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その二十
﹁どうぞ此処のとこ出して下さい、痛いいうてもほんちょっとの間です﹂いうてるうちにもうシッカリ手エ握ってて、指の先か思てましたら、肩の方まで袖(そで)まくり上げて、二の腕の上と下とをハンカチで括(くく)ろとするのんで、﹁判おすのんにそんなことせえでもええやあれしませんか﹂いいましたら、﹁判おすだけと違います。きょうだいの約束するんです﹂いうで、自分も同じように腕まくって、私の腕と一緒にそろえて、﹁よろしですか、お姉さん、声出したらいけませんで。……あれいう間に済んでしまいますよって、眼エつぶってなさい﹂いいますねん。﹁イヤや﹂いうたらどんな目に遇うか分れしませんし、逃げよ思ても手(てく)頸(び)握られてますし、光る物見たら気が顛(てん)倒(とう)してしもて、眼エつぶってる間に、咽(の)喉(ど)でもどないぞしられるのんやないかと生きてる心(ここ)地(ち)せえしませなんだけど、殺されたら殺された時思てあきらめてますと、肘(ひじ)の上のとこスルスルと鋭利な感覚がした思たら、ぞうッとして脳貧血起しそうになりましたが、﹁しっかりしなさい、しっかりしなさい﹂いうて、自分の腕出して、﹁さあ、お姉さんから先イ飲んで下さい﹂いうのんです。そいから、﹁此処と、此処と、此処い判おすのんです﹂いいながら自分で私の指つかんでペタペタおしてしまいましてん。
私は綿貫いう男がつくづく恐い気イしましたので、正直に約束守るつもりで、その誓約書は大事に箪(たん)笥(す)の抽(ひき)出(だ)しい鍵(かぎ)かけてしもといて、光子さんには済まん思いながら素振りにも悟られんようにしてましてんけど、そいでも隠し事してると何処ぞオドオドした様子出るのんか、明くる日不思議そうに私の顔見てなさって、﹁姉ちゃん何で、ここのとこ傷したのん?﹂いいなさるのんです。﹁ああ、これどないして出来たのんか、ゆんべあんまり蚊(か)アに喰(く)われて、夢中で掻(か)きむしッたのんか知らん﹂いいますと、﹁おかしいなあ、栄ちゃんもちょうどそれと同じもん出来てるねんわ﹂と、そないいわれたら、ああ、悪い事出来んもんやなあ思うて急に私の顔色変って来ましたのんで、﹁姉ちゃん何ぞあてに隠してるのんと違う? それどないして出来たのんか、ほんまのこというて頂戴﹂いいなさって、﹁隠したかて大概分ってる、姉ちゃんはあてに内証で何ぞ栄ちゃんと約束したことあるねんなあ?﹂――そら、光子さんいうたらそういうことには早う気イ廻るのんで、そない図(ずぼ)星(し)刺されたらもう惚(とぼ)けること出(で)来(け)しませんけど、そいでも真っ青になりながら黙ってますと、﹁きっとそうに違いないやろ? なんでそれいうてくれへん﹂いうて、――だんだん聞いてみましたら、きのう綿貫はあれから帰りに、腕の傷コッソリ光子さんに見られてしもてて、その時から何ぞ訳あるのんやなあと思てた、そないに二人同じ日に同じとこへ傷出来るはずあれへんいいなさって、﹁姉ちゃんはあてと栄ちゃんと孰(どっ)方(ち)が大事や﹂とか、﹁隠す以上はあてに知れたらいかんことあるねんやろ﹂とか、しまいには私と綿貫との間にイヤなことでもあったように﹁それ聞かんうちはどないしても帰せへん﹂いいなさるのんですが、そんな時にも光子さんは一杯涙ためたなりじっと落ち着いてなさって、恨めしそうに睨(にら)んでなさるだけですねんけど、その眼エえらい妖(よう)艶(えん)で、何ともいえんなまめかしい風(ふぜ)情(い)あって、﹁なあ姉ちゃん﹂いいながら甘えるようにその眼エ使われたら、なかなか魅力に逆らういうこと出来しません。それにそこまで感づかれたらいずれ一と騒ぎ持ち上ること極(き)まってますし、隠すだけ疑がわれること分ってますねんけど、綿貫に相談せんうちはウッカリいう訳に行きませんので、﹁どうぞ明日まで待って頂戴﹂いいますと、明日いわれることが何で今日いわれへん、人に相談していうぐらいやったら聞かいでもええ、自分にだけそうッと教(お)せてくれたら迷惑かかるようなことせえへんいうて、どないしても聴きなされしませんさかい、﹁光ちゃんそないいうけど、あんたかってあてに隠してることあるやろ﹂いうてやりますと、﹁あてが何隠してる? 何でも正直にいうたげるよって、そない思うことあったら聞いて頂戴﹂いいなさいますねん。﹁ふうん、きっと隠してることないなあ?﹂﹁きっとあれへん。そら隠すつもりやのうて、いわなんだことあるかも知れんけど。﹂﹁あんたあてに、何んぞ体のことについて隠してることあるやろ?――﹂﹁何いうてるのん、姉ちゃん?﹂﹁あのなあ、いつやあんた家い来て苦しがったわなあ、あの時ほんまにお腹(なか)の中に子供あったん?﹂﹁ああ、あの時のこと﹂いうて、さすがに極まり悪そうに赧(あか)い顔しなさって、﹁そらあの時は姉ちゃんに会いとうてわざとあんな真(ま)似(ね)してん。……﹂﹁あてそんなこと聞いてるのんやあれへん。あの時はほんまに子供出来てたのんかどうか、それ知りたいねん。﹂﹁そら、出来てえへんなんだ。﹂﹁そんなら今でも出来てえへんの?﹂﹁そんなこと極まってるやないか、なんでまたそれ疑ごうてるのん?﹂﹁なんでいうことないねんけど、疑がうだけの訳あるねん。﹂﹁ああ、姉ちゃん﹂と、その時光子さんは﹁もう分ってる﹂いう顔しなさって、﹁姉ちゃんきっと、あて妊娠してるいうこと栄ちゃんにいわれたのんやろなあ? あの人きっとそんなこというねん、ほんまいうたら子供生ます能力もないくせに、――﹂と、そないいいなさるか思たら、一所懸命歯ア喰いしばって、眼エに一杯たまってた涙が急にポトポト頬(ほ)べた伝(つと)てるのんです。
私はビックリして、﹁何やて、光ちゃん?﹂いいながら自分の耳疑ごうてますと、そのあいだにもうさめざめ泣いてなさって、実は今まで、自分のことについては何一つ隠してえへんけど、綿貫には人にいわれん秘密あって、それ知られたら自分も恥かしいし、あの人も気の毒な思ていわんといた。けど姉ちゃんに蔭でいろいろな中傷したりするのんやったら、もうあんな人、可哀そうなことも何もあれへん、自分が今みたいになってしもたのんも元はいうたらあの人や、自分の不仕合わせはみんなあの人の仕(しわ)業(ざ)やいうて、またえらい泣きなさって、そいから綿貫ちゅうもん知った時のことから始めて委(くわ)しいに話しなさって、なんでも二年前の夏、浜(はま)寺(でら)の別荘い行(い)てた時分、お互に物いうようになって、或る晩散歩に誘い出されて、海岸に置いたある漁船の蔭に連れて行かれた。そいで夏過ぎてからも、大阪の家が近いとこにあったさかい常時孰(どっ)方(ち)ぞから呼び出しては逢(お)うてたら、或る時女学校時代のお友達から綿貫のことについて妙な噂(うわさ)あるのん聞いた。そのお友達いうのんは、いつや二人が宝塚歩いてるとこ見たことあるのんで、そののち朝日会館の映画の夕(ゆうべ)の時やったかに、光子さんが一人で屋上庭園に出てなさったら、﹁徳光さん﹂いうて後から肩たたいて、﹁こないだあんた綿貫さんと歩いてたなあ﹂いうのんで、﹁あんた綿貫さん知ってるのん?﹂いうたら、﹁うち直接には知らんけど、あの人えらいシャンやいわれて、みんなが騒ぐのんやてなあ、あんたみたいに綺麗かったら一緒に歩いててもちょうどええけど﹂いうて意味ありげに笑(わろ)てるさかい、そないに深い関係やない、あの時ちょっと歩いただけやといい訳しなさったら、﹁そない弁解せんかて、あの人やったら誰も疑がうはずあれへん、あんたあの人の仇(あだ)名(な)知ってる?﹂いいますよって、﹁知らん﹂いいなさると、﹃百%安全なるステッキ・ボーイ﹄いうねんし﹂いうてクスクス笑てるのんやそうです。それが光子さんには何の事やらさっぱり分れしませんので、根エ掘り葉ア掘り聞いてみましたら、綿貫いう人は無能力者で、中性の人間やいう噂ある、しかもそれにはちゃんとした証人あるのんやいいますねん。
