内田樹教授の最終講義を聴講してきた(3)
2011年1月25日(火) 7:28:03
内田樹最終講義の話の続きである︵初回、二回目︶。
ヴォーリズの設計思想の深い話は終わり、ここからまた違う話に入っていくのだが、ヴォーリズの話の途中でこんなエピソードを語っていたのを思い出したのでそれを書いておく︵このエピソードはたとえばココでも書かれている︶。
震災前に大学が財政難に苦しんで、某シンクタンク︵名前は明かさなかった︶にコンサルを頼んだら、﹁地価が高いうちに土地を売って郊外移転を考えましょう。こんな築六十年の建物なんて無価値です。維持費もかかるし、こんなものを残しておくのはお金をドブに棄てるようなものです﹂と言われたらしい。
﹁彼らは地価とか坪単価はわかるかもしれないが、この建物の価値も、そこで学ぶことの意味もわからない。数値化できるものしか信じない市場原理主義と、私はそのときにきっぱり決別した﹂
ずっと穏やかに語ってきた内田先生、ここだけはかなり語気を強めた。
そしてこの言葉は後半の﹁存在しないものをどう捉えるか﹂というテーマにつながっていく。
さて。 ここからリベラル・アーツの話に移っていく。 リベラル・アーツ、つまり人文科学、社会科学、自然科学などをそう呼ぶが、元々の意味は﹁人を自由にする学問﹂のことだ。それを学ぶことで︵奴隷的ではない︶自由人としての教養が身につくもののこととされる。 導入は孔子の﹁六芸︵りくげい︶﹂から。 孔子のいう君子の﹁六芸﹂とは、礼・楽・射・御・書・数、である。 この中の﹁礼﹂を説明する過程で﹁存在しないものからのシグナルを聴き取る﹂という大切な話になっていく。 ﹁礼﹂とはなにか。葬送の儀礼である。死者を祀るのは人間だけである。死者とはもう存在しないが﹁存在するのとは違う形で﹂我々に影響を与える。もう存在はしないが、その存在しない死者が、私たちの物の考え方や感じ方、様々な価値観や認識に絶えず影響を与え続けている。死者と﹁交通﹂する、死者のメッセージを聴きとる、メッセージを送る。それが﹁礼﹂である、と。 そして、﹁存在しないもののシグナルを聴きとる、存在しないものに対してメッセージを送る、これは高等教育の最終目標である﹂とつなげる。 この辺、前回の記事からもリンクした、内田ブログの﹁エマニュエル・レヴィナスによる鎮魂について﹂の記事と合わせて考えるととてもよくわかる。 死んだ父はもう﹁存在しない﹂。けれども、父の語ったこと、語ろうとしたこと、あるいは父がついに語らなかったことについて、私は死んだ後になってからも、むしろ死んだ後になって、何度も考えた。 そして、そのようにして﹁解釈された亡き父親﹂が私のさまざまなことがらについての判断の規矩として活発に機能していることにある日気づいた。 存在しないものが、存在するとは別の仕方で、生きているものに﹁触れる﹂というのは﹁こういうこと﹂かと、そのとき腑に落ちた。 そのとき、﹁他の人々に注意を向ける﹂ことなしには﹁聖句﹂の﹁語られざること﹂は開示されないというレヴィナスの言葉の中の﹁他の人々﹂には死者たちが含まれるということに気づいた。 含まれるというより、むしろ﹁他者﹂とはレヴィナスにおいて、ほとんど﹁死者﹂のことなのだ。 ﹁存在するとは別のしかたで、あなたがたは私に触れ続ける﹂という言葉は死者に向けて告げられる鎮魂の言葉以外の何であろう。 あぁよくわかる。 そして、この後、﹁六芸﹂の﹁楽﹂の説明で﹁存在しないもの﹂を読み解いてくれたので、もっとわかりやすくなった。 曰く、音楽の﹁旋律﹂とは﹁存在しないもの﹂である、と。 音は鳴った瞬間に過去になる。もう過去になってしまって聞こえない音があって、そして未来聞こえるはずの音があって、それらがつながって旋律となる。ある単独の時間において単独に存在する音はない。なぜなら音波は波だから。波というのは時間軸のこと。 過去に始まった空気の波︵振動︶が見事に響き続けている。まだ到来していないが未来の空気の振動が既に先駆的に先取りされている。そのような﹁過去と未来の両方﹂に手を伸ばしていける人間だけが旋律を聴きとることができる。孔子の﹁楽﹂は存在しないものをどう捉えるかということである、と。 言葉も一緒だと内田先生は言う。 もう言い終わった言葉を聞き、まだしゃべられていない言葉を聞く。つまり﹁存在しないもの﹂を聞いている。 