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二十七
その晩ナオミは、﹁指一本でも触らないように﹂私をテーブルの向う側にかけさせ、ヤキモキしている私の顔を面白そうに眺めながら、夜遅くまで無駄口を叩(たた)いていましたが、十二時が鳴ると、
﹁譲治さん、今夜は泊めて貰(もら)うわよ﹂
と、又しても人をからかうような口調で云いました。
﹁ああ、お泊り、明日は日曜で己も一日内にいるから﹂
﹁だけども何よ。泊ったからって、譲治さんの注文通りにはならないわよ﹂
﹁いや、御念には及ばないよ、注文通りになるような女でもないからな﹂
﹁なれば都合が好いと思っているんじゃないの﹂
そう云って彼女は、クスクスと鼻を鳴らして、
﹁さ、あなたから先へお休みなさい、寝(ねご)語(と)を云わないようにして﹂
と、私を二階へ追い立てて置いて、それから隣りの部屋へ這(は)入(い)って、ガチンと鍵(かぎ)をかけました。
私は勿(もち)論(ろん)、隣りの部屋が気にかかって容易に寝つかれませんでした。以前、夫婦でいた時分にはこんな馬(ば)鹿(か)なことはなかったんだ、己がこうして寝ている傍に彼女もいたんだ、そう思うと、私は無上に口(く)惜(や)しくてなりませんでした。壁一重の向うでは、ナオミが頻(しき)りに、―――或(あるい)はわざとそうするのか、―――ドタンバタンと、床に地響きをさせながら、布(ふと)団(ん)を敷いたり、枕(まくら)を出したり、寝支度をしています。あ、今髪を解かしているな、着物を脱いで寝間着に着換えているところだなと、それらの様子が手に取るように分ります。それからぱッと夜具をまくったけはいがして、続いてどしんと、彼女の体が布団の上へ打っ倒れる音が聞えました。
﹁えらい音をさせるなあ﹂
と、私は半ば独り言のように、半ば彼女に聞えるように云(い)いました。
﹁まだ起きているの? 寝られないの?﹂
と、壁の向うから直(す)ぐとナオミが応じました。
﹁ああ、なかなか寝られそうもないよ、―――己はいろいろ考え事をしているんだ﹂
﹁うふふふ、譲治さんの考え事なら、聞かないでも大概分っているわ﹂
﹁だけども、実に妙なもんだよ。現在お前がこの壁の向うに寝ているのに、どうすることも出来ないなんて﹂
﹁ちっとも妙なことはないわよ。ずっと昔はそうだったじゃないの、あたしが始めて譲治さんの所へ来た時分は。―――あの時分には今夜のようにして寝たじゃないの﹂
私はナオミにそう云われると、ああそうだったか、そんな時代もあったんだっけ、あの時分にはお互に純なものだったのにと、ホロリとするような気になりましたが、これは少しも今の私の愛(あい)慾(よく)を静めてはくれませんでした。却って私は、二人がいかに深い因縁で結び着けられているかを思い、到底彼女と離れられない心持を、痛切に感じるばかりでした。
﹁あの時分にはお前は無邪気なもんだったがね﹂
﹁今だってあたしは至極無邪気よ、有邪気なのは譲治さんだわ﹂
﹁何とでも勝手に云うがいいさ、己はお前を何(ど)処(こ)までも追っ駈(か)け廻す積りだから﹂
﹁うふふふ﹂
﹁おい!﹂
私はそう云って、壁をどんと打ちました。
﹁あら、何をするのよ、此(こ)処(こ)は野中の一軒家じゃあないことよ。何(どう)卒(ぞ)お静かに願います﹂
﹁この壁が邪魔だ、この壁を打っ壊してやりたいもんだ﹂
﹁まあ騒々しい。今夜はひどく鼠(ねずみ)が暴れる﹂
﹁そりゃ暴れるとも。この鼠はヒステリーになっているんだ﹂
﹁あたしはそんなお爺(じい)さんの鼠は嫌いよ﹂
﹁馬鹿を云え、己はじじいじゃないぞ、まだやっと三十二だぞ﹂
﹁あたしは十九よ、十九から見れば三十二の人はお爺さんよ。悪いことは云わないから、外に奥さんをお貰いなさいよ、そうしたらヒステリーが直るかも知れないから﹂
