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その二十七
﹁ふーん、これある以上はこの書付ニセ物やないのんやなあ?﹂そないいわれても、やっぱり黙って頷(うなず)いて見せますと、夫は私がどんな気持でいるのんか見当つかんもんですさかい、疑がい深そうに眼エぱちぱちさして、﹁そしたらこの証書に書いたあることみんなほんまの事実やのんか﹂いうのんです。﹁そら、ほんまのこともあるねんけど、うそのこともあるねん。﹂――私はさっき夫の話聞きながら、もうこないなったら隠し立てしたかてしょうがない、いっそ綿貫の計略の裏掻(か)いて、自分に都合ええことも悪いことも、何でも彼でも残らず打(ぶ)ッちゃけて、あとは成り行きに任してやろ、ひょッとしたら案じるより生むが易(やす)うて、どんなうまいことあるかも分れへんと、すっくり腹きめてましたのんで、先ず第一に綿貫の秘密すっぱ抜いてやって、そやさかい光子さん妊娠してはるいうのんうそやいうこと、さっき夫が会うた時はお腹にいろいろなもん詰めてなさったのんやいうこと、あの笠屋町の家にしたかて、常時彼(あそ)処(こ)にいなさるのんでも何でもないこと、この証文書かされた時は綿貫にあんじょう嵌(は)められて、脅迫しられたのんやいうこと、自分が欺(だま)されてたことから夫欺してたことまで、なんでも二時間ぐらいかかって一(いっ)切(さい)合(がっ)財(さい)話してやりましたら、﹁ふん、ふん﹂いうて、ときどき溜(た)め息(いき)つきながらしまいまで聞いてしもて、﹁そしたらお前の今いうたことちょっともうそないねんなあ? 綿貫いう男にそんな秘密あること確かやねんなあ?﹂いうて、﹁ほんまいうたら、自分の方にもちゃんと調べ届いてる﹂いうのんです。それが、夫が綿貫に会うたのんは四、五日前のことですのんに、そいから今日まで知らん顔して事件伏せといたいうのんは、何や綿貫いう奴の素振り怪しい、何ぞもっと深い訳あるのんやないかいう気イしたのんで、私に打(ぶ)つかる前に一(いち)往(おう)取り調べてやろ思て秘密探偵に頼んだとこが、そんな商売大阪にかって仰(ぎょ)山(うさん)あれしませんさかい、こないだ光子さんが頼みなさったのんと同じとこい行ってしもたのんで、﹁その人なら大概のこと分ってます、前に調べたことあります﹂いうで、その場アで直きに答えてくれた。そいで綿貫が訪(た)ンねて来た日の夕方には、もう一と通り種上ってしもてたのんですが、夫はあんまり意外やのんで同名異人の間違いやないか知らん思いましてんけど、探偵の方には光子さんとのいきさつまで分ってて疑がう余地あれしませんし、……そないなって来ると、今度は光子さん妊娠してなさるいうことや、笠屋町の家のことや、私と光子さんとの関係や、なんとも腑(ふ)に落ちんことだらけですよって、また改めて光子さんの方調べさした。その報告の届いたのん今(け)朝(さ)のことで、そいでも夫はまだ半信半疑でしたさかい、自分で様子見て来てやろ思てさっき不意に笠屋町訪(た)ンねてやったいうのんです。﹁そしたらあの時、お腹に物詰めてはったこと分ってたん?﹂私はわざと打ち解けた調子でそないいうてやりましたけど、夫はそれには答えんと、﹁僕はお前の今日の態度いつもより柔順で正直なこと認める。けどその正直さは過去の罪悪後悔してるためやのんかどうか、それハッキリいうて見なさい﹂いいますねん。﹁お前かて自分の過去の行いが、どんなに道に外(はず)れてたかいわんかて分ってるやろ。僕もそんな不愉快なことほぜくり返す気イないねんよって、こいから後、本気で罪の償(つぐな)いする決心あるかないか、それ聞かしてくれたらええ。どうせ綿貫との約束やかい真(ま)面(じ)目(め)に守る必要もないねんけど、とにかく僕はお前離縁せんいうことあの男の前で誓うた。それに考えてみたら僕自身にも手落ちあった。夫としての監督怠(おこた)ってたいう綿貫のいいぐさにも一往理(りく)窟(つ)ないことないし、光子さんの家の方から苦情申し込まれたら、お前より先に僕手エついて詫(あや)まらんならん思てるぐらいやし、こんな事になったのんは夫婦共同の責任みたいに感じてる。第一新聞にでも出ることあったら、何としてお前の親たちに言(いい)訳(わけ)しょう。それも普通の意味での恋愛やとか三角関係やとかいうのんやったら、まだ話しよも同情のしよもあるけど、この証文に書いたあるようなこと、誰が読んだかて気違いとより思エへんで。ま、そない思うのん身(みび)贔(い)屓(き)かも分れへんが、お前のいうのん聞いてみたらもともと綿貫いう奴から起ったことで、ほんまに悪いのん彼(あ)の男一人や。お前かて光子さんかてあんな男に係り合わなんだら、まさかこんなことにもならなんだやろし、徳光さんの家かて、それ分ったらどない思やはるやろ。僕今まで光子さん悪いのんや、あの児(こ)不良少女やよってお前にロクでもない感化及ぼすのんや思ててんけど、親の身イになったら綿貫いう男八つ裂きにしても飽き足らん思やはるやろ。何処い出しても恥かしない器量自慢の娘持ってて、あんな奴に見込まれるやなんて、僕とこよりも一つ不仕合わせや。……﹂夫は私の激しやすい性質に逆ろうたらいかん思てますのんで、理性に訴えるより感情的に動かすよう努めてて、それが一種の手エやいうこと見え透いてますねんけど、親のことやかい持ち出されて、殊(こと)に光子さんのこと、そないに不(ふび)憫(ん)らしゅういわれましたら、自分の胸に思てることと一緒やのんで、急に悲しいになって来て、眼エに一杯涙溜め溜め聞いてますと、﹁なあそやないか?﹂と夫は涙で光ってる頬(ほ)べた視(み)詰(つ)めながら、﹁泣いてばっかりいてても分れへんさかい、よう分別して、今度こそ最後の、うそのないお前の考いうてみなさい、僕はお前がどうしても家出するいうのんなら、そら仕方ない思てる。けど、ほんまの僕の気持いうたら、憎いのんあの男だけで、お前も光子さんも可哀そうな目エに遇(お)うたんや思てるねん。かりにお前と離別せんならんことになっても、お前が今みたいな真(ま)似(ね)つづけてたら、いつまで立ってもその﹃可哀そうな﹄いう心持残ってて、僕も長いこと苦しまんならんし、お前にしたかてまさか光子さんと結婚する訳にも行けへんやないか。僕の監督離れたかて、いつまで世間が許しとくはずないさかい、仰山の人に心配かけた上自分も恥掻(か)いて圧制的に止めさされるか、そないならんうち自分で悟って直すようにするか、孰(どっ)方(ち)なとお前の心がけ次第やで。﹂﹁そんでもうち、……こないになったのん因果やさかい、……死んであんたに詫(あや)まります!﹂夫はビクリとして飛び上るような恰(かっ)好(こ)しましてんけど、その時私はわッと泣きながらテーブルに俯(うつ)伏(ぶ)してしまいましてん。……﹁どうせうち、こないになったら誰にかて見放されるのん当り前やし、生きてたかて世間に顔向け出来へんさかい、……どうぞ死なして頂戴、こんな腐った人間にあんたかて未練ないやろし、……﹂﹁……誰がお前見放すいうた? 見放したもんなら意見するはずないやないか?﹂﹁そないにいうてくれはるのん有難い思いますけど、今更うち一人ええ児になって光子さんあんなりに放ってしもたら、どんなに難儀しやはるこっちゃら、……あんたかて一番光子さん可哀そうやいやはったやないか。﹂﹁そらいうた、いうたからこそお前ら救い出そうとしてるのんや。……まあ、お聞き、お前えらい考え違いしてるで。お前みたいな意味でどんなに愛情捧(ささ)げたかってちょっとも難儀救(すく)てやることになれへんで。僕はお前のことばっかり心配してるのやあれへんで。徳光さんとこいも行て、よう訳話して一切あの男近づけんように厳重に監督して、お前との交際も遠慮してもらうように注意するのんが、僕の義務やと思てるねん。そないにしてこそ光子さんのためやないか。﹂﹁あんたみたいなことしなはったら、うちより先に光子さん死にやはるし。……﹂﹁なんでや? なんで死ぬのんや?﹂﹁なんででも死にやはるし。……今までかって死ぬ死ぬいうてはったんようようのことで止めててんもん。……そやさかいうちも一緒に死ぬわ。死んで社会に詫(あや)まるわ。﹂﹁馬鹿なこといいな! そんなことして僕や親たちに迷惑かけて、それが何で謝罪になるねん!﹂
