家康が入城してから、わずか100年も経たない内に、大都市になって、そこに海外も含めてあらゆる場所から、言葉や文化が全く違う人間が集った。そうした多様な人々が行き交う町で、どうしたら争いのない、平和な世界が築けるかという事を町人のトップに立つ人達が考え出した心構えが江戸しぐさなんです。彼らは、今で言えば、経団連のメンバーのようなもの。その人達は、当然自分たちの商売の事を考えていたわけですが、その繁栄のためには、町が平和で安定していなければならないという事を理解していた。だから江戸しぐさというのは、単にマナーやエチケットの話ではなくて、人間の生き方そのものを説いているんです。江戸では江戸しぐさとは言っていません。繁盛しぐさ、商人しぐさと言っていました。
マナーって人が見ていないと守らないことがあるでしょう。でも、江戸しぐさは「癖」なんです。癖になっているから、それをしないと気持ちが悪い。例えば、ごはんを食べる前に手を洗うという習慣が身に付き、癖になっていると、手を洗わずに食事をするなんて考えられないはず。違いは、まさにそれ。確かに江戸しぐさは、マナーでもあるし、エチケットでもあるけれど、それは心の底にある気持ちの表れです。そうした心が伴わければ単なるマニュアルに過ぎません。

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つまり上に立つ人間の処世訓のようなものが江戸しぐさというわけですね。それがどのようにして庶民にまで広がったのですか?

越川

私も江戸時代に生まれたわけではないので(笑)、具体的にどのように広まったか、詳しくは分かりません。なぜ詳しく分からないかと言えば、江戸しぐさに示された異文化との付き合い方や、健康を維持する秘訣、夫婦喧嘩をしないコツ、発明を生むヒントなどは、代々、口伝で受け継がれてきたものだからなんです。だから、資料としては残っていないんですね。私は、ある機会を得て、江戸しぐさの伝承者である芝三光先生から、いろいろな話を伺う事が出来、それを本にしてそれから私も江戸しぐさについてお話するようになったんです。
江戸しぐさの広がりは、江戸寺子屋や江戸講の影響が大きいんだろうと思います。講は、定期的に開かれる相互扶助の会合とでもいうのかしら。多種多様な講があったそうですが、そうやって、あるテーマにそって勉強会を開いていたわけです。そこには先ほど言ったような商人のトップの人たちが先達し四書五経や陽明学を学んだりもした。江戸しぐさの中には、そういった古典が織り込まれているんです。それを学び、咀嚼し、やさしい言葉で表現して江戸しぐさとして率先して実行していったわけです。庶民は、トップの人達の姿を見て今の言い方で「格好良い」と真似ていったのでしょうね。だから、八っさん、熊さんにまでそれが広がっていったのだと思います。

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知らない人とも友好な関係が築ける、あるいは商売繁盛の秘密が、そこに秘められていたわけですね。

越川

そうなんです。多分、お金も教養もあるトップクラスの商人達の立ち居振る舞いは、美しく、いきで、真似てみると気持が良いわけですよ。例えば、雨の日に相手が濡れないように傘をかしげる「傘かしげ」とか、さりげない「会釈のまなざし」だとか、そうしたちょっとしたことが、気持ち良い関係を築くきっかけになっているわけです。
「江戸しぐさ」のしぐさは「思草」と書きます。「思」は思慮、思う事で、「草」は「その言い草が気に入らない」などという「くさ」で言う行為、つまり思いが即、行為になることです。そうと分かると、楽しさもぐっと増すし、その奥深さにも気づくはずです。

 

越川


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江戸時代には、寺子屋で江戸しぐさを学んだんだそうですね。

越川

江戸寺子屋は、一般の寺子屋と違って、商人達がお金を出し合った公塾のようなものでした。入学日も6歳の6月6日で、読み書きそろばんだけでなく、見る、聞く、話す、考えるに主眼が置かれていました。江戸寺子屋は、女あるじ、男あるじの卵を養成していたのです。

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どういったしぐさの勉強が行われていたのですか?

越川


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糸の数がたくさんないといけない、と?