ナオミは私が何を云っても、しまいにはもう、うふうふ笑うだけでした。そして間もなく、
﹁もう寝るわよ﹂
と、ぐうぐう空(そら)鼾(いびき)をかき出しましたが、やがてほんとうに寝入ったようでした。
明くる日の朝、眼を覚まして見ると、ナオミはしどけない寝間着姿で、私の枕もとに坐(すわ)っています。
﹁どうした? 譲治さん、昨夜は大変だったわね﹂
﹁うん、この頃己は、時々あんな風にヒステリーを起すんだよ。恐かったかい?﹂
﹁面白かったわ、又あんな風にさして見たいわ﹂
﹁もう大丈夫だ、今朝はすっかり治まっちまった。―――ああ、今日は好(い)い天気だなあ﹂
﹁好い天気だから起きたらどう? もう十時過ぎよ。あたし一時間も前に起きて、今朝(あさ)湯(ゆ)に行って来たの﹂
私はそう云われて、寝ながら彼女の湯上り姿を見上げました。一体女の﹁湯上り姿﹂と云うものは、―――それの真の美しさは、風(ふ)呂(ろ)から上ったばかりの時よりも、十五分なり二十分なり、多少時間を置いてからがいい。風呂に漬かるとどんなに皮膚の綺(きれ)麗(い)な女でも、一時は肌が茹(ゆだ)り過ぎて、指の先などが赤くふやけるものですが、やがて体が適当な温度に冷やされると、始めて蝋(ろう)が固まったように透き徹(とお)って来る。ナオミは今しも、風呂の帰りに戸外の風に吹かれて来たので、湯上り姿の最も美しい瞬間にいました。その脆(ぜい)弱(じゃく)な、うすい皮膚は、まだ水蒸気を含みながらも真っ白に冴(さ)え、着物の襟(えり)に隠れている胸のあたりには、水彩画の絵の具のような紫色の影があります。顔はつやつやと、ゼラチンの膜を張ったかの如く光沢を帯び、ただ眉毛だけがじっとりと濡(ぬ)れていて、その上にはカラリと晴れた冬の空が、窓を透してほんのり青く映っています。
﹁どうしたんだい、朝ッぱらから湯になんぞ這入って﹂
﹁どうしたって大きなお世話よ。―――ああ、いい気持だった﹂
と、彼女は鼻の両側を平手でハタハタと軽く叩いて、それからぬうッと、顔を私の眼の前へ突き出しました。
﹁ちょいと! よく見て頂戴、髭(ひげ)が生えてる?﹂
﹁ああ、生えてるよ﹂
﹁ついでにあたし、床屋へ寄って顔を剃(そ)って来ればよかったっけ﹂
﹁だってお前は剃るのが嫌いだったじゃないか。西洋の女は決して顔を剃らないと云って。―――﹂
﹁だけどこの頃は、亜(ア)米(メ)利(リ)加(カ)なんかじゃ顔を剃るのが流(は)行(や)っているのよ。ね、あたしの眉毛を御覧なさい、亜米利加の女はこんな工合にみんな眉毛を剃っているから﹂
﹁ははあ、そうか、お前の顔がこの間から面変りがして、眉の形まで違っちまったのは、そこをそんな風に剃っているせいか﹂
﹁ええ、そうよ、今頃になって気が付くなんて、時勢後れね﹂
ナオミはそう云って、何か別な事を考えている様子でしたが、
﹁譲治さん、もうヒステリーはほんとうに直って?﹂
と、ふいとそんなことを尋ねました。
﹁うん、直ったよ。なぜ?﹂
﹁直ったら譲治さんにお願いがあるの。―――これから床屋へ出かけて行くのは大儀だから、あたしの顔を剃ってくれない?﹂
﹁そんな事を云って、又ヒステリーを起させようッて気なんだろう﹂
﹁あら、そうじゃないわよ、ほんとに真(ま)面(じ)目(め)で頼むんだから、そのくらいな親切があってもいいでしょ? 尤(もっと)もヒステリーを起されて、怪(け)我(が)でもさせられちゃ大変だけれど﹂
﹁安全剃(かみ)刀(そり)を貸してやるから、自分で剃ったらいいじゃないか﹂
﹁ところがそうは行かないの。顔だけならいいけれど、頸(くび)の周りから、ずうッと肩のうしろの方まで剃るんだから﹂
﹁へえ、どうしてそんな所まで剃るんだ?﹂
﹁だってそうでしょ、夜会服を着れば肩の方まですっかり出るでしょ。―――﹂
そしてわざわざ、肩の肉をちょっとばかり出して見せて、
﹁ほら、ここいらまで剃るのよ、だから自分じゃ出来やしないわ﹂