その二十八
私は夫が何ちゅうても耳に入れんと、﹁いいえ、死にます、死なして頂(ちょ)戴(うだい)﹂いうてテーブルに俯(うつ)伏(ぶ)したなり、やんちゃな児(こ)オみたいに泣いてましてん。もうこの場合﹁死ぬ﹂いうてやるのん一番ええ。それより外に方法ない。……私の頭の中にあるのんは、どないしたらこいから先も今までのように会うて行くこと出来るやろかと、そればっかりですのんで、正直にいうたら、夫に離縁しられるのん一番恐(こわ)い。どうせ此(こ)処(こ)まで知れてしもた以上、自分と光子さんとの間(あい)柄(だがら)納得さして、それ承認してくれたら、自分は夫大事にする、きっと夫婦仲も円満に行く、綿貫の奴どんな妨害したところで、証拠の書付こっちに取ってしもたあるし、あんな男のいうことやったら信用するもんないやろし、たとい光子さん何(ど)処(こ)ぞい行きやはっても、ちゃんとした家庭の奥様同士どないに仲好(よ)うしてたかて誰が何ちゅうもんあるやろ。前とちょっとも変ったことないばっかりか、前よりしっくりと行くのんやし、むやみに事荒立てるよりもその方が何ぼ優(ま)しか分れへん。夫は私に無鉄砲な事しられたら、第一に心配やのんで、お腹(なか)の中では私以上に離縁恐れてて、事(こと)勿(なか)れ主義に傾いてることよう分ってますさかい、﹁そないに束縛するのんならほんまに家出してやるぞ﹂いうとこ見せて、そいからそろそろ注文持ち出して、――と、私はあらかた思案をきめて、二日かかっても三日かかってもきっとしまいにはいうこと聴かしてやるつもりで、なるべく反感挑発せんように、何いわれてもただ大(おと)人(な)しいに無言のうちに涙ぐみながら、堅い決心隠してるみたいに割りと落ち着いてましたのんで、それが夫にはなお気味悪うて、その晩はとうど夜の明けるまで一睡もせんと傍(そば)に着いてて、便所いまで一緒に来るのんです。そいで明くる日は一日事務所休んでしもて、御飯も二階に運ばすようにして、じっと睨(にら)み合いしたなり、ときどき顔色うかごうては、﹁こないしてたら体つづけへんさかい、一と寝して頭休めてから、ゆっくり考え直して御覧﹂とか、﹁とにかく死ぬやの家出するやのいうこと、思い止まるいう約束してくれ﹂とかいいますねんけど、私は黙っていやいやして見せるばっかりで、心のうちでは、此処まで来たらもう大丈夫や思てましてん。ところがそのまた明くる日の朝、夫はどうしても一時間か二時間事務所い出んならん用あるのんで、留守の間は絶対に外い出エへんし、電話もかけへんいうこと誓うか、それイヤやったら大阪い連れて行くいいますよって、﹁うちかてあんた一人で出したら心配やさかい附いて行きます﹂いいましたら、﹁何が心配やのんや﹂いいますのんで、﹁うちに内証で徳光さんとこいいいつけ口でもしに行かれたら、それこそ生きてられへん﹂いいますと、﹁僕かってそんな、お前に納得させへんうちに無断で不意討ち喰わすようなこと絶対にせエへん。僕がそれ誓(ちこ)たらお前も誓うてくれるか﹂いいますねん。そいで私も、﹁あんたさい意地の悪いことせエへんいうのんなら、留守のあいだぐらいじっと待ってますさかい、安心して仕事して頂戴。うちもその間アに一と休みしますわ﹂いうて、夫出してやりましたのんが九時頃のことで、暫(しばら)く寝台に横になってましてんけど、妙に興奮してしもてて寝られるどこやあれしません。それに夫から、大阪に着いたら直ぐ電話かかって、そいから三十分置きぐらいにチョイチョイかかって来ますさかい、何や知らん気分落ち着かんと、部屋の中往ったり来たりしながらいろいろなこと考えましたら、そのうちにふっと思いついたいうのんは、毎日々々こんな工合に根(こん)競(くら)べしてたら、綿貫がどないなわるさせんとも限らんし、光子さんかて、一昨日あんなり別れてしもてどない思てるか、昨日かて一日待ってはったやろ。どうせ口先で﹁死ぬ、死ぬ﹂いうたぐらいでは威(お)嚇(ど)し利(き)けへんさかい、いっそ早(は)よ埒(らち)明くように、それもあんまりえらい騒ぎにならんように、奈良とか京都とか、何処ぞ近いとこへ逃げたらどやろ。そいでお梅どん頼んで、わざとビックリしたみたいに夫のとこへ駈(か)け込んでもろて、﹁今お宅の奥さんと家のとうちゃんと何処そこい逃げはりました。家い知れたらえらいことになりますさかい早よ掴(つか)まえとくなはれ﹂いうて、もうちょっとで死ぬいうとこへ夫連れて来てもらう。……それやったら、今日置いたら機会あれへん。……と、そない思いましてんけど、外い出る訳に行けしませんさかい、﹁あのなあ、委(くわ)しい話会うてからするよって、大急ぎでちょっと家まで来てほしい﹂いうて電話で光子さん呼んどいて、﹁旦那さんにいうたらいかんで﹂と、女(おな)子(ごし)衆(ゅ)に口止めしといて待ってましたら、そいから二十分ぐらいして来やはりましてん。
電話かかって来るうちは夫大阪にいるちゅうこと確かやのんで、かいって安心ですねんけど、そいでも不意に帰って来たら裏口から出てもらお思て、光子さんの日傘と草(ぞう)履(り)庭の方い廻しといて、逃げる時の用心に下の座敷で会うたのんですが、光子さんは初めから心配そうな青い顔して、昨日一日見なんだ間にえらい窶(やつ)れてなさって、私の話聞きなさるともう涙ぐみながら、﹁そしたらあれから姉ちゃんの方にもそんなことあってんなあ﹂いいなさって、自分もあの日イの夕方から昨日にかけてさんざん綿貫にいじめられた。綿貫のいうのんには、﹁あんたと姉さんとグルになって僕欺(だま)そうとしてるさかい、僕の方もその裏掻(か)いてこないだ今橋の事務所い行って、姉さんのことみんな柿内氏に話して来てやった。そやさかい笠屋町い様子探りに来たのんや。あないして姉さん連れて行かれてしもたら、もうなんぼ待ってたかて来るはずあれへん。﹂
その二十九
そないいうて綿貫は、﹁僕と姉ちゃんと証文換えことしてたこと、あんたかて薄々知ってたやろが、もうあんなもん反(ほう)古(ぐ)になったさかい、証拠のために今橋い預けて来た。ここに預り証書ある﹂いうて、懐(ほところ)から出して見せて、﹁そら、この通り書いたあるやろ、――下名ハ下名ノ妻ガ妻タル者ノ行為ニ悖(もと)ルコトナキヨウ――﹂と一々箇条書き読んで聞かして、それも自分の都合悪い但し書きのとこ手エで隠してて、﹁柿内氏からこの書付取った以上は、もう姉ちゃんの方心配ないよって、あんたも僕に証文入れなさい﹂いいながら、また懐からその文案みたいなもん出して見せますねんと。それ読んでみると、光子さんと綿貫とは永久に一心同体やとか、死を以て綿貫に従わないかんやとか、その約束に背(そむ)いたらこないこないしられるやとか、何ぼでも虫のええこと書いたあって、﹁これでよかったら此処い名ア書いて判捺(お)しなさい﹂いうのんですけど、﹁そんなことするのんイヤや﹂いうて断りなさって、﹁あんたみたいに何ぞいうたら証文書け証文書けいう人あれへん、そないしてはそれ種に使(つこ)て人オドスつもりやねんやろ﹂いいなさったら、﹁あんたさい心変りせエへなんだら、恐がる道理ないやないか﹂いうて無理にもペン持たそとするのんで、﹁お金の借り貸しやあるまいし、証文で人の心括(くく)っとくこと出来る思てるのんやろか。何ぞ外に目的あるねんやろ。﹂﹁あんたこそ判つくのんイヤやなんて、心変りする気イやねんやろ。