その二十一
なんでもそれ分ったいうのんは、その光子さんのお友達の知ってる人が綿貫と相愛の仲になってて、人頼んで結婚申し込んだところが、何や向うの親たちがええ加減なこというてちょっともハッキリせえへんのんで、本人同士は真(ま)面(じ)目(め)に結婚望んでるさかい是非承知して下さいいうたら、栄次郎は実は訳あって一生嫁持たさんつもりですいうのんで、だんだん調べたら、子供の時分にお多(たふ)福(くか)風(ぜ)にかかったのんが元で睾(こう)丸(がん)炎(えん)になった、――私、そんなことよう知りませんけど、お医者はんに聞きましたら、お多福風から睾丸炎になるいうことかてあるもんやそうですなあ? 尤もそないいうてるだけで、ほんまは極(ごく)道(どう)したのんかも分れしませんけど、とにかくそいからその娘さんえらい綿貫憎んでて、――そら考えたら可哀そうでもありますねんけど、そんなんやったら人に交際求めたりイヤらしい手紙くれたりせなんだらええのんに、﹁あんたは理想の妻や﹂とか何とか巧いこというてたばっかりやない、散歩いうたらきっと暗いとこい連れて行ったりしたのんは、今から思たら自分がそんな体やさかいそないな事で満足してたのんで、つまりいうたら恋愛の仮面被(かぶ)って人玩(おも)具(ちゃ)にしてたのんや。けど綿貫はそういう時に、﹁僕は結婚せん先に肉体的の関係結ぶいうのん罪悪や思います﹂いうのんで、しッかりした人や思て感心してたのんがなお腹立つ。そいでその娘さん﹁どうぞ秘密にしてやって下さい﹂いわれてましてんけど、口(く)惜(や)しまぎれにいろいろな人にしゃべったところが、外にもそんな目エに遇(お)うた人たあんとあるいうこと分って来て、それが綿貫は、自分がええ男で異性に好かれるいうことよう知ってますさかい、何処いでも女の集りそうなとこいずうずうしいに出て行くのんで、誰でも一ぺんは引っかかりますねん。そやけどプラトニック・ラヴやいうてどない熱烈に愛されても純潔守ってるのんで、大概のものは人格者やいうてなお崇拝して、何処まででも釣られて行って、際(きわ)どいとこまで引っ張られてから極(き)まってぽんと捨てられてしまう。﹁ふーん、あんたかってそうやったのん?﹂﹁ふん、ふん、うちもそやってん﹂と、そないいう人方々から出て来て、誰に聞いてみても同じように、或る程度以上になったら妙にコソコソ逃げてしもて、そないいうたらその様子が何や知らんけったいやった、ほんまのプラトニック・ラヴやったら接(せっ)吻(ぷん)するのんかて矛盾してるのんに、あれやったらなにも純潔なことあれへん。みんな欺されてたあいだはそれに気イつきませなんだけど、分ってしもたら、誰も彼もそないいい出して、その人らの捨てられたいうのんが型に嵌(は)まったように、結婚申し込んだら、何やすうッと消えるように逃げられてしもた﹂いいますねん。そいで中には同情する人もありましてんけど、本人はそない仰(ぎょ)山(うさん)に自分の秘密知られてる思わんと、そいから後も次から次い処女弄(もてあそ)んでて、知らん人は今でも常(じょ)時(うじ)引っかけられてますのんで、﹁またステッキさん、あんな人掴(つか)まえてるし、……﹂﹁あのステッキ・ボーイやったら誰も羨(うらや)ましいことないなあ﹂いうて、知ってるもんはええ笑い草にしてる。﹁うちこないだ、徳光さんきっとまだ知らんのやなあ思て、いつぞいうたげよ思ててんし。うそや思うのんやったら誰それさんにかて誰それさんにかて聞いて御覧。﹂﹁へーえ、そんなけったいな人! うちまだ接吻しられたことないねんけど、そしたらもう直きしられるやろか﹂と、光子さんはわざと空(そら)惚(とぼ)けて、その場アそいで済ましてしもてから、﹁今日友達にこないこないいわれてんけど、ほんまやろか?﹂いうて、家い行んでからお梅どんに話しますと、﹁ほんまかうそかとうちゃん知りゃはれしまへんのか?﹂いうて、あべこべにお梅どんから尋(た)ンねられた。――そらお梅どんにしたら、もしもそんなことあったらそれ光子さん知らんといた訳ない思うのんでしょうけど、光子さんは異性に接触するいうこと始めての経験ですし、﹁子供生れたらいきませんから﹂いうてるのんで、別に不審にもせんといた、そやさかい友達にそないいわれてもほんまかうそか自分には分らんいうのんで、お梅どんも始めてビックリして、﹁とうちゃんとあのお方はんとやったらあんまり揃(そろ)い過ぎてお雛(ひな)さんみたいやさかい、水さそ思てそんな悪口いうのん違いますやろか。誰ぞに調べてもらう訳に行きまへんか﹂いうて、そいから内証で秘密探偵に調べさしたら、性的に欠陥あるのんはやっぱり事実に違いないいうて来たのんですねんて。尤(もっと)もお多福風の結果かどうか分りませんねんけど、とにかく子供の時分からそうやったらしいて、それがどないして探偵に知れたいうたら、光子さんとそないなる前南(なん)地(ち)で隠れ遊びしてたいうこと突き止めて、その方面調べてみたら、くろとの女でも一ぺん綿貫に引っかかったら大概なもん夢中になる、なんぼ男前ええとしたかてあんまりおかしい、何ぞ秘伝でもあるのんやないかいうて、一時はえらい評判になって、関係あった女たちに聞いてみても、誰も絶対に秘密しゃべらん、そいで噂ひろがって行って、いろいろな方法で詮(せん)索(さく)するもん出来て来て、分ったとこでは、初めごろ綿貫は自分に欠陥あるいうこと隠して遊んでましてんけど、そのうちに或る女が秘密嗅(か)ぎつけたいうのんは、その女もやっぱり同性愛の習慣あったのんで、一人前の男やのうても女に愛されるいうこと綿貫に教(お)せ込んだらしい。そいから綿貫のこと﹁男(おと)女(こおんな)﹂やとか﹁女(おん)男(なおとこ)﹂やとかいうようになったのんやそうですが、そないいわれる時分にはぷッつり遊び止めてしもて、何処のお茶屋いも姿見せんようになった。――私、その探偵の報告書あとで見せてもらいましたら、ずいぶん細かいとこまでも行き届いて調べられてて、そんなこと委しいに書いてありましてん。
そいで隠れ遊びしてる間に、﹁自分かて何も悲観することない﹂いう自信ついて、今度はしろとの女捜してるとこい光子さんが網に引っかかりなさった。――これは想像ですねんけど、きっとそうに違いないやろいうのんで、そんな人間の玩具になった思たら、もうもう生きていられん気イして、ほんまにその時光子さんは死んでしまおか思いなさったそうですが、死ぬのんやったら恨みいうてから死んでやろいう覚悟しなさって、正式に結婚してくれへんか、あんたさいよかったらこっちはちゃんと親の許し得たあるねんし、と、そないいうたら何ちゅうか思ていいなさると、﹁僕かて望むとこですけど今は都合悪い﹂とか、﹁もう一、二年たってから﹂とか、何の彼のいうて胡(ご)麻(ま)化(か)すのんで、﹁あんたほんまは、何年たっても結婚出来へんのんやろ﹂いうてやりなさった。そしたら急に顔の色かえて﹁何でです?﹂いうよって、﹁何でや知らんこないこないの噂(うわさ)ありますねんけど﹂いいなさって、こうなったらうちもあんた捨てる訳に行かんよって、一緒に死んで頂戴いいなさったら、そいでもまだ﹁そんな噂うそや﹂いうてましてんけど、探偵の報告書出して見せなさったのんで、その時いうたらなんともいえん顔つきして、﹁悪かったです、堪忍して下さい﹂いうて、﹁一緒に死にます﹂いいましてんと。けどなかなか死ぬ訳に行けしませんし、さんざん恨みいうてしもたらまた可哀そうになって来て、ついぐずぐずに会うてなさった。それいうのんが、光子さんかて心の底ではやっぱり綿貫のこと忘れること出来んと、一日も長う一緒にいてたいいう気イあったのんですやろが、綿貫の方でもそれ見て取って、自分は今まで、自分の体の秘密知れたら、どない愛してくれてる人でもきっと自分を捨てるやろ思て隠してた、自分に欠陥あるいうこと承知して愛してくれるのんやったら、自分かて何で隠すもんか、自分はこんな体になったのん不仕合わせやとは思うけど、そない重大な欠点やとは思てえへん、それで男子の資格ないいうたら、男子いうもんのほんまの価値何処にあるのんや、男子ちゅうたら外に現われた恰(かっ)好(こ)ばっかりできめるのんか、そんなんやったら男子でのうてもちょっともかめへん、深(ふか)草(くさ)の元(げん)政(せい)上(しょ)人(うにん)は男子の男子たる印(しるし)あったら邪魔になるのんで、灸(やいと)すえたいうやないか、男子の中で一番えらい精神的な仕事した人は、お釈(しゃ)迦(か)さんでもキリストでも中性に近かった人やないか、そやさかい自分みたいなんは理想的人間や、そないいうたらギリシャの彫刻かて男性でも女性でもない中性の美現わしてあるのんやし、観音さんや勢(せい)至(しぼ)菩(さ)薩(つ)の姿かてそうやし、それ考えても人間の中で一番気高いのん中性やいうこと分ってる、自分はただ愛する人に逃げられるのん心配して隠してたんや、ほんまいうたら、恋愛にしたかて子供生んだりするのん動物の愛で、精神的恋愛楽しむ人にはそないなことやかい問題やあれへん。……