そう云ってから、彼女は慌(あわ)てて又その肩をスポリと引っ込めてしまいましたが、毎度してやられる手ではありながら、それが私には矢張抵抗し難いところの誘惑でした。ナオミの奴(やつ)、顔が剃りたいのでも何でもないんだ、己(おれ)を飜(ほん)弄(ろう)するつもりで湯にまで這入って来やがったんだ。―――と、そう分ってはいましたけれども、とにかく肌を剃らせると云うのは、今までにない一つの新しい挑戦でした。今日こそうんと近くへ寄って、あの皮膚をしみじみと見られる、もちろん触ってみることも出来る。そう考えただけでも私は、とても彼女の申(もう)出(しい)でを断る勇気はありませんでした。
ナオミは私が、彼女のために瓦(ガス)斯(こ)焜(ん)炉(ろ)で湯を沸かしたり、それを金(かな)盥(だらい)へ取ってやったり、ジレットの刃を附け換えたり、いろいろ支度をしてやっている間に、窓のところへ机を持ち出してその上に小さな鏡を立て、両足の間へ臀(しり)をぴたんこに落して据わって、次には白い大きなタオルを襟の周りへ巻き着けました。が、私が彼女のうしろへ廻って、コールゲートのシャボンの棒を水に塗らして、いよいよ剃ろうとするとたんに、
﹁譲治さん、剃ってくれるのはいいけれど、一つの条件があることよ﹂
と、云い出しました。
﹁条件?﹂
﹁ええ、そう。別にむずかしい事じゃないの﹂
﹁どんな事さ?﹂
﹁剃るなんて云ってゴマカして、指で方々摘まんだりしちゃ厭(いや)だわよ、ちっとも肌に触らないようにして、剃ってくれなけりゃ﹂
﹁だってお前、―――﹂
﹁何が﹃だって﹄よ、触らないように剃れるじゃないの、シャボンはブラシで塗ればいいんだし、剃刀はジレットを使うんだし、………床屋へ行っても上手な職人は触りゃしないわ﹂
﹁床屋の職人と一緒にされちゃあ遣(や)り切れないな﹂
﹁生意気云ってらあ、実は剃らして貰いたい癖に!―――それがイヤなら、何も無理には頼まないわよ﹂
﹁イヤじゃあないよ。そう云わないで剃らしておくれよ、折角支度までしちゃったんだから﹂
私はナオミの、抜き衣(えも)紋(ん)にした長い襟足を視(み)詰(つ)めると、そう云うより外はありませんでした。
﹁じゃ、条件通りにする?﹂
﹁うん、する﹂
﹁絶対に触っちゃいけないわよ﹂
﹁うん、触らない﹂
﹁もしちょっとでも触ったら、その時直ぐに止(や)めにするわよ。その左の手をちゃんと膝(ひざ)の上に載せていらっしゃい﹂
私は云われる通りにしました。そして右の方の手だけを使って、彼女の口の周りから剃って行きました。
彼女はうっとりと、剃刀の刃で撫(な)でられて行く快感を味わっているかのように、瞳(ひとみ)を鏡の前に据えて、大人しく私に剃らせていました。私の耳には、すうすうと引く睡(ねむ)いような呼吸が聞え、私の眼には、その頤(あご)の下でピクピクしている頸(けい)動(どう)脈(みゃく)が見えています。私は今や、睫(まつ)毛(げ)の先で刺されるくらい彼女の顔に接近しました。窓の外には乾燥し切った空気の中に、朝の光が朗かに照り、一つ一つの毛(けあ)孔(な)が数えられるほど明るい。私はこんな明るい所で、こんなにいつまでも、そしてこんなにも精細に、自分の愛する女の目鼻を凝視したことはありません。こうして見るとその美しさは巨人のような偉大さを持ち、容積を持って迫って来ます。その恐ろしく長く切れた眼、立派な建築物のように秀(ひい)でた鼻、鼻から口へつながっている突(とっ)兀(こつ)とした二本の線、その線の下に、たっぷり深く刻まれた紅(あか)い唇。ああ、これが﹁ナオミの顔﹂と云う一つの霊妙な物質なのか、この物質が己の煩(ぼん)悩(のう)の種となるのか。………そう考えると実に不思議になって来ます。私は思わずブラシを取って、その物質の表面へ、ヤケにシャボンの泡を立てます。が、いくらブラシで掻(か)き廻しても、それは静かに、無抵抗に、ただ柔かな弾力を以(もっ)て動くのみです。………