﹂﹁ふん、そら、なんぼ判ついたかて先のことは分れへん﹂いうてやんなさったら、﹁そない僕に楯(たて)ついたら今に難儀することあるで。あんたが証文書かんかて、オドスつもりやったら此処に何ぼでも材料あるねん﹂いいながら、紙入れの中から小さい写真出して見せるのんやそうです。それがビックリしたことには、私の夫が取り上げてしもたあの誓約書の写しやのんで、こないだ今橋い持って来る前に、ちゃんと写真に映しといた、柿内氏はもうあの書付返さんつもりかも知れんけど、そんな手エに乗るような僕やあれへん、この写真と、預り証と、この二つ新聞記者にでも見せたら、売ってくれいうて飛び着いて来るやろ、僕かて必要に迫られたら何するや分らん。――そないいうて、何でも僕のいうこと聴け、聴かなんだらあんたの前途真っ暗にしてやるいいますよって、﹁それ見なさい、その通りあんた卑劣やないか。あてかて覚悟してるさかい、それだけ材料あるねんやったら、この上人イジメたりせんと、新聞にでも何にでも売んなさい﹂いいなさって、そんなり喧(けん)嘩(か)別れになった。そいであんまり弱いとこ見せたらいかんよって、今日は笠屋町いも行かんといて、どないするか様子見てやろ思てなさったら、私のとこから電話やったんで、飛び立つ思いで顔見に来たいいなさいますねん。
まさか綿貫かて、いよいよあかんいう見きわめも付かんと自分の損にもなるようなことせエへんやろけど、こないなって来たらなおのこと夫味方に入れるのん第一やいうのんで、そいから私の考えてた計略実行することになりましたのんですが、光子さんは﹁何(ど)処(こ)ぞ近いとこへ逃げるのんやったら、あて所(とこ)の浜寺の別荘がええし﹂いいなさって、彼(あっ)処(こ)は今年留守番の夫婦行(い)てるだけやさかい、海水浴して来るいうてお梅どん連れて行くのんなら、四日や五日泊ってたかてちょっとも家の方心配ない。そいで私の方はそうッと此処の家抜けて出て、難(なん)波(ば)駅で光子さん待ち合わして、三人で浜寺い着く時分には、夫は私のいんようになったのん気イ付いて、何は措(お)いても光子さんの家い電話かけるにきまったある。そしたら直ぐ居(いど)所(ころ)分って浜寺の方いまたかけて来る。その時お梅どん電話口い出てもろて、﹁今お宅の奥様と家のとうちゃんと薬飲んで昏(こん)睡(すい)してはる。ちゃんと書き置きまで書いたあるのんで、覚悟の自殺にきまってます。今本宅とあんたさんとこい電話かけよとしてたところです。直きに来とくなはれ﹂いうたら、きっと慌(あわ)てて飛んで来るやろ。――このお梅どんの口上も大役ですねんけど、それより昏睡して見せるちゅうこと、なんぼ狂言にしたかてやっぱりほんまにそんなもん飲まんなりませんのんで、お医者はんが見てもこれなら生命に別(べ)ッ条(ちょう)ない、二、三日安静にしといたらええいわれる程度にするのんには、どれぐらい飲んだもんやら分量分れしませんねん。けど常時使(つこ)てるバイエルの薬やったら、そない恐(こわ)いことあれしませんし﹁小ッちゃい方のタブレットやったら一ト箱飲んでも死ねへんいうし。そやさかいあれもうちょっと控え目エに飲んだら大丈夫やし。あて姉ちゃんと一緒やったら間違うて死んだかて構うことあれへん﹂いいなさるのんで、﹁ふん、そやとも、あてかてかめへん﹂いいましてん。――そいで夫が駈(か)け着けて来たら、﹁まだこの通りぼんやりしてはりますけど、お医者はん絶対に心配ないいやはりますし、もう大分正気づいて来やはりまして、ときどき眼エ開(あ)いたりしやはりますのんで、ほんまは本宅の方いお知らせせないきまへんねんけど、そしたらとうちゃん叱(しか)られはりますし、私かてどない御(ごり)寮(ょう)人(にん)さんに叱られまッか分れしまへんさかい、電話かけんと置きましたんだす。何(どう)卒(ぞ)あんたさんもそのお積りで内証にしといとくなはれ。どうせ今晩帰りやはる訳に行けしまへんよって、奥様御加減ようなりやはるまで、此処い遊びに来てなはる体裁にしてゆっくり逗(とう)留(りゅう)してとくなはれ﹂と、そこはお梅どんにあんじょういわして、二日でも三日でもじいッとしたなりで、寝たふりしながら譫(うわ)言(ごと)いうたり、眼エ覚(さ)まして泣いて見せたり、そのあいだにはお梅どんからも﹁お二人さんの命助ける思て願い聴いたげとくなはれ﹂いう工(ぐあ)合(い)に口添えしてもろたら、なんぼ夫かてしョことなしに承知するやろ。﹁そしたらそれ何(い)日(つ)にしょう?﹂﹁何(い)日(つ)いうたかて、こないに監禁同様にしられてたら、今日より外に機会あれへん。﹂﹁あてかて早(は)よしてもらわな、また綿貫が何の彼のいうて来るし。﹂――と、そんな相談してるうちにも何遍でも電話かかって来ますのんで、これやったらなかなか逃げる隙(ひま)ないし、逃げたとこで浜寺い行かん間に分ってしまう、逃げてから掴(つか)まえられるまで何ぼ少うても二、三時間の余裕なかったら都合わるい。最初私は、﹁夕方まで昼寝するさかい起したらあかん﹂いいつけて、夫にも電話で断っといて、寝室のドーア中から鍵(かぎ)かけて、窓から飛んで降りて逃げよ、と、そない考えましてんけど、外側が洋館の白壁になってて足がかりもあれしませんし、前の浜には仰(ぎょ)山(うさん)海水浴の人行(い)てますし、そんな人目につくようなこと出(で)来(け)しませんよって、また相談し直して、いっそのこと此処二、三日大(おと)人(な)しいにしてて、夫や家の者に油断さしてから、海い泳ぎに行くように見せて逃げ出してやろいうことになりましてん。そいでそないするのんには、二、三日して気イ許すようになった時分、﹁毎日家の中に閉じ籠(こも)ってたら病人みたいになるさかい、海い這(は)入(い)ることぐらい許して頂戴。海水服一つ着たなりで、何処いも行かんと前の浜にいますよって﹂と、夫が出かける時に断っといて、ほんまに海水服着ただけで海岸い出る。同時にお梅どん光子さんの着物持って、浜で待ってて、直きに着換えさす。着物は海水服の上からスッポリ被(かぶ)れるようなワンピースの洋服にして、帽子もなるだけ縁(ふち)の下った顔の隠れるようなのんがええ。浜には人がウヨウヨしてて、かいって気イ付けへんやろけど、洋服やったらこの頃めったに着たことないのんで、尚(なお)更(さら)誰に見られても私やいうこと分れへんやろ。待ち合わす時刻は朝の十時から十二時までの間、――その時分やったら夫きっと大阪い行てる。日イは、雨さい降らなんだら今日から三日目、その日イいかなんだら四日目も五日目も、毎日来ててもらう。と、そんな相談してましたら、またええ智(ち)慧(え)出て来て、光子さんの方は二日目の晩あたりに一と足先浜寺い行てる。そないすると夫から問い合わせの電話かかったとき、﹁光子は昨日から別荘の方い行ってます﹂と、本宅の方でもいうやろし、光子さんの方いかかって来ても、﹁うちこっちい来てること姉ちゃん知りゃはれしませんさかい。来やはるはずあれしません﹂いうて、自身で電話口い出てやんなさったら、これは遠い所い逃げたんやない、海で死んだのんかも分れへん思て、何より先に海の方捜索するやろ。そいでええ加減たった頃に、﹁実は今さっき奥様お見えになりまして、うっかりしてる間アにえらい事になりまして、……﹂とお梅どんから知らしてやる、この計略で時間計算してみましたら、家の者ら気イ付くまでに一時間半か二時間はかかる。そいから大阪い知らせ行って、問い合わせの電話かけたりして、夫香(こう)櫨(ろえ)園(ん)い帰って来るのんざっと一時間、海捜したり近所尋(た)ンねたりするのん一、二時間、お梅どんから知らして来て香櫨園から浜寺い駈(か)け付けるまでが一時間二、三十分、――都合五、六時間余裕あるのんで、それやったらちゃんとその間(ま)アに支度出来る。ただ気の毒やのんはお梅どんで、前の日イから光子さんに附いて浜寺い行ってて、彼(あそ)処(こ)から十時までにわざわざ香櫨園い出て来て、暑い盛りに一時間も二時間も海岸に待ってんならん。それもひょッとしたら待ちぼけ喰(く)わされて、二日も三日も来んなりません。けど﹁あの児(こ)やったらきっとしてくれるわ、そんなことするのん好きやねんし﹂いいなさって、何から何まで洩(も)れのないように手(ては)筈(ず)きめて、お互に﹁巧いことやって頂戴﹂いうて、光子さん帰って行きなさったのん一時頃でしたけど、それと殆(ほと)んど入れ違いみたいに夫戻って来ましたのんで、ほんまにこれやったら今日でのうてよかった思いましてん。
