栃木県邑楽郡館林町︵群馬県館林市︶出身。田山跑十郎・てつの次男として生まれる。本名録弥。兄は地震史や古文書の編纂者の田山實︵実弥登︶。田山家は旧舘林藩主秋元家に仕え、江戸時代に山形より館林に移り住んだ。
1877(M10︶5歳の時に父は西南戦争にて戦死。1883頃から兄が塾頭を務めた吉田陋軒の漢学塾で学び始め、漢詩文を雑誌に投稿するなど、文学に目覚めていく。1886一家して上京︵14歳の時︶。上京後、ふるさとでの生活を﹃ふる郷﹄﹃小さな鳩﹄﹃幼き頃のスケッチ﹄などに描いた。1890柳田國男を訪れ、1891尾崎紅葉に入門し、江見水蔭の指導を受け、小説家を志し、小説﹃瓜畑﹄を発表。1892より号を﹁花袋﹂とした。
1894和歌を﹁文学界﹂に投稿。1896島崎藤村・国木田独歩と出会う。新体詩を作り、1897宮崎湖処子編﹁抒情詩﹂に詩集﹃わが影﹄を発表。1899太田玉茗の妹のりさ︵里さ︶と結婚。博文館に入社し、主に校正を担当。モーパッサンの影響を受け、1902﹃重右衛門の最後﹄は文壇で注目された。'04日露戦争第二軍写真班員として従軍。陸軍軍医部長であった森鴎外と頻繁に会う。'06博文館から﹁文章世界﹂が創刊されると主筆となった。当初の実用文の投書雑誌から後に自然主義文学の拠点となっていく。
新しい文学を試み、'07中年作家の女弟子への複雑な感情を描いた︵若い娘への中年の妄想︶短篇小説﹃蒲団﹄︵ふとん︶を発表。文中の中年作家は花袋自身で、女弟子︵横山芳子︶のモデルは岡田美知代であり、作品発表後に美知代への詫びを記す書簡が現存している。女弟子に去られた男が、彼女の使用していた夜着に顔をうずめて匂いを嗅ぎ涙する描写は、文壇や読者に衝撃を与え、この自己を赤裸々に告白した作品として好評を博し、自然主義文学の先駆・私小説のさきがけとなり、近代文学界に大きな足跡を残した。
なお、岡田美知代は花袋の弟子をしている時に作家の永代静雄︵作中では田中として横山芳子の彼氏として登場する︶と京都で親密な関係となり、花袋に知れていったん戻るが、﹁蒲団﹂発表後、再び京都の永代のところに行き、二人の間に千鶴子を儲ける。'09花袋が千鶴子を養女として引き取り、永代と美知代は結婚する。
自然主義文学の方向性が決まり、翌年、﹃生﹄﹃妻﹄、'09﹃田舎教師﹄、'10﹃縁﹄を発表。﹁生﹂﹁妻﹂﹁縁﹂の三部作と﹁田舎教師﹂と立て続けにヒット作を生み出し、島崎藤村と並んで代表的な自然主義作家となった。この﹁妻﹂﹁縁﹂の作中にも美知代が登場する。美知代も短編を雑誌に発表しており、'10永代美知代名義の﹃ある女の手紙﹄は花袋への意趣返しの意味を持つ作品である。
美知代は、'26永代と離婚し、主婦之友の記者として長男の太刀男を連れて渡米、米農園経営者の花田小太郎と再婚するが、花田は結核になり、'27帰国。晩年、'58﹃花袋の﹁蒲団﹂と私﹄を刊行している。
'11﹃髪﹄を発表後、翌年40歳を機に博文館を退社。'16(T5)﹃時は過ぎてゆく﹄、'17﹃一兵卒の銃殺﹄、﹃東京の三十年﹄と発表する傍ら、紀行文も秀逸で﹃南船北馬﹄、﹃山行水行﹄などがある。全国の温泉巡りの趣味が高じて、温泉に関する本を執筆したほか、博文館の﹁日本名勝地誌﹂の執筆者にも参加した。後に﹃新撰名勝地誌﹄︵全12巻︶の編集・監修に携わった。晩年は、'24﹃源義朝﹄など歴史小説、心境小説を発表した。
'28(S3)末に脳溢血を起し入院。更に喉頭がんを発症。'30.5.11 東京府代々幡町の自宅で憔悴している花袋の所に、島崎藤村が見舞いに訪れ、﹁この世を辞してゆくとなると、どんな気持ちがするものかね﹂とまじめに死ぬ気分を質問され、﹁なにしろ、誰も知らない暗いところへ行くのだから、なかなか単純な気持ちではない﹂﹁苦しいかね﹂﹁苦しい﹂という会話がなされた二日後に亡くなった。享年58歳。