………私の手にある剃刀は、銀色の虫が這うようにしてなだらかな肌を這い下り、その項(うなじ)から肩の方へ移って行きました。かっぷくのいい彼女の背中が、真っ白な牛乳のように、広く、堆(うずたか)く、私の視野に這入って来ました。一体彼女は、自分の顔は見ているだろうが、背中がこんなに美しいことを知っているだろうか? 彼女自身は恐らくは知るまい。それを一番よく知っているのは私だ、私は嘗(かつ)てこの背中を、毎日湯に入れて流してやったのだ。あの時もちょうど今のようにシャボンの泡を掻き立てながら。………これは私の恋の古(こせ)蹟(き)だ。私の手が、私の指が、この凄(せい)艶(えん)な雪の上に嬉(き)々(き)として戯(たわむ)れ、此処を自由に、楽しく蹈(ふ)んだことがあるのだ。今でも何処かに痕(あと)が残っているかも知れない。………
﹁譲治さん、手が顫(ふる)えるわよ、もっとシッカリやって頂(ちょ)戴(うだい)。………﹂
突然ナオミの云う声がしました。私は頭がガンガンして、口の中が干(ひ)涸(か)らびて、奇態に体が顫えるのが自分でも分りました。はッと思って、﹁気が違ったな﹂と感じました。それを一生懸命に堪えると、急に顔が熱くなったり、冷めたくなったりしました。しかしナオミのいたずらは、まだこれだけでは止まないのでした。肩がすっかり剃れてしまうと、袂(たもと)をまくって、肘(ひじ)を高くさし上げて、
﹁さ、今度は腋(わき)の下﹂
と云(い)うのでした。
﹁え、腋の下?﹂
﹁ええ、そう、―――洋服を着るには腋の下を剃るもんよ、此処が見えたら失礼じゃないの﹂
﹁意地悪!﹂
﹁どうして意地悪よ、可(お)笑(か)しな人ね。―――あたし湯冷めがして来たから早くして頂戴﹂
その一刹(せつ)那(な)、私はいきなり剃刀を捨てて、彼女の肘へ飛び着きました、―――飛び着くと云うよりは噛(か)み着きました。と、ナオミはちゃんとそれを予期していたかの如(ごと)く、直(す)ぐその肘で私をグンと撥(は)ね返しましたが、私の指はそれでも何処かに触ったと見え、シャボンでツルリと滑りました。彼女はもう一度、力一杯私を壁の方へ突き除(の)けるや否(いな)や、
﹁何をするのよ!﹂
と、鋭く叫んで立ち上りました。見るとその顔は、―――私の顔が真っ青だったからでしょうが、彼女の顔も―――冗談ではなく、真っ青でした。
﹁ナオミ! ナオミ! もうからかうのは好(い)い加減にしてくれ! よ! 何でもお前の云うことは聴く!﹂
何を云ったか全く前後不覚でした、ただセッカチに、早口に、さながら熱に浮かされた如くしゃべりました。それをナオミは、黙って、まじまじと、棒のように突っ立ったまま、呆(あき)れ返ったと云う風に睨(にら)みつけているだけでした。
私は彼女の足下に身を投げ、跪(ひざまず)いて云いました。
﹁よ、なぜ黙っている! 何とか云ってくれ! 否(いや)なら己を殺してくれ!﹂
﹁気違い!﹂
﹁気違いで悪いか﹂
﹁誰がそんな気違いを、相手になんかしてやるもんか﹂
﹁じゃあ己を馬にしてくれ、いつかのように己の背中へ乗っかってくれ、どうしても否ならそれだけでもいい!﹂
私はそう云って、そこへ四つン這(ば)いになりました。
一瞬間、ナオミは私が事実発狂したかと思ったようでした。彼女の顔はその時一層、どす黒いまでに真っ青になり、瞳を据えて私を見ている眼の中には、殆(ほとん)ど恐怖に近いものがありました。が、忽(たちま)ち彼女は猛然として、図太い、大胆な表情を湛(たた)え、どしんと私の背中の上へ跨(また)がりながら、
﹁さ、これでいいか﹂
と、男のような口調で云いました。
﹁うん、それでいい﹂
﹁これから何でも云うことを聴くか﹂
﹁うん、聴く﹂
﹁あたしが要るだけ、いくらでもお金を出すか﹂
﹁出す﹂