その三十
はあ、……逃げたのんはそいからやっぱり三日目のことで、日(ひよ)和(り)の都合も時間の工合もすっくり予定の計画通り行きましたのんで、私は十時ちょっと過ぎに海水服着て海岸い出て、お梅どん見ると眼エで合図しいしい黙って浜七、八丁走って、そこで更(サラ)紗(サ)模様のヴォイルの服頭から被(かぶ)って、お金の十円這(は)入(い)ってる手(て)提(さ)げ受け取って、パラソルで顔隠しながら、お梅どんとは別々に急ぎ足で国道い出ましたら、運よくタクシー来ましたのんで、それに乗って一と息に難(なん)波(ば)まで行きましてん。そいですさかい十一時半前にはもう別荘い着いてしもてて、お梅どんの方が三十分も後(おく)れてやって来て、﹁えらい早(よ)よおましたなあ。ほんまにこない巧い工合に行たことあれしません。さあ、さあ、今の間アにしやはらんと、ぐずぐずしてはったら電話かかって来まっせ﹂いうて、母(おも)屋(や)から大分離れた庭の中に建ってる﹁何とか庵(あん)﹂たらいう葛(くず)屋(や)葺(ぶ)きの家の方い二人追い立てるようにして、そこい這(は)入(い)ったらもうちゃんと枕(まく)許(らもと)に薬やら水やら用意してあるのんで、私は洋服浴(ゆか)衣(た)に着換えて差向いにすわってみましたもんの、これがこの世の見納めやないか、ほんまに死ぬのんやないやろか、﹁もし間違うてあて死んだら光ちゃん死んでくれるなあ?﹂﹁姉ちゃんかてそうやわなあ?﹂と、互に抱き合うて涙流すばっかりでしてん。その時光子さんは両親に宛(あ)てたのんと、私の夫に宛てたのんと、二通の書き置き出して見せなさって、﹁これ読んでみて頂戴﹂いいなさるのんで、私も書いといたのん出して互に読み比べてみましてんけど、それかてほんまの書き置きのつもりで、殊(こと)に私の夫に宛てたある光子さんの手紙には、﹁あんたの大事な奥様一緒に連れて行くのん何とも申訳ありません。これも運命や思てあきらめて下さい﹂と、夫が読んだら恨みも忘れて心動かすに違いないように書いたありましたさかい、それ眼エの前い置いて見る自分らまでが本気にさせられて、もうどないしても死んで行くもんとしか思われしません。そないして一時間ぐらいたってしまいましたら、パタパタと庭(にわ)下(げ)駄(た)の音してお梅どん駈(か)け込んで来て、﹁とうちゃん。とうちゃん! 今やっと今橋から電話だす。まだだしたらとうちゃんちょっと出とくなはれ﹂いうのんで、慌(あわ)てて飛んで行きなさって、その電話済んでしまうと、﹁これで何も彼もあんじょう行った。さあ、もうぐずぐずしてられへん﹂いうて、そいからもう一度別れ惜しんで、互にぶるぶる顫(ふる)てる手エ振り合いながら薬飲みましてん。
完全に意識失うてたのんは半日ぐらいの間らしいて、その晩の八時頃にはときどき眼エ開(あ)いてあたりキョロキョロ見廻したりし出したいうこと、あとで聞きましたのんですが、私自身ではその後二、三日ちゅうもん一つもハッキリした記憶ないのんで、……何やこう、頭抑(おさ)えつけられるような、胸苦しい、ムカムカ吐き気するような感覚が、枕もとに据わってる夫の姿とごちゃごちゃに幻影みたいに眼エに映ってて、つまりその間が数限りもない夢の連続になってますねん。私と、夫と、光子さんと、お梅どんと、四人が何処ぞい旅に出かけて、宿屋の一と間に蚊(か)帳(や)吊(つ)って寝てて、それが六畳ぐらいの狭い座敷で、同じ蚊帳の中に、私と光子さん中に挟(はさ)んで両端に夫とお梅どん寝てる。……そんな光景が夢の場面の一つのようにぼんやり頭に残ってますねんけど、部屋の様子から考えたら、ほんまの事が夢に交り込んだのんに違いないのんで、これもあとで聞きましたのんに、夜遅(おそ)うになってから私の布(ふと)団(ん)隣りの部屋い引っ張って行きましたら、光子さん眼エ覚ましなさって、﹁姉ちゃん、姉ちゃん﹂と譫(うわ)言(ごと)みたいにいいっづけて、﹁姉ちゃんいてへん、うちの姉ちゃん返して! 返して!﹂いうてポロポロ涙こぼしなさるのんで、しョことなしにまた同じとこに寝さしたんやそうですさかい、それが夢では宿屋の座敷になってるのんですが、まだその外にもいろいろ不思議な夢あるのんで、これも宿屋みたいな所(とこ)に私が昼寝してましたら、傍に綿貫と、光子さん小声で内(ない)証(しょ)話(ばなし)してて、﹁姉ちゃんほんまに寝てはるねんやろか。﹂﹁眼エ覚ましたらいかん。﹂いうて、ヒソヒソしゃべってるのんが切(き)れ切(ぎ)れに聞えますのんを、私はうとうとしながら聞いてて、此処は一体何処やねんやろ! きっといつもの笠屋町の家に違いない、生(あい)憎(にく)其(そっ)方(ち)い背中向けて寝てるのんで、二人の様子見えへんけど、見えんかてもう分ってる。自分はやっぱり欺(だま)されたんや、自分にだけ薬飲まして、こないな目エに遇(あ)わしといて、その間アに光子さん綿貫呼びやはったんや、エエ、口(く)惜(や)しい、口惜しい、今跳(と)び起きて二人の面皮剥(は)いでやろ! と、そない思うのんですけど、起き上ろとしても体の自由利けしません。声出してやろ思て一所懸命になればなるほど、舌硬(こわ)張(ば)って動けしませんし、眼エあくことすら出(で)来(け)しませんので、エエ、腹立つ、どないしてやろ思てる間アにまたいつやらうとうとしてしもて、……そいでも話声まだ長いこと聞えてて、その男の方の声が、おかしいことに綿貫でのうて夫の声に変ってしもてて、……こないなとこになんで夫いるねんやろ? 夫あないに光子さんと親しいのんか知らん!﹁姉ちゃん怒りやはりますやろか?﹂﹁なあに、園子かてその方が本望ですやろ﹂﹁そしたら三人仲好うして行きまひょなあ﹂と、――そんな工(ぐあ)合(い)にポツリポツリ耳に這(は)入(い)ったのんが、今考えてもよう分れしませんねんけど、二人の間でほんまに話してたもんやのか、それとも夢の中ながら想像で事実補うてたのんか、……それがあのう、……こいだけやったらみんな自分の心の迷いで根エも葉アもない幻見たんや、そんな事実あろうはずないと打ち消してしまいますねんけど、その外にもまだ忘れることの出来ん場面覚えてますし、……それも初めは阿(あ)呆(ほ)らしい夢や思てましたのんが、薬さめて意識ハッキリして来るにつれて、外の夢だんだん消えてしまいますのんに、その場面だけかいって頭い焼き付いてて、疑がう余地ないようになって来ましてん。いったい薬の分量は同じように飲んだのんですけど、私の方が長いあいだ昏(こん)睡(すい)してたいうのんは、光子さんは十一時ごろに朝昼兼帯の御飯たべはってお腹(なか)大きかったのんに、私は朝御飯もろくさまたべんと飛び出してえらい活動しましたさかい、胃袋空(から)ッぽになってて薬完全に吸収されたのんやそうで、私の方はまだ夢うつつの境迷うてた時分、光子さんは飲んだもんみんな吐いてしまやはったお蔭で、よっぽど前から意識恢(かい)復(ふく)してなさったらしいのです。そいでも後になってからの話に、﹁あて知らん間アに、傍にいる人を姉ちゃんと間違うたのんや﹂と、そない自分でいやはりますのんで、それやったら罪は夫の方にあることになるのんですが、夫の自白聞きましたら、二日目の昼過ぎお梅どん母(おも)家(や)の方い行ってて、夫は私の寝顔見ながら団(うち)扇(わ)で蝿(はい)追うてた、そしたら光子さんが寝(ね)惚(ぼ)けたように﹁姉ちゃん﹂いいながら私の方い寄って来(こ)うとしなさるのんで、眼エ覚まさしたらいかん思て、間い這入って光子さんの体抱き上げるようにして引き離して、枕外(はず)しなさったのんを直したげたり、掛け布団掛けたげたり、……そんな風にして、寝てはるとばっかり思い込んで油断してましたさかい、知らず識(し)らず、気イ付いた時にはもうどないしても逃げること出来んようにしられてた、何せ夫ちゅうたらそないな事にかけたら経験のない、子供みたいな人ですよって、私は夫の話の方がほんまに違いない思いますねん。
