郷土をさぐる会トップページ     第36号目次

後世に語り継ぐ事業シリーズ
名誉町民 故 尾岸孝雄の生涯

編集責任 中澤 良隆    編集補佐 佐川 和正
執筆協力 田浦 孝道
編集協力 新井 久己    編集協力 松下  力

※ 文中の敬語は適時省略させていただきます。



  

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祖父良右衛門は、福井県大野郡北谷村勝山、尾岸孫三郎、たつの二男として万延元年六月十日出生。
それ以後の事に付いては正確な記録も無く、父三吉からの聞き伝えによると、何人かの仲間と共に渡道し、美唄など二〜三箇所を移動した後、大正八年一月二十七日空知郡上富良野村字中富良野東八線北百六拾六番地(現東八線北十九号)に定住して、数々の苦難を克服しながら農業林業、さらに澱粉工場など手広く営み生活基盤を築く。
父三吉は良右衛門、たミの三男として明治三十五年二月十日、福井県大野郡北谷村勝山において出生。
大正十三年九月二十日新井市三郎三女キヨと婚姻。昭和六年四月分家するまでの長い間同居し、母キヨは大変苦労した話をしていた。分家は「ながきた」のおばあちゃんと言う人の家付きの土地で東七線北十八号で新井家の近く、今は無い小さな池の縁に定住し、孝雄は三男として昭和十四年に当地で生まれた。父三吉は虚弱の身体であったが農業を営みながら我々兄弟姉妹(四男、四女)を社会人として送り出してくれた。
年齢と共に農作業に不安を感じていた折に三男孝雄が後継者に成り農業経営を任せて手助けをしながらの日々を送る。
昭和三十七年四月に孝雄は良子(名和家)と結婚し、父三吉、母キヨも安心の日々を送っていた。しかし、内孫里美が生まれ喜びの間も無く、良子は白血病に侵され農作業が出来なくなる。
当時の農業は家族労働に負うべきところが大きく、父三吉は今後の経営に不安を感じ、一大決心をして農業経営を諦めて、昭和四十一年十一月、孝雄と共に上富良野町中町二丁目の有限会社十勝岳ハイヤーの譲渡を受けて、父三吉は代表取締役に就任する。
昭和四十五年に良子が亡くなり、その後孝雄は美恵子(江頭家)と再婚する。
三吉は昭和四十八年に代表権を孝雄に譲り、昭和五十一年六月に旭町の新居に生活を移し、以後は悠々自適の生活を送る。
しかし、年齢には勝てず、二、三度入退院を繰り返していたが、昭和五十八年九月二十九日孝雄の町議会議員の初当選を確認し安らかに八十一年間の生涯を閉じた。
母キヨは父三吉と二人部屋で入院をしていたが、三吉を見送った後そのまま入院をしながら、昭和六十年二月二十三日父と同じ満八十一歳で父三吉の元へ旅立った。



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【行政機構の大胆な改革についての発言内容】
 地方分権等、改革の時代に向かっている今、行政は多様な住民ニーズに機敏に対応していくことが求められているとともに、町民に親しまれた信頼される町政を実現していくことが求められております。活力ある町政を推進し、二十一世紀の地方自治を担うにふさわしい行政の確立に向け、次の政策を進めてまいります。
 一点目は、多様化、高度化する町民の行政ニーズに対応するために、総合調整機能を強化するとともに、常に事務事業の見直しを図りながら、能率的、合理的な組織編成に努め、効率的で迅速な事務処理が可能な行政運営に努めます。
 二点目は、多様な行政事務に対応できる職員を養成し、事務量や内容の変化に即応する弾力的かつ適正な職員の配置を行うとともに、新世紀にマッチした行政機構の改革を進めます。
 三点目は、自主財源の確保など、財政基盤の強化、財政の軽量化、健全化を図りながら、町民生活に直結した緊急度の高い施策や事業の選択をし、効率的な財政運営を目指します。
 四点目は、町政の主人公は町民であるという基本に立ち、町民と行政が一体となった町づくりを進めます。



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【国営しろがね地区畑地総合開発パイロット(畑総)事業の受益者負担に関する顛末】