それができなければ、そもそも思考することができない。存在しないものを知らないと、思考も言葉もない。 なるほどなぁ。 特に旋律の例がわかりやすかった。 我々は存在しない過去と存在しない未来を旋律として聴いているわけだ。それを結びつける作業を頭の中でしている。それが﹁思考﹂である。美しい旋律に高揚するのは﹁思考のジャンプアップ体験﹂なのかもしれないな。 ※ここで﹁犬が︵あれだけ耳がいいのに︶旋律を聴き取れないように見えるのはこういうことか!﹂と戦慄が走ったが、それはまた別のお話。 この流れで﹁コミュニケーションとは何か﹂というテーマが語られる。 巷間言われているコミュニケーションの定義は狭い、と。コミュニケーションとは存在しないものと関わる、存在しないものが送ってくるかすかな波動を聞き取る、そして自分から波動をおくることである、と。 それを学ぶことこそ教育の究極の意味。リベラルアーツとはそういうものである、と。
ここであるエピソードに移った。 彼が京大で講演したとき、経済学部の学生から一部揶揄的に﹁大学で文学を研究をすることに意味があるのですか﹂と聞かれたという。これも﹁存在しないもの﹂の文脈で解説される。 文学部が扱っているのは﹁存在しないもの﹂だ。 どんな風に人間は欲望を覚えるのか。絶望するのか。立ち直るのか。意気投合するのか。それを研究しているのが文学である。それはすべて形として﹁存在しないもの﹂だ。文学研究が投げかけるその﹁問い﹂が学問研究の基本であり、必ず学問の真ん中に存在してなければいけない。 なぜなら世界は﹁存在しないもの﹂に満ちているからである。 では聞こう。経済学のどこに実体があるのか。欲望とか需要は存在するのか。いや、存在しない。﹁存在しないもの﹂を研究しているのは経済学も一緒なのである。 この辺の明快な読み解きはとても共感ができた。﹁役立つこと﹂﹁儲けに直結すること﹂ばかりがもてはやされる日本ではあるが、リベラル・アーツが重要なのは﹁存在しないもの﹂の研究だからである。腹落ちした。文学部に急に行きたくなったw
このあと、愛神愛隣という神戸女学院大学の標語の話に移っていく。 これはご本人がブログで解説しているのでそちらを読んでいただきたい。が、少しだけ書く。 わずかに政治的運動に関わった自分の経験から政治的な運動をこう考えていると彼は言う。 ﹁自分の生身の身体で実現できる範囲以上の政治的理想を語るべきではない﹂。これは吉本隆明が言うところの﹁自分の拳に託せない思想を語るな﹂と近い。そして言う。﹁自分にできること以上の政治的理想を語ってはいけない。だから︵自分ができることを増やすためにも︶自分を高めるのである﹂と。 この辺の﹁身体性﹂についてボクはとても共感する。 そして、この考え方は﹁愛神愛隣﹂に直結していく。 隣人に対してパンを与え、服を着せ、一夜の宿を提供するという具体的な営みがないと神を愛するということにならない。その具体的な営みができないのであれば、それは信仰とはいえない。﹁自分自身の等身大、生身の身体が担保されない信仰は信仰ではない﹂。 つまり、﹁愛隣という身体性を伴う具体があってはじめて神を愛するという抽象が成り立つ﹂ということだと理解した。頭でっかちに抽象ばかりを考えがちな自分にはとても響く言葉であった。 そしてこう結ぶ。 ﹁これこそが﹃愛神愛隣﹄が僕自身の座右の言葉でもある理由である﹂。 その後、マタイによる福音書22章34~40節を朗読されて最終講義が締められた。
花束を両手いっぱい贈られている内田先生を見ながら考えた。 最終講義を振り返ってみると、愛神愛隣やリベラルアーツ、そしてヴォーリズのことなど、内田樹の研究に根ざした論説であったとはいえ、どれも神戸女学院大学の建学の精神に密接に関わるお話であった。 つまりこれは﹁この大学に存在しなくなる﹂内田樹という﹁存在しないもの﹂から贈られたシグナルなのであろう。﹁存在するとは別のしかた﹂で託された言葉なのだと思う。そのシグナルを聴きとり、存在しないものに対してメッセージを送り返すことこそ、この講義を聴いた人間の務めである。彼は暗にそう言っている。 そのことがわかって、ちょっと去りがたくなった。 予定ではそのまま新幹線でトンボ帰りするつもりだったが、ちょっとだけ懐かしの道を歩きつつ思索したくなった。教えてもらったものが自分に定着するまで数時間はかかる。この間、なるべく教えてもらった場所の近くにいるのが良い。 ボクにとっての﹁哲学の道﹂。 24歳から38歳までを過ごした夙川の土手が最適である。電車でそこまで移動して、ひとりでゆっくりゆっくり土手を歩いた。そして、苦楽園口の駅まで行って、いつものバー﹁バーンズ﹂で少し飲んだ。 夙川にも、そして﹁バーンズ﹂にも、ボクにとってはもう﹁存在しないもの﹂がたくさん溢れている。存在しないものが、存在するとは別の仕方で、生きているボクに﹁触れる﹂。 その触感が実体として感じられるような、希有な夜がそこにはあった。