その三十一
まあ、そんなこと、どっちが先や詮(せん)議(ぎ)立(だ)てしたとこで無駄ですねんけど、一ぺん間違いあってからは、私に済まん思いながら同じ過(あやま)ち繰り返してたらしいのんで、それ考えたら全然夫に責任ないともいわれしませんのんですが、私としたらその点に同情出来るいうのんは、前にもたびたびいいました通り、夫と私とは肌(はだ)合エへんのんで、私がいつも愛の相手外に求めてたように、夫にしたかて無意識のうちにそれ求めてたのんに違いあれしません。おまけに外の男みたいに芸者遊びするやとかお酒飲むやとかして、物足らなさ充(み)たすちゅうこと知らん人だけに、なおのこと誘惑に陥りやすい状態にあったのんで、一旦そないなってしもたら、堰(せき)切った水みたいに、盲目的な情熱が意志や理性の力踏みにじくって燃え上って来て、光子さんより夫の方が十倍も二十倍も夢中になってしもたのんです。そんな訳で、夫の心持の変化は大概諒(りょ)解(うかい)出来ますねんけど、いったい光子さんどういうつもりでいなさったのんか、そらまあ、ほんまに半分は寝(ね)惚(ぼ)けてなさって、ほんその時の出来心やったのんか、それとも或るハッキリした目的持ってなさったのんか、――つまり綿貫放(ほ)る代りに夫とそういう風になって、私との間に嫉(しっ)妬(と)起さして、思うままに操(あやつ)ってやろ、――どうせ自分の崇拝者一人でも仰山寄せ着けときたい性分ですさかい、またしてもその悪い癖出しなさったのんか、そやなかったら﹁気イついてみたら済まんことした思てんけど、そいでもこないなった方が味方につけるのんに都合がええのんで﹂いうてなさったように、夫引き入れる手段やったのんか、なんせえらい複雑で裏には裏ある人の気持なかなか分れしませんけど、多分そんないろいろの動機に時のはずみも加わったのんやろ思いますねん。ま、二人が自白しましたのんはずっと後のことですさかい、初めはそんな深いとこまで考えんと、寝ながらぼんやり﹁裏切られた﹂いう感じ持ってて、お梅どん枕(まく)許(らもと)いやって来て﹁奥(おく)様(さん)、もう安心だっせ、あんた所の旦那様何も彼も聴いてくれはりました﹂いうてくれた時も、嬉しいのん半分と口(く)惜(や)しいのん半分で、そない喜びもせえしませなんだのんで、二人も私に感付かれたこと薄々悟ってたらしいのんです。そいでお医者はんに﹁もう起きられても大丈夫です﹂いわれたのん三日目エの晩で、浜寺引き揚げたのんは四日目エの朝でしてんけど、その時も光子さん﹁姉ちゃん、もう心配せんでもええし。委(くわ)しいこと明日あんたとこい行って相談しょうなあ﹂と、口ではそないいいながら、気イ咎(とが)めると見えて妙に態度余(よ)所(そ)々(よ)々(そ)しいて、夫の方も何や知らん光子さんと打ち合わせしたあるらしゅう、私連れて香櫨園い帰って来ますと、﹁用事溜(たま)ってるさかいこいからちょっと事務所い行て来る﹂いうて直きに出て行って、晩の八時過ぎに戻って来てからも、﹁晩の御飯済まして来た﹂いうたなり、私に話しかけられるのん恐(こわ)がるようにしてますねん。私は夫が人欺(だま)して平気でいられる人間でないことよう知ってますさかい、今に何とかいい出すやろ、困らされるだけ困らしてやれ思て、無理に知らん顔して、時間になったらさッさと先い寝てしまいましたら、夫は尚(なお)更(さら)落ち着かん塩(あん)梅(ばい)で、十二時になっても寝付かれんらしい寝返り打って、ときどき薄眼エ開(あ)きながらそうッとこっち見守って寝息うかごうてるのんが、真っ暗い中でも分るのんです。そないして暫(しばら)くたちましたら、﹁おい﹂いうて私の手エ取って、﹁どうや、気分ええのんか? もうちょっとも頭痛いことないか? まだ起きてるねんやったら、僕話したいことあるねん﹂いうて、﹁お前、……知ってるねんやろ?……どうぞ堪忍してくれ、運命や思て怺(こら)えてくれ。﹂﹁ああ、そんなら夢やなかってんなあ。……﹂﹁堪忍してくれ、なあ、堪忍すると一と言いうてくれ。﹂そないいわれてもしくしくしくしく泣いてばっかりいる私を、いたわるように肩さすってくれながら、﹁僕かてあれ夢と思いたい。……悪夢や思て忘れてしまいたい。……けど、僕、忘れること出来んようになってしもた。僕は始めて恋するもんの心を知った。お前があないに夢中になったのん無理ないいうこと今分った。お前は僕のことパッションないないいうたけど、僕にかてパッションあったんや。なあ、僕もお前許す代り、お前かて僕許してくれるやろ?﹂﹁あんた、そないなこというて復(ふく)讐(しゅう)する気イやねんなあ。今にあの人とグルになって、うち独りぼっちにさそ思て、……﹂﹁馬鹿なこといいな? 僕そんな卑劣な男やない? 今になったらお前の気持かて分ったさかい、何で悲しい思いさすもんか!﹂自分は今日も事務所の帰りに光子さんと会うて相談して来た。私さい承知してくれたら、あとは自分が一切引き受けて、綿貫の方もちょっとも心配ないように片附けてやる。光子さんも明日は家(うち)い来なさるやろけど、私に会うのん極(き)まり悪がってなさって、﹁あんたから姉ちゃんに詫(あや)まっといて頂戴﹂いわれて来た。と、そないにいうて、自分は綿貫みたいな不信用な男やないよって、綿貫に許したこと自分にも許してくれたらええやろいうのんですが、そら、なるほど、夫の方は人欺すようなことせんとしても、気がかりやのんは光子さんですねん。夫にいわしたら﹁自分は綿貫と違うよって大丈夫や﹂いいますねんけど、私の身イになったらその﹁違う﹂いうこと心配の種やのんで、なんせ光子さんは始めてほんまの男性ちゅうもん知んなさった、そんだけ今までより真剣になんなさるかも分れへんし、そのために私捨てなさっても、﹁不自然の愛より自然の愛貴い﹂いう立派な口実ありますし、良心の苛(かし)責(ゃく)も少いですやろし、……もし光子さんにそんな理(りく)窟(つ)いわれたら、夫にしたかって間違うてることしなさいいう訳に行けしませんし、ひょッとしたらあッちゃこッちゃ説き伏せられて、しまいには﹁光子さんと結婚さして欲し﹂いい出さんとも限れしません。﹁僕とお前とは誤まって夫婦になったのんや。性の合わんもんこないしてたらお互の不幸やさかい、別れた方がええ思う。﹂――と、いつぞそないいわれる日イ来るのやないやろか? そしたら常時恋愛の自由口にしてながら﹁イヤや﹂いうこと出来しませんし、世間の人かて私みたいなもん離縁しられるのん当り前や思うやろ、今からそんな行末のこと考えて、取り越し苦労したとこでしョうないようなもんの、どうも私にはきっとそないなる運命みたいな気イするのんですが、そうかいうて、今の場合、夫の頼み聴かなんだら自分も明日から光子さんの顔見られんようになるのんで、﹁あんた信用せえへんのやないけど、何や知らん悲しい予覚して、――﹂いうて、しくしくしくしくいつまででも泣いてますと、﹁そんな馬鹿なことあるもんか。そらみんなお前の妄想や。誰ぞ一人でも不幸になったら三人で死のやないか﹂いうて、夫も泣き出して、とうとう二人で夜が明けるまで泣き通してしまいましてん。
その三十二