 この事業を対象とする地域は、上富良野、美瑛、中富良野の三町で、区域の畑地帯における無水地域や耕地の排水状態が悪い地域などの課題を解消することにより生産性向上を図る目的で着手した事業である。最初は美瑛町で昭和四十五年に「国営しろがね地区直轄かんがい排水事業」が計画され、昭和五十年に上富良野及び中富良野区域の一部地区となる「上川南部地区」をこの計画に含め、更に昭和六十年には大規模な畑総事業となって、水源の統一による畑地帯の農地造成、区画整理、用排水事業を行う基幹から末端までの一貫施工として工事が進められて来たところである。
 この間、農業情勢等の変化に対応すべく、延べ三回にわたる計画内容の変更をしてきたことに加え、工事の長期施工に伴う物価の変動等も相まって事業費総額も増嵩傾向で推移した。反面、農業経営面での変化も著しく、受益農業者が負担に耐えられないと、将来に対する不安な声が日増しに大きくなっていたことを受け、昭和六十三年頃にはすでに町や地元期成会による負担軽減のための陳情も重ねられてきた。
 振り返ると、町が事業参加当時の昭和四十八年には土地改良法等の定めに基づき、町も事業参加者も共に完成後の負担(含利息)に同意のうえ、町議会での議決を経て事業がスタートされている。したがって、完了後はルールに基づく義務負担が課されていることを十分に承知しつつも、道内の同事業実施各地においても同様に将来への不安を抱く声が広がっていた。その実態が新聞記事でも取り上げられることとなり、さらにクローズアップされていた。また、当町では平成九年三月以降の議会でも幾度となく、地元負担軽減等に関しての議論が交わされている。
 我が町の平成九年三月議会(事業着手から二十五年経過、尾岸町長は初の定例議会)では、町長に対する一般質問の中で同事業に伴う農業者の負担軽減についての在り方等が取り上げられている。
 当時の尾岸町長の答弁では、
「同事業の完成予定は平成十三年であり、受益者負担金の償還については、平成十三年に事業が完了した後、次の年から償還となるが、農業をめぐる情勢は主要農産物の価格低迷や担い手の高齢化、土地価格の下落により農地の流動化がなく、事業費も昭和五十七年から見て約一・三倍の増と、非常に厳しい情勢にある」
との認識を述べ、さらに
「完成予定まで残り五年となる今、受益者負担の軽減、利子の軽減及び償還期間の延長など負担軽減の協議をするため、美瑛との二町で昨年に設立した連合期成会と二町が一体となって国の関係機関や北海道に対し軽減の措置を積極的に要請する」
と表明しており、以後も同事業による農業基盤の基幹的施設の整備は、地域農業の発展や災害防止に資するなど公共性、公益性が強いとの観点から、連携した陳情活動を精力的に続けていた。
 また、この地元負担の町の持ち分は、ピークでは年二億円を大きく超える水準となることもあり、その事前準備として平成十二年六月の議会で、国営事業の負担額に充てるための積立基金を創設することを決定した。
 その直後の同年の八月には与党三党(自民、公明、保守)が「公共事業の抜本的見直しチーム」を発足させ、見直し作業の中では、四つの見直し基準のうちの「完成予定を二十年以上経過して、完成に至っていない事業」に該当、その後の国の最終的な判断により事業中止(全国二十一事業)が正式に決定したのである。ただし、本事業は完成予定目前のこともあり、事業中止に伴う最小限の工事は実施するとの条件付きで「工事完了年度は平成十四年度」になることが明らかとなった。
 なお、地元負担軽減の課題については、これまでの三回にわたる計画内容変更時の際にも、制度上で可能な限りの軽減策を探りながら関係機関との協議が進められていたこともあり、最終的に地元負担の軽減につながる見通しとなった。しかし、農家負担が減少の一方、町の持ち分が増加するなどそれぞれの持ち分には限度もあり、都合の良いことにはならない現実となっている。また、実際の負担(償還)額は、これまでの建設利息が伴うことになるが、一般市場の金利水準と乖離していることも納得し難いとのことから種々議論が深められた結果、完成後のダム施設管理等のことも含めて考えると、新生の「土地改良区」を設立(平成十五年三月十日設立)することが次善の策となり、さらなる成果(国へ一括償還するための原資を民間金融機関(北海道信用農業協同組合連合会)から調達、実質的に低利償還に切り替る)を得たところである。以上のような経過を辿ってきたのである。
