第76回 筆者多忙中につき
このコラムの原稿は﹁金曜入稿﹂のお約束なのだが、気がつくと日曜日に突入しかけている。﹁筆者多忙につき﹂とご挨拶だけで済ませたい気持ちもヤマヤマなのだが、そうもいかない。あまりの罪悪感に、くたびれ果てて目を閉じたばかりの日曜午前零時半に目が覚めてしまい、書くべきことが頭の中に充満し始めたので、ここで原稿をやっつけさせていただきたい。いずれにしても、これから原稿を校正したり整えたりするWEBアニメスタイルの皆さんには申し訳ない限り。
3月いっぱいで終わっているはずだった﹃BLACK LAGOON﹄の仕事が全然終わっておらず、うっかり5月まではみ出してしまうのも食い止めなくてはならない。遅れてしまった原因のどの辺までが地震とそれに続く何やかやのせいなのかそれもよくわからない。
で、自分自身は何をやっているのかといえば、原画チェック︵原画上がり率85%で、演出チェック通過率70%︶を行いつつ、例の撮出しなる作業でウンウン唸っている。どういうことをやっているのか、廣田恵介さんが構成された﹁メイキングオブ マイマイ新子と千年の魔法﹂をご覧いただければその一端は理解してもらえそうな気もするのだが、つまりは、撮影素材を重ねてみた上に一定の処理を追加することで、完成画面のイメージを築き上げたい、ということなのだが、今やっているのは、真っ暗なジャングルの中で行われる暗闘だったり、そこから夜が明けてゆく過程だったりして、撮影部に回す前に演出のほうできっちり設計方針を出して臨まなければややこしくなるだけなのが目に見えているところばかりなのだ。
何より﹁真っ暗な中で﹂というのが神経を遣う。画面全部を真っ暗にしてしまえば﹁何も見えません﹂で終わってしまう。
この場合、単純に明度を落とすことは得策ではない。﹁画面﹂というのは、映画のスクリーンもそうなのだが、モニターにしても﹁何も映されていない状態﹂は純黒ではない。グレーだ。これを黒に見せるためには、画面のどこかに適当な明部がなければならない。一点が白く輝いていれば、コントラストがついて、残りの何も映っていないグレーも﹁黒﹂に見えてくる。突き抜けた明部が設定できない全体に薄暗い画面を作ってしまうと、とたんに、画面全体が真っ暗にならず、全体にうすぼんやりしたグレーに濁ってしまう。学生の頃、溝口健二﹁雨月物語﹂を観て宮川一夫カメラマンが画面内に作り上げる﹁黒﹂の艶やかなことに舌を巻いたものだったが、要するに適当な階調の存在がそうした黒を作り出す。
うっかりすると、背景を描くスタッフなどでも、暗さを明度で表現するものとわきまえてしまい、その暗さの中での細部の描き分けを色相差︵赤いとか青いとか︶で変化をつけることで行ってしまっている場合があるのだが、ほんとうはコントラストが必要であるのと同時に、実際には人間の目は暗い中では色相を知覚できないものなのだ。目の網膜には、光の受容体として﹁錐体細胞﹂と﹁桿体細胞﹂というのがあって、錐体は色を区別できる代わりに光量を必要とし、夜目で働く桿体は色の波長を知覚できない。暗い中でものを見るとき、人間は︵人間に限らず動物一般は︶モノクロで見ている。逆にいえば、いろいろな﹁色﹂を持ち込んでしまうと﹁暗さ﹂の表現は危うくなってしまう。この辺を調整してやらねばならない。
しかし、伝統的に映画の画面はこういうときモノクロに作ろうとはしない。﹁夜は青いもの﹂として、青く染めることが多い。これは実写からしてそうなのだ。﹃雨月物語﹄みたいな白黒映画ならともかく、カラーの映像では、真っ暗な中に﹁適当な明部﹂を作るとき﹁青色のライト﹂を使ったりする。
人間なんか逆光で暗く落としておいてタッチライトで輪郭だけ青く光らせたりする。そうすると夜らしく見える。アニメーションのキャラクターの場合、こうした光のつけ方は、まず作画でそういうふうに描かれてなくてはならないわけで、そのあたりは作画開始時に作画監督方面にそういうふうに描いてもらえるようお願いしておいた。しかしそうやって描かれ塗られたものを背景の上においたとき、画面の中でキャラクターの輪郭が浮かび上がるようになっていないと意味ないわけで、かつ、背景のほうにも同種のライトを使ったような効果が得られていなければならない。ということで、セルと背景を重ねたところではじめて行うことができる、神経使う微調整が山のように存在してしまうのである。
原画チェックのほうもいろいろあってしまうのだが、そう、一点だけ披露しておくと、口パクのタイムシートの作り方に気を使わなければならないところがある。
いわゆる﹁口パク3枚﹂というのが、日本の3コマ撮りアニメーションの基本なのだが、いつの頃からかこの3枚の使い方が怪しくなってしまっている。
﹁閉じ口=1﹂﹁中口=2﹂﹁開き口=3﹂と動画番号が振られているとする。1、2、3が﹁1、3、1、2、3、1、2、1、3、2、3、1、3、﹂のように均等にアトランダムに出現してくれるとよいのだが、﹁1、3、2、3、2、3、2、3、2、3、1、3、2、3、2、3、2、3﹂と滅多に閉じ口が出現しないタイムシートのつけ方が蔓延してしまっている。
その昔は、撮影スタジオのほうから、﹁口パク3枚を均等にアトランダムに出現させていないタイムシートは、適宜そのように撮影のほうで修正させていただきます﹂などと通達が演出や動画に回ってきたりしたものだった。口パクのシートは動画でつけるのがもっぱらなのだが、その結果、撮影リテイクが膨大になってしまっては敵わぬ撮影部からの先制パンチだったりした。その昔はこの手のことでリテイクが頻発されていたさまがうかがえる。
3コマ撮りアニメでは3枚の口パクが均等にランダムに出現してこそ有効に使われる。﹁3、2、3、2、3、2、3、2、3﹂だと、口を開いたままブレているだけにすぎない。なんで、こうなってしまったのかといえば、1980年代の合作ブームに原因があったりするのではないか、と考えてしまう。プレスコした音声とリップシンクロのある海外作品では、子音﹁b﹂﹁m﹂﹁p﹂という破裂音3音のときだけを閉じ口とし、キャラクターが喋っているそのほかのあいだには閉じ口を設けない、というルールがあった。このルールが延長されてしまっているのではないかと思ってしまうのである。
しかし、﹁合作﹂の場合は、口パクは3枚ではなく﹁5枚﹂だった。破裂音のときにつかう閉じ口﹁A﹂のほかに、完全に閉じてはいないがほとんど閉じて前歯だけ見える口﹁B﹂というのがあって、中口﹁C﹂、開き口﹁D﹂、もっと大きな開き口﹁E﹂とともに、口の開閉をつけられるようにできていた。その同じルールを3枚しか口パクのパターンがないところに持ち込んでも結果はよろしくないわけなのである。
ということで、この際、動画に先立って演出のほうで口パクのタイムシートも際限なくつけてしまう。そういうちょっとした手間もあってしまう。