さてその明くる日から夫は光子さんの家の方の諒解運動と、綿貫の方の解決とにえらい奔走し始めたのんです。先ず第一に徳光さんとこい行(い)て、お母さんに面会求めて、僕はお宅のお嬢さんの親友である園子の夫として、お嬢さんから頼まれたことある。実はお嬢さんは悪い男に付け狙(ねら)われてなさって、……と、そんな工合に切り出して、尤(もっと)もその男はこないこないの人間やのんで、お嬢さんの貞操は汚されてエへん、ただその男ちゅうのんが卑劣な奴で、お嬢さんがその男の種宿してなさるやとか、お嬢さんと僕の妻とが同性愛やとか、跡形もないこといい触らして、強制的に証文に判つかしたりしましたさかい、今にお宅の方いも脅迫がましいこというて来るかも分れしませんが、絶対にそんなことお取り上げになったらいきません。お嬢さんの身の潔白は誰よりも僕が知ってます。取り分け僕の妻との交際がそんな醜いもんでないことは、夫たる僕が証明します。就(つ)いては僕も友人の立場として、御依頼のうても何とかせんならん思てた際ですから、どうぞこの問題僕に一任してもらえませんか。お嬢さんの安全僕お引き受けしますよって、たといその男何いうて来ても﹁今橋の事務所い行け。﹂いわれて、直接お会いにならんように。――と、めったにうそついたことない人が、恋のためにはそないなことまでするのんですやろか、巧いこというてお母さん円(まる)めてしもて、そいから綿貫のとこい出かけて、結局この方はお金で埒(らち)明(あ)いたいうて、例の新聞い売るいうてた証文の写真と、種(たね)板(いた)と、夫から渡したあった預かり証と、証拠になるもん全部取り返して来ましてん。それが二日か三日のあいだにバタバタと片附いてしもたのんで、なんぼ夫が一所懸命になったにしても、あの綿貫がそないやすやす手エ引いたいうのんが、私も光子さんも何や腑(ふ)に落ちんような気イして、写真の種板おこしたにしたかて複写したあるかも分れへんし、何企(たく)らんでるかも知れん、﹁なんぼお金やんなさった﹂いいましたら、﹁千円いうのん五百円にさした﹂いうて、﹁なあに彼(あい)奴(つ)かてカラクリの種こッきり僕に握られてしもてて、もうこれ以上オドシ利かん思たのんで金にする気イになったのんや﹂と、夫は安心し切ってるのんです。そいでその時はすっくり私らの計画通りに行った形で、たった一人貧(びん)乏(ぼう)鬮(くじ)抽(ひ)いたのんお梅どんで、﹁そんなことになってたのんに、お前附いてながら主人に知らさんいう法あるもんか﹂いわれて、暇(ひま)出されてしもて、えらアい私ら恨んでて、――そら、まあ、あないに骨折らしときながら、其(そっ)方(ち)の方い飛ばしり行くのん考えなんだのんは何といわれても手落ちですさかい、出て行く時にいろいろなもん買うてやったりして機嫌取りましてんけど、このお梅どんから後で意趣返しされるやなんて、夢にも思い寄りませなんでん。
夫は光子さんの家の方い、﹁もう御安心です﹂いうてやりましたのんで、お父さんわざわざ事務所にお礼に来なさるやら、お母さんも私のとこい来なさって、﹁どうぞどうぞ、あの通りの我(わ)が儘(まま)もんですさかい、ほんまの妹や思て面倒見てやっとくなはれ。家ではあの児がお宅さんいさい上ってたら安心してます。何処い行きたいいいましても、あんたさんと一緒でないと出せしません﹂いいなさるやら、えらい信用しられてしもて、お梅どんの代りにお咲どんいう女(おな)子(ごし)衆(ゅ)つれて、毎日おおびらに遊びに来やはって、たまには泊ったりしなさっても、お母さん何ともいやはれしません。けどそないにして外部の関係万事都合よう行くようになりましたら、今度は内部の関係が、綿貫の時よりも一層お互に疑がい深うさされて行って、日一日と地獄の苦しみ重ねるようになったのんです。それにはいろいろ理由あるのんで、前は笠屋町いう便利なとこありましたのんに、今ではそんなとこあれしませんし、あっても一人だけ放っといて二人が外い出ることならんいいますし、そしたら結局家にいるよりしョうないのんですが、そないすると私か夫か孰(どっ)方(ち)ぞが邪魔にしられるようになったり、そうでないまでも自分の方から気ィ利かさんならんようになったり、そこいさして光子さんが、いつでも出しなに﹁こいから香櫨園い行きます﹂いうて、今橋の方い知らしゃはるよって、夫は直き帰(かい)って来る。それもお互に隠し立てせん約束やのんで、知らすのん仕方あれしませんけど、そんならそいで、もうちょっと早う朝のうちからでも来てくれはったらええのんに、大概二時か三時頃に来やはるさかい、二人ぎりでいる時間いうたら、ほんの何ぼもあれしません。夫にしたかて光子さんから電話かかったら用事放っといても飛んで帰って来るのんで、﹁そないせんかってよろしやないかうちちょっとも話してる間アもあれへん﹂いいますと、﹁もっとゆっくりしてよ思てんけど、事務所の方暇やさかい帰って来た﹂とか、﹁離れて想像してる方が気が揉(も)める。一つ家にいてたら安心やよって、邪魔やねんやったら階(し)下(た)い行(い)ててもええ﹂とか、﹁お前は二人ぎりでいてる時間あるのんに、僕にはちょっともないいうこと察してくれんと困る﹂とか、だんだん問い詰めると、﹁ほんまは光ちゃん﹃電話かけたのんに何で早(は)よ帰って来えへんねん! 姉ちゃんの方がよっぽど実意ある﹄いうて怒りやはるねん﹂いいますねん。いったい光子さんの焼餅ちゅうのんが、何処までが本気で何処までが手(てく)管(だ)か分れしませんねんけど、それがまたいかにも気違いじみてて、たとえば私の夫のこと﹁あんた﹂いうたらもう眼エに涙溜(た)めはって、﹁今では夫婦でもないのんに、あの人のこと﹃あんた﹄いうたらいかん﹂いいなさって、人のいる前ではともかくも、内輪では何ぞ外に呼びようあるやろ、﹁孝太郎さん﹂とか、﹁孝ちゃん﹂とか、いうて欲し、夫にしたかて私のこと﹁園子﹂やの﹁お前﹂やのいわんと、﹁園子さん﹂いうか、﹁姉さん﹂いうかせないかん、それぐらいはまだええとして、睡眠剤と葡萄酒持って来なさって、﹁二人ともこれ飲んで寝なさい、あてあんたらの寝ついたん見てから行(い)ぬ﹂いうて聴きなされしません。初めは冗談か思てましたら、なかなかそやないのんで、﹁特別によう利く薬調合してもろて来た﹂いいなさって、粉薬の包二つ出して、夫と私の前い置いて、﹁二人ともあてに対して忠実誓うねんやったら、その証拠にこれ飲みなさい﹂いいなさるやあれしませんか。けどこの薬に毒でも這(は)入(い)ってて、自分だけ永久に眠らされるのんやないか知らん?――と、はっとそんな気イ起りましたら、﹁飲め飲め﹂いいなさるほどなおのこと疑わしいになって来て、じーっと光子さんの顔視(み)詰(つ)めてますと、夫もやっぱり同じ恐怖に襲われたらしゅう、白い粉薬手エの上に載せたまま、私の手エにある薬の色と見比べるみたいにして、光子さんの顔と私の顔とジロジロうかごうてるのんです。すると光子さんは﹁なんで飲めへんのん? なんで飲めへんのん?﹂いうてヤキモキしなさって、﹁ああ分ってる、あんたらあて欺しててんなあ﹂と、身イふるわして泣きなさいますし、もうしョうない、殺される覚悟で飲んでやろ思て、薬の包口イ持って行きましたら、私の様子黙って眺めてた夫が﹁園子!﹂いうていきなり手エ掴(つか)んで、﹁まあ、待ってくれ! こないなったら孰(どっ)方(ち)がどうなるか運試(だめ)しや。その薬換えことして飲もやないか﹂いいますのんで、﹁ふん、そうしょう、そんで二人とも一、二の三で一緒に飲も﹂と、とうどそないして飲みましてん。
その三十三