﹁あたしに好きな事をさせるか、一々干渉なんかしないか﹂
﹁しない﹂
﹁あたしのことを﹃ナオミ﹄なんて呼びつけにしないで、﹃ナオミさん﹄と呼ぶか﹂
﹁呼ぶ﹂
﹁きっとか﹂
﹁きっと﹂
﹁よし、じゃあ馬でなく、人間扱いにして上げる、可(かわ)哀(い)そうだから。―――﹂
そして私とナオミとは、シャボンだらけになりました。………
﹁………これで漸(ようや)く夫婦になれた、もう今度こそ逃がさないよ﹂
と、私は云いました。
﹁あたしに逃げられてそんなに困った?﹂
﹁ああ、困ったよ、一時はとても帰って来てはくれないかと思ったよ﹂
﹁どう? あたしの恐ろしいことが分った?﹂
﹁分った、分り過ぎるほど分ったよ﹂
﹁じゃ、さっき云ったことは忘れないわね、何でも好きにさせてくれるわね。―――夫婦と云っても、堅ッ苦しい夫婦はイヤよ、でないとあたし、又逃げ出すわよ﹂
﹁これから又、﹃ナオミさん﹄に﹃譲治さん﹄で行くんだね﹂
﹁ときどきダンスに行かしてくれる?﹂
﹁うん﹂
﹁いろいろなお友達と附き合ってもいい? もう先(せん)のように文句を云わない?﹂
﹁うん﹂
﹁尤(もっと)もあたし、まアちゃんとは絶交したのよ。―――﹂
﹁へえ、熊谷と絶交した?﹂
﹁ええ、した、あんなイヤな奴(やつ)はありゃしないわ。―――これから成るべく西洋人と附き合うの、日本人より面白いわ﹂
﹁その横浜の、マッカネルと云う男かね?﹂
﹁西洋人のお友達なら大勢あるわ。マッカネルだって、別に怪しい訳じゃないのよ﹂
﹁ふん、どうだか、―――﹂
﹁それ、そう人を疑ぐるからいけないのよ、あたしがこうと云ったらば、ちゃんとそれをお信じなさい。よくって? さあ! 信じるか、信じないか?﹂
﹁信じる!﹂
﹁まだその外にも注文があるわよ、―――譲治さんは会社を罷(や)めてどうする積り?﹂
﹁お前に捨てられちまったら、田舎へ引っ込もうと思ったんだが、もうこうなれば引っ込まないよ。田舎の財産を整理して、現金にして持ってくるよ﹂
﹁現金にしたらどのくらいある?﹂
﹁さあ、此(こっ)方(ち)へ持って来られるのは、二三十万はあるだろう﹂
﹁それッぽっち?﹂
﹁それだけあれば、お前と己(おれ)と二人ッきりなら沢山じゃないか﹂
﹁贅(ぜい)沢(たく)をして遊んで行かれる?﹂
﹁そりゃ、遊んじゃあ行かれないよ。―――お前は遊んでもいいけれど、己は何か事務所でも開いて、独立して仕事をやる積りだ﹂
﹁仕事の方へみんなお金を注ぎ込んじまっちゃイヤだわよ、あたしに贅沢をさせるお金を、別にして置いてくれなけりゃ。いい?﹂
﹁ああ、いい﹂
﹁じゃ、半分別にして置いてくれる?―――三十万円なら十五万円、二十万円なら十万円、―――﹂
﹁大分細かく念を押すんだね﹂
﹁そりゃあそうよ、初めに条件を極(き)めて置くのよ。―――どう? 承知した? そんなにまでしてあたしを奥さんに持つのはイヤ?﹂
﹁イヤじゃないッたら、―――﹂
﹁イヤならイヤと仰(お)っしゃいよ、今のうちならどうでもなるわよ﹂
﹁大丈夫だってば、―――承知したってば、―――﹂
﹁それからまだよ、―――もうそうなったらこんな家にはいられないから、もっと立派な、ハイカラな家へ引っ越して頂戴﹂
﹁無論そうする﹂
﹁あたし、西洋人のいる街で、西洋館に住まいたいの、綺(きれ)麗(い)な寝室や食堂のある家へ這入ってコックだのボーイを使って、―――﹂
﹁そんな家が東京にあるかね?﹂
﹁東京にはないけれど、横浜にはあるわよ。横浜の山手にそう云う借家がちょうど一軒空いているのよ、この間ちゃんと見て置いたの﹂
私は始めて彼女に深いたくらみがあったのを知りました。ナオミは最初からそうする積りで、計画を立てて、私を釣っていたのでした。
二十八
さて、話はこれから三四年の後のことになります。