 とりわけ国営畑総事業に関する債務(地元負担)に関しては、法定上からも事業参加と同時に債務が発生するが、工事終了段階になって債務額が確定することもあり、町は代々財政運営上の大きな課題として引き継がれていたのである。
 この時期の町の財政状況は、長引く景気低迷から税収などをはじめ主要な収入が伸び悩む一方で、人件費や公債費等の義務的経費をはじめとする経常経費の増等により硬直化傾向で推移している中、懸案の国営畑総事業の負担問題がにわかに具体的となり、かつ現実的に平成十五年度から地元負担と施設の維持管理が始まることになったのである。
 町は早速、これらの要素を織り込み、平成二十年度までの財政収支見通しを立てたうえで、現段階で予測できる収支不足額(延べ二十四億円)の解消方策等を示した「健全財政維持方針」を平成十二年十一月七日に打ち出した。
 この財政上の窮地を乗り切るためには、現状の行財政構造を早急に、かつ抜本的に改革することが最優先課題であるとの認識のもと、尾岸町長は迎える平成十二年度を「財政改革元年」と位置づけると共に、以後につなげるための方策として、十二年度で終了する現行の行革大綱の後継となる新たな行革大綱案(平成十三年度〜)の策定作業を急ぐよう指示した。
 とりわけ尾岸町政スタート当初から「行政機構の大胆な改革」を重要政策の一つとして打ち出していたので、議会では財政運営や行政改革の在り方等についての相当の議論が交わされている。
【尾岸町政の行財政改革第二弾】 (平成十三年〜平成十五年まで)
 平成十三年は、昭和二十六年八月一日に上富良野村から上富良野町となる町制を施行してから、五十年を迎える大きな節目の年である。
 経済環境においては、わが国のバブル経済崩壊後、かってない景気の低迷が長らく続いており、国、地方を通じて行財政環境は一段と厳しさを増していた。このため国は、行政改革の動きと連動して平成十一年七月には地方分権一括法を制定し、翌年四月一日に施行した。このことにより、国と地方の関係を従来の上下・主従の関係から、新たな対等・協力の関係に変わっていくことになり、地方への事務移管も加わるなど町行政が担うべき役割も一段と広範囲になる。
 また、合併特例法の改正で市の人口要件緩和や財源手当など制度上の優遇措置が講じられるなど、合併問題も国の主導的な動きに加え、北海道でも市町村合併推進要綱(平成十二年九月五日)の策定に合わせ、道内の各市町村の合併パターンが示されるなど動きがにわかに活発になってきた。
 また、ここに来て、新たに国の行革大綱(閣議決定:平成十二年十二月一日)が定められたが、その中では二十一世紀の国・地方を通じた行政の在り方が示されると共に、平成十七年までを一つの目途として各般の行政改革を集中的・計画的に実施するとされた。
 町では、それらの内容を加味すると共に、国営畑総事業に対する地元負担(約四十八億円)なども含めた中期的な財政収支見通しを基に作成した「健全財政維持方針(平成十二年十一月七日)」と、その方針の具体的な実行プランとして「第三次行財政改革大綱(平成十三年三月二日)」と、五分野にわたる五十項目からなる「実施計画(平成十三〜十五年度)」をまとめ上げた。これまで経費削減の色合いが強かったが、今計画では財政収支の改善はもとより、簡素で効率的な行政運営の実現を図るため、ルールに基づく行政情報公開の徹底を図ることや職員の質的向上、民間活力の導入、さらには財政運営・予算編成の在り方の見直しなどにも及ぶ幅広い改善プラン内容になっている。
 いずれにしても、行革は財政健全化と切り離して考えることのできない永遠のテーマであり、その実践の原動力となる町民皆さんの理解と協力を求めながら、全庁的な取り組みのスタートを切ったのである。
 なお、この期間、国では小泉内閣が平成十三年四月に発足し、この新内閣では国・地方を通じて財政悪化や地方分権の進展等の課題を背景に「聖域なき構造改革(小泉構造改革)」を掲げ、その一環として「地方に出来ることは地方に、民間に出来ることは民間に」という小さな政府を目指し、翌十四年六月に閣議決定した「骨太の方針二〇〇二」では、初めて「国庫補助負担金、地方交付税、税源移譲」を含む税源配分のあり方を三位一体で行うなど、改革案を一年以内に取りまとめる方針を明らかにした。
 とりわけ、低迷する経済背景のもとで国が地方の財政を主導している今日、町が今後の財政見通しを見極めることは大変困難な中で、次の「骨太方針二〇〇三」では国庫補助負担金改革、税源移譲、地方交付税改革を一体として行う「三位一体の改革」の具体案が盛り込まれ、それも平成十六年度から三か年(平成十八年度まで)で行われることとなった。