その二十二
……はあ、そらもう綿貫ちゅうたら、そんな工(ぐあ)合(い)に議論し出したらなんぼでも都合のええ理(りく)窟(つ)ならべて、つべこべつべこべ果てしないのんです。そいでいいますのんに、光子さん死にやはるのんやったら、自分かて一緒に死ぬのん躊(ちゅ)躇(うちょ)せえへんねんけど、自分は死ぬだけの理由見つかれへん、ここで死んだら、ふん、あの男、不具者やいうこと悲観して死によったいわれるのん口(く)惜(や)しい。自分はこれぐらいのことで死ぬような意(い)気(く)地(じ)なしやあれへん、なんぼでも生きてて、立派な仕事して、普通の人間よりずっと偉大な超人やいうこと見せてやりたい、光子さんかて死ぬぐらいな決心するのんやったら、自分と結婚してくれたらええやないか、今もいう通り、自分みたいなもん夫にするのん恥や思うのん間違うてるし、一層高尚な精神的結婚やいうように考えたら、――尤(もっと)もそないいうたとこで世間の奴らは理窟分らんと、いろいろな妨害するやろさかい、自分がこんな人間やいうこと無理にこっちから広告して歩かいでもええ、一人や二人噂するもんあったにしたかて、誰もちゃんとした証拠握ってるもんないねんよって、もしもそんなこと尋(た)ンねるもんあったら、完全に一人前の男やいうてて欲しい、――それが考えたらほんまに矛盾してますのんで、﹁ちょっとも悲観することない、超人や﹂いうぐらいやったら、何にもそないに秘密にせんかて大手振って歩いたらええのんに、何は措(お)いても邪魔這(は)入(い)らんうちに無事に結婚してしまお、それが第一の目的やさかいその目的果たすためには世間欺(だま)すいうこともやむをえん、自分らは誰にも退(ひ)け取らんいうことお腹(なか)の中でさい承知してたら差し支いないいいますねん。けど、世間はどうでも親たちまでそないあんじょう欺す訳に行けへんいいなさったら、自分の親は承知で嫁に来てくれる人あったら、どんなに結構や思うか分れへん、反対するのんは光子さんの方の親たちだけやよって、事情打ち明けても許してくれへんこと極(き)まってるのんなら、やっぱり隠しとかんといかん、光子さんさいその気イになったら隠しとかれへんいうことあれへん。﹁そんなことして分った時どないするのん?﹂﹁分ったら分った時のことやあれしませんか、そないなったら堂々と正義の立ち場説いて聴かして、絶対に外の人とは結婚せんいうて、それでも許してくれなんだら、その時こそ二人で姿隠しても一緒に死んでもええことあれしませんか。﹂それが本人は、自分の秘密仰山の人に知られてて、仇(あだ)名(な)まで附けられてるいう風に思えしませんのんで、くろとの女別としたら感づいてるもんちょびッとよりないやろ思てますさかい、巧いこと隠し通せる思てるらしいのんですが、そない都合よう親欺して結婚するいうこと、実際にはなかなか出来しません。綿貫の方には親いうてもお母さんと、後(こう)見(けん)してる叔(お)父(じ)さんとがあるだけやさかい、一ぺん光子さんが会うてくれて、﹁こないこないの訳ですよって、いずれ家から表向きに申し込んで来たら黙って承知して下さい﹂いうたら、お母さんはよう分ってくれる、叔父さんかて、わざわざ人の欠点あばいて折角の縁談ワヤにするようなことせえへんいうのんですけど、光子さんの考えでは、結婚申し込む先に身元調べるに違いないよって、どないしたかて知れる、そんなことして平地に波(はら)瀾(ん)起すより当分内証で会うてる方ええやないか、ぜんたい綿貫の方には別に結婚せんならん理由ないのんで、そんな体で無理な相談やいうこと自分かて分ってますねんけど、光子さんの方がそないいつまででも一人でいられるはずないさかい、こんなりでいたらもうつい逃げられへんやろか、それが心配で仕方あれしませんねん。それに口でいうのんとお腹の中とはまるきり反対で、出来るもんなら一人前の男と同じに奥様持って暮らして行きたい、世間欺すばっかりやのうて、自分の心まで欺して、ちょっとも外の男と違(ちご)たとこないように思てたいいう気イあるばっかりか、光子さんみたいな人一倍綺麗な奥様持って、世間の奴らアッといわしてやりたいいう虚栄心まであるのんで、せえだい焦(あせ)ってて﹁そんな一時逃(のが)れいうて、ええ縁談あったら行くつもりやろ﹂いうようなイヤ味いいますねん。そいで光子さんは、どない親にいわれてもきっと余(よ)所(そ)い嫁に行けへん、今のとこ差し迫った縁談あるのんでもなし、そのうち自分も二十五になったら自由結婚出来るようになるし、きっとええ折あるやろさかいまあまあもうちょっと辛抱してて、……そやなかったら死ぬより外に道ないいうて、ようよう納得さしましてんと。
光子さんのその頃の気持、﹁ほんまのとこ自分にも分らん﹂いうてなさるのんですが、初めのうちはそないいうて宥(なだ)めといて、どないぞして切れてしまいたい思てなさったのんは確かですねん。会うたあとではいつでも後悔しなさって、ああ、ああ、自分は仰山の女の中でも人に羨(うらや)ましがられる器量持ってながら、あんな男に見込まれるやなんて何ちゅう情(なさけ)ない身の上やろ、もうもう止めてしまいたい思いなさるのんですけど、そら不思議と、また二、三日も立つうちに自分の方から跡追い廻すようになってしまう。そうかいうて、それほど綿貫恋しいのんかいうたら、精神的にはええ思うとこ一つもない、顔見るのんさいムカムカするような気イして、卑(いや)しい奴(や)ッちゃ、見下げ果てた奴ッちゃ、いう風に、お腹(なか)の中では常時激しいに軽(けい)蔑(べつ)してる。そいで毎日のように会うてることは会うてるけど、二人の気持シックリすることめったにのうて、いつでも喧(けん)嘩(か)ばっかりしてて、その喧嘩いうのんが、自分の秘密人にしゃべったやろとか、いつまで待たす気イやとか、例のキマリ文句で、愚にもつかんようなこと取り上げては疑がい深いにちゃにちゃした口調でいいますのんで、……光子さんかて、そない厭(いや)がること用もないのんに人に話したら綿貫だけの恥やあれしませんし、そんなくらいなこといわれいでも分ってましてんけど、そうかてお梅どんだけにはいわんちゅう訳に行かんのでいいなさったのんを、﹁何で女子衆みたいなもんにしゃべった﹂いうて、その時ばっかりはえらい喧嘩になって、光子さんもちょっとも負けてんと、﹁あんたは偽善者や、いうこととすることとまるきり違てるうそつきや。あてらのしてる事にほんまの恋愛らしいとここんだけもあれへん。﹂と、思い切りいうてやりなさったら、とうとう文句に詰まってしもて、血相変えて﹁殺す﹂いいますのんで、﹁殺すのんやったら殺したらええ、あてはとうから死ぬ覚悟きめてる﹂いいなさってじっと眼エつぶったなり、動こともしなされしませなんだ。そしたら綿貫の方が気イ呑(の)まれてしもて、﹁悪かったよって堪忍して下さい﹂いいますのんで、﹁あてあんたみたいな恥知らず違うよって、こんなこと世間に知れたら、あんたよりあての方がどない難儀するか分れへん、もうもういつでもそんないい係りいわんといて頂戴﹂いいなさって、ぎゅうぎゅういう目に遇わしなさった。そいから綿貫だんだん頭上らんようになりましてんけど、それだけかいって陰険になって、蔭では一層疑がい深(ぶこ)なりましてん。
