中高6年間、自分で弁当を作って持って行っていた私が思う、「給食か弁当か」問題
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タイトルの通りである。私の両親は共働きだったので、中学高校と6年間、自分で弁当を作って学校へ通っていた。なので、こういう﹁給食か弁当か﹂問題については、色々言いたいことがある。
結論から先に言うと、﹁﹃弁当か給食か﹄の議論は、私のような子供の存在を基準にして考えろ﹂だ。そして、そこから導き出される結論は1つ。﹁給食が最善。論点は予算の問題だけにしろ。余計な精神論を混ぜるな﹂だ。
﹁お弁当を作りたいお母さんの気持ち﹂?それよりも﹁弁当を毎日作らざるを得ない子供の気持ち﹂を考えろ!
そもそも、公教育は、家庭の事情がバラバラな子供たちに、ある程度均一な教育を与えるためのものであり、その点に立ち返るなら、家庭の事情がバラバラな子供たちの食事事情を補うためにも、給食が望ましいのは当然の話である。
成長に必要なものを与えられる環境で育つのは、子供の権利であり、子供がその権利を享受できるようにするのは、大人の義務だ。この義務は、親の個人個人が、各々の子供に対して持つものばかりではなく、この社会の大人たちが、子供全員に対して、共同で持つものである。
だから、うちの子はいいが他所の子は知らんというのは、社会における大人の責任を果たしているとは言い難い。うちの子も他所の子も権利を享受できるよう、制度を整えるのが大人の役割であり、行政というものだ。だから、﹁給食を望む親は、手抜きがしたいだけ﹂などと言うのは、全くの的外れなのだ。
さて、肝心の子供は、給食と弁当について、どう思っているのだろうか。
小学生時代、クラスで﹁給食か弁当か﹂という討論会をやったことがあった。多くの子供は﹁弁当﹂側につき、私を含めた少数が﹁給食﹂を主張した。なぜ多くの子供が﹁弁当がいい﹂と言ったのかというと、﹁給食当番をしなくて済むから﹂だった。
一方、給食派の子供の主張は﹁毎日弁当だと、飽きる﹂が主な理由だった。実は、給食派の子供のほとんどが、私と同じ両親共働きの子だった。つまり、夏休みなどの長期休暇で、毎日弁当が続く日々を実際に体験したことがある子たちだったのである。弁当は、遠足や運動会などの1日だけなら、イベント的で楽しいが、毎日だとバリエーションが少なくて飽きるということを、身を持って知っている子たちだった。
要するに、子供たちにとっての﹁給食か弁当か﹂は、﹁楽をしたい﹂と﹁飽きる﹂の攻防であって、そこでは、﹁お母さんの愛情﹂は話題にならなかったのである。
私自身は、親が弁当を作ってくれたら、それはそれで嬉しかったけれど、それは単に﹁自分で作るのめんどくさいから﹂という理由であって、給食があれば解決する問題だった。子供でも、親が仕事で忙しいのはわかっていたし、そんな親の手を煩わせず、私もめんどくさい思いをせずに済む方法があるなら、それが一番良かった。
今から思っても、特に﹁親に﹂弁当を作って欲しかったとは思っていない。私が本当に親にして欲しかったのは、弟と接し方で差をつけないで欲しかった、自分の不安感から私の進路に介入しないで欲しかった、私の興味があることを抑圧しないで欲しかった、子供に謝るのは父親としての威厳を傷つける行為ではない、双方の愚痴を私にぶつけてくるなとか、そういうことだ。要するに、もっと私の気持ちを尊重して欲しかったのだ。
給食を食べさせたり、弁当に冷凍食品を使ったりすることを、﹁手抜き﹂と言う向きがあるが、子育てのうち、最も手を抜いてはいけないのは、﹁子供の気持ちを聞くこと﹂だろう。これは、場合によっては、弁当を作る以上にめんどくさいことであり、そして、親側に余裕がないとなかなかできないことだ。
その余裕を作っておくために、家事の﹁作業﹂に当たる部分で、手を抜けるところは抜き、効率化するのは、とても理にかなったことだと、私は思う。﹁手抜き﹂でない弁当を作ることに必死になって疲れ果て、子供の気持ちを聞く余裕がなくなってしまっては、元も子もないのだから。
だいたい、この﹁お母さんの愛情弁当﹂的な議論において、肝心の﹁子供の気持ち﹂というものは、どうなっているのだろう。
弁当を取り巻く﹁彩りを良くしないと…﹂﹁冷凍食品は手抜きだと思われるんじゃ…﹂﹁キャラ弁作らなきゃダメなの…?﹂という、親御さんたちの気持ちは、なんだか、目の前の子供に向けて作っているというよりは、社会とか世間様とかのほうを向いて、﹁そうしないと、ダメな親だと思われるんじゃないか﹂と、顔色を伺っているような気がする。