 このように、地方行政に大きな影響を及ぼす大変な状況変化の中で、町はあらゆる時代要望に応えていく一方で、財政収支の均衡を図るための実践を推し進めた結果、この三か年間においては定員適正化計画に基づく職員の削減、給与水準の適正化などによる人件費の削減をはじめとする行政経費の縮減に努めることに加え、ごみ処理など町民の皆さんに負担をお願いしながら、約三億五九〇〇万円の成果【詳細は行政HP(町報平成十六年七月号)】をあげることができたのである。
 これまでの行革で一定の成果を積み重ねてきたが、引き続き、現下の激動する地方財政環境への対応と、今後迎える本格的な分権時代に備える必要から、さらなる簡素で効率的な行政運営の実現を図るため、従来の視点から大きく脱却を図りながら次期(第四次)行革大綱と実施計画を作成することを決定した。
【尾岸町政の行財政改革第三弾】 (平成十六年〜平成二十年の退任まで)
 この期間は、財政運営上からも最大の試練となる期間であった。元来、町の自主財源(町税、使用料など)は乏しいことに加え、平成十五年度から始まった国営土地改良事業費に対する受益者負担額(町分、約三十四億四千二百万円)は、ピーク時で二億五千万円ほどにもなることであった。
 更に前述した国の三位一体改革が平成十六年度から実行され、これまで国へ大きく依存してきた町の重要な財源の地方交付税等が平成十八年度までの三か年にわたり削減(国庫補助負担金改革(全国減額約四・七兆円。このうち約三兆円は一般財源化)、地方交付税改革(全国減額五・一兆円)、税源移譲(全国増額約三兆円))されること、また、富良野沿線五市町村での広域行政推進の一つとし議論を重ねてきた合併問題の結論は現状維持に止まることになった。
 なお、ここでは深くは触れないが、事務の一部を合同で処理する「富良野広域連合」を平成二十年九月一日に設立しており、特別地方公共団体として消防事務・し尿汚泥及び生ごみの処理・串内地区草地事務・給食センター事務を共同処理することに加え、国民健康保険事業並びに介護保険事業の調査研究に関する事務などを行うことになった。
 それらの状況を踏まえ、町としては今後とも基礎自治体として自主・自立した町づくりを進めていくことを強く自覚することになり、その先駆けとして、平成十六年度以降も引き続き町民と共に力強く行政改革を実践していくことが重要との考え方に立ったのである。
 さらに町の行財政構造改革のレベルを上げるために「新行財政改革へ向けた基本方針」(素案)をまとめ、それに対する町民の意見を広く求めるために平成十六年三月十日から三月三十一日までの間、パブリックコメント(意見公募)に付した。
 その後、町民からの意見を含め更なる内部議論を経て「新行財政改革基本方針(自立に向けた上富良野再生プラン)【第四次大綱(平成十六年四月二十六日)】」を決定。
 また、同年七月一日付で町民を代表する二十五人で構成する「上富良野町行財政改革推進町民会議」(任期:平成十六年七月一日〜平成十九年三月三十一日)を設置し、以後七月十六日を初回として任期中に十四回の会議を通じて行財政改革実施計画素案や、その取り組み状況等に関して精力的な議論が重ねられた。
 町は、これまでの間の議論成果を反映させ実施計画原案を作り上げると共にパブリックコメントを経て「行財政実施計画(平成十六年九月三十日・自立に向けた上富良野再生アクションプラン・四視点で三十二項目からなる内容(平成十六〜二十年度))」を策定した。このプランに基づき鋭意取り組んでいる最中の平成十七年三月(二十九日付)に国(総務省)からの新地方行革(集中改革プラン)指針の通達を受けたのであるが、それは「集中改革プラン(平成十七〜二十一年度)を作成し、平成十七年度中に公表すべし」とのことであった。町はすでに独自の行革第四次大綱及び実施計画の策定を終えており、実践中にあることから国の要請をためらいつつも、この際、通達内容との整合性等を考慮し、平成十八年三月三十一日付で名称を「集中改革プラン」に衣替えすると共に実施計画の期間を一年間延長し、平成二十一年度までに改めた。
 これまでも困難な課題がたくさんあったが、この間も議会をはじめ町民皆さんの支持と協力が原動力となり、ごみ処理などの手数料改正や補助金等の見直しなど町民の皆さんの協力によるもの、また職員数の削減、人件費の見直しなど行政内部の改革によるものなど平成二十年までの総額で約三〇億二〇〇〇万円(期間延長後の平成二十一年度までの六年間では、三九億三〇〇〇万円)の成果【詳細は行政HP(上富良野町の行財政改革について)】となったところである。