ところがちょうどそないなってる時にM家との縁談持ち上った。――その時分光子さんがあの技芸学校い行ってなさったいうのんは、綿貫と会う機会作るためやったのんですが、私との間に同性愛やいう噂立ったのんは実は誰の仕(しわ)業(ざ)でもない、光子さん自身がそないいい触らしなさって、匿(とく)名(めい)のハガキ投書しなさったのんですねんて。何でそんなことしなさったいうたら、縁談のこと聞いてからいうもん綿貫の焼餅が激しいて、そんなことあったら唯(ただ)では置かん、今までの関係一(いっ)切(さい)合(がっ)財(さい)新聞い素(す)ツ葉(ぱ)抜いてやるいうて脅迫しますし、それでのうても競争の形になってる市会議員の家の方で手エ廻して、光子さんのアラ捜しして、こっちの縁談滅茶々々にしょうとかかってるのんで、自分はもちろんM家い行こいう気イないさかい競争に負けるのんかめへんけど、そんなことから綿貫との秘密探り出されて、ぱっと知れ渡るようになったら、それが何より恐い。そいでつまるとこ、ほんまのこと知れんように、わざと同性愛の噂立てた。まあいうてみたら、私ちゅうもん利用して世間の眼エくらましなさった。光子さんとしたら、﹁ステッキ﹂やとか、﹁男女﹂やとかいわれてるもんと噂立つより、同性愛やいわれる方が辛抱出来る、人に後(うし)指(ろゆび)さされたり物笑いの種にならんと済む思いなさいましてん。そんな工合で初めはただ、私が光子さんモデルにして絵エ書いてるいうこと聞きなさったり、道で擦(す)れ違(ちご)た時の素(そぶ)振(り)や何かから、ふっと思いつきなさっただけですねんけど、私の方があんまり真剣で熱烈でしたさかい、だんだん利用する心持からほんまの愛情に変って行きなさった。そら私かて全然純真なとこばっかりやあれしませんけど、そいでも綿貫とは比べ物にならんほど精神的な気持ありましたよって、知らん間にそれに絆(ほだ)されなさって、――それと一つには、綿貫みたいな誰にも相手にしられんような人間の慰め物にしられるのんと、同性の人から観音様の絵にまで画(か)かれて崇拝しられるのんとはえらい違いですよって、私というもん出来てから持ち前の優越な感じ、――自尊心戻って来て、始めて世の中が明(あこ)なったような気イしたいいなさいますねん。そいで綿貫にはこないこないの噂あるのん幸いにこないな人道具に使(つこ)てる、そないした方が家空(あ)けるのんにも工合ええさかいいうてなさったのんですが、それをそんなり真(ま)に受けるような綿貫と違いますよって、うわべは﹁そうですか、そらその方がええでしょう﹂いいながら心の中では嫉(しっ)妬(と)の刃(やいば)研(と)ぎすましてて、何ぞ事さいあったら私との仲割(さ)いてやろ思てたのんに違いないいうのんは、あの笠屋町で着物盗まれた事件にしたかて、今考えたらどうも怪しい、あの時別の座敷で博(ばく)奕(ち)打ってるもんあったとか、刑事乗り込んで来たとかいうのんはみんな根エも葉アもないことで、彼(あそ)処(こ)の家の人に頼んで不意に光子さんビックリさして、逃げてる間に着物すっくり隠すように初めから段取り極(き)めといた。――それが、あの日の昼、私のとこい来なさる前に三(みつ)越(こし)い買い物に行きなさったら偶然綿貫に会いなさったのんで、こいから柿内の姉さんとこ行て帰りにずっと笠屋町い廻るさかい待ってて欲しいうて別れなさった。そいで綿貫は揃いの着物着てなさったこと知ってましたよって、こりゃええ機会や、あの着物ないようにしてやったらどうしても私のとこい電話かけるようになる、そしたら私かて愛(あい)憎(そ)尽かすやろいうように考えて待ってる間にあの家のもん買収してこないこないせえいうといた。――綿貫やったらそのくらいのこと企(たく)らまんとも限らんし、企らむだけの時間もあった。そやなかったら何ぼ何でも人の着物着て警察い連れて行かれるいうことあんまりおかしいし、光子さんとこいも綿貫とこいも、そんなり警察からなんにもいうて来なんだいう訳あることない。けどその時はまさか計略にかかったとは思いなされしませんさかい、どないしてええのんか顛(てん)倒(とう)してしもてると、﹁こないなったら、柿内さんとこい電話かけて揃いの着物取り寄せるよりしょうがないでしょ﹂と、綿貫の方からいい出した。――綿貫の話とはそこえらい違(ちご)てて、光子さんはもう取られたのんが揃いの着物やったいうことさい忘れてたくらい慌(あわ)ててなさって、なかなかそんなこと考え出せるどころやなかった。綿貫にそないいわれてからも﹁姉ちゃんに頼める義理やない﹂いいなさいましてんけど、﹁それ厭(いや)やったら僕と一緒に逃げてくれますか、それとも電話かけますか﹂いわれて、絶体絶命の場合になって、こんな男の道連れになるのん死ぬよりイヤや思いなさったら、後(あと)先(さき)の分(ふん)別(べつ)もないよになって夢中で電話口い走って行った。そいでもあの時、近所のカフェエい来てもらうとか、綿貫先帰してしまうとか、あんなとこ私に見せんかて何とかもうちょっとええ工夫あったやろのんに、うろたえてたらそんなこと思いつけしませんし、そこが綿貫の狙(ねら)いどこですよって﹁早(はよ)しなさい、早しなさい﹂いうて急(せ)きたてますし、そのうちに私に来られてしもて﹁合わす顔ない﹂いいなさったら﹁僕ええようにいいますさかい隠れてなさい﹂いうて、いかにも自分は光子さんの恋人やいう顔つきして、いろいろなこと私にカマかけて聞いてしもた。﹁ふん、そやねんし。ほんまいうたら、あの人あの時まで姉ちゃんとのことそないよう知ってエへんなんでん﹂いいなさいますねん。
その二十三
﹁へーえ、そしたらあの時カマかけられてたのん?﹃そら光子さんの奥様に対する気持いうたら、全く真剣でしてなあ﹄いうて冷やかしたりして、人馬鹿にしてる思ててんけど。﹂﹁ふん、ふん、わざとそんなこというて、なるだけ姉ちゃんに腹立たそとしててんし。あて襖(ふすま)の蔭で聞いてて、まあ何ちゅううそつきやろ思てんけど、あんな時に弁解したかてなかなか信用してもらわれへんしなあ。……﹂そいで光子さんは、計略にかかったいうことに気イつきなさったら、忌(い)ま忌ましいてならんとこい、それからちゅうもんもう邪魔なもんないようになったのんでなおのことひつこうに附き纏(まと)て、何ぞいうたら﹁あんたこそうそつきや、巧いこというて僕欺(だま)してたやないか﹂いうて、私とのこといつまででも根エに持って、﹁きっとあんなことぐらいで絶交するはずあれへん、今でも何処ぞで会うてんとは限らん﹂いうて、自分で会わさんようにしといたくせに、何処までも疑がわんといられん性質やのんか、それともわざと空(そら)惚(とぼ)けてそんな嫌がらしいうのんか、﹁あんたも男らしいもない、済んでしもた事そないくどくどいわいでもええ﹂いいなさっても、﹁いやいや、済んでしもたことやない、きっとあの人に僕の秘密知らしたあるやろ﹂いうて、ほんまのとこはそれ一番恐(こわ)がってて、私に知れたら復讐的にどんな妨害するか分れへんいいますのんで、﹁邪推もええ加減にして欲しい。あんたちゅうもんあることさい隠してたのんに、なんでそんなことしゃべる隙(ひま)あるやろ。あんた姉ちゃんに会うたんやったら大概様子で分ったやろのんに。