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ふくざわ ももすけ / とうすけ

福沢桃介

ふくざわ ももすけ / とうすけ

1868.8.13(慶應4.6.25)〜 1938.2.15(昭和13)

明治・大正期の実業家(電力王)、投資家、政治家

埋葬場所: 9区 1種 7側 1番

 36婿
 1883(M16)婿1886.12.17
 1887.2.218881889.11.15.12.23.12.31
 1890.4101893.4使
 189430001000110
 貿1899貿1901.2.35
 20014'06.10
 '07.1.261'10.4.2(15-1-2-10)'06.10'08退8
 '06.11.460001500'08.102000'09.8.31'10.3'10.9.5退'12.6
 '07調'0950001'10
 '10.4.29鹿'13(T2)西10西
 '1211西 '14.121
 '13'14.12'14'16'17.9'18.9.8'206'21.84848
 西'19.11.8西(11-1-1-3)'203'21.2'21西西退西西
 6'22.7西'23.9.1調'24'23.12200'24西
 '26.4退(2-1-12-5)1907.6 '27.7(S2)'28.3.6.6退
 14(1911)'13(1916)(1917(1917)(1919)(1931)'164'283'32'3869
 '38'39'42姿西 (1939)  (1952)  (1968) (1984)

<コンサイス日本人名事典>
<「福沢桃介翁伝」大西理平 1939>
<起業家123人>
<「歴史人物 意外なウラ話」高野澄>
<様々な人名事典など>


墓所

*墓石は和型「福澤桃介之墓」。裏面「大乗院釋蘇水桃介居士 昭和十三年二月十五日歿」と刻み、右面に「大覚院釋妙房雪杳大姉 桃介 室 フサ 明治三年七月二十二日生 昭和二十九年二月十八日歿 享年八十五」と刻む。

福澤駒吉 / 室 八重 墓

*桃介墓石の左にやや小さめな和型「福澤駒吉 / 室 八重 墓」。右面「明治二十四年一月五日生 昭和二十年三月十八日永眠 顕誠院釋浄徳永俊居士 父 福澤桃介 母 福澤フサ 長男」と刻み、左面「明治二十九年三月二十五日生 昭和五十六年一月十日永眠 エリザベス八重 父 福澤一太郎 母 福澤糸 次女」と刻む。

福澤辰三家墓

*墓所左手側に和型「福澤辰三家墓」。左面十字架の刻みの下に「乗願院釋誠貫辰三居士 父 福澤桃介 母 フサ 次男 明治二十五年三月一日 昭和二十九年十二月六日歿」と刻み、右面「浄貞院釋妙鏡春江大姉 俗名 春江 福澤辰三室 明治三十五年四月十五日生 昭和二十七年四月十一日歿 行年 五十一歳」と刻む。裏面「昭和三十一年十二月 妻 福澤春江 長男 福澤覚正」と刻む。なお、多くの文献では辰三の妻は嵯峨浦次郎の娘の「志乃」と書かれているものが多いが、墓石には、辰三の妻は「春江」と刻み、「志乃」の刻みはどこにもない。

女神を祀った墓石

*墓所入口右手に台座「福澤」と刻み上に女神を祀った墓石、右側に墓誌があり、「マーガレット・マリア 昌 1913.1.21-2007.7.9」「司祭 マルコ 道夫 1928.4.30-2014.10.21」と刻む。福澤道夫は聖パウロ教会・東京教区司祭をつとめた(1999.3.31付で定年退職司祭)。




  1871-19467
 18852婿
 1894(M27)'11退退
 '122744412姿'20殿
 21985NHK(1933)


*福沢諭吉は三田の裏にある有名な真宗の寺院「善福寺」で葬儀が行なわれた。よって善福寺に埋葬するはずであったが、麻布区内は土葬が許可されないということで、当時市外であった大崎村の本願寺(いまは常光寺)に埋葬された。1977(S52)最初の埋葬地から麻布善福寺へ改葬の際、諭吉の遺体が腐敗せずミイラ化していたため、学術解剖や遺体保存の声があがったが、遺族の意向により荼毘にふされた

<「世紀をつらぬく福澤諭吉」管理人梶原様より>


*福沢家の菩提寺は諭吉が眠る善福寺である。多磨霊園には諭吉の長男の福沢一太郎の墓所(当時:9区1種7側12番:1992改葬)、諭吉の四男の福沢大四郎(当時:22区1種50側6番:2004改葬)があったが、現在は善福寺の山廟に合祀された。なお諭吉の二男である福沢捨次郎の墓所(2区1種12側5番)と婿養子の福沢桃介の墓所は多磨霊園にある。



第217回 福沢諭吉の婿養子 電力王 福沢桃介 お墓ツアー


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