岐阜県方県郡鷺山村︵岐阜市︶出身。本名は米松。号は自楊、廿五絃など。小地主であった森田亀松の子として生まれる。11歳の時に父を亡くす。父亡き後の母のとくは田畑を売って森田の進学を支えた。
1895︵M28)高等小学校卒業後、海軍軍人を目指して上京し、攻玉社に入学するも校風が合わず退学。日本中学校に入学して、1899 卒業。次いで金沢の第四高等学校に入学たが、恋人の つね︵後の妻︶との同棲が発覚し、つね の親が学校に訴えたため退学処分を受ける。第一高等学校を受験しなおし入り、1903 卒業。東京帝国大学英文科に入学。恋人の つね とは続いており、借家を借りて同棲を始めた。その入居した借家が、たまたま樋口一葉の旧宅と判明し、親交があった与謝野鉄幹・晶子(11-1-10-14)夫妻らと﹁一葉をしのぶ会合﹂を開いた。この頃、長男が誕生したが、借家の家主の娘と不倫関係になっている。これではいけないと、1905 秋に夏目漱石の門下となった。
1906.7 大学卒業。いったん郷里の岐阜に家族で戻るも、師匠の夏目漱石が発表した﹁草枕﹂に感銘を受け、妻子を郷里において上京し、漱石のもとで作家を志し学びを得た。職はなく、翻訳で食いつないでいたが、1907.4 漱石の紹介で中学校の英語教師となる。同.5 郷里で長女が誕生し、のちに妻子を再上京させた。英語教師は半年ほどで辞め、与謝野鉄幹が主宰する女子学生が文学を学ぶための﹁閨秀︵けいしゅう︶文学講座﹂の講師を務めた。この時、森田は27歳。この講座に聴講生として通っていたのが、日本女子大学を卒業したばかりの22歳であった平塚らいてう こと平塚明︵はる︶である。
平塚が初めて書いた小説を森田が褒めたことをきっかけに二人は接近。1908.2.1(M41)二人は初めてデートをした。妻子持ちの森田との禁断の恋愛。ガブリエーレ・ダンヌンツィオの小説﹁死の勝利﹂に感化された二人は心中を決意する。同.3.23 森田と平塚は家出をした。その時、平塚は遺書を残して失踪したため、捜索願が出された。二人は栃木県の那須に行き、塩原温泉の尾花峠で心中をしようと雪山にいたところ、警察に保護された。
平塚の父の平塚定二郎は会計検査院高等官の官僚であり、その令嬢が心中未遂とマスコミの餌食となり、﹁煤煙︵ばいえん︶事件﹂もしくは﹁塩原事件﹂と報道された。まだ無名であった二人は世間を賑わせることになる。森田は責任を負おうと、妻と別れて平塚と結婚をしようとしたが、平塚は結婚は考えていないと断られている。なお一般世間からは社会的に葬られるべき行動と白眼視されたが、二人はこの心中未遂騒動で一躍知名度が上昇したことをうまく活用していくことになる。
森田は師匠の夏目漱石から﹁お前は小説でも書くほかに生きる道はなかろう﹂と、この心中未遂事件の情死行を作品に描くことを奨められ、事件の翌年から朝日新聞で連載した。連載中、平塚の母が風評の拡大を恐れ、小説の差し止めをするために漱石を訪ねたが、﹁ごもっともであるが、あの男︵森田︶はいまは書くしか生きる道がない﹂と言って諭したという。森田はこの連載をまとめた、長篇﹃煤煙︵ばいえん︶﹄を発表。これがデビュー作となり大ヒットで好評を博した。この縁で朝日新聞の嘱託社員として文芸欄を担当することになる。森田はその後、長篇﹃自叙伝﹄﹃十字街﹄や、戯曲﹃袈裟御前﹄などを発表し、一躍、人気作家となった。一方、平塚らいてうは、事件を機に、女性の文学の振興に努めていた評論家の生田長江の強い勧めで、日本で最初の女性による女性のための文芸誌﹃青鞜﹄を世に出すことになる。二人とも心中未遂事件を機に飛躍した結果となった。
'23(T12)長篇﹃輪廻﹄を発表、自伝的告白小説に自然主義とは異なる境地を開いて注目された。 またイプセン・ダヌンツィオ・ゴーゴリ・ドストエフスキーなどの翻訳の仕事も多く、法政大学教授もつとめた。昭和期には﹃吉良家の人々﹄﹃細川ガラシャ夫人﹄などの歴史小説の分野にも新境地を開いた。他にも師匠の夏目漱石の研究をまとめた書も出版している。
戦後、'48(S23)67歳にして日本共産党に入党して話題になった。弟子に森田たまがいる。疎開先の長野県阿智村の長岳寺の離れで、肝臓肥大黄疸によって逝去。享年68歳。'63 内田百聞が﹁実説草平記﹂を著した。
<コンサイス日本人名事典> <小学館 日本大百科全書> <ブリタニカ国際大百科事典>
*正面台座﹁森田家﹂。墓石は寝石で上部に﹁おくつき﹂、墓誌となっており﹁米吉﹂と本名が刻む。米吉の左隣に﹁つね﹂が刻む。裏面﹁千九百三十年夏 / 森田草平建之﹂。
*森田草平の墓は、多磨霊園をあわせて三箇所ある。師匠の夏目漱石も眠る雑司ヶ谷霊園︵1種東6号3側9番︶と、亡くなった長野県の長岳寺裏山の墓地であり、各々に分骨されている。
*森田草平の最初の妻は同郷で同歳の森田つね︵遠縁の親族。森田源八長女、戸籍名里う︶で、つねは郷里を出奔し金沢の草平の下に向かい、第四高等学校在学中に同棲を始め、いったんは離されるも、大学在学中に結婚。長男の亮一︵1903生︶、長女の夏子︵1906-1907︶をもうけた。長女の名前は借家がたまたま樋口一葉の昔住んでいた家だったこともあり、樋口一葉の本名の夏子から付けられた。その後、家主の娘で4歳年上の岩田さくと不倫関係となり、のちに つねと別れて、さくと再婚するが、長く別居した︵のち離婚︶。さくは藤間流舞踊の名手で藤間松柏の名で活躍した。1910年代より安香ハナと同棲を始め再婚し、6児を儲けている。多磨霊園の墓所は最初の妻の﹁つね﹂と眠る。
第513回 平塚らいてう と 心中未遂事件 夏目漱石の弟子 煤煙 森田草平 お墓ツアー
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