﹂﹁いや、その様子に怪しいとこあった﹂いうて、自分がカマかけたりしますさかい人の態度まで疑ごうて、――それが、ただの嫌がらしと違(ちご)て、綿貫にしたら疑がう訳あるいうのんは、自分かて光子さんと私との仲感づいてたように、私にしたかて綿貫と光子さんとの仲知らんといたいうはずがない、知って今まで焼餅も焼かんといたのんは、﹁あの男は不具な人間や﹂いうこと聞かされて安心してたのんやろ、そやなかったらまさか黙ってる訳あれへん、そない思て、それがお腹(なか)にありますのんで、私を笠屋町の宿屋に呼んだいうのんも、自分はしょっちゅうこんなとこで光子さんと会うてるぐらいで、性的欠陥のある男やないいうこと見せつけるつもりもあったのんです。光子さんかて、﹁どうぞ姉ちゃんと別れて下さい﹂と正面から手エついて頼まれなさったら、﹁イヤ﹂とはいえん義理ですのんに、あんじょうペテンにかけられた上にそないエゲツのう疑がわれたら、意地でも謀(はかりごと)の裏かいてやりとうなりなさるし、あんな心にもないことして仲(なか)悪(わる)なった思いなさったら、なおのこと未練残って、どないぞして仲直りしたい、せめて一ト眼だけでも会いたい思いなさいましてんけど、訪(た)ンねて行ってもたやすうは会うてもらえんやろし、会えたところでどないいうていい訳しょう、今更何いうたにしても気持直してもらえへんやろと、いろいろ考えなさった末あの本のこと思い出しなさって、……あれはほんまに光子さんには用のない本で、やっぱり中川の奥様に貸しなさったのんやそうですが、あの時のことは、ふっとそれからヒント得なさったのんで、SK病院の名前騙(かた)ってこない電話かけよ、こんな時にはこないしょういう工(ぐあ)合(い)に、何日もかかって一所懸命考え抜きなさった。もちろん誰にも相談せんと、自分ひとりであんだけの段取り工夫しなさって、ただ電話かけるのんに女の声やったらいかん思て、お梅どんに訳(わけ)話して出入りの洗い張り屋の男頼んだ。﹁あてかてあの時姉ちゃんを取り戻そいう一心で有るだけの智(ち)慧(え)絞ってんし。今考えたらあんなえらい騒動して、眼エ吊(つ)り上げて見せるやなんて、役者でもないのんにようあんなことしたなあ﹂いいなさって、そら、あの時のことは確かに私を計略にかけた。欺(だま)したいわれても仕方ないけど、それも自分がどんな気持でしたかいうこと直きに分ってもらえるやろ、そしたら私かて可哀そうなとこそ思えきっと憎いとは思えへんやろと、そない考えてたいいなさいますねん。
ところが私と仲直りしたいうことそれから間ものう綿貫に知れた。光子さんかてもともと綿貫のたくらんだことあべこべに引っくり覆(かえ)して見せつけてやろいう気イあるのんで、別に隠そともしなされへんばっかりか、知れたらどんな顔するやろ思て待ち構えてなさったとこですさかい、﹁あんたこの頃、またあの人とより戻ったんやろ、空(そら)惚(とぼ)けててもちゃんと分ってる。﹂﹁ふん、そんな事ちょっとも惚けてエへん﹂と、落ち着き払(はろ)てなさって﹁会わんといたかてどうせ疑がわれるぐらいなら、会うた方が優(ま)しや思てん。﹂﹁何で僕に内証でそんなことした?﹂﹁内証やあれへん、あてどない邪推しられたかて、せエへんことはせエへんいうけど、したことはしたいうし。﹂﹁そうかて今日まで黙ってたやないか。﹂﹁そらいうまでもない思たさかい黙ってた、何も一々自分のしたこと報告せんならん思てエへんもん。﹂﹁こんな大事なこと報告せんちゅう法あるもんか。﹂﹁そやさかい、したことはしたいうてるやないか。﹂﹁ただ﹃した﹄だけでは分らん、孰(どっ)方(ち)から仲直りしたのんかちゃんとはっきりいうて見なさい。﹂﹁あての方から訪(た)ンねて行って、悪かったいうて堪忍してもろてん。﹂﹁何やて! なんで詫(あや)まりに行くことある?﹂﹁何でいうて、こんなとこいあんな時間に呼び出しといて、着物借ったりお金借ったりして、放っとくいう法あるかいな。そんな義理の悪いこと、あんたは出来てもあてはようせん。﹂﹁借った物はあの明くる日、僕が郵便で返してやった。あんな汚(けが)らわしい女にそれ以上礼いう必要あるもんか。﹂﹁ふーん、そしたらあの時姉ちゃんの前で何ちゅうた、﹃僕の一身はどないなっても、この場アさい無事に済んだら御恩は一生忘れしません﹄いうて、その汚らわしい人に頭下げて、手エ合わして拝んだやないか。そやのんに今頃ようそんなこといえるなあ。第一借ったもん郵便で返すやなんて、もし旦那さんの手エにでも渡ったらどない迷惑しなさるか、汚れてたかていエへんかて世話になったもんは世話になったもんやのんに、何ちゅう恩知らずやろ。あんたそんなこというたら、あの晩のことかて手(てづ)妻(ま)の種(たね)見えるような気イするし。…﹂そないいうてやりなさったら、ぎょッとした顔して、﹁手妻の種て何のこっちゃ﹂いいますのんで、﹁何のこっちゃ知らんけど、何もあれから絶交したともいエへんのんに、あんた独りで絶交したもんと極(き)めてるいうのんけったいやないか。そない自分の思う壺(つぼ)に嵌(は)まる思たら間(まち)違(ご)てるし。﹂﹁何や一体、あんたのいうてること僕には分らん。﹂﹁あのなあ、あの時の着物あんなり警察から戻って来エへんのん何でやろ?﹂﹁今そんなこと問題にしてエへん。﹂そないいいながら、チクリと痛いとこ刺されたのんで、﹁何をいうのんか今日はあんた興奮してるで。まあまあ、その話ゆっくり聞こ﹂いうて、照れ隠しにニヤニヤ笑て胡(ご)麻(ま)化(か)してしもた。けどそんなりで放っとくようなあっさりした男違いますよって、二、三日したら直きまた持ち出して、今度は下(した)手(て)に出て光子さんの機嫌取りながら、﹁あの奥様よっぽど怒ってたはずやのんにどんなこというて丸めたのんか、後学のために聞かして欲しい﹂とか、﹁そんな優しい顔しててあんたはえらい手(てく)管(だ)上手や﹂とか、﹁くろとも及ばん凄(すご)腕(うで)や﹂とか、いろいろなこというておだてたり皮肉いうたりしますのんで、ええ加減なとこで妥協しといた方がええ思いなさって、実はこないこないの計略で仲直りしたいうこと話してやりなさった。﹁あんたそんな狂言書いて人欺すこといつの間アに覚えてん?﹂﹁そらあんたに教(お)せてもうてん。﹂﹁阿(あ)呆(ほ)いいなさい、僕にもちょいちょいその手エ使てるねんやろ。﹂﹁ほらまた邪推始まった。あてこんな人の悪いことしたん今度だけやわ。﹂﹁そないまでしてあの奥様ときょうだいになりたいいうのん、僕には分れへん。﹂﹁けどあんたかてこないだ姉ちゃんに﹃僕はちょっともかめしません、これから三人仲好うしましょ﹄いうてんやないか。﹂﹁そらあの時あの人怒らしてしもたら難儀やさかい、あないいうといてん。﹂﹁うそいうてるわ。あんた姉ちゃんにカマかけたんやないか。あの晩の細工ちゃんとあてに分ってるし。﹂﹁そんなこと僕一向知らん。﹂﹁あんたよう聞いて頂戴や、一寸の虫にも五分の魂いうことあるよって、蔭い廻ってけったいな事しられた思たら、誰かってそんなりにしとけへんさかいになあ。﹂﹁僕がけったいな事したやなんて、何ぞ証拠でもあるかいな。あんたこそ邪推してるやないか。﹂﹁邪推なら邪推にしといたらええ。けどあんたかってそないいうのんやったら、ちゃんと、約束した通り姉ちゃんと附き合うたらええやないか。あんたは疑ごうてるか知らんけど、あてかてあんたのイヤがるようなこと決して姉ちゃんにいエへんし。……﹂そこで光子さんは即座に気転利(き)かしなさって、私のとこいあんなこというて来たのんも一つは綿貫のイヤがってること何処までも隠して、一人前の人間やいうこと私に信じさすためやった、自分はそないまでして綿貫の名誉守ってるねんさかい、綿貫さいもうちょっと寛大な気持になったら、この先三人が仲好うして行かれへんいうはずないやないか――と、一方では綿貫の痛いとこおさえてて、賺(す)かしたり威(お)嚇(ど)したりしなさって、﹁あんたと此(こ)処(こ)で会うてる以上は、姉ちゃんにも来てもらう﹂いいなさって、私との交際には絶対に嘴(くちばし)入れんといてほしい、ぐずぐずいうのやったら綿貫捨てても私捨てへんいう覚悟見せなさったのんで、とうどう泣き寝入りになってしまいましてん。