私たちは、あれから横浜へ引き移って、かねてナオミの見つけて置いた山手の洋館を借りましたけれども、だんだん贅沢が身に沁(し)みるに従い、やがてその家も手狭だと云うので、間もなく本(ほん)牧(もく)の、前に瑞(スイ)西(ス)人の家族が住んでいた家を、家具ぐるみ買って、そこへ這入るようになりました。あの大地震で山手の方は残らず焼けてしまいましたが、本牧は助かった所が多く、私の家も壁に亀(きれ)裂(つ)が出来たぐらいで、殆どこれと云う損害もなしに済んだのは、全く何が仕合わせになるか分りません。ですから私たちは、今でもずっとこの家に住んでいる訳なのです。
私はその後、計画通り大井町の会社の方は辞職をし、田舎の財産は整理してしまって、学校時代の二三の同窓と、電気機械の製作販売を目的とする合資会社を始めました。この会社は、私が一番の出資者である代りに、実際の仕事は友達がやってくれているので、毎日事務所へ出る必要はないのですが、どう云う訳か、私が一日家にいるのをナオミが好まないものですから、イヤイヤながら日に一遍は見廻ることにしてあります。私は朝の十一時頃に、横浜から東京に行き、京橋の事務所へ一二時間顔を出して、大概夕方の四時頃には帰って来ます。
昔は非常な勤勉家で、朝は早起きの方でしたけれども、この頃の私は、九時半か十時でなければ起きません。起きると直ぐに、寝間着のまま、そっと爪(つま)先(さき)で歩きながら、ナオミの寝室の前へ行って、静かに扉をノックします。しかしナオミは私以上に寝坊ですから、まだその時分は夢(ゆめ)現(うつつ)で、
﹁ふん﹂
と、微(かす)かに答える時もあり、知らずに寝ている時もあります。答があれば私は部屋へ這入って行って挨(あい)拶(さつ)をし、答がなければ扉の前から引き返して、そのまま事務所へ出かけるのです。
こう云(い)う風に、私たち夫婦はいつの間にか、別々の部屋に寝るようになっているのですが、もとはと云うと、これはナオミの発案でした。婦人の閨(けい)房(ぼう)は神聖なものである、夫といえども妄(みだ)りに犯すことはならない、―――と、彼女は云って、広い方の部屋を自分が取り、その隣りにある狭い方のを私の部屋にあてがいました。そうして隣り同士とは云っても、二つの部屋は直接つながってはいないのでした。その間に夫婦専用の浴室と便所が挟まっている、つまりそれだけ、互に隔たっている訳で、一方の室から一方へ行くには、そこを通り抜けなければなりません。
ナオミは毎朝十一時過ぎまで、起きるでもなく睡(ねむ)るでもなく、寝床の中でうつらうつらと、煙(たば)草(こ)を吸ったり新聞を読んだりしています。煙草はディミトリノの細巻、新聞は都新聞、それから雑誌のクラシックやヴォーグを読みます。いや読むのではなく、中の写真を、―――主に洋服の意匠や流行を、―――一枚々々丁寧に眺めています。その部屋は東と南が開いて、ヴェランダの下に直ぐ本牧の海を控え、朝は早くから明るくなります。ナオミの寝台は、日本間ならば二十畳も敷けるくらいな、広い室(へや)の中央に据えてあるのですが、それも普通の安い寝台ではありません。或(あ)る東京の大使館から売り物に出た、天(てん)蓋(がい)の附いた、白い、紗(しゃ)のような帳(とばり)の垂れている寝台で、これを買ってから、ナオミは一層寝心地がよいのか、前よりもなお床離れが悪くなりました。
彼女は顔を洗う前に、寝床で紅茶とミルクを飲みます。その間にアマが風(ふ)呂(ろ)場(ば)の用意をします。彼女は起きて、真っ先に風呂へ這入り、湯上りの体を又暫(しばら)く横たえながら、マッサージをさせます。それから髪を結い、爪(つめ)を研(みが)き、七つ道具と云いますが中々七つどころではない、何十種とある薬や器具で顔じゅうをいじくり廻し、着物を着るのにあれかこれかと迷った上で、食堂へ出るのが大概一時半になります。