さて。 ここからリベラル・アーツの話に移っていく。 リベラル・アーツ、つまり人文科学、社会科学、自然科学などをそう呼ぶが、元々の意味は﹁人を自由にする学問﹂のことだ。それを学ぶことで︵奴隷的ではない︶自由人としての教養が身につくもののこととされる。 導入は孔子の﹁六芸︵りくげい︶﹂から。 孔子のいう君子の﹁六芸﹂とは、礼・楽・射・御・書・数、である。 この中の﹁礼﹂を説明する過程で﹁存在しないものからのシグナルを聴き取る﹂という大切な話になっていく。 ﹁礼﹂とはなにか。葬送の儀礼である。死者を祀るのは人間だけである。死者とはもう存在しないが﹁存在するのとは違う形で﹂我々に影響を与える。もう存在はしないが、その存在しない死者が、私たちの物の考え方や感じ方、様々な価値観や認識に絶えず影響を与え続けている。死者と﹁交通﹂する、死者のメッセージを聴きとる、メッセージを送る。それが﹁礼﹂である、と。 そして、﹁存在しないもののシグナルを聴きとる、存在しないものに対してメッセージを送る、これは高等教育の最終目標である﹂とつなげる。 この辺、前回の記事からもリンクした、内田ブログの﹁エマニュエル・レヴィナスによる鎮魂について﹂の記事と合わせて考えるととてもよくわかる。 死んだ父はもう﹁存在しない﹂。けれども、父の語ったこと、語ろうとしたこと、あるいは父がついに語らなかったことについて、私は死んだ後になってからも、むしろ死んだ後になって、何度も考えた。 そして、そのようにして﹁解釈された亡き父親﹂が私のさまざまなことがらについての判断の規矩として活発に機能していることにある日気づいた。 存在しないものが、存在するとは別の仕方で、生きているものに﹁触れる﹂というのは﹁こういうこと﹂かと、そのとき腑に落ちた。 そのとき、﹁他の人々に注意を向ける﹂ことなしには﹁聖句﹂の﹁語られざること﹂は開示されないというレヴィナスの言葉の中の﹁他の人々﹂には死者たちが含まれるということに気づいた。 含まれるというより、むしろ﹁他者﹂とはレヴィナスにおいて、ほとんど﹁死者﹂のことなのだ。 ﹁存在するとは別のしかたで、あなたがたは私に触れ続ける﹂という言葉は死者に向けて告げられる鎮魂の言葉以外の何であろう。 あぁよくわかる。 そして、この後、﹁六芸﹂の﹁楽﹂の説明で﹁存在しないもの﹂を読み解いてくれたので、もっとわかりやすくなった。 曰く、音楽の﹁旋律﹂とは﹁存在しないもの﹂である、と。 音は鳴った瞬間に過去になる。もう過去になってしまって聞こえない音があって、そして未来聞こえるはずの音があって、それらがつながって旋律となる。ある単独の時間において単独に存在する音はない。なぜなら音波は波だから。波というのは時間軸のこと。 過去に始まった空気の波︵振動︶が見事に響き続けている。まだ到来していないが未来の空気の振動が既に先駆的に先取りされている。そのような﹁過去と未来の両方﹂に手を伸ばしていける人間だけが旋律を聴きとることができる。孔子の﹁楽﹂は存在しないものをどう捉えるかということである、と。 言葉も一緒だと内田先生は言う。 もう言い終わった言葉を聞き、まだしゃべられていない言葉を聞く。つまり﹁存在しないもの﹂を聞いている。 それができなければ、そもそも思考することができない。存在しないものを知らないと、思考も言葉もない。 なるほどなぁ。 特に旋律の例がわかりやすかった。 我々は存在しない過去と存在しない未来を旋律として聴いているわけだ。それを結びつける作業を頭の中でしている。それが﹁思考﹂である。美しい旋律に高揚するのは﹁思考のジャンプアップ体験﹂なのかもしれないな。 ※ここで﹁犬が︵あれだけ耳がいいのに︶旋律を聴き取れないように見えるのはこういうことか!﹂と戦慄が走ったが、それはまた別のお話。 この流れで﹁コミュニケーションとは何か﹂というテーマが語られる。 巷間言われているコミュニケーションの定義は狭い、と。コミュニケーションとは存在しないものと関わる、存在しないものが送ってくるかすかな波動を聞き取る、そして自分から波動をおくることである、と。 それを学ぶことこそ教育の究極の意味。リベラルアーツとはそういうものである、と。