その二十四
﹁……なあ、姉ちゃん、なんぼ親しい間(あい)柄(だがら)かてこんなこというたら自分の恥やし、愛(あい)憎(そ)つかされるかも分れへん思てじっと辛(しん)抱(ぼ)しててんけど、もうもう今日は何も彼もいうてしもてんし。あてぐらい不仕合せなもん世の中にあるやろか。﹂――そないいいながら私の膝(ひざ)の上い打つ伏しなさって、涙でそこがびしょびしょに濡(ぬ)れるぐらい激しいに泣きなさるのんで、あんまりのことに何ちゅうて慰めたげたらええのんやら、――なんせ私の知ってる今日までの光子さんいうたら、花やかで、勝ち気で、いつもプライドに充(み)ちた眼エ耀(かが)やかしてなさって、そんな辛(つら)い思いしてなさったとはちょっとも見えしませんのに、その高慢な、女王みたいにエラそにしてなさった人が、プライドも何にも放ってしもて泣き崩れてなさる様子だけでも、ほんまに思いの外ですねん。光子さんにいわしたら、自分は強情張りやよってどない苦しいことあっても人に見(み)透(す)かされんように努めて来てんけど、そいでも姉ちゃんいうもんなかったらもっと陰気になってたやろのんに、姉ちゃんのお蔭で暗い運命に打ち克(か)つだけの勇気出た、いつでも姉ちゃんの顔さい見てたら気が晴れ晴れして一切のこと忘れてたけど、今日ちゅう今日はどういう訳か悲しい思い込み上げて来て、意地にも辛抱出来んようになって、長いあいだ怺(こら)えてた涙の堰(せき)が一ぺんに切れた。﹁なあ、姉ちゃん、どうぞどうぞ、……頼りにするのん姉ちゃんばっかりやさかい、こんな話聞いても愛(あい)憎(そ)尽かさんといてエな。﹂﹁なんで愛憎尽かすもんか。いいにくいことよういうてくれたなあ。あてかてそない頼りにされたらどない嬉しいか分れへん。﹂そしたら光子さん気イ弛(ゆる)みなさったのんか、一層止めどものう泣きなさって、自分の一生は綿貫のお蔭で滅茶々々にしられた。もう行末に何の望みも光明もない、生涯埋(うも)れ木(ぎ)で暮らすばっかりやいいなさって、自分は死んでもあんな男と結婚せエへん、どうぞ助ける思てあの男と手エ切れるようにしてくれへんか、何ぞええ工夫あったら教(お)せて頂戴いいなさるのんで、﹁こないなったらあてかて正直なこというけど。ほんまいうたらあて栄ちゃんと兄弟の約束してしもて、こないこないの書(かき)付(つけ)まで交(かわ)してんし﹂と、昨日の出来事みんな話したげたら、大方そんなことやろ思てた、綿貫の奴、何処まで行っても知られてエへんかいうこと疑ごうてて、わざとそないなこというて姉ちゃん試(ため)してみといてから、自分捨てられたら姉ちゃんも一緒に抱き込んでやろいう気イや。……そないいうとなるほど、﹁光ちゃんに子供出来たいうこと初耳です﹂いうたとき、﹁へえ? 初耳?﹂いうて血走った眼エして、﹁何で子供出来るはずないいいましたか、そんな体質やいうのんですか﹂と唇の色まで変えてたのんが、あの時にもけったいな人やなあいう感じしましたし、それに思い当るのんは、話の中途でためいきついては、﹁ああ、ああ、僕は何ちゅう不幸な運命の下に生れたのんでしょう﹂と、二へんも三べんも芝居のセリフみたいな節つけて繰り返したあの言葉、――あの時はなんや、人の同情求めるためにわざとあんなセンチメンタルな声出してる思いましてんけど、それがやっぱり、なんぼずうずうしい男にしたかてお腹(なか)の中では自分の不仕合わせ嘆いてるのんで、人にいわれん淋しい気持が自然と外に現われたのんかも分れしません。けど﹁何でそないに妊娠したいうこと隠すのんでしょう? お姉さんにまでウソつかないでもええやありませんか﹂とか、﹁子供生れたら何処いなとやってしまういうて、光ちゃんのお父さんかんかんになって怒ってる﹂とか、巧いこというて探り入れて、――それもええけど、﹁これ読んでみたらお姉さんの方が僕より得してる、僕の誠意のあることこれでも分りましたやろ﹂いうやなんて、もともと起る気づかいないのんやったら、どんな条件かて書けるやあれしませんか。そんなありもせんこと種に使(つこ)て、こっちの信用つないだりして、どないな気イやろ? どんな場合にあの約束役に立たすつもりやねんやろ? そらきっと﹁姉ハ弟ト光子ト正式ニ結婚セシムルタメニ努力シ﹂いうのんと、﹁弟ガ捨テラレタル時ハ姉ハ光子ト交リヲ絶チ﹂いうのんと、﹁両人ハ他ノ一方ノ承諾ヲ経ズシテ無断ニ光子ト逃亡シ、所在ヲ晦(くら)マシ、モシクハ情死スル等ノ行為ヲナサズ﹂いうのんとが、――殊にこの一番しまいの条件が眼(がん)目(もく)やのんで、その外のことは勿(もっ)体(たい)らしいに見せかけるための附け足りやと、光子さんはいいなさいますけど、そいだけのことにわざわざこんな尤(もっと)もらしい形式取り交して、あんな大騒ぎせいでもよさそうなもんですのんに、そんな法律くさい文句並べるのんがあの男の癖なんやそうで、そないいうたら、この頃光子さんの綿貫に対する態度だんだん焼け糞(くそ)になって来なさって、どないなとなれいうような素(そぶ)振(り)見せなさるもんですさかい、綿貫の方も近いうちにただでは済まんような事起るいう予覚感じてて、蔭い廻って何ぞ悪さするような様子見えてた。そいでこないだ三人で松竹座い行った時にしたかって、﹁あんたそないひがんでんと一ぺん姉ちゃんに会うて御覧、そしたら姉ちゃんどんな人やか、あんたの秘密知ってるかどうか、大概話しぶりでも分るやろ﹂いうて連れ出しなさって、そないしといたら、内証でけったいなこといわれたりする危険ないやろ思いなさったのんですけど、あんな工(ぐあ)合(い)に妙にこじれて口も利かなんだのんですと。﹁そしたらあない空々しいしてて、蔭でそうッと手エ握ろいうことあの時から考えてたのんか知らんで﹂﹁そらどや知らんけど、あてがあの人放(ほ)ったらかして姉ちゃんと逃げるのんやないかいうで、常(じょ)時(うじ)心配しててんし。﹂﹁きっとあてを道具に使て結婚さいしてしもたら、もうあんたみたいなもん用ないいうて放り出すつもりやってんなあ。﹂﹁結婚々々いうてるけど、それかて自分で自分欺くためやのんで、ほんまに結婚出来るとは思てエへんねん。あんまり無理なこというたら、あて生きてエへんこと分ってるし、姉ちゃんちゅうもんある方が外の男に取られる気づかいない思て、今のまま出来るだけ続けていてたいねんし。﹂……そいで光子さんは、今日も綿貫が待ってるねんけど、今日ばっかりはどないしても会うのんイヤやいいなさって、何ぞ工合よう行(い)なしてほしいいいなさるのんですが、今急にそんなこというても怪しまれるばっかりやし、後がかいって悪いさかい、そないいわんと今日のとこは何もこんな話せなんだことにしときなさい、そのうちにあてがきっときっと手エ切れるようにしたげる、あて死んでも光ちゃんの命助けんと置かん、まさかの時はあの男殺してやるいうて、私も一緒に泣きながら力づけたげて別れましてん。
