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やました かめさぶろう

山下亀三郎

やました かめさぶろう

1867.5.12(慶応3.4.9)〜 1944.12.13(昭和19)

明治・大正・昭和期の実業家(山下汽船・山下財閥)

埋葬場所: 22区 1種 58側 3番

 74
 1882(M15)16退使宿1884
 1889貿189218941897
 1903237312111833退44(6-1-11)'03.12'042
 '077
 '09'11.610'14(T3)350'1730456700'15(T4)6118'17.510008'17.52900120008000414000290041160
 '26'41(S16)19621331095554353222
 '37'17'20西'40(S15)3100
 '43使7721943(11952)'47

<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典>
<実録 創業者列伝など>



墓所

 /  殿

'23'25'30315


【山下亀三郎の信念と人事】
 山下亀三郎は他者の智恵「外智」と自らの判断力「内智」が経営を左右すると説く。 「仕事をする者は、思い付いたことは一つ、一つ、たとえ何年かかっても、どうしてもこうしてもそれをやる、『遂げる』ということが仕事師の信念である。 私たちのような事業をもって終始している者は自分で行わなければならない。 ある動機に接したら、どこまでも、これを成し遂げる方法を考えなければならない」と語り、『遂げる』ことこそ仕事師ひいては事業家の信念だと訴えつづけた。
 山下は人事権を握り、叩き上げとエリートの二本柱を育て上げた。すなわち、小僧上がりと大学の俊秀とを二つの柱として組織。 前者は高等小学校を終えたばかりの筋のいい小僧を『店童』として引っ張ってくる。後者は京都帝大の末広重雄、東京帝大の穂積陳重からの紹介。 採用面接は山下自らが行い、「一顔一決主義」をとり、パッと見で決めた。本人を見、そして両親のことを聞き、父と母を暗黙中に思い浮かべて採否を決する方法である。 「店童」は、意志強固な少年が選ばれ、採用者は神戸本社二階の「店童部屋」に入る。衣食住はもちろん、必要なものは会社から支給された。 石原慎太郎・裕次郎の父の石原潔は、店童から出発し、最後は重役にまでなった人物である。

<「山下亀三郎伝」山岡 淳一郎>




 16退 1914(T3)
  '37(S12)300011387

<ニッポン近代開き 起業家123人>



第212回 沈みつ浮きつ 山下公園の山下 山下亀三郎 お墓ツアー
ボロ船から成金になり 大損 復活 財閥解体 山下汽船創業者


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