ここであるエピソードに移った。 彼が京大で講演したとき、経済学部の学生から一部揶揄的に﹁大学で文学を研究をすることに意味があるのですか﹂と聞かれたという。これも﹁存在しないもの﹂の文脈で解説される。 文学部が扱っているのは﹁存在しないもの﹂だ。 どんな風に人間は欲望を覚えるのか。絶望するのか。立ち直るのか。意気投合するのか。それを研究しているのが文学である。それはすべて形として﹁存在しないもの﹂だ。文学研究が投げかけるその﹁問い﹂が学問研究の基本であり、必ず学問の真ん中に存在してなければいけない。 なぜなら世界は﹁存在しないもの﹂に満ちているからである。 では聞こう。経済学のどこに実体があるのか。欲望とか需要は存在するのか。いや、存在しない。﹁存在しないもの﹂を研究しているのは経済学も一緒なのである。 この辺の明快な読み解きはとても共感ができた。﹁役立つこと﹂﹁儲けに直結すること﹂ばかりがもてはやされる日本ではあるが、リベラル・アーツが重要なのは﹁存在しないもの﹂の研究だからである。腹落ちした。文学部に急に行きたくなったw
このあと、愛神愛隣という神戸女学院大学の標語の話に移っていく。 これはご本人がブログで解説しているのでそちらを読んでいただきたい。が、少しだけ書く。 わずかに政治的運動に関わった自分の経験から政治的な運動をこう考えていると彼は言う。 ﹁自分の生身の身体で実現できる範囲以上の政治的理想を語るべきではない﹂。これは吉本隆明が言うところの﹁自分の拳に託せない思想を語るな﹂と近い。そして言う。﹁自分にできること以上の政治的理想を語ってはいけない。だから︵自分ができることを増やすためにも︶自分を高めるのである﹂と。 この辺の﹁身体性﹂についてボクはとても共感する。 そして、この考え方は﹁愛神愛隣﹂に直結していく。 隣人に対してパンを与え、服を着せ、一夜の宿を提供するという具体的な営みがないと神を愛するということにならない。その具体的な営みができないのであれば、それは信仰とはいえない。﹁自分自身の等身大、生身の身体が担保されない信仰は信仰ではない﹂。 つまり、﹁愛隣という身体性を伴う具体があってはじめて神を愛するという抽象が成り立つ﹂ということだと理解した。頭でっかちに抽象ばかりを考えがちな自分にはとても響く言葉であった。 そしてこう結ぶ。 ﹁これこそが﹃愛神愛隣﹄が僕自身の座右の言葉でもある理由である﹂。 その後、マタイによる福音書22章34~40節を朗読されて最終講義が締められた。
花束を両手いっぱい贈られている内田先生を見ながら考えた。 最終講義を振り返ってみると、愛神愛隣やリベラルアーツ、そしてヴォーリズのことなど、内田樹の研究に根ざした論説であったとはいえ、どれも神戸女学院大学の建学の精神に密接に関わるお話であった。 つまりこれは﹁この大学に存在しなくなる﹂内田樹という﹁存在しないもの﹂から贈られたシグナルなのであろう。﹁存在するとは別のしかた﹂で託された言葉なのだと思う。そのシグナルを聴きとり、存在しないものに対してメッセージを送り返すことこそ、この講義を聴いた人間の務めである。彼は暗にそう言っている。 そのことがわかって、ちょっと去りがたくなった。 予定ではそのまま新幹線でトンボ帰りするつもりだったが、ちょっとだけ懐かしの道を歩きつつ思索したくなった。教えてもらったものが自分に定着するまで数時間はかかる。この間、なるべく教えてもらった場所の近くにいるのが良い。 ボクにとっての﹁哲学の道﹂。 24歳から38歳までを過ごした夙川の土手が最適である。電車でそこまで移動して、ひとりでゆっくりゆっくり土手を歩いた。そして、苦楽園口の駅まで行って、いつものバー﹁バーンズ﹂で少し飲んだ。 夙川にも、そして﹁バーンズ﹂にも、ボクにとってはもう﹁存在しないもの﹂がたくさん溢れている。存在しないものが、存在するとは別の仕方で、生きているボクに﹁触れる﹂。 その触感が実体として感じられるような、希有な夜がそこにはあった。