この光子さんの計略図にあたって、夫と私とはどんなにお互に疑がい合い、嫉(しっ)妬(と)し合うたことですやろ。毎晩々々薬飲まされるたんびに、寝さされるのん自分だけやないか、夫はうその薬飲んで寝た真(ま)似(ね)してるのん違うやろかと、そない思たら、飲んだ風して放ってしまおとしますねんけど、光子さんいうたらそんな胡(ご)麻(ま)化(か)しささんようにじッと手もと視(み)詰(つ)めてて、まだそんだけでも心配やのんか、しまいには﹁あて飲ましたげるわなあ﹂と、寝台と寝台の間に立ちなさって、恨み合いせんように、同時に両方の手エに薬持ちなさって、二人仰(あお)向(む)けに臥(ね)さしといて、あーんと口開かして、薬入れてしまいなさると、今度はあの、病人の水飲ます嘴(くち)の長アいガラスの容(い)れもんありますやろ? あれ二つ両手に持って、そろそろと、孰(どっ)方(ち)が先にもならんように、同じくらいに傾けて行ってお湯飲ましなさるのんですが、﹁たあんと飲んだ方が利き目ある﹂いいなさって、あの容れもんに二遍も三遍も入れ替えては注ぎ込みなさいますねん。こっちは一所懸命に、ちょっとでも余計起きててやろ、寝たふりして見ててやろ思いますねんけど、寝返り打ったり横向きになったりしたらいかん、ちゃんと顔見えるように仰向きになってて欲しいいうて、両方の寝台のあいだに腰かけて、脇(わき)眼(め)も振らんと二人の寝顔見守りながら、寝息うかごうたり、眼(ま)ばたきさしてみたり、心臓に手エあててみたり、いろいろなことして試しなさって、ほんまに寝入ってしまうまでは傍(そば)離れなされしません。そないにせんかて何で今更夫婦の語らいしますやろ。夫も私も今では放っとかれたかて手エ触れる気イも起れへんくらいで、これほど安全な男女いうたらあれしませんのんに、﹁そいでも何でも一つ部屋に寝るのんやったら薬飲ます。﹂いいなさって、だんだん利かんようになると、分量や調合取り換えなさるのんで、その強烈な薬の感じ覚めたあとまでも残ってて、朝床の中で眼エ開(あ)いた時の気持の悪さいうたら、頭の後の方痺(しび)れてて、手足抜けるようにひだるうて、胸がムカムカして、起き上る元気もあれしません。夫も同じように病人臭い青オい顔して、まだ薬の味残ってるみたいに口の中にちゃにちゃさしながら、﹁こないしてたら、今にほんまに中毒起して死ぬかも分れへん﹂いうて溜(た)め息(いき)つきます。私はそんな様子見ると、さては夫もほんまに飲まされたのんか思て、かいって安心しますねんけど、疑がい出したらそれがまた狂言みたいな気イしますのんで、﹁なあ、うちら何で毎晩薬飲まされんならんねんやろ?﹂いうてやりますと、﹁何でやろなあ?﹂と、夫は夫で、やっぱり疑がい深そうに人の顔ジロジロ見ますねん。﹁うちら二人寝さしといたかて心配ないこと知れたあるやないか。何ぞ外に目的あるねんし。﹂﹁どんな目的やお前には分ってるのんか?﹂﹁うち分れへん、あんたには分ってんねんやろ?﹂﹁僕には分らん、お前こそ知ってるのやないか。﹂﹁そないお互に疑ごうてたら切りないけど、うちどないしても、自分だけ寝さされてるような気イするねんし。﹂﹁そら僕かて同じことや。﹂﹁それかて浜寺のこともあるやないか。﹂﹁あれがあるさかい、今度は僕の番やないかいう気イするねん。﹂﹁あんた光ちゃんの帰る時まで起きてたことないのんか? どうぞほんまのこというて欲し。﹂﹁僕はない、お前はどうや!﹂﹁あんな強い薬飲まされたら、起きてとうても起きてられへん。﹂﹁ふーん、そんなんやったら、お前もたしかに薬飲むねんなあ?﹂﹁当り前やし、この青い顔見て御覧。﹂﹁僕の顔も見て御覧。﹂そんな話してる間に、朝の八時頃になるときっと電話かかって来て、﹁さあ、もう起きないかんし﹂いわれて、夫は睡(ねむ)たい眼エ擦(こす)り擦り起されてしもて、しョことなしに事務所い出て行くか、よっぽど睡とうて溜(たま)らん時でも、﹁八時過ぎたらあんたは寝室にいてることならん﹂いわれてますのんで、下の部屋い来て縁側の籐(とう)椅(い)子(す)か何ぞで寝んなりません。そないな工合で、私は何時まででも寝てられましてんけど、夫の方は一層疲れかた非(ひ)道(ど)うて、事務所い行たかて頭役に立てしませんさかい、自分は休みたいのんですが、あんまり休むと﹁姉ちゃんの傍にばっかりいてたがる﹂いわれますよって、大概の日イは用事あってものうても﹁昼寝しに行て来る﹂いうて出かけますねん。
私はその時分から﹁光ちゃんうちのこと何にもいわんと、あんたのことばっかり、ああしたらいかんこうしたらいかんいうやないか。あんたの方が愛しられてる証拠やし﹂いうてたのんですが、夫にいわしたら、愛してるもんこないにいじめるはずない、僕を疲れさして、情慾も何も起らんように麻(ま)痺(ひ)さしといて、二人で好きな真(ま)似(ね)しょういう計略やないかいいます。そいでおかしいのんは晩御飯の時やかい、お互に睡眠剤で胃イ悪うしてて、食慾ちょっともあれしませんのんに、お腹(なか)空(す)いてたら早う薬循(まわ)りますさかい、なるだけ余計喰(た)べとことして、孰(どっ)方(ち)も相手の御飯の数勘定して競争で詰め込みますのんで、﹁そない喰べたら薬利(き)けへんよって、二人とも二饌(ぜん)以上喰べることならん﹂いいなさって、しまいには光子さんお膳の傍に眼エ光らして、監督してなさるようになったんのんです。何せあの頃の生理状態いいましたら、今考えでも無事でいられたのん不思議なぐらいで、胃イ衰弱してるとこい毎日飲まされる薬の分量多いのんで、一時に吸収出来へんせえか、お昼になってもしょッちゅう意識ぼんやりしてて、生きてるのんか死んでるのんか分らんみたいに、顔色ますます青うなる。体は痩(や)せて来る。それより困るのんは感覚鈍うなって来る。ところが光子さんの方は、そないに二人苦しめて御飯の制限までしときながら、自分いうたら何ぼでもおいしいもん喰べて、つやつやしい血色してなさる。つまり私たちは光子さん一人が太陽みたいに輝いて見えて、どんなに頭疲れてる時でも光子さんの顔さい見たら生き返ったようになりますのんで、ただそれ一つ楽しみに命つないでいる。光子さんもまた、﹁なんぼ神経麻痺してたかて、あてに逢(お)うたらハッキリするやろ? そやなかったら熱情足らんねんし﹂いいなさって、興奮の程度で孰(どっ)方(ち)パッション強いか分る、そやさかい睡眠剤飲ますこと尚(なお)更(さら)止められへんいいなさいますねん。まあいうてみたら、普通のパッション捧(ささ)げられても面白ない、薬の力で情慾鎮静さされてしもてても燃えるような愛感じるのでなかったら満足出来へん。――結局二人藻(も)抜(ぬ)けの殻(から)みたいにさして、この世の中に何の望みも興味も持たんと、ただ光子さんいう太陽の光だけで生きてるように、それ以外に何の幸福も求めんようにさしたいいうことになるのんで、薬飲むのん厭(いや)がったりしたら泣いて怒んなさるのんです。そら、まあ、自分がどのくらい崇拝しられてるか試してみてそれ愉快がるような心理、前から光子さんにあったことはありましたもんの、そない極端に、ヒステリーみたいなこといい出しなさったのんは、何ぞ別に理由あるのんに違いないのんで、多分綿貫の感化やないか思いますねん。というのんは、最初の経験から健全な相手では物足らんようにさされてなさって、誰掴(つか)まえても綿貫と同じようにさしたかったのんやないか? そやなかったら何であない残酷に人の感覚麻(ま)痺(ひ)さす必要ありましてんやろ? よう昔の話に、死(しに)霊(りょう)や生(いき)霊(りょう)乗り移るということ聞いてますけど、何や光子さんの様子いうたら、綿貫の怨(おん)念(ねん)祟(たた)ってるみたいに日増しに荒(すさ)んで来なさって、ぞうッと身の毛のよだつようなことありますのんで、そない思たら光子さんばっかりやあれしません、あの健全な、非常識なとこ微(みじ)塵(ん)もなかった夫までが、いつや知らん間に魂入れ替ったように、女みたいなイヤ味いうたり邪推したりして、青オイ顔ににたにた笑い浮べながら光子さんの御機嫌取ったりしますのんで、そんな時の物のいい方や表情のしかたや、陰険らしい卑屈な態度じっと見てましたら、声(こわ)音(ね)から眼つきまでとんと綿貫生き写しになってるやあれしませんか。