掲載省略:(写真)上富良野に「富良野広域連合消防本部」が置かれた
掲載省略:(写真)冊子〜行財政改革の基本方針と実施計画
おわりに
 顧みると、尾岸町長は就任早々、上富良野町が開基百年を迎え、新町長としてこの喜びを町民と共に先人の労苦を偲び、心から感謝をしながらお祝いし、さらにこの歴史を継承し、上富良野町二世紀が豊かで新しい希望に満ちた地域社会として創造していくことを誓った。
 また、これからのまちづくりの指針となる「新(第四次)総合計画(平成十一〜二十年度)」の策定にも着手(平成九年十一月五日総合計画審議会設置)し、町民との協働の下で仕上げた新計画のテーマである「四季彩のまち・かみふらのふれあい大地の創造」の実現を目指し、新世紀のまちづくりに邁進してきた。
 しかるにバブル経済が崩壊後、景気の低迷が長らく続いていることから、国による経済構造改革が進められていることや、地方分権の動きが活発になっていることもあり、地方自治体を取り巻く環境は一層の厳しさを増してきた。
 そうした中、多くの町民に財政の現状を共有していただくため、町の台所白書を配布し、行財政の改革プランを積極的に示すことなど情報提供に努めながら、平成二十年末の退任まで一貫して簡素で効率的な行政運営の実現に向け全力投球していた。これらが記述した成果となり財政指標が改善されると共に、収支バランスのとれる財政構造に改められている。
 また、行政運営にはこれまでになく、民間の経営感覚を意識しながら積極的に取り組む一方で、少子高齢社会に対する行政ニーズを見据え、保健と福祉の拠点施設とすべく「保健福祉総合センター(かみん)」の建設、あるいは町民のスポーツを通じた健康の増進や交流の場として「パークゴルフ場」の設置、公民館の改修と合わせ新たに学びの場として「図書館(ふれんど)」の開設など必要なインフラの整備をはじめ、町の憲法となる「自治基本条例」や「景観条例」、「情報公開と個人情報保護の二条例」を新たに制定するなど、新しい時代に向けた地域のルールづくりにも大いに目を向けていたのである。
 尾岸町長は、最後となる平成二十年十二月定例町議会最終日の議場あいさつでは、これまでを振り返り感慨深い思いで語りながら感謝の弁を述べられている。
 町長として十二年間歩んできた足跡を町政の歴史の一コマとして刻み、次の為政者へと引き継がれたのである。この機会に改めて心から感謝とお礼を申し上げたい。
 なお、我が国の現下の状況は、経済のグローバル化の中で高齢化と人口減少社会の流れはますます進展していくことを考えたとき、地域の将来には課題が多々あると想像する。
 そのためにも、地域では垣根を超えた議論が重要であり、また、これまでにない諸施策の展開を迫られるように感じる。それを可能とする柔軟な行財政構造を維持するためにも切れ目のない対策を講じることは必定である。そのことから平成二十二年度以降も効率的、効果的な行政運営の実現に向け、その実行計画として位置付けた「町政運営改善プラン」に基づき、全庁挙げて着実な実践に努めていることに心から敬意を表する次第である。

掲載省略:(写真)冊子〜町内全戸に配布された「かみふらの台所白書」
掲載省略:(写真)冊子〜上富良野町自治基本条例
掲載省略:(写真)上富良野町パークゴルフ場のラベンダー、アカエゾ、十勝岳の27ホール
掲載省略:(図)尾岸家家系図・新井家家系図

機関誌      郷土をさぐる(第36号)
2019年3月31日印刷      2019年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