アララギ派の代表的な歌人には、正岡子規、伊藤左千夫、長塚節、斎藤茂吉など有名な歌人たちがいます。
歌誌『アララギ』他に参加したアララギを代表する歌人の経歴に代表作品を添えてまとめました。
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アララギ派について
アララギに至るまでの歴史
﹁アララギ﹂という名称は、最初から使われていたわけではありません。 会の名前が﹁アララギ﹂となって受け継がれる前に、いわゆる﹁アララギ派﹂の創始者である正岡子規とその周りに集まった短歌の会は、子規の住んでいた地名を取って﹁根岸短歌会﹂と呼ばれました。 正岡子規の亡くなったあとは、弟子であった伊藤左千夫が﹁馬酔木︵あしび﹂という冊子を創刊しました。 その後、会の名称が﹁アララギ﹂となり、歌を詠む会員が増え、優れた作品で有名になった歌人がたくさん生まれたのです。アララギの歌人たち
ここからは、アララギという名前になる前の、﹁根岸短歌会﹂以降の、アララギ派の主要な歌人を、明治・大正・昭和初期の順にご紹介していきます。正岡子規
1867-1902 慶応3年9月17日生まれ。愛媛県出身。帝国大学中退。明治25年日本新聞社入社、紙上で俳句の革新運動を展開。 28年以降は病床にあり、30年創刊の﹁ホトトギス﹂、31年におこした根岸短歌会に力をそそぎ、短歌の革新と写生俳句・写生文を提唱した。 明治35年9月19日死去。36歳。本名は常規(つねのり)。別号に獺祭書屋(だっさいしょおく)主人、竹の里人。歌集﹁竹乃里歌﹂﹁歌よみに与ふる書﹂﹁病牀六尺﹂他。正岡子規の代表作
瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり
くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる
真砂なす数なき星の其の中に吾に向かひて光る星あり
いちはつの花咲きいでて我が目には今年ばかりの春行かんとす
くれなゐの梅ちるなべに故郷につくしつみにし春し思ほゆ
■正岡子規関連記事
正岡子規の短歌代表作10首現代語訳 幾たびも 雪の深さを 尋ねけりの作者は正岡子規 対象に時間を見る姿勢 正岡子規 庭前即景 島木赤彦 切り火 あら玉の年のはじめの七草を籠(こ︶に植えて来し病めるわがため 正岡子規 下ふさのたかし来れりこれの子は蜂屋大柿吾にくれし子 正岡子規 真砂なす数なき星の其中に吾に向ひて光る星あり~正岡子規 いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす 正岡子規 瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり 正岡子規伊藤左千夫
1864-1913 明治元年8月18日生まれ。千葉県出身。明治法律学校(現明大)中退。 上京して搾乳業を営む。明治33年から正岡子規に師事し、子規没後の36年長塚節らと歌誌﹁馬酔木)﹂を創刊。 のち﹁アララギ﹂を主宰した。大正2年7月30日死去。50歳。本名は幸次郎。小説代表作に﹁野菊の墓﹂。伊藤左千夫の短歌代表作
牛飼いが歌よむ時に世の中の新(あらた)しき歌大いに起る
人の住む国辺を出でて白波が大地両分け(ふたわけ)しはてに来にけり
天雲の覆へる下の陸(くが)広ろら海広らなる崖に立つ吾れは
おりたちて今朝の寒さを驚きぬしとしとと柿の落葉深く
今朝の朝の露ひやびやと秋草やすべて幽(かそ)けき寂滅(ほろび)の光
■伊藤左千夫の短歌解説記事
長塚節
明治12年茨城県生まれ。茨城中中退。正岡子規に師事し、子規亡き後の明治36年伊藤左千夫らと﹁馬酔木﹂を創刊。41年﹁アララギ﹂に参加。万葉調の写生に徹し﹁うみ苧(お)集﹂﹁行く春﹂などを発表。 36年頃から小説を書き始め43年に名作﹁土﹂を発表。44年喉頭結核となり、大正4年死去。長塚節の短歌関連記事
根岸庵 ゆく春~長塚節初期の短歌 写生の悟りと青草集 初秋の歌 濃霧の歌~長塚節の歩み 結核に罹患 病中雑詠 長塚節の歩み 長塚節の短歌代表作 歌集﹃鍼の如く﹄ 長塚節﹁秋の歌﹂の序詞について 長塚節の伝記小説﹁白き瓶﹂藤沢周平初期アララギの主要歌人
正岡子規の亡くなった後は﹁馬酔木﹂という短歌誌を経て、﹁アララギ﹂が創刊されました。 初期アララギの主要歌人は、島木赤彦、斎藤茂吉、古泉千樫、中村憲吉がいます。初期アララギの特徴
この頃のアララギの特徴を述べた次の文章﹁アララギの生の本質﹂を山本健吉が書いています。 たとえば、白秋の﹁桐の花﹂﹁雲母集﹂と茂吉の﹃赤光﹄﹃あらたま﹄とを比べても、官能的あるいは宗教的な傾向において、相互浸透のあったことを指摘することができるが、どちらにより根底的な信念の強さが認められるかというと、それは茂吉なのである。その違いは微妙だが、同じ時代の同じ風潮のなかに呼吸しながら、そこにあった微妙な違いが﹁アララギ﹂を﹁アララギ﹂たらしめたのである。人間の﹁生﹂の本質に参入することが深かったといってもよいのだ。そしてそれが、茂吉、赤彦はもちろんのこと、憲吉も千樫も文明も、その絶大な自信のよ︵ママ︶ってくる所以なのである。島木赤彦
1876-1926 明治9年12月17日生まれ。長野師範卒。故郷長野県の小学校教員、校長をつとめながら、伊藤左千夫に学ぶ。大正3年上京し、斎藤茂吉らと﹁アララギ﹂を編集。 ﹁万葉集﹂を研究し、作歌信条として写生道と鍛錬道を説いた。大正15年3月27日死去。51歳。本名は久保田俊彦。旧姓は塚原。号は柿の村人など。著作に﹁歌道小見﹂歌集に﹁切火﹂﹁氷魚(ひお)﹂﹁太虗(たいきょ)集﹂等。島木赤彦の短歌代表作品
夕焼空焦げきはまれる下にして氷らんとする湖の静けさ
日の下に妻が立つとき咽喉(のど)長く家のくだかけは鳴きゐたりけり
あからひく光は満てりわたつみの海をくぼめてわが船とほる
みづうみの氷は解けてなほ寒し三日月の影波にうつろふ
信濃路はいつ春にならん夕づく日入りてしまらく黄なる空のいろ