でも、﹁子供の気持ちよりも世間体のほうが大事﹂というのは、毒親の特徴でもある。そして、これほどまでに母親に対して﹁良い母親たれ﹂という圧力をかける日本社会は、毒親を生み出しやすい土壌でもある。
—— たしかに、﹃母がしんどい﹄では、主人公のエイコさんのお母さんが、﹁自分はいい母だし、いい母娘関係にある﹂、と主張しつづけますよね。まさに、社会が提示する﹁お母さん像﹂に、エイコさんのお母さんが押しつぶされていた、ということなんですね。
田房 そうなんですよ。﹁毒母﹂と呼ばれるお母さんたちは、理想の﹁お母さん像﹂を押し付けられる窮屈さから生まれてしまうんです。
﹃母がしんどい﹄に共感してくれた人たちに話に聞くと、﹁毒母﹂たちに共通していたことは、やっぱり﹁世間体﹂をものすごく重視していた、ということでした。
︻後編︼何もしなくても母性が湧いてくるなんてことはない|いまスゴイ一冊﹃ママだって、人間﹄田房永子
弁当って自分や子どものためと思ってきたけど
弁当箱の蓋は社会に向かって開かれていたんだなあ。
しみじみ。
毎日同じメニューを食べるということ: 武蔵野庵 ーごはん、手仕事、日々の徒然
私は、﹁お母さんの愛情あふれる手作り弁当﹂的なものは、精神論根性論の類だと思っている。精神論とは、考えるのを怠けることだ。自分が今抱えている不安や問題を解決する方法がよくわからない時に、問題に向き合って分析するのではなく、とにかく練習量や作業量を増やして、死ぬほど頑張れば報われると信じたくなる、それが精神論に陥る時の心理だと思う。
ここで言う不安とは、﹁自分の子供はちゃんと育つのか?﹂という不安だろう。皆、子育てに不安を抱えているんだと思う。そして、不安な時、人はマニュアルに頼りたくなる。私は、﹁お母さんの愛情あふれる手作り弁当﹂信仰を見ていると、恋愛マニュアル本を読んで女性に接する男を思い浮かべてしまう。﹁女はこうすれば落ちる﹂﹁こういう女はいける﹂とかの。でも、本質はそういうことじゃないよね。恋愛でも子育てでも、人と接する上で肝心なのは、﹁相手の気持ちを聞く﹂だと思う。
そもそも、弁当とは、単なる昼食である。一日三食のうちの一食に過ぎない。持ち運び用に作られた昼食、これが弁当だ。家で食べる昼食なら、﹁今日は素麺ね﹂みたいなこともあるだろう。*1
だから、一日のうちの一食を、そんなに特別視して信仰することもない。一食が他人の手で作られた食事だったとして、別に家庭で食事を作らなくなるわけでもあるまいし。というか、食事を作らない家庭の子供の場合は、むしろ給食が必要だ。そして、そういう家庭の親は、食事を作れと言って作るものではない。
— momo (@momodesunode) December 17, 2018
ちなみに、うちの親は全く弁当を作らなかったわけではなく、遠足や運動会といったイベントの時は、早くから起きて、私の好物を入れた弁当を作ってくれた。そういう時の弁当は特別感があって、嬉しかった。
休みの日には、家族で弁当を作って、公園に出かけて行くこともあった。﹁食育﹂ということを考えるのなら、余裕のある休みの日に、親子で一緒に弁当作りをするほうが、食育になるのではないだろうか。
また、私の父は普通に家族のために料理を作る人だったので、私はおやじの味とおふくろの味で育った。
思うに、こういった弁当問題は、﹁母親が作るもの﹂と見なされているから、手抜きがどうのこうのと言われるのではないか。もし父親の育児参加が当たり前になったら、すぐ﹁給食のほうがいい﹂ということになるだろう。なぜなら、男性たちは、女性にさせるケア労働には、無駄に手間をかけることを要求するけれど、いざそれが自分の仕事になった途端、問題解決能力の高い男性らしく、効率的かつ合理的な方法を選択するであろうから︵笑︶。
すっぴん通学で自分の用意だけしていればいい高校生の私ですら、毎日の弁当作りはクソめんどくさかったのである。世のお母さんたちは、この上、朝御飯作って化粧して子供たちの用意もして、それで弁当作りでしょ?やってられるか!
中学時代の私は給食しか食べられない日なんていう、恐らく分からない人には一生分からないだろうなっていう状況がよくあったから早急に給食をお願いします親の愛情とかそんな話は置いといてどこかにある誰かが明日から生きていくために給食お願いしますとしか言いようがない。
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*1:この考え方は、料理研究家・小林カツ代氏の弁当作りに対する考えとも共通している。 小林カツ代さんの料理哲学 - Togetter