越川


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61215
 
   

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今、ビジネススクールなどで行われるディベートに似ていますね。

越川



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子供の得手不得手を見極めた上で、優秀な後継者に後を譲るとは、ビジネスライクというか…。

越川

そしてフェア。人情はあるけれども、情には流されないところも江戸しぐさの奥深いところです。他にも「時泥棒は十両の重罪」とされていました。これは死罪にも近い重罪という意味で、もちろん比喩ですが、アポイントも取らずに、いきなり訪問して相手の時間を無駄に奪うことは、それだけ罪が重いとされていたのです。だから例えば娘の嫁ぎ先の近くを商用で通るような事があっても、ちょっと立ち寄ろうなんて事はなかったそうですよ。忙しい商人にとって、それはしてはいけない事とされていたんです。

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これもまた随分と合理的ですね。

越川

そうです(笑)。江戸商人の間では、今で言えば名刺交換会のようなものもありましたが、名刺と一緒に互いのスケジュールの情報も交換したそうです。そしたら、互いの時間を無駄にすることもない。非常に合理的でしょう? こんな話を聞いた帰国子女が、江戸しぐさはアメリカ的だと言っていましたよ。
今すぐ役立つような特効薬を江戸しぐさに求める人もいますが、江戸しぐさは「こうしたらこうなる」という特効薬じゃありません。私は、予防医学の処方箋だと思っています。
例えば「おはよう」には「おはよう」、「おはようございます」には「おはようございます」と返す江戸しぐさ。つまり同格の言葉で返すということです。江戸商人は、どんな身分の人に対しても、失礼にならないものの言い方がしつけられていたんです。同格で返すことによって、人は基本的に互角であるということを表明した事になるわけです。ある出版社の女性課長が、部下に対して「おはようございます」と返してみたそうです。それまでは「おはようございます」と部下に言われても「おはよう」と挨拶していたのを、同格の言葉で返したら、何だかとても気持ちが良かったそうです。それに部屋の空気が微妙に変わってきたと言っていました。何回も続けることで、上司と部下、ではなくて、そこに良好な人間関係が築かれてゆくのです。そういう処方箋が江戸しぐさにはあるのです。

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丁寧な言葉だけではなくて、人間の機微を巧みにつかんでいますね。江戸しぐさには良好な人間関係を築くためのハウツーであり、ノウハウが示されているんですね。

越川

挨拶を交わしましょう、というのは、気持ち良いという単純な話でもなく、「私はあなたに敵意はありません」という気持ちの表れになるのです。今年ニューヨークを訪れた知人が、「9.11以後、ニューヨークは変わった」と言っていました。どう変わったかというと、挨拶をするようになったのだそうです。

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挨拶?

越川



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挨拶や言葉を交わすことで、そこに関係が築けますものね。

越川


  

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江戸の頃と同じですね。上に立つ人が、まずそれを示す事が重要なのですね。

越川

ちっとも難しい事ではないはずです。そして金科玉条のように「傘かしげ=江戸しぐさ」ではない、という事を知っていただきたい。もちろん形から入るのも間違いではないけれども、江戸しぐさは、もっと奥深いものなんです。
商人達が、商売の繁盛と江戸の繁栄を願って生み出したものですから、単なるサービスではありません。相手に恨まれず、合理的に利益を生み出す――そのコツでもあるのです。ただし、先にも言ったように特効薬ではありません。「百文の客より一文の客」という言葉が江戸しぐさにありますが、長い目で物事を見て、結果として利益を上げていくための、しなやかで、したたかなハウツーなんです。だから、現代にふさわしい江戸しぐさも生まれてくるはずです。もちろん江戸しぐさの原理原則は崩してしまっては意味はないけれども、現代のしぐさが登場してきても良いと思いますね。

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相手も気持ち良く、自分も気持ち良い、そして互いの利益になる…今一度、その精神を学び直したいですね。

快感を実感し、体得することは「気持ち良い」から始まる
越川禮子(こしかわ・れいこ)
1926年東京生まれ。青山学院女子専門部家政科を卒業。66年、女性スタッフのみで市場調査と商品企画などを手がけるインテリジェンス・サービスを設立。86年、アメリカの老人問題を取材したドキュメント『グレイパンサー』(潮出版)が「潮賞ノンフィクション部門」の優秀賞を受賞。「江戸しぐさ語りべの会」を主宰、「江戸しぐさ」の普及に務め各地で講演活動を行っている。著書に『商人道 「江戸しぐさ」の知恵袋』(講談社)、『子どもが育つ江戸しぐさ』(ロングセラー)、『江戸の繁盛しぐさ』(日本経済新聞社)など多数。
 
●取材後記
「マナーだったら人が見ていないところでは破ってしまうかもしれないが、江戸しぐさは癖になって身体に染み付いたものだから、人が見ていようがいまいが、それをしなくては気持ち悪いと思うもの」とのこと。ご飯を食べる前に「いただきます」と言わないと気が済まず、一人で入った定食屋さんでも、小さく手を合わせてしまうのが、それか!と合点がいった次第。たまに恥ずかしい思いをするのだが…。

構成、文/飯塚りえ   撮影/海野惶世   イラスト/小湊好治 Top of the page

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