それが、……そう、そう、その誓約書の日附け見たら分るのんですが、……そうです、そうです、これが七月十八日ですよって、光子さんとそんな話しましたのんが多分明くる日の十九日のことで、ちょうどその時分夫の方は忙しかった事件やっと片附いたのんで、何処ぞい避暑に行こやないか、ことしは軽井沢いでも行ってみよかいいましてんけど、私はなかなかそれどこやあれしませんさかい、光子さん毎日々々淋しがってて、こんな体で自分何処いも出られへんのんに、あんたほんまに羨(うらや)ましいなあいうてなさるし、行くのんならもうちょっと涼しいになってから箱根いでも連れて行って欲しいいうて、夫が何や物足らん顔してるのんにも頓(とん)着(ちゃく)せんと、そいから半月ほどいうもんはいッつもいッつも夫の出かけるのん待ちかねて笠屋町い飛んで行きましてん。何しろ私にしましたら、あれからこっち光子さんが別人みたいにしおらしいに見えて、今までは美しい悪魔みたいに思われてたのんが、今度は急に鷲(わし)に狙(ねら)われてる鳩(はと)みたいに思われて来て尚(なお)更(さら)いとしさ増したとこい、会うたんびに心配そうな様子してなさって前のような花やかな笑(えが)顔(お)見せなさること一日もないのんで、まさかとは思てても短気なことでもしなさったらえらいこッちゃ思たら、気が気やあれしません。そいで私、﹁光ちゃん、あんた栄ちゃんの前ではせめてもうちょっと浮き浮きしてなさいや、そやなかったらまた感づかれてどんなこといい出すか分れへん﹂いうて、﹁きっと、きっと、世間に顔向けならんように叩(たた)きつけてやるさかい、死ぬほどつらいことあってもちょっとの間辛抱してなさい﹂いいましてんけど、さてどないしたら綿貫叩きつけること出来るか、人欺したり陥(おとしい)れたりする計略は向(むこ)の方が上手ですさかい、なかなかええ考出て来(け)えしませなんだ。私はそないいうてるうちにも、また綿貫がろうじの外で待ったりしてたらどないいい抜けしたらええのんやら、あんな誓約書の条件守らんかてちょっとも疚(やま)しいことあれしませんけど、そいでも約束破ってるのんがやっぱり何や済まんような気イしてて、いつもろうじ出て来るとき、またあのぞっとするような声が後ろから﹁お姉さん﹂いエへんかとビクビクしてたのんですが、ええあんばいにあんなりになってますのんで、あんな男のこッちゃさかい、誓約書さい交してしもたら兄弟も糞(くそ)もあったもんやない思てるねんやろ、結局その方がこっちも助かる思てましてん。そうこうしてるうちに光子さんは毎日々々﹁姉ちゃんどないぞしてくれへんか、もう一日も辛抱出来へん﹂いいなさいますし、自分は最後の手段として、わざと綿貫誘い出して駈(か)け落(おち)しようか思てる、その時は何処い逃げるいうこと前に私に教(お)せとくさかい、新聞に出されたりしてえらいことになった時分に、もうええ頃や思たら掴(つか)まえに来てほし、そないしたらなんぼ綿貫かて二度と寄り附くこと出来んやさかい、自分の名誉も傷(きずつ)けること覚悟の上でやってみせる、﹁こっちで相談してることうすうす嗅(か)ぎつけたらしいよって、やるのんなら早い方がええ﹂いいなさるのんで、嗅ぎつけたらあの誓約書楯(たて)に取ってあてに何とかいうて来るやろ、まあ、まあ、そんな非常手段最後まで取っときなさい﹂いうて、――ほんまにあの時分、よっぽど思案に余ってしもて、先生のとこい智(ち)慧(え)貸してもらいに上ろか思たぐらいですねんけど、そんな厚かましいことようせえしませんし、お梅どんに聞いてみてもええ考ないいいますし、いっそのこと夫の力借ろかしらん、うそついてたこと或る程度までは白状して、ただ綿貫の迫害免れるような法律的の手段ないもんか知らん、話しように依(よ)ったら夫かて光子さんに同情寄せんこともないやろと、困った揚(あげ)句(く)そんなことまで考えましてん。ところがその夫が、或る日突然、ちょうど私が行ってる時に電話も何もかけんといて笠屋町の宿屋い訪(た)ンねて来たやありませんか。それが事務所の帰りしな、四時半ごろのことで、二階で光子さんと話してましたら、﹁奥さん奥さん﹂いうて慌(あわ)てて仲(なか)居(い)さんが駈(か)け上って来て、﹁今奥さんの旦那さんがお見えになって、お二人さんに会いたいいうたはります。どないしまひょ﹂いいますのんで、﹁何でやって来たんやろ﹂とぎょッとしながら顔見合わしましてんけど、﹁とにかくあて会うて来るわ、光ちゃんそこにすッ込んでや﹂いうて、玄関い降りて行きましてん。
その二十五
﹁やあ、えろう分りにくいとこやなあ﹂と、夫は格(こう)子(し)のとこに立ってて、実は今さっき、伊勢の四(よっ)日(かい)市(ち)い帰る人あって湊(みな)町(とまち)の駅まで送って行って、戻りしなに心斎橋筋散歩してたら、光子さんのいなさるとこ確かこの辺やったなあ、きっとお前も来てるやろ思たのんで、急に訪(た)ンねる気イになった。別に用事あるのんと違うけど、いつもお前がお邪魔に上って厄(やっ)介(かい)になるのんに、近所まで来て顔出しせんのも悪いような気イするし、それに光子さんどないしてなさるか、お見舞いかたがた是非お目にかかって御礼いいたい、差支いなかったら何処ぞで晩の御飯御(ごち)馳(そ)走(う)したい思うねんけど、ちょっとも外い出なさること出(で)来(け)へんのんやろかと、何気ない風していうのんですが、どうもそれだけやないみたいな気イして、﹁この頃は大分目立つようになってなさるよって誰にも会わんようにしてなさるし、なかなか外い出るどこやあれへん﹂いいましてんけど、﹁そやったらまあ、会うだけでも会うて行きたい﹂いいますのんで、それでもいかんいう訳に行けしませんさかい、﹁どないいいなさるか聞いて来るわ﹂いうて、﹁光ちゃん、こないこないいうねんけどどないしょう。﹂﹁どないしょう、ほんまに。姉ちゃんどないいうたん?﹂﹁大分目立つようになってるよって誰にも会いなされへん云うてんけど、是非ちょっとでもいうてるねん。﹂﹁何ぞ訳でもあるねんやろか。﹂﹁さあ、あてもそない思うねんし。﹂﹁あていっそ会うわ、そんなんやったら。……今お春どんと相談したら、帯上げお腹(なか)の上へ締めてその上から着物着なさったらええやろいうよって、そないするわ。ほんまに懐(ふところ)い綿詰めるようになってしもたなあ﹂いいなさって、そのお春どんいう仲居さんに帯上げ借って、﹁お客さん階(し)下(た)の部屋い通して待っててもろて﹂いうて、その間に私が手ッ伝(と)うて身ごしらいしてましたら、またお春どん上って来て、﹁そない申しましたけど、一分か二分でええさかい玄関でお目に。懸(かか)るいやはって、上りゃはれしません﹂いいますのんで、そやったら早(はよ)せんならんいうて大慌てに慌てて二人がかりで着せましたもんの、冬やったらどないなと胡(ご)麻(ま)化(か)せるのんですが、肌(はだ)襦(じゅ)袢(ばん)の上に明(あか)石(し)の単(ひと)衣(え)もん着てなさるだけやのんで、どないしても妊娠のように見えしません。﹁姉ちゃんあてのこと何カ月やいうといたん?﹂﹁何カ月いうたか忘れてしもたけど、人眼につくいうたぐらいやし、六カ月か七カ月になってんと工合悪いなあ。﹂﹁これぐらいやったら六カ月に見えるやろか。﹂﹁もっと全体が円うに膨(ふく)れてなんだらいかんし。﹂そんなこというて三人ともクスクス笑い出しながら、﹁なんぞもうちょっと持って来まひょ﹂と、またお春どんがタオルやら何やら持って来ましたのんで、﹁あんたも一ぺん下い行って、とうちゃん誰ぞに見られたらいかんいいなさって、めったに玄関いも出て来なされしませんさかい、とにかくお上り下さいいうて、なるべく暗いあんまり見えんような部屋い入れといて頂(ちょ)戴(うだい)﹂いうて、かれこれ三十分も待たしといてから、やっとどうにか六カ月のお腹(こし)拵(ら)えて行きましてん。﹁そんなりでかめへんいうたんやけど、浴(ゆか)衣(た)がけでは失礼やいいなさって、着物着かえてなさったのんで、……﹂と、そないいいながら夫の様子窺(うかご)うてますと、折(お)れ鞄(かばん)傍に置いて、キチンと洋服の膝(ひざ)がしら揃(そろ)えてすわって、﹁かいって御迷惑か思いましたけど、あんなり御(ご)無(ぶ)沙(さ)汰(た)してますし、一ぺんお見舞いに上らんならん思てたとこいちょうどこの前通りかかりましたさかい﹂いうて、気のせえか光子さんのお腹の辺ジロジロ見てるみたいですねん。光子さんは﹁いいえ、うちこそいッつも姉ちゃんに我(わ)が儘(まま)ばっかりいいまして﹂――と、自分のために避暑に行くのん止めてしまいなさったのん気の毒やとか、姉ちゃんのお蔭で淋しい思い慰めてもろて、大層有難い思てるとか、あんまり口数利(き)きなさらんと殊(しゅ)勝(しょう)らしい聞えるようにあんじょういいなさって、団(うち)扇(わ)で帯の上のとこ隠すようにしてなさるのんですが、お春どんが気イ利かしてくれたと見えて、昼間でも電気点(とも)さんならんような薄暗い部屋の一番隅(すみ)の方にすわってなさって、なんせ風通しの悪い上にお腹にいろいろなもん詰めてなさるよって、ずくずくに汗かいてはあはあ息してなさる恰(かっ)好(こ)いうたら、いかにも本物らしいて、﹁巧いこと芝居してなさるなあ﹂思いましてん。