ほんまに人間の顔いうもん心の持ちようでその通りに変って来るもんやとつくづく思いましてんけど、それにしたかて怨霊の祟りいうようなこと、先生どない思やはりますやろ? 取るに足らん迷信や思やはりますやろか? なんせ綿貫はあない執念深い男ですやさかい、蔭で私ら呪(のろ)てて、何ぞ恐い禁(まじ)厭(ない)でもして、夫に生霊取り憑(つ)いてたかも分れしません。それで私﹁あんた段々綿貫みたいになって来るわなあ﹂いうてやりますと、﹁自分でもそない思てる﹂いうて、﹁光ちゃん僕を第二の綿貫にするつもりやねん﹂いいますのんで、もうその時分の夫いうたら凡(す)べての運命に従順になってしもてて、自分が第二の綿貫にさされること拒まんばっかりか、かいってそれ幸福に感じてるらしいて、薬飲むのんも、しまいには進んで飲まされること願うようになって来ましてん。光子さんにしましたら、どうせ三人こないになったら無事に収まるはずあれしませんさかい、もうどないでもなれいう気イで、焼け糞(くそ)半分になってなさって、事に依(よ)ったら夫と私だんだん薬で衰弱さして殺してしまお、……と、心の底ではそんな企(たくら)み持ってなさったのんやないか。……そない思たのん私だけやのうて、﹁僕かてそれ覚悟してる﹂と、夫もいうてましたぐらいで、ほんまいうたら、もう直き二人幽霊のように細うなって死んでしまうのん待ってなさって、その時限り自分は巧いこと手エ退(ひ)いて、すっくり真(ま)面(じ)目(め)な人間になって、ええ婿(むこ)さん捜そ思てなさるのんやろ、﹁僕もお前もこないに青い顔してるのんに、光ちゃん一人丈夫そうにぴんぴんしてる様子見たら、どうやらそうに違いない気イする﹂いいますねん。そんで夫も私も、衰弱の余り楽しいことも嬉しいことも感じんようになってしもたら、もうその時がこの世の終りやと観念してて、今日死ぬか明日死ぬか思いながら生きてましてん。
ああ……ほんまに私、その予想の通りになってあの時一緒に殺されたらどない幸福でしたやろ。それがこないな思いかけぬ結果になってしもたのんは、あの新聞に記事出たのん第一の原因ですのんで、なんでもあれ九月の二十日頃でしたやろか、或る朝夫が﹁ちょっと起きてくれ﹂いいますよって、何や思たら、﹁誰やこんなもん送って来た奴ある﹂いうて、いつも見たことない新聞の三面のとこ広げてて、そこ覗(のぞ)いてみましたらあの綿貫に書かされた書付大きな写真にして載せたあって、仰山なこと書き立ててある見出しの上に、赤インキで二重円の印附けたあるやあれしませんか。それも一日だけやない、記者の手(ても)許(と)に材料たんと集まってるさかい、連日にわたってこの醜悪なる有閑階級の罪状を摘発すべしという予告したありますのんで、﹁それ見なさい、やっぱり綿貫に欺されてたんや﹂いいましたもんの、もうその時は案外度胸すわってしもてて、口(く)惜(や)しいとも忌(い)ま忌ましいとも思わんと、﹁いよいよ最後の時来た﹂いう感じ、真っ先に来ましてん。﹁ふん、馬鹿な奴ッちゃ、今更こないなこと書かして何になる﹂いうて、夫も血の気エ失(う)せた頬(ほ)べたに冷やかなほほ笑み浮べてるだけで、﹁構(か)めへん、構めへん、放っといたらええ﹂いいましてんけど、そいでもその新聞いうたら信用のない小新聞ですさかい、まさか世間が真に受けるはずないやろいうのん頼みにして、何は措(お)いても光子さんとこい電話で知らして、﹁これこれの新聞家(うち)いも送って来たよって、光ちゃんとこいも来てへんか﹂いうたげましたら、慌(あわ)てて捜して見なさって、﹁来てた、来てた、ええ塩(あん)梅(ばい)にまだ誰アれも見えへなんでん﹂いいなさって、その新聞懐(ほところ)に入れて、﹁どないしたらええやろ﹂いいながら駈(か)け込んで来なさいましてん。
最初私らは、綿貫の売り込んだ材料やったら自分に都合悪いこと書けへんやろし、私と光子さんとの事なら今に始まった噂(うわさ)やないし、大した問題にはならんかも知れへん、まあ、まあ、そない慌てるにも及ばんやろ思てましたのんで、二、三日目エに光子さんの家い知れた時にも、﹁また例のわるさやってるのんです、偽筆の署名まで拵(こしら)えて写真に出すやなんてあんまり悪(あく)辣(らつ)ですさかい、訴えてやってもよろしいんですが﹂と、夫の口でええようにいいくるめさして、ほっと一と安心してたところが、記事はそいから何日たってもしまいにならんと、一層深刻に真相に触れて来て、綿貫に不利な事実かて遠慮なしに発(あば)き出したばっかりか、笠屋町の宿のこと、奈良い遊びに行ったこと、光子さんお腹(なか)に物詰めて夫に会いなさったこと、……それが、綿貫の知ってるはずないことまでも分ってるらしいて、この調子やったら、浜寺のことから狂言自殺のこと、夫渦(かち)中(ゅう)い巻き込んだこと、何から何まで素ッ葉抜きそうな勢いやのんです。それにおかしいのんは、光子さんも私もお互に遣(や)り取りした手紙大事にしもといて、誰にかて見せたことあれしませんのんに、私の方から上げた中の一通が、――えらい猛烈な、動きの取れん文句並べたある一通が、――いつの間にやらちゃんと窃(ぬす)まれてて、れいれいしいに写真に出されましたのんで、取ったとしたらお梅どんより外にないさかい、さては綿貫とグルになってるないうこと始めて気い付いたのんですが、そないいうたら、光子さんとこ暇出されてからも二、三べん私とこい遊びに来て、用もないのんにウロウロしてたことあって、何や様子けったいな、するだけの事はしてやったのんにまだお金でも欲しいのんかいな思いましてんけど、そないにしてやるにも及ばん思てつい放ったらかして置きましたら、何でも新聞に記事載り出す二、三日前にやって来て、妙なこというて光子さん冷かしたりして行んでしもたなり、ぷッつり姿見せしません。﹁何ちゅう恩知らずやろ、家にいた時かて奉公人みたいなことあれへん、まるきりあてときょうだいみたいにさしといたのんに、……﹂﹁あんまり我が儘さし過ぎてんやわなあ。﹂﹁飼い犬に手エ咬(か)まれるとはこの事(こ)ッちゃし。姉ちゃんにかてあない色々してもろといて何不足やねんやろ。﹂﹁そしたらやっぱり綿貫に買収しられたんやろか。﹂――まあ想像しますのんに、新聞社では最初綿貫の材料に基づいて調べ出してみたら、それからそれいと隠れた事実分って来たとこい、折ようお梅どんちゅうもん見つけて掴(つか)まえたのんか。そやなかったら綿貫の奴初めからお梅どんと連絡取って、破れかぶれに自分の秘密までサラケ出して売り込んだのんか。孰(どっ)方(ち)にしたかてこないなったらもう一刻も猶予出来へん、グズグズしてたら光子さん一歩も外い出られんようになるよって早う兼ねての約束通り覚悟きめよいいましたもんの、そいでもどうしょうこうしょういうて毎日相談してましたら、そのうちにとうど浜寺のこと出始めましてん。
そいから先の出来事は孰(ど)の新聞にもあない委(くわ)しいに出ましたぐらいで、先生かてよう御承知ですやろし、もうもうそないに管(くだ)々(くだ)しいに過ぎ去った日のことお聞かせせんかて、……何や私も、あんまり長いことしゃべったせえかけったいに興奮して、辻(つじ)褄(つま)の合わんこと話したような気イしますねんけど、……ただ新聞に洩(も)れてることいいましたら、あの時第一に﹁死の﹂いい出しなさって最後の手(ては)筈(ず)きめなさったのんは光子さんでしてん。たしかお梅どんに手紙盗まれたこと分った日イに、﹁こないなもん家い置いといたら危険や﹂いうて、証拠になるような文(ふみ)殻(がら)全部私とこい持って来なさいましたのんで、﹁焼いてしまおか﹂いいましたら、﹁いや、いや、あてらいつ何どき不意に死なんならんか分れへんさかい、書き置きの代りにこの記録遺(のこ)しとこ。どうぞ姉ちゃんのと一緒に大事に預か