午(ひる)飯をたべてしまってから、晩まで殆ど用はありません。晩にはお客に呼ばれるか、或(あるい)は呼ぶか、それでなければホテルへダンスに出かけるか、何かしないことはないのですから、その時分になると、彼女はもう一度お化粧をし、着物を取り換えます。夜会がある時は殊(こと)に大変で、風呂場へ行って、アマに手伝わせて、体じゅうへお白(しろ)粉(い)を塗ります。
ナオミの友達はよく変りました。浜田や熊谷はあれからふッつり出入りをしなくなってしまって、一と頃は例のマッカネルがお気に入りのようでしたが、間もなく彼に代った者は、デュガンと云う男でした。デュガンの次には、ユスタスと云う友達が出来ました。このユスタスと云う男は、マッカネル以上に不愉快な奴で、ナオミの御機嫌を取ることが実に上手で、一度私は、腹立ち紛れに、舞(ぶと)蹈(うか)会(い)の時此(こい)奴(つ)を打(ぶ)ん殴(なぐ)ったことがあります。すると大変な騒ぎになって、ナオミはユスタスの加勢をして﹁気違い!﹂と云って私を罵(ののし)る。私はいよいよ猛(たけ)り狂って、ユスタスを追い廻す。みんなが私を抱き止めて﹁ジョージ! ジョージ!﹂と大声で叫ぶ。―――私の名前は譲治ですが、西洋人は George の積りで﹁ジョージ﹂﹁ジョージ﹂と呼ぶのです。―――そんなことから、結局ユスタスは私の家へ来ないようになりましたが、同時に私も、又ナオミから新しい条件を持ち出され、それに服従することになってしまいました。
ユスタスの後にも、第二第三のユスタスが出来たことは勿(もち)論(ろん)ですが、今では私は、我ながら不思議に思うくらい大人しいものです。人間と云うものは一遍恐ろしい目に会うと、それが強迫観念になって、いつまでも頭に残っていると見え、私は未(いま)だに、嘗(かつ)てナオミに逃げられた時の、あの恐ろしい経験を忘れることが出来ないのです。﹁あたしの恐ろしいことが分ったか﹂と、そう云った彼女の言葉が、今でも耳にこびり着いているのです。彼女の浮気と我が儘(まま)とは昔から分っていたことで、その欠点を取ってしまえば彼女の値打ちもなくなってしまう。浮気な奴だ、我が儘な奴だと思えば思うほど、一層可(かわ)愛(い)さが増して来て、彼女の罠(わな)に陥ってしまう。ですから私は、怒れば尚(なお)更(さら)自分の負けになることを悟っているのです。
自信がなくなると仕方がないもので、目下の私は、英語などでも到底彼女には及びません。実地に附き合っているうちに自然と上達したのでしょうが、夜会の席で婦人や紳士に愛(あい)嬌(きょう)を振りまきながら、彼女がぺらぺらまくし立てるのを聞いていると、何しろ発音は昔から巧(うま)かったのですから、変に西洋人臭くって、私には聞きとれないことがよくあります。そうして彼女は、ときどき私を西洋流に﹁ジョージ﹂と呼びます。
これで私たち夫婦の記録は終りとします。これを読んで、馬(ば)鹿(か)々(ば)々(か)しいと思う人は笑って下さい。教訓になると思う人は、いい見せしめにして下さい。私自身は、ナオミに惚(ほ)れているのですから、どう思われても仕方がありません。
ナオミは今年二十三で私は三十六になります。
底本‥﹁痴人の愛﹂新潮文庫、新潮社
1947︵昭和22︶年11月10日発行
2003︵平成15︶年6月10日116刷改版
2011︵平成23︶年2月10日126刷
初出‥﹁大阪朝日新聞﹂
1924︵大正13︶年3月〜5月
﹁女性﹂
1924︵大正13︶年11月〜1925︵大正14︶年7月
※底本巻末の細江光氏による注解は省略しました。
入力‥daikichi
校正‥悠悠自炊
2017年6月25日作成
青空文庫作成ファイル‥
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫︵http://www.aozora.gr.jp/︶で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。