夫は直きに座ア立って、﹁えらいお邪魔しました、どうぞまたお出かけになれるようになったら遊びに来て下さい﹂いうて、﹁もうおそいさかいお前も一緒に帰ったらええ﹂いいますのんで、﹁何ぞ訳あるに違いないよって今日はこれで帰る。明日きっと待ってて頂戴﹂と光子さんにそうッというといて、しぶしぶ連れられて出て来ましたら、﹁バスに乗って行こ﹂いうて四(よ)つ橋(ばし)の停留場い出て、そいから阪神で家い帰るまで、夫は不機嫌に黙ってしもて、何いうても生(なま)返事しかせえしません。家い這(は)入(い)ると洋服も脱がんと、﹁ちょっと二階いおいで﹂いうてどんどん上って行きますのんで、こっちもあらかた覚悟きめて附いて行きますと、寝室のドーアぱたんと締めて、﹁まあそこいおかけ﹂と差向いに椅(い)子(す)にかけさして、暫(しばら)くは物もいわんと、ほっと息ついて考え込んでるのんです。﹁あんた、今日、何で突然あんなとこい来たん?﹂と、重苦しい空気破るために私の方からそないいうてやりましたら、﹁うむ、……﹂いうてまた考えてて、﹁お前に見てもらいたいもんあるねん﹂いいながらポケットから事務所用の封筒に這(は)入(い)ったもん出して、テーブルの上にひろげたのん見ましたら、そんなり私は真っ青になってしまいましてん。どないして手エに這入ったのんか、﹁ここに署名してあるのん確かにお前に違いないか﹂いうて夫はあの誓約書眼エの前い突きつけるのんです。﹁断(ことわ)っとくが、僕はお前の心持次第では決して事を荒立たそう思てエへん。これが僕の手エに這入った径路についても聞きたいのんやったら聞かしてやる。けど第一に、事実お前が署名したもんか、それともこれはニセ物やのんか、その点ハッキリさしときたい。﹂……ああ、綿貫に先越された! 私の持ってる書付の方は箪(たん)笥(す)に鍵(かぎ)かけて隠したありましたから、これは綿貫のんに違いないのんで、こんなことするためにこの誓約書書かしたのんか! ほんまに私は、こないだから夫に口利いてもらお思てて、光子さんのことも打ち明けた方が得なことは話してしまお思てたのんに、さっき不意討ちに笠屋町い訪(た)ンねて来られて、あないなったら妊娠してなさるのんうそやいうこと今更いい出しかねて、うその上塗りしてしもてんけど、こんなことになるのんやったらあの時白状しといたらよかった! ﹁おい、黙ってたら分らん、返辞したらえやないか﹂と、夫は出来るだけ腹の虫おさえて、やさしい、静かな声出して、﹁黙ってるとこみたら、これお前書いたと認めてもええねんなあ?﹂いうて、そいからだんだん話し出すのん聞いてますと、五、六日前に今橋の事務所の方い突然綿貫が訪(た)ンねて来て面会求めた。そいでどんな用事か思て応接間い通して会うてみたら、﹁今日お訪ンねしたのんは、実は折入ってお願いしたいことあるのんです﹂いうて、﹁多分あんたも御承知でしょうが、僕と徳光光子とは結婚の約束したあるばかりでなく、既に光子は僕の種までも宿してますのんに、こっちの奥さんが中に這入っていろいろ邪魔しなさるのんで、光子の仕打ちこの頃日増しに冷淡になって、今の工(ぐあ)合(い)ではいつ結婚してくれるのんか分らんような状態にある。就(つ)いてはあんたから奥様に意見して下さいませんか﹂いうよって、﹁僕の家内が何で邪魔するのんですか。委(くわ)しいことは知りませんけど、家内はあんたがたの恋愛に同情してて、一日も早う結婚しなさるのん祈ってるように聞いてましたが﹂いうたところが、﹁あんたは奥様と光子との関係がどんなことになってるか、ほんまの事情御存知ないのんです﹂いうて、今でも前のようやいうことそれとなしに仄(ほの)めかした。けど初対面の男の話をそのまま信用する気イもなかったし、現にその男の種宿してるもんが別に同性の人とそんな風になってるというのんもけったいなし、何やこの男気イ触れてるのんと違うか知らん思てたら、﹁お疑がいになるのんも尤(もっと)もですが、ここに確かな証拠あります﹂いうてこの書付出して見せた。夫はそれ読んだとき、自分の妻が未(いま)だに自分欺(あざむ)いてたことにも不愉快感じましたけど、それよりもなお不愉快やったのんは、妻と見ず知らずの男とが自分の知らん間に兄弟の約束してるいうことやった。第一人(ひと)の女房とこんなもん取り交(かわ)しといて、その女房の亭主の前いれいれいしいに見せつけながら、それに対する一言のいい訳もせんと、まるで刑事が犯罪の証拠掴(つか)んだみたいに得意そうにニヤニヤしてるこの男の気イ知れん思たら、一層むかむかして来たとこい、﹁あんたは此処に署名したあるのん、あんたの奥様の手エやいうことお認めになりますやろなあ﹂いいますのんで、﹁なるほど、見たとこではたしかに家内の手エのようですが、それより先に伺いたいのんは、ここに署名してる男は何処の人です﹂いうてやったら、﹁それは僕です、僕が綿貫自身です﹂いうて、まだその皮肉悟(さと)らんみたいに平気な顔してる。﹁この署名の下に捺(お)してあるもん何ですか﹂いうたら、それはこないこないの訳でと臆面ものうその時のこと細こうに話し出すのんで、みんなまで聞かんうちに腹立って来て、﹁これ読んで見ると、あんたと、光子さんと、園子との関係は委しいに規定してあるが、園子の夫である私については何の考慮も払われておらん。私ちゅうもんは全然眼中に置かれてん。あんたも此(こ)処(こ)に署名しておられる以上当然責任分たれるもんと考えるのんで、一往あんたの立場からその弁明求めたい。まして今のお話のようやと、この誓約書は園子の意志から出たんやのうて、半ば強制的に結ばれたように思われるが﹂いうてやった、そしたら恐縮するかと思いのほか相変らずニヤニヤ笑てて、﹁その書付にもある通り僕と園子さんとは徳光光子に依(よ)って結ばれてるのんで、その関係は園子さんの夫であられるあんたの利害とは始めから衝突してます。もし園子さんがあんた眼中に置かれたら、光子とあないな間柄になることもなかったやろし、こんなもん交すまでもないし、それこそ僕の何より望むとこですけど、妻たる人が自ら進んでしなさるもんを他人の僕がどないすることも出来しません。僕にいわしたらこの書付のような関係認めることが、既に園子さんに対して非常な譲歩してるのんです﹂いうて、あべこべに夫の監督の不行き届き恨(うら)むような口ぶりで、兄弟の約束したいうのんは密通したのんと訳が違う、そやから自分は不道徳なことしたとは思てエへんいうのんです。
その二十六
そんで夫は、そんな書付手エに触れるのんも汚らわしい思いましてんけど、何せ相手が非常識な人間のことやさかい、この男にこんなもん持たしといたら何するか分らん、これはどないぞして取ってしもた方がええ思て、﹁お話はよう分りました、あんたの仰っしゃる通りやとしたら、頼まれいでも夫たるもんの責任として放っとけません。けど僕としても、あんたとは今日始めてお目にかかったばっかりやし、一往家内のいうことも聞いてみんことには片手落ちになる。就(つ)いてはこの書付暫(しばら)く貸しといてもらえませんか。これ眼の前い突き付けてやったらきっと白状しますやろけれど、そうでもなかったら、なかなか強情な奴ですさかい﹂いいましたら、貸すとも貸さんともいわんといて、急に大事そうにそれ膝(ひざ)の上に置いて、﹁しかしあんたは、もし園子さんが白状しなさったらどういう処置お取りになるのんです﹂いいますのんで、﹁どういう処置取ろと、その時の都合次第やさかい、今から明言する訳に行かん。僕はあんたに頼まれたから家内を詰(きつ)問(もん)するのんやない。僕はあんたの利害のために動